第八十六回

呂厨子が家に戻って告げ口をすること

薛素姐が道を通って船を追い掛けること

 

女はじつとしてゐるがよし

一人で他郷へ行くなかれ

星の回りは駅馬[1]でも

順風の帆を追はんとす

悪しき言葉に耳貸すな

夫への愛を忘るな

善き人に救はるることなかりせば

道士の手ごめにならんとす

 呂祥は童奶奶、駱校尉とともに都に戻りました。駱校尉は証書を取り換えることを口実に、毎日のように呂祥を都の賑やかな場所に泊まらせておりました。呂祥は主人のもとを離れ、手当てを払い、何もすることがなかったため、銀子、銅銭をもち、棋盤街、江米巷、菜市口、御河橋一帯の地をぶらぶら歩きました。駱校尉は半月以上暇潰しをしますと、狄希陳がすでに家を離れたと思いました。そして、証書をすでに取り換えてもらったと言い、呂祥を家に帰らせようとしました。折しも相大妗子は崔家の小姑の葬式が出たため、家に戻って野辺の送りをしようとしていましたので、札を先頭に、宿場に馬を走らせ、呂祥をつれて故郷に戻ることにしました。

 呂祥は、狄希陳は証書がないのだから、赴任はしていないだろうと考えていました。証書を持ち帰ることは、彼にとってこの上ない栄誉でした。前払いしてもらった給料は、証書を取り換えるため都に残っている間に、ほとんど使ってしまいました。彼は主人の狄希陳から、あらためて六両を払ってもらおうと考えました。そして、相大妗子を何駅か送りますと[2]、口実を設けて別れました。彼は思い通りにならなければ、素姐を唆す妙計を用いて、狄希陳をひどい目に遭わせてやろうと考えました。きちんと計画を立てましたので、途中ではぶらぶらとし、まったく急ぎませんでした。家まで十余里のところで、隣人の飴売りに会いましたので、尋ねました。

「俺の主人がいつ出発するか聞いたかい」

飴売り「狄さまが赴任されてから、もう半月以上たちましたよ」

呂祥は慌ててこう思いました。

「証書がきていないのだから、出発するはずがないだろう。あいつが危険な場所を離れてしまっては、俺の妙策を施すことができなくなる。俺が考えたことが無駄になってしまうではないか」

うなだれて悄気返り、相大妗子に別れを告げ、一人で家に帰りました。そして、狄希陳が出発してから本当に十六日たっていることを知りますと、慌てて歯がみをし、何度も地団太を踏みました。彼は素姐に会いますと、言いました。

「証書を取り換えていないのに、どうして私を待とうともせず、行ってしまったのでしょう。きっと任地で私を待つつもりなのでしょう。徹夜で追い掛けましょう。はやく旅費を集めてください。荷物を纏めますから」

素姐「あいつはいくとき、お前に後を追わせるようにはいわなかったよ。任地でおまえを待っているとも、証書を取り換えるとも言わなかったよ。おまえが都で悪いことをしたから、おまえを使わないことにしたとだけいっていたよ」

呂祥「誰がそのようなことを言っていたのですか。旦那さまは、故郷に戻って先祖を祭ったり、あちこちに借金を返したりするから、私にはいつも近くにいてほしいとおっしゃっていましたよ。しかし、私は吏部にたくさんの知り合いをもっており、証書を取り換えるのは大事なことでもありましたから、私を都にとどめたのです。私は証書を持ってきました。証書がなければ赴任することはできないでしょう」

素姐「おまえの話は矛盾していて、私にはよく分からないよ。取り換えた証書を私に見せておくれ」

呂祥は証書を手渡しました。素姐は証書を受け取り、その場で封を開けましたが、中には証書などなく、一枚の白紙の湖広の上申書[3]があるだけでした。

呂祥「分かった。私が慎みなく話を漏らすので、からくりを設けて私を遠ざけたのです。船にあった私の荷物は、残されておりますでしょうか」

素姐は尋ねました。

「船に荷物が残っているなど聞いたことがないよ。いったいどんなからくりを設けたというんだい」

 呂祥「旦那さまはひどい方です。私を連れて行かれなかったのはともかく、私をだまして都に一か月ばかりとどまらせるとは。費用はゆうに三四十両はかかりましたよ。船にあった私の荷物を残しておかれるべきなのに、どうして持っていってしまったのでしょう。まったくとんでもないことですよ。都で他の人を娶ろうが娶るまいが、私とはまったく関係がありません。私が秘密を漏らすのを恐れ、私を都にとどまらせ、服までもっていってしまわれるとは」

