蕭淑蘭情寄菩薩蛮雑劇
賈仲名撰
第一折
（冲末が張世英に扮して登場、詩）汗馬[1]眠霜[2]の苦はなきも、かつて囊螢[3]映雪[4]の労を受けたり。金榜に、一朝にして、姓名を記されて、この時はじめて書を読むことの優れたることを示せり。
わたしは姓は張、名は世英、字は雲傑、浙江は温州府の人。幼いときから苦学して、経史にすべて通じている。蕭山県の友人の蕭公譲には二子があり、わたしは教師となるように命じられたのだ。ここにきて二月余り。公譲はとても手厚くわたしを持て成し、本日、一家は墓参りに行き、わたしは書斎にひとり残って閑坐している。わたしは暇であるのに乘じて、東の村へ数人の友人を訪ねていって気晴らししよう。（退場）
（外が蕭公譲に扮し、老旦の崔氏を連れて登場、詩）龍の海をし出づる時、千尺の浪こそあらめ。鳳の帰る時、万条の霞あるべし。詩書は時人の耳に入ることなかれども、金玉は烈士の家に蔵すことこそ難からめ[5]。
わたしは姓は蕭、名は譲、字は公譲といい、原籍は蕭山県の人。五人家族で、妻は崔氏、二人の子があり、妹は、字は淑蘭。父母が居た時、師に従って読書して、ふかく文義を暁っており、吟詠に長け、年はようやく十九歳。容貌は優れているが、人と婚約していない。今日は清明、一家は先祖の墓参をするが、妹は体がすこし不調であるため、行くことができず、管家[6]の乳母と梅香を残して世話させ、湯と粥の世話をさせ、墓参を終えたらすぐに戻ってくるとしよう。部下よ、春盛盒担[7]を調えて、山へ行くことにしようぞ。（ともに退場）
（正旦が蕭淑蘭に扮し、梅香を連れて登場）わらわは姓は蕭、字は淑蘭。父母ははやくに亡くなって、兄上と姉上に養われている。二月前、兄上は、温州の張雲傑さまを招いて教師とし、兄上とともに住まわせている。わらわが窺い見たところ、あの書生は、外貌は良く、内性は穏やか、さらに才華は麗しく、凡俗の器ではない。わらわは数日間、歩めば止まることを忘れ、食べれば餐うことを忘れて[8]、書生のことを思うてばかり。本日は清明節、家族はすべて墓参に行ったが、わらわは病と称して行かず、梅香を連れ、後花園へ行き、みずから書生と会おうとしている。面白いことが起こるだろう。ひそかに思うに、情は人の世の何であろうか[9]。
（唱う）
【仙呂八声甘州】春を傷みて病に罹り、鬱悶は沈沈、鬼病は懨懨、相思はいとどまされり。碧窗は唾でべとべと[10]、幾縷かの柔らかき絲はむなしく情を繋ぎて、院に満ちたる楊の花に簾を掲ぐることぞなき[11]。鬢は軃れ、楚雲[12]は鬆れ、妝奩[13]に対ふことこそ懶けれ。
【混江龍】暁けぬれば情は倦みて、心事は眉に上るなり。金銭をもてひそかに卜し[14]、亀卦をもてときに占ふ。杏の顔に臙は消ゆれど嬌淡淡、柳の腰に香は褪すれど弱繊繊たり。こも前生の欠ならん。兄上と姉上は坐さねば、束縛を受くることなし。
【油葫蘆】今は斗帳[15]に春寒ければ、起くるをいまだ喜ばず。眠りの甜きことはなく、暁日の重なる檐を圧するにしぞ任せたる。
（言う）あの書生はすばらしい男前。
（唱う）かのひとの顔を心にしきりに留め、名を口にしばしば誦ふ。かのひとの性格は沈着にして、言葉は謙虚。繍床をむなしく占むる意なく、彩絨を毟るに懶し。
【天下楽】われは今、縫ひ物をして、金針を拈り、玉繊[16]に牙尖[17]を抵てり。羅帕の上に、泪の痕は千万点。梅香のつめたき言葉で嘲らんことを恐れて、乳母のつまらぬ言葉もて謗らんことを恐れたり。われはむりやりごまかして、笑顔を浮かべずばならず。
（言う）梅香や、あの書生は書斎に居ることだろう。いっしょに行こう。
（梅香）こちらがまさにあのかたの書斎にございます。
