第五十四回

狄生が旅の途中で賢明な宿主に会うこと

天帝が秋に悪人を殺すこと

 

善き人は会ふ善き人と

険しく果てぬ道千里

燕、斉のごと隔つとも

賢き人に出会ふべし

天過たず

鬼神は正しく

善悪の報いを分かてり

尤厨子の悪事をなすを責めたる人はなけれども

雷はあつといふ間に脳天を撃ち破るべし  《鷓鴣天》

 さて、狄希陳は、狄員外に付き従い、狄周、尤厨子を連れ、四人で上京しました。途中は、何ごともありませんでした。北京に着き、沙窩門に入りますと、とある廟に泊まり、宿屋を探しました。国子監の東の路北里に行き、三間の北側の棟、二間の東の棟、一間の西の棟、二間の南の棟、一間の過道のある屋敷に入り、毎月三両の家賃で借りました。寝床、腰掛け、テーブル、椅子、食器の類いは、すべて揃っていました。西の棟の南側の小さな角門は、大家の家に通じていました。大家は童という姓で、排行が第七でしたので、都の人々は、彼のことを「童七爺」と呼んでいました。彼は年はまだ三十以下、一人の妻がおり、十歳の娘は寄姐、四歳の息子は虎哥、小間使いは玉児といいました。

 童七は順城門[1]外で陳内官[2]と組んで燻銀店を開いており、生活はとても豊かでした。狄員外は一月分の家賃を渡し、人に命じて荷物を童家に運ばせました。童七の女房のことを、人々は「童(おくさま)」と呼んでいました。童は、玉児に二杯の茶、赤い小さなお盆、精巧な磁器の茶碗、燻銀の茶匙に、羊尾笋と胡桃の実の挟まった茶菓子を持ってこさせました。狄員外父子が茶を飲みおえますと、玉児は茶碗を受け取り、二碗の茶を狄周、尤厨子にも飲ませました。童は前に、寄姐は後ろで、西の角門を半開きにし、門框に寄り掛かって立っていました。

 狄賓梁が童奶奶を見てみますと、金綫七梁の鬘[3]をつけ、鏡面烏綾[4]の包頭[5]、明油緑の対襟[6]の潞紬の袷、白い細かい花模様の松綾[7]の裙、黒い緞子に雪模様の扣針繍[8]を施した高底の宮鞋[9]、白綸子に挑繍[10]を施した膝褲を着け、高くもなく低くもない背丈、白くもなければ黒くもない顔、醜くもなければ美しくもない容姿、垢抜けた物腰をしていました。娘の寄姐は、顔立ちが美しく、歯は白く、唇は赤く、赤い裙と緑の袷を着け、黒い緞子の女物の靴を履いていました。

 童奶奶は狄員外に会いますと、尋ねました。

「狄さまでしょうか」

狄員外「いたみいります。童奶奶ですね。揖をなさってください。いろいろお世話して頂き、ご迷惑をお掛けしてばかりで、心苦しく存じます」

童奶奶「とんでもございません。やってきてくださった以上は、身内のようなものです。主人は、今日あなたがこられたのを知らず、接待を致しませんでしたから、後日、新居移転のお祝いをしてさしあげましょう。ほかにも若さまがいらっしゃるとのことですが、どちらにいらっしゃるのでしょうか」

狄員外は、狄希陳を呼び出し、揖をさせました。童奶奶は尋ねました。

「こちらは何番目のぼっちゃまでしょうか」

狄員外「男の子はこの子しかおりません。今年十九歳になりました」

童奶奶「とても立派なぼっちゃまですね。大奶奶がお生みになったのですか」

狄員外は笑って

「一人しか妻はおりません」

童奶奶「それは結構でございますね。あなたが立派な方であることが分かります。そうされてこそ家に争いがなくなるのです。うちの主人は、妾をとろうと考えて、仕える人がいなければ、仕事をするときに私を働かせることになるだろうと言いました。私は言いました。『息子や娘がいないわけでもないでしょう。そのような悪行をなさるお積もりなのですか。仕事があれば私がします、こき使われようと、こき使われまいと、構いません』とね。狄さま、あなたのようなお金持ちでも一人しか奥さんをおもちでないのですから、私の言ったことは間違っておりませんでしたよ」

