第九十二回

正しい弟子が手厚く師匠の女房をもてなすこと

反抗的な女が他人の手を借りて実の息子を殺すこと

 

人は薄情、世も末だ

師匠の妻を敬はず

毎日三度の飯を出し

毎年四季に服を換ふ

貧民、老人養ひて

葬式を出し、奔走す

恩を忘れた母親は

金脅しとり、子を殺す

 武城県に、姓を陳、名を六吉という秀才がおりました。彼は、お金の受け取りと受け渡しをいい加減にしない、行いの正しい人でした。彼は、よろずにつけ頑固で、人々と打ち解けませんでしたので、村の軽薄な若者は、彼のことを変人だと言っていました。彼は特に土地財産をもたず、勉強を教えることだけを仕事にしており、とても貧乏でした。受けるべき贈り物、束修については、人とあれこれ争ったり、多い少ないを問題にしたりはしませんでした。生徒との仲は、まるで父と子のようでした。陳師娘はさらに物分かりのよい女で、弟子を自分の子供以上に可愛がりました。真冬に雪が降りますと、彼女は生徒が風邪をひいたり、靴に泥が付いたりするのを恐れ、大きな鍋で粟の薄い粥を煮たり、大きな鍋いっぱいの濁り酒を作ったりしました。何もないときには、四五文銭の生姜を買い、熱湯を沸かし、学生を引き止め、飲ませました。衣装が裂けていれば、すぐに繕ってやりました、衣装が綻びていれば、すぐに縫ってやりました。さらに、手抜きをしたり、学生たちを遊ばせようとしたりはしませんでした。先生がいないときは、彼女が勉強道具をもってきて、先生の席に座り、先生に代わって、生徒たちをしっかり勉強させました。さらに、生徒たちが長いこと勉強をして憂欝になるのを恐れ、しばらく勉強をしますと、静座して休息するのを許しました。

 北方の先生で、このように愛情をもって、生徒を待遇する人は、陳先生しかいませんでした。先生の夫人も賢い人で、子供たちをよく教育しました。昔、晁源は彼について授業を受けました。晁思孝は、恥知らずで、善悪の弁えのない爺さんでした。しかし、晁夫人は、陳師娘の仲間でした。二人の賢人は、意気投合しました。彼らはもともと親戚の間柄でしたが、近くで一緒にいましたので、ますます親密になりました。

 晁思孝が秀才だったときは、自分のことで精一杯で、手厚い贈物を、先生に送ることはできませんでした。束修も、三分の二にも満ちませんでした。しかし、陳先生は文句を言いませんでした。後に、晁思孝は役人に、晁源は公子となり、陳先生は、一年ごとに年をとっていきました。ところが、先生は毎日年をとっていきましたが、学生は毎日少なくなっていきました。生徒が少なくなるのはいいのですが、生徒が少なくなりますと、束修も多くはありませんでした。

 当初、学生は、「若者が五六人、少年が六七人」[1]というありさまで、結構人数がそろっていました。しかし、大人並みの五六人は勉強をやめたり、ほかの先生に就いていったりしましたので、少年が六七人しか残りませんでした。北方の謝礼は大変少なかったため、金持ち以外は、毎月一銭の謝礼しか払わなくても、面子は潰れませんでした。それ以下の人間ならば、一か月五分しか出さなくても普通だといわれました。多くは毎月銅銭三十文で、どこもみなこのような有様でした。ですから、陳先生の生活は、とても苦しいものでした。晁源は、豊かな暮らしをしていましたから、少しぐらい金を払うのは、九牛の一毛が抜けるようなもので、辛いことはありませんでした。彼は、贅沢な暮らしをしていたときは、時運に恵まれない、年老いた師匠、師匠夫人のことは、遠く天の彼方に忘れてしまいました。親しく教えを受けた弟子でもこの有様でしたから、弟子の父親は、もっとひどいものでした。しかし、晁夫人は、昔のことを忘れませんでした。人が家に帰るときは、二両でなければ一両出し、どんなに少なくても五銭は出しました。さらに、木綿布、靴の脇布、針、糸の類いを送りました。物を届ける人がいない場合はともかく、人がいれば、先生を放っておくことはありませんでした。豊作のときは、粟、緑豆が銀五六銭以上ということはありませんでしたから、五銭の銀子を払えば、米を一石買い、長い間、食べることができました。このように次から次へと、晁夫人が救いの手をさしのべておりましたので、飢え凍えることはありませんでした。晁夫人が家に戻りますと、陳師娘と朝晩一緒に過ごし、朝晩、薪や米を送ったことは、言うまでもありませんでした。晁梁が六歳になりますと、先生を呼び、勉強を教えることになりました。晁夫人は、陳先生が方正で高潔、高齢で老成していましたので、どうしても彼を呼び、晁梁を教えさせようとしました。家の書房を片付け、陳師娘とともに住まわせました。謝礼のことで争うこともありませんでした。晁夫人は、もちろん手厚く先生を待遇しました。