（張世英が登場）東の村に友人たちを尋ねてから、書斎に戻り、経史を復習するとしよう。（旦を望み見る）どちらの娘さんだろう。こちらへ来るとは。
（正旦が唱う）
【那吒令】湖山のもとでまぢかに見れば、遊絲[18]は顔に満つるなる。遊絲は顔に満つるなる。驚くは飛ぶ花の乱れ舞ひ、驚くは飛ぶ花の乱れ舞ひ、数点の残紅を蕩はすなり。
（旦が張を見る）先生、ご機嫌よう。
（張が相手にしない）
（正旦が唱う）礼をしていそいで迎へ、情は親しまんとせり。かのひとは頭を抬げず、身をやや曲げて、まことにいはゆる「君子は謙謙」[19]たるぞかし。
（張世英）娘さんはどなたでしょうか。
（正旦）蕭公譲の妹にございます。先生が博学の士であることを知り、お慕いもうしておりますが、先生はいかが思し召されましょう。
（張世英）何を仰る。蕭公どのはわたくしを幕客としようとなされているのです。わたくしはもとより瑕玷なきものにございます。はやく戻ってゆかれませ。兄上と姉上が戻ってこられることでしょう。（避ける）
（正旦が唱う）
【鵲踏枝】かのひとは気ること炎炎として、笑まひつつ髯を掀ぐることぞなき。外貌の威厳ある、内性の清廉なるを示せり。かのひとはわたしを避けて逃げ隠れ、待ち潜めるがごときなり。
（張世英）娘が父母の命令に従わず、媒妁の言葉に沿わず、廉恥を顧みることなく、よその男と話すとは、いかなる道理にございましょう。
（正旦が唱う）
【寄生草】おんみはなどて怒りたまへる。陶学士、蘇子瞻どのよ。似非文人の飢寒の臉を改めきれず、詩云子曰の貧乏、痴気を断ちきれず、之乎者也の汚らはしさと貧しさを離れ得ず。思ふにおんみは、龍の翔け、鳳の飛ぶ五雲楼[20]をば夢みることなく、心は鳴きたる鶏と吠えたる犬の三家店に在るのみならん。
（張世英が怒る）わたしだからよかったものの、ほかの人ならどうなっていただろう。家庭を仕切る姉の恐ろしく、自分を養う兄の厳しいことをまったく恐れないとは。
（正旦が唱う）
【金盞児】書生は心喜ばず、むしろ憎めり。すでに烈火は騰騰として紅の焰を飛ばせり。姻縁簿をばみづから検べ、みづから引き裂きたまふたり。われわれが香はしき腮を寄せ、玉の体を合はせなば、家を仕切れる姉上の恐ろしき、われを養ふ兄上の厳しきことを恐れめや。
（張世英）娘さん、火遊びをなされますな。わたしは読書人ですから、このような非礼な事をしようとはいたしませぬ。ほんとうに恥知らずなこと。兄上と姉上が気付かれましたら、会わせる顔がございませぬ。まことに羞ずかしいことにございます。
（正旦が唱う）
【後庭花】娘は火遊びをななしそとや。おんみは読書人なれば、諂ふを得ず[21]、悪しきことをし、礼を知らずば、兄上に会はする顔のあらめやはとぞ言ひたまふ。おんみは謗ることを須ゐず。おんみはまさに厭へども、おぼえずわれは頬の上に笑靨を添へり。
（張世英）兄上と姉上に知られたらもちろんのこと、乳母、梅香に知られても、兄上に話されますから、どうして隠すことができましょう。ほんとうにおんみとわたしは安穏としていられなくなりましょう。
（正旦が唱う）
【醉中天】乳母の舌、梅香の口の尖きことを恐れず。恐らくは、遅かれ早かれ、兄に冷たき言葉を添ふべし[22]。たとひ知るとも証すは難し。家の醜き事どもはかならずや羞ぢて掩はん。安心めされよ。風流なる双漸[23]どのよ。
（張世英）わたしはこちらに留まることは難しいので、かならず身を退くことにしましょう。
（正旦が唱う）はやくも腰を折るに懶く、帰りゆきたる陶潜となりたまふ[24]。
（梅香）お嬢さま。秀才さまはまことにとんでもないことを言われています。
（正旦）ほんとうに恐ろしいこと。
（唱う）
