第九十三回

晁孝子夫婦が香を焚いて修行をすること

嶧山の神が三回現れること

 

修行のために家を離れることはなし

心が正しければよし

粟を植うれば粟ができ

瓜を植うれば瓜が生ふ

龐老龐婆は鶴に乗り

黄公黄母は龍沙なり[1]

見よや家にて成仏し

見るは嶧山五雲の車

 晁梁は三年間の墓守りを終えますと、墓で喪明けの法事を行い、弔問にきた親戚友人に挨拶をし、県知事や学校の先生に会いました。墓には墓標、誥命碑、華表、牌房、供物机、香机を置きました。さらに、三四千株の松柏を植え、身分相応の、石人や冥器を置きました。彼は墓に三年とどまり、城内に入りませんでしたが、息子の晁冠は、しょせんは子供で、家事を切り盛りすることができず、いろいろと問題がおこっていましたので、あらためてすべてを切り盛りしなければなりませんでした。

 妾の沈春鶯は、この時すでに六十五歳、姜氏も五十近くでしたが、どちらも家の切り盛りの仕方をわきまえた人でした。表では、息子の晁冠が家を支えていました。晁無晏の息子の小l哥は、名を晁中相といいました。彼は晁夫人に育てられ、勉強をして学校に入り、妻を娶って子を生んでいました。そして、同じ家で同じご飯を食べ、晁冠の援助者となっていました。そこで、晁梁は家のことを心配する必要はない、通州の香岩寺にいって胡無翳とともに修行し、梁片雲の死体を埋葬しようと考え、吉日を選び、道衣を作り、通州へ向けて出発しようとしました。

 妻の姜氏が勧めました。

「あなたはちょっと喪に服しただけですし、進士に合格してご両親の名を揚げることができたわけでもないのに、ご両親から受けた身体髪膚を棄て、和尚、道士になるおつもりですか。ご両親は亡くなったとはいえ、お墓はまだ残っています。ご両親のお墓も見ずにいってしまわれるのですか。晁冠が大人になれば、祭祀をしてくれるとおっしゃるのでしょうが、しょせんはあなたの息子です。出家して修行をしにいかれれば、あなたは息子が家にいるということになりますが、ご両親には息子がいなくなってしまいます。あなたが読まれている本に『墨を逃れれば必ず楊に帰し、楊を逃れれば必ず儒に帰す』[2]という言葉があることを聞いたことがあります。あなたは孔孟の書を読んでいます。あなたは孔孟の弟子で、孔孟はあなたの先生です。四五十年間先生に就いていながら、彼らに背き、神仏を師とするのもあなたのよくないところです。胡師傅はここ数年来、毎年様子を見にこられました。あなたは、昔はお母さまがご存命でしたから、遠くへ行くことはできませんでした。しかし、今ではお母さまは亡くなりました。人との付き合いを重んじるのは礼儀ですから、あの人に会いにいかれるべきです。礼物をととのえ、銀子、銅銭をもち、船を雇い、水路であの人の所へ行かれてください。一つには、あの人が毎年訪ねてきてくれたことに感謝するため、二つには状況がどのようなものか見、梁和尚を埋葬し、あなたの前世からの仕事を成し遂げるためです。和尚や道士になるだなどとおっしゃらないでください。お母さまが生前なさっていたことを、一つ一つ最後まで実行し、絶やすことのないようにすれば、修行をするより百倍優れているというものです。どうしても仏門に入りたいなら、家で修行をすることもできます。ご両親の墓守りをなさる場所を拡げ、小さな庵を建て、毎日中で香を焚き、修行をすれば、ご両親を守ることも、自分が修行することもできて、一挙両得ではありませんか。私もあの荘園に小さな寺を建てます。私は私、あなたはあなたで修行をし、お互いに尊敬しあうのです[3]。家事は私たちが切り盛りする必要はありません。すべて小全哥夫婦に任せましょう。墓のある荘園は、私たちの生活のために残し、あなたは引退をし、生涯をおえるのです。私の考えは以上のようなものですが、あなたはどう思われますか。」