狄員外は尋ねました。

「童奶奶は、お嬢さんと息子さんを幾人おもちなのですか」

童奶奶は寄姐を指差していいました。

「これが娘で、今年十歳になります。はやく来て、狄さまにご挨拶をおし」

寄姐は歩いてきて、きちんと二回拝礼をしました。狄員外はいいました。

「立派な娘さんですね。婚約はされたのでしょうか」

童奶奶「まだなのです。占い師は、結婚は少し遅い方がいい、焦ってはいけないと言いました」

狄員外「皇帝陛下のお膝元なら、この娘さんは、貴妃、皇后に選ばれることでしょう。息子さんは、今年お幾つになられましたか」

童奶奶「四歳になりました。今しがた外祖母の家に行きました。家にいればもちろん狄さまにお見せしているのですがね」

さらに言いました。

「何か家具が必要でしたら、声を掛けられてください。家にあるものはすべてもってきて使えば宜しいですし、ないものは、買われても宜しいでしょう。何かの用で出てゆかれるとき、家に人がいなければ、向こうへいって一声お掛けください。人に命じて入り口に閂を掛けさせましょう」

立ちながら、狄員外とあれやこれやとさんざん話しをしますと、人々は去ってゆきました。

 晩近くに、童七は店から戻ってきました。

童奶奶「私たちの東の屋敷に人が住むようになりました。山東繍江県の人で、姓は狄といい、息子さんが国子監に入るのを送ってきたのだと言っています。父親と息子の二人に、一人の執事、料理人がついています。父親は六十歳、息子は十九歳でとても綺麗です。先ほどしばらく話しましたが、とても穏やかな人でした。私たちが家賃は三両だというと、少しも値切ることなく、一か月分の家賃を送ってきました」

童七「もう遅いから、わしらは明日の朝に挨拶をしにゆこう」

 童七は一晩眠りますと、起き上がり、髪梳きと洗顔をし、白い帽子、天藍の縐紗の道袍、綸子の靴下とフェルトの靴に着替え、狄賓梁父子に挨拶しにきました。狄賓梁父子は、懇ろにもてなし、茶を出し、童七を表門から送り出しました。

 童七は家につきますと、店にゆきました。狄賓梁は息子を返礼にゆかせました。すると、玉児が出てきて言いました。

「主人は、狄さまに挨拶をしますと、家には戻らず、店にいってしまいました」

狄賓梁「広間にゆき、奶奶に会うことにしましょう」

玉児は中に入って話をしますと、狄賓梁父子を客席に案内し、席を勧めました。暫くしますと、童奶奶は、服を着替え、狄賓梁父子と会いました。主客は分かれて腰を掛け、二回茶を飲み、世間話をしました。童奶奶は、表門の内側まで見送り、狄賓梁父子は別れを告げて去ってゆきました。

 狄賓梁は、童七がかならず食事に招いてくれるだろうと思いましたし、童奶奶にとても親密にされましたので、自分が織った一匹の綿の紬、一斤の木綿糸、四本の五柳堂製の大きな花模様のついた手巾、劉伶橋[11]産の十副の細い木綿糸の帯、四瓶の繍江県製の羊羔酒を、狄周に命じて届けさせました。童奶奶はとても喜び、狄周を呼び入れ、言いました。

「とんでもございません。狄さまが私の家にきたとき、一杯の水もお出ししませんでしたのに、このような手厚い贈り物をして頂くなんて。受け取るわけには参りません。とりあえずここに置いておき、主人がきてからまた相談しましょう」

狄周「童さまが戻ってこられるのを待たれる必要はありません。童奶奶、お受け取りください。これは私たちの土地の産物で、贈り物などではございません」

童奶奶は礼物を受け取り、狄周に八十文の成化銭を与え、何度も礼を言い、たくさんの話をしました。

 二日過ぎますと、童七は大きな四角い肉、二羽の湯鶏、盒子一つ分のだいだい餡のマントウ、盒子一つ分の蒸糕、錫の瓶に入った鳩麦酒[12]を送ってきて、言いました。

「ここ数日、老公[13]と考えたのですが、少しも暇がございません。遅すぎても不安ですので、まずこれらの副食を送り、狄員外さまと狄若さまにさしあげ、二日後、狄員外さまと狄若さまをお呼びし、食事をとっていただきましょう」

狄賓梁も、来た人に、八十文の銅銭を与え、何度も話をしました。そして、尤厨子に別の料理を作らせ、晩に童七が家に戻ったら、食事に呼ぶことにしました。豚肉で四種類、鶏肉で二種類の料理を作り、さらに狄周に二尾の魚、六匹の蟹、麸、片笋[14]の類いを、たっぷり二十碗分買わせ、童七を呼んできました。さらに、六碗の料理、小皿一つ分の甑糕[15]、蒸餅、一瓶の羊羔酒を童奶奶に送りました。

