第九十九回

郭将軍が勅旨を奉じて環を賜わること

狄経歴が故郷に戻って官を辞すること

 

険しき蜀の道

とりわけ剣門道

(かつみ)と水の縁

船を並べて睦みあふ

昔はこちらが悲しくて

今はむかふが腹立てる

悲しや将たる身

嬉しや恩返し

全部で四年間

盛衰定まらず

巡り巡るは世の定め

胸を傷むることはなし

 郭総兵は軍機を誤りましたが、弁明書を出したため、死刑を減刑されて成都衛に充軍となりました。彼は、成都に三年ほどとどまり、狄希陳と、まるで親戚のように付き合いました。しかし、大将には体面というものがあり、督府[1]に仕えるわけにもいきませんでしたので、平々凡々として何も長所を現しませんでした。しかし、やがて来るべき時がやってきました。鎮雄、烏蒙の二人の土官知府は、姻戚同士でしたが、娘、息子が不仲になりますと、それぞれの家の親が子供を庇いました。初めは口喧嘩でしたが、だんだんと事が紛糾し、妻の家では婿を、夫の家では嫁を離婚しようとし、互いに争いました。さらに、下男が唆したため、日に日に憎悪、嫌疑が激しくなりました。そして、勝手に武器をとり、殺しあいを始め、国家の法律などには構いませんでした。烏蒙府の土官は、彼ら両家の近い親戚でしたが、彼らの仲裁をすることができませんでした。そして、彼らの巻き添えになることを恐れ、巡撫に報告をしました。巡撫は文書を送って、何度も戒告をしましたが、どうしても聞こうとしませんでした。巡撫は怒りました。

「おまえたち土官は、代々国家の恩を受けながら、陛下の教化に服さず、勝手に兵を起こし、人民を殺害している。おまえたちはどちらも反逆者だ」

標営の中軍参将を遣わし、三千名の官兵を率いて鎮撫、勦蕩を行い、鎮撫できるものは鎮撫し、鎮撫できないものは勦蕩することにしました。巡撫はこのようにして、まず彼を脅し、鎮撫する積もりでした。

 ところが、姓は梁、名は佐という参将は、山西大同府の人、兵隊上がりで、少しも物事をわきまえていませんでした。彼は土官など大したことはなく、簡単に掴まえることができる、戦功を大袈裟に宣伝すれば、分にはずれた褒美を受けることができると考え、巡撫が鎮撫を行おうとしていることを秘し、力に任せて、強引に兵を進めました。ところが、土官は辺境に住んでいるとはいえ、上下が心を合わせ、法は厳しく、三千の兵馬のことなど眼中にありませんでした。それに、争いをしている両家は、仲違いをしていたものの、『外敵には対抗する』人たちでした。梁佐が兵馬を率い、威風堂々たる陣を敷きますと。両家の兵馬もやってきて応戦しました。彼らは官兵を一人も傷付けませんでしたが、彼らも官兵によって一人も傷付けられることはなく、右側を攻めれば左側で、左側を攻めれば右側で防備を固め、かなり手が焼けました。官兵が進みますと、土官の兵は退きました。官兵は彼らが本当に弱いのだと思い、ひたすら追い掛けました。行き止まりの谷間まで追い掛けますと、土官の兵は小さな出口からすっかり逃げてしまい、石灰と煉瓦で出口を塞ぎました。そして、官兵がすべて谷間に入りますと、後方で大砲を鳴らしました。すると、伏兵が急に立上がり、退路を断ち、梁佐が率いてきた三千の兵士と馬を谷間に閉じ込めました。四方は絶壁で、雀や烏になっても飛んでいくことはできませんでした。さいわい谷間に木の実がある時期で、水のあるところでもありましたので、苦しいとはいえ、何とか命を長らえることができました。

 烏蒙の土官は、形勢不利の知らせを巡撫に送り、梁佐の兵馬が大敗し、すべて峡谷に閉じ込められた、殺されてはいないが、すぐに救援軍を送らなければ、必ず餓死してしまうと言いました。巡撫は魂が体から離れてしまうほどびっくりし、慌てて三司[2]を巡撫に呼んで会議をしました。二つの役所の、酒を飲み、肉を食らう書生たちは、金と女が好きで、深い考えを持っていませんでした。都司たちは、武官とは名ばかりで、南方のお坊ちゃんばかりでした。彼らは先祖代々の職をもち、先祖代々の禄で甘やかされ、贈り物をして推薦を求め、現在の職に推薦されたもので、武芸の何たるかも知りませんでした。武科挙に合格した者もいましたが、ほかは数編の陳腐な策論を書き、試験官の目をごまかし、現職に推薦された者たちで、六韜三略のことなどは知りませんでした。円領をつけ、紗帽をかぶり、掌印官に印綬をもたせ、両司の軍隊に入り、体裁を保っているにすぎませんでした。彼らが兵を率いて土官の兵馬と戦うことは、絶対にありませんでした。武将、文官は、互いに顔を見合わせると、しばらく的を得ない話をし、温かくも冷たくもない茶を数杯飲み、去っていきました。