【賺煞】秀才たちは、志誠の心を托せることぞ難きなる。開荒剣[25]を喰らふべし。天秤棒の両の荷物は抜け落ちぬ[26]。いかほどの胡講歪談を口に任せて言ひたまふ。似非文人は、廉恥に拘る。おんみは痩懨懨[27]として、眼を瞬き、眉を動かす。家の菜は甜からず、野の菜は甜きことならん[28]。なれはわが嬌滴滴たる桃腮杏臉[29]、香馥馥たる玉温花艶[30]に値せず。破窑[31]に行きて、風雪に虀塩[32]を断つよりほかなし。（退場）
第二折
（張世英が登場）昨日は、蕭公一家が墓参をしたが、蕭公の妹は家に居た。わたしが書斎に戻ってきた時、裏庭でちょうどその娘に会うと、娘は淫らなことを言い、戯れた。昨晩、酒席で蕭公に話そうとしたのだが、やはり体裁がよくないだろう。今、学生を三日休ませ、とりあえず書斎にひとり坐っているが、ほんとうに退屈だ。
（正旦が乳母に扮して登場）老いぼれは、蕭公さまのお屋敷の管家の乳母だ。二月前、ご主人さまは、温州の張雲傑が家庭教師と成るようにお命じになられたが、あの秀才は九経に通じている。ご主人さまの妹君の淑蘭さまは、あの書生に懸想なされて、一日中、魂を疲れさせ、夢は断たれていらっしゃる。清明に[33]、御一家は墓参されたが、淑蘭さまは病と称して行かれずに、裏庭で、例の書生と会おうとなされた。ところが書生の胸襟は正しく、わずかな邪さえもなく、厳しい言葉で咎めたために、事は叶えられなかった。淑蘭さまは恥じられて、昨晩は、寝るのを止められ、食べるのを忘れられ、床と枕を打ちながら、なす術もなく、おんみずからが老いぼれに知らされた。『菩薩蛮』という詞を作り、わたしに命じて、あの書生へと送らせて、あのかたがどうなさるかを見るというのだ。老いぼれは、行こうと思うが、主人に知られて、咎められるのが恐ろしい。行くまいと思うのだが、淑蘭さまが幼いときから父母を失い、ひとり苦しみ、今日に到られたのは、憐れむべきだ。あのかたのため、事を成就しにゆかねばならない。（唱う）
【越調耍三台】お嬢さまは、命令を、みづから言ひつけたまふたり。張秀才さまゆゑに、言ひ含め、このわれを使ひたまへり。おんみはきつと先に憂へて、後に喜びたまはんも、われはむなしく、苦きはありて、甘きはなしと懐ふなり。この煩悩と非是を招きよすれば、悪しき風声にげにこそ心は惨しまめ。かのひとのため、粉は褪せ、臙は薄れて、香は消え、玉は減ぜり[34]。
【紫花児序】お嬢さまは、心は疲れ、乱れたるらん。兄君は性躁で情乖にして、姉君は行くも坐るも監視したまふ。かのひとは今、みるみると衣は緩み、やうやくに裙を欃きたり。春衫の双袖をもて、ゆつくりと泪を拭けり。しかとは知らず[35]。いづれの時にか金釵を帯びて、瓊簪を着けたまふかを。
（張に会う）先生、ご機嫌よう。
（張世英）乳母どの、なにゆえに来られましたか。ご主人に命ぜられたのですか。
（乳母）いいえ。老いぼれは、花園に来て、歩みに任せてこちらに来たのでございます。先生は、ご退屈でございましょう。（唱う）
【小桃紅】おんみは九経三史をかつて諳んじて、典故を習ひ、『通鑑』を見、賦を作り、詩を吟ずれば気品あり、くはへて非凡。帖に臨みて字を書けば濃淡を知り、古今のことを博覧し、先人を比べあはせて、詳らかにせぬことぞなかりき。
（言う）先生は九経にことごとく通じられ、読まれぬ書物はございませぬ。三綱五常の礼はご存知にございましょう。聖人は「男子は三十にして娶る」[36]と言われています。「不孝に三あり、後なきを大となす」[37]とも言われています。結婚を求められてはいかがでしょう。老いぼれが月老となり、良縁を結ぼうと思うのですが、先生のお考えはいかがでしょうか。
（張世英）乳母どのはとてもよいことを仰る。しかしわたしはこちらで家庭教師をしており、厳しい父の教えを守り、聖人の書を読むことを知るのみにございます。求婚をする気持ちがどうしてございましょう。
