第九十回

善良な婦人が死んで仙人になること

孝行な息子が病んで薬をえること

 

昔より優れた男は多からず

閨房にかへつて賢き人ぞある

善美なさまは書ききれず

あらゆる良さが揃ひたり

天から賜はる五つの福

寿命は古今第一で

ただ舜にのみひけをとる

孝子は親を喜ばせ

墓守りをして痩せ細る

仙人は賜ふ丹薬を   《林江山》

 諺に「毎年倹約を心がけよ、毎晩盗賊に気をつけろ」と申します。この二句はただの諺ではございますが、日常重んじるべき最高の言葉であります。ところが、「毎年倹約を心がけよ」といわれても、農民は収穫が多ければ安心し、盆や盒子に入った穀物を、汚い土のようなものと見做し、眼中におきません。そして、贅沢をする費用は、すべて穀物から出そうとします。地方官が常平法[1]を行わず、収穫が多いと、人々はますます消費するようになり、食糧の値はさがります。一石の米、一石の麦は、五六銭でも売れなくなります。とうもろこし、蕎麦、大豆、小豆、雑穀は、一石が二三銭にもなりません。十数石の食糧を売っても、何の儲けにもなりません。深い見識のある人なら、消費を少なくし、食糧を買い込み、凶作の年に取り出して高く売ることでしょう。どこの家でもこれと同じことをすれば、国は豊かになるはずです。こうした弊害は、江北の地でよくあることです。北方では、いつも凶作になるということはありませんでしたが、急に凶作になると、人々は大わらわとなり、草の根を掘ったり、木の皮を削ったり、人間同士で食べあったり、あらゆることをするのでした。

 これからは晁夫人のその後のお話をしようと思います。ほかの場所の様子をお話しする時間はございませんので、武城県のことについてのみお話し致しましょう。成化帝が即位されてからというもの、天下は泰平、五穀は豊饒、人々は豊かで満ち足り、十余年続けて豊作でした。しかし、世の中というものは、平和なときもあれば混乱するときもあり、栄えるときもあれば衰えるときもあるものです。これは君主に徳があってもどうすることもできないことです。成化帝は仁徳のある君主でしたので、国は平和で安泰でした。十四年目になりますと、年が明ける前の十二月に、続けて三回の大雪が降りました。昔から「十二月の雪は元気を養う」といわれ、麦の根がしっかりと育てられるものです。正月になりますと、さらに三回雪が降りました。『月令広義』[2]には「正月に三回雪が降れば、農夫はにこにこ」とあります。清明になりますと、麦の苗は一尺あまりに伸び、生い茂りました。ちょうど良い時期に雨や雪が降れば、地面は潤うものです。春の耕作がおわりますと、綿花、とうもろこし、きび、たかきび、稲を蒔き、人を雇い、田をすきました。四月になりますと、麦は人の腰ほどの高さに育ちました。麦の穂は一虎口程の長さがありました。農書には「粟は三千粒、麦は六十粒が、十分な実りといえる」[3]とあります。成化十四年の麦は、一つの穂に、粒がたっぷり七十あまりありました。農民たちは、麦が十二分の出来栄えであるのを見ますと、古い食糧の重みで倉の床が抜ける恐れがあったため、倉の壁を壊し、食糧をすべて運びだし、安売りをし、新しい麦を収穫するのをまちました。ところが、四月二十日前後になり、麦が七八分熟れますと、ちょうど甲子の日に雨が降り始め、一日中昼も夜も、盆をひっくり返したように、七八日降り続きました。雨が止んでも、間もなくすると、ふたたび降りだしました。農家の人々は干ばつに強い麦でも雨は必要だし、水害に強い穀物でも干す必要がある」といいますが、長雨で晴れなかったため、麦は茎も穂も腐り、ひどい臭気でした。玉蜀黍、綿花、黍、稷(たかきび)、粟、稲の類いは、水に漬かって浮草、金魚藻のようになりました。夏の麦はとれず、秋の穀物も絶望的でした。金持ちの倉は十の蔵のうち九は空でした。貧民は飢えを凌ぎ、衣装を質に入れ、子供を売り、あっという間にまれにみる凶作の年となりました。人々は大勢で災害の報告書を提出しました。

