第九十一回

狄経司が愛妾に抑圧されること

呉推府が属官を試験すること

 

紗帽、籠頭[1]

格好つけても

悪しきこと数多あり

豪族や

貴族でも

女に押さへ付けられり

綿のごと軟弱なりと他人を笑ひ

鉄のごと頑強なりと自らを誇りたり

ところが自分の身の上は

言葉とまつたく一致せず

膝のなかには綿多く

意気地なし

怒りは晴らせず

腰を低めているばかり

閨房に身を置くも

見る人が恥づかしくなる

自分も女に苛められ

歯が砕ければ喉に飲み込む

仲間はなべて恐妻家にて

区別なし  《満江紅》

 さて、童寄姐は、狄希陳とともに、四川の任地に赴きました。彼女の母親の童奶奶は、名門の女でも何でもありませんでしたが、聡明な人でした。童奶奶は、寄姐が凶暴で従順でないときは、彼女を説教し、説教しても改まらない場合は、叱り付けていましたので、寄姐も幾分慎み深くしていました。ところが、後に、彼女の母親の下を離れ、船に乗りますと、一つにはだれも彼女を押さえつけなくなったため、さんざん奢り高ぶり、二つには朝晩船で狄希陳と一緒にいて、口喧嘩をする機会が増えたため、狄希陳を殴ったり罵ったりし、三つには衣装、装身具の件で喧嘩をし、狄希陳があわてふためいて彼女に屈服したため、ますます大胆になり、四つには毎日一緒にいた権奶奶、戴奶奶が、都の女で、賢くなく、夫を尻に敷き、食いしん坊で、仕事を怠け、何から何まで、まるで同じ母親から生まれたかのような有様でしたので、ますます悪くなりました。彼女は前世からの恨みがあったため、この世で報復をしたのでした。ですから、狄希陳は夫らしく振る舞えませんでしたし、寄姐は、物分かりの悪い継母が、先妻の生んだ懐いていない子供を遇するときのように、狄希陳に接しました。狄希陳の顔は、寄姐の平手を受け止める場所となり、ちょっとしたことで、二三回の平手打ちを食らいました。狄希陳は、まるで愚か者が和尚、尼になり、数珠を手にとり、阿弥陀仏と唱えているかのようでした。下男の女房が悪いことをしますと、いつも、狄希陳を、その中に巻き込もうとしました。また、小間使いに喧嘩を売り、狄希陳を、その中に巻き込もうとしました。

 船に四か月以上乗っていましたが、寄姐と権、戴の二夫人が出会い、酒を飲んだり、狄希陳と郭総兵、周相公が無駄話をしたりしているときは、狄希陳は気楽でした。しかし、このとき以外は、必ずひどい目に遭いました。房事をしても、彼女の怒りを抑えることはできませんでした。彼女の情緒は不安定で、速いものを好むときは、少しゆっくりしたときでも、もたもたするべきではないというのでした。しかし、ゆっくりしたものを好むときは、おまえはせかせかして善悪を弁えていないというのでした。彼女の気分がのっているときに、例のことをしないと、わざと難癖をつけているのだろうと言いました。しかし、彼女の気分がのっていないときに、例のことをやめないと、わざと意地悪をしているのだと言いました。しばしば真夜中に、狄希陳を素っ裸にし、寒い目に遭わせたり、三寸の金蓮で、続け様に蹴り、寝床から蹴り下ろし、一緒に眠るのを許しませんでした。狄希陳は、しばしば風邪をひき、九味羌活湯[2]、参蘇飲[3]、麻黄発汗散[4]を、たえず調合する有様でした。

 薛素姐が閻魔なら、童寄姐は羅刹でしたが、さいわいなことに、狄希陳の運はだんだんと良くなりました。成都からわずか三駅ほど離れた所にきますと、彼は人に頼んで役所の下役に知らせを届けました。成都は四川の省都、富裕な土地でしたので、首領衙門とはいえ、なかなか綺麗で、十二名のp隷、四人の書吏、四人の門番、八名の轎かき、一揃いの儀仗、一台の明轎が、揃って長江まで迎えにきました。狄希陳が船に乗ってやってくるのを見ますと、下役たちは両脇に並び、岸に跪き、手本を手渡しました。船の上から下男張樸茂が立ち上がるように命じますと、岸の上の人々は、声を揃えて返事をしました。狄希陳は、船の上で、とても得意な思いをしました。郭総兵も、思わず感嘆して

「『犬猫もいい気になれば虎より強く、鸞鳳も落ち込めば鶏にも劣る』という。わしは掛印総兵で、現在は威光を失っているが、府経歴にも及ばないとはな」

下役たちは、別の小船に乗り、大船の後にしたがい、成都城外に着きました。狄希陳と周相公は、相談をし、二月二日の卯の刻を選び、赴任することにしました。家族は、まだ船で休んでおりました。