（乳母が唱う）
【金蕉葉】ひたすら詩と酒に耽りて、狂ほしき心を動かすことぞなき。聖人は「不孝に三あり」とぞ言へる。子孫を絶ちて、後継のなきわけにはゆかず。
（言う）先生に申し上げます。主人には妹があり、字は淑蘭、年はようやく十九歳、他人と婚約しておりませぬ。先生にご承諾していただけますなら、老いぼれは主人に知らせ、婿になっていただきましょう。先生はこのように聡明でいらっしゃり、淑蘭さまも温雅なお方にございます。ほんとうに淑女は君子にめあわすべきにございます。
（張世英）わたくしは今、蕭公さまの家で教師をしておりますのに、乳母どのは、なにゆえにかようなことを仰るのでしょう。蕭公さまに気付かれましたら、蕭公さまの家で立たせる面目がございませぬ。
（乳母が唱う）
【鬼三台】いささかの言葉もてやうすを探り、かのひとを賺けば、かのひとは、たちまちに諍ひて、きつく謗れり。秀才たちは昔より眼は饞く[38]、この書生どののごとくに、銅心鉄胆[39]なるにはあらず。ああ。なれは燭を秉りたる顔叔子[40]、げに懐を開きたる柳下惠[41]たるに堪ふべし。愚かなり。酸溜溜[42]たる魯論[43]、齊論。醋滴滴たる周南、召南[44]。
（背を向ける）この詞を与えれば、きっと心を動かすだろう。
（詞を渡す）お嬢さまが一章の詞を作られました。先生の添削をお願いします。
（張世英が受け取り、読む）君の心は、情は深く、蓬島[45]に迷りて、妾の心は、命は薄く、芳草にしぞ連なれる。芳草はまさに凄凄[46]、君の心は知るや知らずや。妾の身は軽きこと葉のごとく、君の意は堅きこと鉄のやう。妾の意は君ゆゑに多かれど、君の心はなどて妾を棄てたまふ。
右の詞は『菩薩蛮』に寄す。不才淑蘭、つつしんで文郎雲傑吟几電覧に奉れば幸ひなり。回音[47]を請ふ。再拝。
（張世英）乳母どの、おんみは蕭公さまの管家のばあやで、蕭公さまはおんみとは一家も同じであるというのに、このような淫詞を届け、わたくしに戯れるとは、いかなることにございましょうや。
（乳母が唱う）
【調笑令】話しをすれば、わたくしの面は惨しみ、うたた羞ぢたり。おんみには、などかこの一通の書を通ぜん。軽はづみなるわたくしは、ことさらに誘惑せんとしたれども、張横渠[48]どのの貪ることなく、ただ坐して、公侯伯子男を得て、気は昂昂と、闊論高談[49]せんとしたまふこともむべなり。
（張世英）昨日はあのようなことをして[50]、今日はかようなことをなされる。かようなことをなさるなら、わたくしは別れを告げるべきでしょう。蕭公さまの家で立たせる顔はなく、世の士大夫に見えることが恥ずかしゅうございます。
（乳母が唱う）
【禿厮児】崔氏の女[51]は、今まさに紅に愁へて、緑に惨しむ[52]。張君瑞は、面は北、眉は南とならんとすなり[53]。われは老いたる紅娘[54]にして双方を取り持たんとす。先生よ、謗ること喃喃たるをやめたまへかし[55]。
【聖薬王】ひたすら口は溌釤[56]のやう。などか忖度すべけんや。「周して比せず」はひとまず我慢せんとせず[57]。もともとは、おんみを結婚せしめんとしたりしに、かへつてわれに累を及ぼしたまふたり。われは脅えて、手は忙しく、脚は乱れて、痴憨のやう。虎窟を尋ね、龍潭を覓むるかのやう。
（張世英が怒る）孔聖の書を読んだからには、周公の礼に通じているもの。書斎の門を閉ざし、蕭公さまに知らせにゆこう。
（乳母が唱う）
【絡絲娘】韓王殿[58]をたちまちに火もて焼き、藍橋驛[59]をむざむざと水もて浸せり。
（言う）孔聖の書を読んでいるなら、周公の礼に通じているであろうと仰った。道理で、道理で、