 実は、陳先生には一男一女がおりました。息子はすでに四十数歳になっておりましたが、大変聡明で、何でも知っていました。「子曰く」「詩に云く」のこともかなりよく理解していました。さらに、彼は他人には真似できない長所をもっていました。彼は父母を教育し、いい加減なことをしようとせず、推し倒し、何回かぶち、服を見れば服を奪い、食物を見れば食物を奪うのでした。後に、彼は息子を生みましたが、息子は成長しますと、彼の手下になりました。老夫婦は追い詰められ、逃げ場がありませんでした。陳先生は高齢になり、彼らと争う気力はありませんでしたので、一歩下がって、彼らを避けようとしました。そして、晁夫人に数両の銀子を求め、「鄷都県枉死城」の東に、松の木で作った家を作り、そこに引っ越して住み、息子からひどい目にあわされるのを防ぎました。陳先生の娘は、兵房の書吏に嫁ぎ、家での生活は、最低限のものにすぎませんでした。彼女は兄が母親を養うことはできないと思いましたが、母親は数両の銀子をためていましたし、晁夫人から幾つかの衣装、食べきれないほどの食糧をもらっていましたので、老母を養うことができました。

 ところが、陳師娘の息子は、彼の妹よりもさらに聡明で、物事をよくわきまえており、金を大切にしていましたので、言いました。

「女とは『夫があれば夫に従い、夫が死ねば子に従う』ものだ。俺のような立派な長男がいるのに、嫁にいったおまえに養ってもらうわけにはいかない」

数人に命じて担がせだり、運ばせたりしました。そして、轎を雇ったり、驢馬を呼んだりはせず、年をとった母親を彼とともに家に歩いていかせました。晁夫人は我慢できませんでした。陳師娘は息子の家にいきましたが、息子はお話しするに忍びないほど反抗的な態度をとり、これ以上のものはないと思われるほど彼女を罵りました。陳師娘は自分が手に入れた食糧を食べたり、自分が手に入れた衣裳を着ることができませんでした。嫁、孫は、ある者が喋れば、別のものが喋るという具合に、

「犬め。私娼め。私はお前が遠い先のことまで考えて、永遠に子や孫の世話にはならないのだと思っていたよ。手に入れた衣裳は自分の身にまとい、金は自分の懐にいれ、食糧は自分の腹に入れたのだからね。婿の大きな一物で犯されている娘は、残っていた物をすべて婿にみついでしまっただろう。どうして息子の家を訪ねてきて、人にお茶やご飯を出させるんだい。お茶やご飯をかってにとり、牛の目のように二つの大きな目をひらいていながら、見えないと嘘をつき、針も持とうとしない。こんな人間に出すご飯があるなら、犬に食わせて、家の番をさせた方がいいよ。このような役立たずを養ってどうするんだい」

陳師娘は腹を立てて気絶しそうになりました。陳師娘が持っていった幾つかの衣装、数石の食糧は、すべて孝行息子や孫によって持ちさられ、酒代になったり、賭博の資金になったりしました。息子と嫁は、陳師娘がまだ数両の銀子をもっていることを知りますと、共謀し、夜に母親が熟睡しているときに、懐から金を抜き取ろうとしました。しかし、陳師娘は目を覚まし、与えようとしませんでした。息子は陳師娘を寝床に押さえ付け、嫁が金を奪い取りました。陳師娘が叫びますと、孫がそれを聞きつけ、走り込んできて、三人で奪い合いました。陳師娘は体を押され、圧死しかねない有様でした。陳師娘は腹を立て、夫への哭礼を行うとき以上に悲しげに泣きました。