素姐「『他の人を娶ろうが娶るまいが』とはどういうことだい。私に話して聞かせておくれ」

呂祥「旦那さまは都で別に奥さまを娶られ、ほかに財産を築かれ、あなたとは関係がなくなったのです」

素姐「どうして他の女を娶ったんだい。本当かい。いつのことなんだい」

呂祥「いつのことですって。子供が生まれて、もうすぐ一年になるのですよ」

素姐「でたらめだろう。それはきっと私がこちらにきた後のことで、生まれて一年になる子供がいるはずがないよ。信じられない。どんな女を嫁にとったんだい」

呂祥「色白で肉付きがよく、奥さまと比べるとあまり綺麗ではありませんが、目と鼻が余計についているのです」

素姐「このろくでなし。私が生まれつき鼻がなく目が欠けていたとでもいうのかい。その女は私よりずっとましなんだろう。その女はどのくらいの年なんだい」

呂祥「ひどくお怒りですね。正月に御覧にならなかったのですか」

素姐「何をでたらめをいっているんだい。私がその女を見ているはずがないだろう」

呂祥「奥さま、正月に都に行かれたとき、まず彼らの所へいかれませんでしたか。私たちの家の劉姨と小爺(わかさま)[4]に会われたでしょう。あの年増女が旦那さまの姑で、年の若い方が新たに娶った奥さまです。童老娘は彼女の娘だと言いませんでしたか。奥さまはすべてご自身の目で御覧になったのですよ。奥さまが都を出られるとき、またあそこに行かれたでしょう。あの方は扉に鍵を掛けていました。相さまは奥さまがふたたびいかれて、事が露見するのをおそれ、あらかじめ扉に鍵を掛けさせたのです。あの家は旦那さまが四五百両の銀子で買ったものです。奥さまは兵部窪の質屋に行かれたとか。あの質屋も旦那さまが開かれたものですが、相さまが邪魔をしたせいで、奥さまは中に入ることはできませんでした。狄周の嫁と童大妗子は質屋の奥に住み、生活していたのですよ」

 素姐は怒って顔に血の気がなくなり、『西湖小説』[5]の髑髏のように、身を震わせながら尋ねました。

「狄周はいつ嫁を娶ったんだい」

呂祥「狄周はまだ嫁を娶っておりません」

素姐「以前、彼ら夫婦は、劉という名字の売女を送り出した。狄周は一人で戻ってきて、女房は死んだといっていたが、死んでいなかったのかえ」

呂祥「死んでなどおりませんよ。狄周は自分の女房に劉姨と若さまの世話をさせているのですよ。死んでなどおりませんとも。狄周はみんなが一緒に住むことを望んでいます。調羹さま、小翅膀さま、童大奥さま、奥さま、虎哥さまは、みんな一緒に住んでらっしゃいます」

素姐「呂祥や、私の前で、童大奥さまだとか奥さまだとか呼ぶつもりかい」

呂祥「あれあれ、みんなあの人たちのことを『大奥さま』『奥さま』と呼んでいるのですよ。私だけが呼んでいるわけではございませんよ」

素姐は尋ねました。

「あの女のことを奥さまと呼ぶのなら、私のことは何と呼ぶのだろう」

呂祥「何と呼ぶか聞いたことがございません。すっかり忘れてしまいました、何とも呼ばないのです。旦那さまは、『あの薛の奴』といったり、『薛の売女』といったりしますが、ほかの方々は何ともおっしゃいません」