 一日、狄希陳は、一人で城内に入り、廟に泊まりました。着任後、人に家族を迎えさせ、役所に入りました。下役は、郭総兵のために、別に公館を探しました。二日、狄希陳は着任し、成都県から、人夫と馬を借り、家族を迎えました。さらに、郭総兵と家族を、公館に迎えました。風俗の純朴なところでしたので、郷紳、士人は、奢り高ぶることもなく、お祝いを言いにきて、初対面の礼物、祝賀の礼物を送りました。薄情な州、県とはわけが違っていました。油、塩、醤油、酢、米、小麦、薪、鶏、魚、鵝鳥、鴨、生野菜、果物、豚、羊、牛、鹿がたくさん積みあげられました。寄姐は目を奪われ、何も言わなくなりました。狄希陳は、上司に会い、客人への返礼を行い、役所の中で、彼女と常に一緒にいることはありませんでした。ですから、役所は数日間平穏でした。

 半月が過ぎ、狄希陳は公の行事をおえましたが、新しく着任したばかりでしたので、仕事のことは分かりませんでした。訴状が送られてくるわけでもありませんでしたので、家でじっとしていることが多くなりました。寄姐は、それからというもの、しばしば騒ぐようになりました。そして、大声で恨み言をいい、家具を壊し、瀬戸物の鉢を割り、騒ぐのが習慣になりました。住んでいる役所は、刑庁のすぐ隣で、おならをしても、聞こえるほどでした。さいわい、刑庁は、姓を呉、名を以義といい、進士出身、相主事と同門の同年、同じ省、別の府の同郷人でした。狄希陳が着任するとき、相主事は、呉推官に丁重な手紙を書き、狄希陳は伯母の一人息子であり、もっとも親しい従兄でもある、どうかよろしく引き立ててやってほしいと頼みました。狄希陳は赴任しますと、呉推官に会いました。呉推官は手紙を見ますと、とても親しくしました。そして、奥で茶を出し、自らを「小弟」、狄希陳を「仁兄」と称しようとしました。狄希陳が断りますと、呉推官は

「あなたは相年兄のご親戚ですから、私は自分を『兄弟(おとうと)』と称することにしましょう」

といい、とても丁重にしました。

 さて、人に気に入られ引き立ててもらえる人というものは、人に気に入ってもらえる要素をもっているため、引き立てられ、目を掛けられ、助けてもらうことができるのです。しかし、人は、臭い糞があれば、鼻をつまみ、飛ぶように逃げ、目が汚れたのではないかと心配し、だれも目を掛けようとはしません。死んだ犬は、一生懸命持ち上げて塀に登らせようとしても、前足は力なく、後ろ足は絶対にあげることはできません。鼎を持ち上げ、山を引き抜くほどの力があっても、へなへなな物を持ち上げることはできないのです。相主事が刑庁に狄希陳を特別扱いすることを求める手紙を送っていたため、狄希陳は役所では酷い目に遭うことはありませんでしたが、おかしな妾が、昼となく夜となく、大騒ぎをし、ぶったり罵ったりするのには耐えられませんでした。刑庁はもちろん上司、経歴は属官です。かりにあなたの両親が隣に住んでおり、あなたがこのように何の憚りもない振る舞いをすれば、両親でさえもあなたを罰することでしょう。隣人が絶えず殴ったり罵ったりしていれば、平穏に暮らすことはできません。あなたが隣人を避けなければ、隣人はあなたを避けようとすることでしょう。日夜罵る声をきかされるのは我慢できるものではありません。同年の面子を立て、重罰に処さずに、あなたを「職務怠慢」、「免職蟄居」にしたとしても、これはあなたを不当な目に遭わせたということにはならないでしょう。

 しかし、狄希陳は、役人に縁があり、生来の運のよさも持っていました。実は、刑庁のお家事情も、経歴と同じだったのでした。彼は若くして進士に合格し、名声、名誉、財産が求めなくてもやってくる人でした。彼は容色を重んじ、上唇はあっても下唇はないくせに簫を吹きたがっていることには目もくれませんでした。[5]彼は、家に菩薩のように美しく、虎や狼のように凶暴な奥さまがいるというのに、彼女のもとを離れ、都で政務に携わるようになりますと、恐ろしさを忘れ、刑罰を顧みず、二人の妾を娶りました。「両雄は並び立たぬ」ともうしますが、両雌も並び立つものではありませんでした。彼は御河橋[6]に宿屋を探し、前後して二人を家に娶り、最初に娶った方を「荷葉」、後に娶った方を「南瓜」と名付けました。南瓜を娶った次の日、呉推官と南瓜が眠っていますと、荷葉が荒々しく部屋に入ってきました。彼女は呉推官の靴を拾い上げ、木綿の布団を剥ぎ、呉推官の裸の尻を二回ぶちました。南瓜が服を着けないうちに、やはり裸の尻を二回ぶちました。そして、罵りました。

