第八十八回

薛素姐が明水に帰ること

呂厨子が高郵で死ぬこと

 

梭のやうに死に物狂ひで船を追ふ

追ひ掛けて何とする

神は怒りて波風起こし

身に乗り移り話しをし

祟りを為して

二頭の騾馬は盗まれり

たくさんの利益を得とも多きことをな誇りそね

揚州の地に宿をとり[1]

悪しき心は消えもせず

訴訟を起こし毒使ひ

またぞろ法に違反して

牢獄(ひとや)(かばね)を引き摺らる   《青玉案》

 薛素姐は尼寺に泊まりました。彼女は、姑を罵り、夫を殴っていたときの凶暴さをすっかり失っていました。韋美は、毎日薪を提供し、米を送りましたが、禿げ女たちに食べられてしまったのではないかと心配し、しばしば食物を買うための銅銭を持ってきました。素姐は韋美から贈られた茶とご飯を食べ、年寄りの尼のために洗濯をし、若い尼には靴を作ってやりました。また、米を研いでご飯を作ったり、碗や鍋を洗ったりして、とてもかいがいしく働きました。和尚は貪欲だといわれますが、尼というものも、髪の毛がなく、貪欲で凶悪であることは、和尚と同じでした。尼寺の年寄りの尼は、素姐がやってきますと、よその家の飯を食うことができましたし、彼女がおとなしく仕事をしましたので、とても喜びました。尼は師弟たちとともに素姐に頼ろうとし、韋美に食糧を提供することを要求し、自分たちの米の缸、豆の甕は絶対に開けませんでした。そして、初めは送られてきた米一斗を八日で食べていましたが、やがて三日で食べるようになりました。韋美が尋ねますと、年をとった尼は言いました。

「あのご婦人は、初めは気分でも悪かったのか、食事をとることができませんでした。しかし、最近はだんだんと気分が良くなられ、食べられても満腹せず、満腹されてもすぐにおなかが減るのです。韋さま、あなたはとことんまで善行を行われる方ですから、食糧を送るのをやめられたりはなさいませんよね」

 韋美は、金持ちでしたので、数斗の米を消費しても、気にしませんでした。しかし、女房が毎日耳元でぺちゃくちゃと喋りますと、疑いの心を抱きました。それに、韋美はあちこち呂祥の行方を捜しましたが、行方が知れませんでした。そこで、尼寺に行き、素姐に言いました。

「ここに二か月近く泊まってらっしゃいますが、騾馬を盗んだ男を捜し出すことはできません。もうすぐ冬至の数九だというのに、あなたのお家からはどなたも訪ねてきません。旅費を準備し、女にあなたをお送りさせようと思いますが、どう思われますか」

素姐「私を送り返すときに、女性を同行させてくださるのでしたら、深く感謝致します。身の回りにはまだ旅費があります。計算してみますと、家に帰るには十分です。使いに頼んで、騾馬を雇っていただければよいのですが」

年をとった尼「お宅にはお姑さんはおらず、ご主人も遠くで役人をしてらっしゃいます。『めくらが道に迷う−家にいた方が安全』というものです。今は寒く、男は足に七八尺の裹脚を巻き、ネルの靴下、綿の靴、羊皮の外套をつけても、良姜[2]のように寒い思いをしています。彼らは靴底のように厚い面の皮をしているのに、木綿の目隠しをし、息を吐けば大きなガラスができるほどです。吹けば壊れてしまうような薄っぺらい顔、三寸足らずの足で、このような苦しみに耐えられますか。宿屋に泊まれば、板の扉には指ほどの広さの隙間があいており、窓には紙も貼られていません。炕は冷たく、寝床は氷のようで、布団をもっていっても、あまり暖かくはありません。このような苦しみに耐えられますか。私の忠告に従われてください。年が明け、三月になってから帰られても遅くはないでしょう。食事のことも気に掛けられることはありません。韋さまが食事を出すのが大変だとおっしゃるなら、わが寺にはあちこちの施主さまのお供え物がありますから、女菩薩さまに欠かさず薄粥を出すことに致しましょう」

韋美「私は狄の奥さまを送り返して、初めて務めを全うしたことになります。わずかな米を惜しんだりは致しません。道が寒いというのなら、狄の奥さまがご自分で決められてください。あなたに強制は致しません」

素姐「故郷を思う気持ちが強いので、寒くても構いません。途中の苦労は、避けることはできないでしょう。夫は故郷におりませんが、人にさせなければならない家事があります。韋さま、どうか私を連れ帰ってください」

韋美「それならば、急いで準備を致しましょう」

 年をとった尼は、素姐がいなくなりますと、正月が近いのに、仕事をしたり、米を提供してくれたりする人がいなくなるから困ると思い、彼女を引き止めようと考えました。寒いといっても素姐が怖がりませんでしたので、途中には盗賊がいっぱいおり、荷物を奪い、人を食らう、若くて綺麗な女は掴まえて夫人にし、醜く年をとった女は殺して煮て食ったり、掴まえて仕事をさせて苦しめる、といった話をしました。しかし、素姐は強盗よりも凶暴で、強盗などは怖くありませんでしたので、とにかく家に帰ろうとしました。韋美は布団を買いにいき、柔らかい木綿の掛け布団、ズボン、袷、チョッキ、桾の類いを作りました。農閑期でしたので、使っていない騾馬、二人の下男を選び、作男の宋一成を遣わし、付き添いの女の隋氏を雇いました。その日は家で一テーブル分の肉、野菜、酒肴を買い、素姐と年とった尼を家に呼び、出発を見送りました。