 皆さん、お考えになってください。老婦人は、衣服や食べ物があるときでさえ、ぶたれ、罵られていました。すっからかんになった今は、優しく待遇されるはずがありませんでした。晁夫人は、しばしば人を遣わして陳師娘の世話をさせ、贈り物を送りましたが、子、孫、嫁たちは、銀子を奪ったときと同じことをし、千万両を送っても、陳師娘のもとにはとどきませんでした。冬至の日、晁夫人は、人を呼び、大きな盒子に入れたワンタンを陳師娘に食べさせました。陳師娘は破けた黒い木綿の袷、青い木綿の単衣のズボンを着け、北の壁に蹲って日向ぼっこをしていました。そして、晁家の人を見ますと、家の中に潜り込みました。嫁は盒子を来客に贈り、ご機嫌伺いをして帰りました。夫が帰ってきますと、鍋で湯を沸かし、ワンタンを煮、母子夫妻、ある者が食べれば、別のものが食べるという具合に、腹一杯食べ、半碗の破けた皮を陳師娘に食べさせました。陳師娘はおなかを空かせていましたが、食べようとしても気が塞いでいましたので、食べながら、悲しげに泣きました。晁源の執事は、陳師娘の様子を晁夫人に知らせました。晁夫人は半信半疑でしたが、人を遣わして話しをしにいかせ、陳師娘を家に迎え、数日泊まらせることにしました。

 使いが来たときは、息子、嫁は、家にいませんでした。陳師娘は晁家の人に詳しいことを告げました。

「私は着る服もなく、人間らしさは一割りで、七割りは幽鬼のような有様ですから、いくわけには参りません」

下男は家に着きますと、逐一報告をしました。晁夫人はしばらく悲しんでいましたが、下男の女房に晁夫人の青いつむぎの木綿の袷、粗布の袷、青い綸子のスカート、白ネルの膝褲、首帕、二人がきの轎をもってこさせました。そして、下男の女房を陳家に行かせ、陳師娘の息子と嫁が邪魔をしてもそれには構わず、陳師娘に力ずくで服を着せてくるように命じました。下男の女房が命じられた通り陳家にいきますと、

陳師娘の嫁「義母ごときが、立派なお屋敷にあがることはできません。家には木綿の布がございますが、私は暇がございませんし、義母も目がかすんで服を作ることができません。数日後、私が義母のために衣裳を準備してから、あがればよろしいでしょう」

下男の女房はいいました。

「数日後、あなたが衣裳を準備する頃には、陳奶奶は凍死し、行くことができなくなってしまっているでしょうよ」

下男の女房は有無をいわさず、彼女の髪を梳かし、首帕、膝褲をつけ、火を起こし、綿の袷を炙って着替えさせました。スカートを穿きますと、押し合いへし合いしながら外に出て、轎に乗りました。

陳師娘「このぼろの袷をもっていかせてください。戻ってきたら着るのです。これさえもなくなったら、背中をむきだしにするしかありません」

下男の女房は言いました。

「私の女主人が当て布を作るのに使うことにしましょう。私の女主人には陳奶奶に新しい袷を弁償してもらうことにしましょう」

下男の女房はそれを巻きますと、脇に挾んで去っていきました。嫁はすぐにそれを奪いとろうとしましたが、下男の女房は、奪わせようとはせず、脇に挾んでいってしまいました。

 陳師娘は家に入り、晁夫人に会いますと、苛められた娘が、姑の家から帰って、実の母親に会ったときよりも激しく泣きました。晁夫人は慌てて暖かい炕にのぼり、布団を掛けて座りました。春鶯、晁梁の女房の姜氏、晁梁、小全哥が挨拶をしにきました。晁夫人は、陳師娘に炕から降りて挨拶を返すようには命じませんでした。陳師娘は炕の上で挨拶をしますと、言いました。

「大丈夫ですよ」

話をしながらご飯を食べ、とても嬉しそうにしました。晁夫人は、裏間が晁梁の寝室でしたので、陳師娘と同じ部屋にとまるわけにはいきませんでした。そこで、小さな北の棟の裏間を片付け、綺麗に表装をし、艶出し煉瓦の炕、テーブル、椅子、洗面器、炙り籠、化粧箱、毛氈、敷き布団、纏足布、手巾など、使う物をすべて揃えました。さらに、若くて綺麗な小間使いを選び、昼間付き添わせ、晩には足を暖めさせました。翌日、上半身に木綿の服を着せ、下には木綿のズボンを作ってやりました。晁夫人と嫁は、眠るときは床をともにしませんでしたが、食事のときは器をともにしました。