 それからというもの、両家は、まるで最も親しい親戚のように付き合いました。狄賓梁と狄希陳が、衣服に糊を掛けたり、帯を縫ったりするときは、童奶奶が面倒を見ました。寄姐は虎哥とともに、しばしば遊びにきました。寄姐は紙牌[16]をするのがうまく、常に狄希陳と紙牌遊びをしました。あるときは栗を賭けたり、金を勝ち取ったり、瓜子を勝ち取ったりし、いつまでも去ろうとしませんでした。童奶奶も出てきて酒を飲むのに付き添い、まるで童奶奶の弟のようでした。やがて、狄希陳は、彼女の家に行くようになり、寝室の炕に案内され、童奶奶と寄姐の三人で、紙牌遊びをしました。彼らは、さらに狄希陳に骨牌遊び、五目並べをさせ、寄姐には狄希陳のことを「おまえの兄さんだよ」といい、狄希陳には寄姐のことを「あなたの妹ですよ」といい、自分と狄希陳が話しをするときは「私たち母子は」といいました。童七が家にきても、まったく咎めませんでした。急に狄賓梁が訪ねていっても、奥に案内して席を勧め、よその人とはまったく違うもてなしをしました。期日前に、狄賓梁が家賃を送ってきますと、必ず全額を押し返して、言いました。

「狄さまは家から遠く離れてらっしゃいますから、ほかのところで銀子を使われることでしょう。急がれてどうなさいます」

 日が経つのはとても早いものです。狄希陳は、国子監での勉強も終わりに近付き、家に帰る準備をしはじめました。この話はしばらくおいて、料理人の尤聡の履歴について、お話しいたしましょう。

 尤聡は、塩院[17]の小役人尤一聘の下男でした。彼は小さいときから使用人をし、嫁をとりました。しかし、その嫁は、もともとよその家の下女で、五両の結納金、二つの食盒で、娶ったものでした。新婦は誰でも三日はまめまめしくするものです。彼女は新しい服を着け、脚に布を巻き、顔を洗い、臙脂や白粉を塗り、油でてかてかに頭を梳かしました。尤聡は、それを見て観音のようだと思いましたし、狄員外夫婦でさえも、来たばかりのときの様子を見ますと、役に立ちそうな女だと思いました。しかし、一日たち二日たち、二日たち三日たちますと、彼女はだんだんと下女の本性をあらわにしました。女を離婚する七つの原因の第一は「盗み」ですが、彼女はこの第一の条項を犯していました。台所で鍋の肉をくすねたり、盆の中の米と小麦を盗んだり、撮み食いしたり、鶏を切るときに太腿を隠したりすることは、執事の女房なら昔から、誰でもしていることで、奇とするに足りません。しかし、この尤聡の奥さまは、下女が昔からしている悪事を数えきれないほどしたばかりでなく、桶の中の穀物、米、小麦、緑豆、とうもろこし、大豆、白小豆を、すきさえあれば、一二斗盗み、かんざし、米菓子や小麦菓子、銅銭、銀子に換えるのを、毎日の習慣にしていました。そして、腿肉の塩漬け、壺に詰まった滓漬けの肴、全部で数十個の塩漬けの卵、一斤の小蝦を、濡れ手で粟を掴むように盗みました。木綿や絹があれば盗み、盗めないときは衣裳さえも幾つか盗みました。衣裳の防備が厳しくなりますと、[衣罷]を二揃い盗んだり、スカートを二本盗んだりしました。盗みの証拠品がないときは、尤聡は女房が泥棒だということを信じず、自分の女房は天下第一の善人だといいました。人々は物を盗まれても、不平を抱きながら何も言いませんでした。しかし、盗みの証拠品が次々に出てきますと、尤聡はそれ以上弁明することができなくなりました。彼は自分の女房が、奥で下女の仕事をすることを望まず、出てゆくといって騒いだが、自分が承知しなかったので、わざとこのような悪いことをしたのだ、自分たちを追い出してもらいたいと言いました。尤一聘の夫婦は言いました

