第九十四回

薛素姐が万里を旅すること

狄希陳がびっくりして病気になること

 

名にし負ひたる荊門の道は険しくごつごつと

古よりの旅人は荷物を負ひて苦しめり

海に通ずる大江の後にあるのは(たに)の川

雲居にまがふ桟道の下を支ふるものはなし

(なまぐさ)き雨は雲を駆り、悪しき病を流行らせて

蛮地の風は波を立て、江豚(カハイルカ)をぞ押し上ぐる

波は吠えたり瞿塘峡

石は蹲めり灔澦堆[1]

危ふき道を越えたれば、怖きものなどあれあせぬに

夫人の南に行きたれば、あつといふ間に(たま)は消ゆ

 諺に、「朝廷に知り合いがいなければ役人になることはできない」といい、「朝廷に知り合いがいれば役人になることができる」とも申します。役人になろうとするときは、要路におり、短所を隠し、長所を褒め、伝を探し、手紙を送り、推薦を行ってくれる拠り所がなければ、龔遂、黄覇[2]のように循良でも、善政が明らかにされることはなく、たくさんのくだらない人間が推薦を受けても、推薦されず、気骨のない人間がすっかり昇進しても、昇進することはできないものです。同額の給料を貰っていた仲間であっても、ある者はたいへんな出世をし、あなたははるか後ろに取り残され、もたもたするということもあるのです。拠り所さえあれば、あなたがどんなに悪いことをし、人民の骨髄を吸い尽くそうが、人民の穀物を巻き上げようが、残酷な刑具で人民の命を奪おうが、厳格な刑罰で人民を夜逃げさせようが、うまいことを言ってくれる人がありさえすれば、世論などはどうということはありません。守ってくれる人がいさえすれば、朝廷などは怖くはありません。世話をしてくれる後ろ盾があれば、八本足の蟹のように、二つの鋏を立て、ひたすら横に進むことができるのです。彼に会うものは、鋏で挟まれることを恐れ、すぐに遠ざかることでしょう。彼は後ろ盾の太い足を捧げ持ち、同輩を苛め、上司に圧力を掛け、勝手放題に、何でも悪いことをするのです。

 この拠り所の第一は「財力」であり、第二は「権勢」です。「権勢」というものは「財力」によって得るものなのですから、「財力」がなければ、「権勢」も役には立ちません。ですから、後ろ盾には、身近な親戚、最も親しい友人、高い地位にある父兄やおじなどは必要ありません。すべては「財力」によって切り開くことができるのです。面識があろうがあるまいが、官職が高かろうが低かろうが、役所の規則がどうであろうが、贈り物を送りさえすれば、通家侍生の帖子が返ってきて、手紙を出して推薦することを承知してもらえ、目を掛けると言ってもらえるのです。同じ県の人々は、彼を従兄弟と見做し、同じ省の人々は同郷の友人と見做し、外省の人々は年家、故吏[3]と見做します。数両の銀子を払えば、人々は旗を掲げ、太鼓や銅鑼を鳴らし、市場で触れ回ってくれるのです。まして、狄希陳は、相主事の実の表兄で、実のおじも健在でした。彼らはすぐに見付けることができる後ろ盾とは違っていました。呉推官は、相主事が同年で、狄希陳とは同じ「都元帥」だという誼もありましたので、彼のことをとても気に入っていました。刑庁が何かを主張すると、知府もすぐに言葉を合わせ、すぐに、上申書に批語を加えました。さらに、周相公も周到な根回しをし、上官を喜ばせていました。かくして、根拠のない名声は世間に広まりました。成都県の知県が南京戸部主事に昇任しますと、呉推官が先頭に立って、何度も知府に情実を説き、文書を提出し、狄希陳に職務の代行をさせました。狄希陳は役人の星回りが良く、財運も強かったため、糧庁の通判は、どうしても県知事の職を奪うことはできず、県知事の地位は狄希陳のものになりました。