 巡撫はどうしていいか分からず、奥に退きますと、長く短く溜め息をつき、すぐに上奏を行い、兵を訓練する計画を立てました。すると、脇で一人の書吏が言いました。

「昨日の件はあまり重要ではありませんから、すぐに鎮圧することができます。きっと梁中軍が事を荒立てたのでしょう。成都衛から呼んできた郭総兵は、江西に着任していたとき、苗族を鎮圧して恐れられ、人々から『小諸葛』と言われたそうです。衛に行かれ、あの人を採用し、兵を率いて救援をさせ、功績を上げたときには、元の職に戻すことにしましょう」

巡撫はとても喜んで、言いました。

「忘れていた。あの人は本当に有用の器だ。推薦を受けて将軍を拝命した人を、衛官に連れてこさせるのはよくない。わしが直接頼みにいくことにしよう」

従者に待機するように命じ、郭総兵の宿にいって頼もうとしました。

 ところが、巡撫が入り口に着いても、郭総兵はどうしても出ようとせず、宿屋にはいない、峨眉、武当にいったと返事をしました。巡撫は信じず、客間に入って、何度も面会を求めました。郭総兵はわざと小さな帽子と黒服をつけ、出てきて会いました。巡撫は固く断わり、方巾、旅衣に着替え、ようやく挨拶を行いました。そして、十両の旅費をおくり、官が反乱を起こし、梁参将の全軍が不利な状態にあるので、郭総兵が兵を率いて救援にくることを望んでいる、功績を挙げれば推薦を行う、といいました。郭総兵は何度も断って、言いました。

「敗軍の将は、朝廷によって死刑にされなかったときは、遠い衛で矛を担い、晩年を慎ましく過ごしてこそ、生命を全うすることができるのです。このような大任には堪えられません。どうか恩台様には、ほかの有能な人物を選ばれ、事を誤ることがないようにされてください」

巡撫は何度も頼み、拝氈[3]を取ってこさせ、すぐに郭総兵に四回拝礼しました。郭総兵はしぶしぶ承諾し、すぐに巡撫に拝礼を返しました。巡撫はその日のうちに手本を送り、五千人の官兵を選び、郭総兵に従わせました。さらに、自分の側近く仕えている下男百名を選び、郭総兵の側近くに仕えさせました。そして、布政司に銀六万両を払うように命令をし、郭総兵に兵糧を与えました。さらに、道府に令状を送り、官兵の宿舎、兵馬の食糧、書写を行う部屋を用意し、郭総兵を両司で用いさせることにしました。また、二十頭の軍馬、四つの精巧で頑丈な鎧兜、自分の令旗、令牌を手本を使って引き渡しました。

 郭総兵は、吉日を選んで兵を挙げ、五万の人馬を遣わす伝牌[4]を送り、四方から進軍しました。巡撫は、練兵場で、自ら見送りをし、蟒を刺繍した緞子の表地、裏地を四つ、金花を二つ、金の台盞を一つ、餞別を百両贈りました。さらに、三司は、遠い所まで送り、それぞれ餞別を贈りました。郭総兵は、出発する時、巡撫に尋ねました。

「恩台さまは、今回、私を遣わされますが、その趣旨を私にお話しください。巡撫さまは討伐をされる積もりなのですか。それとも彼らを帰順させる積もりなのですか」

巡撫「戦に関しては、遠くから指図をすることはできません。現地に着かれたら、臨機応変の措置をとり、自由に仕事をされてください」

郭総兵「梁参将と三千の官兵が殺されておらず、あそこに閉じ込められているだけなら、彼らには帰順する心があるということですから、帰順させるべきです。梁参将の官兵が峡谷に閉じ込められ、殺されてはいないものの、餓死していたら、憎むべきことではありますが、罰を与えるべきではありません。鎮撫と討伐を併用されるべきです。もしも官兵を殺したら、臣従する心がないわけですから、罪を免れることはできず、彼らが卑屈に哀願しても、必ず討伐されるべきです。私の考えはこのようなものですが、恩台さまはどう思われますか」