 十二月二十日過ぎまで泊まりますと、陳師娘は別れを告げて家に帰ろうとし、こう言いました。

「大晦日も近く、ご馳走になってばかりいるわけにも参りません。年が明けてから来ることにいたしましょう」

晁夫人「陳さん、失礼なことを申し上げるのをお許しください。あなたのお子さん、お孫さん、お嫁さんがあなたに悪いことをしているのは明らかです。あなたをお迎えするのが遅ければ、今年はこんなに寒いのですから、あなたの寿命が長くても、生きることはできなかったでしょう。これからは家に帰るなどとおっしゃってはいけません。あなたが泊まってらっしゃるこの三間の部屋は、あなたのついの住家です。私が生きている限り、私たち義姉妹二人は一緒に話をします。私はあなたより年上で、あなたより先をいっています。しかし、私の息子はあなたの弟子でした。当時、先生はあの子をどれほどよく教育してくださったかわかりません。身よりなく苦しい生活をしてらっしゃる先生の奥さんを養っても、いきすぎということはないでしょう。それに、あなたの弟子とあなたの弟子の嫁は、孝行で賢く、私がすることに、逆らおうとはしません。どうかいつまでも同じ鍋のご飯を召し上がってください。世話が行き届かず、何か間違いがありましたら、どうか争われずに、お許しになってください」

陳師娘は聞きおわりますと、何も言わず、一言こういいました。

「大変なご恩をこうむります。来世でもお礼しきれないでしょう」

それからというもの、陳師娘は晁夫人の家に住み、財産を築きました。晁梁夫婦のもてなしは、すべて礼に適っていました。春夏には単衣の服を揃え、秋冬には綿入れの袷を作り、少しも欠かすことがありませんでした。陳師娘の娘と息子、孫、嫁は次々に様子を見にきましたが、これは一つには自分の不孝を覆い隠すため、二つには晁夫人のもてなしを受けるためでした。

 このようにして月日は瞬く間に過ぎ、あっという間に七年が過ぎました。晁夫人は亡くなり、陳師娘は夫を失い、寂しくはありましたが、晁梁夫婦は母親の行いに従い、怠けることはありませんでした。大体、奴隷が人に接するときは、主人の意向をうかがうものです。主人が客を粗末にする心を持っていなければ、下男は怠慢な心を起こそうとはしないのです。ですから、陳師娘への待遇は、晁夫人が生きていた頃とまったく変わりありませんでした。

 晁梁は母親の遺命に従い、五七に葬式を出し、父親と合葬しました。葬式がおわりますと、晁梁は、墓の脇に小さな三間の草葺きの小屋を建て、そこで父母の墓守りをしました。嫁の姜氏と妾の春鶯も墓の脇の小屋に住みました。そして、晁夫人の墓に寄り添い、朝晩墓で焼香をし、ご飯を供えました。また、陳師娘を城内にとどめ、下男や乳母を選び、一生懸命仕えるように言い含めました。

 六月二日は陳師娘の誕生日でした。姜氏は春鶯とともに城内に行き、彼女のために誕生祝いをしました。実は陳師娘は三年前から右の手足を動かすことができませんでした。彼女は髪を梳くときも顔を洗うときも、すべて人に頼んでいました。晁夫人が生きていたときは、姜氏は城内におりました。彼女は人を呼び、陳師娘のために綺麗に片付けをし、服には糊付けをし、湯浴みをさせていました。しかし、老人はだんだんと惚けてきて、空腹と満腹を感じることができなくなりましたので、人々は彼女の食事量を調節してやりました。姜氏が荘園にきてからというもの、世話をする人々は、陳師娘を苛めようとはしませんでしたが、思いやりに欠けた態度をとるようになりました。老人が髪を梳く気がないときに、彼らは無理に髪を梳き、顔を洗う気がないときに、顔を洗うように勧めました。上下の衣裳も換えたいと言っていないのに換えました。布団の蚤や虱を捕ってやろうともせず、食物も調節せず、陳師娘が一生懸命食べるに任せました。人々は二日が彼女の誕生日であることを覚えていました。そして、点心を蒸し、酒の肴をつくり、みんなで食べようとしました。ところが、姜氏は春鶯とともに城内に入りました。二人が家に着き、陳師娘の部屋に入りますと、床には一寸ほどの埃が積もっていました。汚泥は掃除されていませんでしたので、二人の白い靴はあっという間に真っ黒になりました。陳師娘の何本かの白髪は、ぼさぼさになり、顔から汗が出て、泥のようになっていました。その泥の上にさらに汗が出て、まるで黒猫かカラスの嘴のようになっていました。陳師娘は汗びっしょりのズボンを穿き、青い夏布の上には真っ白く虱がついていました。寝床は汚く、ほとんど犬小屋のようでした。姜氏は腹を立て、世話をする人々をさんざん罵りました。そして、あらためて床を掃除し、寝床を整えるように命じました。さらに、陳師娘の髪を梳き、顔を洗い、上下の服をすっかり替えました。また、おまるをあけ、何本かの安息香を焚かせました。明間にも芸香[2]、蒼朮[3]を焚かせました。その後、陳師娘のために誕生祝いをしました。姜氏は陳師娘と一緒に酒とご飯を食べますと、別れを告げ、墓のある荘園に戻ろうとしました。さらに、世話をしていた人々は善悪を弁えていない、一緒に荘園にいけば、面倒をみるのに便利だといいました。そして、人を先に返して、晁梁に伝言をさせました。晁梁は人に寝室を掃除させますと、小作人を城内にいかせ、轎を担いでこさせました。陳師娘は荘園に迎えられ、今まで通り居場所を与えられました。