 狄希陳が官印を受け取ったちょうどその頃、十万貫の財産をもつ、ある納粟監生の家では、蜀府でたくさんの禄を食んでいる儀賓[4]の娘呉氏を娶りました。夫婦はずっと仲睦まじく、仲違いをしたことはありませんでした。後に、監生が他人が妾をとっていることを羨みますと、呉氏はその気持ちを察し、監生が口を開く前に、六十両の結納品で、布政司の鄭門子の姉を娶って妾にしました。この妾もなかなか綺麗な女でした。呉氏は嫉妬することもなく、正妻と妾の仲はとても安泰でした。しかし、監生は、満足することを知らず、飯をたくさん食べますと、箸を弄びはじめました。城内の金上舎という者の娘金大姐は、油売りの息子の滑如玉に嫁ぎました。滑家はもともと貧乏人だったのがにわかに金持ちになったものでした。金上舎は彼が金持ちなのを目当てにして、彼と姻戚関係を結びました。金上舎の結納品は分に過ぎたものでしたが、きちんとしたものでした。ところが、五六年の後、滑家は強盗に入られてしまいました。強盗が入ったのは、一つは財産を奪うため、もう一つは報復のためでした。滑如玉父子は捕らえられ、金銀を奪われ、命も助けてはもらえず、父子して殺されてしまいました。姑と嫁は、そのときさいわい塀に隠れていましたので、怪我を負わされたり、辱めを受けたりすることはありませんでした。一族に男はいなくなり、二人のやもめが残されました。年老いた未亡人は、彼女の嫁のために夫をとり、自分の息子にし、家財を管理させ、財産を継がせようとしました。監生は滑家に綺麗な妻と妾がおり、たくさんの財産があるのを見ますと、今のままでも、神仙の八洞のようなありさまだったのに、満足をすることを知らず、金大姐の婿、滑婆の子になろうとしました。そして、呉氏にも鄭氏にも内緒で、話をまとめ、結婚をすることにし、吉日を選びました。ところが、おしゃべりな小者が事情を漏らしたため、呉氏は詳しい事情を知ってしまいました。監生もごまかすことはできませんでした。呉氏は何度も引き留めました。

「三十歳近く、名門の出だというのに、油売りの女房の息子になる積もりなのですか。財産が目当てにされているようですが、あなたは使い切れないほどの財産を持っているではありませんか。女の美しさを目当てにしているようですが、あなたのために娶ってあげた若い妾はとても綺麗ではありませんか。気に入らないのなら、たくさん妾をとっても構いません。しかし、どうして先祖代々の学業を捨て、他人の家に住もうとしたり、自分の妻や妾を捨て、よその家の女を奪おうとしたりするのですか。あの家は父親と息子が役所で殺され、怨霊が退散していないことでしょう。あなたがあの人の家に住み、あの人の奥さんを抱き、あの人の財産を使い、あの人の下男下女を使えば、あの女の父子の魂は強盗を怒らせる勇気はないでしょうから、二人の魂の恨みはあなたに押し寄せてくるでしょう。はやく結婚を辞退してください。絶対にこのようなことをなさってはいけません」

 監生が頭のいい男であれば、呉氏のこの話を聞いて、ぞっとして、思いとどまっていたことでしょう。しかし、呉氏がいくら監生に説教しても、それは牛に向かって琴を弾き、春風を驢馬の耳に吹かすようなものでした。監生は口ではうんと言いながら、心の中では滑家の新郎になろうとしていました。呉氏は、監生に思いとどまる意思がないことに気が付きますと、さらに、言いました。

「どうしても思いとどまらないのなら、私もしつこく引き止めは致しません。家には部屋がたくさんあります。あなたは私の言う通りにすればよし、私の言う通りにされないのであれば、私は縄で首を吊り、あなたの目の前から消え、家が破滅するのをみないですむようにしましょう」

頑固な監生は彼女の忠言を聞きませんでした。そして吉日になりますと、官服に着替え、赤い布飾りをつけ、銀のかんざしを挿し、楽隊の先導で、滑家に行き、結婚式を挙げ、老滑婆を何度もお母さまと呼び、たいへん親しくしました。

 呉氏は、その晩、監生を待っていましたが、帰ってきませんでした。人に様子を探らせますと、監生がすでに滑家の新郎となったことがわかりました。そこで、翌日に戻ってくれば、忠告をしようと考えましたが、六七日たっても、戻ってくるという知らせはありませんでした。夜になりますと、胸に怒りが込み上げてきました。そして、一本の縄を梁に掛け、首を括り、半時もたたぬうちに、冥途へいってしまいました。翌朝、人々はそれに気づきました。実家は、まず成都県に訴状を提出しました

 狄希陳は、訴状を批准しますと、周相公と相談しました。

周相公「このような納粟監生は、家にたくさんの銀子、銅銭をもっています。このような不法なことをし、正妻を死に追いやったのですから、彼がもし贈賄をしなければ、法によって命の償いをさせましょう。彼がどこに逃げていくわけでもないでしょう。これはまたとないチャンスです。彼のたくさんの財産を手に入れるのは、少しずつお金を稼ぐより一万倍ましです。事件を大勢の人にひろめ、監生と金氏母子を捕まえにいかせましょう」