（唱う）人の前では、頑固、剛直、假撇欠。（冷笑し、唱う）おんみはかげでは、荒淫、愚昧なるべけん。
（張世英）どうやらおんみがこの事を唆されたようですな。蕭公さまに話しをしにゆくことにしましょう。
（乳母が阻む、唱う）
【雪裏梅】いたづらにわれをして功なからしめ、遊蚕のごとくせしめたり[60]。暮には四つ、朝には三つ[61]。書生の性情は凶悪なれば、老いぼれは、心は驚き、胆は戦く。お嬢さまは、愁を添へて、病に罹りたまふべし。
（張世英）この詞が証拠にございます。蕭公さまが御覧になれば、かならずや叱られましょう。
（乳母）先生、おやめくださいまし。（拝して、唱う）
【收尾】学士さまには、今しばし、耐へたまへかし。かばかりに、声高に、怒鳴らるることはなからん。兄君と姉君に、かのひとを追ひ詰めさせて、主人にわれを葬らしめんとせられたり。（退場）
（張世英）かような事があろうとは思わなかった。わたしは身を退かねばならぬ。蕭公にこのことを知られたら、弁明するのは難しいことだろう。こうするしかない。とりあえず西興の友人の家へ数日泊まり、こちらに一首の詩を残し、蕭公に知らせ、西興へわたしを迎えにきてもらおう。（書く）
（詩）公の愛顧に感ずれば、余生を寄せり。三載の交、二月の情[62]。別れゆきなば、心中の事を言ふこそ難からめ。月明に、酒は醒め、西興に在り。
琴書衣衾はみな動かさず、単身で行くとしようぞ。（退場）
（蕭公譲が登場）本日は何事もない。書斎の雲傑どのを訪ねてしばらく閑談するとしよう。（到着する）なにゆえに、雲傑どのが見えぬのだろう。友を訪ねてゆかれたに違いない。（壁の詩を見て、驚く）この詩にはきっとわけがあろう。もしやわが家のしもべらの接待が行き届かぬため、ことさらにこのようにされたのだろうか。琴剣、蒲団は、いずれも動かされていない。あのひとは、西興へ行き、友人の家に泊まっていられるのだろう。たやすいことだ[63]。手紙を書いて、僕を西興へと行かせ、あのひとを招かせることにしよう。このようにしなければ、雲傑どのは、ふだんから、人付き合いが悪いから、みずから戻ってこようとはなされぬだろう。（手紙を書く）手紙はすでに書き上げた。すぐに迎えにゆかせよう。
（詩）雲傑どのとの交情は薄からず、詩の趣をつばらに見れば、何の楽しまざることかある。使者を遣はし、すみやかに西興に至らしめ、呼び戻したら事情が知れよう。（退場）
第三折
（正旦が病と成り、梅香が介添えをして登場）わらわは昨日、張秀才どのと会ったが、あのように偏屈だとは思わなかった。事は叶えられなかったから、本日は管家の乳母に『菩薩蛮』の詞一首を持たせ、戯れさせて挑発させたが、あの書生が、またも厳しいことを言うとは思わなかった。乳母は戻ってきて話し、愁えの懐は数倍に增してしまった。家中の人はみな知っているが、兄上と姉上だけはご存じない。たちまちに、思い起こせば、心の中はまことに悲しい。（唱う）
【双調五供養】玉の肌は削られて[64]、金の釧は鬆むなり。たちまちに、悶は多く、愁は深し。われをして、むなしく恥を忍ばしめ、むなしく執心せしめたり。われはまことに軽薄にして、検束を欠きたれば、かのひとに、謗られたるもむべなりき。歯噛みして黙すよりほかはなからん。この文君は、車に乗らんとしたりしに[65]、誰か思はん、司馬の琴をば抛たんとは。
（老旦が登場）わらわは蕭公譲の女房崔氏。妹が病気になったのを聞き、わざわざ見舞いにやってきた。（会う）どうして病気に罹ったのです。良医を招いて、治療して、薬を飲むのが良いでしょう。
（正旦が唱う）
【落梅風】魂魄は離れて、心を失ひたるがごと、思は昏沈、悶に囲まれ、愁に浸り、昼には餐ふことを忘れ、夜には寝ぬることを廃せり。ひとり思へど、なじかは知らず。