「この雑種。厚かましい私娼。恥を知っているのかえ。お日さまが窓に照っているというのに、首を抱き、足をくっつけて寝ているのかい。私は汚らわしいものを見るのは我慢できないんだ。許さないからね」

罵るのを止めませんでした。南瓜は来たばかりで、事情がわからず、殴られ、人に見せるべきでない場所も、すっかり見られてしまいましたが、我慢をして何もいおうとしませんでした。呉推官が、しっかりした男であれば、鼻をひん曲げ、眉を逆立て、夫の威厳、進士の権威を発揮し、相手の罪を述べ、討伐をし[7]、重ければ追い出し、軽ければ罰を与え、来たばかりの女を教育し[8]、凶暴な女を抑えつけていたはずでした。しかし、彼はそのようなことは少しもできませんでした。彼は、女にぶたれ、罵られたというのに、屁もひらず、白い歯をむき出し、笑うだけでした。

 その後、南瓜は家に慣れてきましたし、荷葉の物凄さを経験したこともあって、口が達者になり、荷葉と罵り合いを始めました。呉推官が荷葉と眠っていますと、南瓜は布団を剥ぎ、尻をぶち、馬鹿、淫婦と罵りました。呉推官が南瓜と眠りますと、荷葉は今まで通りお仕置きをしました。女たちは一日中、争い、騒ぎました、家の者は落ち着かず、近所は苦情を言いました。

 呉推官は仕方なく、五日ずつ分けて泊まることにしました。しかし、女たちは分けて泊まることにした後も、相変わらず争い、さらにこう言いました。

「おまえは五日間、例のことをしたが、私は五日間、例のことをしなかった。おまえにはお碗大のでき物か、長斗ぐらいの瘤ができるだろう。一物を入れられてばかりでは、例の所が腐ってしまうだろうよ」

そして、一日中騒ぎ立てました。呉推官は、どうしようもなく、大きな炕と大きな掛け布団を作り、三人で一緒に眠ることにしました。ところが、呉推官が体を奥に向けますと、外側の女が、手や太腿で、多い時は二三回、少ないときは一二回捩じりました。体を外に向けますと、奥の女が、頭からかんざしを抜き、背中といわず、肩といわず、何度も突き刺しました。呉推官は内側を向くことも、外側を向くこともできず、一晩中、上を見ているか、うつぶせになっているしかありませんでした。荷葉が体に乗りますと、南瓜が女を引きずり下ろし、南瓜が体に乗りますと、荷葉が女を引きずり下ろしました。一晩中、女たちは猿のように騒ぎ、男は目を閉じることすらできませんでした。これは大変辛いことのように思われましたが、呉推官は、とても楽しいと考え、同年の親友に自慢するのをやめませんでした。彼は、観政がおわりますと、四川成都府の推官を授けられました。故郷は任地への途中にありました。彼は座船を雇い、荷葉、南瓜と小間使い、下男の女房たちを引き連れ、先祖の墓に別れを告げ、大奥さまを迎え、赴任することにしました。船が故郷に着きますと、岸に上がり、家に入りましたが、このときは、荷葉、南瓜もさすがに顔を出す勇気はなく、黒い木綿の服を着け、下男の女房の中に混じって立っていました。

 呉推官は、大奥さまと会いますと、挨拶をしました。

呉推官「都にいる間、とてもすまないことをしてしまった。罪を許してくれるのなら、話してあげよう」

大奥さま「先に話をしてから、許しを請えばいいのです。償いができないような、とても失礼なことをしているのなら、謝るだけでは済みませんからね」

呉推官「わしがしたのはよくあることで、何も失礼なことではない。詫びをしてから話をしよう。多分、お前は咎めないだろう」

呉推官は、跪きますと、叩頭しました。大奥さまは、身を避けながら、言いました。

「話しをされないのでしたら、あなたに挨拶はいたしません」

呉推官は叩頭をしますと、言いました。

「お前には身の回りのお世話をする人がいない。年の若い小間使いは、役立たずで、お前は腹立たしい思いをしている。都で二人の妾を手に入れたのは、ひとえに、お前の世話をさせるためだ。お前にはっきり知らせなかったのは、申し訳なかったが」