晁梁「胡無翳の話を何度もきき、僕は心が晴れ晴れしたのだ。真夜中になるたびに、僕の前世のことを、一つ一つ思い出すことができる。しかし、髪梳きと食事の後になると、だんだんと記憶がぼんやりしてしまう。だから『お母さまのご恩に報いた以上、僕は正果を成就し、前世の僕の遺骸を埋葬しなければならない』といったのだ。お前の先ほどの話は、とても筋が通っていた。僕には息子がいるから、家事を託して、出家することができる。しかし、僕が出家してしまえば、両親には息子がいなくなってしまう。この話しはとても筋が通っている。僕が墓で修行をし、父母の墳墓を守り、お前も香を焚いて修行をすることができれば、さらにいい。お前の言うとおり、これからとりあえず通州の香岩寺にいき、胡無翳にあってお礼を言うことにしよう。そして、しばらく滞在し、梁片雲の遺骸を埋葬し、戻ってきてから庵を建てることについて相談することにしよう」

そこで、荷物と胡無翳に送る礼物を準備し、数百両の銀子をもち、料理人の呉友良、下男の晁鸞、晁住の息子の晁随、小者の館童をつれ、一隻の三等の民座船を雇い、主従四人で、通州に向けて出発しました。

 その頃、運河は水が少なく、都から下る空の糧船で込み合っていました。一か月余り旅をして、通州に着きました。晁梁は五十近くまで、毎日母親に付き添い、東昌に歳試を受けにいくときや、省城へ郷試を受けにいくときとき以外は、ほかの土地へはすこしも行きませんでしたので、これが最初の遠出でした。船が通州河につきますと、まず晁鸞に香岩寺を探させました。晁鸞は、胡無翳に会い、晁梁がすでに到着し、船を運河に止めているといいました。胡無翳はとても喜び、晩に梁片雲が遠い所から寺に戻ってきた夢を見たといいました。晁鸞は胡無翳に拝礼をし、土産を贈りました。昼になりますと、晁梁がやってきましたので、大勢の人を指揮して荷物を運びこみました。その中に、栗色をした松江の綿縮みがありました。晁梁は、胡無翳がやってきたのを見ますと、人に命じて踏み板を置かせ、岸で出迎え、手を引いて船から降ろし、とても喜びました。そして、人が荷物を岸に運び、発送するのを見届けますと、晁梁とともに、寺に戻りました。船頭には、とりあえず一晩休むように命じ、翌日、寺でご飯を準備して彼らを労い、船賃を払いました。

 晁梁は、寺に入って休みますと、髪梳き、洗顔をして服を着替えました。胡無翳は彼を正殿に連れていき、仏を拝ませ、さまざまな配殿と伽藍、韋駄の前に連れていき、香を摘ませました。さらに、長老の御影の前にいき、拝ませました。晁梁は方丈に入りますと、胡無翳に挨拶をしました。下男の晁鸞が準備した礼物を取りだしましたが、それは改機の栗色絨布[4]でした。胡無翳はとても驚きました。晁梁はしばらく考え、寺の回廊、建物、菜園、広間と彼が住んでいた禅房、寝床、炕を、しっかり覚えていました。胡無翳は、梁片雲の住まいを、きれいに掃除し、晁梁に住むように言いました。晁梁は、自分が前世で山墻[5]に、晁夫人の誕生日を書いたことを思いだしましたが、じっと見ても見えませんでした。実は、胡無翳は晁梁が梁片雲の生まれ変わりだということに気が付きますと、毎年、梁雲が座化した命日に、壁紙を貼り、床や炕を修理し、帳を換え、絨毯を敷いていたのでした。そのため、書かれていた晁夫人の誕生日は、壁紙の下になってしまっていたのでした。後に、晁梁がたくさんの紙を剥がしますと、昔の文字がはっきりと現れましたが、筆跡は、晁梁のものとそっくりでした。

 晁梁は寺にきて半月たっても、まだ落ち着きませんでした。梁片雲の遺骸が安置されている塔は、太后の命によって建てられたものでしたのでしたので、埋葬するときには、太后に知らせなければ、手を付けることができませんでした。梁片雲の遺骸は、五十年近くたっているのに、少しも臭気がなかったのですが、晁梁が寺にきた次の日に、龕の前にいってみますと、臭気を発していました。臭いは日一日と激しくなり、寺中の僧侶たちはみな鼻を覆って通り過ぎました。人々は梁片雲が、晁梁にはやく埋葬をするように促しているのだということを知りました。