「そういうことなら、家においておいても仕方がない。追い出してしまえばいいだろう」

 その時、尤聡は、数両の銀子を手元に持っておりましたので、まったく未練はなく、嫁とともに喜んで去ってゆきました。彼は、他人に二間の棟を貸し、毎月二百銭の家賃をとりました。そして、八銭の銀で石臼を、一両二銭で一頭の雌驢馬を、九銭の銀で一石の麦を、一銭の銀で二つの薄絹を、百二十文の銅銭で笊を、三十五文の銅銭で箕を買い、二十五文の銅銭で羅床[18]を作り、十八文の銅銭で驢馬の口縄を、百六十文の銅銭で二つの竹籠[19]を、四十文の銅銭で鉄の鉤のついた天秤棒を、三十六文の銅銭で皿秤を買いました。銀子と銅銭を合わせて、全部で三両五銭四分の金を使いました。一日に麦二斗をひきますと、尤聡はそれを担いで街に行き、食べる分の黒い小麦粉を除いて、一斗につき銀三分を稼ぎました、さらに(ふすま)を売りました。これは夫婦が心を合わせて仕事をすれば、家族を養うことができる仕事でした。ところが、三日目になりますと、尤聡の女房は、だんだんと悪事を働くようになり、最良の小麦粉を選んで盗みました。そして、市価は一斤が一分なのに、半値で売りました。尤聡は小麦粉を売り尽くしましたが、金が稼げなかったばかりでなく、損をしてしまいました。彼は二銭の原価を損したことを聞きますと、石臼を売り、籠付きの天秤棒を買い、商売を変え、米と豆乳を売りました。しかし、女房が米、緑豆を盗んだため、損失が出てしまいました。そこで、数日足らずで商売を変え、涼粉、棋子を売りますと、女房は涼粉の材料と、切られた棋子を盗みました。三日後、さらに商売を変え、官塩店にゆき、塩を仕入れ、袋に詰め、肩に担ぎ、大通りを歩き、路地を通り、大声を張り上げ、塩だよと叫びましたが、最後まで売りますと、もともとは半斤だったものが、六両しかなくなっていたため、儲けはなく、大損をし、ふたたび商売を変え、炭を売るしかありませんでした。

 炭焼きが山から炭を担いで街に来ますと、十七両を一銭半で買い、十五両を二銭半で小売りしました。これは金が稼げる商売でした。それに、小麦粉や米のように、自分で食べることができるものではなく、他人に売ることもできましたので、盗まれる恐れはありませんでした。ところが、世の中には盗まれないものはなく、泥棒には巧みな計略があるものです。隣には、裁縫師の生熨斗が住んでおり、女房から安く炭を買いました。向かいに住んでいる焼餅屋の梁さんも、炭をためこみました。十七両の秤ではかりとった二百両の炭は、売るときにはかなり少なくなってしまっており、十五両の秤で計ってみますと、四五十回分欠けていました。

 尤聡は女房が盗みをしているとは思わず、自分の運が悪いのだと思っていました。薪は焼いていないのになくなってしまい、米は食べていないのになくなってしまいました。掠剰使[20]は門戸神のように彼から離れず、彼のものを盗んでばかりいました。尤聡は、毎日天地を恨み罵り、言いました。

「神さまは何も御覧になってらっしゃいません。私は生きてゆくことができません。金を稼ぐことも、うまく商売をすることもできません。神さまが私たち夫婦の面倒をみてくださらないので、にっちもさっちもゆきません。働き者で慎ましく有能な女房がいても、運命には逆らえず、天には背くことはできません。神さま、どうか私をお救いください。主人に悪口を言われないようにして頂ければ、女房とともに主人の家を出たのも無駄ではなかったことになります。しかし、今では貧乏に耐えるしかなくなってしまいました。これでは主人に合わす顔がありません」

さらに商売をかえようとしましたが、元手はなくなってしまっていました。そこで、役所に行き、人のために使い走りをしたりしましたが、給料も食事も貰えず、自分の運だけが頼りで、人を騙すことができれば、それが給料になるという有様でした。

 尤聡は人を騙すことができない人間ではありませんでした。しかし、役所に入ったばかりで、こつが掴めず、どこにも金を稼ぎにゆくことができませんでした。自分の黒い布の袷を二百五十文で質入れしましたが、女房は米を仕入れても、自分で使ってしまいました。尤聡は元手をとることができなかったばかりでなく、轎の管理[21]をおろそかにしたため、役所に呼ばれ、十五回ぶたれ、もがくようにして歩きました。翌日は、公館の飾り付けがなくなったため、かさぶたのできた腿をさらに十五回ぶたれ、動くこともできなくなりました。袷を質入れした金も使い果たし、一斗の米を買いますと、女房は三升を盗んで売りましたので、仕方なく衣服を質入れし、家で養生をしました。一か月何の仕事もせず、食事だけをしていましたので、衣服もほとんど質入れしてしまいました。どうしようもなくなりますと、夫婦で人に雇われて畑を耕し、主人から食事を出してもらい、毎年合計三石の雑穀を貰うことになりました。