そう言いながら、二人を呼び、奥さまに叩頭をさせました。そして、荷葉を指差しながら言いました。

「こちらが先に雇った者で、荷葉というのだ」

南瓜を指差して

「これは後から雇ったもので、南瓜というのだ」

大奥さまは、よく見ようともせず、ちらりと目をくれただけで、言いました。

「結構だね。とても立派なことだよ。名前もとてもいいね。荷葉、南瓜には、どちらも大きな葉っぱが生えるからね」

大奥さまは、急に顔を曇らせ、不愉快そうになりました。下男や女房、小間使いがやってきて叩頭をしますと、

大奥さま「この者たちは奴隷の奴隷なのだから、私に叩頭することはない。厨房にお行き。小間使いなら私の小間使いに、女中なら私の女中に管理させよう。私の小間使い、女中と同じように振る舞うことは許されないよ」

言い含めますと、呉推官の相手もせず、身を翻して部屋に行ってしまいました。

 荷葉、南瓜は塀のところに立ったまま、入ろうとも退こうともせず、怒ったり、恐れたり、黄色くなったり、白くなったりしました。呉推官がしょげ返って、部屋に入っていきますと、大奥さまは何も言わず、目もくれませんでした。無理に話をしても、大奥さまは返事もしませんでした。呉推官は出てきますと、こっそり昔の下男の嫁を呼び、言い付けました。

「女房に、二人をどこにおいたらいいか尋ねてくれ。ここに立たせておくのはよくない」

女中は家長のご機嫌をとらなければなりませんでしたので、部屋の中に行って尋ねました。

「奥さまは、新しくきた二人に、どこにいるようにおっしゃったのですか。まだ壁に寄り掛かって立っていますが」

大奥さま「減らず口をたたいて。あの女たちは都でさんざん座っていたのだよ[9]。しばらく立たせたところでおまえが疲れるというのかえ。仏殿か神棚に行かせてお祀りしようとでもいうのかえ」

女房「旦那さまがされたことは、『生米がご飯になった』[10]ようなものです。奥さま、大目にみてあげてください」

大奥さま「まったく腹が立つね。くだらない話しなど聞いていられないよ。さっさと行っておくれ」

女房は呉推官に向かって手を振りますと、台所に行ってしまいました。

 呉推官が途方に暮れていますと、下男が入ってきて、

「旦那さまが、表の広間にきていらっしゃいます」

旦那さまとは、大奥さまの父親、元教官の郷紳で、年は六十余歳、普段から徳のある人といわれていました。彼は、姓は傅、名は善化、号は勧齋といいました。呉推官は舅がやってきたと聞きますと、とても喜び、部屋に入り、大奥さまに言いました。

「お義父さまが表にいらっしゃるから、料理人に、ご飯を作らせ、お引き止めしてくれ」

大奥さまは、首を少し曲げ、何も言いませんでした。彼女は部屋から出て、料理人に命令をしますと、外に出て父親を迎え、お辞儀をし、時候の挨拶を述べ、お祝いの言葉を述べました。呉推官は、都で妾をとったことを、遠回しに舅に話し、こう言いました。

「娘さんは、心の中で、不愉快に思っていますから、宥められてください」

茶を出し、奥の部屋に案内し、話をしました。荷葉、南瓜は、今まで通り、塀の下に立ち、動こうとしませんでした。呉推官が、大奥さまを呼び出し、父親に会わせようとしますと、大奥さまは返事をしました。

「体の調子がよくありませんので、後日、お会い致しましょう」

呉推官は、とりあえず舅を座らせますと、言いました。

「私は、娘さんにお仕えする人がいないので、都で二人を雇ってきたのです。呼んできて、お義父さまに叩頭させましょう」

荷葉、南瓜は、一緒に中に入ってきて、四回叩頭をしました。傅老爺は、立ちながら揖を返しました。二人は、今まで通り、塀のところに退きました。

傅老爺「ここに立っている必要はない。奥へ行ってくれ」

二人は、しばらく立っていましたが、知事さまの許しを得ますと、すぐに奥の部屋に行き、腰掛けて休みました。

 老爺は表の間で尋ねました。

「婿がめでたく家に戻ってきたのに、お前は何の病気で出てこないのだ」

大奥さまは部屋の中で返事をしました。

「婿はめでたく戻ってきましたが、お父さまは娘が不愉快な思いをしていることをご存じないのです」

老爺「何が不愉快なのだ。不愉快なことがあれば、わしに告げるべきなのに、どうして会いに出てこないのだ」

大奥さまはようやく出てきて、言いました。

「先ほどお父さまに会われた二人の綺麗な女は、晴れ晴れとした顔をしていたでしょう。私は、とんぼをきっても、彼らにびんたをくらわすことはできません。あいつが妾を一人とるのも不届きなことなのに、一度に二人を雇うなんて、実に不愉快なことではありませんか」