狄希陳は、一つ一つ言われた通りにしました。四人の令状を持った捕り手を遣わし、次々に人を捕縛しました。一方で、地方に小屋掛けを建てさせました。監生は死体を移し、検分を行いました。監生は、自分が金持ちであることを恃んで、人が首を吊ったのは大したことはない、狄希陳は職務を代行している、しがない首領官であるにすぎないと考え、気にも留めませんでした。そして、弱い者苛めの手助けをしている、ろくでなしの生員たちに頼んで、狄希陳が文廟で行香をするときに、一生懸命話しをさせました。

狄希陳「秀才が役所を操作することは、臥碑[5]で禁じられています。人命事件だというのに、裁判官の審理も聞かずに、邪魔をなさるのですね。良家のやもめがあの男に奪われていいはずがないでしょう。他人の数万両の財産があの男のものになっていいはずがないでしょう。正妻があの男に痛打されて死に追いやられていいはずがないでしょう。重大事件なのですから、みなさんはあまり構われないでください」

秀才たちはがっかりして去っていきました。監生は、さらに五十両の銀子を使い、挙人に執り成しをするように頼み、陰陽生[6]に手紙を送るように頼みました。狄希陳はそれを開封しますと、返書を送り、刑具は使わないが、公平に尋問を行い、是非をはっきりさせるといいました。監生はようやく厄介なことになったと気付き、少し焦りました。

 捕り手は人々を揃え、朝に逮捕状を送り、監生の点呼が行われました。彼は儒巾、青い絹の道袍、黒い靴をつけて、悠然と現れました。狄希陳は怒って言いました。

「殺人犯がこのような服をきているとは、法廷を侮辱するものだ」

衣装をはぎ取り、儒巾を取り去りますと、言いました。

「監生であることを考慮し、三十回の板打ちを免じることとする」

下役をそれぞれ十五回板子打ちにしました。監生は、だんだんと恐ろしくなり、捕り手の中で、役所と長いこと気脈を通じている者に頼み、狄希陳と値段を交渉をしました。狄希陳は、最初は承知しませんでした。犯罪は重大で、憎むべきものでしたので、どうしても「良家の婦女を奪い、財産を奪い、正妻を殴り殺した」罪に問おうとしました。監生は焦り、狄希陳に五百両の銀を送ろうといいました。交渉の結果、こっそり二千両を送る、表向きは三百両の罰金とする、さらに郭総兵に一筆書いてもらえば、刑罰を軽くするということを話しました。監生は承知するしかありませんでした。取り次ぎの捕り手は、経歴司の役所に、次々と金を運び込みました。郭総兵には百両、周相公には五十両をおくり、一筆書いてもらいました。経歴司のp隷には、二十両を送り、下男には二十両を送りました。

 上級下級の機関に、しっかりと賄賂を送り、その後で審問が行われますと、呉氏が首を吊ったのが事実で、監生は殴り殺していない、やもめの婿になり、他人の家財産を奪ったことが良くなかったため妻が自殺したということが明らかになり、罰穀二百石に処し、飢饉の救済をさせることになりました。結納金百両を、呉氏の遺族に渡すように命じました。呉氏は、両親はなく、叔父がいるだけで、生活は貧しかったため、狄希陳からこのような判決を得ますと、とても感謝しました。この裁判で、上下の役所へ送られた付け届けは全部で四千両ありました。これらはすべて滑家のものでした。

 狄希陳は着任してからというもの、毎日収入がありましたが、こまごましたものばかりでした。しかし、今回、手に入れた多額の金銭は、買官をした時の、ほぼ半分の額を満たしていました。狄希陳は周相公の妙案通りになったことに感激し、周相公にも五十両のお礼をしました。そして、とても喜びました。しかし、世の中の財産は、簡単には維持できないもので、財産のない方が、かえって安全であることがしばしばあるものです。財産があれば、事件が起こり、あまりいい思いをすることはできないのです。成都の省城に属する大きな県では、どんなに清廉な役人でも、府経歴より十倍もましなのです。狄希陳には二千両以外にも、毎日少しずつお金が入ってきて、ちゃんとした稼ぎが得られるのでした。狄希陳は日がな寄姐と相談し、職務代行が終わったら、きちんとした人に頼み、光禄、上林などの中央官に昇任し、銀子をもって都にいき、質屋を開き、綺麗で大きな家を買って住むことにしました。寄姐は、成都に来てから、成哥という息子を産んでいました。また、彼女は財産をたくさん持ち、満足しておりました。彼女は嫉妬したりすることもなく、狄希陳にあまり小言をいいませんでしたので、狄希陳はあたかも神仙になったようなものでした。