 県知事は府、道が上申書を送ることだけを恐れていました。両院が事実の報告をし、税の徴収が停止されたり、改折が行われたりしますと[4]、県知事は悪さをすることができなくなるからでした[5]。そこで、上申書をおさえ、報告をしませんでした。租税や米麦は、今まで通り期限を定められ、五日に一回比較が行われました。期限までに納税しませんと、拶子と夾棍に掛けられました。従わなくてもいいのですが、このような凶作の年には、お上の法律は竈のように苛烈でした。彼らはありとあらゆる手段で人民を責めさいなみ、その年の税金を十分に徴収しました。さらに、その年は四千三百石の漕米[6]を徴収することになっていました。もしも人民のためを思う県知事であれば、この災害をお上に報告し、両院に文書を作るように頼み、改折をしていれば、人民にはまだ助かる見込みがあったかも知れません。しかしたとえ改折が行われたとしても、倉役人への賄賂にする金を借りることはできませんでしたし、米を買うこともできませんでした。ですから、役所が一生懸命人民から搾取しますと、人民たちは、お上の罰には耐えられない、飢えて死んだ方がましだと考え、官糧[7]を延納しようとはしませんでした。穀物を完納したのは、財産を持っている人々でした。ひたすら死ぬことだけを願う本当に貧しい人は、皮や骨すらなくなり、漕米を納めることなどできようはずがありませんでした。まず里長、徴税係の比較を行い、その後は花戸[8]を捕縛しました。引き出しますと、板子打ちにし、二三人を一つの枷に掛けました。彼らには棒瘡[9]ができ、食べるご飯もなく、十人中十人が死ぬのでした。枷をかけられた花戸か、鎖をかけられた良民、脚が目茶苦茶になった里長でなければ、枷に掛けられた人の死骸があちこちに見られるというありさまでした。

 晁梁は家で晁夫人とともにこの悲惨な有様について話をしました。母子二人は考えを巡らし、完納されていない米を貧乏人に代わって引き受けようとしましたが、納められていないのがどれだけの量なのか分かりませんでした。納められていない量が多すぎ、力が及ばず、善行を行うことができないことが心配でした。そこで、人を戸房に行かせ、納められていない実際の量を調べますと、未納額は千三百石でした。これなら何とか負担することができましたので、晁梁に翌朝県庁への上申書を提出させました。

本県の儒学廩膳生員晁梁が生き残った人民を救うことについて。

本県は今年古今未曾有の水害に遭いました。貧民は普段から蓄えがなく、人頭税を納めた後、皮も髄も枯れ果て、未納の漕米を納めるのは容易なことではありません。未納分をくわしく調べてみますと、まだ千三百石足りません。私は母の命を奉じ、家族の食事を節約し、積年の蓄えを集め、貧民に代わって漕米を完納致したく存じます、知事さまには、捕縛、処罰を緩やかにしていただきますれば、幸甚に存じます。

以上、上申致します。

 そもそも晁梁は、役所に出入りして、公務に関わったりすることはまったくありませんでした。彼は四六時中、県知事に極めて丁重な贈物をしておりましたので、県知事から丁重に扱われるようになっていました。その日、晁梁が儀門で待っていますと、聴事吏はすぐに取り次ぎをしました。県知事はこういいました。

「しばらく賓館でお掛けになっていてください。仕事が終わったら、お会い致しましょう」

まもなく、県知事が賓館に出てきました。そして、晁梁に挨拶をさせず、深々とお辞儀をして席を勧めました。晁梁が人民にかわって税を完納することを報告しますと、県知事は喜んだり驚いたりしました。そして、上申書を見ますと、晁梁を褒め、こう尋ねました。

「人民たちが納めていない税はどれだけあるのですか」

晁梁「まだ千三百石ございます」

県知事「代納することを承知されましたが、いつ完済することができるのですか」

晁梁「人民たちは、以前は籾殻、糠、草の実を食べることができましたが、今は籾殻、糠、草の実もなくなり、皮、毛はおろか、白骨すら保つことができません。これ以上租税を取り立てれば、騒ぎを起こすか、全員が野垂れ死にするかするでしょう。私は母の命を奉じ、一生懸命米を集め、武城県のために残された数人の人民を救おうと思います。一生懸命集めますので、二十日までに完納するということにしてください」

県知事「二十日でも遅いとはいえません。お話しを承ったからには、ご厚意を掲示にして人々に知らせ、比較を行うのをやめることといたしましょう。しかし、二十日を過ぎると、糧道が米の徴収を催促し[10]、立派な善行は無駄になってしまうことでしょう。米が完納されれば、私は必ず上司に報告し、両院に頼み、文書を作り、天子さまからご褒美が頂けるようにいたしましょう。来年が豊作であれば、人民たちに、代納した分を償還させることといたしましょう」

晁梁「私たち母子は、お上に知らせることを望んでおりませんし、人々に償いを求める積もりもありません。この土地が平和になり、他人も自分も得をすることだけを望んでいるのです」