素姐はさらに尋ねました。

「あの売女どもは今どうしているんだい」

 呂祥は狄希陳の罪を重くしようとし、調羮と童奶奶が家にいることを話さず、

「今、二隻の大きな官船を雇い、兵部で火牌[6]、勘合を貰い、一家で赴任していきました。小間使い、下男と下男の女房は、三四十人おりました」

素姐「あいつが、私のために袍、帯、青い傘を作ったのは、どういうことだい」

呂祥「奥さま、あなたは賢い方ですのに、また惚けてしまわれましたね。故郷には大旦那さま、大奥さまのお墓がございます。旦那さまは役人になられたのに、家にきて先祖を祀られないはずがございませんでしょう。家に戻って数日間泊まるときに、ちょっとした物を買って奥さまのご機嫌をとれば、旦那さまも気持ち良く出発することができますからね」

素姐「あいつは奴らと任地に行くのに、どうして一生懸命私にもついてくるようにいったのだろう」

呂祥「奥さま、旦那さまは本気でそうおっしゃったわけではございませんよ。これが『反将の計[7]』だということに、お気づきにならなかったのですか」

素姐「しばらく黙っていておくれ。私は、今、腹が立って腹が破けそうだよ。魂を捕まえることができるなら、奴らを連れてきて、切り刻み、恨みを晴らしてやりたいものだよ。あの恩知らずの雑種を、一万回齧ってやろう。狄周は奴らと一緒になってさんざん私を騙したから、もっと齧ってやることにしよう[8]。呂祥、考えておくれ、あいつが出発して半月以上になるが、追い付くことはできるだろうか」

呂祥「追い付けますとも。私も追いかけて荷物、給料を貰うことにしますよ」

素姐「しっかり計画を立てておくれ。私もいきたいから」

呂祥「簡単なことです。渓谷を通っていく必要はございません。ずっと陸路をたどり、済寧[9]にいって消息を尋ねましょう。彼らの船が通り過ぎていたら、追い掛けましょう。船がまだ来ていなければ、来るのを待ち構えましょう。あの方は勘合を持っていて、駅で食糧を受け取りますからね。駅に行って尋ねれば、通り過ぎたかどうかはすぐに分かるでしょう」

素姐「そうと決まったら、すぐに出発しよう。足の速い騾馬を二頭選んで餌をやり、準備がととのったら、すぐに出発しましょう。あなたの衣装、賃金はすべて私が支給しましょう」

呂祥「それからもう一つ、私は故郷にきて旦那さまの秘密を漏らし、奥さまと一緒に旦那さま追い掛けていきます。奥さまが旦那さまと喧嘩されますと、旦那さまは奥さまと争う勇気はないので、私だけと争うでしょう。私はひどい目に遭ってしまいます」

素姐「むこうに着いたら、お前に荷物と給料を渡してから、彼らと争うことにするよ」

呂祥「このことは、やはりご実家のお母さまに一言話されなければなりません。女の人を一緒に連れていかれると宜しいでしょう」

素姐「行くと決まったらすぐに行こう。あの人に話す必要はないよ。兄弟が大騒ぎをするだろうからね。女を連れていけば、足手纏いにもなる。はやく騾馬に餌をやり、ご飯を食べるんだよ。今日は王舎店[10]にいって泊まり、明日は炒米店[11]に行くんだ。甲馬[12]を足に縛っているかのようにすばやく走ることにしよう」

 素姐は衣服を持ち、腰に数量の銀子を入れ、背嚢を持ちました。二頭の騾馬に鞍をつけますと、呂祥とともに、それぞれ一頭の騾馬に乗りました。たったの三日で、済寧に着き、宿屋を探し、天仙閘[13]にいって閘夫に尋ねますと、狄希陳と郭総兵の二隻の船が、五日前に食糧を受け取り、閘門を通って南にいった、もうすぐ淮安に着く頃だということが分かりました。素姐は慌てて、波止場の景色も見ず、老舗の柴家の臙脂を買い、少しご飯を食べ、騾馬に餌をやり、呂祥とともに、陸路で淮安駅にいき、様子を探りました。すると、やはり五日前に二隻の座船が来て、人夫に給料を与え、みんな南へ行くことを承知したとのことでした。素姐は追い掛ける気がしなくなりました。さらに黄河が果てしなく広く、焦げ茶色をした泥水、山のように大きな波が、天地をひっくりかえすようにして押し寄せてくるのを見ますと、とても怖くなって、呂祥にいいました。