 韋美の女房は絶世の美人で、とても清潔好きでしたから、素姐の鼻が欠け、真っ黒な二つの大きな穴になっているのを見ますと、脇に座りながら、顔を背け、うなだれて、目を合わせようとしませんでした。彼女はしばらく無理に付き添っていましたが、我慢できずに外に飛び出していきました。そして、入り口に着きますと、げえと一声、一面にもどしてしまいました。眩暈と吐き気がとまらず、介抱されながら寝室へ行って眠りました。素姐は食事を終えますと出発しましたが、韋美の女房は見送りに出てきませんでした。韋美と年をとった尼は騾馬をおってきました。雨や風に晒されながら、程無く明水につきました。途中は何事もありませんでしたので、お話しすることはございません。

 素姐は、故郷を発つときは、そのことを誰にも知らせませんでした。家に住んでいた人々は、呂祥が家に戻って間もなくして、素姐とともに行方知れずになりますと、あれこれ憶測をしましたが、狄希陳の船を追い掛けているのだとは思いませんでした。龍氏は、家で祈祷をしたり、占い師のところへ行ったり、籤を引いたり、易占いをしたりしました。しかし、薛如卞兄弟二人は、あちこちに貼り紙を出して探そうともしませんでしたので、毎日母親と息子で、家がひっくり返るほどの大騒ぎをしました。そこへ急に、素姐が戻ってきました。彼女は宋一成の付き添いの隋氏と一緒で、服は破け、顔は埃に塗れ、足は黄色い土で汚れていました。龍氏は、素姐が家に戻ったことを聞きますと、飛ぶように走ってきて、抱き合って泣きました。そして、素姐が船に追い付けず、呂祥に騾馬を盗まれたこと、尼寺に身を寄せ、善人に会い、送り返してもらったことを知りました。そこで、家で手厚く宋一成と隋氏をもてなし、三四日引き止め、それぞれに二両の旅費を与え、さらに二両の報酬を与えました。そして、百金の綿絨[3]、四匹の綿の紬、四十本の更紗の手巾を束にし、作男の鮑恩を遣わし、韋美に礼を言わせました。素姐は家に戻り、落ち着き場所を得ますと、四六時中、あれこれ考えました。しかし、狄希陳を目の前に連れてくる方法を思いつくことはできず、歯がみをして、鬱憤を晴らしました。

 さて、呂祥は、舞台の上で大騒ぎをしている素姐を置き去りにしてから、とりあえず宿屋に戻ってたらふく飲み食いしました。そして、片方の騾馬に跨がり、片方の騾馬を引きながら、まっすぐ揚州城内に行き、宿屋を見付けて泊まりました。彼は、自分は騾馬を売る客商で、連れてきた騾馬は、三十頭ほどいたが、淮安から三十里はなれた所に行ったところ、山賊たちに出くわし、すっかり略奪されてしまった、さんざんお願いをして、三頭の良くない騾馬を選んで返してもらった、旅費がなかったため、淮安の金龍大王廟で一頭の雌の騾馬を売ったが、今二頭しか残っていないといいました。そして、買い主を探して売ろうとし、数日とどまりましたが、彼が法外な言い値をつけたため、見にきた者はみな、値切ることができず、去っていってしまいました。

 ある日、呂祥の運が悪かったのでしょう、淮安府の軍庁[4]の役人が二人、関文を届けに来て、同じ宿屋に泊まりました。そこには二人の仲買商がおり、二人の男に騾馬を見せてました。呂祥は脇から値段をいっていました。六歳の去勢した黒い騾馬の言い値が銀五十両、八歳の茶色の驢馬の言い値が二十五両でした。仲買い商は呂祥をちらりと見ますと、言いました。

「この騾馬はあなたのものではないでしょう。そうでなければ、どうしてこんな法外な言い値をつけるのですか」

二人の下男も脇で見ていましたが、尋ねました。

「このお客はどこの方ですか。ここに騾馬を売りにきたのですか」

呂祥「私は山東の兗州府の者で、姓を呉といい、長いこと騾馬を売って生計を立てています。この淮揚一帯には、一年十二か月のうち十か月はきています」

使い「淮揚にずっととどまっているとおっしゃいますが、総漕軍門の役所はどこにあるのですか。漂母[5]が韓信を祭った釣台[6]、瓊花観[7]、迷楼[8]、竹西亭[9]はどこにあるのですか」

呂祥「まったく嫌な人ですね。あなた方は閑人ですから、あちこちを遊び回ることができるでしょうが、私たちは商売をしているだけの人間で、『針で鉄を削る』[10]ような生活をしていますから、暇はないのです。宿屋の高い飯を食べ、高い部屋に住み、商売もせずに、釣台などに上ったり、迷楼で遊んだりする暇はありません」