老爺「わしは別のことで不愉快なのかと思っていたが、こういうわけだったのか。婿が役人になったのだから、おまえは奥方さまということになる。奥方さまというものは、貧乏書生の女房と違い、家事をすることのできる二人の妾を探さなければならないのだ。細かい仕事を、おまえにさせるわけにもいくまい。おまえを尊敬しているというのに、どうして喜ばず、不愉快だなどと言うのだ。役人というものは、たくさんの妾を持つものだ。第一夫人は華やかな生活を楽しむものだ。彼らは働かなくてすみ、楽な思いをすることができ、不愉快な思いをすることはないのだ。婿が久し振りで帰ってきたのは、めでたいことだというのに、妾をとったことに、そんなに腹を立てるとはな。噂が広まれば、人々はおまえの度量が狭いと言うだろう。度量が狭ければ幸福を得ることはできず、奥方とはいえんぞ。わしの忠告を聞くのだ。このようなことはすぐにやめ、あの二人を守ってやれ。そうすれば、おまえが賢いという噂は広まり、誰々の嫁、誰々の娘は、妾を認めたから、とても物分かりがよいと言われることだろう。そうすれば、人の模範となり、父母も誇らしい思いができるというものだ。婿が妾をとったことに腹を立てるのは、家が乱れることを望んでいるということだ。噂が広まれば、わしまで悪口を言われてしまう。よそさまはきっとこう言うだろう。『あの人の母親は誰でしょうね。あのように物分かりの悪い人は、賢い娘を生めるはずもないでしょうね』とな」

大奥さま「妾をとるのは当然のことです。しかし、故郷からは遠くないのですから、まず人を遣わして私に知らせ、結婚することを許してもらえなければ、命令に背けばいいでしょう。私に話しもせず、二三人を家に連れてきたのは、人のことなど眼中にないということです。だから腹が立つのです」

呉推官「わしに悪いところがないのなら、先ほどお前に許しを請うたりするものか。お父さまがいかれてから、もう一度お前に詫びるよ」

 そういいますと、大奥さまは怒るのをやめ、傅老爺に付き従って、酒とご飯を食べました。傅老爺は別れを告げた後も、何度も娘に話をし、家に帰りました。大奥さまは言い付けました。

「奥の部屋の東西の裏間を掃除して、南瓜と一緒に住みましょう」

荷葉は馬纓、南瓜は侯桧と改名しましたが、綿の紬を着たり、髪飾りを着けたりすることも許されませんでした。呉推官は、都で、二人のために衣服、装身具を作りましたが、大奥さまはそれを奪って倉にいれてしまいました。そして、五日交替で、竈番と宿直をしました。悪いことをすれば、罪の大きさによって、容赦なくぶちました。二人のあばずれはおさえつけられ、都での猛々しさはどこへやら。争ったりわめいたりすることはいうまでもなく、おならすら軽々しくしようとはしませんでした。故郷にいるときも、船にいるときも、任地についても、とても平穏でした。二人は、五夜に夜伽をし、呉推官と一回だけ雲雨を行うのを許されましたが、それ以外のときは、呉推官は大奥さまの寝床にいなければいけませんでした。

 呉推官が足るを知り、分に安んずる人であったならば、これでも楽しいと思ったでしょう。しかし、火に当たることができなかった乞食がご飯をたっぷり食べますと、箸を弄ぼうとしはじめるように、大奥さまの教えに従わず、隙があれば悪さをしようとしました。彼は大奥さまが熟睡しているときに、こっそりと布団から抜け出し、こそ泥のような振る舞いをし、しばしばその場で掴まえられました。女が罰を受けるときに、呉推官は肝を据えて彼女のために執り成しをしました。大奥さまがそれを聞かないと、呉推官は大奥さまに腹を立てました。そして、だんだんと身をのりだして女をかばうようになり、ひどい場合は大奥さまの手から棍棒を奪いました。大奥さまは腹を立て、連座法を適用することにしました。彼女は、馬纓、侯桧たち二人のうち、一人でも法を犯しますと、呉推官をも一緒に座らせ、ぶち、罵りました。罰を与え、一度も許すことはありませんでした。呉推官が法廷に出て審理を行いますと、大奥さまは奥で審判を行い、刑庁の役所は七十五司[11]のようになりました。人は叫び、幽霊は泣き、大変悲惨な有様でした。大奥さまは、経歴と隣同士になりますと、経歴の役所に聞かれるのを恐れました。おとなしくしようとは思いませんでしたが、心の中は少し不安になりました。狄希陳が着任しますと、最初は、寄姐は刑庁に罰せられるのを恐れ、あまりひどいことをする勇気はありませんでした。大奥さまは狄経歴に笑われるのを恐れ、あまり凶暴なことをしようとはしませんでした。しかし、お互いに耳を澄ましてみますと、一方が半斤なら、もう一方は八両という有様で、天秤にのせますと、少しも違いがありませんでした。片方が禿げだと言えば、もう片方は目くらだと言い、まるで同じ調子でした。呉推官が役所で罰を受けますと、狄希陳のところではそれを聞いて感嘆しました。狄希陳が役所でぶたれるときは、呉推官はそれを聞いて心を傷ませました。推官、経歴がどちらも罰せられるときは、推官と経歴の女房たちは一緒に悪いことをし、まるで獅子の吼え声が山や谷にこだまするかのように、片方が歌えばもう片方がそれに和するという有様でした。

