第七十一回

陳太監が店員を大目にみること

宋主事が商人を死に追いやること

 

自分は郷紳さまだぞと

会ふ人ごとに自慢せり

天子の善政 損なひて

人をむやみに捕縛せり

優しき人と怖き人

高貴な人と下種な人

それぞれ違ひはあるものの

人柄がまともであればそれで良し

鶏巴(へのこ)がなくとも構ふものかは  《朝中措》

 さて、陳公は怒りっぽい宦官でしたが、童奶奶が筋の通った話をしますと、不愉快な気分もおさまり、猫が人に喉を掻いてもらい、ごろごろと気持ちよさそうにするときのように、童奶奶は善人であるといって褒めたたえました。そして、童七を牢屋から出し、保証人を立てさせたばかりでなく、三百両の銀子を払わせることを免除しました。童七は、あたかも諸葛孔明を敬う劉備のように、童奶奶を尊敬しました。しかし、彼の欲望には限りがありませんでした。彼は女房と相談し、さらに計略を用い、三百両を免除してもらおうとしました。

童奶奶「そんなに欲張ってはいけません。宦官の性格は変わりやすいものです。あの方は、歯がみをして歯茎が痛くなるほど、あなたを恨んでいました。私が三百両を使ったお陰で、あの門番は私たちの面倒をみ、私たちのために話をしてくれたのです。私が機に乗じて、あの方の痒いところを掻いてあげますと、あの方はすぐに機嫌を良くし、私たちが三百両を返すのを免除し、二か月期限を延ばして下さいましたが、これから後悔するかもしれません。三百両の銀子は、六つの大きな元宝に相当するのですよ。あの方が他に細かいことに目を付けず、何もされなければいいのですが。あなたがまたあの方にまとわりつけば、期限を過ぎたときに、あの方はそれを口実にし、態度を変え、『わしは半額を免除し、二か月期限を延長してやった。おまえがそれでも承知しないのなら、いいだろう。わしはおまえを許さず、やはり六百両を請求し、期限の延長も許さず、すぐに請求を行うことにしよう』というかもしれませんよ。そうしたら、あなたはどうなさる積もりですか。十数日しかたっていないのですよ。私の考えでは、まず百両の銀子を持っていかれるべきです。仏手柑がきたそうですから、よい仏手柑を四つ買いましょう。一斤の新鮮な橄欖も贈ってあげましょう。あなたは『百両の銀子を作りました。全額を揃えるまで、手元に置いておけば、すぐ使ってしまうでしょう。とりあえず老公にお送りしますので、手元でお使いください』というのです。あの方はきっとあなたのことを気に入ることでしょう。あの方に銀子を返し、私たちがあの方達と仲良くすれば、これから小さな災難も救って下さることでしょう。これが私の考えです。よくお考えになってください」

 童七「奶奶の考えに間違いはない。しかし、宦官の性格からして、俺たちが簡単に銀子を返したら、全額の返済を求めるかもしれん。そのときは、どうしたらいいだろう」

童奶奶「大丈夫です。仏手柑と橄欖を買いにいかれてください。あなたは病気と称し、行かれてはなりません。私が一人で行きましょう」

童七「行きたいというならそれでいい。わしは最近運が悪く、何か喋ると人を怒らせてしまうから、自分でもひどく後悔しているんだ」

すぐに福建舗に行き、一両八銭の銀で、五つの指のついた仏手柑を四つ買いました。仏手柑は新鮮で柔らかく、ぷんぷんとよい香りがしました。さらに、一銭二分で一斤の橄欖を買いました。そして、家に持っていき、赤い提灯模様入りの紙で包み、虎哥に蒔絵の、丸い竹盒子を捧げ持たせ、自分は両袖に二封の銀子をいれ、油緑の紬の対襟の袷、月白の秋羅の裙、沙藍の潞紬の羊皮金[1]の雲頭鞋、金糸の五梁冠[2]、青い錦の額当て、驢馬を雇い、陳公の私邸に行きました。そこには以前の門番がおりました。

 童奶奶は、進み出ますと、満面に笑みを浮かべ、続けざまに拝をし、言いました。

「先日はお陰さまで、うまいことを言っていただきました。老公とお話をしてでてきてから、あなたにお礼をしようと思ったのですが、お姿が見えませんでした」

男「子供が昼ご飯ですよと言いにきたのです。ご飯を食べ、戻ってくると、あなたはもう行ってしまわれていました」

童奶奶は、袖から月白の綸子の汗巾を取り出しました。そこには、白綸子の胴、青い紬の口の財布が提げられており、財布の中には、四分の重さの金丁香、一つ一銭の指輪が入っていました。童奶奶は、言いました。