 時がたつのは早く、あっという間に三年が経ちました。胡無翳は、晁夫人の三周忌で、紙銭を焼き、梁片雲の臨終のときの言葉の通り、彼の生まれ変わりがやってきて、寺の裏に埋葬されている梁片雲を埋葬をするのを待っていました。晁梁は、明らかに梁片雲の生まれ変わりでした。彼はもともと晁夫人の恩徳に報いるため、転生して子供となっていたのでした。彼は三年の喪もあけ、息子もでき、先祖の祭りをする人もいたわけですが、すぐには戻ってきませんでした。ふたたび正果を修め、一緒に西天にいかなければならないのに、欲海に沈み、火坑に恋々とし、本性を失っていいはずがありませんでした。胡無翳は、晁梁にこの寺の住持をしてもらい、自分は高齢でしたが、精力は衰えていなかったので、天下の名山を旅し、景勝地を見ようと考えていました。以上の幾つかの理由で、胡無翳は山東の武城県にやってきて、まず真空寺の旧居にとどまりました。そして、住職から、晁梁が母親の葬式を出した日から墓守りをしており、ずっと城内に戻ってこないことを聞かされました。胡無翳は、ふたたび彼の家に行きましたが、ひどくひっそりとしていました。小者を呼び、墓守りをしている場所に案内してもらい、晁梁と会いました。晁梁は悲しんだり喜んだりしながら、精進物を並べてもてなしましたが、このことはくわしくはお話し致しません。

 晁梁は、胡無翳を荘園の弥陀庵に送り、泊まらせようとしましたが、胡無翳はどうしても行こうとしませんでした。そして、晁梁と一緒に墓守りをし、朝晩話しをしようとしました。胡無翳は梁片雲の過去をくわしく話し、生死輪廻のことを最初から語りました。最も感動的だったのは、晁夫人は天堂にいるので、出家して修行する気があるなら、ふたたび天堂で母と子になることができるということでした。この言葉を聞きますと、晁梁は心が晴れ晴れとしました。胡無翳は過去のことを話しましたが、晁梁はそれらをすべて覚えており、まるで体験したかのようでした。しかし、晁梁は、母親の命により、陳師娘を最後まで養わなければなりませんでした。また、兄の晁源に跡継ぎを立ててもいませんでしたし、墳墓の墓標、誥命碑、華表[4]、石碑もまだ立てられていませんでした。そこで、期限を緩めて待つように頼みました。しかし、約束を違えようとはしませんでした。

 半月後、三月十五日、晁夫人の三回忌に、墓に小屋掛けを組み立てました。そして、和尚を呼び、喪明けの法事を行いました。また、たくさんの親友を集め、晁梁に吉服を着るように勧めました。晁梁は国の制度に従い、逆らおうとはしませんでした。法事が終わりますと、色の薄い服に着替え、墓で死ぬほど泣きました。その後、男女の親戚が、晁梁と姜氏に、城内に行くように勧めました。陳師娘は、今まで通り、一緒に家に行きました。晁梁は一人一人の客に挨拶をしました。そして、急いで石工を呼び、墓を造りました。