 十一月十五日に、呉推官は、朝、太守とともに各廟にお参りをしようとしました。大奥さまは、朝、神前で仏を拝もうとしました。夫婦が髪梳き、洗顔を終え、服を着ていますと、料理を作る当番の侯桧が頭を掻きながら、化粧のはげた顔をして、奥から走り出てきました。

大奥さま「何だい。私たちはもう髪梳き、洗顔を終えているのだよ。真っ昼間だというのに、頭はぼさぼさでまるで籠のよう、顔は幽霊みたいじゃないか。私の機嫌を損ねたから、二人とも、中庭に跪くんだよ」

呉推官が機を見るに敏な人であれば、今回は自分が連座していなかったのですから、頭を梳かして役所に行き、行香をし、大奥さまが奥で罰を施すのに任せ、何事もなしで済ますことができたはずです。しかし、彼は鈍感でしたので、大奥さまに言いました。

「馬纓はとっくに髪梳き、洗顔をし、さらに僕が髪梳き、洗顔を終えるのに付き添ったのだ。彼女を許しておやり。働き者と怠け者ははっきり区別しなければいけないよ」

大奥さまは両の眉を逆立て、両目を丸く見張りますと、言いました。

「私はいいましたよ。一人が罰せられれば、三人が連座するとね。今日はあなたが行香に行かれるので、あなたを叱らなかったというのに、他人のとりなしをするなんてね。馬纓の奴は、一人で起きて髪梳き、洗顔をするだけでよく、奥に行って声を掛けなくてもいいわけではないでしょう。もしも家の主が普段からきちんと躾をしていれば、あれだってそれくらいのことはわきまえていたでしょうよ。今日は望日で、主人は行香にいき、女主人は仏を拝むのですから、早めに起きなければならないのです。三人がかりで人をないがしろにするなら、私はあんたが行香をするかしないかには構わないことにするよ」

呉推官をも寝室に入らせ、跪かせました。呉推官は逆らおうとせず、おとなしく部屋に入りますと、寝床に向かってすぐに跪きました。

 太守の役所で二点を告げました。すぐに三回拍子木が鳴らされ、使いが大勢呼びにきました。そして、こう言上しました。

「太爺と糧庁さまは轎に乗られ、儀門で長いこと待ってらっしゃいます」

代わる代わる拍子木を乱打しました。おかしなことに、呉推官は、髭をはやし、眉の濃い男だというのに、度胸がなく、大奥さまの命令がなければ、立ち上がろうとしませんでした。大奥さまはすこしは道理を弁えていましたので、夫を許し

「同僚の方たちが轎で待っています。大目にみて、とりあえず釈放してやりましょう」

ところが、呉推官は跪いていたため、両足が麻痺していました。急いで立上がり、心の中ではすぐに出ていこうとしたものの、立ち上がることができませんでした。前に進み出ますと、転びそうになりました。暫くして、あたふたと轎に乗り、仲間に追い付きました。三人の同僚に会いますと、口はごまかしを言いましたが、胸一杯の鬱憤があったため、二つの目は他人をごまかすことはできませんでした。人々は、うまいことを言っています。「人に知られたくなければ、自分が何もしないこと」

呉推官が恐妻家であることは、とっくに知られていました。それに、下男たちは、誰一人として主人の味方をし、固く口をつぐんだりはしませんでした。門番が何度呼んでも出てきませんでしたので、下男はうっかりこう言ってしまいました。

「旦那さまは奥さまを怒らせ、今、部屋で跪かされているのです。まだ放免されていませんので、出ていくことはできません」

 彼らの門番は、その話を聞きますと、こっそりと轎の脇にいき、それぞれの上官に話しをしました。同僚たちは、実は、自分の家の前の雪を掃除しろ、灯明をとって自分を照らせ、といわれるような有様だったのですが[12]、自らを欺き、自分のことは棚に上げて、呉推官のことを笑いました。そして、ある者が喋れば、別の者が喋り、冬瓜を指差して、槐の木だと言うように[13]、馬鹿にしました。呉推官は腹を立てましたが、無理に怒りを抑えました。そして、行香をおえ、別れを告げて役所に帰りますと、腰をかけて書き判をしました。そして、文書の送付、受領をし、成都県の知県を茶で接待し、送り出しました。その後、府の首領、経歴、知事、照磨、簡較[14]、県丞、主簿、典史、駅丞、倉官、巡簡[15]、成都衛の千百戸鎮撫[16]、僧綱[17]、道紀[18]、医学、陰陽など、四五十人の文武の官員が、会いにきました。

