巻八
○面会を求める士人に煩わされること
王顕公宣義[1]は大演場を知っており[2]、大いに面会を求める士人に煩わされていたので、一首の詩を作り、賓館[3]に掲げたところ、それからすこし退いた。その詩に言った。「満屋の生涯歯一𥰭[4]、靴を戴く賓客日相訪ぬ[5]。己の俸を抽かんと欲するも家累[6]を憂へ、民銭を掠せんと待つも法を奈何せん。一飯君と共にし愁裏に飽き、三杯にして我の苦中の歌を聴け。更に一具を𢬵て槍斂を窮め[7]、唾罵憎嫌総て他に任す。」
さらに言うには、李廷彦が百韻詩をある上官に献じたが、その中に句があって言った。「舎弟は江南に没し、家兄は塞北に亡ぶ。」上官は奭然[8]としてそれを悲しんで言った。「あなたの家の災禍がこのように重なっていようとは思いませんでした。」廷彦はすぐに立ち、みずから解説して言った。「本当はこの事はございません。親族を対にしようとすることに切実であっただけです。」
さらに言うには、許義方の妻劉氏は、貞潔であることを自慢していた。義方は家を出、一年を経てはじめて帰ったことがあったが、かれの妻に言った。「独居して退屈で、しばしば隣人親戚たちと交際していたのではあるまいな。」劉は言った。「あなたが家を出られてから、門を閉ざしてみずから守っていただけで、足は閾を履んだことがございません。」義方は嘆息して止まなかった。さらにどうしてみずから楽しんでいたか尋ねると、答えた。「しばしばささやかな詩を作り、心を楽しませていただけです。」義方は欣然とし、詩を取ってそれを見せるように命じた。開巻第一篇に題してあった。「月夜隣僧を招き閑話す。」
○虎が嘯き風が生じること
虎が嘯けば風が生じ、龍が吟ずれば雲が起こる。しばしばこの言葉を聞くが、その事実を確認していない。わたしの同僚陳登之は大観年間、長楽[9]の主簿に任ぜられたが、家は貧しく、陸を旅することができなかったので、会稽から海を回って赴任した。そしてわたしに言ったことがあった。「海中には山また嶺がたくさん連なり、連なって数十百里になるものがあります。舟で山麓を過ぎる時は、人が長く嘯くのが聞こえるだけです。まもなくすると清風が人を襲い、舟は去るのがたいへん速いです。」わたしは盧蔵用[10]が終南山に隠棲したことを載せている小説[11]を読んだことがあったが、夜に龍吟の声が聞こえれば、翌日雨がかならず来るそうである。後にさらにしばしば人に言った[12]。「その声は清越[13]で、ほとんど比喩し難いものだ。」席上に蜀僧がいて言った。「わたしは昔五台にいた時、それを聞いたこともございます。銅盤を敲き、その声に倣うと、しばしば混乱します。」そこで銅盤を取り、それを敲かせてみると、蔵用は手を叩いて言った。「まさに龍吟です。」
東漢人に複名のものはいない。ある人がそのことを郷貢進士方絢に尋ねると、絢は言った。「王莽の時に二字を用いて命名することを禁じた。そもそも因襲が致したことである。」
○古人が純朴であること
張安時兵部が言った。古人は純朴であり、その命名もそうである。宣父[14]は、尼丘山[15]に祈ったためにかれを得たので、名は丘、字は仲尼であった。かれの子は名は鯉、字は伯魚であった。史鰍[16]も字は子魚であった。冉耕[17]は字が伯牛であった。闘穀於菟[18]、黒臀[19]、杵臼[20]のようなものがたいへん多い。後世の命名は行き届かないことを恐れるばかりである。宋斉丘[21]の字は超回で、かれが身の程知らずであることはこのようであった。孟軻[22]、譙周[23]は命世の大才であったが、字は明らかでなく、ある人は、軻は字は子輿、周は字は子休だというが、ひそかに疑うらくは、後人が意によってそれを命名しただけであろう[24]。左丘明[25]の字はまったく聞かない。
○落とされたものが三班借職[26]を受けること
石曼卿[27]が及第した時、ある人が科場の覆考[28]で数人が落ちたことを訴えたが、曼卿はその一人であった。その時、興国寺[29]に集まることを期しており、符[30]が来て賜わった誥牒靴服を取り上げる時、数人はみな啜り泣いて立ったが、曼卿だけは靴と袍を脱いで人に返し、裸体で幞頭[31]を戴き、また坐して談笑し、席が終わって去った。翌日落とされたものたちはみな三班の借職を受けたが、曼卿は一首の絶句を作って言った。「無才すら且つ三班の借と作る、俸を請ふ[32]は争でか如かん録事の参[33]に。此れより称するを罷めよ郷貢[34]の進、且く須らく馬を東西南に走らすべし。」