 さて、陳師娘は八十一歳でしたが、病気で立ち上がることができなくなりました。昔、晁梁が書房にしていた部屋は、東の通りに通じていました。晁梁は、人に命じて門を開けさせ、陳師娘の棺を置いて葬式を行うことができるようにしました。陳師娘の病気が重くなりますと、彼女の子供達を呼び、看病をさせました。臨終の後に着ける衣裳、棺、椁、陳家の人々の喪服、霊前の孝帷、孝帳は、すべて晁夫人が生きていた時にきちんと買い調え、箱にいれ、楼に安置してありました。姜氏は人に担ぎおろさせ、人々はそれぞれの服を着けました。陳師娘の息子、孫と物分かりのよい嫁は、平然としていましたが、彼女の娘は母親のために泣かず、晁夫人のために泣くのをやめませんでした。一七になりますと、晁家の親戚友人は、晁家の体面を大事にし、大勢で野辺の送りにやってきました。葬儀が終わりますと、晁梁は、これらの人々を、家に案内し、陳師娘が普段ためていた衣裳、使っていた布団をすべて分け与えました。陳師娘の子、孫、嫁、娘は、四つの人の顔に、八つの犬の心をもっていました。彼らはいい思いをし、たくさんの分け前を得ようとしました。そして、箱を開けないうちから、四人でわいわいと押し掛け、奪い合い、罵り合い、取っ組み合いをしました。大声は四方に響きました。

 晁梁「親戚は四人しかおらず、他に争う人もないのに、どうしてそのようなことをなさるのです。公平に四つに分けるか、話し合いをするか、籤をひくかしてください。争うのはやめてください」

陳師娘の息子は言いました。

「子が父親の財産を受け継ぐのです。父母の持ち物は、他人に分けるべきではありません。糸一本でも、すべて私一人が手にいれるべきです」

孫は言いました。

「おじいさまの財産は子や孫に伝えるものです。子があれば孫があるものです。おばあさまが生きていたとき、父さんは祖母が張という姓か李という姓かも知らず、糠の窩窩も食べさせませんでした。おばあさまが亡くなった後、どの面下げておばあさまの服を貰うつもりなのでしょう。昔、僕がおばあさまに会いにきたとき、手ぶらできたことはありませんでしたよ。去年、僕は三銭で西瓜を買い、おばあさまにさしあげ、正月には、さらに二銭で二つの柿を買いました。父さんは今までお金をおばあさまにさしあげたことがありますか」

陳師娘の娘は言いました。

「あなたたちはまったく恥知らずですよ。あなたたちは、お母さまの衣装を何も作っていないじゃありませんか。すべて晁大娘か晁二哥、晁二嫂が作ったものなのに、どの面下げて分け前に預かる積もりですか。私は嫁にいった娘で、身寄りがないのですから、全部私にくれるべきです」

晁梁「それでは筋が通りません。四等分するという私の考えに従い、籤をひくのが適当でしょう」

娘「四等分は不公平です。兄はさいわい一人の女房一人の息子がいるだけです。十人の女房、十人の息子がいれば、二十分の一になってしまうではありませんか。すべてを私にくれとは言いませんが、二つに分けるべきです。昔から『父母の財産は、息子と娘で均分すべし』と言われています。公平にとおっしゃるなら、私と兄で二等分するべきです、義姉さんと甥は兄の分け前を分けるべきです」

嫁は言いました。

「それはひどい話しで、犬の臭いおならのようなものだよ。嫁に行った娘は、床に落ちた水のようなものなのに、あんたが私の財産を分けるだって。きいておくれ。李洪一の女房がいるだろう。私を酷い目に遭わせると、私は李洪一の女房[5]のようにふるまってやるよ」

娘は言いました。

「わたしは李洪一の女房のことなど聞いたことがありません。『劉二舅が辛い麺を食べた』ということは聞いたことがありますがね」[6]

 片方が喋れば、もう片方が喋るという具合に、争うのをやめませんでした。甥は彼の叔母の胸に頭突きを食らわせ、四人で取っ組み合いをし、殴りあって髪をざんばらにしました。

晁梁「ああ。ああ。何てつまらないことで喧嘩をしているのでしょう。僕はよかれと思ってしたというのに、僕を人命事件の巻き添えにする積もりですか。奥さんに着る物が何もなかったことは、みんなが知っています。この幾つかのぼろぼろの服は、分ける必要はありません。師娘の墓に運び、焼いて師娘にあげることにしましょう」

人を呼び

「棚に蓋をして、楼に担いでいってくれ。みなさんはもう行ってください。ぶったり罵ったりしたければ、ほかの場所へ行ってください。このようなことは初めてです。恐ろしいことです」