巡撫はとても喜び、至極尤もだと思い

「向こうへ行ったらその通りにすることにしましょう」

 郭総兵は五千の兵士を四つに分け、昼間はとどまり晩にすすむように命じ、長い竿を十字に縛り、それぞれの竿に四つの提灯を掛け、真っ赤に照らし、竈をふやし、五万人の兵士がいるように見せ掛けました。戦場が近付きますと、梁佐の官兵がまだ峡谷にとじこめられているが、中には木の実がたくさんあること、秋の田には穀物が熟しており、泉の水もあるので、しばらくとどまっても問題はないが、前後に逃げ道がないことを聞き出しました。さらにしばらく進みますと、敵の斥候二十名を捕らえました。郭総兵は四人のかしらを人のいない廟に監禁し、彼らがよそ者と会って秘密を漏らさないようにしました。そして、郭総兵も四人の斥候を遣わし、十六人の案内で、峡谷に行き、梁参将に会い、

「人は殺されましたか。官兵は傷付けられましたか。数人の人を遣わして私に報告をしてください。四人の人質を連れて戻ってください」

十六人に酒とご飯を与え、出発させました。

 二十人は、郭総兵に捕らえられたときは、必ず殺されると思いましたが、四人が監禁されただけで、十六人は釈放されました。その後、監禁された四人も釈放され、四人の斥候がつかわされました。監禁されていた四人は、喜んで帰りますと、四人の斥候を連れて二か所の土官に会わせました。四人の斥候は来意をくまなく話しました。

土官「我々の国は兄弟同士で、姻戚でもあります。小人に唆され、諍いを生じ、両家で戦いを起こしました。数人の身内を殺しただけですから、官兵が討伐をするには及びません。堅固な城に立て籠もり、服従しない強敵でも、官兵は、来た当初は改心することを許すものです。ところが、先日やってきた将官は、事情も尋ねず、状況も考えず、数人のろくでもない兵を引き連れ、九宮八卦の陣をしき、陣立てが完全でもないのに、ひたすら進軍しました。我々は彼らと争えば、粉々に粉砕することができます。しかし、朝廷のご恩は厚いので。良心に背くわけにはまいりませんでした。ところが、我々が退けば退くほど、彼らは進み、我々は退くことができなくなりました。そこで、彼らを峡谷の中に閉じこめ、数日我慢していただくしかなかったのです。中にはたくさんの山桃、棗、栗、柿、胡桃の類いがあり、食べることができます。豆や穀物もとても多く、馬を養うことができます。喉が乾けば、水がございますし、寒くなれば、火がございます。雨が降れば、山の岩の下で避けることができます。酒とご飯をお食べください。人に命じてあなたを現地に送らせ、彼らと会わせましょう。私たちのところには彼らを傷つけようとするものはおりません。それにしてもおかしなことです。巡撫さま派遣される将兵は、屈強の兵士と戦上手の名将で、堂々としているはずです。しかし、兵士たちはいうまでもなく、あの将軍も本当にろくでもない奴です。あいつはここで毎日命乞いをし、自分は巡撫さまの中軍とやらであると言っています。あの男のろくでもないようすを見るに、きっと炊事兵に違いありません。あのような木偶の坊が中軍になれるはずがありません。あなたは兵を率いてこられましたが、どのようなお方なのですか。先日の中軍より少しはましなのですか」

四人はいいました。

「あの人とは大違いです。もと広西の掛印郭総兵さまが自ら兵を率いてここにこられたのです」

土官「郭総兵は名を郭威といい、広西で軍機を誤り、都に護送されたのに、どうしてここにきたのですか」

四人「朝廷はあの人に功績があったため、死刑を免除し、わが成都の衛軍にしていましたが、それを巡撫さまがわざわざ招きよせたのです」

土官「あの人は、評判がいいですが、会ってみたらどうかは分かりません」

人を遣わして四人を谷間にいかせ、梁中軍と三千の兵馬に会わせました。人々はすべて揃っており、みな生きておりましたが、人馬は疲弊しており、武器も折れたりまがったりしていました。彼らは四人に会いますと、郭総兵が兵を率いて救援にきてくれたことを知りましたが、生きる道があるかないかは分かりませんでした。四人は別れを告げて外に出ますと、ふたたび土官に会いました。土官は、それぞれ二両の銀子、銅銭を与え、十六人の中から四人を選んで四人を送り帰らせました。四人は郭総兵に会いますと、土官の話の一部始終を、一字の増減もせずに、くわしく話しました。