 庭参[19]が終わりますと、呉推官は無理に人払いをし、こう言いました。

「我々は髭を生やした男だが、いつも女に指図されている。今日は寒く、雪が降っているから、みんなを検査することにしよう。役人としての評判を調べるのではない。だれが恐妻家で、だれが恐妻家でないか、恐妻家とそうでない人の数を調べるのだ。みんなは北に向かって立ち、わしが点呼をするのを待て。はっきり口にする必要はないが、それぞれ良心をもち、自らを欺いてはならぬ。強い夫のふりをすることは許されない。人を欺くのは、天を欺くことだ。点呼を受けたら、恐妻家は月台の東に、そうでないものは月台の西に立つがよい。わしは第一の恐妻家だから、まず東に立つことにしよう」

 一人一人の点呼が行われますと、東に立つ者は十中八九で、西に立つものは十のうち一二もいませんでした。ところが、狄希陳は名を呼ばれますと、あたふたとして為す術もありませんでした。彼は東側にいったかと思うと、西側にいったりしました。西側にいったかと思うと、月台の真ん中にいって北向きに立ったり、歩いたり立ったりしました。呉推官は尋ねました。

「狄経歴は東に行ったり西に行ったり、西に行ったり東に行ったり、落ち着きがありませんが、どういうことですか」

狄希陳は進み出て報告しました。

「推官さまがはっきりとお話にならなかったからです。妾も怖がる人は、どちらに立ったらいいのでしょうか」

呉推官は笑いますと、こう言いました。

「これは難しい。ほかにもそのような人がいれば、真ん中で北向きに立ってください」

妾を怖がるのは狄希陳だけでした。後ろには禿頭の和尚が立っており、僧帽をかぶっていました。また、綸巾、黒い絹の円領、牛の角の黒帯、黒い靴を着けた道士がおり、進み出てきて報告しました。

「わたしたちは僧綱、道紀ですので、妻はありません。どうか私を立たせることはお許しください」

呉推官「和尚、道士には妻はいませんが、弟子がいないわけではないでしょう。弟子を怖がる人は、やはり東側に立たれてください」

すると、二人の和尚、道士は顔を赤らめ、うなだれながら、東側にいき、役人たちの後ろに立ちました。西側を見ますと、二人の役人しか立っていませんでした。一人は府学の教官で、年は八十七歳、妻に先立たれて二十二年、やもお暮らしをしており、後妻をとっていませんでした。もう一人は倉官で、北直隷の人、道が遠いために家族を連れてきていませんでした。

呉推官「こうしてみてみると、世の中の男には、恐妻家でない者はいない。陽が衰え陰が盛んな世の中では、君子が小人を恐れ、生者が幽霊を恐れ、夫は妻を恐れるのだ。先ほど、わしは妻を怒らせ、引き止められ、すぐに役所にくることができなかった。知事さまと両庁[20]の幕僚たちは、わしを馬鹿にした。まさか彼ら三人が赤毛の野蛮人で、南贍部州大明国の人ではないというわけはあるまい。わしはこのことが信じられなかった。そこで、一つには暇だったので、みんなで楽しむため、一つにはこの世の中に恐妻家でない人がいるかどうかを知るためにあのようなことをしたのだ。考えてみると、二十数年やもお暮らしをしている老先生と、家族を同伴してこなかった一人を除けば、恐妻家の数は四五十人を下らない。出身地も六七省にまたがり、風俗、言葉も違うが、恐妻家であるということは共通している。どうして知事さまたち三人はあのように涼しい顔をしていたのだろう。これは『わしは誰をだますのか。天をだますのか』[21]ということではないか」

 五十数歳の、医学正科の老人が報告しました。

「知事さまは恐妻家です。夏に大奥さまに逆らったとき、大奥さまは知事さまの鼻にびんたを食らわしました。鮮血が流れ、とまりませんでした。急いで医師を呼んで治療をさせ、たくさんの驢馬の糞を焼いて鼻に吹き込みますと、ひとまず血は止まりました[22]。しかし、鼻血が持病となり、定期的に発病するようになりました。推官さまを馬鹿にすることはできません。軍庁の胡さまも、しばしば奥さまに殴られています。あの方は逃げることができず、頭をぼさぼさにし、裸足のまま、役所に出てこられます。糧庁の童さまの奥さんはもっとひどい方です。童さまが役所に避難されると、奥さまも役所に追い掛けてきて、お仕置きをし、説教をしようとしました。書吏、門番、捕り手が、丹墀に跪き、童さまのために許しを請いますと、奥さまは人々の面子を立て、ようやく童さまを許しました。その後、下役が悪いことをしたときに、童さまが彼らを責めようとしますと、彼らは『某月某日、奥さまが役所で旦那さまを罰しようとされましたが、私たちは何度も旦那さまのために哀願致しました。どうかそのささやかな功績を考慮され、今回はとりあえずお許しください』と言いました。そこで、童さまも我慢するしかありませんでした。推官さまには恐妻家の気がありますが、奥さまに鼻を殴られたことも、奥さまが役所に現れたことも、下役に執り成してもらったということもありませんから、笑い者にしたりするのはおかしなことです」

