第五十二回

立派な御史が賢者を表彰して世を教化すること

嫉妬深い女が強いのを頼りにして道徳に背くこと

 

芝草(しさう)には種がなく

甘泉に源はなし

秀れた人は貧家に生まれ

邪悪な者は朱塗りの屋敷

嫁姑、夫妻(めをと)などとは名ばかりで

実のところは敵同士

薛家の素姐を見た後で

見よや張家の二姉妹を

 さて、狄希陳は、孫蘭姫と会ってからというもの、焼けぼっくいに火が着いたかのような有様になりました。若い夫婦が、琴瑟相和し、女は見目麗しく、男は才長け、魚と水のような関係にあれば、孫蘭姫との関係は、彼女が一日中目の前に突っ立とうと、日に日に疎遠になっていったはずです。しかし、薛素姐は、顔は観音さまのようでしたが、心は羅刹女のようでした。狄希陳は夫とはいいながら、閻魔さまの前の幽霊のようなものでしたから、孫蘭姫のような美人に会いますと、恋い慕い、心惹かれずにはおれませんでした。孫蘭姫から二揃いの眠鞋[1]を送られますと、仕立て屋に小さな白い綸子の風呂敷を作らせ、靴を包み、毎日袖の中に入れ、腰の間に隠し、暇なときになると、人がいないところで取り出しては何度も弄び、嘆息し、ぽろぽろと頬に涙さえ流すのでした。

 孫蘭姫から送られた汗巾と楊枝を、狄希陳は毎日袖に入れていました。ある日、素姐はそれを見ますと、言いました。

「誰の汗巾です。見せてください」

狄希陳は、急いで汗巾を袖に隠しますと、言いました。

「僕が毎日使っている汗巾だよ。見てどうしようというんだ」

素姐「何ですって。見せないつもりですか。私はどうしてもみたいのです」

狄希陳は仕方なく、袖から取り出しました。素姐はそれを受け取って広げ、金の楊枝を手にとりますと、言いました。

「本当のことをおっしゃい。誰のものなんですか。でたらめをいってごまかしたら、狄家の九代前までの先祖が昇天できなくなるほどの大騒ぎをしてやりますよ。あんたと生きていけないことはよく分かっていますからね」

狄希陳は、びっくりして、顔を蝋燭の滓のように真っ青にし、顎をがちがちさせ、返事をすることができませんでした。素姐は、彼の様子を見ますと、疑いの心を起こし、ますます脅迫をしました。狄希陳は返事をしました。

「僕の汗巾を母さんの部屋においたら、なくなってしまったんだ。これは母さんの汗巾で、僕に弁償してくれたものだ。調べてどうするんだ」

素姐「汗巾をなくしたのですか。いつあなたに弁償したのです。私は知っていますよ。どうして私に話さなかったのですか。でたらめをいって私をごまかしているのでしょう」

汗巾を丸め、火鉢に捨てようとしました。

狄希陳「母さんの汗巾だよ。僕のが見付かったら、返さなければならないんだ。焼いては駄目だよ」

素姐の手から奪おうとしました。すると、素姐は鋭い刀のような爪を伸ばし、狄希陳の首を引っ掻きました。五寸の傷ができ、鮮血がほとばしりました。狄希陳は、痛みを堪えながら、汗巾を奪い取りました。素姐は、狄希陳の肩を押さえ、太腿を捩じり、腕を抓り、頬をぶち、七十二種の非刑[2]をすべて施しました。狄希陳はぶたれて神さま、お母さまと叫びました。

 狄夫人は、騒ぎを聞き、事情を知りますと、表で叫びました。

「陳哥、私の汗巾を持ってきておくれ。お前が汗巾をなくしたから、私のものを持っていかせたが、お前がこんなひどいことを言われるとは思わなかったよ」

素姐は部屋の中で言いました。

「よくおっしゃいますね。この人のために嘘をつくなんてね。息子に汗巾を送る母親なんて見たことがありませんよ」

狄夫人「ろくでもないことを言って。また私に鞭でぶたれないようにおしよ」

狄夫人が腹を立てても、素姐はまだ口答えをしていましたが、鞭のことを口にされますと、以前痛い目にあったことを思いだし、おとなしくなりました。狄希陳は母親が救ってくれたお陰で、殺されることはありませんでした。