 郭総兵は梁佐の官兵は無事であること、二人の土官が謀反を起こす気がなく、高みの見物をしていることを知りました。そこで、四人を呼んで、言いつけました。

「使者が話していたのだが、土官の話しによれば、謀反ではないそうだ。小人が唆したせいで争いが生じ、軍功を得ようとしたというのが実状だ。わしは数万の精鋭を率いて、今あなたの土地に駐在している。わしが広西の鎮寧にいたとき、苗族たちが、わしが神のように兵をあやつるのを恐れていたことは、あなた方も見聞きしているだろう。わしは少し戦えば平定することができるし、事を大袈裟に宣伝すれば、諸侯、将軍に封ぜられることだろう。しかし、このようなことはわしの良心が許さず、天も許さないだろう。とりあえず兵は進めず、和議の相談をしよう。土官がわしに帰順すれば、おまえの身体生命、富貴功名は、すべてわしが保証しよう。帰順しなければ、わしは大軍を進めるが、これでは後悔しても遅いというものだ。これは重要なことで、おまえたち下男の口で伝えることはできないことだ。やはり我々自らが話しをすればいいだろう。理屈からいえば、おまえたち両家の司令官はわしの陣にきて会えばいい。しかし、おまえたちの司令官は、軽々しくわしの陣にくることはあるまい。わしは、明日、自らおまえのところに行くことにしよう。城外に陣をしき、角巾[5]に私服を着け、三四名の従者をつれ、少しも武器を持たず、自ら両家の司令官と話しをしよう。おまえたちの司令官は、たくさんの人を遣わして迎える必要はない。おまえたち二人は途中まで迎え、先導をして進み、ぐずぐずしていてはいけない。下役が出迎えず、軍営の門をきつく閉めたら、これは帰順しないということだから、わしはすぐに兵を進めよう」

八人に酒とご飯を与え、軍営から出発させました。

 夜が更けますと、郭総兵は四更にご飯を作るように命令を下し、五更に陣を発ち、土官の城下に迫りました。やはり一人に四つの提灯を持たせました。土官は城の上からそれを見ますと、まるで数万の人馬のように見えました。郭総兵は、私服に方巾を着け、四人の従者をつれていました。周相公も下男に扮して中に交じっており、八人の兵卒をつれて一緒に歩きました。土官は、あちこちに探馬を遣わし、郭総兵の人馬が城外に駐屯して動かないことを探りだしますと、一人馬に乗り、こっそりと進みました。そして、すぐに儀仗や楽隊を遣わし、郭総兵を迎えて城内に入りました。二人の土官は城門の中におり、冠と帯を着けて出迎えました。郭総兵は察院に入り、土官は謁見して挨拶をおえると、郭総兵は彼が私憤から戦争をし、官兵の邪魔をしたことを責めました。二人の土官は何度も弁明しました。

「下男が唆したため争いが起こったのです。官兵が急にやってきたときは、逃げて災いを逃れただけで、邪魔をしたりはしていません。今、官兵はすべて山の中に駐屯していますが、一人も殺す積もりはございません」

郭総兵を谷間に案内し、検分をしてもらおうとしました。話したことは四人が前に言ったことと同じでした。

 郭総兵は大したことではない、鎮撫を行うのが正しい、と考え、命令を下し、人馬を二十里退けて駐屯しました。郭総兵がご飯を食べ終わりますと、二人の土官は彼を信じ、郭総兵を城外に送りだし、自ら梁佐が閉じ込められている峡谷に行き、一人一人釈放しました。果たして一人も欠けていませんでした。郭総兵は命令を伝え、三千の官兵を大きな兵営に駐屯させました。二人の土官は、自ら郭総兵を軍営に送り、謝罪をし、招安に感謝しました。郭総兵は、彼を帰らせ、戦いを起こすことを唆した小人を轅門に護送し、それぞれ二十五回板打ちにし、釈放して家に帰らせました。そして、すぐに兵を返し[6]、自分は殿になって出発しました。さらに、二人の土官がたくさんの人馬を従えることを許さず、三日以内に省城に行き、巡撫に謝罪するように命じました。