「この汗巾の中には、金丁香が一服、銀の指輪が二つあります。どうか奥さまにお渡しください。これも旦那さまへの感謝の気持ちです」

門番「先日は、奥さまから手厚い贈物を頂いたのに、何のお返しもしていません。ふたたび奥さまから贈物を頂くわけにはまいりません。しかし、女房への贈物とあれば、私が断るわけにも参りません。奥さまには本当に気配りをしていただきまして。奥さまは何のためにこられたのでしょうか」

童奶奶「私は数両の銀子を作り、老公にお返ししにきたのです。さらに、仏手柑を幾つか買い、老公に初物を差し上げるのです。主人は元気だったのですが、最近具合が悪くなり、自分では来ることができません。私は数両の銀子で買った果物が腐ってしまうのを恐れ、こう言いました。『あなたが良くなる前に、私が自分で届けましょう』。子供を来させても、幼いので適当ではございませんでしょう」

門番「老公は宮中におり、ここ数日戻ってきません。奥さま、太太に会われてはいかがですか。私が取り次ぎをしてあげましょう」

童奶奶「太太に会うことができれば、同じことです」

門番「奥さま、私についてこられてください。宅門の外で私の話を聞き、様子を窺ってから、太太とお話しをされてください」

 果たして、門番は、童奶奶を連れて儀門に入り、大広間の脇の道を経て中に入り、大広間の絹の屏風、大きな宅門を突き抜けていきました。門の外の木組みには、黒漆の塗られた桑の木の拍子木がぶら下がっていました。門番が拍子木をパンと叩きますと、中から一人の女が出てきて尋ねました。

「何でしょうか」

門番は返事をしました。

「門番の任徳前から太太に申し上げることがございます」

女房「お入りください。太太は、今、中の広間で、草花をむろに入れる[3]のを御覧になっています」

任徳前は進みでて言いました。

「童銀匠の女房が、ぶたれそうになった夫を太太に救ってもらったことをどこからか聞き、太太に叩頭したいと申しております」

太太「私の言ったことを、その人に話しておくれ。私に叩頭をしてどうするんだい、とね。うるさいだけだよ。その人に会ってどうするというのだえ」

任徳前は言いました。

「老公が先日その人に会われませんでしたか。うるさくはありませんよ。さっぱりしていて、家柄のいい人です。駱校尉の妹なのですよ」

太太「叩頭だけをしにきたのではあるまい。銀子を返すのを免除するように頼みにきたのだろう」

任徳前「いいえ。銀子を持ってきたのです。私は言いました。『老公は宮中から戻られていないから、銀子を受け取る訳にはいかない。とりあえず家に持っていってくれ』。すると、あの人は言いました。『私は数両の銀子を作りましたが、嫁はせっかちで、飢えたハイタカのようで、銀子を家に置いておけばすぐに使ってしまいます。すぐに銀子が揃えられず、期限に遅れれば、老公に咎められ、太太のご厚意に背くことになってしまいます。私は太太にお納め頂き、納めおわったら、証文を破棄することに致します』」

太太「しっかりとしたおもしろい女だね。私は馬鹿な女房だとばかり思っていた。その人を中に入れておくれ」

 任徳前は出ていって言いました。

「奥さま、私の話しを、聞かれましたか」

童奶奶は返事をし、悠然と広間の中に入りますと、上座に向かって立って言いました。

「太太にはお呼びを賜りまして。叩頭致します」

太太「私の家にきたからにはお客様ですから、叩頭する必要はありません」

童奶奶「叩頭して頭が破けても、ご恩には報いきれません。奥さまが救ってくださらなければ、私たち母子はどこにも身を寄せることができなくなっていたでしょう。奥さまは有り難い阿弥陀仏のような方です」