 ところが、狄希陳は、さらに雷に遭いました。狄夫人がこっそりと彼に事情を尋ねても、彼は首をのばしたまま、何も返事をしませんでした。狄夫人は腹を立てて言いました。

「意気地無しみたいにびくびくして。これでは嫁にぶたれて当然だよ」

狄希陳の顔を指差しながら、言いました。

「お父さんがこのように間抜けだったら、私だってぶっていたろうよ」

狄希陳はしばらく立っていましたが、何も喋らずに、行ってしまいました。素姐は部屋の中で大騒ぎをしていました。

 狄希陳は、さらに、上京して国子監に入る準備をし、衣装を買い、荷物を整理しました。狄員外は、彼を一人で行かせる自信がありませんでしたので、いっしょに上京しようとしました。そして、吉日を選び、狄希陳とともに関帝君廟に行き、願掛けをし、行き帰り守ってもらおうと思いました。狄員外は、髪梳きと洗顔を終えますと、狄希陳を呼びにいきました。狄希陳は寝ていましたが、父親がよぶのを聞きますと、廟にいって願を掛けることを思い出し、急いで起き上がり、服を着、髪梳きと洗顔をし、父親とともに一緒に関帝廟に行き、願を掛けました。ところが、慌てていため、孫蘭姫の眠鞋を寝床の敷き布団の下に置き忘れてしまいました。そして、持ってこなかったことを思いだしますと、素姐に捜し出されたら、汗巾と違って、ごまかしようがないので、大変なことになると考えました。そこで、父親をほったらかし、顔色を変え、気もそぞろになって、二歩を一歩にし、部屋に走っていきました。

 素姐は靴を見付けてはおらず、顔を洗っていました。狄希陳が様子を伺い、素姐が後ろを向いたり、背を向けているすきに、靴を腰にしまうことには、何の造作もいらなかったはずです。ところが、心がびくびくしている人は、普通の人とは違うものです。よく知られていませんが、下役が盗賊を捕らえるという噂が広まっているときに、盗賊が下役に会いますと、盗賊はびっくりして頭が働かなくなり、そわそわし、すぐに盗賊であることがばれてしまうのです。狄希陳は、心の中で疚しいことをしていましたので、昼も夜もびくびくとし、素姐に靴を見付けられ、災いが起こることを恐れていました。彼は「元宝を馮商の店で忘れた」[3]ときのように、ひどく慌てていましたので、素姐が見ているのにもお構いなく、部屋の中に駆け込み、寝床のところへ行き、寝床の敷き布団の下に白い綸子の小さな包みが残っているのを見ますと、命拾いをしたかのような気分になり、素姐が洗顔をやめ、ぼんやりと見ているその前で、包みをズボンの中に入れ、出ていこうとしました。素姐は入り口に立ち塞がり、右手を上げ、狄希陳の左の頬目掛けて力一杯ひっぱたき、餅のような紫色の傷跡をつけました。さらに、左の手で狄希陳の首を叩き、狄希陳を仰向けにしますと、こう言いました。

「それは何ですか。私に見せないつもりですか。あなたをひっぱたいてやりますよ」

狄希陳がそれでもごまかそうとしますと、素姐は目の前に走ってきて、腰から彼のズボンを引っぱり、包みを取り出しました。素姐は手にそれを取ると、言いました。

「おや、おかしい。この柔らかい物は何ですか」

すぐに開いて見ますと、それはある物でした。『西江月』がその物について述べています。

表に張るは赤紬、裏に打てるは白緞子、底の毛氈綿のごと、絹の靴紐青緑、ちらと見りゃ曲がる小さき蓮の花、よく見れば細く尖れる筍(たけ)の先、嫦娥は服をとりかえて、呉剛[4]の肩の上に置く。

 素姐は顔を赤黒くし、目を見張りますと、言いました。

「どうりで下役に出くわしたときのようにびくびくしていたのですね。またお母さんの靴をもってきたのですか。これを母さんが知ったら、どうおっしゃるでしょうね。汗巾とは違うが、また自分のものだとおっしゃるのですかね。小玉蘭、この靴をこの人のお母さんにみせ、『ご隠居さまはいつ若さまの靴をなくされ、若さまに靴を弁償されたのですか。』とお言い。そうしなければ、頬をぶってやるからね」