 このようなとても難しく、大きな問題を、彼はいとも簡単に処理してしまいました。往復二十日足らず、持っていった六万両の銀は、一文も使っておらず、二十頭の軍馬、四つの兜、すべての兵馬、令旗などは、完璧なままもとに戻りました。さらに、梁佐に三千の人馬を返し、手本を使って一つ一つ引き渡しました。兵士は一人も死んでおらず、縛られてぶたれたものも一人もいませんでした。巡撫、巡按の両院と、都、布、按の三司は、とても喜びました。二人の土官は、官兵が来てからも、ふたたび悪いことをする恐れがありましたが、三日もたたないうちに、二人とも馬で省城にやってきて、巡撫の前で、礼儀正しく罪を請い、何事もなく帰っていきました。彼らは、郭総兵が分に外れた軍功を得ようとせず、両家の千数人、二百万名の人民を守ったことに感激し、生祠を建て、郭総兵を祭りました。

 巡撫は、郭総兵が金を使わず、武力を使わず、やすやすと二人の土司を鎮撫し、三千の谷に閉じ込められていた官兵を取り戻しましたので、郭総兵を推薦し、天子さまに彼を起用していただければ、彼の大功に報いるばかりでなく、国家の防御のために有益であるといいました。巡撫は、さらに、参将の梁佐が計略に背き、土司を怒らせ、群を窮地に陥れ、国を辱めたことを弾劾しました。

 これに先立ち、四川の巡撫、巡按は、土官が反乱を起こし、官兵を陥れたので、充軍になった総兵官郭威が兵を率いて戦地に遣わされたことを、書状に書いていました。朝廷ではとてもびっくりしました。天子さまの威光によって、事を収めるとしても、どれだけの食糧を消費し、兵卒を傷付け、天下の人馬を動かし、日時をかけ、朝廷を憂慮させるか分かりませんでした。ところが、今回は、一銭も使わず、一人も殺さず、二人の下男をそれぞれ二十五回板打ちにしただけで、このような大仕事を成し遂げたのでした。当時、朝廷では賄賂を贈るのが習慣になっていましたが、公平を旨とすることにしました。やがて、兵部が、流罪を免じて帰還させ、官職の空きがあれば推薦をして用いることを奏請しました。そして、特命により、もとの官職である中府僉書に起用されることになりました。また、錦衣衛を遣わし、梁佐を都に護送し、糾問することになりました。

 邸報が伝えられますと、都の乞食たちが吉報を届けにきました。郭大将軍は急いで出発の準備をしましたが、旅費がありませんでした。周相公は郭総兵について上京しようとしましたが、狄希陳は離れることができませんでした。「嬉しいときにも思い通りにならないことがある」とはこのことで、本当に厄介なことでした。やがて、当直の書吏が上申書を書き写してきて狄希陳に見せました。そこには次のような評語が書かれていました。

家は乱れた糸のように混乱し、妻妾は継母よりも凶暴であります。

具体的事項としては以下のようなことが書かれておりました。

狄希陳は家を治めることができず、妻や妾にしばしば殴られ罵られ、刑庁と隣り合わせで、家にごたごたを引き起こしました。

狄希陳は妻の薛氏に棒で殴られ、六百回以上ぶたれ、四十日床から起き上がることができませんでした。

狄希陳は妻の薛氏に炭火で背中を焼かれて火傷をし、二ヶ月床に伏し、職務をおこなうことができませんでした。

 そこには周相公が在席していました。狄希陳は評語を見ましたが、あまりよく分かりませんでした。しかし、具体的な事柄に関しては、おおよその意味が分かりました。周相公は、受け取って見てみますと、言いました。

「ちょうどいい。悪いことを書かれたのですから、もうすぐ中央官に転任です。みんなで帰れば、あなたをここに置き去りにし、独りぼっちにしないですみます」

狄希陳は、さらに周相公に評定に書かれた具体的な事柄をくわしく解説させ、家に戻り、寄姐と相談しました。寄姐も童奶奶と別れて四年近くになり、とても懐かしく思っていました。役人の稼ぎもかなりありました。

「周相公がすでにいってしまいましたし、郭総兵と権、戴両奥さまもこの地を離れようとしています。遠く故郷を離れて、独りぼっちでここにいてどうなさるお積もりですか。悪いことを書かれたのですから、残るにしても、しばらくとどまるにしても、郭総兵、権奶奶、戴奶奶、周相公と一緒に行動するのには及ばないでしょう。新しく起用されたあの人の威勢を借りれば、旅はとても安全でしょう」