 女房は、盗みをすることには慣れていましたが、何も盗むものがなくなってしまいました。彼女は、物を金に換えて飯を食べることには慣れていましたから、金に換えることができる物がなくなりますと、手持ち無沙汰で口寂しく、じっとしていられませんでした。そこで、尤聡に隠れて、一緒に荘園を耕している男たちと、人に言うのも憚られるような醜悪なことをしました。そして、高い値段を目当てにせず、数文の銅銭や、わずかな食事のために、例の商売をして奉仕しましたが、つけ買いをされて返済をしてもらえないこともしばしばでした。尤聡は何もかも分かっていましたが、夫としての体裁を保ちたいと思っていましたので、知らん振りをしているしかありませんでした。

 ある日、五更に起きて水撒きをしました。尤聡は北側で溝を掘り、女房は南側で水を汲んでいました。すると、暗がりの中で、一人の馴染みの友人が、撥ね釣瓶を上げたり下げたりするときのように、尤聡の女房とさんざん例のことをしました。そこへ、さらに二人の男がやってきて、互いに争いをはじめ、取っ組み合いをしましたので、主人はびっくりし、隣人は大騒ぎをしました。尤聡は面子が潰れ、女房を売り、土地を離れて、短期工になって暮らすしかありませんでした。龍山鎮[22]で胡挙人のために麦を刈り、四日連続で働きました。

 ある雨の日、尤聡は、胡春元の家の車庫で、雨を避けていました。胡春元は、先生を呼んで息子に勉強を教えてもらうため、ご飯を作る人を探そう、料理を作ることができ、安上がりであれば、生半可な料理人でもいい、と考えていました。尤聡は、尤一聘とともに、ずっとあちこちを旅していましたから、ご飯を炊いたり、料理を作ったりすることは幾らか知っており、涼粉、棋子を作ったりするのが得意でした。彼自身は、毛遂[23]や、湯王に取り入った伊尹を真似し[24]、口利きをする人は、彼を胡春元に推薦しました。腕前を試してみますと、豆腐を炒めればうまい味を出すことができ、薄餠をのせば丸く作ることができ、水飯を作ったり、粥を作ったり、火焼を作ったりするのは、すべて得意でした。そこで、毎年四石の給料をはらうことで話をつけ、書房で料理を作ることになりました。諺に『古くからいる人がいい』といいますが、来たばかりの新米も、元気のいいところを見せるものです。彼は腕をひけらかし、格好のいいことをし、しっかりとした信頼を得ようとしました。そして、以前のような心は起こそうとしませんでしたので、主人は騙されてしまいました。最初にいい評判を得ることができれば、続け様に悪いことをしても、良い評判をすぐに失うことはないものです。それに、彼は他人の材料を使い、自分の腕を磨き、酸っぱいもの、塩辛いもの、苦いもの、辛いものなど、適当に味付けをしましたので、主人も我慢することができました。ろくでもないことをしても、主人は尤聡が食べるものを作っていさえすればそれでいいとおもっていました。また、下男は彼とつるみあい、ぐるになったため、彼が悪いことをしても、主人の耳には入れませんでした。

 三年たちますと、胡挙人は進士に合格し、河南杞県の知県に選ばれ、家族とともに赴任し、尤聡を任地に連れてゆきました。役所に着きますと、奥は夫人が切り盛りし、米、小麦、肉、野菜のすべてを取りしきっておりました。誰が食べるべきか、誰が食べるべきでないかは、すべて奶奶の一存で決まりました。物を粗末にしたり、米や小麦を捨てたり、食べ物を腐らせたりするのは許されませんでした。彼は奥さまは真面目であるとは思わず、みみっちいと考えて恨みました。彼がしたい放題のことをしていたときが幸せだったとは思わず、主人がおかしな事をしているのだと考えました。作った料理の味が薄いのを嫌がられますと、彼は何もかもお構いなしに、大掴みの塩を加えました。間違って食べてしまった人は、半日喘ぐことになりました。塩辛いといいますと、その後はどんなものでもお構いなく、少しも塩をつけませんでしたので、味は薄く、胸がむかむかするほどでした。

 ある日、塩漬け肉を煮るように命じますと、彼は三日間塩漬け肉を水に漬けました。塩漬け肉には少しの塩味もなくなってしまいました。塩漬け肉の煮方が良くないと言いますと、彼は水に漬けなかったのはいいのですが、今度は大掴みの塩を加えました。豆腐を煮るときは、塩を加えるべきなのに、少しも塩を加えませんでした。理由を尋ねますと、彼は言いました。