息子は言いました。

「母の衣裳を、分けずに勝手に焼くというのですか」

晁梁「僕が服を作ったのだから、僕の好きなようにするのです」

娘「あなたは服を作りましたが、それは私たちの母に、尻を丸出し、乳をあらわにさせるわけにもいかなかったからでしょう。私はあなたの家に来たとき、衣裳は着ることはできず、黒い表に青の裏地の梭布の袷、梭布の青いズボンを、陳師娘を迎えにいった女は梭布の服などを持ってきました。これらはすべてあなた方が作ったものではありません。あなたはこれらも勝手に焼くのですか。母は、あなたの家にここ数年いて、あなたの家の下女の代わりに、ご飯を炊き、服に糊をつけ、裁縫をし、靴底をつけましたが、あなたは給料を払ったのですか」

晁梁「もうあなた方とは話しません。こんなことまで言われた以上、もうあなた方と話すことはありません。人に命じて服を陳さんの家に運ばせましょう。あなた方がどのように分けようと、僕とは関係ありませんからね」

陳師姐は、一人で県庁の兵房に走っていきますと、夫を呼びました。そして、晁家の表門で待ちかまえ、一緒に陳師哥の家にいって服を分けましたが、そのことはお話しいたしません。

 陳師嫂は、態度を変え、以前、小脇に挟んできた、ぼろぼろの袷を貰い、さらに、陳師娘が着てきた、ぼろぼろの、平機の単衣のズボンを貰おうとしました。晁梁は服の行方を尋ねますと、

「昔は、このぼろぼろの袷がありました。下女が家に持ってきたものです。彼女は陳師娘の破けたズボンを穿きかえさせ、破き、当て布にしてしまいました」

娘は、承知しようとせず、大騒ぎをし、晁梁に、一千文の「老黄辺」[7]を払わせ、去っていきました。門を出、衣裳に付き従い、陳家にいきますと、さらに、奪い合い、騒ぎました。妹の夫は、県庁の兵房で、普段から、人に譲ることをしない善人でした。隣人も脇から口を出したため、大騒ぎとなり、どう分けていいものやら見当もつきませんでした。しかし、不正な手段で手に入れた品物は、それほどたくさんあるわけでもありませんでしたので、何の足しにもならず、二日足らずで、着る物は着られ、質入れするものは質入れされ、すっかりなくなってしまいました。

 息子は、普段、荷物運びをする男たちと賭博をしていました。勝ちますと、彼らに金を要求し、負けますと、豚皮のように厚く、象皮のように黒く、犬の内臓のように臭い尻の穴を掘らせて埋め合わせをしていました。しかし、髪の毛を束ね、髭を生やすようになりますと、荷物運びをする男たちは尻の穴を掘ろうとは思わず、現金だけを要求しました。息子は、金を作って彼らに返すことができませんでした。そんなとき、母親が晁梁から一千文を脅し取りました。息子はまともに金を要求しても、母親は絶対に承知しないだろうと考えました。盗もうと思いましたが、金がどこにおかれているか分かりませんでした。それに、三間の部屋で、母親は一時も寝室から離れようとはしませんでしたので、手の付けようがありませんでした。盗んで使えば、必ず彼だと分かってしまうはずでした。母親は、金を命と同じくらい大事に思っていました。良心も顧みず、天理も恐れず、ただで脅し取ってきた銅銭を、彼に盗んでいかせるはずがありませんでした。息子はあれこれ考え、彼女の金は枕の下か、寝床の敷物の下に置かれているに違いないと考えました。そこで、巧みな計略を思い付き、狐が人の家の金を盗んでいるときは、声をたててはいけないといいました。そして狐の振りをし、母親の体に圧力を掛け、頭をくらくらさせ、手足を疲れさせたところで、彼女の寝床から銅銭を掠め取ることにしました。さらに、狐が体にのるときは、圧力を掛けるとき、まず尻尾で顔を撫で、冷たい口でくちづけをし、さらにとても臭い匂いがすると言いました。彼は、あらかじめ狐の尻尾を探し、さらに、服を数日前の古い小便に浸し、乾かしてから身に着けました。彼の母親は、夫と一緒には眠らず、毎日一人で寝ていました。彼は、暗闇の中で、母親の寝床の下に腹這いになり、母親が眠るのを待ちました。そして、母親が寝付きますと、軽く触れ、まず狐の尻尾で顔を払いました。母親は夢の中で、ぞっと身震いしました。息子は母親の体に這い上がり、四つん這いになって力を込め、呼吸できなくなるほど押さえ付けました。さらに、自分の氷のように冷たい口を、母親の口につけて息を吸いました。母親は気を失い、動くことができませんでした。息子は両手で寝床の中をあちこち探りましたが、何もありませんでした。母親は夢の中で力一杯もがきました。息子は仕方なく床から飛び下りますと、抜き足差し足、自分の布団にもどりました。