県知事は褒め、二回茶を飲みますと、家に帰るのを送りました。県知事はすぐに戸房に掲示を出させ、人々に知らせました。告示にはこう書かれていました。

武城県知事が未納の漕米を代納し、生き残っている人民を救うことについて

本県は夏の長雨により、凶作となった。本官は人民の父母であり、血気、眼光は失われてはいない。したがって、わが人民がひどく苦しみ、体が損なわれていることを知らかったわけではない。下々の状況をお上に伝えることはできない。法で定められた税は除くことは難しい。思いやりの心はあっても、鉄を金に変えるような術がないため、期限を設けて厳しく比較を行い、惨たらしい刑具を用いざるをえなかったのである。今回、儒学の廩膳生員晁梁が文書を提出し、「本県は今年古今未曾有の水害に遭いました。貧民は平素から蓄えがなく、租税を収めた後は、皮も髄も枯れ果て、未納の漕米を納めることは困難です。今回、未納分をくわしく調べてみると、まだ千三百石が足りません。私は母の命を奉じ、家族の食事を切り詰め、積年の蓄えを集め、人民に代わって租税を収めたいと思います」と言い、県に捕縛と比較を緩めるように頼んだ。このような義挙は、すみやかに通知を行うべきである。そこで、告示して徴税係、花戸に知らしめるのである。晁生がおまえたちのために租税を代納するから、以後は比較を行わないことにする。人民に良心があれば、明年豊作となったら返済をし、晁生の善意に背くことがないようにせよ。

特に告示する。

 晁梁は家に戻り、租税を代納することを晁夫人に報告しました。晁夫人はとても喜び、各荘園の執事を城内に呼びました。そして、蓄えの量によって、穀物を出させ、米を石臼で挽き、租税を収めることにしました。荘園の管理人は晁夫人のいうことに従い、すみやかに、十二日間で、千三百十四石五斗八升の米を次々に納めました。県知事は人に命じて波止場に輸送させ、徴税係を家に帰らせました。県知事は吉日を選び、自ら晁家に赴き、晁夫人と晁梁のために額を掛けようとしました。その日はちょうど十月一日で、晁夫人の誕生日でした。県知事は扁額を準備し、佐貮典使を引き連れ、礼服を着け、自から晁家にいき、晁夫人のために緑の地に金字の「菩薩後身」の額を掛け、晁梁のために白地に青の「孝義純儒」の額を掛けました。晁梁は酒を並べてもてなしましたが、郷飲[11]に赴くため、長いこと座っていることはできませんでした。

 武城県の各村の里老、収頭[12]、排年什季[13]は、晁夫人母子の恩に感激しました。そして、お金を出し合って、和尚、尼、道士を呼び、晁夫人のために法事[14]を行い、彼女が百二十歳生きられるように祈願しました。晁夫人は、毎年城内の常平倉に貯えてあった米穀を安い値段で売って人民を救いました。また、各村に命じて、漕米を石臼で挽いた糠を城内に運ばせ、米を買うことのできない貧乏人の家に与えました。

 胡無翳は毎年晁夫人の誕生日になるたびに、お祝いにやってきました。その年の冬は、凶作であったばかりでなく、様々な疫病が流行しました。胡無翳は、数年来医学を学び、名医になっていました。晁夫人は彼を真空寺に泊まらせました。そして、三十両の銀子を与え、臨清へ行き、土地の生薬を買い、丸薬を作り、人々を救うように頼みますと、胡無翳はとどまることを承知しました。胡無翳は腕前も高く、病人は救われる運命にありました。あっという間に病気はおさまり、百人が薬を飲めば、九十九人が良くなりました。翌年の春になりますと、農作業が始まりました。晁夫人はさらに彼らのために牛の餌や種を貸してやり、農作業に復帰するように勧めました。

 武城県の役人は、福建の人で、姓を柯、名を以善といいました。彼は本当はあまり良い役人ではありませんでしたが、このような苦難を救う菩薩が現れますと、自分が行ってきた悪事を恥ずかしく思い、秘められていた良心を刺激されました。そして、このような凶作の年に、人民に厳しく催促をしたことを深く後悔しました。彼は晁夫人が今までしてきた善行、すなわち、現在人民に代わって漕米を完納し、安い値段で米を売って人民を救っていること、薬を施して病気の治療をしていることを、文書にして上級機関に報告しました。毎年飢饉だったため、金持ちは銅銭や穀物を家に貯えながら、門をぴっちりと閉めていました。彼らは人民を見殺しにしたのは言うまでもなく、平素つきあいがある親友たちにも、一文も援助をしようとしませんでした。友人はもちろん、父方の親戚、母方の親戚、妻の親戚は、飢え、凍えているのを見ても、彼らに半升の米、一束の糸も与えようとはしませんでした。お上はこのような薄情な気風を憎んでいましたので、仁徳を積んだ范文正公のような女がいることを聞きますと、彼女を尊敬しました。人々は彼女を讃え、人々に義を尊ぶことを勧めようと考え、両院に合同で原稿を書き、文書を作るように促し、両院は晁夫人母子が正月に飢饉救済をしたことを上申しました。成化帝は批語を加え、部に文書を下しました。