 狄希陳は、すっかり承服し、翌日、周相公に辞職の文書を作るように頼み、府知事と三庁に提出しました。府知事は「転送せよ」という批語を加え、軍糧庁は「府の許可を待て」という批語を加えました。刑庁の批語は以下のようなものでした。

狄希陳は男盛りで、まさに服官[7]の年齢である。任期満了もずっと先のことなのに、少しも仕事ができないとはどういうことか。病気療養をし、ふたたび職務を行うように。

以上

 狄希陳は、少しも構わずに、出発の準備をし、批准を待ちました。準備が終わりますと、辞職を求める上申書は批准されました。そこで、郭総兵とともに、ふたたび二隻の座船を雇いました。そして、郭総兵の「勅命により環を賜う」の額を掛け、中軍都督府の封じ紙を貼りました。巡撫は郭総兵に夫馬の勘合を送りました。両家では吉日を選び、一緒に船に乗りました。巡撫と二司は、自ら江楼[8]に赴き、郭総兵の送別をしました。都司、参将、遊撃などの役人は、鎧を着け、武器を手にとり、離れたところで見送りました。

 さて、その頃、嫁を死に追いやった監生は、四五人の下男と、十数人の素行の良くない生員を連れ、長江のほとりにいき、狄希陳の座船に向かって、以前彼らから脅し取った四千両の銀子を返せ、返さなければ、いっしょに両院三司に行こうと言いました。最初は穏やかに話していましたが、やがて騒ぎ始めました。さらに、船に向かって大声で罵り、たくさんの人が取り囲み、何度とりなしてもおさまりませんでした。狄希陳はびっくりして顔を出すことができず、童寄姐は腹を立てて篩のように震えました。薛素姐はとても愉快で、こう言いました。

「悪党め。人さまからこんなに銀子を騙しとっていながら、数両を私たちの師匠に贈るときは、けちけちしていたのだね。まったくとんでもないことだよ」

周相公は、人々がますますつけ上がるのを見ますと、言いました。

「おまえたちは無茶苦茶だ。狄さまがおまえたちの銀子を脅し取ったのなら、狄さまが役人をしていたとき、おまえはどうして両院にあの人のことを告訴しなかったのだ。この人は辞職して郷里に帰るというのに、おまえたちは人をつれてきて脅迫をするのか。尋ねるが、大罪を犯していないのなら、どうして四五千両を人に与えたのだ。狄さまはこの船にいらっしゃる。我々は勅命を受けて都に戻るため、お祝いをしているところだ。やってきて罵るとは、どういうことだ」

監生「私は狄経歴に金を返してもらいたいのです。郭老先生とは関係ありません。狄経歴が金を返せるのなら返してください。返そうとしなければ、両院両司が送別をおこなっていますから、不平を訴えますよ」

周相公「おまえたちが不平を訴えても、怖くはないぞ。以前おまえは二百石の穀物を罰として納めさせられたそうだな。今、穀物は、飢饉の救済に備えて蔵に納められている。このことは帳簿にはっきりと書かれている。百両の嫁入り金は、遺族に返したから、遺族の証人もある。おまえはこのことを根に持って、仕返しをする積もりか」

周相公は、一人の男を遣わし、彼にかくかくしかじかするようにと言い含め、彼をさっさと帰らせました。

 監生は、数人のろくでなしの秀才の力を借り、周相公の話を聞こうとせず、ひたすら長江の岸でわめき、船に向かって泥や石を投げ、瓦や煉瓦を放りました。しかし、踏み板がなかったため、船にあがることができませんでした。まもなく、七八人の黒服を着た使者が、前にきて立ち止まり、人々が罵っているのを見ますと、言いました。

「本当にそうなら、刑庁の呉さまがあなたがたを呼んでらっしゃいます。お話しがあれば呉さんにお話しください。ここで略奪をしてはいけません」

一人は監生を、二人は二人の生員の頭を掴まえました。そのほかの者は縄を取りだし、四人の監生の下男に枷を掛けました。さらに、四五人の付き添いの生員がいましたが、形勢が不利なのを見ますと、逃げていってしまいました。しかし、川の脇の砂岸では、かかとの低い靴を履きながらはやく走るわけにはいきませんでした、さらに二人が掴まり、城内に引っ立てられていきました。