（老旦）どうして病気になったのでしょう。わたしに話せば、症状に合った薬を持ってこさせよう。妹や、隠してはならないよ。日に日に病気は重くなり、治療するのは難しくなるだろう。
（正旦が唱う）
【喬牌児】姉上は、わが病を尋ねんとしたまへり。わたくしは言葉なく、淋病に罹りたるかのごときなり。前日は、秋千し、闘草[66]して、自由なりしが、衣を脱ぐ時、風に侵されたるならん。
（老旦）風邪なのに、どうしてこんなに重いのかえ。食事もすこしも摂ろうとしないで。
（正旦が唱う）
【折桂令】今に至るも、食事は喉を通ることなく、心の内は陰陰たるなり。ある時は、頭の先まで炎炎として、ある時は、骨の髄まで森森たるなり。頭は眩き旋旋として、眼は昏く暗暗として、身は倦みて沈沈たるなり。たちまちに、悪寒を発し[67]、脾神[68]は凛凛、たちまちに、潮熱[69]を添へ、冷汗は淋淋たるなり。病が来なば、灸することも針することも難くして、心が痛まば、忍ぶも耐ふるも難きなり。人が問ひなば、訴ふることは難くして、茶飯を思ふことなく、求むることなし。
（正旦が眠る。老旦）妹は眠ってしまった。目覚めさせてはならないよ。梅香や、湯や粥を摂りたがったら、言っておくれ。また妹を見にくるから。（退場）
（旦が夢を見、張世英が登場、正旦）先生、ご機嫌よう。
（張世英は話さない、正旦が唱う）
【慶宣和】歩みに任せて、そぞろに花の径に臨み、柳と花の陰に隠れり。われが病み、痩せたる骨の岩岩として、玉の緒の絶えんとするは、げにおんみゆゑ、おんみゆゑなり。
（張世英が旦を推す）眠った振りをなされますな、（退場）
（正旦が目覚め、唱う）
【殿前歓】書生は知音にはあらず。「春宵一刻価千金」をむなしく過ごし、瑣窗[70]、朱戸、鴛鴦枕、翡翠、羅衾を空しうしたり。韓吏部と李翰林は、かのひとのかくせるに一任したり[71]。思はざりき、おんみは夢の中にても、人を冷たき言葉もて謗られんとは。ことさらに玉簪を折り、瑶琴を砕かんとしたまへり。
（梅香）お嬢さま、ご存知でしょうか。張秀才さまは別れを告げずに、西興へ行かれましたが、兄上さまは手紙を書いて、人を遣わし、呼びにゆかせるのでございます。
（正旦）それならば、わたしはふたたび詞を作り、兄に内緒で、手紙の中に封じ込め、あの書生に寄せ、あのかたの考えのいかんを見よう。梅香や、紙、筆を持ってきておくれ。
（梅香）紙、筆はこちらにございます。
（正旦が詞を書き、唱う）
【雁児落】西興の路で黄犬[72]を尋ね、南浦の道で青鸞[73]に任せんとせり。手に任せ、腸断の詞を綴り成し、回文の錦を織り成したるにぞ似たる。
【得勝令】はや言ひ難し「詩を会家に吟ず」[74]とは。かのひとは、いささかも花を惜しめる心なし。勾を点ずるかのやうに、圈紅を問ひ、朱もて描けるかのやうに、刷画に臨めり[75]。数句の佳音を表せば、一字一字に臙脂は滲み、両字の泥金をし書けば、一行一行に血泪が浸せり。
（言う）書き上げた。読み上げることにしよう。「不才蕭淑蘭、病中に一闋の詞を作り、詞は『菩薩蛮』に寄す。文郎雲傑翰座[76]に捧げ、つつしんで春色を挽回せんことを望めり[77]。詞は言を尽くさず、言は意を尽くさず」。
（詞）無情の水は西興の渡に満ちて、多情の人は西興へ行く。西興へ行く路は遠くして、奴をして魂夢をぞ労せしめたる。今、心中の苦を、相思の句にぞ綴りなしたる。君が情詞を見たまはば、ともに連理の枝を諧へん。梅香よ、細心に手紙に入れて、兄上と姉上に知らするなかれ。
（梅香）かしこまりました。
（正旦が唱う）