 ところが、部の房科では、命を受けた役人さえも、晁梁が賄賂を贈ってきてから、恩典を与えることを請求しようと考えていました。しかし、晁夫人母子は徳行を施すだけでよく、人に知られることは望んでいませんでした。一か月ほどたっても、動きはなく、紅本[15]は放置されたままでした。成化帝は英明な方で、世の中に善人がいることを知りますと、撫院、按院が推挙を行うかどうか、常に気に掛けていました。成化帝は報告書が上呈されるのを待っていましたが、報せはありませんでした。そこで、成化帝は、突然厳命を下しました。しかし、司官は大胆にもそれを気に留めず、二三日たってから、ようやく報告を行いました。成化帝は激怒し、部に報告書を出させるのはやめ、以下のような批語を書きました。

鄭氏は飢饉に苦しむ人民を救ったが、これは古の義士でも成し得ないことである。晁梁は母親の意思を受けて行動したが、その孝行は表彰するにたるものである。鄭氏は三級を加え、三品の誥命を与える。晁梁には特に文華殿中書舎人を授け、俸給を支給し、事務に当たらせる。部はぐずぐずして報告書を出さないが、賄賂を取ろうとしていることは明らかである。とりあえず深く追及はしないことにする。長官は三か月の罰俸、司官は免職にして平民とし、併せて書吏も、刑部で捕縛し、審問を行う。

 都の乞食たちは、その知らせを聞きますと、昼夜兼行で武城県に吉報を届けにきました、晁夫人は、彼ら全員をもてなしました。数日足らずで、吏部は撫院に咨文を送り、晁梁を都に送って官位を授け、晁夫人の誥命を受け取らせることにしました。武城県知事は文書を奉じ、自ら晁梁の家に行き、出発を促しました。晁梁は県庁に上申書を提出しましたが、そこにはこう書かれていました。

本県の儒学廩膳生員晁梁が自らへの恩典を辞退し、分に安んじ、老母に仕えることについて。

私は天子さまから恩典を授けていただきました。すなわち、母親は飢饉の救済をし、穀物を代納した件につき、三品の誥命を賜わり、私は文華殿中書舎人を賜わり、俸禄を支給され、事務に当たることとなりました。まことに千載一遇、人生で滅多になく、求めても得られることで  はありませんので、偽りを述べてご辞退申し上げるわけにもまいりません。しかし、私はかねてからこう考えておりました。事実に基づきお願い申し上げます。生母の誥封宜人鄭氏は、今年百四歳です。私は母の胎内にいたときに父を失い、四十年来、朝晩母の膝の下で、昼は食事、夜は寝るのに付き添ってまいりました。歳考や郷試のとき、母は私を一人でいかせるには忍びず、必ず私とともに試験に赴きました。今や母は高齢で、歩行も困難ですので、私は功名を得ることを敢えて望まず、三回も科挙に赴きませんでした。今回、私は都に赴いて官職を授けられることとなりましたが、故郷には百四歳の老母がおり、連れていくことはできませんし、一人で行くのは心配でたまりません。ですから、有り難い勅命をお受けするわけには参りません。豆を食べ、清水を飲み[16]、錦を着て踊り、親を喜ばし[17]、舜や堯のような聖天子の治世を享受することができれば、身に余る光栄です。知事さまには人情をよく理解され、宜しく辞退していただきますようお願い申し上げます。老母が勅命をいただいたのは、天子さまの大いなるご恩、風俗を正し、世の中を教化する恩典であります。息子で生員の晁冠を都に赴かせ、恩典を受けさせることをお許しください。以上、上申いたします。どうか文書の通りにお取計らいください。

柯知県は仕方なくかたく辞退し、彼の上申書に基づいて、文書を作成し、報告を行いました。しかし、両院は何度も都に赴くように勧めました。程なく、文書を作成し、彼のことを報告しますと、彼が母親を死ぬまで養ってから都に赴いて官職を受けることを許す勅旨が下りました。晁冠は力仕事用の下男をつれ、たくさんの銀子を送り、使うべき金をすべて用意しました。九月になり、勅命に玉璽が押されますと、昼夜兼行で掛け戻り、十月一日の晁夫人の誕生日のときに勅命を迎えることにしました。