 周相公は、郭総兵の手下を遣わしました。手下は郭総兵の書状を持ちながら、言いました。

「監生は、よその家の夫人を奪い、よその家の財産を奪い、正妻を死に追いやりました。狄経歴は、県知事の代理をしていたとき、彼の訴状を受理しました。そして、事情をはっきりと調べますと、飢饉の際の救済に備えるため、二百石の穀物を倉に納める罰を与えました。交盤冊がここにあります。さらに、百両の結納金を、遺族に与えるという判決を下しました。監生は恨みを抱き、たくさんの恥知らずの秀才を連れ、下男をつれ、船にやってきて、略奪を行ったのです」

呉推官は激怒し、八本の快手の札を抜き、監生たちを捕縛し、役所に連行し、審問を行うことにしました。呉刑庁は、自供を審理し、監生に、館駅[9]の、五間の大広間を修築させる罰を与えました。四人の下男は、それぞれ三回の大板打ちにし、養済院の建物を修理させることにしました。四人の秀才は、学校に送り、それぞれ二十回の板打ちにしました。学校は下役に刑庁への返書を与えました。さらに、監生から保証書をとり、狄経歴が途中で盗賊や水害火災にあったら、監生に面倒をみさせることにしました。監生は、今回は、五六百両ほどを払うことになりました。

 郭総兵は、宴席に赴き、戻ってきますと、船を動かし、狄希陳とともに出発しました。素姐は府役所を離れ、船に上がってからというもの、護送される心配も、布袋に入れられて長江に投げ込まれる心配もなくなりましたので、ふたたび安心し、大胆になり、四六時中、狄希陳を苛めようと考えました。しかし船の中は狭く、人の目も多かったため、手を出すすきがありませんでした。彼女は船の感堂[10]に遊びにいくように小京哥を唆し、彼を長江に落とそうとしましたが、人々が用心していたので、悪巧みを実行することができませんでした。周相公は、狄希陳に、晩にはご自分の船で休まれてはいけません、私と同じ床で寝てくださいといい、狄希陳が素姐に殺められるのを防ぎました。狄希陳は運気が好調でしたので、すべて彼の言う通りにしました。素姐は危害を加えることができず、心の中でいらいらしました。

 船が湖広に着きますと、郭総兵、周相公は、長いこと故郷に戻っていませんでしたので、まるまる一か月そこにとどまりました。狄希陳も自分の船でじっとしているということはせず、周相公、郭総兵の二人の家で過ごしました。郭総兵は家での仕事を終え、周相公も仕事を片付けました。郭総兵は大奥さまと家に初めからいた二人の妾、たくさんの下男と女房、小間使いとともに、一隻の官座船を雇い、北京へと赴任しました。

 さらにしばらく一緒に行き、船が山東に入りますと、狄希陳は実家にとどまろうとしました。素姐は、家に入って、楽しいことをしたくてたまりませんでした。しかし、寄姐は都に戻って、彼女の母親と会おうとしました。狄希陳はどうしていいか分かりませんでしたので、周相公と相談しました。

周相公「素姐さまは今までに恨みをつもらせています。あの人は、我々が用心したので、手を出すことができなかったのです。それに、味方もありませんでしたから、びくびくしていたのです。あなたがあの人と一緒に戻られれば、あの人には仲間ができ、あなたには仲間がいなくなってしまいます。用心しなければ、あなたはあの人の餌食になってしまうでしょう。私たちと一緒に、都に行かれた方がいいでしょう。いずれにしても、あなたは、都に家や質屋をお持ちです。弟さんとお母さまも都にいらっしゃるのですから、都で過ごされるのが宜しいでしょう」

 周相公のこの言葉は、素姐にとっては大いに興冷めでしたが、寄姐の心には適っていました。そこで、一緒に都に行くことに決まりました。人々は、素姐は決して一緒に行こうとはせず、必ず故郷に止まるだろうと思いました。ところが、彼女は、一つには狄希陳の恨みをすすいでいなかったため、常に手を下そうとしていたため、二つには前回上京したとき、あちこちで遊ばせてもらえなかったため、とても喜んで従いました。人々は彼女が一緒に行くといいますと、針の筵に座っているような気分になりましたが、面と向かって邪魔するわけにもいかず、彼女のすることに従うしかありませんでした。

 狄希陳は、家族の座船を北に進ませました。そして、自分は陸路を通って故郷に行き、墓参りをしてから、一人で北にいくことに決めました。すると、素姐が言いました。

「息子が墓参りのために故郷に戻るのでしたら、嫁も当然一緒に行くべきです。私もとりあえず上京はせず、一緒にいくことにしましょう」

しかし人々はこう言いました。

「二人がご一緒に帰られる必要はありません。船で見張りをする人がいなくなってしまいますからね。どちらかが行き、どちらかがとどまることにし、家に帰るのは一人ということにしてください」