【鴛鴦煞】病に纏ひつかれて、東風にいたく禁らる。泪は連綿、春衫[78]に染みるのみなり。飯ふに匙に触るることなく、繍するに針を拈ることこそなけれ。閨思[79]はいとど多くして、愁懐はうたた深きなり。龍沈の煙は冷めて[80]、銀蝋に紅淋は消ゆ[81]。かのひとの恐ろしく、悪しき心を思ひ起こせば、われをしばらく物思はしめ、かのひとをむしろ憐れに思はしむなり。（退場）
第四折
（蕭公譲が老旦とともに登場）手紙を書いて西興へ届けさせ、張雲傑を呼ぼうとしたが、手紙の中に『菩薩蛮』の詞一首があった。妹の淑蘭が作ったもので、雲傑に情を寄せたものだった。くわしく事情を調べたが、雲傑にその気はなく、みな妹がしたことで、淑蘭が病に成ったのもこのためだった。妻よ、わたしはじっくりと考えたのだが、幣帛、羔雁[82]、酒礼、花紅[83]を送ることにし、官媒に縁談を纏めさせ、雲傑を招いて婿にし、両親と同胞の誼を示せば、他人から嘲笑われずにすむだろう。妻よ、考えはどうだ。
（老旦）亭主どのが結婚を取り仕切られれば、恥を晒すのを免れましょうし、わたくしたちが、先祖代々、汚れないことを示せましょう。わたくしの考えは、まさにかようなものにございます。吉日を選び、一切のしかるべき礼物を欠かされますな。一つには、よそさまの見栄えがよいため、二つには、妹を安心させるためにございます。
（蕭公譲）善は急げだ。準備をし、媒妁をすみやかに行かせよう。
（詩）兄妹はもともと同胞なれば、なんぴとか惜しまざるべき。西興の人を招きて、東床の客となすべし。（ともに退場）
（張世英が登場）わたしは張世英、西興の友人の家へひとりで行って、半月を経た。蕭公が妹御のため、媒妁を遣わして、縁談を持ちかけるとは思わなかった。どうしたらいいだろう。古人は言う。「男子は生まれて室あらんことを願ひて、女子は生まれて家あらんことを願ふ」[84]と。一つには、公譲のこのような厚意があるし、二つには、男女の婚姻は、人倫の大礼だから、あの女の初心に負かぬことにしよう。あの家は、もとより名門でもあるのだから、わたしにとって恥には成らぬ。今日、蕭山に戻っていって、この事を成就したとて、悪くはあるまい。（退場）
（正旦が梅香とともに登場）
（梅香）お嬢さま、おめでとうございます。お兄さまは、三千貫の結納金で、張雲傑さまを招いて婿になさいました。羔雁、茶礼[85]、断送、房奩[86]は、すべて調え、お嬢さまの平生のお望みを満たされました。
（正旦）ほんとうにありがたい。（唱う）
【黄鍾醉花陰】離恨[87]閑愁[88]ははやくも満たされ、わが主人[89]はあれこれと言ひたれど、兄上と姉上の、団圞するを得しめしに謝す。羔雁、花紅を添へられて、結納金三千貫を賜はれり。度量は闊く、視野は寛く、すべての断送、房奩を調へたまへり。
【喜遷鶯】幣帛、綾緞をば納め、引きも切らざる花担、盒盤[90]は見るに堪へたり。全身に紅を掛けて満たしめ、往来する官媒は、錦繍をひたすら攅め、人々はみだりに攛り、親属は交錯し、羅綺は弥漫す。
（浄が官媒に扮し、楽隊を連れて登場、新郎を招く）
（張世英が登場）この結婚は、わたしが願ったものではなく、兄上の命令で、断るわけにゆかぬため、むりにこうしているのです。
（正旦が唱う）
【出隊子】姻縁は前世にて定められたるものなれば、さいはひに今生に聚完[91]するを得たるなり。玉肩を並め、雲端に赴き、素手を携へ、彩鸞に跨りて、清らなる音の鳴鳳管をともに吹くなり。
（張世英）わたくしは、兄君の持て成しが厚くなければ、おんみの初心に負いていたことでしょう[92]。名教を汚したために、今日を招いたわけではございませぬ。
（正旦が冷笑し、唱う）