 さて、晁夫人の百四歳の誕生日には、金持ちたちが、みんなやってきました。このような盛大なお祝いでは、立派な酒席でもてなされることはいうまでもありませんでしたし、ただ見るだけでも、滅多にない体験というものでした。ですから、親戚友人や、救済を受け、安い値段で穀物を売ってもらった城内城外の人々も、十人のうち九分九厘がやってきました。酒席は準備されていましたが、やってきた客が多かったため、全員の席がありませんでした。そこで、酒肴は一か所に集めて一人一皿、饅頭は一人二つ、茶は大杯一杯とし、とりあえず帰ってもらうことにしました。そして、別に日を決めて酒宴に招くことにしました。晁梁は自ら文書を作り、母のために自費で百歳牌房[18]を建てることを請求しました。やがて、勅命が下り、人を雇って建築が行われました。県知事は自ら棟上げ式にやってきました。また、たくさんの友人がお祝いにきました。

 その日、晁夫人はとても嬉しく、三月三日の、暖かくも寒くもない時期でしたので、客が去ってからも、春鶯、晁梁夫婦、孫の晁冠と話しをし、二更になりますと、眠りました。夢の中では、月の光がとても明るく、まるで昼間のようでした。通りに面した門では、太鼓や笛の音が響き、羽盖[19]、旗仗が、金冠を被り、朝衣を着けた天神を導いていました。彼らは入り口にきて馬からおり、中に入りますと、南に向かって腰掛け、晁夫人に香机を置かせ、着替えをして詔を受け取らせることにしました。晁夫人は、香机を並べ終わりますと、礼服に着替え、香机の前に跪きました。天神は詔を読みましたが、大変よく通る声でした。読まれるのは文章語でしたから、晁夫人はあまりよく分かりませんでしたが、詔には「天下の名山の主には、仁徳の厚い者が必要である。鄭氏は大変な善行を積み、言葉では述べ尽くせないほどの麗しい行いをしたので、特旨により、ここに嶧山山主に任命する」

天神は詔を読み終わりますと、晁夫人にお祝いの挨拶をし、晁夫人が自ら赴任の時期を決めるように頼みました。晁夫人は三月十五日の子の刻に世を去ることを約束しました。晁夫人は晁梁とともに天神を外に送って馬に乗り、天神が儀仍を従え、空を飛んで東南へ去っていくのを見送りました。

 晁夫人がこの奇妙な夢から目覚めたのは、ちょうど五更でした。晁梁は四十余年、ずっと晁夫人の奥の間で仕事をしていました。晁夫人が目を覚ましますと、晁梁も夢から覚めました。晁夫人は晁梁をよび、寝床の前に立ちますと、自分が夢で見たことを話しました。

晁梁「私が先ほど見た夢は、お母さまが夢で見られたことと少しも違いません。夢の中で、仏閣に天の詔を置こうとしたところ、足を踏み外し、びっくりして目が覚めたのです」

晁夫人「母子で同じ夢を見たのだから、きっと正夢に違いない。私は三月十五日の子の刻に世を去ることを約束した。あと十数日しかない。準備を整えておくれ。そのときになって準備がないために、慌てるようなことがあってはならないよ」

晁梁と姜氏は泣きました。

晁夫人「まったく子供みたいだね。私は百五歳まで生きたのだ。昔から今まで、この世の中で、私より長生きした人はいないよ。それなのに泣くなんて。私に彭祖[20]になれというつもりかい」

晁梁「私はお母さまが彭祖になればいいと思っています」

晁夫人「お前の兄さんは私の長男だが、腕白で悪さをしたため、私は六十歳でも落ち着いて暮らすことができなかった。おまえが生まれ、嫁を娶ってからは、気楽に四五十年を過ごすことができた。おまえの兄さんが生きていれば、あらゆる悪さをし、他の人から搾取をすることだけを考え、このような善いことを行うことはできなかっただろう。おまえたち夫婦は孝行者で、よろずにつけしっかりしている。私はおまえたちに言うことはない。常平倉で米を買ったり売ったりすることは、決してやめてはいけないよ。ここ数年、天は私たちを守ってくださっている。毎年数万人を救っているが、元手を失ってもいない。小l哥たち二人の面倒をよくみてやるのだよ。おまえは一人で手助けをしてくれる人もないが、あの子はおまえを助けてくれるだろうし、晁家の跡取りでもある。それにあの子は秀才でもあるから、おまえと一緒に勉強することができるだろう。万一一緒に住むことができなくなれば、別れてもいいが、あの子に辛い暮らしをさせてはいけないよ。陳師娘はかわいそうな人だ。あの人を養っている以上、人々があの人を馬鹿にし、あの人の居場所がなくなるようなことがあってはならないよ。おまえがまた子供を産んだら、お前の兄さんの跡取りにしようと思っていたが、生まれなかった。兄さんの棺を城外に長年置いていたのは、よくないことだ。私の葬式を出すときに、一緒に埋葬しておくれ。私の棺も、長いこと置いたままにしてはいけないよ。長くても五七を過ぎてはいけないよ。墓にはきちんと煉瓦が積まれているのだから、開けばすぐに埋葬をすることができるだろう」