 香岩寺は長老が円寂を遂げた日から、一番弟子、法名は無辺が、住職になっていました。この無辺は、財産が多く、体が大きいのをいいことに、廠衛の、身分の高い人々と交わり、財産と権勢をもち、女色を貪り、人を殺しても瞬きすらしないような魔王でした。河原にいる四五十人の娼婦たちは、みんなかれの手のついた者たちでした。彼は女たちを寺に迎え入れたり、自ら娼家に赴いたりしました。席上では妓女を侍らせ、生の葱やにんにく、豚肉や牛肉を食べました。ところが悪いことはあまりするべきではありませんし、体が強くてもそれに任せてあまり無理なことをするべきではないものです。女たちと長いこと一緒にいますと、無辺は首がなくなることはありませんでしたが、骨髄が枯れてしまい、閻魔さまのもとにいってしまいました。そこで、二番弟子の誠庵が一番弟子の職を引き継ぎ、住職になりました。

 誠庵は職を受け継ぎましたが、横根が消え、天泡瘡ができてしまいました。彼は恥ずかしい病気でしたので医者に掛かろうとせず、一生懸命隠そうとしました。そして、軽粉[6]をつけ、出来物を隠していました。すると、数か月も経たないうちに、梅毒を発病しました。とてもおかしなことに、顔だけが蝕まれました。出来物はさらに悪くなり、彼らがよむ『心経』の予言通りに、まず目がなくなり、次に鼻がなくなり、さらに舌がなくなり、まもなく体が駄目になるということになってしまいました[7]。体が損なわれれば、耳や意識もなくなってしまい、あっという間に二番弟子も離恨天にいってしまいました。

 三番目の弟子は、法名を古松といいました。彼はすっきりした顔をしていて、年は二十四五歳といったところ、文章が分かり、姜立綱[8]の楷書を書き、趙孟頫の風格がありました。二人の師兄は色魔でしたが、彼は「色欲を断つことができないのなら、和尚になるべきではない。和尚をして生きている以上、戒律を守らなければならない、このような二股を掛けた仕事をするわけにはいかない」といっていました。

 二人の師匠、兄弟子が女色を貪って死にますと、古松は長老となりました。彼は決して女郎買いをしようとしませんでしたが、色気がありましたので、女色を断つことはできませんでした。彼は自分が蓄えた財産、ふたりの師兄から分け与えられた財産を荷物に纏めますと、お釈迦さま、羅漢さまに別れを告げ、韋駄に報告を、寺の土地神に拱手をし、大勢の仲間に別れを告げ、公然と旅装を整え、原籍地の固安[9]に帰ってしまいました。そして、髪をたくわえ、二人の女房を娶り、数頃の肥沃な土地を買いますと、県の戸房の書吏になり、伽藍を出、如来の掌中から離れてしまいました。

 寺の住職と長老の地位は、何の争いもなく、胡無翳のところに回ってきました。胡無翳は、数年間にわたって乱れていた寺の綱紀を引き締めることにし、まずは自らの五蘊を空にしました。すると、人々も六根が清らかになり、寺は、今まで通り、不二の法門[10]となりました。昔、梁和尚のために龕を建てた皇太后は、とうに亡くなっていましたので、胡無翳が上申書を提出しますと、埋葬が許可され、もとの規模にのっとって、遺骸を置く龕が準備されました。煉瓦の塔を壊してみますと、梁片雲の遺骸は、色が美しく、目は澄んでおり、体は柔らかく、衣服も腐っていませんでした。そして、まったく臭気はなく、とても良い香りがしていました。晁梁は、人々とともに、遺骸を棺に担ぎ入れ、地面に入れ、七層の宝塔を建て、法事を行いました。

 晁梁は、香岩寺で、二か月ほどを過ごしました。胡無翳は、彼が剃髪、出家する気がないのを見ますと、考えを変えさせ、教化をしました。晁梁は、姜氏の言葉を、はっきりと胡無翳に報告しました。厳しく、正しく、筋の通ったことを話せば、人々も異議を唱えることはできず、彼に従うしかなありませんでした。

 晁梁は、さらに半月とどまりますと、胡無翳に別れを告げ、故郷に戻ることにしました。そして、故郷に戻り、自分で庵を建て、来年正月の元宵節過ぎに、ふたたび寺に戻り、胡無翳の代わりに、寺の番をする、と約束しました。胡無翳は廬、鳳、淮、揚、蘇、松、常、鎮、南京、閩、浙[11]などの場所に、二年遊覧することしました。時期を決めますと、胡無翳は、晁梁に、約束を破らぬよう、何度も頼みました。晁梁は、余った銀子がまだ三百両以上ありましたので、残して胡無翳に使わせようとしました。