使い「長いこと淮揚にいたとおっしゃいましたが、淮安のことはさておき、揚州の昔の宿屋がどこだかおっしゃってください」

呂祥「これは私の良く知った宿屋です」

使いはその宿屋に尋ねましたが、宿屋は曖昧に返事をするしかありませんでした。

使い「ご自分の身に災いを招くようなことをされてはいけません。この人は悪者です」

呂祥は罵りました。

「めくらの犬め。俺のどこが悪いんだ。俺が悪いのなら、俺はおまえの女房と密通してやる」

使い「どこが悪いんだだって。淮安府の金龍大王廟で悪いことをしただろう。お前はあの片目がなく、鼻の欠けた女と一緒にいた。あの女に金龍大王が乗り移っていたとき、お前はすきをみて騾馬を盗んでここに逃げてきた。まだ口答えする積もりか」

呂祥はその話を聞きますと、弁解をしようと思いましたが。心に疚しいところがありましたので、目は勝手に動いて、ひくひくと、大きくなったり小さくなったりしました。その次に、顔色が勝手に変わって、赤くなったり、青くなったり、焦茶色になったりしました。さらに、舌がきかなくなり、強張ってしまい、流暢に話すことができなくなってしまいました。

使い「あの目くらの女は、今、尼寺に住み、告訴を行い、おまえを捕縛しようとしている。我々は淮安軍の捕衙の捕り手だ。ここ二か月以上、おまえの捜索をしていたが、ここにいたとはな」

腰から麻縄を取り出し、彼を縛り上げ、人のいない廟に連れていって拷問しようとしましたので、街中が大騒ぎになりました。

 地方、見回りが本署の捕り手に通報しますと、彼らは宿屋に入ってきました。そして、淮安の使いが呂祥を縛っているのを見ますと、尋ねました。

「あなた方二人はどこの役所の使いで、どこに連れてゆかれるのですか」

淮安の使いが言いました。

「この男は山東の女についてきたのです。先日、金龍大王廟にお礼参りをする人々が集まっていたとき、その女は廟で紙銭を燃やし、立ち止まって劇を見ていました。ところが、大王にとりつかれ、大騒ぎをしました。この男は宿屋に戻り、その女の荷物、騾馬を奪っていってしまいました。女はさいわい善人に会い、尼寺に送られて身を寄せ、告訴を行いました。きびしく捜索を行っていたところです。こんなところに隠れていたのですね」

揚州の捕快がいいました。

「二人は淮安の捕り手の命令文を見せてください」

淮安の捕り手「家に置いてきたので、持ってきていません」

揚州の捕快「命令文を持っていないのに、一般人を泥棒扱いして捕縛するとはどういうことだ。これは偽の使いだから、縄を持ってきて吊るしてくれ」

呂祥は揚州の使いの前に跪いて泣きました。

「お二方は私の命の恩人です。お二方がいらっしゃらなければ、私は独りぼっちの旅人ですから、冤罪をどこにも訴えることができませんでした」

揚州の使い「まあ待て。わしはこの二人を処置してから、おまえと話をすることにしよう」

鎖を取りだし、二人の使いを縛ろうとしました。淮安の使いはいいました。

「わしは淮安軍捕衙門の命を受け、揚州府に人を捕らえにきているのだ。わしを縛れば、これから永久に淮安にくることはできないぞ。わしは役所中の仲間と示し合わせて、おまえたちがきたら、一人来れば一人ぶち、十人来れば十人ぶつことにしてやるぞ」

揚州の使い「関文は届けたのか。船票などはもっているか」

淮安の使いは船票を取り出してみせると、言いました。

「関文はすでに提出しました。あとは人を捕まえるばかりです」

揚州の使い「本当のお役人だったのですね。まったく存じませんでした、どうかお許しを。お二人が来られたのは関文をとどけるためで、賊を捕らえるためではなかったのですね。私たちの土地で捕まったのですから、私たちにあいつを捕らえさせてください。お二人が淮安の役所に戻られても、お二人の功績がなくなるわけではありません。一緒にきてこいつらを尋問しましょう」

呂祥をつれ、宿屋の主人を縛り、二頭の騾馬をひきながら、人のいない廟にいきました。

 呂祥はなおも口答えをしようとしましたが、揚州の番役は呂祥の服をすっかりはぎ取り、がんじがらめに縛り、縄で木に縛り付け、鉄の棍棒、革の鞭、あらゆる刑具を揃え、くわしくお話するには忍びませんが、数え切れないほど殴りました。呂祥は狄希陳が上京して選任を待っていたとき、全竈を彼の妻にしてくれなかったのを恨み、素姐に船で追いかけるように唆したこと、素姐が河神に取りつかれると、すきに乗じて騾馬を盗んで逃げたことを、一つ一つはっきりと自供しました。彼は江都県に連行され、捕官に会い、夾棍にかけられ、自供をとられ、法廷に書類を送られますと、さらに夾棍に掛けられました。騾馬は馬の飼育場に送られ、餌を与えられました。呂祥は監獄に送られ、文書が繍江県に送られて尋問が行われました。呂祥の自供したことと、少しも違いはありませんでしたので、文書を送り返しました。江都県では呂祥を監獄から出して自供書に書き判をさせ、三年の流罪に処しました。そして、上級機関に報告書を提出し、文書を上呈し、護送しました。すべての場所で夾棍に掛けられたり、拶子に掛けられたりしたことは、陰惨な話になりますので、くわしく申し上げる必要はございますまい。上申書が批准され、高郵州孟城駅で服役することに決まりました。文書が県に下され、彫物師が呼ばれ、呂祥の左の二の腕に大きく「窃盗」の字を書きました。そして、文書を作り、自供書の原稿を写しますと、お別れに二十回の竹板で打ち、駅官に引き渡し、監獄に入れました。