晁夫人は嬉しそうに言い含めましたが、晁梁と嫁、春鶯は泣きながら聞いていました。

 話しをしていますと、夜が段々明けてきました。晁夫人はまだ居眠りをしていましたが、起き上がりますと、晁梁が準備をする前に、杉の棺を近くに運ばせ、濡れた布で綺麗に拭きました。作っておいた死に装束を、縄に吊して干し、上着、肌着の衣服、帯をしっかり点検しました。そして、すぐに人を呼び、白い綾の孝幔、晒のテーブル掛けを作らせました。また、平機の孝布を買わせ、四五人の裁縫師を呼び、急いで喪服を作らせました。また、縄をなって冠を作らせ、一切の葬具をきちんと準備させました。街の親戚や友人は、晁夫人が葬式の準備をしていることを聞きますと、自分の実の母親が死ぬときのように、みんなで見にきました。知り合いでないものも様子を見にきました。晁夫人は頭が痛くなったり熱が出たりすることもなく、耳が聞こえなくなったり目が霞んだりすることもありませんでした。そして、髪をつやつやに梳かし、顔を綺麗に洗いますと、いつも通り客を接待し、茶やご飯に付き添い、にこにことしていました。まもなく死ぬ人には見えませんでした。人々はみな言いました。

「『春の三か月には、正夢はない』といいます。春の夢はあたりません」

晁梁は和尚、道士を呼び、廟でお経をあげ、法事を行い、仏に安全を祈願し、神や仏に懺悔し、祈り、夫妻と息子の寿命を十年縮め、母親をあと三十年生かしてくれるようにと頼みました。さらに、橋が壊れたら補修すること、道路、堀を補修すること、凶作のときは救済をすること、生き物を放生すること、単衣を着て精進物を食べ、念仏を唱えて香を焚くことなど、何でも約束しました。彼は夢を見た日から、昼も夜も、まるで子供を失ったときのように、たえず唸り、ご飯も食べませんでしたので、黒く痩せ、幽霊のようになってしまいました。

晁夫人「晁家の先祖の祭祀はお前が継ぐのだよ。読書人なのに、道理を弁えず、大きな目で物事を考えない。どうしてそんなに愚かなのだえ。天は私を嶧山の神にしようとしているのだ。いいところにいくというのに、喜ばずに、悲しむつもりかえ」

晁梁に、二碗の粥を食べるように迫りました。

 時がたつのは早く、瞬く間に、三月十四日になりました、親戚、友人はみな、晁夫人に別れを告げにきました。晁夫人は優しい言葉を掛けて慰めました。さらに、箱の中の服や装身具を人々に分け与えて形見にしました。日が落ちますと、一族の女たちと娘の尹三嫂が晁夫人が仙人になるのを見守ることになりました。そのほかの人々は別れを告げ、去っていきました。晁夫人は静かな部屋の中で沐浴、着替えをし、喜んで座禅を組んで待ちました。三月十四日の晩になりますと、星と月が輝き、風と空気は清く爽やかでした。霊牀を用意し、孝帳を掛け、三更になりますと、晁夫人は霊牀に移ってじっと座りました。すると、東南からいい香りがし、仙楽の音が聞こえてきました。晁夫人は目を閉じますと、座ったまま亡くなりました。家中の者たちは、声をあげて悲しみました。