 しかし、人の喜びと悲しみには、必ず限度があるもので、あまり度を過ぎてはいけないものです。喜びが極まれば、必ず悲しみが、楽しみが極まれば、必ず悲しみがやってくるものです。これは循環の道理で、少しも違うことはありません。狄希陳は喜んでいましたが、自分の身に災いの星が入ってこようとは、夢にも気が付きませんでした。

 さて、薛素姐は、淮安から船を追い掛けましたが、追い付くことはできませんでした。彼女は呂祥に騾馬を盗まれ、尼寺に身を寄せました。彼女は善人の韋美に会い、その作男によって、家に送り返してもらうことができましたが、多くの酷い目に遭いました。彼女は胸一杯に怒りを抱き、十五日に家に戻りますと、狄希陳が謀反を企んでいる、と誣告しました。ところが郷約、隣人に、逆の証言をされてしまいました。通りで罵り、怒りを晴らそうとしましたが、宮直の女房の「佘太君」に勢いを挫かれてしまいました。相妗子をひどい目に遭わせることができれば、怒りを鎮めることもできたでしょう。ところが、願いを遂げることができなかったばかりでなく、もう少しで執事の女房に怪我をさせられそうになりました。一斉に押し寄せてきた不幸に、薛老素は、我慢できませんでした。残念なことに、他の人々は、彼女に味方せず、狄希陳の味方になりました。そこで、彼女は夢の中で、狄希陳に復讐をしようと考えました。しかし、七八千里離れたところにいましたので、目の前に呼んでくることはできませんでした。続けてひどい目に遭った後は、人々はみな彼女の能力を見抜きました。狄員外の面子を立てようとしても、狄員外はとっくに死んでいましたし、狄希陳が家にはいませんでしたので、狄希陳の顔に免じて素姐の世話をしようとする者もいませんでした。実家の三人の弟、二人の秀才は、素姐があまりにも物分かりがよくなかったので、交際を絶っていました。小再冬は、さんざん迷惑を掛けられたため、よろずにつけ素姐を避け、出てこようとしませんでした。最も親しい身内は相家でしたが、人々は茄子を買うときでさえも古いのを許すのに[7]、素姐は年老いたおばすらも許そうとはしませんでした。ですから、両隣と、裏表の家々では、彼女が通りで罵るのを我慢しようとしなかったばかりか、家に押し掛けようとしました。役所の小遣い、人夫、郷役、地方は、彼女の以前からの悪行に腹を立てていましたので、少しも容赦しようとはせず、しっかりと対等に渡り合おうとしました[8]。彼女は龍のように凶暴で、虎のように猛々しい女ではありましたが、人々が心を合わせ、彼女をひどい目にあわせますと、一人では持ち堪えることができないと思いました。女一人で家を切り盛りしなければなりませんでしたが、家の切り盛りのし方も知らなかったため、十個の物が入るべきであっても、家には五個も入りませんでした。また、五個の物が出るべきときは、十個以上の物が出ていくのでした。物が入ってくるところには限りがあるのに、あらゆるところからものが出ていくのでした。候、張の二人の師匠のもとには、十人ほどの弟子がおり、たくさんのご飯を食べ、暖かい服を着、銅銭を使い、料理を買い、酒を飲み、一斤の肉を買って食べようとしました。これらの金は、すべて薛素姐が払うことになりました。

 狄員外は生前、あらゆる仕事を進んで行い、田畑はすべて自分で管理していました。それ以外にも金儲けをしていました。そして、一家の収入を、一家の費用としていましたので、余裕がありました。しかし、素姐が家を切り盛りするようになりますと、入ってくるものは昔より少ないのに、たくさんの人への費用を払わなければなりませんでした。諺に「大海は一滴の水も譲らない」と申しますが、なみの量の財産を、彼女はばら蒔くように使いました。きびしく躾けられていたため、実家の弟たちは、家の決まりを守り、彼女が顔を出したり、勝手にぶらぶらしたりするのを承知しませんでした。木綿布を売る店をもってはいましたが、自分たちが使う費用にも足らないものを、素姐の浪費に供することはできませんでした。持ちこたえることができなくなりますと、狄希陳の四川の任地に訪ねていこうとするしかありませんでしたが、たくさんの山や川があり、行くことはできませんでした。淮安へ行くときは黄河で危険な目に遭ったことがありました。行くのをやめようとしましたが、故郷では生活することができなくなり、困ってしまいました。