そう言いながら、釣瓶のように上下に八回拝礼をしました。

太太「小さな腰掛けを持ってきて、お客を座らせておくれ」

童奶奶「何ということでしょう。太太の前に座らせていただくなど、まったく申し訳ないことです」

太太「近くに座っていいのですよ。腰掛けて、女同士で話をしましょう。あなたが脇に立ってばかりいては、楽しい気がしません。どういう訳か、会えてとても嬉しいのです」

童奶奶「私は幸せです。奥さまとご一緒することができて」

さらに、上座の太太に叩頭をして席を勧められたことへの礼を言い、毛皮が敷かれた腰掛けに座りますと、言いました。

「初物の仏手柑で、あまり良い物ではありませんが、二つ買いましたので、太太と老公に召し上がっていただきたく存じます」

太太「初物はとても高いものです。お金がないのに、あなたに出費をさせてしまって」

童奶奶「子供がおもてで手に仏手柑を持っておりますので、声を掛けられ、人に持ってこさせてください」

太太「せっかく持ってきてくれたのですから、運び込ませることにしましょう」

先ほどの年をとった下女が宅門に入り、雲板を鳴らしますと、表で言いつける声がしました。

「お客様が送ってきた盒子をもってきておくれ」

 まもなく、おもてから、太太の目の前に、盒子が運ばれてきました。盒子の蓋を開けてみますと、部屋中にぷんぷんと良い香りがしました。

太太「何ていい果物でしょう。今年は、去年よりも来るのが早いけれど。皇帝陛下には送られたのかしら。私の寝室に持っていっておくれ」

太太と童奶奶は、あれこれと世間話しをしました。銀子を返す話しをするときは、任徳前の口振りに従い、臨機応変に受け答えをしました。太太は、とても喜び、人にご飯を作らせ、もてなしました。

 九月も終わりに近付き、日が短くなっていましたので、あっという間に夕方になりました。

童奶奶「これは百両の銀ですが、とりあえずお受け取りください。完済致しましたら、保証書を破棄しましょう」

太太「おいていってください。私が老公に渡せばいいでしょう」

童奶奶は、別れを告げ、家に帰ろうとしました。太太は小間使いを呼びました。

「竹で編んだ小さな箱を持ってきておくれ」

小間使いが、箱を持ってきて開けますと、太太は十個の金豆、三十個の銀豆[4]を、童奶奶に渡していいました。

「これは宮中の物です。家に持っていくといいでしょう」

童奶奶「このような珍しい物を、こんなにたくさんくださるのですか」

何度も叩頭をし、しきりに礼を言いました。太太は年寄りの下女に客を送らせました。

 童奶奶は、家に行きますと、童七にむかって太太のことを褒めました。一方、太太も陳公に言いました。

「童銀匠の女房は善人で、道理、善悪を弁えており、まったく、帽子をかぶっていない男のような人だよ。昨日、百両の銀子、四つの仏手柑と橄欖を少し届けてきた。私はあの人にお金を与え、ひきとめ、食事をとらせたよ」

陳公「あの女が物事をよく弁えていたから、三百両の銀子の返済を免除したのです。後にわたしは、軽々しく彼らを許したことを後悔しました。わたしは、あいつが期限に遅れたら、あいつを許すまいと考えていたのです。それなのに、どうして早々と百両を届けてきたのでしょう」

太太「あの人は私にこう言ったよ。数両の銀子を作ると、あの人の亭主はそれを手元において使おうとしましたが、あの人は夫が金を使ってしまい、あなたの恩を無にすることを恐れ、お金があるときにすぐに持ってきたのです、とね」

陳公「何ということでしょう。あの童銀匠に、どうしてこんなにいい女房がいるのでしょう。あいつが期限内にわたしに銀子を返したら、銅の品物はあいつにくれてやり、あいつが他の人を騙せるようにしてやりましょう」

後に、童七は、童奶奶の勧めで、一か月以内に陳公に三百両を完済しましたので、陳公は六百両の偽の品物をすべて彼に与えました。銀子を返すときは、童奶奶みずからが渡しにいきました。彼女は、だんだんと陳太太と仲良くなり、門番の任徳前とは家族のようになりました。童奶奶は、しばしば陳家に行き来し、一銭のものを送れば、十数銭の物をお返しにもらうことができました。童七はしばしば陳公の屋敷にいき、陳公に叩頭し、慇懃に振る舞いました。

 童七は、燻銀細工ばかりしていたため、他にできる仕事もありませんでした。何もせずに元手を食い潰しますと、わずかばかりのお金は、あっという間になくなってしまいました。さらに、陳公に銀七百両を返済しますと、どうすることもできなくなってしまいました。こんなありさまでしたから、陳公が銅の品物を与えますと、彼はとても喜び、昔の仕事をすることにしました。すでに作った六百両の品物がありましたので、前門外に新しい店を開き、竈を築き、鞴(ふいご)を置き、銀匠を雇い、燻銀細工の商売をしました。

童奶奶「私たちが商売をすれば、老公はお咎めになるでしょうよ。あの方はこうおっしゃるでしょう。『わしは出資金を回収し、あいつと商売をしないことにしたのに、あいつはまた店を開きおって。』。あの方は呆れてものが言えなくなってしまうでしょうよ。やはり、あの方に一声かけておくのがいいでしょう」