「黄河は危険だし、五六日の差があるから、あいつに追い付くことはできないだろう。天があいつに報いるのをまつしかない。どこかに河神廟がないかきいておくれ。廟にいって紙銭を燃やし、願を懸け、あいつが風や波に遭い、舵が折れ船がひっくり返り、売女と馬鹿が二丈の鯰の餌食になることを祈ることにしよう」

 呂祥が人に尋ねますと、東門里に金龍四大王の行宮であるとのことでした。その日はちょうど願ほどきをしている人がおりましたので、神さまを楽しませる劇が上演され、とても賑やかでした。呂祥が素姐に報告をしますと、素姐はとても喜びました。一つには願を懸けることができるから、二つにはお祭りを見ることができるからでした。素姐は紙馬や紙銭を買い、呂祥にそれらをもたせ、金龍大王廟を訪ねていきました。素姐は神前で自ら香をつまみ、呂祥は宝炉で紙銭を焼きました。素姐は拝礼をし、口の中で祈りました。

「川の神さま、金龍四大王さま、両側のお二方は、張さまか李さまか存じあげません。私は山東省済南府繍江県明水鎮に住むもの。原籍は河南にあり、姓は薛、名は素姐ともうします。恩知らずで、犬か狼のような心をもち、蛆か蛟のような性格で、真心がなく、龐涓のように残酷で、秦檜のように陰険な、名は狄希陳、幼名は小陳哥という者の正妻になりました。私と彼の乳母は、家事を切り盛りし、早く起き、遅く眠り、衣服を着せてやり、口に食べ物を入れてやり、彼を金持ちにし、役人にしてやりました。ところが、奴はこっそり都にいき、別に妻を娶り、新しい妻の母親と父親を連れ、実の母親を捨て、船に乗って四川に赴任し、私を故郷に置き去りにしました。私は彼を追い掛けましたが、人も馬も疲れ、どうしても追い付くことができませんでした。川の神さまが霊験あらたかでいらっしゃるのであれば、強盗どもの船をひっくりかえし、彼らが水に落ち、魚、鼈、蝦、蟹の餌食になるようにしてください。そうすれば、お三方に袍を作り、白い鶏、白い羊をお供えしましょう。嘘をついて、お礼参りをしなければ、私は目が落ちてしまうことでしょう」

 その日は、人が劇を奉納して願ほどきをする日で、本当に黒山の人だかりでした。まだ劇は上演されておりませんでしたので、人々はぶらぶらして、殿門の周りで素姐の祈りを聞いておりました。ある人がいいました。

「狄希陳とは憎らしい奴だ。離婚をしないうちに妻を娶るなど、もってのほかだ」

ある者は言いました。

「狄希陳は薄情者ではあるが、妻が神さまにこのようなひどい呪いを掛けるべきではない」

ある者は言いました。

「あの女房は目が見えず、鼻が欠け、口は朴刀のようだ。きっと善人ではあるまい。川の神さまの前で夫を呪い罵るところをみると、家でも夫にひどいことをしていたにちがいない。ほかに妻を娶らず、あの女を家に置いておくなどとんでもない。俺は閻魔大王ではないが、もしも閻魔大王だったら、あの女を捕まえてすべてを白状させてやる」

素姐は聞こえない振りをし、これらの人々に勝手に話しをさせておりました。昼近くなり、人々が祭礼を終えますと、会の主催者は劇の目録を提出し、『魚籃記』[14]が選ばれました。素姐は廟で劇が上演されましたので、劇を見てから、宿屋に戻り、翌日出発して家に戻ろうと考えました。彼女は呂祥に命じて住持の道士から腰掛けを借りてこさせ、それを踏み台にしてみました。柵に寄り掛かり、顔を南の舞台に向け、とても快適でした。呂祥は腰掛けの脇に立っておりました。