 侯、張の使う金の三分の二は素姐が出したものでした。素姐は侯、張の二人の引き立てに感激していました。折しも、侯、張は、家の決まりを守らず、夫を尻に敷く、毒蛇のような[9]女たちや、口では仏の教えを説きながら、蛇のような心を持ち、慈悲深そうな振りをし、人を殺しても目を細めることもない男たちを誘い、徒党を組み、銀子、銅銭を集め、普陀山に向かい、武当山に登り、峨嵋山に登り、天下を遍歴しようとしていました。

 素姐は、そのことを聞きますと、とても喜びました。彼女は旅費を集め、衣装を準備し、荷物を纏め、実家に戻って龍氏と相談し、薛三省の息子の小濃袋を連れていこうとしました。龍氏は、道が大変遠かったため、強く引き止め、行かせないようにいいましたが、薛如卞兄弟は、脇から唆しました。

「女は嫁にいったら夫に従うのが、正しい道というものです。夫が役人になったら、妻が任地についていくのは、当然のことです。それなのに、邪魔をしていかせないとは。いくのが道理というものです。小濃袋一人では不十分ですから、今回の旅には、三弟が付き添うべきです」

素姐は、それを聞きますと、とても喜びました。小再冬は言いました。

「私は、昔、県知事に、三十回大板打ちになり、丸三か月床に就いていました。今では傷口が塞がりましたが、曇りの日や雨雪の日には、筋肉や骨が痛みます。もう二度とあの様な目に遭いたくはありません。遠い道を四川まで歩いていけば、姉さんは腹一杯に怒りを抱いてらっしゃいますから、義兄さんを見たら、ただではおかず、必ず喧嘩をするでしょう。義兄さんは以前はうだつが上がらず、故郷ではうちから文句を言われることを恐れ、万事我慢していました。しかし、あの人は、ここ数年、役人をし、大勢の人々に取り囲まれています。あの人は、一声叫べば百人がはいと答える地位におり、人からちやほやされることには慣れています。姉さんが今までのようにひどい目に遭わせようとしても、あの人はおとなしくはしないでしょう。実家の人々は離れたところにいます。『遠くにある水では、近くの火事は救えない』ものです。姉さんが義兄さんを苛め、義兄さんに姉さんを怒らせる勇気がない場合は、あの人は私をつかまえて鬱憤晴らしをするでしょう。あの人の手下には、書吏、門子、快手、p隷などあらゆる種類の人がいます。義弟の私を板子打ちにするのも、簡単なことでしょう。天は高く皇帝さまからも遠い場所では、役人に訴えることもできません。あの人は、姉さんや私を、毒薬で殺したり、縄で締め殺したりすることだってあるかもしれませんよ。そして、二つの棺を買って納棺し、あの人の心掛けがよければ、故郷に持ち帰り、病気になって死んだということでしょう。うちの女たちには、私たちのために腹を立ててくれる人はいないでしょう。あの人の心掛けがよくなければ、棺を担ぎ出し、無縁墓を探し、穴を掘って埋めるか、薪を買い、二つの棺を一纏めにして、焼いて骨にし、撒いてしまい、魂は水を飲む場所がなくなってしまうことでしょう。私の考えでは、姉さんは、行かれるべきではありません。私の言うことに従われないのなら、姉さんは、遠い道を一人で行かれてください。私は行くわけには参りません」

龍氏は罵りました。

「盗賊に首を切られてしまえ。強盗に切り刻まれてしまえ。ろくな死に方をしなけりゃいいさ。若死にしてしまえ。お前は行かせようとすると、すぐに逃げてしまう。女房に未練があり、外に出て行くのが嫌だというならまだいいが、こんな縁起の悪いことを抜かすなんて。あの小珍哥は狼の心臓、肝臓、豹の肝を食べていたが、この娘はそんなことはしていないよ。狄希陳が百年役人をしても戻ってこないとでもいうのかい」

再冬「あの人は、帰ってくるときは帰ってきますから、恐れることなどありません」

龍氏「私があの人に素姐のことをたずねたら、あの人は何と言うだろうね」

再冬「あの人は、もちろん、姉さんが病気になって死んだというでしょう」

龍氏「あの人に死体を返してくれというのは可能かい」

再冬「あの人は言うでしょう。『すぐ近くではないのですよ。生きた人でも歩くのが難しいのに、二つの棺を持ってこれるはずがありません。もう埋めてしまいました』」

龍氏「棺をもってくるように訴えてやる」

再冬「役人たちは、誰も不正を正そうとはしないものです。生きた人間だって構ってくれないのに、死んだ人のために審理をしてくれるはずがありません。郷紳だって相手にしないのに、女房のために力を尽くしたりはしません。私は行かないことに決めています。姉さんが私をお咎めになっても結構です」