童七「あの人にどう言ったらいいだろう」

童奶奶「やはり私が中に入らなければならないでしょう。老公にじかに会うことができればなお良いのですが、宮中から帰ってこられるか分かりません。明日、あなたは、廟で、珍しく、あまり金の掛からない物を、何か買ってください。私が持っていくことにしましょう」

童七は、十一月一日に、城隍廟にいき、艾虎[5]を買い、三銭の銀子を使いました。艾虎は遼東の金、伏、海、蓋の四つの衛[6]の産物で、拳ほどの大きさがあり、まるで大きな虎のようで、威嚇をしたり、尾を振ったり、ウウウウと吠えたりすることができ、大きな瓢箪の中で眠っていました。大きな家で、どんなに大きな酒席を設けても、艾虎を置きますと、一匹の蠅もいなくなるのでした。値段は、一匹銀一銭しかしませんでした。さらに、三両の銀子で、話をすることができる九官鳥を買い、とても細工の細かい金漆の竹篭に入れました。買って家に持っていき、翌朝、この珍しい品物を、虎哥にもたせました。童奶奶は綺麗に装い、驢馬を雇い、陳公の別宅の入り口にやってきました。ちょうど二日は、陳公が東廠に行く日でした。陳公は宮中から出、太太に会い、東廠に行く途中で、このときはちょうど別宅にいました。門の前には、たくさんの人々が待機していました。

 童奶奶は、そこへ行きますと、驢馬から降り、驢馬代を払いました。任徳前はそれをすぐに見ますと、人々に道を開けさせ、童奶奶を宅門に入れました。虎哥は艾虎、九官鳥を持ち、宅門の外に待機しました。童奶奶は宅門に入りました。ちょうど太太が、格子に寄り掛かって立っており、陳公は、軒の下で、小者が二羽の雀を手に持ち、旗をくわえさせているのを見ていました。童奶奶はまず太太に叩頭し、さらに陳公に叩頭しました。

童奶奶「御覧ください。一人の男が、老公に恩情を乞おうとしております。老公が宮中からお戻りでないと思いましたので、私は太太にご報告いたしました。老公が家にいらっしゃったとは存じませんでした」

陳公「話しは何だ」

童奶奶「太太と老公に申し上げます。私は、羽振りのいいふりをするのがすきで、一銭ももっていないのに、十銭持っている振りを致しましたが、実際はお金はありませんでした。先日、老公に品物をお返ししますと、お金はすっかりなくなってしまい、あっという間にひさごで火事を消すような有様になりました。ところが、老公が雲の中から救いの手を差し伸べ、銅の品物をくださいました。わが家は先祖代々、古い品物に磨きをかけて新しくし、人を騙して飯を食べてきました。また、前門外に店を探し、小さな燻銀細工の店を開くことにいたします。昔の客は、騙されびくびくしていますので、新しい人を騙すことにいたします。しかし、店はございますが、家具はすこしもございません。つきましては、あの店の中の臥櫃[7]、竪櫃[8]、腰掛けを使わせてください」

陳公「『馬を飼う金はあっても、鞍を買う金がない』とはこのことだな。店を開く金はあっても、箪笥がないとはな」

童奶奶「何をおっしゃいます。ほかにお金があれば、老公のところに参ったりはいたしません。老公が下さった装身具の外には、鐚一文もありません。たくさんは望む積もりはございません。百両の銀子を手にいれることができればいいのです」

陳公「おまえが住んでいる家は、とても狭いが、綺麗だというから、売ってしまえばいいではないか」

童奶奶「そんなことをおっしゃらないでください。あの人は、毎日、あの家を売ろうとして、こういいました。『これでは宝の持ち腐れだ』。私はあの人に言いました。『この家は、老公が私たちに目を掛け、お祖父さまが私たちに下さったものです。老公があなたに目を掛けてくださったのですから、あなたは、私と一緒にこの家に住まなければなりません。父母が子供達に分けた財産を、子供達が守れば、父母は喜びます。しかし、子供達が守ることができず、財産を売ってしまったら、あなたに分け与えられたとはいえ、父母が喜ばれると思いますか。あなたは何もなくなりましたが、この二間の家だけは、『驢馬の糞−外側が光っている』[9]というものです。この数間の家を売り、野垂れ死にしますか。私たちは自業自得ですからいいですが、人々は、陳公の番頭の童銀一家が家を売り、乞食をしているよと言うでしょう。人々が『どこの陳公ですか。いま東廠にいらっしゃる陳公ですか。』と言えば、これは老公にとって体裁が悪いことではありませんか」