【刮地風】なにゆゑぞ、一万端のでたらめを言ひ、今もなほ苦渋寒酸とせる。聴けば笙簧一派の声は撩乱として[93]、翠は擁り、珠は攅まる。舞へる態は軽くして、歌へる声は緩やかに、香篆は靄きて、絳蝋は輝きて、簾幔はひくく垂れたり。げにも画堂は深くして、和気暖く、千般の楽しみぞある。
（梅香）夜は凉しく、風は収まり、月は朗るく、天は晴れ、香は清しく、灯は燦いて、歌い、舞い、吹き、弾けば、杯を交わすにはうってつけ。楽を奏でてくださいまし。（楽が奏でられ、杯が交わされる）
（正旦が唱う）
【四門子】香馥馥たる合巹の杯を交はせば、まさに良宵、勝れたる事こそ攅けれ。碧天に燦燦と寒星は煥きて、碾きたる氷の輪、皓月は団団として、意楽しく酒を酌み、興を尽くして歓べり。歓娯を貪りて、おのづと漏の短きをしぞ嫌ふなる。意楽しく酒を酌み、興を尽くして歓べば、風亭と月館にしぞ勝るべき[94]。
（媒妁が兄と嫂を招き、蕭公譲が老旦とともに登場、会う）
（蕭公譲）雲傑どの、男と女の結婚は、人の道の大いなるもの。妹は、妝は残く、貌は陋く、足下を辱しめましょうが、ひとえに雅意を忘れないため、かようなことを致すのでございます。
（張世英）公譲どのの手厚い庇護にひさしく頼り、妹君と縁を結ぶこともでき、深くご恩に感じております。そのかみの誼がなければ、このようにしようとは致しませんでした。いかなるお礼を致したものか分かりませぬ。
（蕭公譲）雲傑どのは、ご謙遜し過ぎです。僕たち、絵を掛けて、花燭を点せ。ふたたび宴を整えて、この良き夜を楽しもう。（酒を運ぶ）
（正旦が唱う）
【水仙子】酒は鸚鵡の杯を斟ぎ、光は瑪瑙の盤に映え、茶は丹鳳の髓を烹て[95]、香は碧玉の碗に浮かべり。銀屏金孔雀を開き[96]、緑は嫩く、紅は嬌し。錦褥繍芙蓉を隠し[97]、枝は繁り、葉は乱れたり。象嵌の玲瓏[98]たる香球は掛く金縷団。梅紅羅[99]、鮫綃帳[100]、舞ふ鳳に、飛べる鸞。これ、これ、これは、宋玉の垣にそのかみ窺ひし東隣の女なり[101]。喜ぶ、喜ぶ、喜ぶは、翡翠銀花の幔にて相逢へる。はや、はや、はやくも同心の帯を扣びて、ともに交歓したるなり。
（張世英）ひそかに思うに、これは宿縁。人の力で計画できることではあるまい。
（蕭公譲）そのお言葉は、もっとも良いもの。これはみな、天意がひそかに人心を叶えたもので、ほんとうに、おおいに喜ばしい事だ。
（正旦が唱う）
【古寨児令】こなたにてひそかに見れば、おぼえず人の心は歓ぶ。欠点はなく、おほいに豊韻、表は正しく、形は整ふ。風は和やか、月は圓かに、春の夜の暖かき時に乗じて、天喜に値り、紅鸞に逢ひ[102]、宿縁[103]を配せしめ、仙伴[104]と成す。
（蕭公譲）わが江南の風景のなか、このように夜宴を開けば、月光は照り、灯燭は輝いて、錦繍は並べられ、図画は掛けられ、百味の珍羞、水陸のものはすべて備わる。ほんとうに、華やかで、麗しい。（酒を運ぶ）
（張世英）このようにいい思いをし、まことに楽しい。わたしはすっかり醉うべきで、断るわけにゆかないだろう。
（正旦が唱う）
【神仗児】[105]荔枝漿、乳酪[106]、蜜団。甘蔗汁、酥油、糖拌。薔薇露、秋菊、春蘭。紫蘇塩、姜醋、薦款。碧芥芽、葱針、寸段。
（言う）梅香や、見てごらん。この書生さまに書斎でお会いした時の、道学者らしい素振りは、今はみな、どちらへ行ってしまったのだろう。
（唱う）清げなる沈潘[107]をよく見れば、まことにや瞻視を尊くし、衣冠を正したまふたる[108]。
（蕭公譲）小者たち、おおいに吹き、おおいに敲いてくれ。（楽を奏でる）
（媒妁が詩を読み上げる）碧漢には双鳳が飛び、瑶池には両鴛が宿るなり。洞房に花燭の宵は、人と月こそ団圓なれ。
（正旦が唱う）
【尾声】錦片の前程[109]は今や麗しく、菱花に舞へる一対の青鸞は、鳳台にはやくも入りて玉管に親しまざらめや[110]。