呉推官「それは初耳だ。このようなことを知っていれば、彼らに馬鹿にされることもなかったのに」

医官「推官さまは裁判をされ、外にいることは多く、家にいることは少ないので、ご存じなかったのです」

呉推官はその医官にとても感謝しました。後に、ある人がその医官の地位を手にいれようとしましたが、呉推官が人事を取り仕切りましたので、地位を奪われることはありませんでした。これは後のことです。検査が終わりますと、呉推官は言いました。

「今日は、わしがみんなと同じ仲間であることが分かった」

まさに、

あれこれ頼むことはなし

同じき会の人なれば

 

最終更新日:2010118

醒世姻縁伝

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[1]一種の武冠。前に出てくる紗帽が文官を指すのに対し、こちらは武官をさしている。唐張鷟『朝野僉載』巻五「主帥魏昶有策略、取舎人家奴、選年少端正者三人、布衫籠頭至衛」。

[2] 『六科准縄』によれば、羌活一銭五分、防風、蒼朮各一銭、細辛五分、川芎、白芷、生地黄、黄苓各八分、甘草六分を用いて作る薬という。

[3] 『易簡方』によれば、人参、紫蘇梗葉、千葛、前胡、半夏、赤茯苓各七銭五分、枳殻、陳皮、苦橘梗、甘草各五銭を用いて作る薬という。

[4]未詳。ただし、麻黄散という薬はあり、『千金方』によれば「麻黄、升麻、葛根各一両、射干、鶏舌香、甘草各五銭、石膏五勺を用いて作る薬という。

[5]原文「単単只重的是色、也不看看自己有上唇没下唇就要吹簫」。義未詳。いずれにしても、容色を重んじるあまり、家にいる妻を忘れ、柄にもない浮気をしたという意味であろう。

[6]玉河橋とも。玉河は紫禁城の護城河で、玉河橋は南、中、北の三つがあるというが、ここでいう御河橋がそのどれにあたるかは未詳。朱一新等撰『京師坊巷志』巻二、内城、東江米巷「東西河沿、橋三。在城根者曰南玉河橋。玉河水由此出水関、入護城河。江米巷者曰中玉河橋。橋東路北小胡同曰勾張胡同。在長安街者曰北玉河橋」。

[7]原文「声罪致討」。未詳。

[8]原文「教婦初来」。『顔氏家訓』教子第二「俗諺曰『教婦初來、教兒嬰孩』誠哉斯語」。

[9]原文「他京裏大鋪大量的也坐彀了」。ここでの「坐」は「座る」という意味のほかに、情事を行うという意味を持っていると思われるが未詳。「做(する、やる)」と同音なのでそれと引っかけているか。

[10] 「取り返しが付かない」の意。

[11]七十五司。未詳。

[12]原文「這各同僚們其実只掃自己門前雪、把燈台自己照燎」。「只掃自己門前雪」は「莫関他家瓦上霜」と続き、「他人のことに構うな」の意。「把燈台自己照燎」は、「燈台照人不照己(灯明台が人を照らすが自分は照らさない。自分を棚に上げて他人の欠点をあげつらう)」という言葉をふまえ、やはり「他人のことに構うな」の意。

[13]原文「指東瓜、説槐樹」。でたらめを言うの意。

[14]官名。検校官。府にのみ置かれた。簡較と検校は同音。

[15]官名。巡検使ともいう。県令の属官で、兵士の訓練、巡邏などを司る。

[16]官名。鎮撫司。諸衛の都指揮使司におかれ、刑名を司った。

[17]府の僧官長。『清会典』礼部十一・祠祭清吏司「凡僧官道官皆註於籍」原注「直省僧官、府曰僧綱、州曰僧正」。

[18]府に属する、道教を司る官。道紀司、道録司。『称謂録』道官・道紀「礼部則例、凡直省道官、府曰道紀」。

[19]属吏が長官に初見するときに行う儀礼。腰掛けている長官を属吏が跪拝する。

[20]通判、同知をいう。

[21]原文「吾誰欺。欺天乎」。『論語』子罕。

[22]驢馬の糞を焼いたものに鼻血を止める効力があることは、『本草綱目』に見える。明李時珍『本草綱目』驢・屎「焼灰吹鼻、止衄、甚效」。

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