 さて、川の神さまですが、真ん中に鎮座しているのは、金龍四大王で、もともとは金家の四太子兀朮[15]だということでした。左に座っているのは柳将軍といい、もともとは船の船頭でしたが、生きていたとき正直で、悪いことをせず、善人の悪口をいわなかったため、死んだ後、玉皇によって河の神に任命されたのでした。右に腰掛けているのは楊将軍といい、楊六郎の生まれ変わりでした。これらの神さまは、役所が祭りをするときも、豚や羊を供えておりました。民間で祭祀を行うときは、金持ちは羊を、貧乏人は白い雄鶏を供えました。澆奠[16]には必ず焼酎を用い、祭礼のたびに劇を上演しなければなりませんでした。劇を上演しておりますと、これらの神さまのうち、あるときは金龍大王が、あるときは柳将軍が、あるときは楊将軍が、あるときは柳将軍と楊将軍の二人に金龍大王も加わって、劇を見る人、役者、廟の住持、願ほどきをする人にのりうつりました。その人は棍棒を手に持ち、その場で振り回し、ひっきりなしにお碗にいれた焼酎をあおりました。彼に吉凶などを尋ねますと、すぐに返事をし、はずれることがないのでした。劇が終わりますと、神送りをしました。その時、神懸かりになっていた人は地面に倒れ、全身に冷や汗をかき、しばらく気を失っていますが、やがて意識を取り戻すのでした。そして、彼らに気を失っていた間のことを尋ねても、少しも思い出すことはできないのでした。さて、この日、包龍図が蟹の精を審問するところまで劇が上演されますと、素姐は気が違ったようになり、身を躍らせ、舞台に飛び上がり、一本の大きな棍棒を持ち、左右に振り回しながら、焼酎を飲みました。人々がどうしたのかと尋ねますと、すぐに、自分は柳将軍だといい、みずからの平生の罪悪を責めたてました。人々は歯がみをしました。金龍四大王と楊将軍は彼女のためにとりなしをし、柳将軍に、女に構ってはいけないといいました。柳将軍は素姐が凶悪で、夫を呪い罵ったから、すぐには許すことはできないと言いました。これらのことはすべて素姐の口から語られたことでした。

 呂祥は素姐が神さまに取り憑かれたのを見ますと、舞台の下に跪いて叩頭し、素姐に何度も許しを請いました。しかし、長いこと頼んでも、許してもらえなかったため、心の中でこう考えました。

「半年分の給料六両を前払いしてもらい、缸青の道袍、青い木綿の袷、坐馬[17]、青木綿の袷のズボンを作った。全部で銀子四両以上掛かったが、船で持っていかれてしまった。これでは銀子をだまし取っていないも同然だ。手元の金はすべて使い果たしてしまい、家に帰って生活することはできない。今のうちに、宿屋に戻り、二頭の騾馬に鞍を乗せ、素姐さまの背嚢を持っていってしまおう。中に旅費が入れてあれば、ほかの州や府にいってしまおう。二頭の騾馬はどんなに安くても三十両の銀で売れるし、四五両で女房を娶り、残りの金を元手に商売をすれば、人も財産も手に入ったということになる。女一人では告訴をすることはできないだろう。ぐずぐずして、財産を失ってはいけないぞ」

宿屋に戻り、食事をとり、騾馬に餌をやり、食事代を払い、荷物を積みました。宿屋が女はどこへいったのかと聞きますと、彼は言いました。

「あれは私の女房です。大王廟で劇を見ており、廟から出発しようとしているのです」

主人も本当だと信じてしまいました。呂祥は片方の騾馬に乗り、片方の騾馬を引き、鞭をくらわし、尻をのせますと、唐詩にならって二句を作りました。

塵を巻き上げ料理人(コック)は笑へり

貝戎の来たるを誰も知ることぞなき[18]

 素姐は舞台の上で焼酎を飲み、棍棒を振り回し、喋りまくりました。『魚籃記』全部の上演が終わりますと、さらに『十面埋伏』[19]『千里独行』『五関斬将』[20]が上演されました。紙銭を焼いて神送りをしますと、素姐は神懸かりが解け、手を休めました。さいわい女は何とか体を動かすことができ、しばらくすると意識を取り戻しました。片目で辺りを見回し、舞台から降り、あちこちを探しましたが、呂祥の姿はどこにもありませんでした。脇にいた人々は素姐に神懸かりのこと、彼女が喋った過去の罪について話しましたが、彼女は少しも覚えておりませんでした。呂祥の姿は見えず、宿屋がどこだったかも思い出せませんでした。日はだんだんと暮れてゆきましたが、いく場所もありませんでした。脇で見ていた人々もだんだんと散っていきました。さいわい韋美という善人がおりました。韋美はくわしく事情を尋ねますと、いいました。