小玉蘭「そんなことを言ったら、ご隠居さまにぶたれてしまいます」

素姐は言いました。

「あの人がどうしておまえをぶつんだい。あの人は金を出しておまえを買ったのだから、おまえをぶつはずがないじゃないか」

小玉蘭「それは違います。ご隠居さまは奥さまをぶたれたじゃありませんか」

 素姐は靴を持ち、髪を梳かし、ズボンを穿き、狄夫人の家の入り口に行き、靴を部屋に投げこみますと、言いました。

「これはあなたが主人に弁償された靴ですね。御覧ください。きっと汗巾と同じ日に弁償されたものでしょう」

狄夫人は小間使いに靴を拾わせ、手にとり、じっくりと見ますと、言いました。

「これはあの妓女の靴かもしれない。あの子が嘘を言わないようにさせなければいけないよ」

素姐「汗巾はあなたのもので、靴は妓女の物だというのですか。一つが嘘なら、百が嘘、一つが真なら、百が真です。この靴が妓女のものなら、あの汗巾も妓女のものです。この靴があなたのものなら、あの汗巾もあなたのものでしょう。それなのに、この靴はあなたのものではないとおっしゃるのですか」

 素姐が大声で怒鳴る声は、中庭を一つ隔てた狄夫人の耳にも届きました。素姐は姑を罵り、まるで獄卒が賊を取り調べているときのように、狄希陳を責めました。狄希陳は幽霊か狼のように叫びました。狄夫人はそれを聞きますと、かわいそうで刀を飲んだかのような気分になり、言いました。

「陳哥や、縛られた訳でもあるまいに。どうして走り出てこないんだい」

狄希陳「見にきてください。僕は逃げることができないのです」

狄員外「息子がどのような目に遭っているか見にいってごらん。何て馬鹿な息子だろう。ひたすらあの女に苛められているなんて」

狄夫人はこっそりと言いました。

「あなたはご存じないでしょうが、私だって天下第一、第二の女房で、この世に恐いものなどありません。私があの女のところへいけば、あの女は、男のように、強そうに話しをしていても、思わず体の毛が逆立ち、心がびくびくすることでしょうよ」

 話しをしていますと、狄希陳が叫びました。

「母さん。僕を助けにきてください」

狄夫人が部屋に入っていきますと、そこには一本の桃紅の鸞帯[5]がありました。帯は片方が寝床の脚に、もう片方は狄希陳の足に結ばれていました。素姐は二本の大きな針を、狄希陳目掛けて突き刺し、彼に自白をさせていました。狄夫人はそれを見ますと、狄希陳の顔目掛けて唾を吐き、言いました。

「ぺっ。馬鹿な子だよ。強盗をしたわけでもないのに、こんなにひどい目にあわされるなんて。この子は女郎買いをしたんだよ。これは妓女の靴だよ。夫が女郎買いをして、何が悪いんだい」

テーブルの上の鋏で、鸞帯を真っ二つに切りますと、狄希陳を押して言いました。

「安心おし。私たちには数頃の土地があるから、二頃を売っておまえに女郎買いをさせてやろう。そうしたって何の罪にもならないよ」

素姐は狄希陳を指差しながら言いました。

「出ていくつもりですか。少しでも動いたら、私は薛と名乗るのはやめ、薛振が生んだ娘ではなくなってやりますからね」

狄希陳は立ったまま動くことができませんでした。狄夫人は腹を立て、狄希陳の首を掴むと、外に押し出しました。素姐は言いました。

「出ていくつもりかえ。それなら、もう入ってこなくていいよ」

狄希陳は母親によって部屋の外に押し出され、門框に寄り掛かりました。彼は金縛りの術を使っているかのように、一歩も動くことができませんでした。狄夫人は彼の手をとって言いました。