 実は徒刑囚は駅に着きますと、まず駅の書吏、駅卒、牢名主、獄卒たちに付け届けをし、その後で駅官に贈り物をするのが慣例でした。手厚く礼物を贈りますと、殺威棒[11]でぶたれることも、鎖にかけられることも、鉄の鎖を掛けられることもありませんでした。部屋を借りて住んでも、外に出るのも自由でしたし、休暇をとって故郷に帰ることもできるのでした。取り調べ官が点検をするときは、駅丞が人を雇って彼の代わりに点検を受けさせるのでした。これは第一等の囚人でした。付け届けをし、駅丞への贈物を欠かさなくても、金額が少なかったり、権力のある人の手紙がなかったりしますと、まず少し棒でぶたれ、鎖をかけられますが、網巾を着けることを許され、ご飯を食べることができました。これは第二等の囚人でした。年が若くて元気で、体力があり、腕っ節が強く、あれやこれや、一生懸命駅丞のために仕事をすれば、あまり苦しみを受けることはありませんが、これは第三等の囚人でした。少しも礼物を送らず、宜しく頼むとの書状もなく、駅丞のために仕事をしませんと、いうまでもありませんが、最初会ったときにたっぷり三十回の殺威棒でぶたれ、真っ暗な地獄に放り込まれ、一碗のご飯を食べることも許されませんでした。さっさと死んでしまおうと思っても、閻魔さまはなかなか迎えにきてくれず、逃げようとしても、土遁、水遁の術を学んでいないため、まったく幽霊と同じで、人間らしく暮らすことができなくなってしまうのでした。これは第四等、五等、六等の囚人でした。

 呂祥は都で、狄希陳のために物を買うときは、さんざんぴんはねをしていました。さいわい狄希陳はあまり精算をしませんでしたので、二三年の間に、彼は数両もの銀子を「鍾徐丘」しました[12]。しかし、このような人間は、利益を得ても、手にいれるときに苦労をしていませんので、あまり金を大事にしないものです。彼らは、こちらの手で金を手にいれると、もう一つの手で使ってしまい、金をためるということをしないのです。狄希陳が出発するとき、呂祥は狄希陳を脅して六両の給料を前払いしてもらいました。呂祥は三両以上の服を作った上に、残った金は、家に帰ってから狄希陳が返せという恐れがありましたので、都に一か月止まっているときに、すべて派手に使ってしまいました。家に行きますと、素姐とともに、船を追いかけました。素姐は、頭のいい女でしたので、たくさんの銀子を自分の懐に入れ、その日その日に使うわずかな銀子しか彼に与えませんでした。淮安に着いたころには、金は幾らもありませんでした。揚州に着きますと、二頭の騾馬を売って、たくさんの銀子にかえようとしましたので、宿屋はひたすら彼につけでご飯を食べさせました。後に事顕れて役所に連れてゆかれますと、懐に残っていた七八銭の銀子は、捕り手に持ってゆかれてしまいました。二人の騾馬は売られ、代金は没収されてしまいました。監獄にいたときは、囚人たちの残したスープや酢で飢えを凌ぎ、命を繋ぐことができました。流刑地に行く途中では、長い時間縛られ、彼が死んで、収監証明書を貰えなければ、面倒なことになると考え、毎日僅かな粥を与えて命を繋がせました。彼は駅官に引き渡されても、何も付け届けをすることができませんでした。骨が見えるほど棒でぶたれましたが、銅銭を貰って膏薬を買おうとしても、かわいそうに、金はありませんでした。これはいうまでもなく、第六等の囚人でした。

 呂祥は、金がなく、後ろ盾もなかったのですから、おとなしくしていれば、人から憐れんでもらうことができたかもしれません。彼は背が低く、目をくるくる動かし、人に不快感を与える醜い顔をしており、駅丞のことなど眼中にありませんでした。駅丞は尋ねました。

「自供書によれば、おまえはとても憎むべき奴だ。本当にそうなのか」

呂祥「分かりませんよ。本当のことをいう人間は本当のことをいい、嘘をいう人間は嘘をいいますからね」

駅丞「それがわしに対する返事か」

呂祥「私は、北京の城内でたくさんの偉い方々にこのような返事をしてきました。返事が気に食わないなどと言うのはあなたぐらいなものです」

駅丞「都の偉い方々がそのような返事をするのを許したのか。わしは身分の低い役人だが、おまえがこのような返事をするのは許さんぞ。『本当のことをいう人間は本当のことをいい、嘘をいう人間は嘘をいいますからね』だと。白状しないつもりだな。引っ立てて、大きな板子でぶて」