「昨日塩漬け肉の中に塩を少し加えたら、まずいといわれた。今日は豆腐の中に塩を加えなかったのに、またよくないと言われた。まったく気難しいんだからな」

 最も憎むべきは、豚肉だろうが羊肉だろうが、鶏肉だろうが鴨肉だろうが、あらゆる新鮮な野菜や乾燥野菜を、湯がきますと、スープを取り去り、冷たい水に浸してしまうことでした。鮮魚、生の筍でも、すべてそのようにしました。素材を見ていない人々は、自分が何を食べているのか分かりませんでした。彼は主人に逆らい、水煮をするように言い付ければ、必ず酢で煮込み、煮込むように命じれば、水煮にするのでした。

 さらに最も憎むべきは、山椒を丸ごと用いて人に食べさせ、辛さで半日喉から息が吐けないようにさせることでした。また、真っ黒ななまこスープを作り、まずいと言われますと、黒いなまこだから黒いのは当然だと言いました。塩漬け肉を煮れば炭のように、鴨を煮れば糊のようにしてしまいました。しばしば大鍋にいれたご飯を竈に、お盆一杯の残り飯を汚水を入れた甕に捨ててしまいました。鶏や鴨を飼いますと、主人に尋ねもせず、勝手に殺してしまいました。干した筍を丸々四五斤水瓶の中に漬けておき、食べきれない物は、すべて腐らせて捨ててしまいました。また、伝桶のところで酒を密売し、ぐてんぐてんに酔いました。彼は正確でない秤を買い、外部の用度係と一緒になって悪さをしました。役所の童僕たちには、使い走りをさせました。用度係りが一日一斤の香油を料理人に買ってこさせても、彼は少しも人々には食べさせず、自分で料理を作り、火焼を焼き、豆腐を炒め、使いきらずに、余らせますと、夜に明りを点け、賭博をしました。春月が韮を買ってきますと、韮の先の白い部分をすべて切り、胡麻油を使い、ニンニク酢を加え、自分で食べ、韮の葉で小料理を作り、豆腐を炒めました。その度に、三四升の米が残りますと、伝桶で門番に頼み、銅銭や酒に換えたりしました。

 ある日、同年の王知県がやってきたため、その返礼として、役所の書房で食事をとらせることになりました。胡知県は、尤聡と、買うものについて相談しました。生臭物が二十皿、二つのスープとご飯が必要でした。尤聡が尋ねました。

「王さまはお役人ですか」

胡知県「中牟県[25]知事の王さまだ。役人でないはずがないだろう」

尤聡「きっと間に合わないでしょう」

胡知県は、彼にどうしてかと尋ねました。

「昔は、お役人の酒席には、一つのテーブルにつき、料理人八名を用いるのが習わしでした。私一人だけでは、料理を作ることはできません。あの方をお引き止めしなければ宜しいでしょう」

 胡知県は羊肉が好きで、送られれば受け取り、なければ買い、尤聡に渡して料理を作らせました。尤聡は、気候が暑かろうが寒かろうが、まず一回煮、取り出して冷水の盆に漬け、翌日鍋に入れ、昼になってから食べさせるのが恒例でした。彼は強情で、言うこともとても憎らしかったので、胡知県は我慢できず、彼を追いだしました。彼は、腰に十数両の銀子を、搭連にはたくさんの衣装を詰め、あらかじめ塩漬け肉、なまこ、燕の巣、鱶鰭、小蝦の類いをたくさんくすねていました。しばらく歩き、高唐に行きますと、辺りに人はおらず、二人の馬賊に出食わしました。彼らは弓をひき、矢をつがえ、斜めに馬に跨がって、脅かしましたので、尤聡はびっくりして驢馬から飛び下り、地面に跪き、「大王さま。お助けください」と何度も叫びました。そして、荷物全部と、腰につけた銀子、銅銭、着ていた衣服を、すっかり剥ぎ取られてしまいました。馬賊は財物を手に入れると去ってゆきました。尤聡は身一つで、乞食をしながら家に帰るしかありませんでした。明水につきますと、あちこちにいって乞食をしました。折しも、狄員外の家で、程楽宇を呼んで教師にし、家庭教師の家で食事を作る料理人を必要としていましたので、毎年四五石の雑穀を与えるということにし、書房でだけ使うことにしました。

 尤聡はとても憎たらしい性格をした悪人で、胡家で傲慢な性格を養っていました。彼は、家の外での辛い日々のことをすっかり忘れ、胡家にいたときよりもさらに悪いことをし、こう考えました。

「俺は胡進士の家に長いこといたが、誰も俺の料理を悪く言わなかった。この家はただの百姓で、ものを食べることを知っているだけだ。口にいれても、善し悪しも分からないだろう」