「とりあえず軒下に座ってまっていてください。連れの方が捜しにくるかもしれません。晩になってもこなければ、荷物を奪い、騾馬を盗んで逃げてしまったのでしょう。私はとりあえず家に帰り、夕方また会いにまいります。もしも連れの方がこなければ、逃げたことは間違いありません。近くに尼寺がありますから、そこへいって休んでいただき、さらに手を打つことといたしましょう。

 素姐は軒下でぼんやりと腰掛けて待ちながら、日が西の空にだんだんと沈んでいくのを見ていました。日が暮れ、月が昇りますと、住持はいいました。

「連れの方はやってきませんから、多分逃げてしまったのでしょう。韋さんもやってきませんから、どこに身を寄せられるかお考えになるべきです。もう遅いですから、安全とはいえません」

素姐は蝮のようにすばしこい女でしたが、ここまできますと、手をこまねいてどうすることもできず、こう言いました。

「先ほどの韋という方は、ここに尼寺があると言っていました。どうか私をそこへおくって行ってください。もちろんお礼はいたします」

住持「私は道士ですから、女の方を連れて尼寺へ行くわけには参りません。人からとやかくいわれてしまいます」

素姐「二歩先を歩かれ、私を先導し、尼寺の入り口についたら立ち止まってください。私は門を叩いて中に入りましょう」

住持「それもいけません。あなたはこの廟で神懸かりになって話しをされ、どれだけ多くの人に姿を見られたか分かりません。私が前を歩き、あなたが後ろに付いていれば、噂をされてしまうことでしょう」

素姐「日がだんだんと暮れてきたのに、私を尼寺に送ってくださらないのですね。私は道もわかりません。仕方ありません。この廟に綺麗な空き部屋がございましたら、一晩泊まらせてください、明日行く場所を探しますから」

住持「部屋はたくさんございますが、布団はございませんし、寝床、腰掛けもございません、泊まることはできません。ただ、私の部屋の窓辺には炕がございます。上には涼床があるだけですから、男と女が同じ部屋に泊まれば、疑われることでしょう。あなたを一人で泊まらせれば、私の身のおきどころがなくなってしまいます。やはり外に行かれ、ご自分で適当なところをお探しください」

素姐がぐずぐずしておりますと、韋美が竹ひごで編んだ大きな提灯をさげ、十一二歳の小娘を連れ、あたふたとやってきて、尋ねました。

「あの男はいってしまったのですか」

素姐「私についていた人が、やってこないので、行く当てがなくて困っているのです」

韋美「早く出てきて、私についてきてください」

住持「韋さん、どこに連れていくのか、はっきりおっしゃってください。人が捜しにきて、私の廟で女がいなくなったとあっては、体裁がよくありません」

韋美は目を見張って罵りました。

「糞道士め。いくところがなければ、おまえの廟に置いておくというのか。人が探しにきたら、おまえはその人を連れてわしを訪ねてくればいいのだ」

 韋美は提灯を持って先を行き、素姐は真ん中、小間使いは後ろからついていきました。道を曲がって、少し行きますと、ある場所に着きました。

高々とした白き塀

小さな赤き両扉

幾本か松を植ゑたる門の脇

庭半分 竹は伸びたり塀の外

門環響き

誰かと尋ぬる若き尼

玉の蝋燭かきたてて

私、おまへと呼び合ひて

いと気前よく招き入る

一体何を話すやら。

 年とった尼が回廊まで出迎え、方丈に案内して茶を出しました。素姐はうなだれて喋りませんでした。韋美は一部始終を、わずらわしがることもなく、くわしく話しました。

「こちらは家柄の正しい方で、ご主人は現在成都に赴任してらっしゃいます。山東の省城は、わが淮安からは遠くありません。ここでこの方を世話し、逃げた下男を見つけてから、方策を考えることにしましょう。掴まえることができなくても、この方の家に使いを送れば、迎えにくることでしょう。この方を私の家に泊まらせたくないわけではないのです。この方は鼻、目こそ欠けていますが、若いご婦人ですから、家に泊まっていただくのは穏当ではないのです。この方に旅費があろうとなかろうと、心配なさる必要はございません。野菜と米を持ってこさせ、食べさせてあげましょう。あなた方はこの方に付き添っていさえすれば結構です。ご飯を作ってあげる人がいないのでしたら、私が連れてきた下女にご飯を作らせてもいいでしょう」