「行こう。あの女に構っては駄目だよ。私があの女と徹底的に戦ってやるよ。百歳まで生き、あいつを殺し、肉を食ってやるよ」

 狄希陳は歩きながら、何度も振り返り、もたもたしましたが、母親と争おうとはしませんでした。素姐は狄希陳が彼の母親につれられていくのを見ますと、

「張天使が呪文を忘れる−護符に効き目がなくなる」というありさまになり、罵りました。

「こんな躾のなっていない奴には会いたくないよ。一人の息子が、女郎買いをし、嘘をついたのを放っておくとは、どういう積もりだい。目が見えないわけでも、耳が聞こえないわけでもないのに、息子を野放図にさせて、少しも躾をしないとはね。私が見るに見兼ねて、息子をしつけようとすると、それはだめだと言うんだからね。親だったら、『この子は大きくなって父親に従わなかったが、この嫁に教育してもらうことができた。嫁がいなければ、この子の躾をする人はいなかっただろう』と言うべきだ。このような公平なことを言えば、私だって我慢するだろう。あの人は息子を守っているが、息子は不倫をした女の汗巾を持っているんだ。私が調べると、あの人は汗巾は自分の物だと言っていたが、いずれ不倫をしたのも自分だと言うんじゃないかね。小さな靴でなく、親指の先に履くことができさえすれば、あの人は自分のものだと言うだろう。息子が悪いことをすれば、すべて我が身に引き受けるだろう。これから、嫁の部屋から男が出てきても、自分のものだと言うんじゃないかね。『馬を買うときは母馬を見よ』というが、こんな母親からいい息子が産まれるはずがないよ。『数頃の土地があるから、二頃を売って女郎買いをさせよう』だって。何頃の土地ももっていないくせに、二頃も売ることができるのかえ。多分売れないだろうよ。あの二人の老いぼれの骨は、あいつに撒いてもらおう。小冬哥が巧姐を娶らなければ、妹を売って女郎買いをしていたかも知れないよ。私の主人をつれていってどうするんだ。日は木の葉のように多いんだから、私に盾突いてはだめだよ。私はあいつを針で刺してやろう。私は言ったことを変えたりはしないよ。私はたくさんのやもめが飢え死にするのを見ているから、節を守ったりはしないからね」

 素姐の罵る声を、狄夫人はすべて聞いていました。彼女は、怒りでヒキガエルの様にげろげろと噎せると、こう言いました。

「私の命など塩ほどの価値もありません。あの女と闘ってやりましょう」

狄員外は言いました。

「おまえ『良い靴は臭い糞を踏まない』というぞ。あの女は気違いだと思うことだ。あんな女に構ってどうする。李さんがおまえに話しをしてくれてよかった。他の人が話しをしても、おまえは信じようとしなかっただろうからな。そんなに腹を立ててどうするのだ」

狄夫人「私たちは必ず息子の味方をするのです。どうやらあの子は継母と一緒に暮らしている子供のように逃げられないようですね」

狄員外「もうすぐ都にいくから、あの子がぶたれないようにすることができる。神さまがあの子を哀れと思われ、あの子があの女への借りを返せば、あの女も性格が良くなるかも知れないぞ」

 狄希陳は部屋に行こうとはせず、母親のいる表の間で眠りましたが、素姐が以前のように火を放つ恐れがありましたので、三人が交代で目を覚まし、用心をしました。また、都に行ってから、素姐が何か悪巧みをするのではないかと思われましたので、狄員外がふたたび関帝廟に行き、簽を引きました。簽にはこう書いてありました。

蘭房(ねや)で釵分(かんざし)けあうも、にわかに音信(たより)途絶えたる。連理(みょうと)となるを望めども、ついに願いの叶わざる。

 狄員外は簽を引いたものの、意味を解釈することができず、とても不安でした。素姐は、部屋の中で、罵り続けていましたが、狄員外夫婦は聞こえない振りをし、荷物を片付け、吉日に出発するのを待ちました。薛教授は二日前に酒肴を買い、テーブル、盒子を並べ、二人の息子とともに狄員外夫婦を送りました。素姐はそれを知りますと、父親の事を、馬鹿爺い、死にぞこない、娘を苦海に沈めた奴、目くらになれ、このような婿を求め、どの面下げてここにくるのだ、と罵りました。狄員外は聞こえない振りをし、急いで掃除をし、テーブルを並べ、料理を作り、接待しました。薛教授たち三人が茶を飲み終わりますと、薛如兼は奥にいき、姑、素姐に会い、表で灯点し頃まで腰を掛け、去っていきました。

 翌日、狄員外は、狄希陳に、彼の姑、舅に別れを告げにいくように命じました。狄希陳が薛家に行ったときは、薛教授は会[6]に行ってしまっていましたので、薛夫人にだけ会いました。薛如卞兄弟二人は、狄希陳を引き止め、食事をとらせました。狄希陳は、汗巾と靴のことを二人に告げ、素姐がぶったり罵ったりしたことを二人の義弟に話しました。

薛如卞「これは前世で定められた運命で、どうしようもないことですから、我慢するしかありません。昨日盒子を送っていったとき、姉は父のことまで罵り、まるで気違いでした。何でしたら、奥へ様子を見にいきましょう」