 晁夫人は生前、彼女が死んだ後、死体を寝床に横たえるように、坐化したといって凡人を惑わしてはならない、和尚や道士に法事を行わせてはならないといっていました。晁梁はすべて言われた通りにしました。晁梁は悲しみに堪えず、三日後に納棺をおこないましたが、晁夫人は顔色が生きているかのようで、香りは長いこと消えませんでした。四日間喪に服しますと、城内の者が金持ちも貧乏人も、男も女も、老い若きも、すべて喪服に着替え、仕事をやめ、哭礼をしにきました。城内城外、大小の寺院は、晁梁には内緒で、晁夫人のための法事を行いました。県知事は祭帳[21]を作り、佐貳学官を連れ、晁夫人への供物をそなえにきました。晁梁は郷宦[22]にお相伴をしてもらいました。ところが、酒を準備してもてなそうと思い、城内を探し回りましたが、豚肉や鶏や鵝鳥は、どこにも売っていませんでした。事情を尋ねますと、晁夫人が亡くなったため、屠殺人が商売をやめ、豚を殺そうとしないのだということでした。県では七八日間、訴状を提出する者がいませんでした。県知事は病死した命婦[23]のことを記した文書を提出し、両院、三司は、守道、巡道、府役所の三庁[24]、府に属する十八州県の知事は、晁夫人のために紙銭を燃やし、祭祀を行いました。

 晁梁は家で葬儀を行うことに忙しくしていましたが、城内の人民は銅銭を集め、三四人の正直な老人をかしらにして、空き家を一か所買い、周囲に壁を築き、入口に綺麗な牌坊、中に五間の正殿、東西三間の廂房、正殿の両側に二間の道房[25]を建て、厨房、鍋、竈をきちんと準備しました。さらに、正殿の中には赤い仏龕を造り、供物を置くテーブルと香机、晁夫人の像を作りました。晁夫人の像は鳳冠と霞帔を着け、まるで天神のようでした。人々は彭状元閣老に批文を書くように頼み、横に「救世活民晁淑人の祠」と書いてもらいました。さらに、残った金で、繁華街の入り口に数間の店を買い、毎月家賃一両五銭をとり、その金で、臨清にいって二人の徳のある尼を呼び、晁夫人を祀らせました。村人が布施をした穀物は食べきれないほどありました。また、店の家賃で、二人の尼のために、小料理を買いととのえました。本県の郷紳の奥方たちは、袍、旗仗、案衣[26]をお布施しました。この県には、二人の金持ちの商人がおりました。一人は李照といい、真紅の宮錦[27]の帳をお布施しました。もう一人は高瞻といい、二本の船の帆柱をお布施しました。これを立てて旗竿にし、二十四の木綿の旗を掛けました。塀の回りには楡の木を植え、門の前の甬路[28]、夾道[29]の両側に、松や檜を植えました。晁夫人の霊が守っていたのでしょう。たくさんの木が生い茂り、一本も枯れたものはありませんでした。

 晁梁は十三日間弔問受付けを行った後、とりあえず弔問受付けをやめ、葬式を出す準備をしました。さらに、墓守りをするために家を建てようとしました。また、雍山荘で晁源のために葬儀を行いました。彼は悲しく、疲れていましたので、みるみる薪のように痩せ細り、食も減り、咳と痰が出て、起き上がることができなくなりました。五月一日に葬式を出すことにしましたが、その日が近付きますと、晁梁の病気はいよいよ悪くなりました。二人の医者を呼んで治療をしましたが、ただの藪医者でしたので、うまく治療をすることはできませんでした。

 四月八日、晁夫人の祠堂が落成しますと、村人の頭は、そこへ行って礼拝を行うよう、晁梁に頼みました。晁梁は、城外の人々が祠堂を建てたことを初めて知りました。そこで、無理に頭巾を着け、村の老人たちと顔を合わせました。さらに、病をおして祠堂にいき、儀式を行いました。行ってみますと、金色や青い色がきらびやかで、たいへん壮麗でしたので、心の中で悲しんだり感動したりしました。そして、人々に叩頭して感謝しながら、大声で痛哭し、げえと二声、鮮血を吐いて、気を失ってしまいました。下男は晁梁を介添えして驢馬に乗せ、家に帰らせました。家に着くと、一人の道士がおりました。彼は長い髭で白い顔をしており、年は四十前後、彼の表門の左側で棕櫚の敷物[30]に腰掛け、晁梁がやってきても、じっとして動きませんでした。晁梁は道士が入り口に腰掛けていたため、驢馬に乗って表門に入ることができませんでした。そこで、急いで驢馬から降り、道士に向かって言いました。

「お師匠さま、お気楽になさってください。揖はして頂かなくてもけっこうです。齋食をご所望でしょう。どうか中にお入りください」

道士「齋食を頂きにきたのではございません。施主さまが孝行をされていることを知り、特別に薬をお持ちしたのです」

晁梁はそれを聞きますと、ますます恭しくし、中に入るように勧め、引き止めました。道士は瓢箪の中から丸薬三粒を取り出しました。薬は豌豆ほどの大きさで、青緑色をしていました。