年をとった尼「一人の人間が幾らも食べられるわけでもないでしょう。施主さまは米を送られる必要も、人を残して世話をさせる必要もございません。安心してこの方を泊まらせてください。迎えが来るまで待つことにいたしましょう」

韋美は年をとった尼に別れを告げ、下女を連れて帰りました。尼は韋美の面子を立て、十分なもてなしをしました。彼女は麸と豆腐を炒め、米、干し飯を蒸し、素姐に腹一杯食べさせました。年をとった尼は彼女を自分の寝室に案内し、同じ寝床で眠りました。素姐は侯、張の二人の道姑とともに精進物を食べ、念仏を唱え、読経をし、因果を説き、物語をかたりました。素姐は年取った尼と一緒に、真夜中までお経を唱えてから、ぐっすりと眠りました。翌朝、起きだしますと、顔を洗い、髪を梳かそうとしました。

年をとった尼「櫛がございませんが、どう致しましょう」

若い尼を韋美の家に行かせ、櫛を借りてきました。素姐は、髪梳きと洗顔を終え、仏前で叩頭をし、ぶつぶつと念仏を唱えました。若い尼はそれを聞きましたが、すべて人を呪う言葉でしたので、そのことを年をとった尼に伝えました。年をとった尼は半信半疑で、あまりいい気はしませんでしたが、今まで通りもてなしました。

 さて、韋美は素姐が話したどこにあるかも分からない宿屋を、尋ねていきました。彼は一軒一軒を回り、姚という名字の家に行きました。主人は姚曲周といい、言いました。

「昨日、片目が見えず、鼻の頭が欠けた人が、目つきの悪い、脂ぎった亭主とともに、私の家に泊まりました。彼らは騾馬を繋ぎ、二つの布団をおろし、あたふたと食事もとらずに出て行きましたが、城内の、金龍四大天王廟に、お礼参りに行くのだと言っていました。しばらくしますと、男だけがやってきました。そして、食事をとり、騾馬にたっぷり餌をやり、飯代を払いますと、騾馬に鞍をつけていこうとしました。私は彼に尋ねました。『あの女の人は何でいなくなったのですか。』。男は言いました。『あれは俺の女房だが、大王廟で劇を見ているんだ。俺が騾馬に鞍を置き、あそこへ行って一緒に出発するんだ。』」

韋美「夫婦などではなく、女主人と下男なのだ。昨日、大王廟にお礼参りをしたとき、女に柳将軍がのりうつり、暴れたが、男はすきをみておまえの家にきて、騾馬を盗み、逃げていってしまったのだ。女は身を寄せるところがなくなったので、わしが女を尼寺に送って泊まらせたのだ」

姚曲周「話せば長いことになります。韋さまが来られた以上、嘘をつくわけにはまいりませんから、一部始終をお話しいたしましょう。あの女が告訴をすれば、私も巻き込まれてしまいます。役所では、気を遣ったり金を使ったりしますから、商売の邪魔になり、厄介なことになります」

韋美「あの女の人は尼寺に泊まらせた。告訴はさせない。決して迷惑は掛けないよ」

姚曲周「韋さまが世話をしてくだされば、大変有り難く存じます」

一生懸命韋美を引き止めて酒を飲ませました。韋美は彼に別れを告げ、尼寺に行きますと、素姐を尋ねて、言いました。

「あなたが昨日泊まられた宿屋が見付かりました。姚曲周の宿です。彼は、あなたのことをあいつの女房だと思っていました。あいつは、あなたは廟で劇を見ている、自分はご飯を食べ、騾馬に餌をやったら、騾馬をひいていき、あなたを廟から出発させるのだと言っていたそうです。あなたが女性で、自分では動くことができないのをいいことに、あいつは騾馬を盗んで遠くへ行ってしまったのでしょう。我慢をしてこの尼寺に泊まってください。私はあちこちに行き、男の行方を尋ね、何とかあなたを送り返してさしあげましょう」