素姐「おまえがいったって有り難いと思わないよ。おまえにいってくれなどとは言っていないよ。良ければよし、良くなければ、小濃袋すらいかせないよ。私が一人で行けば気楽なものだ。私は目は欠けていて鼻もないから、人に拐かされることもないだろうからね」

再冬「お姉さまから大赦を受けたような気分です」

いそいで揖をしますと、言いました。

「お姉さまに感謝致します」

素姐「揖をしてくれてありがとうよ。叩頭はどれだけしてくれるんだい」

再冬が行こうとしなかったため、小濃袋が素姐に従って、遠くへ行くことになりました。素姐は、荷物を纏めるため、家に戻りました。

 薛三省の女房は、何度も遮って、言いました。

「人には貴賎がありますが、息子を可愛がる心は、誰でも同じです。三哥が怖がって行こうとしないからといって、私の息子を行かせるのですか。私の息子が幾つだとおっしゃるのです。十四五歳の子供ですよ。それなのに、あちこち旅をさせるなんて。私が幾人の子供を産んだとおっしゃるのです。奴隷になり、黒い汗をだらだら流して、産んだ子供はこの子だけですよ。私は死んでも、あの子を行かせるわけにはいきません」

龍氏と争いました。薛如卞兄弟二人は、出てきて係わり合いになろうとしませんでした。龍氏は罵りました。

「ええい。お前たち二人は、足が折れて、出てこれないのかい。喉に炭疽ができて、話すことができなくなったのかい。嫁がこんなに私に盾突いているのを聞いても、顔も出さず、蚊の泣くほどの声も出すことができないとはね。それでも私が生んだ子供なのかい」

薛如卞「この人は息子が可愛いのです。十四五歳の子供が母の下を初めて離れ、遠くへいくとなれば、母親がどうして焦らないでいられましょう。私たちがゆっくり姉さんを教育し、じっくり考えさせ、狄希陳さんと相談すれば、姉さんは改心し、罵り合うはずがありませんよ」

 薛三省の女房は、ようやく口を閉じ、龍氏も話すのをやめました。そして、薛三省と相談しました。

薛三省「理屈からいえば、母親から離れたことがない子供を、遠くへ行かせるのは、本当に可愛そうなことだ。しかし、おまえはいま薛さまのご飯を食べ、薛さまの服を着ているのだから、四川に行かせることは言うまでもなく、水に潜ったり、火を飛び越えることを命じられても文句は言えないぞ。それに、行く人も多く、あの子一人だけではないから、何も怖いことはない。三哥は、三嫂に未練があり、行くのが辛いものだから、素姐さまを脅かしていたのだ。あの希陳さまだって行ったのだ。あの人は素姐さまがきたことを聞いたら、びっくりして死んでしまうかも知れない人だぞ。邪魔をしてはいかん。この子を一緒に行かせるのだ。子供たちも、小さいときから、広い世間を見、知識を増やした方がいい」

女房は、その話を聞きますと、ようやく承知しました。さらに、小濃袋自身も、行きたいと言いましたので、一緒に遠くへ行き、景色を見ることにしました。龍氏、素姐は、小濃袋のために、衣装を揃えてやりました。

 数日後、素姐は、小濃袋を連れ、侯、張の二人の道姑に従い、同じ参拝団の男女とともに、出発しました。途中、小濃袋は、今まで通り、素姐のことをおばさんと呼び、素姐は、濃袋のことを甥と言い、寝るときは同じ部屋、食事のときは、同じテーブルを用いました。途中、廟があれば、中に入って焼香をし、景勝地があれば、かならず観光をし、酒があれば飲み、花があれば観賞しました。侯、張二人の費用は、三分の二は素姐が出したものでした。素姐は侯、張二人の引率に感謝し、侯、張二人は、素姐の世話に感謝し、お互いに打ち解けました。淮安に着きますと、素姐は、侯、張二人の師匠に頼み、三人連れ立って、城内に入り、まず昔泊まった尼寺に行き、尼を訪ねて会い、大変親しげにしました。素姐も、きちんとした贈り物を送り、尼も引き止めて精進料理を食べさせました。そして、素姐たち三人に付き従い、韋美の家に行きました。韋美はちょうど家におりました。彼は、老尼に会ってから、素姐に会いますと、驚いたり喜んだりしました。そして、素姐があちこちに参拝をしながら、任地に行くことを知りました。素姐は韋美にたくさんの土産を贈り、昔送り返してくれたことに、深く感謝しました。韋美は、贈り物を受け取りますと、妻に酒を準備させ、素姐をもてなしました。韋美の女房は、素姐の二つの真っ黒な鼻の穴を見るのが恐かったため、顔を上げようとも、話をしようともしませんでした。素姐は急いで酒とご飯を食べおえますと、別れを告げ、船に帰りました。韋美は、たくさんの干し野菜、豆豉、瓜の醤油漬け、塩漬けの竹の子、珍珠酒[10]、六安茶[11]の類いを準備し、人に担がせたり、自ら船に運んだりしました。まずは「思いがけない出会い」を喜び、「他郷で友人と会」ったため、未練たっぷりで離れることができませんでした。何度も素姐に言い含め、旅路ではとにかく気をつけるようにと言いました。さらに、侯、張の二人に、あれこれ面倒をみるように頼みました。また、後日素姐が戻ってくるときは、また会いにくるように、約束を破るのは許さないといいました。素姐は、これらの参拝客とともに、遠い道を歩き、たくさんの山河を越え、景色を眺めました。普通のことはもちろん多く、奇妙なことも少なくはありませんでしたが、これらのことはお書き致しません。