呂祥「とりあえずぶつのはおやめください。焦られることはありません」

駅丞「はやくぶつのだ。わしはせっかちで、ゆっくりなどしておられんのだ」

呂祥「恐らくぶったら白状できなくなるでしょうよ」

駅丞「白状できなくなっても構わん、足をぐちゃぐちゃにしてやれ。奴が減らず口をたたけないようにしろ」

呂祥は三十回大板でぶたれ、ぶたれるたびに、駅丞さまと叫び、口から大小便を漏らさんばかりでした。駅丞は呂祥をぶち終わりますと、重罪犯の牢に引っ張ってゆかせ、昼には拷問を加え、晩には手錠を掛け、手加減をするのを許しませんでした。

 彼は牢名主や、獄卒に言いました。

「私だってれっきとした人間です。私は騾馬を盗んだわけでもありません。龍図閣大学士の呂蒙正[13]は私のおじで、甥は挙人です。私の家には二三千両の財産があります。しかし今は『龍も浅い水を泳げば蝦にも嘲られ、虎も深い穴に落ちれば犬にも馬鹿にされる』という有様です。私を殺さないほうが、あなた方の身のためですよ。私は昨日うちの下男が淮上へ糀を売りにいくのに出会ったので、故郷への手紙を持っていってもらいました。一か月足らずで、必ず人がやってきます。そのときは恩義のある人には恩返しをし、恨みがある者には復讐しますからね。そのときは泣くも笑うも、あなたがた次第ですよ」

話を聞きますと、駅卒たちは信じるわけにも、信じないわけにもゆかず、陰で言いました。

「世の中のことは分からないものだ。あいつは我々の前で偉そうにしているから、きっと家柄が正しいのだろう。あいつを殺したあとで、お上のいうことが変わることもあるだろう。だれも話をしなければいいが、だれかがわしらのことを話し、告訴でもされたら大変だ。あいつは家の人がきたら、恩義があるものにはお礼をするといっている。あのような悪者に、あまり厳しくする必要はあるまい。代わり番こに毎日あいつに何碗かの粥を食べさせ、一二か月たって人がこなければ、態度を改めることにしよう」

ですから、呂祥は駅丞に三十回ぶたれたものの、その部下たちからひどい目にあわされることはありませんでした。しかし、獄卒たちは毎日食事を出すことはできませんでした。そこで、駅丞に頼み、彼に鎖を掛け、足に鎖を嵌め、街に行かせ、乞食をさせることにしました。しかし、彼は傲慢でしたので、他の乞食なら二碗の飯を恵んでもらえるところを、一碗も恵んでもらうことはできませんでした、一日か二日食べ物にありつけないことがしょっちゅうでした。それに性根が良くありませんでしたので、囚人仲間とも諍いばかりおこしました。囚人たちは一緒になって、苛めました。救ってくれる人がいなければ、この悪者は、逃げることはできなかったでしょう。ところが、悪人は、挫折にあっても、死期が訪れることはなく、命を救ってくれるお役人が現れるものです。

 やがて、駅丞は揚州府の倉官に昇進しました。新しくきた駅丞は李という姓で、山東の浜州[14]の人でした。吉日を選び、赤い紙に書いた着任の告示を出し、登庁しました。最初は駅の書吏が中に入って謁見をし、次に数人の馬方が続き、三番目は徒士でした。徒士たちが叩頭しますと、呂祥は別に叩頭しました。李駅丞は尋ねました。

「この徒刑囚は山東の言葉を喋っているが」

呂祥「私は済南府繍江県の者です」

李駅丞「同じ府の人だったのか。どんな罪を犯して、ここで働かされているのだ」

呂祥は返事をしませんでした。徒刑囚たちがいいました。

「彼はここにきて泥棒をしたため、入れ墨をされたのです。ですから、ここで徒刑囚をしているのです」

李駅丞「ほかの罪を犯したのならまだしも、この入れ墨をされた男は、許すことはできないな」

呂祥「私は入れ墨をされましたが、これはまったくの冤罪です。少しも罪は犯していないのです。私は料理人で、明水の狄監生の家に雇われて仕事をしておりました。狄監生は四川成都府の経歴に選ばれ、まず故郷にやってきて先祖を祀りました。私は都に残って証書を受け取り、故郷に戻りました。狄監生は私を待たずに、去ってしまっていましたが、私の荷物、給料は残していきませんでした。狄監生の夫人と私は船を追いかけ、淮安まで行きましたが、追い付けませんでした。私は賃金、荷物が必要でした。二頭の騾馬を売ろうとしましたが、揚州府の下役に捕まり、拷問を受け、自白をさせられ、泥棒だということにされました。どうかお調べになってください、私は泥棒などではございません」

李駅丞は笑って

「これは人さらいで、泥棒ではない。とりあえず下がるがよい。わしが裁きをつけるから」

人々は鎖をつけたまま、食べ物を貰いにいきました。

 李駅丞は一人で赴任してきたため、家族を連れていませんでした。彼は二人の下男だけをつけていきましたが、年末になりますと、料理を作ることのできる下男が病気で倒れてしまいました。高郵孟城駅の駅丞は、散曹[15]ではありましたが、交際は幅広いものでした。正月に挨拶にくる客の中には、引き止めるべき者も多かったのですが、すぐには料理人を見付けることはできませんでした。呂祥はこの機に乗じて毛遂[16]となり、病気になっていない下男に向かって言いました。