胡無翳「この寺の食い扶持は、使い切ることができないほどあります。余分にお持ちでも、ほかにお金を頂く必要はございません」

晁梁は言いました。

「使わなくても、ここに置いていってください。来年くるとき、荷物が重くならなくてすみますから」

胡無翳は、ようやく部屋に入りました。胡無翳は、船を雇い、一人で晁梁を家に送り、晁梁夫婦に、庵を造るようにと指示しました。

 晁梁は、家につきますと、運河の波止場に住んでいましたので、材木をすぐに買いととのえました。金がある人にとって、物を買うことは簡単なことでした。今まで人から搾取したことはありませんでしたので、人夫や大工を雇い集めると言えば、「人々が招かなくてもやって来る」[12]ありさまでした。わずか三か月で、二か所の庵ができあがりました。庵はあまり壮麗ではありませんでしたが、あまり田舎臭いものでもありませんでした。規模は小さなものでしたが、胡無翳は長いこと禅寺にいましたし、蘇州の人でしたので、何事も手慣れて、きちんとしていました。修行をするのに大吉の日を選びますと、胡無翳は、彼ら夫婦を庵に入れました。その後で、晁梁に別れを告げ、ふたたび通州の本寺に戻りました。

 晁梁は、自分の庵を南無庵、妻が住んでいる庵を信女庵と名付け、それぞれ苦行をしました。春鶯も、しばしば信女庵の中で、念仏を唱えたり、お経をあげたりしました。それからというもの、晁梁夫婦は、城内には入らず、親戚友人の冠婚葬祭のときは、すべて晁冠夫婦が出かけました。それからというもの、生臭物は断ち、長いこと精進物を食べました。夫婦でしばしば会いもしましたが、まるで賓客同士のようでした。さらに、人を選び、雍山荘に行かせ、準備をさせました。雍山荘の執事呉克肖は、昔の執事呉学顔の息子でした。呉克肖はくそ真面目で、主人に仕えるさまは、彼の父親にそっくりでしたので、呉学顔が老衰で死にますと、彼に父の職を継がせ、荘園を管理させていました。今回、彼を墓に呼び、年貢の管理をさせ、晁梁夫婦が修行をするための費用にすることにしました。さらに、彼に常平倉の米の売買を管理させました。かくして、晁夫人の数十年の善行の果報が断たれることはありませんでした。あらゆることをきちんと整えますと、瞬く間に十二月は終わり、春になりました。一鶏、二犬、三羊、四猪、五馬、六牛、七人、八穀[13]の吉日になり、元宵節が終わりますと、晁梁は、十九日の吉時を選び、生母の春鶯、妻の姜氏に別れを告げ、ふたたびお付きの下男たちを連れ、以前通った陸路で通州に行き、約束を果たすことにしました。

 晁梁が香岩寺に行き、胡無翳に会いますと、胡無翳は、とても喜びました。三日後、胡無翳は、錫杖、衣鉢、棕帽、布団、毎日唱えているお経を準備し、小坊主を連れ、寺の大事なものと、晁夫人が常平倉に現在蓄えてある食糧を、すべて晁梁に渡し、管理させました。さらに、寺中の僧侶に、晁梁の教えを聞くように命じ、寺が乱れないようにしました。晁梁は胡無翳に、一年したら必ず寺に戻ると何度も約束をしていました。一年のうち、清明、中元の時期に、晁梁は故郷に戻り、墓の掃除をしようとしました。十月には、常平倉の穀物の出し入れをする必要がありましたので、帰るわけにはいきませんでした。約束をし、胡無翳が船で帰るのを自ら送ったこと、晁梁が香岩寺で胡無翳のために住職をしたことは、あまり大切なことではありませんから、省略致します。