陳公「おまえのいう通りだ。あいつが悪人で、商売を台無しにしなければ、わしも資金を回収したりはしなかった。あいつが悪いことをするのは勝手だが、おまえのような善人が、あいつと一緒に、苦しい生活をすることになるのは残念だ。まあいいだろう。おまえに百両を貸し、おまえがわしに借りたことにしよう。一年に銀十両を利子として払えばいい。ただし、童七に渡してはならないぞ。銅銭を稼げば、食べ物、着る物は心配ないだろう。うまく金を稼いだら、元手を抜いた額を、ゆっくりわしに返してくれ。以前の店の箪笥はなくなってしまった。店ごとほかの人に貸してしまったのだ。ほかのものを捜してやるから、人に担いでいかせ、使うがよい」

 童奶奶は、叩頭をしながら言いました。

「太太と老公にお礼を申し上げます」

立ち上がると、さらに言いました。

「艾虎と九官鳥を買いましたので、お見せ致しましょう。おもてにございます」

陳公「どこの艾虎だ。夏にいくら探させても見付からなかった。どこの九官鳥だ。話をすることはできるのか」

童奶奶「何とか話すことができます」

陳公「結構なことだ。持ってこさせるがよい」

童奶奶「九官鳥や、太太にご機嫌伺いをおし」

九官鳥は言いました。

「太太、ごきげんよう」

童奶奶は、さらに言いました。

「九官鳥や、老公にご機嫌伺いをおし」

九官鳥はすぐに「老公、ごきげんよう」と言いました。

童奶奶「九官鳥、太太と老公が千年長生きされるように、お祈り申し上げるんだよ」

九官鳥は言いました。

「太太、老公が千年生きられますように」

陳公はとても喜び、言いました。

「気が利くな。どこでこのようなものを見付けたのだ」

陳公は、艾虎と九官鳥をしまうように命じ、童奶奶を、炕のある部屋に案内し、暖をとらせ、ご飯を出しました。さらに、太太に向かって言いました。

「この人が前に返した百両を貸してあげてください。証文を書かせる必要はありません」

さらに、人に箪笥を探し、彼女に使わせるように命じました。また、ご飯を持ってこさせ、付き従ってきた人々に食べさせました。それが終わりますと、老公は食事をおえ、東廠に出掛けました。

 童奶奶と太太は、あれこれ話しをしました。昼ご飯をとりますと、童奶奶は太太に別れを告げました。そして、百両の銀を持ち、驢馬に乗り、意気揚々と帰りますと、童七に詳しいことを告げました。童七は大喜びして、言いました。

「こりゃあいい。廟の中には不当な目に遭って死んだ人の幽霊がいるものだ。人々は、口を開けば銀匠のことを泥棒だと言っている。おまえのような女は、劉六、劉七、斉彦明だって娶ろうとしないだろう[10]。おまえはとても狡賢いからな」

童奶奶は笑って言いました。

「他の人も泥棒だとおっしゃるつもりですか。私は銀匠の女房だからこそ、このように狡いのです」

童七「百十両の銀子を受けとればいい。そうでなければ、すっからかんになっているところだったぞ。明日、人に命じ、つづらと箪笥を運ばせよう」

二人はとても喜び、十一月十一日に、新しく店を開くことにしました。

 世の中の人々というものは、金のある人に靡くものです。彼らは、童七が陳公から出資金を貰い、ふたたび銀細工店を開いたのを見ると、やってきて開店祝いをし、銀細工店は、今まで通り繁盛しました。しかし、運の衰えた人は、ふたたび勢いを盛り返すことはなく、だんだんと没落していくしかないものです。それに、彼の作った銅製品といえば、両目がない人でも、童七の名前を聞いただけで頭痛を起こすほどでしたので、だれも買いにこようとはしませんでした。ですから、何日も取り引きがないことがしばしばありました。北京城は、米は真珠のように、炭は玉のように高い所でしたから、番頭が何もせずにご飯を食べたり、店舗を借り、金をとられたりするのは、大変なことでした。童爺、童奶奶は、これは良くないと思い、気持ちがそわそわし、あまり愉快ではありませんでした。