「聞けば、あの執事は、料理がとてもうまかったのに、病気になってしまい、李さまにお仕えする人がいないそうですね。私は大した者ではありませんが、料理の腕前に掛けては、私の右に出る者はいません。私は、ご飯を作ることができるばかりでなく、酒を並べることもでき、酒を並べることができるばかりでなく、火を起こしたり料理を作ったり、何でもござれです。私が鎖を外され、奥で使われるようにしてください。同郷の者の方が、こちらの人間よりもよっぽどましでしょう。あなたが話しをされ、李さまが承諾してくだされば、台所の一番いい物をあなたに、二番目のものを李さまに、差し上げることにしましょう」

下男は承知し、李駅丞に話をしました。

李駅丞「あいつはこの前、とても有名な料理人だと自分で言っていたから、わしも使ってやろうと思った。しかし、盗賊のような顔をしており、悪そうな人間だから、わしは話をしなかったのだ」

下男「あいつは、私たちと同じ府の人間で、家は百里と離れていません。あいつが少しでも悪いことをしたら、私はあいつの家に行き、驢馬にあいつの女房を犯させてやります。私たちのところには、現在、正月に使う人間がいないのです。あいつのことは心配いりません。あいつの鎖を解き、風呂に入れ、質屋で古い綿の袷を買い、古い木綿のズボンに着替えさせ、靴を買い与えてやりましょう」

駅丞「あいつの実力がどの程度かも見ずに、銀子を払うのか」

下男「あいつが良ければ、服を着せて我々のために仕事をさせましょう。真面目でなければ、板子でぶち、衣装をはぎ取り、徒刑囚として使うことにしましょう。あいつは油条を揚げることができるといっております。正月はお客さまお送りする礼物がないことを心配していたところです。菱、クワイ、蜜柑、橘の類いは、すべてここにあります。故郷の料理を作って人々に送れば、みんな珍しがることでしょう」

李駅丞「まあいいだろう。あいつに一年数両の銀子を与え、衣裳を作ってやる、さしあたり服と帽子を作ってやり、給料とすることにする、というがいい」

下男が、事をすべて呂祥に話しますと、呂祥はとても喜びました。すぐに人を呼び、鎖を解かせ、下男とともに、李駅丞に会わせました。さらに、前後の事情を話し、一年に一両二銭の賃金を与えることを約束しました。呂祥も争おうとはしませんでした。頭から爪先まで服、帽子、靴、靴下を取り換えさせ、厨房でご飯を作らせました。呂祥は、新しく来た女房のように、初めのうちは、まめまめしく働きました。

 十二月中旬が近付きますと、李駅丞は彼に菓子を揚げさせ、礼物を贈ろうとしました。そこで、目録を作って胡麻油、糖蜜、胡麻、小麦粉、各種の材料をすべて揃え、十二月十六日に仕事を始めることになりました。呂祥は七八種類の果子を作りました。上等で細工の込んだものではありませんでしたが、間に合わせにはなるものでした。人にお礼をするときや、内輪で宴会を開くときも「婆さんが軍隊に入る−間に合わせ」にはなりました。正月になりますと、李駅丞が大きな目録を作りますと、たくさんの鶏、魚、蓮根、筍、豆腐皮、麸の類いを買い、すぐに調理しました。そして、ほうれん草をついて絞りだした汁で染めた緑の豆腐皮、紅糀で染めた赤い豆腐皮、藍で染めた青い豆腐皮、偽の肉、鶏、豚の腸、あばら肉、鶏卵、鵝鳥の頭など、たくさんのおかしな物を作りだしました。李駅丞は浜州の低地に生まれ、僻地に住んでもいましたので、このような奇妙な物を見ても、彼を叱り付けたり、捨てるように命じたりはせず、逆に彼のことを褒めだしました。呂祥は数編の気に入った文章を書いたときのように喜び、顔中に笑みを浮かべました。正月に客がお祝いを言いにきました。多くは引き止める必要のない者たちでしたが、李駅丞は彼の珍しい酒肴を見せびらかしたかったので、一生懸命に彼らを引き止めました。高郵州の人々は、繁華な場所で生まれ、運河の波止場があるところでしたので、たくさんの食べ物を見ていました。彼らは、このおかしな料理を見ますと、箸をつけようともしませんでした。李駅丞は、それでも何度も勧め、下男の作った傑作だと言いました。呂祥は、李駅丞が、彼の料理を喜ぶのを見ますと、とてもいい気になりました。天は「王大」といわれますが、彼は「王二」になりました[17]。二人の、もとからいた執事を苛めはじめ、口を開けば罵り、体を動かせばわめき、執事はまったくろくでなしだ、自分は招かれてやってきた客だと言いました。その年の揚州は、干魃で、米はとても高く、彼は、一斗の米を、盆に入れ、酒や肉に換え、毎日甘い汁を吸いましたが、知らぬは李駅丞ただ一人でした。下男が、表で金[18]を貰いますと、彼は主人として振る舞い、彼らを脅し、分けようとしました。