 さて、武城県の士民は、四年前から、晁夫人のために、祠堂を造りましたが、その寺の立派さは、お話しする必要はございますまい。晁夫人が死んだ後、嶧山聖母になりますと、善男信女は、普段から、晁夫人によくされていましたので、みんなで参拝団を作り、嶧山に行き、晁夫人にお参りしようとしました。毎年三月十五日、晁夫人が亡くなった日にお参りをすることにしました。お参りの仕方は、泰山へのお参りの時と、あまり違いませんでした。参拝団には、男もいれば女もおり、七八十人を下りませんでした。三月六日に、祠堂で、線香を燃やし、出発しました。三月十三日、鄒県にとどまりました。十四日、四鼓に起きますと、人々は、嶧山に向かって出発しました。宿屋から五六里しか離れていない所にさしかかりますと、後ろで楽器が喧しく鳴りました。振り返って見てみますと、提灯の光は天を照らし、明るさはまるで昼間のよう、旗のぼりは美しく、羽蓋がひらひらとしていました。並んでいるのは、すべて王の従者たちでした。彼らはだんだんと追いついてきました。先払いは、人々に、道を開けるように怒鳴っていました。参拝客たちは、魯王が祭祀を行うために、外出されたのだと思い、道の傍らにじっと立ち、轎が通り過ぎるのを見ていました。従者たちはすっかり通り過ぎていきました。彼らは、金の鎧、兜を着けた神将たちで、馬に乗り、行列をなしていました。武将たちの後ろには、さらに高い冠と広い帯をつけた文官がたくさんおり、笏を手に執り、馬に乗り、先導をしていました。さらに、たくさんの女官がおり、それぞれ手巾、帽子入れ[14]、洗面器、化粧道具などを手に持ち、馬に乗って進んでいました。後ろには、真紅の金箔の帳の棕輦[15]、篭の前には、柄の曲がった紅羅の傘、両側には、四五対の、紅羅の団扇があり、轎の後ろには、馬に乗った従者が大勢いました。参拝者たちは、魯王の妃が実家に里帰りするのだと思いました。そして、仰ぎ見ようとはせず、大勢の人々が通り過ぎますと、歩きだしました。前方の人々を見てみますと、飛ぶように早く進んでおり、だんだんと見えなくなってしまいました。

 一番後ろでは、黄色い頭巾を被った若者が、食箱(けばこ)、火鉢、急須などを担いでいましたが、荷物はかなり重く、担ぐのが大変そうでした。彼は参拝者の中に混じって、走って追い掛けていました。参拝客たちが、どこに行くのかと尋ねますと。若者は言いました。

「嶧山に仕事をしに行くのです」

人々は尋ねました。

「前をいかれるのはどちらの王妃、郡主さまですか。どうしてあのように物々しいのでしょうか。」

黄色い頭巾の若者は、言いました。

「あなた方は、東昌の武城県から来たのではないのですか。通り過ぎていかれた方は、あなた方と同じ県の方だというのに、どうして面識がないのですか。」

人々は、びっくりし、来歴を尋ねました。黄色い頭巾を被った若者は言いました。

「あれは、嶧山聖母さまで、あなた方武城県の晁郷紳のご夫人です。あの方は、生前、たくさんの善行をされ、大勢の人々にお布施をされ、夫には、立派な役人なるように、身を清めて人民を愛し、厳しい刑罰を施さぬようにと勧めました。息子には、立派な人間になるように、郷里で横暴なことをし、貧乏な人から搾取をしてはいけないと勧めました。米を高く買い、安く売り、たくさんの被災民を救われました。漕米を代納し、たくさんの人々を救われました。もともとは、六十歳で亡くなるはずでしたが、善行を行うたびに寿命を延ばされ、百五歳まで生きられました。聖母さまの夫がしていたことからいえば、本来なら子孫を絶やされるはずでしたが、善人である聖母さまに子供がないようなことがあってはなりませんでしたので、子供を与え、仕えさせることになったのです。今では、嶧山聖母になり、仙人の仲間入りをし、天下の名山の山主と対等になりました。曲阜の尼山で、主管に空きができたので、天は、わたくし嶧山聖母に、とりあえず尼山で仕事をするように命じられたのです。明日は、聖母さまの誕生日なので、あなたがたには特別にお越し頂きたく存じます。山には主がおりませんので、とりあえず山に戻り、準備を致します」

人々は尋ねました。

「あなたはどなたですか。どうしてそんなに詳しいことをご存じなのですか。」

黄色い頭巾の若者はいいました。

「私は聖母さまの管茶博士です」

人々は言いました。

「それならば、あなたも山の神さまなのですね。私たちに知らせてくださり、ありがとうございます」

人々は持ってきた紙銭をすぐに燃やし、彼が知らせを届けてくれたことに感謝しました。あっという間に、黄色い頭巾の若者は姿が見えなくなりました。人々は驚き、轎を止めて聖母に会うことができなかったことを残念がりました。