お互いに話をし、酒とご飯を食べました。

 狄希陳は別れを告げて家に帰りました。翌朝起き、食事をとりますと、荷物を準備し、狄員外とともに、家廟と狄老夫人に別れを告げ、出発しようとしました。狄員外は狄希陳を呼び、

「部屋に入り、おまえの女房に一声掛けていけ」

狄希陳は、部屋に行き、素姐に揖をしますと、言いました。

「父さんと出発するんだ」

素姐は体も動かさずに、言いました。

「もう二度と戻ってこないでいいよ。強盗に出くわし、粉々に切り刻まれたら、かならず夢に現れておくれ。私は真紅の服を着て、よそさまに嫁ぐことにするから」

狄希陳は彼女の呪いを聞きますと、眉を潜める勇気もなく、出ていきました。薛教授父子は、全員やってきて出発を見送りました。さらに、三両の餞別を贈り、別れて出発しました。一緒に行くのは狄賓梁、狄希陳、狄周、尤厨士の四人でした。

 狄希陳が上京して国子監に入ったことはお話しいたしません。さて、薛夫人は、翌日、素姐を家に迎えようとました。

薛教授「あんなろくでなしを家に迎えてどうする積もりだ」

薛夫人「よくご存じじゃありませんか。あの娘がろくでなしであることが分かっていたなら、他の人がこの娘に苛められないようにすればよかったのです。婿も家にいませんから、この娘を家に戻らせればいいでしょう」

薛教授「あいつを戻らせても、わしは会わんぞ」

龍氏はそれを聞くと、罵りました。

「老いぼれの死に損ない。私はあの娘に会いたいんだよ」

薛教授は尋ねました。

「あいつは何といったんだ」

薛夫人「何も言いませんでしたよ」

うまくごまかしますと、薛三槐の女房に、素姐を迎え、小玉蘭とともに戻ってくるように命じました。小玉蘭は、人気のないところに行きますと、狄希陳の汗巾と靴のことを告げ、さらに、素姐が靴底を縫う時に使う針で狄希陳の全身を刺したこと、帯で足を縛り、逃げるのを許さなかったこと、娘の部屋から男が出てきたときも自分のものだと言うつもりかねと言ったことを話しました。薛夫人はそれを聞きますと、怒りのあまり死にそうになりましたが、薛教授には知らせませんでした。

 二日後、薛夫人は、狄員外と婿がいなくなったので、酒肴を準備し、狄夫人に会いにいきました。彼女は一人で行き、素姐は同伴しませんでした。二人の夫人と巧姐は、崔近塘の女房を呼んで付き添わせ、一日談笑しました。狄夫人も素姐のことを口にせず、薛夫人をもてなしました。崔近塘の女房は、家に行きませんでした。