○徐氏一族を殺すこと
江南の宋斉丘[35]は、智謀の士であった。江南には精兵三十万、士卒十万がいるが、大江は十万に当たり、自分は六万に当たると思っていた。江南[36]の初主[37]はもともと徐温[38]の養子であり、僭号するに及び、徐氏を海陵[39]に遷した。中主[40]が皇統を継承した時、斉丘の謀りごとを用い、徐氏は男女老若を問わず、すべて殺した。その後、斉丘に一人の子供がいたが病み、閣を閉鎖し、客を謝絶し、中主が宴を設けてかれを招いても出なかった。楽工[41]で両目を失明している老人がおり、一首の詩を作り、紙鳶の上に書き、斉丘の邸内に入れた。詩に言った。「家を化し国を為むるは実に良図、総て是先生の計謨を画するなり。一個の小児すら拋ち得ざれば、上皇当日合に何如すべき[42]。」海陵の州宅[43]の東に今でも小児の墳数十があるが、すべてその時に殺された徐氏の一族である。
○もともと譏笑することを好むこと
ある元大臣の遠戚が姑蘇で嬉遊し、その壁に書いて言った。「大丞相の再従侄[44]某かつて遊ぶ。」士人李璋がおり、もともと譏笑することを好んでいたが、その傍に題して言った。「混元皇帝[45]三十七代孫李璋継いで来る。」
○館閣[46]に一人宿直すること
館閣には毎晩校官[47]一人が宿直し、わけあって泊まらなければ、その夜は仕事なしで、それを「豁宿」という。慣例では豁宿は四日を越えることができず、五日目になればすぐに入って泊まらねばならない。豁宿に遇えば、慣例で宿歴の名の下に「肚の不調により宿泊免除」と書くので、館閣の宿歴は、はそれを「害肚歴」[48]というそうである。
○呉の人が風雅を好むこと
呉の人が梅の実を「曹公」と言うことが多いのは、かれが梅を眺めて渇きを止めたことがあるからである[49]。さらに鵝鳥を「右軍」[50]と言うのは、かれが鵝鳥を飼うことを好んだからである。一人の士人が、人に酸い梅と熏じた鵝鳥を贈り、手紙を書いて言った。「醋は曹公の一甏を浸し、湯は右軍の両隻を熏じ、聊か一饌を備ふ。」
○寇莱公をケ州の人が廟に祀ること
寇莱公はケ州[51]を治めたことがあり、ケ州の人は今でも廟にかれを祀っている。熙寧年間、侍読学士陳和叔が州を治め、命を下し、廟を閉ざし、祭祀することができなくさせた。ある日、陳が[食夾]子[52]を食べていたところ、突然それがなくなったが、その後、莱公祠の外の土偶の手の中にあるのを見た。陳はたいへん怖れ驚き、高札を立て、人民に示し、相変わらず祭祀させた。
○地方官となることを好まないこと
蘇舜元[53]は仕進を好んだが、地方官となることは好まなかった。京西転運使[54]となると、廨宇[55]は許州[56]にあった。そこで客に嘆いて言ったことがあった。「人生は幾日生きることができるか分からないのに、良い時、良い日を許州で過ごすのは、ほんとうに惜しい。」しかし結局散郎[57]で亡くなった。
○異物で相制するもの
物は異物で相制するものがあるので、翡翠が金を粉にし、人気が犀を粉にするのである。近世北人が針で氷を敲き、南人が糸で茶を解くのも、その類である。
○酒量が人に勝ること
張伯玉郎中は酒量が人に勝っており、飲むことが数斗に至っても酔わないことができ、世に「張百杯」と号せられていた。飲もうとする時、先に清水の大盂をかれの側に置き、一杯を尽くすたびに水を吸い、漱ぎ洗った。人がそのわけを尋ねると、言った。酒の毒は歯にあり、洗い去れば禍をなすことができない。」陳康民大夫が泉州を治めていた時、その話しを用い、やはり飲むことが一斗に至っても酔わないことができた。
○真珠を殿中に撒くこと
熙寧年間、注輦国[58]が人を入貢させたが、かれは本国の風俗に従い「撒殿」することを求めたので、詔してかれに従わせた。人に命じ、金盤に真珠を貯え、跪いて殿中の檻干の間で捧げ、金の蓮花で真珠を酌み、御座に向けてそれを撒かせた。「撒殿」はその国の最敬礼であった。退朝してから有司がすべて掃除したところ、真珠十余両を得たので、その日殿中に侍していた閣門使・副内臣たちに分け与えた。
○年頭に鍾馗を描くこと
年頭に鍾馗を門に描くことは、いつから起こったか分からない。皇祐年間、金陵で一つの塚を発いたところ、石志[59]があり、宋宗愨の母鄭夫人であった。宗愨には妹がおり鍾馗といえば、鍾馗が設けられたのも古いことが分かる。
○蜂刺し芋の茎でそれを伝えること