 夜が明けますと、山に行き、僧房を探して宿にし、翌朝聖母に謁見する準備をしました。

「施主の皆様は山東の武城県の方々でしょうか。全部で六十八人、あっておりますでしょうか。」

人々は驚いていいました。

「どうして私たちが武城県の人間で、六十八人であることをご存じなのですか。」

住職「今日の夜明け方、私は外出しようとしたのですが、体の調子が悪くなり、横になっていました。すると、黄色い頭巾を着けた力士が夢に現れ『早く起きて宿を掃除するのだ。女神さまの東昌武城県の人六十八名を、わしが連れてきて休ませ、おまえたちの食費を払わせてやろう。注意してもてなすように。粗相があってはならんぞ』」

人々はさらにぞくっとし、先ほど見たことを告げ、たがいに不思議がりました。山僧は嶧山の聖母が武城県の人で、霊験あらたかであることをはじめて知りました。

 嶧山は天下の名勝地で、お参りをする男女、物見をする男女が、たくさんやってきて、噂を広めました。それからというもの、法事を行ったり、廟を修築したり、仏像を作ったり、神像を彫ったり、収穫と雨を祈ったり、災いを祓ったり、毎日大忙しでした。これは、後のことですから、くわしくお話しし尽くすことはできません。

 翌朝は十五日でした。人々は一晩斎戒沐浴して衣装を換え、仏殿に行き、香を焚き、紙銭を燃し、女神さまが故郷を守ってくださるように祈りました。そして、昨日の朝、女神さまの轎が通ったことに気が付かなかったことを詫び、道をあけなかったものがあったが、許してもらいたいと言いました。さらに、女神さまが村を守り、天候が穏やかで、五穀豊饒であることを願いました。祈祷が終わりますと、人々は、しばしお堂から出て、山の景色を眺めました。宿屋に戻り、昼ご飯を食べ、ふたたびお堂に入りますと、聖母さまに別れを告げ、山から降りました。人々は、一歩あるくごとに、九度振り返り、とても名残惜しそうにしました。ついでに、孔林を見、孔廟にお参りしました。

 罡城[土貝][16]にいき、川を船で渡るとき、人々は、二つの船に分かれ、川を渡りました。岸に上がりますと、人々は、船から降りました。船の上には、一人の男がおりました。彼は三十歳ほどで、目を見張り、岸を向いておりました。左手には箱、櫛を持ち、鉄の喚頭[17]を挿していました。右手には、醤油色の銀の包みを持っていました。彼に尋ねても、声をたてることも、動くこともできず、まるで釘付けされたかのようでした。船の上にいた人々はびっくりしました。実は、この男は頭を剃る職人で、髪を切ったり束ねたりするのを仕事にしていましたが、船の乗客がごった返しているとき、人々の腰を片っ端から探っていたのでした。彼は半分の銅銭を磨いてとても鋭い刀にしており、綿の袷だろうが夾衣[18]だろうが、銅銭で作った刀を指の隙間に挟み、切り裂きました。衣服が何層あろうと、少し切るだけで穴が開き、盗みにあった人はまったくそのことに気が付きませんでした。その日、彼は、大勢の参拝客が船にいましたので、銀子、銅銭があるにちがいないと思い、川を渡るふりをし、人込みに紛れこんでいました。そこには、姓を針、名を友杏という参拝客がおり、腰に金をたくさんいれていました。そこで、袖から商売道具を取りだし、誰にも知られずに、袷、木綿の衫、二重の袴腰、あわせの腹掛けを切り裂き、物を取りました。ところが、人々が船から降りますと、この盗人はどういう訳か、先ほどのような行いをし、人々を騒がせました。針友杏は銀の包みが彼のものであるのに気づきますと、自分の衣装を見てみました。すると、外側から内側まで、大きな穴が開いていました。銀の包みをさわってみますと、跡形もなくなっていました。包みの中の銀子を数えてみますと、少しも違いませんでした。針友杏に銀子の包みを与えますと、盗人はようやく意識を取り戻しました。事情を尋ねますと、彼はいいました。

「銀を手にいれたときは、とても嬉しかったのですが、船を降りるときに、黄色い頭巾を被った若者から、後頭部にびんたをくらわされ、気を失ってしまったのです」

船頭は彼を掴まえて役所に送り、彼にいれずみを施し、流罪にしようとしました。人々は言いました。

「これは明らかに嶧山聖母さまのご利益です。聖母さまは、私たちが誠実で、遠くからお参りにきたのに、どうしてお前は掏摸をするのだとおっしゃっているのです。だから、この人を掴まえたのです。聖母は、生きていたときは、けらや蟻すらも傷付けようとはしませんでした。盗まれていないのに、役所に送り、入れ墨をほどこし、流刑にすることなど、聖母さまは、決して望まれないでしょう。聖母さまの生前の心に従い、この男を釈放してやりましょう」