 童七の親父の童一品と老陳公は、年をとってから仲間となり、童七と小陳公は、若いときに仲間となりました。陳公の名を借りますと、人々は、童七が陳公と一緒に商売をしていると思い、彼を怒らせようとはしませんでした。門番、炊事係、十戸長などには、彼に反抗しようとするものはいませんでした。彼は『大きな木の下では、草に霜が降りない』[11]生活をし、それ以外の状況は知りませんでした。後に、人々は陳公が出資金を回収したため、童七が店の広告や店の前の看板に『陳』の字を書くことができなくなり、「山鳥が毛皮帽子を被っても、鷹にはみえない」[12]ありさまになったことを聞きました。ですから、ありとあらゆる囚人の労役で、他の人が免れることができないものは、彼も免れることはできませんでした。

 童七は虚勢を張り続け、脂肪のたまった腹を突き出し、頭の先から爪先まで紬を着ていました。彼は銀細工店を開き、上辺だけの名声をもっておりましたので、『象房草豆商人』[13]として報告されてしまいました。これはあらゆる商人の中で、最も楽で、運が良く、金を稼ぐことができるものでした。あらかじめ官銀を貰い、大金を家において運用し、利子を稼げば、飼料を買っても、元本はまるまる手に入れることができました。そして、春夏の頃から、金を使いたがっている農民がいれば、彼らに銀子を使わせました。飼料は百斤が何分で、豆は一石が何銭かをきちんと計算し、秋の収穫時になりますと、十のものを六の安値で売ってもらいました。これだけで、まず四割の利益がありました。彼らは飼料、豆を管理する役人と一緒になって悪さをし、朝廷を騙し、もともと六銭の値打ちしかないものを、一両で売りました。ですから、飼料、豆の商人は、苦しいものとは言われていませんでした。才能がありさえすれば、さらに手助けを得ることができました。『一本の生糸では糸にならぬ、片方の掌だけでは拍手はできぬ』とはこのことでした。これらは、童七にはできないことでした。自分の実力を弁えていれば、これは負担になる労役ではないのですから、自分から辞退することもできました。そうでなければ、さらに童奶奶を陳公と広西司[14]のところに行かせ、話しをさせるのは、難しいことではありませんでした。彼が人々に話を聞きますと、彼らは言いました。

「心配ありません。とてもいい仕事で、なろうと思ってもなれないものです」

自分が以前騙された話で彼を騙しますと、彼はうきうきとして、こけのように勝手なことばかり考え、この商売をして金持ちになろうとしました。

 ところが、運が下降しているときには、あらゆることが思うようにならないものです。戸部には銀子がありませんでしたので、あらかじめ飼料代を払うことができなかったばかりでなく、季節ごとに代わりに払うことを要求するのでした。代わりに払ったものは、金額通り取り戻すことはできませんでした。象とは大変な生き物です。この、家のように馬鹿でかい動物は、飢えには耐えられませんでした。象奴は期日ごとに、飼料を管理する役人のところで、飼料をきちんと受け取り、飼料を管理する役人は、受取り状に従い、全額を商人に請求しました。商人の仕事は、他の人におしつけることはできませんでした。本当の大金持ちなら、自分の金を立て替え払いをしたとはいえ、安く買い、高く売り、元手をとることもできたでしょう。しかし、童七は本当の大金持ちではありませんでした。童奶奶は利口な人ではありましたが、このときは「張天師が動転して、手のほどこしようがない」という有様でした。仕方なく、物売りから「食堂から葱を買う」[15]ようなことをし、金は右から左へ流れていきました。雨が降り、物売りは城内にやってこないときは、飼料を買うこともできなくなってしまいました。象奴は、門の前を取り巻き、騒ぎ立てました。童七は数十文の銅銭で、酒やご飯を買い、象奴たちにしばらく声をたてないように要求しました。そして、あちこちを走り回り、ほかの店へ行き、飼料を買いました。銅細工師の仕事さえも絶望的なありさまとなり、まず家の装身具、走珠[16]の指輪、銅と銀が半々の禁歩七事[17]、墜領[18]、挑排[19]、かんざし、耳輪、指輪は、数頭の象の腹の中に飲み込まれてしまい、二度と戻ってはきませんでした。やがて、童爺、童奶奶の衣装を金に換え、さらにすべての食器を金に換え、金に換えるものがなくなりますと、家を売るしかありませんでした。

 童奶奶は、物を買う金がなくなりますと、手ぶらで陳公の家に行くわけにもいかなくなりました。陳太太は、童奶奶が冷淡になったと考え、だんだんと疎遠になりました。さらに、仕事に失敗したことを聞きますと、人を遣わして出資金を返すように請求しました。象奴も催促をし、陳家の食客も催促にきました。飼料の納入が遅れますと、役人が何度もやってきました。童七は彼らに何度もお願いをし、帰ってもらいました。勤務評定の時期でもありませんでしたので、誰かに仕事を押しつけるわけにもいきませんでした。