処士劉易は王屋山[60]に隠居していたが、書斎で一匹の大きな蜂が蛛の網に掛かっているのを見たことがあった。蛛はそれを丸めていた時、蜂に刺されて地に墜ちた。まもなく蛛は腹が膨れて裂けそうになったが、おもむろに草に入っていった。蛛は芋の茎をすこし齧って破り、瘡を齧ったところに付け、それを擦った。しばらくすると腹はだんだん小さくなり、元通り身軽になった。その後、人で蜂に刺されたものがおり、芋の茎を揉んでこれに塗れば癒えた。
○詩が契丹の事実を記すこと
刁約は契丹に使いし、戯れに四句の詩を作り「押燕[61]移離畢、看房[62]賀跋支[63]。餞行[64]三匹裂、密賜[65]十貔狸[66]。」と言ったが、すべて事実を記している。「移離畢」とは、官名で中国の執政官のようなものである。「賀跋支」は、執衣防閣[67]のようなものである。「匹裂」とは、小さい木罌[68]で、色綾木[69]でそれを作り、黄漆のようである。「貔狸」は、鼠のようで大きく、穴居し、果物や穀物を食べ、肉を好む。狄人は珍膳を作り、味は豚でさらにさっぱりしている。
蔡君謨は小さい呉箋にこう書いたことがあった。「李及[72]が杭州を治めた時、白集[73]一部を買い、終生の恨みとし、この人の清節は世の戒めとすることができる。張乖崖[74]が蜀を鎮守した時、遨遊すると、士女が左右を取り巻いたが、三年間まったく振り返ったことがなかった。この人はきわめて重厚で薄夫[75]の検柙[76]とすることができる。」この帖は今張乖崖の孫の堯夫の家にある。思うに書を買って終身の恨みとするのは、ほとんど行き過ぎだと思う、衷心がこのようであればやはり尚ぶことができる。
○魚魫[77]
南海の魚に石の頭のものがおり、そもそも魚魫である。その石を取り、器とすれば、飲食を載せられる。蠱毒に遇えば、器はかならずにわかに割れ、その験はたいへん明らかである。福唐の人は製作がもっとも精密で、琥珀のように明瑩であるが、人はその色を賞玩することだけを知り、その働きを知ることができているものは少ない。
○古の方書[78]
周順[79]は言った。「古の方書、たとえば『聖恵』[80]『千金』[81]、『外台秘要』[82]は、論じていることは病原脈證及び針炙法であり、いずれも廃することができない。しかし処方調剤は今とたいへん異なっており、深くその趣旨を究めないものはけっしてみだりに用いてはならない。ある人が眼病になり、古方を用いてそれを治したところ、目が突き出た。さらに婦人がおり、産病のために『外台秘要』の坐導方[83]を用いたところ、その後、かえって悪露の病に罹り、終生癒えなかった。以前士人が脚弱の病に罹り、方書を前後に羅列し、薬を左右に山のように積んだが、病はますます激しくなった。ほかはすべて退け、杉木だけを桶にして足を洗い、両股と脚の間に樟脳を並べ、縛りつけると[84]、一月余りで元通り健康になった。南方にはこの病が多いので、知らずには済まされない。」順はもともと名医であり、言葉はかならず嘘でないので、書いて戒めとする。
○放生池
馮道は生まれつき仁厚であった。家に一つの池があり、鮮魚を得るたびにかならず池の中に放し、それを「放生池」といっていた。かれの子で監丞[85]となったものは、つねにひそかに釣してそれを食べていた。道はそれを聞いて喜ばず、かれの塀を高くし、その門戸に鍵を掛け、一首の詩を作り、門に書いた。「垣牆を高卻し門を鑰卻す、監丞此より垂綸を罷めよ。池中の魚鱉應に相賀すべし,此より方めて知る主人有るを。」
○丘彬が陽朔県に題すること
桂州付近の山はすべて平地から数百丈抜きん出ており、竹木は蓊鬱[86]とし、石は黛で染めたかのようである。陽朔県はもっとも佳く、四面に峰巒が並立していた。汶水の丘彬が詩を題して言ったことがあった。「陶潜彭沢五株の柳、潘岳河陽一県の花。両処いかでか如かん陽朔県、碧蓮峰裏の住人の家に。」
○萵菜[87]
王舜求[88]が言った。「萵菜は咼国に出、毒があり、百虫は近づかず、蛇虺がその下を過ぎ、誤ってそれに触れれば目は翳み、物は見えなくなる。人にはその毒に中たるものがおり、生姜汁だけがそれを消す。」謝正秀才が言った。「人が黄顙魚[89]を食べた後、荊芥湯[90]を飲めば、すぐに死ぬ。」[91]後に医者が言った。「二つの物はきわめて相反しており、朮[92]が桃李に反する[93]よりも甚だしい。他の魚を食べた時もそれを禁じるべきだ。」