 高郵州の吏目[19]は、銅銭と食糧を集め、上京し、巡捕官に任命されました[20]。孟城駅の前の駅丞は、陳という姓で、大使に昇任しても[21]、着任はせず、巡捕官の口があくのをまっていました。府知事は、役者のコネを使い、彼のために高郵の巡捕官の口を得てきました。着任しても、吏目、駅丞には、もとより身分の差などありませんでしたから[22]、おたがいに交際することができました。しかも、陳大使は、もともとこの駅のお役人さまで、李駅丞は、彼と付き合いがありましたから、帖子を送って招きました。そして、呂祥に、念入りに料理を作るように命じ、いい加減なことをするのを許しませんでした。呂祥は、心が善良ではなく、初めてきたときに、彼から三十回板打ちに遭わされたことを恨みに思い、機をみて復讐しようとしていました。そこで、すきをみて、数銭の砒素を買い、陳駅丞のスープとご飯の中に、砒素の粉末を入れました。さいわい、あまり多くなかったため、すぐにはばれませんでした。李駅丞は、陳駅丞の病気が悪くなりますと、強く引き止めようとはしませんでした。陳駅丞は、役所に行きますと、唇が青くなり、十本の指が黒ずんでいましたので、中毒を起こしていることが分かりました。さいわい、名勝の地で、良い医者がいたため、呼んで脈をとらせたところ、砒素の毒にあたったことが分かりました。そして、すぐに生きた羊を殺し、熱い血を飲ませたり、糞の汁を絞って飲ませ、毒物を吐き出させたりしたため、死ぬことはありませんでした。

 陳駅丞は李駅丞が彼の巡捕官の地位を手に入れようとして、毒殺しようとしたのではないかと疑いました。そして、数日後、病気が治りますと、州役所に上申書を送り、名指しで李駅丞が、人を殺そうとしたと言いました。州知事は上申書を批准し、人を遣わして捕縛をし、尋問を行おうとしました。李駅丞は天地を指差しながら、さんざん呪いの言葉を吐きました。

陳駅丞「俺はおまえと同じテーブルに座っていて、同じ食器で食事をしたのに、どうして俺だけが中毒を起こしたのだ。おまえの仕業でなくて、だれの仕業だというのだ」

州知事は尋ねました。

「その日の酒肴はだれが並べたのだ」

李駅丞ははっと気がついて、言いました。

「本当のことを申し上げます。私の二人の下男です。炊事をする下男が病気で倒れ、ご飯を作る者がいなかったのです。徒刑囚の呂祥は、もともとは料理人で、駅丞と同じ府の人でした。呂祥が作ったのです」

陳駅丞「それならば、李駅丞とは関係ございません。呂祥が駅に流罪になったときに、私が凶悪犯である彼を法に従って三十回の板子打ちにしたので、恨んで復讐しようとしたに違いありません」

州知事は一本の簽を抜き、人を遣わし、すぐに呂祥を掴まえてこようとしました。彼も事を隠すことはできないことが分かっていましたので、すっかり顔色を失ってしまいました。州知事は尋ねました。

「陳駅丞の食事に毒を盛ったのはだれだ」

呂祥は普段はずるがしこい男でしたが、その時ばかりはごまかすことができませんでした。夾棍にかけられ、五六十回ぶたれないうちに、一部始終を白状してしまいました。自供は陳駅丞の話しと少しも違いませんでした。夾棍でさらに百回叩かれ、四十回の大板打ちになり、駅に送られ、さらに三年働かされました。李駅丞は徒刑囚を勝手に使用人として使っていた廉で、一分の米を差し出す罰を与えられました。李駅丞は、それからというもの呂祥の面倒をみなくなりました。呂祥は療養をしますと、今まで通り、鎖をつけたまま街で食事を貰いました。そして、李駅丞が彼を追い出したのを恨み、人々の目の前で、必ず復讐してやると言いました。

 ある日、淮安府の推官が調査をしにきました。囚人の取り調べが行われ、呂祥の番が回ってきました。呂祥は、李駅丞が賄賂をとって囚人を野放図にした、自分を雇って料理人にしたが、毎年十二両の工賃を出すと言っておきながら、金を払わなかった、工賃を要求すると腹を立て、昼夜虐待をしたので、もう死にそうだということを報告しました。李駅丞は脇に立っていましたが、彼が話しを終えると、歩いていって跪き、実情を洗いざらい話しました。推官は激怒して、言いました。

「このような悪人を、生かしておいてはならん。駅官、連れていって自由に処刑してしまってくれ。報告はしなくてよいぞ」

駅官は、推官に礼を言い、呂祥を駅に連れていきますと、牢に入れ、食事を与えることを厳禁しました。彼は、以前は、人々が代わる代わる食事の世話をしてくれましたので、何とも思わず、悠然と獄に入りました。ところが、今回は推官の命令がありましたし、彼も年貢の納め時で、閻魔さまのお呼びが掛かっていました。三四日間、茶を断たれ、極悪人はあっという間に死んでしまいました。州知事に報告がなされますと、死体は牢から引き摺りだされ、万人坑に引っ張ってゆかれました。そして、豚や犬に引き摺られたり、噛まれたり、蠅やブヨや蛆虫に齧られたりしました。これが悪人の末路、畜生の最後でありました。さらにもう一人の話がありますが、それは次回を御覧ください。