 ある日、飼料代を払うことになりましたが、家中を見渡しても、何もありませんでした。暫くして、象奴がまた催促にやってきましたが、許しを請うための金も、与える飼料もありませんでしたので、象奴はどうしても役所に報告しようとしました。これ以上ぶたれるのには、耐えることができるはずはありませんでした。さいわい租税を受けとっておらず、千両の銀子を立て替え、弁償しましたので、累は妻に及びませんでした。冤罪を訴える書状を作り、懐に入れ、毛氈に包んだ広帯を袖に入れ、象奴がやってくる前に、家の外に逃げました。

 暫くしますと、象奴がやってきました。彼は、童七が家に隠れていると思い、足を踏み鳴らして罵りました。夕方になっても、餌がないと、象は食事を求めて鳴きました。象奴は戻って上官に報告し、上官は三四人の男たちを遣わし、彼らは手分けして商人童七を探しました。二間の部屋のあちこちを探しましたが、姿は見えませんでした。彼らは、童七が、真夜中にかならず帰ってくると思い、真夜中まで待ちましたが、童七の姿は見えませんでした。

 童七は、書状を懐にし、縄を袖に入れますと、象房の飼料を管理する戸部河南司主事宋平函の私宅の入り口に行き、首を吊ってしまいました。夜明けになり、屋敷がまだ開門していないときに、総甲が城内に出勤し、門の前を通り掛かりました。そして、この珍しいものを見ますと、質屋の甲さん、屋敷の隣人を呼び、全員で立ち会いました。懐から書状を取りだしてみますと、飼料屋の童有ァで、賠償の肩代わりをすることができないので、宋主事にぶたれ、自殺するしかなかったことが分かりました。損失は銀一千三百両、官銀は受け取っていない、彼の妻に不平を訴えてもらいたいとのことでした。総甲が人々とともに、宋主事の家の表門を開けさせ、事情を告げ、中に入りますと、宋主事は、そこで愛妾と房事を行っており、びっくりしてしまいました。彼は、後に陰萎になってしまい、子供が生まれませんでしたが、これは余計なことですから、くわしくお話しする必要はございますまい。

 宋主事は、急いで髪梳き、洗顔をおえますと、懐に入っていた、不平を訴える文書を見ようとしました。総甲は見せようとしませんでしたので、一両の銀子を与えますと、書吏に書き写させ、見せてくれました。宋主事は、一方で、人を遣わし、南城の察院に報告に行かせ、急いで上申書を提出しました。すぐに命令が下され、調査が行われました。役所では、文書を審査した結果、宋主事を三級降格し、地方官にしました。童七の死体は、遺族に引き取らせ、埋葬させることにしました。四日間ぶら下がっていた死体は、ようやく宋主事の家の門から卸されました。

 童奶奶と虎哥、寄姐と駱校尉の家の男女は、喪服を着、毎日、宋主事の家の前で号泣し、紙を燃やし、酒を供え、招魂を行いました。宋主事は、彼らのために棺を買い、法事をし、お経を唱え、葬式を出そうとしました。さいわい、陳太太は長い目でものを見、とりあえず銀子の催促をするのはやめるようにと、陳公に何度も言い、陳公は、しばしば童奶奶たちに、物を与えました。虎哥は、すでに十五歳になり、立派な若者になっていました。後に陳公に頼み、陳公の家に住んでいた福建人の進士のもとに送り、長班にしたところ、とてもよく働きました。進士は観政進士となり[20]、戸部主事に選ばれましたが、虎哥は相変わらず仕事を与えられ、とても目を掛けられました。ですから、童奶奶は、天に見捨てられることはなく、あまりひどい目に遭うことはありませんでした。しかし、それからの生活やいかに。虎哥と寄姐はどうなったでしょうか。とりあえず次回のお話しをお聞きください。

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]羊皮に金を貼りつけたもので、様々な形に切り、衣服の装飾にする。清葉夢珠『閲世編』巻八「命婦之服…有刻絲、織文。領袖襟帯、以羊皮金鑲嵌」。