○羊血を飲むのを忌むこと
馬昭甫が言った。「薬餌を服している家は羊血を飲むのを忌む。薬を数十年服用しても、一たび羊血を飲めば前功はすべて失われるからである。」さらに言った。「眼病があるものは、切に入浴を忌む。人を盲目にさせるからである。」
○武臣が昇殿すれば過剰に文飾することができないこと
慶暦年間、河北は洪水で、仁宗は憂慮が顔色に現れていた。走馬承受公事[94]の使臣が宮中にゆくと、すぐに召対し[95]、河北の水害がどのようか尋ねた。使臣は答えた。「『山を懐み陵に襄る』[96]でございます。」さらに人民がどのようか尋ねた。に言った。「『考妣を喪』ったかのようでございます[97]。」上は黙然とした。退くと、すぐに閣門に詔した。「今後は武臣が昇殿上奏し、直截に話すべきで、過剰に文飾してはならない。」今でも閣門にこの条款があり、上奏するべき人がいれば、すぐにあらかじめ告示している。
○士卒に力を労させてその驕惰を抑えること
太祖朝はしばしば禁令を発し、兵の衣の長さは膝を過ぎることができず、魚・肉及び酒を買って営門[98]に入るものたちは、みな罪を得た。さらに「更戍の法」[99]を制定し、かれらが山川の労苦に慣れることを望み、妻子や郷土に恋恋とすることから遠ざけたが、地方で防衛している日が多く、営[100]にいる日は少なかったので、人人は子が少なくて衣食は足らし易かった[101]。さらに京師の衛兵で食糧を求めるものは、営が城東にあるものは、すぐに城西の倉に赴かせ、城西にあるものは城東の倉に赴かせ、さらに車輌や人足を雇うことを許さず、すべて自己負担せねばならなかった。右掖門[102]に登り、それを見たことがあった。そもそもかれらに力を労させ、その驕惰を抑えたのであった。士卒は衣食に外慕[103]がなければ、辛苦に安んじて使い易いのである。
最終更新日:2018年1月4日
[1] 未詳。
[3] http://www.zdic.net/c/e/1b/41723.htm 賓客を接待して宿泊あるいは休息させる館舎。
[4] 原文「滿屋生涯齒一𥰭」。まったく未詳。
[5] 出典がありそうだが未詳。
[7] まったく未詳。
[11] 出典未詳。
[12] 主語は盧蔵用。
[13] http://www.zdic.net/c/5/8/13745.htm 音が清脆悠揚たるさま。
[19]https://baike.baidu.com/item/%E6%99%8B%E6%88%90%E5%85%AC/3057492?fromtitle=%E9%BB%91%E8%87%80&fromid=968848
[20] https://baike.baidu.com/item/%E6%9D%B5%E8%87%BC#2 斉の景公。https://baike.baidu.com/item/%E6%9D%B5%E8%87%BC#3 春秋晋の公孫杵臼。
[24] 諱に因んで命名したということ。
[26] https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%89%E7%8F%AD%E5%80%9F%E8%81%8C 三班借職は宋代の武臣の最低職、東﹑西﹑横三班に分かれていた。入仕する者は先に三班借職となり、三班奉職に転じ、最高は節度使に至れた。借職は、肩書きがあるだけで実収のない官職。
[27]https://baike.baidu.com/item/%E7%9F%B3%E5%BB%B6%E5%B9%B4/1605944?fromtitle=%E7%9F%B3%E6%9B%BC%E5%8D%BF&fromid=972649
[30] http://www.zdic.net/z/20/xs/7B26.htm 官府の印が捺され、下級機関に送られる公文。
[34] https://kotobank.jp/word/%E9%83%B7%E8%B2%A2-478110 中国で、唐代、士を採用するのに学校に因らず、州県の長官の選抜に因った者。
[42] 「子供を大切にして外出しないことが上皇の時代に行われていたら国はどうなっていただろう。」という趣旨であろう。
[43] 原文同じ。未詳だが、州知事の官邸であろう。
[47] https://baike.baidu.com/item/%E6%A0%A1%E5%AE%98 校事のこと。校事は偵察をする官というが、本文の校官に当たるかは不審。