 彼の母親は目を覚まし、隣にいる息子を起こそうとしました。しかし、彼はわざとぐっすり眠った振りをしました。彼は母親が必ず狐に押された話をすると思い、目を覚ましてからこう言いました。

「お母さまが私を起こしてくださったのはさいわいでした。私は狐に押さえ付けられていましたが、お母さまが大声で叫ばれたので、狐は飛び下りて逃げていきました。私は、寝ていますと、毛の生えたものに顔を一払いされ、冷たい唇をつけられ、口から息を吸われたのです」

母親は言いました。

「それはおかしい。私もそのように狐に押さえ付けられたから、おまえを呼んだのだよ。それから、私は自分の寝床を探られたような気がしたよ。私たちの家には妖怪などいなかったのに、どうしてそのようなものが急に現れたのだろう。狐の精ではあるまい。泥棒狐が、私が千銭を手にいれたことを知って盗もうとしたが、私は金をいつも腰に巻き付けているので、手を触れることができなかったのだ。狐は、おまえの身の回りに金があると思い、おまえを押さえ付けたのだろう」

息子は言いました。

「本当にそうです。あいつに金を盗まれなかったのはさいわいでした。しかし、今夜は用心しなければなりません」

 晩に眠るとき、息子は、またも狐の毛皮を着け、尻尾で母親の顔を払い、冷たい唇を付け、体を押さえつけ、手を伸ばし、布団の中を探り、母親の腰に巻き付けられている金に手を触れましたが、銭差しが丈夫でしたので、力一杯引っ張っても引き千切れず、どうすることもできませんでした。途方に暮れていますと、彼の母親は、本当の狐だと思い、必死になって、息子をよびました。叫んで喉がからからになりましたが、返事はありませんでした。そこで、寝床にあった鋏を手にとり、力一杯突きますと、「ああっ」という声が聞こえ、寝床に何かが倒れて、動かなくなりました。触ってみますと、手にいっぱい血が付きました。そこで、裸のまま立ち上がり、火を起こし、明りを点け、照らしてみますと、狐などはおらず、自分が生んだ息子が倒れていました。鋏は、喉に尽き刺さっており、床一杯に鮮血が流れ、手足が寝床に伸びていました。母親は落ち着かない気持ちで、夜明けまで死体に付き添い、夫が家に帰ってきますと、事情を話しました。そして、夫婦で、お互いに文句を言い合い、一千銭のうち、四百銭を使い、薄い板の棺を買い、死体を入れ、担いでいき、埋葬しました。一千銭は使われ、一文も残らず、おまけに、長男まで失ってしまいました。これぞまさに、

あくせくするはやめよかし

神は近くにおはします。

神は何でも御照覧

人の世のため悪除く

 

最終更新日:2010118

醒世姻縁伝

中国文学

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[1]原文「冠者五六人、童子六七人」。『論語』先進。

[2]豌豆に似た植物で、葉には芳香があり、秋後、白い粉を吹くという。防虫剤として用いた。『正字通』「芸、沈括筆談曰、古人蔵書辟蠧、用芸香。芸、類豌豆小、叢生、葉、芳香、秋後、葉間微白似粉、今謂之七里香」。

[3] ソウジュツ。健胃剤。強い香りがある。明李時珍『本草綱目』蒼朮「宗奭曰、蒼朮気味辛烈」。

[4]華表柱。墓前に置く装飾的な柱。

[5]明代の戯曲『劉知遠白兔記』に登場する悪役。夫李洪一とともに、李洪一の妹の婿となった劉知遠を虐待する。

[6]原文「我没聴見有甚麼李洪一嫂、我倒只聴見有个『劉二舅来吃辣麺』是有的」。「吃辣麺(辛い麺を食べる)」は「ひどい目に遭う」の意。劉二舅は劉知遠のこと。

[7]黄辺銭は第十三回の注で述べた如く銅銭のこと。したがって、老黄辺は「銅銭さま」というほどの意味。

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