[2]進賢冠ともいう。礼冠。三品冠であった。『明会典』巻六十一「三品冠五梁、革帯、用金」。

[3]原文「下窖」。「窖」は穴蔵。温室として利用しているものと思われるが未詳。

[4]は高坏のこと。金銀で作った高坏。『明史』には、成化年間、臣下への褒美として与えられていたが、辺塞多事の際、毛弘が、これを臣下に下賜するのをやめるよう言上したという記録がある。『明史』毛弘伝「毛弘、字士廣、鄞人。登天順初進士。六年授刑科給事中。成化三年夏、偕六科諸臣上言『比塞上多事、正陛下宵衣旰食時。乃聞退朝之暇、頗事逸遊。礟聲數聞於外、非禁城所宜有。況災變頻仍、兩畿水旱、川、廣兵革之餘、公私交困。願省遊戲宴飲之娯、停金豆、銀豆之賞、日御經筵、講求正學、庶幾上解天怒、下慰人心』御史展毓等亦以為言、皆嘉納」。

[5]猿ほどの大きさで、姿は虎に似た動物、夏、部屋にこれを置くと、蠅が寄りつかないので、文人が好んで飼ったという。『清稗類鈔』「海城蓋兵有獣曰艾虎、身之大小類墨猴、而其形其毛、与虎無異、亦能吼撲作威。夜臥於小扁葫蘆中。夏日、室有此物、則蒼蝿皆遠避。凡遇宴会群集之処、輒置坐側。而文人几案間皆蓄之。価不甚昂、惟調之使馴為極難耳」。

[6]金州、復州、海州、蓋州。

[7]横長箪笥。

[8]縦長箪笥。

[9]原文「驢糞球児且外面光着」。上辺は華やかであるの意。

[10]劉六、劉七、斉彦明ともに明代中期の反乱指導者。山東方面で活動した。『明史』張俊伝「明年三月、劉六、劉七、齊彦名、龐文宣等敗奔登、萊海套」。正史では「斉彦明」は「斉彦名」と表記されているが、明梁儲 撰『鬱洲遺藳』では「萬一或有如徃年劉六劉七齊彦明軰起而倡亂勢又不得不調兵征剿」とあり、「斉彦明」とも表記されるようである。

[11]原文「靠大樹草不沾霜」。偉い人の庇護を受け、ひどい目に遭わないという意。

[12]原文「野鶏戴着皮帽、還充得甚麼鷹」。見かけ倒しの意。

[13]象房は中央の官庁で、象の飼育にあたる部署。草豆商人は、公金を預けられ、象の餌を調達する商人。

[14]明代、戸部の下部機関である司務庁のうち、広西省に関する事務を取り扱うもの。象舎などを管轄していた。『明史』職官一・戸部附総督倉場「広西司帯管太常寺、光禄寺、神楽観、犧牲所、司牲司、太倉銀庫、内府十庫、在京瀋陽左、瀋陽右、留守前、ェ河、蔚州左五衛、及二十三馬房倉、各象房、牛房倉、京府各草場」

[15]原文「食店回葱」。「飯店回葱」「飯店裏買葱」とも。市価より高くものを買うこと。

[16]珠の一種。珠は五分以上から一寸八九分のものまでを、九の等級に分けるが、走珠は璫珠に次いで二番目の等級に属するもの。宋李石『続博物志』巻十「沈懐遠『南越志』曰珠有九品。寸五分以上至一寸八九分、為大品。有光彩。一辺小平似覆釜者名璫珠。璫珠之次為走珠」。

[17]腰にぶら下げる装身具。金玉で作った鳥獣、花卉、兵器などの形をした七種類ものを、糸、布などでぶら下げたもの。(図:周等編著『中国衣冠服飾大辞典』

[18]明陸嘘雲編『世事通攷』首飾類に「墜領」がみえるが未詳。おそらくは、墜子、墜頭、帔墜といわれるものと同じく、襟飾りである霞帔にさげる、珠玉の装飾品をさすと思われる。『明史』輿服志二「大衫霞帔、衫黄、霞帔深者、飾金雲霞龍文、或繍或鋪翠圏金、飾以珠玉墜子、瑑龍文」。

[19]冠から垂らす飾りで、真珠や牌をつなぎ合わせたもの。

[20]原文「進士観了政」。進士のうち、翰林院に残るものを庶吉士、六部などで政務に携わるものを観政進士といった。『明史』選舉志二「十八年廷試、擢一甲進士丁顯等為翰林院修撰、二甲馬京等為編修、呉文為檢討。進士之入翰林、自此始也。使進士觀政於諸司、其在翰林、承敕監等衙門者、曰庶吉士。進士之為庶吉士、亦自此始也。其在六部、都察院、通政司、大理寺等衙門者仍稱進士、觀政進士之名亦自此始也。其後試額有搆ク、條例有變更、考官有内外輕重、闈事有是非得失。其細者勿論、其有關於國是者不可無述也」。

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