素姐「そうしていただければ、手厚くご恩返しをし、あなたと兄弟の契りを結びましょう」

韋美「その必要はありません。自分の姉妹だけでも大勢いるのですからね。あなたは他郷をさまよわれ、身を寄せるところがありませんでした。それを目にした以上は、ひどい目にあっているあなたの面倒をみないわけにはいかなかったのです」

言いおわりますと、年をとった尼、素姐に別れを告げ、家に帰りました。そして、人に命じて、一斗の白米、十斤の小麦粉、一瓶の醤油、一瓶の酢、一瓶の淮安の人が食べる大豆油、大きな盒子に入った干野菜、豆豉、瓜の醤油漬け、茄子の醤油漬けの類い、おかずを買うための百文の銅銭、二束の薪を、尼寺に送らせました、年をとった尼は、一つ一つ受け取りました。素姐は、尼寺で、一日三度の食事をしっかりとることができました。年をとった尼は、さらに、彼女に座禅をさせたり、仏像を拝ませたり、懺悔をさせたりしました。月日はみるみる経っていきました。韋美は、あちこちを尋ね歩きましたが、はっきりした情報を得ることはできず、半月近く歩きまわりました。後に、呂祥が見付かったかどうか、素姐が家に帰れたかどうかは、この回ではお話しし尽くせませんので、さらに次回をお聞きください。

 

最終更新日:2010118

醒世姻縁伝

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[1]漂泊を司る星。この星がめぐってきた日は、旅立ちに良いとされる。『協紀辨方書、義例、駅馬』「『神枢経』曰『駅馬者、駅騎也。其日宜封贈、官爵、詔命、公卿、遠行、赴任、移徙、遷居』」。

[2]原文「送他幾站」。站は宿駅で、六十里ごとに設けられる。

[3]原文「空白湖広呈文」。呈文は下級官庁から上級官庁に提出する公文書。おそらくは省名が印刷されているのであろう。

[4]劉姨は素姐の岳父狄賓梁の妾調羹、小爺はその子小翅膀のこと。

[5]小説の名と思われるが未詳。

[6]伝令の兵士に交付された証書。これをもっていると宿駅で食糧を支給された。

[7]自分の意志と反したことをわざと主張し、反対する相手に自分の意志通りの行動をとらせる計略と思われるが未詳。

[8]原文ではこの後に、「情管爺児們新近持了臥単、教打夥子就穿靴」とあるが、義未詳。

[9]山東省兗州府。

[10] 第三十八回注参照。

[11]地名。 第二十八回に既出。

[12]護符のこと。『水滸伝』第三十八回で、戴宗が甲馬を足に縛り、一日に五百里を走ったという記述がある。

[13]閘門の名と思われるが未詳。

[14]清范希哲撰の戯曲。小説『載花船』をもとに作られたもの。于楚が魚籃庵に寓居し、尹若蘭と出会い、観音の前で婚約を交わすので、この名がある。

[15]金の完顔宗弼。金の太祖の四男。岳飛と戦い、そのことは明無名氏撰の戯曲『精忠記』の題材にもなった。官は太子都元帥。『金史』巻七十七に伝がある。

[16]酒を神に捧げること。

[17]坐馬衣。旅装の一つ、袖無しで長い。

[18]原文「一騎紅塵厨子笑、無人知是貝戎来」。杜牧『華清宮詩』「一騎紅塵妃子笑、無人知是茘枝来」をふまえる。

[19] 『曲録』に著録されているすでに逸した劇。『雍熙楽府』に逸曲が収められ、またの題を『項羽自刎』という。

[20] 『今楽考証』『也是園書目』『曲録』などに著録されている、すでに逸した戯曲。王栄が関平を訴え、関羽が関平を斬ろうとするが、張飛らに宥められるという内容。 

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