 さて、狄希陳は、成都の県庁で、職務の代行をしました。成都は遠隔の地でした。部で新しい役人が選任されたときも、彼らは一か月たってから証書を受け取って赴任しました。彼らは、故郷でぶらぶら、旅路でぐずぐずしました。成都は一日で着任できる地ではなく、どんなに早くても十か月の時間が掛かりました。狄希陳は、寄姐以下の家族を、すべて県庁に迎えました。そして、毎日三梆に役所に出、排衙[12]を行い、席に着き、告示を出し、原稿を見、書き判をしました。黒ずくめの六房、凶暴な捕り手、綺麗な門番、p隷たちは、がやがやと、押し合いへし合いしながら丹墀にやってきました。府経歴は、八品の官でしたから、鼈甲の明角[13]、箬葉魚骨[14]の腰帯を結ぶべきでした。ところが、彼は、自分はもともと中書だったのが降格されたのだから、もとの服である鸂鶒の錦繍、素板の銀帯、大雲各色[15]の円領を着なければならないと言いました。骨花明轎[16]に乗り、天辺に銀の飾りのついた三檐翠藍の紬傘をはり、成都県の先導の儀仗をつけ、意気軒昂たる有様でした。彼は県庁の職務を長く代行しますと、自分が経歴であることを忘れ、本当の知県になったような気分になりました。また、自分が納粟監生であることを忘れ、三甲[17]の進士だと考えました。格好をつける様は、まことに嫌らしいものでした。彼は五日間中央官をしただけだったのですが、人々も彼をどうすることもできませんでした。

 狄希陳が得意になっているちょうどその頃、素姐は南海観音[18]にお参りし、武当[19]真武に参拝し、峨嵋[20]普賢に登り、ゆっくりと、成都にやってきました。彼女は侯、張の考えに従い、府城の門の外に宿屋を探してとまりました。そして、まず小濃袋を役所に行かせて説明し、人夫をよこさせ、轎を担がせたり、馬を引かせたりしようと考えました。そして、儀仗が並ぶ中を、使者の出迎えで役所に入り、体裁を保とうと考えました。

素姐「私は不意打ちをしようと思っています。何も報せずに役所に入れば、あいつは避ける暇がないでしょうから、復讐をしてやることができます」

 素姐が考えを決めてしまいますと、他の人々も、彼女を引き止めることはできず、彼女の好きなようにさせるしかありませんでした。素姐は一人の男を雇い、荷物を担がせ、二人がきの竹轎を雇い、中に腰掛けました。小濃袋は、轎を引き、付き従いました。素姐は、狄希陳の家族が成都県庁にいることを聞きますと、轎を担がせ、県に入りました。すると、表門を守っていたp隷たちが集まってきました。彼らは遮り、詰問しましたが、ぺちゃくちゃと、四川の方言を喋られても、素姐、小濃袋は、少しも理解できませんでした。素姐、小濃袋が山東繍江の自慢話を始めますと、四川のp隷たちは、少しも理解できませんでした。二人の轎かきは、言いました。