素姐は心配しました。

「故郷に戻ってから、一人で上京されては大変だ。狄希陳が以前のように、海のように広い都のどこかに隠れたら、探すことはできず、どうしようもなくなってしまう。こいつらとまとまっていった方が、安全だ」

素姐は狄希陳を一人で帰らせるしかありませんでした。彼女はいくら考えても、思い通りにはならなりませんでしたので、ますます恨みに思いました。狄希陳は数人の下男を連れ、小濃袋も一緒に家に戻ろうとしました。狄希陳は明水に着きますと、しばらく家に帰っていませんでしたので、親戚友人と行き来しましたが、このことはくわしくは申し上げません。また、墓参りをして先祖を祭ったことは、ありきたりのことですから、くだくだしく申し上げる必要もございますまい。

 相于廷は、後に兵部に横滑りし、郎中に転任し、長年勤めた後、四川の副使に昇任し、家族を連れて故郷に戻りました。彼は、都にいる調羮母子を世話をする人がだれもいなくなりますし、相大舅、相大妗子も一緒に任地に赴こうとしていましたので、この数年小翅膀が管理していた荘園と、蓄えていたたくさんの食糧を、すべて調羮に引き渡そうとしました。そこで、調羮母子とともに故郷に戻り、調羮は分け与えられた部屋に住みました。彼は相大妗子の面倒もみることにし、薛如兼と巧姐にも世話をしてもらいました。小翅膀はすでに八歳になり、狄希青と名付けられていましたので、先生を呼んで勉強をさせました。狄希陳は悲しくもあり、嬉しくもありました。狄希陳は調羮と相談して、言いました。

「とりあえず都に行きましょう。あの女から逃げるために、住む場所も決めていませんでした。僕が戻り、あの女の落ち着き先を決めたら、僕が身を落ち着ける場所、劉姐と弟が身を落ち着ける場所を決めましょう」

数日後、百十両の銀子を調羮に与え、相棟宇夫婦と相覲皇に別れを告げました。そして、薛如卞兄弟と巧姐にも別れを告げにいきました。

 小濃袋は故郷に戻りますと、素姐が任地でした悪行を、残らず話しました。龍氏は、素姐がこっそり宅門を開き、狄希陳を六百回以上棒打ちにしたことや、熨斗に炭火を盛って狄希陳の服の中に入れたことは少しも話さず、狄希陳が府役所に文書を提出し、知事に素姐を離婚し、故郷へ送還することを請求したこと、素姐が狄希陳を引っ張り、頭突きをくらわせ転げ回ったことを話しました。侯、張の二人の道姑は、狄希陳を訪ねると訴えました。

「贈っていただいた生地、銀子は、城から出たところで、大勢の強盗に全部奪われてしまいました。私たちは素姐さまが戻ってきて私たちに損害を補償してくださるのを待っておりました。ところが、あの方は今家にきてらっしゃいません」

そして、狄希陳にまず半分を弁償するように要求しました。

狄希陳「おまえたちはそのときどうして戻ってきて僕に告げなかったのだ。僕はおまえたちのために賊を捕え、彼らを追及したのに」

侯、張「強盗たちは、物を手にいれますと、私たちが役所に告訴することを恐れ、鞭で私たちを追い立てて船に乗せ、私たちが長江を越えるのを見届けてから、去っていきました。私たちはふたたび長江を渡ってお知らせしようとしましたが、参拝団の人々が待ってくれなかったのです」

狄希陳「僕はいま自分の旅費すらないから、あいつが家にきてから、おまえたちへの補償をさせよう」

狄希陳は急いで船を追い掛けていきました。いつ追い付きましたか。どのようなことが起こり、どのような結末になりましたかは、さらに次回の結末を御覧ください。

 

最終更新日:2010118

醒世姻縁伝

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[1]都督府のこと。全国に置かれ、軍隊を統率し、戦争、討伐を行う。

[2]都指揮司、布政司、按察司。

[3]拝礼用の毛氈。

[4]命令を記した木札。

[5]方巾に同じ。四角い頭巾。

[6]原文「班師振旅」。『書』大禹謨。

[7]五十歳をさす。官職に就き政治を執る年齢とされる。『礼記』内則「五十命為大夫、服官政」。

[8]川に面して造られた楼。

[9]宿場にある旅館。

[10]船の一部と思われるが未詳。

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