「東に流れていく水とともに、三回飲んでください」

 晁梁は、薬を受けとりますと、何度も彼を招きいれました。

道士「仲間がもう一人おります。彼を一人で待たせるわけにはいきません」

晁梁はいいました。

「お師匠さまのお友達なら、呼んできて一緒に精進物を食べられてはいかがですか」

首を伸ばして東を見てから、振り向きますと、道士の姿が消えていましたので、彼が常人でなかったことが分かりました。処方通りに薬を飲みますと、日に日に元気になり、病気は軽くなりました。夜になりますと、夢に髪梳き洗顔をした晁夫人が現れて、言いました。

「おまえは私の忠告を聴かず、無益な悲しみによって、大病になってしまった。私が孫真人に頼んで薬を送って治療をしなければ、大変なことになっていただろう」

何度も以後気を付けるようにと言いました。晁梁は目を覚ましますと、道士が仙人であったこと、母親のおかげでやってきたことを知りました。人々はますます祠堂を崇めるようになりました。

 晁梁は遺命に従い、城内で母親の葬儀を行いました。そして、息子の晁冠を雍山荘に行かせ、兄の晁源のために葬儀を出させました。晁夫人は一生善い行いをしたため、舜と同じくらい長生きして亡くなりましたが、晁梁はそれからどうなりましたか。さらに次回をお聞きください。

 

最終更新日:2010118

醒世姻縁伝

中国文学

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[1]政府が行う米価安定策。豊作の時は米を買い、凶作の時は売り出し、米価の安定を図る。

[2]明馮応京撰。二十四巻。

[3]典故未詳。

[4]原文「米麦改了折」。改折は、本来徴収すべき穀物を、その価格に照らして、銀に替えて徴収すること。東川徳治『中国法制大辞典』参照。

[5]原文「県官便没得鳥弄」。具体的にどのような悪さをするのかは未詳。

[6]漕糧のこと。中国東南部から、運河を経由して都に運ばれる税糧。

[7]税として納める穀物。

[8]戸籍に記載されている人々。

[9]棒でぶたれたことによってできる出来物。杖瘡。杖傷。

[10]原文「致糧道提下米来」。義未詳。とりあえず上のように訳す。

[11]学校が敬老のために催す宴会。

[12]徴税係。

[13]里長、甲首のこと。ここでは、里老(里長)が出てきているので、甲首のことと思われる。甲首は甲長と同じで、十戸長。十年一交代で任じられるので、この名がある。『明史、食貨志一』「歳役里長一人、甲首一人、董一里一甲之事。先後以丁糧多寡以序、凡十年一周、曰排年」。

[14]原文「寿生道場」。長寿を祈願する法事。

[15]皇帝が朱字で批語をつけた上奏文。

[16]原文「啜菽飲水」。孝子が貧しいながらも親に孝養を尽くすことをいう。「啜菽飲水」『礼記』檀弓下「子路曰、傷哉貧也。生無以為養、死無以為礼也。子日、啜菽飲水、尽其歓、斯之謂孝」。

[17]原文「舞彩承歓」。老子があざやかな服をつけ、嬰児のまねをし、老父母を喜ばせたという物語は、民間の孝行を勧める書物にしばしば見られる。このことは、魯迅『朝花夕拾』でくわしく論じられているので参照されたい。

[18]長寿を祝うための牌房。

[19]翡翠の羽で作った車の覆い。張衡『東京賦』「羽蓋葳蕤、葩[玉蚤」曲茎。〔注〕綜曰羽蓋以翠羽覆車蓋也」。

[20]古の仙人。顓頇の玄孫で、殷の末期に七百余歳で生存していたという。『列仙伝』「彭祖、諱鏗、帝顓頇玄孫、至殷之末世、年已七百余歳而不衰」。

[21]葬儀の時、喪家へ贈る幕。長さ一丈余。幅三四尺から五六尺に至る。羅紗、又は綢緞で作り、その上に金字で死者の功徳を頌する文句及び死者の官職名等を縫いつける。

[22]退官して村里に定住している人。

[23]婦人で封号を受けたもの。

[24]同知、通判、推官をいう。譲、徳、米里拝爾著、郭太初等訳『明代地方官離宮文官制度−関于陝西和西安府的研究』五十二頁参照。

[25]道士が寝起きする場所。

[26] テーブル、椅子に掛ける装飾用の布。

[27]宮中のために生産される錦。

[28]中庭にある、石、煉瓦で舗装した通路。

[29]建物と建物の間の狭い通路。

[30]原文「坐着個棕団」。「棕団」は円形の、棕櫚を用いて作った敷物。『長物志』「坐團、蒲團大徑三尺者席地快甚。棕團亦佳」。

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