 

最終更新日:2010118

醒世姻縁伝

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[1]原文「逆旅揚州雉入羅」。「雉入羅」は「雉入室」に同じ。唐代、都統の高駢が揚州の官舎に入ったところ、雉が部屋で寝ていた、占い師に占わせたところ、野鳥が建物にはいると、官舎は空になるといった、という故事をふまえる。『淵鑑類函』引『旧唐書』巻百八十二「高駢進東面都統、中和二年五月、雉[句隹]於揚州廨舎、会二雉[句隹]寝、占者曰、野鳥入室、軍府将空。駢心悪之」

[2]良姜。未詳。

[3]種を抜き取っただけの綿花。

[4]未詳。軍庁と呼ばれる役所はない。ただ、前後の文脈からいって、府の役所であろう。府の役所で軍務を司るのは同知。正五品。おそらくこれをさすと思われる。

[5]漢の武将韓信が若い頃、飢えて釣りをしているのを見て、食事を恵んだ洗濯女。『史記』淮陰侯列伝「信釣於城下、諸母漂、有一母見信飢、飯信」。ただし、彼女が韓信を祀ったという話は正史に見えない。

[6]原文「漂母祀韓信的釣台」。未詳。揚州には釣台といわれる古蹟があるが、これは煬帝が釣りをした場所で、韓信とは無関係。『重修揚州府志(嘉慶十五年)』巻三十「古蹟」「煬帝釣台、大業七年二月己未、上升釣台臨揚子津大宴、百僚頒賜、各有差」。

[7]揚州の東部、瓊花観街にある道観。

[8]江蘇省揚州の西北郊にある楼閣。この楼に遊べば仙人もうっとりするといわれたためにこの名がある。唐馮贄『南部烟花記』迷楼「迷楼凡役夫数万、経歳而成。楼閣高下、軒窗掩映、幽房曲室、玉欄朱楯、互相連属。帝大喜、顧左右曰、使真仙遊其中、亦当自迷也。故云」。

[9]禅智寺の前にある亭。杜牧の『題揚州禅智寺』詩にちなんで命名されたという。万暦二十五年、知県張黼によって亭が造られた。『重修揚州府志(嘉慶十五年)』巻三十一「古蹟」「竹西亭在官河岸禅智寺前、唐杜牧禅智寺詩『誰知竹西路、歌吹是揚州』因以名亭。宋向子固易曰歌吹亭、経紹興兵火周淙重建復旧名。不知何時移置南岸、遂為急逓鋪舎、歳久亦圮廃。又為民間冢墓所侵、蕭然曼草、荒煙而已。万暦丁酉、知県張黼復剏亭於北岸p角樹側、因祀宋儒竹西王先生令於中」。『輿地紀勝』「揚州竹西亭在北門外五里」。

[10]原文「針頭削鉄」。「針尖上削鉄」とも。歇後語。「有限」と続き、あまり金を持っていないこと。

[11]牢獄に入りたての罪人を殴り、気勢をそぐときに使う棒。

[12]歇後語。「鍾徐丘」は『百家姓』に出てくる言葉で、後に続く字は「駱」。「駱」は「落」と同音で、「落」には金を懐に入れるという意味がある。

[13]宋、河南の人。『宋史』巻二百六十五に伝がある。元関漢卿撰の戯曲『呂蒙正風雪破窰記』の主人公としても知られる。

[14]山東省済南府。

[15]実際の職務を行わない、名目上の官をいう。職事官の対。

[16]戦国時代。趙の平原君の食客。平原君が秦に使いするとき、自ら同行を申し出た、いわゆる「毛遂自薦」の故事で知られる。

[17]天下で自分が一番であるかのようにふるまったということだろうが、天をなぜ王大というのかは未詳。

[18]原文「常例」。常例銭のこと。常例銭は、官吏に与える賄賂。

[19]州の官。従九品で、文書の出納を司った。

[20]原文「缺官巡捕」。義未詳だが、とりあえず訳文のように訳す。なお、巡捕官という官職はないが、後ろに「高郵の巡捕官を得てきた」とあるので、州において巡補を司る官であろう。州で巡捕を司るのは判官。従七品官である。

[21] □□大使という官職は、地方文官に多い。たとえば州の文官で、大使と呼ばれるものには税課・冶鉄・塩茶・雑造・織染司局大使がある。本文でいう大使がそのいずれであるかは特定できない。ただ、これらはいずれも未入流官であり、同じく未入流官である駅丞から大使になったことがなぜ「昇任」とされているのかは未詳。州の文官で、大使と呼ばれるものには、課税大使(従九品)・茶馬大使(正九品)・倉庫・雑造・織染大使(従九品)・塩茶批験所大使(九品)・逓運所大使・閘壩大使(未入流)などがある。本文では、陳大使が府で大使をしているのか州で大使をしているのかは明確に記されていないので、本文でいう大使はあるいは府の大使のことか。だとすれば、話の辻褄は合う。

[22]吏目は上述の如く、従九品。駅丞は未入流の官であるから、吏目の方が上である。本文で、なぜ「もとより身分の差などありませんでした」というのかは未詳。 

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