「知事さまのご夫人が、山東繍江県から来られました。一緒に来た方々は、船にいらっしゃいます。船は、川のほとりに、泊まっています」

p隷は、儀門を開け、轎を担ぎこみますと、役所に走りこみ、急いで拍子木を鳴らし、報告しました。

「山東済南府繍江県明水村から、奥さまが来られました。轎が後堂に着いています」

狄希陳は、それを聞かないときは何ともありませんでしたが、言葉が耳に入りますと、魂が体からすっかり離れてしまいました。食事を終え、晩の法廷に出ようとしますと、抱かれていた小成哥が、狄希陳目掛けて走ってきました。狄希陳は、小成哥を懐に受け止め、あやして遊んでいましたが、故郷から奥さまが来たことを聞きますと、目を上に向け、手をだらりとさせ、小成哥を地面に落とし、脇に倒れてしまいました。そして、口から涎、ズボンの中に小便を垂らし、気を失ってしまいました。役所の中は、大騒ぎとなりました。

 素姐は、役所の外で、鍵がはこばれ、門が開けられるのを待っていましたが、役所の中からは騒ぐ声がするだけで、鍵は送られてきませんでした。そこで、大声で罵りますと、石を抱きかかえ、自分で門を壊してしまいました。門を開け、中に入りますと、人々が狄希陳を囲んであたふたしており、はやく名医を呼んで救ってやれと叫んでいました。素姐は来たばかりでしたが、狄希陳の病気を見ても、まったくかわいそうとは思わず、凶暴に振る舞いました。寄姐は、普段は乱暴な振る舞いをしていましたが、このときは肝を冷やしました。下男の女房、小間使い、乳母たちはびっくりして顔色を失い、篩のように震えました。『声を出すだけで人の魂を奪い、山が揺れ動く』とは、まさにこのことでした。医者はいつ来たのでしょうか。狄希陳は助かったのでしょうか。その生死やいかに。素姐がどのような施しをし、寄姐がどのようにもてなしましたか。とりあえず次回の結末を御覧ください。

 

最終更新日:2010118

醒世姻縁伝

中国文学

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[1]瞿塘峡、灔澦堆は、ともに四川省奉節県の東にある長江の難所。灔澦堆は、冬季は水面から二十余丈の高さまで突出するが、夏季は水中に没し、しばしば船を座礁させるという。また、この頃は水量が多いため、瞿塘峡は急流となっており、その意味でも二重に危険である。古来「灔澦堆が馬ほどの大きさになると、瞿塘峡を下ることはできない(灔澦大如馬、瞿塘不可下)」と言われた。五代韋荘『峡程記』「灔澦堆乃積石所成、江心突兀而出、『水経』所載、白帝城西有孤石、冬月石出二十余丈、夏初没、世俗相伝、灔澦大如象、瞿塘不敢上。灔澦大如馬、瞿塘不可下。灔澦大如牛、瞿塘不可留。灔澦大如股、瞿塘不可触。是也」。

[2]龔遂、黄覇ともに第十二回の注を参照。

[3]元部下。

[4]明代、親王、群王の部下をいった。

[5]明の洪武二年、国子監の明倫堂にたてられた碑。生員がしてはならない事項十二条を定めてある。

[6]官庁の属官として占卜などをおこなう陰陽師。

[7]原文「人家買茄子還要饒老」。義未詳。

[8]原文「丁一卯二的派他平出」。「丁一卯二」は「しっかりと」の意。「派他平出」は義未詳。とりあえず上のように訳す。

[9]原文「草上跳」。「草上飛」は呉語で毒蛇の意という。とりあえず、この意味に訳しておく。応鍾『甬言稽詁』釈虫魚「甬有毒蛇、名草上飛者」。

[10]元宋伯仁『酒小史』に「潞州珍珠紅」なる酒の名をあげる。これのことか。

[11]安徽省六安に産する茶。許次[心千]『茶疏』「江南地暖宜茶、大江以北、則称六安、然六安乃其郡名、其実産霍山県之大蜀山也」。

[12]役所の長官が登庁するとき、儀仗、属官が左右に並ぶこと。

[13]獣角を薄片にし、光りが透けるようにしたもの。装飾品、灯りの覆いなどに用いた。明王世貞『觚不觚録』「若三品所繋、則多金鑲雕花銀母、象牙、明角沈檀帯」。清富察郭崇『燕京歳時記』灯節「各色灯綵多以紗絹、玻璃及明角灯為之、並絵画古今故事、以資玩賞」。

[14]素材の一種と思われるが未詳。

[15]色彩の一種と思われるが未詳。

[16]轎の一種と思われるが未詳。

[17]科挙の最終合格者である進士は、その成績によって、一甲、二甲、三甲の三つにランクわけされる。

[18]峨嵋山に普賢菩薩を祀った寺観があるものと思われるが未詳。

[19]武当山のこと。太和山とも。湖北省均県西南にある道教の聖地。

[20]峨嵋山のこと。四川省峨嵋県の西南にある山。

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