船頭は、それでも彼の金を奪い、彼の髪梳きの道具を置いていかせようとしましたが、人々は船頭をとりなし、掏摸を釈放し、上陸させました。人々は、雨風に晒され、夜は休み、朝に発ち、三月二十一日に、武城に帰りました。家に戻り、斎戒をしますと、翌朝、一緒に晁夫人の祠堂に行き、焼香をすることを約束しました。

 その頃は、清明を過ぎていましたが、冬の雪、春の雨がありませんでしたので、植えられた麦は、みるみる枯れてしまいました。県知事が遠くから道士を呼びますと、道士は偉そうにし、臆面もなく大ぼらをふき、雷公は彼の甥、電母は彼の姪、四海の竜王はすべて親戚友人だと言いました。そして、城隍廟に祭壇を設け、本堂の入口を封じ、廟の入り口に、対聯を貼り、言いました。

「一日に風が吹けば、二日には雨が降る。清い風が吹き、小糠雨がひたすら降る」

さらに城隍、土地、社伯[19]、山神、竜王、河伯の名を書き、白牌[20]を掛け、一日に一回点呼を行い、人々を祭壇の下に待機させ、毎日太った犬一匹、焼酎五斤、にんにく一辮、犬の血を持ってきて、祭壇に撒きました。また、犬肉を濃いにんにく汁に漬け、焼酎に混ぜ、腹に入れ、酒に酔いました。さらに、まじないをしている振りをして、髪の毛をざんばらにし、裸足になり、酒に酔って暴れました。酔いが覚めそうになりますと、焼酎の力を借り、龍女に扮し、まじないをしている娼婦たちとともに、あらゆる悪さをしました。しかし、祈祷をすればするほど、天地は暗くなり、砂嵐は巻き起こり、米は日に日に値上がりし、泉は涸れていきました。

 参拝者たちは、晁夫人の祠堂の中で香を焚き、一斉に祈祷をして、いいました。

「先日、山頂で、女神さまに、女神さまが村の風雨を穏やかに保ってくれることを、何度もお願いしました。今年は冬には雪、春には雨がなく、麦は枯れ、秋の穀物は植えられず、米の値段は日に日に上がっています。また凶作になることは目にみえています。女神さまのお力によって、雨を降らせ、人々を救って頂きたく存じます」

参拝者たちが祈りをおえて外に出ますと、そこでは和尚が祭壇に上って儀式をおこなっていました。彼は毎日娼婦によって体を磨り減らしていましたし、朝には焼酎を飲んでいました。彼は七層のテーブルの上で、気が違ったかのように、左に右にくるくると回りますと、目が霞み、頭がくらくらし、顔から地面に落ちてしまいました。片方の二の腕と脛は、二つに折れ、髪の毛の中からは、どくどくと鮮血が流れ出てきました。怪しげな道士は、転んで八分は死に、二分だけ生きているという有様になり、厨房に運ばれて、休みました。人々は、晁夫人の霊が現れたと言いましたが、これには何の根拠もありませんでした。人々は、知県に報告をしたら、祭壇を壊し、娼婦を追い、法師に食事を出すのをやめようと言いました。

 翌朝、参拝者たちは、晁夫人の祠堂に赴き、祈祷をしました。人々が祈祷を終え、門を出ますと、東北の空に、黒雲がもくもくと沸き起こりました。すると、あっという間に強風が止み、ごろごろと雷が響き、稲妻が光りました。間もなくしますと、細かい雨がひっきりなしに降り出しました。辰の刻に降りはじめ、午の刻に止み、未の刻にふたたび降りだし、翌日の子の刻まで続き、卯の刻にまた降り始め、申の刻になっても降りやみませんでした。雨は、一粒一粒が地面に入りました。清い風はゆっくりと吹き、小糠雨は激しくありませんでした。春に芽が出るときは、雨が降って三日たちますと、麦の苗に、急激に変化が生じるものです。苗は日に日に成長し、茎が伸び、穂が出ます。そして、その後で、秋の苗が植えられるのです。その後、何回か雨が降りますと、その年は十分な豊作になりました。