[48] 「腹下しの記録」というぐらいの意味。
[50] https://baike.baidu.com/item/%E5%8F%B3%E5%86%9B 王羲之は鵝鳥を愛したので,「右軍」を鵝鳥の別名とした。
[52] 未詳。おそらく餡を挟んだ餃子のような食品であろう。
[55] http://www.zdic.net/c/8/db/216698.htm 官署に属している房屋。
[58] https://baike.baidu.com/item/%E6%B3%A8%E8%BE%87%E5%9B%BD https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%A9%E6%9C%9D
[59] https://baike.baidu.com/item/%E7%9F%B3%E5%BF%97 銘文を鋳造あるいは刻んだもの。
[61] http://cd.hwxnet.com/view/dpidgldcmccljojn.html 賓客に相伴し、宴会を主催すること。
[62] 家の見張り。
[64] https://baike.baidu.com/item/%E9%A5%AF%E8%A1%8C 酒席を調え、送別すること。
[68] https://baike.baidu.com/item/%E6%9C%A8%E7%BD%82 液体を入れる木製容器。
[71] https://baike.baidu.com/item/%E5%90%B4%E7%AC%BA 呉地に産する笺紙。書信のこと。
[73] 『白楽天集』。『宋史』李及傳「在杭州、惡其風俗輕靡、不事宴游。一日、冒雪出郊、眾謂當置酒召客、乃獨造林逋清談、至暮而歸。居官數年、未嘗市吳中物。比去、唯市《白樂天集》。」杭州の風俗の軽薄を憎んだとあるが、『白楽天集』を買ったことを遺憾としたという記述はなく、典拠未詳。
[74]https://baike.baidu.com/item/%E5%BC%A0%E5%92%8F/7920?fromtitle=%E5%BC%A0%E4%B9%96%E5%B4%96&fromid=5111941
[78] https://baike.baidu.com/item/%E6%96%B9%E4%B9%A6 専門に方剤を記載あるいは論述した著作。
[79] 未詳。
[84] 原文「及令排樟腦于兩股間以腳掤繫定」。未詳。
[88] 未詳。
[90] http://www.zdic.net/c/6/11/28887.htm 荊芥はイヌハッカ
[91]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=8&searchu=%E8%A6%8B%E9%A3%9F%E9%BB%83%E9%A1%99%E9%AD%9A%E7%8A%AF%E8%96%91%E8%8A%A5%E8%80%85%E7%AB%8B%E6%AD%BB 『本草綱目』假蘇
[95]君主が臣下を召見して、政事、経義等方面に関わる問題に回答させること。https://baike.baidu.com/item/%E5%8F%AC%E5%AF%B9 主語は皇帝。
[99]北宋初年、宋の太祖が禁軍の反乱、将帥の専権を防ぐため、禁軍を京師と外郡に分駐させ、内外交代させ、定期的に戻って京師に駐屯させたこと。https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B4%E6%88%8D%E6%B3%95
[100] 禁軍の陣営であろう。
[101] 地方で服務するときは家族同伴ではなかったようである。https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B4%E6%88%8D%E6%B3%95 「更戍期間、家屬不得隨行、期滿得回原駐地。」。兵士の家族分の食糧は必要ないので、地方の駐屯地での食糧調達が容易であったということであろう。
[102] https://baike.baidu.com/item/%E5%8F%B3%E6%8E%96 中書省。宮中の右にあったので、こう称する。掖は、皇宮の傍垣あるいは辺門。
[103] https://baike.baidu.com/item/%E5%A4%96%E6%85%95 ほかに好むものがあること。