にやにやしながら米や小麦粉をすて、書ききれないほどの悪事をしました。先生や学生とともに、正月前に二回省城に行ったときは、彼はお茶やご飯をさんざん粗末にし、ありとあらゆる悪さをしました。しかし、狄員外は徳のある人で、軽々しく人をくびにしようとはしませんでしたので、息子が国子監に入るときは、彼を連れて上京するしかありませんでした。旅路では、食事はとても貴重なものでしたが、彼はすべての麺を宿屋に返してしまうのでした。そして、主人に得をさせることを恐れ、狄周が見ていないところで、まるまる二三碗の麺、お盆いっぱいの肉饅頭を、汚水桶に捨ててしまいました。宿屋で見ていた人々は、びっくりし、呆れました。都に着きますと、物価が高いため、米や薪を惜しみ惜しみ使っても、暮らしてゆけない恐れがあるというのに、彼は狄夫人の見張りがなくなったため、狂ったかのように、一生懸命物を粗末にしました。贅沢には慣れた童奶奶さえも、しばしば彼を宥め、米のかけらも捨てるべきではない、柔らかく黄色いモヤシのへりも切り取るべきではない、ご飯は十分な量だけ作るべきで、残り飯を溝に捨ててはいけないと言いました。彼は耳を貸さなかったばかりでなく、童奶奶はけちだと影で罵りました。一方、狄周は彼には構わなかったため、狄周に関してはあれこれ言わず、善人だといい、とても仲良くしました。

 狄員外は、ずっと童家の世話になっておりました。国子監での勉強も終わり、九月の重陽になろうとする頃、尤聡に命じて、酒を一テーブル分買い、童家の広間に運び、童奶奶と一家でささやかな宴会を設けようとしました。一つには返礼のため、二つには送別のため、三つには年越しのためでした。まず童七夫婦に話しをし、狄周に鶏、魚、肉、野菜の類いを買わせました。尤聡があれこれ料理を作っていますと、西北から真っ黒な雲が沸き起こり、白い雲が黒い雲の四方を取り囲み、雲の中から雷が轟き、黒雲が広がり、空が真っ暗になり、何回か雷が鳴りました。稲妻が数千本の松明のように光り、厨房を取り囲んで去ろうとしませんでした。尤聡はいいました。

「何ておかしな天気なんだ。九月で立冬になろうとする時期に、このような雷がなるとはな」

二人が話しをしていますと、雷はますます激しくなりました。やがて、天が崩れるような音がし、狄賓梁と狄希陳は震えて気を失ってしまいました。意識が戻りますと、中庭で、雷に打たれた男が死んでいました、上下の衣服はなく、体中が真っ黒で、髭も髪の毛もすべて焦げており、体には一行「主人を欺き人を苛め、穀物を粗末にした」と朱書きがしてありました。よく見てみますと、尤聡であることが分かりました。厨房に入りますと、狄周も真っ黒焦げになって床に倒れていました。彼はまだ息をしていましたが、体には四つの朱文字で、「悪人を助けた」とありました。狄員外は狄周が息絶えていないのを見ますと、持ってきた琥珀鎮心丸[26]を研ぎ、お湯で飲ませました。意識が回復してから、彼に事情を尋ねますと、彼は言いました。

「口の尖った、大きな翼のある幽霊のような男が、厨房に飛び込んできて、尤聡を外につれてゆきました。私も気を失ってしまいました」

そこで、尤聡が良心に背いた行いをし、米や小麦粉を捨て、天の怒りに触れたため、天が雷を遣わして彼を殺したのだということが分かりました。

 狄周は正しいことをするべきだったのです。悪人と仲間になり、何かにつけ彼をかばいだてしたのは良くないことでした。ですから、尤聡とともに雷に打たれてしまったのでした。しかし、主犯と従犯というものはありますので、天帝は雷をもちいて彼を部屋の中で気絶させ、とりあえず脅かしただけで、生き返ることを許したのでした。この天帝の処置は、公平であったと言うことができましょう。

 狄員外は兵馬司に報告をし、兵馬司は察院に報告をし、察院は文書を作り、命令を下し、検屍をし、棺を買い、共同墓地にもってゆき、埋葬しました。この日は酒を飲むこともできませんでした。童七夫婦が弔問をしにきますと、このことは都中に広まりました。暇人たちは本を印刷し、棋盤街で売り、大声で叫びました。