 後に、雨乞いをした道士は、三四か月療養をし、何とか立ち上がりますと、県知事に、払われていなかった褒美を求めました。そして、雨は彼の祈祷のお陰で降ったものだと言いました。県知事も自ら過ちを認め、自分が呼んだ和尚の祈祷に効き目がなかったと言おうとはしませんでした。そして、彼に令状を出し、地方の銀子を集め、十両を謝礼を払おうとしました。郷約は、県知事の令状を受けますと、一軒一軒取り立てをし、銀子、銅銭を受け取りました。郷約はぴんはねをし、残った十両を県庁に渡し、県知事は、それを道士に渡しました。道士は、十両の不正な金を手に入れますと、すぐに肉、酒を買い、泥のように酔っ払いました。ところが、まことに不思議なことに、その晩、九両あまりの銀子、銅銭は、すっかり盗まれてしまいました。

 和尚が、県庁に、盗難の上申書を出しますと、県知事は、廟の道士に、追跡、捕縛を命じ、何回か比較を行いました。住持の道士は、恨みを抱きながらも、それを晴らすことができませんでした。四月一日、県知事が廟に行き、行香をし、拝礼を行いますと、門番が顔色を変え、目を立て、神懸かりになって話し始めました。

「いかがわしい道士が神を侮り、廟を汚したので、わしは彼奴の手足を折ったのだ。嶧山の神さまが雨を降らせると、彼奴は天の功績を自分の功績と称し、人民の財産を奪った。そこで、わしは人を遣わし、金を盗ませたのだ。悪人を泊めた道士は、二十回ぶたれ、すでに罪を償うに十分なので、無罪放免とする。怪しげな道士を、すぐに県外に追い出すように」

県知事は、大変恐れ、何度も許しを請いました。その後、門番は、だんだんと意識を取り戻しました。県知事は、悪人を庇うのをやめ、地方に、和尚を追い出すように命じました。人々は、昔の俄か雨は、晁夫人のお陰であったことに気が付きました。善人は、生きているときは人間でも、死ねば神になるといいますが、まったくその通りです。晁夫人の結末については、これ以上は申し上げません。そのほかのことは、さらに次回をお聞きください。

 

最終更新日:2010118

醒世姻縁伝

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[1]原文「龐老龐婆同鶴馭、黄公黄母総龍沙」。龐老龐婆、黄公黄母ともに未詳。

[2] 『孟子』尽心下。墨家の学をすてた者は楊朱の学を学び、楊朱の学をすてた者は儒家の学を学ぶ。

[3]原文「咱両个賓客相処」。「賓客相処」は「相待如賓」に基づく言葉で、夫婦がお互いに尊敬しあうこと。冀缺の妻が夫に食事をとらせるとき、賓客に対するようにふるまったという故事に基づく。『左伝』僖公三十三年「初、臼季使、過冀、見冀缺耨、其妻饁之、敬、相待如賓」。

[4]綿ネル。

[5]中国伝統の人の字型の屋根の両側の壁。

[6]塩化水銀、甘汞、カロメル。消毒剤として用いる。丹砂に塩、明礬を加え、加熱して作る。明李時珍『本草綱目』石二水銀粉「水銀乃至陰毒物、因火煅丹砂而出、加以塩、礬煉而為軽粉」。

[7] 『般若心経』に「無眼耳鼻舌心意」とあり。

[8]明代の書家。楷書に巧みであった。

[9]直隷順天府。

[10]不二とは本体と現象が別々のものではないと考える大乗仏教の用語。不二の法門は、この教えを説く寺院のこと。ここでの意味は、元通り大乗の教えを説く場所となったの意。

[11]廬州府、鳳陽府(以上安徽省)、淮安、揚州、蘇州、松江、常州、鎮江、南京(以上江蘇省)、閩(福建省)、浙(浙江省)。

[12]原文「庶民子来」。『詩』大雅、文王、霊台。

[13] これらは歳時に関連する言葉と思われるが未詳。

[14]原文「帽籙」。籙は簏とも書き、竹で作った箱のこと。『集韻』「簏『説文』『竹高篋也』通作籙」。明張自烈『正字通』にも「籙、今人以櫝匣小者為籙」とあり、小箱の意という。明陸嘘雲『世事通攷』は「漆器類」に帽籙を分類し「音禄」と注する。

[15]棕梠葺きの輦。

[16]地名と思われるが未詳。

[17]客を呼び寄せるために使う、音叉状の道具。

[18]表でも裏でも着れる二層の服。

[19] 土地神に同じ。

[20]悪霊を追い払うときに道士が用いる白い札。

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