「九月の重陽に、国子監の入り口で、米と小麦粉を粗末にした料理人尤聡が、雷と雹で打ち殺されたよ」

道行く人々は、その奇妙な事件のことを聞きますと、二銭で一つの本を買いましたので、一か月大儲けをすることができました。これぞまさに二句の成語にぴったりです。

万事あくせくしなさるな

神は近くにましませば

さらに続きの二句を

見よや邪悪な尤厨子

九月(ながつき)の雷に撃たるるは当たり前

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]順承門とも。現在の宣武門。

[2]内官は宦官のこと。宦官の陳。

[3]原文「金綫七梁[di]髻」。[di]髻は鬘で、金糸もしくは銀糸の輪がついている。「金綫」は金糸のこと。「七梁」は髪を結い上げた部分が七箇所あることをいうのであろう。

[4]烏綾は山西省沢州府に産する、栃の殻で黒く染めた黒い綸子のことだが、「鏡面」は未詳。ただし、おそらくは、黒綸子の光沢があるさまをいったものと思われる。四庫全書『山西通志』巻四十七・物産・沢州府・帕「府境産絲、織成素帛、以橡殻p之、謂之烏綾帕、用以抹額」。

[5]婦人用髪掩い。巾二寸、長さ四寸程度の布で、冬は綾、夏は紗を用いる。色は黒。清葉夢珠『閲世編』巻八「今世所称包頭、意即古之纏頭也。古或以錦為之。前朝冬用烏綾、夏用烏紗、毎幅約闊二寸、長倍之。予幼所見、皆以全幅斜褶闊三寸許、裹于額上、即垂后、両杪向前作方法、未嘗施裁剪也。…崇禎中、式始尚狭、遂截半為之。即其半復分為二幅、幅方尺許、斜褶寸余闊、一施于内、一加于外。外者稍狭一、二分。而別装方結于外幅之正面、纏頭之制―変。今裁輻愈小、褶愈薄体亦愈短、僅施面前両鬟、皆虚以綫暗続于鬟。内而属后結之。但存其意而已。或用黒綫結成花朶、于烏綾之上、裁剪如式。内施硬襯為佳。至有上用紅錦一綫為縁、而下垂于両眉之間者、似反覚俗」「包頭上装珠花、下用珠辺口」。 (図:周汛等著『中国歴代婦女妝飾』

[6]真ん中を釦でとめる形式の、前から見たとき襟元が左右対称の形をしている服。

[7]松江産の綾と思われるが未詳。

[8] チェーンステッチのこと。

[9]周汛氏は『中国衣冠服飾大辞典』の中で「婦女所穿的繍鞋」とするが未詳。

[10] クロスステッチのこと。

[11]地名と思われるが未詳。

[12]原文「薏酒」。薏苡仁から醸造される酒。『五雑俎』「京師有薏酒。用薏苡種醸之。淡而有風致」。

[13] 「老公」は宦官に対する呼称。ここでは陳内官のこと。

[14]筍をスライスしたものをいうと思われるが未詳。

[15]米の粉に砂糖と棗を混ぜ、小豆餡を包んで蒸したもの。

[16]遊具の一つ。長さ二寸、巾一寸ほどの牌六十枚、三十種を使って遊ぶ。三十種の牌は、満貫、索子、文銭の三部門にわかれ、それぞれ一から九まで、合計二七種ある。残りの三種は幺頭牌という。

[17]官名。塩務を管理する長官。

[18]羅漢床のことと思われるが未詳。羅漢床は牙床が広い寝台。

[19]原文「[竹宛]子」。ちりとりのような形をした竹籠の一種。

[20]掠剰鬼ともいう。旧時、迷信では、人の収入は運命で定められており、定められた数量を超えると、冥府の使いである掠剰使によって奪われるものと考えられていた。ここでは、尤聡の女房を掠剰使にたとえている。

[21]原文「掌轎」。義未詳。とりあえず、このように訳す。

[22]山東省歴城県の東にある鎮名。

[23]戦国時代趙の平原君に仕えた食客。平原君にみずからを売り込んだ故事は「毛遂自薦」として名高い。ここでは、この毛遂のように、尤聡が自分を他人に売り込んだことをいう。

[24]原文「又学那伊尹要湯」。「伊尹要湯(伊尹湯に(もと)む)」は『孟子』万章上「伊尹以割烹要湯(伊尹は割烹の腕前を利用して湯にとりいった)」とあるのにちなむ言葉。

[25]河南省開封府。

[26]琥珀定志丸のことか。琥珀定志丸は『沈氏存生書』によれば、琥珀一両、南星八両、人乳粉、人参、茯苓、茯神各三両、塊朱砂、菖蒲、遠志肉各二両を用いて作る薬という。

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