 さて、明水村には、張養冲という年をとった学者がおりました。彼には二人の息子、二人の嫁がおり、暮らしはまあまあ、息子と嫁はどちらも孝行で、村人の評判も上々でした。張養冲が病気で床に就きますと、二人の息子は、医者を呼んだり、占い師に尋ねたり、神さまに願を懸けたりしました。二人の嫁は、家で茶を煎じたり、薬を煮たり、ご飯を出したり、スープを煮たりして、二三か月間世話をし、少しも恨みごとを言いませんでした。そして、張養冲が死にますと、貧しいのに金をはたいて、葬具を買い、葬式を出しました。二人の息子は、一人は家で宿屋を営み、一人は数畝の田を耕し、二人の嫁は家で姑の面倒をみました。この嫁二人が、他の人々のように夫を唆し、兄弟仲を悪くし、家を乱していれば、毎日豪勢な料理、綾錦を姑に捧げても、老人は不愉快に思い、衣装が綺麗で、食事が豊富でも、意味がないと言ったことでしょう。二人の嫁は、一人は楊四姑、もう一人は王三姐といい、もともとは違う家の者同士でしたが、気が合い、同腹の姉妹よりも親しくしていました。彼らは互いに尊敬しあい、心を一つにし、家を切り盛りし、仕事をしました。舅姑はとても喜びました。さらに、息子が孝行でしたので、舅姑は、神仙になったかのように幸せでした。舅が亡くなり、姑が独り身になりますと、二人の嫁は、姑の部屋で付き添い、十日交代で面倒をみました。冬は姑のために布団を暖め、衣服を炙り、髪を梳き、足を削り、虱を捕り、南京虫を捕らえ、便所へ行くときは介助をし、起き伏しの際に様子を見ました。夏は寝床を掃き、蚊を払い、扇で煽り、誠意を尽くしました。彼らは二畝以上の田をもっており、収穫期になりますと、一年に二石の米がとれました。二人の嫁は、自ら臼を挽き、米をとても細かくし、舅姑にだけ食べさせました。田には魚を、家畜小屋には三四匹の豚を飼い、冬には塩漬け肉を作りました。また、鴨の卵を塩漬けにし、鶏の雛を養いました。二人の老人は夫婦で肉を食べました。麦を臼で挽くときはいつも、上等の小麦粉を、舅姑に食べさせました。嫁二人は、それぞれ暇を盗んで蚕に餌をやり、毎年いっしょに三匹の絹布を織ったり、それぞれが二匹織ったりしました。舅姑は紗羅や緞子を身にまとうことはできませんでしたが、文王の時代の、絹を身につけた老人のようでした。後に二人の嫁は姑に仕え、さらに懇ろにしました。後に姑が老衰し、歩くことができなくなりますと、服を着せたり、食事を与えたり、足を包んだり、顔を洗ったり、髪を梳かしたり、用を足したりするときは、すべてこの二人の嫁が子供のように面倒をみました。姑の老衰が進み、食事の量が減りますと、嫁二人は、割股をして老人を生き返らせようと相談しました。嫁二人は、精進物を食べ、天地に祈り、冬にはひとえを着、精進物を食べ、念仏をあげ、それぞれ左の腿から肉を一切れきりとり、スープを作り、姑には豚の肉だと言いました。姑はそれを食べますと、うまいと思いました。そして、胃がすっきりし、だんだんと食事をとるようになりました。床からは起き上がれませんでしたが、さらに一年八か月生き、七十八歳で亡くなりました。嫁たちは、まるで姑が天寿を全うしておらず、姑を殺しでもしたかのように考え、気を失うほど泣きました。

 姓は馮、名は礼会という按院がおりました。彼は巡察を終えるときに、孝子、順孫、義夫、節婦を推挙するのを習慣にしていました。彼は、この四種類の人々は正人である、彼らのことを報告し、表彰するのは、倫理、名教を振興させ、凡人を鼓舞するためであると考えていました。しかし、昨今の世の中では正しい議論が行われず、人の心には善悪がないため、この四つの肩書きは、偽善者、金や権力があり、悪事をし、法を犯す下役、通りで人を罵り、大騒ぎをするあばずれ女たちによって独占され、朝廷の名誉は汚されているのでした。彼は言いました。

「この四種類の人々は、金持ちの家から選ぶべきではない。一つには、富貴な人は、あらゆるものを手に入れることができるが、名誉だけが手に入らない。しかし、役所に渡りをつければ、名誉を手に入れるのは簡単だからである。二つには、富貴な人々は、孝、順、節、義の行いをするべきである、この四つのことをして、はじめて人間であるといえ、この四つのことができなければ、人間ではないのである。詩書[7]を読んだことがなく、貧乏な境遇に身を置いているにも拘らず、俗気に染まらず、貧乏にも挫けず、仲間より優れ、親や祖父母に孝行をし、夫に殉じていれば、真の孝子、順孫、義夫、節婦であるといえ、彼らをお上に推挙することができるのだ」

按院が孝子、順孫、義夫、節婦を推挙しようとしますと、諸官庁は命令に従わないわけにはいかず、推挙を行うことにしました。しかし、荒んだ世の中でしたので、すぐれた人は誰もいませんでした。

 張大、張二は孝子、楊氏、王氏は孝婦ということができました。隣近所、郷約は、推薦、報告をしました。審査が行われますと、彼らの右に出るものはいませんでした。県庁は、文章を書き、府に報告しました。府庁では文章を書き、返事をしました。学道は按台に上申書を送り、按台は上奏文を提出し、勅旨が礼部に下されました。礼部は上奏を行い、勅旨を奉じ、張大を張其猷と呼び、妻の楊氏とともに、張二を張其美と呼び、妻の王氏とともに、撫按に牌房を建て、表彰を行わせ、穀物三石、布二匹、綿花六斤を終身支給することにしました。

 按院は、勅旨と勘合を奉じ、繍江県に行きました。勅旨によれば、二つの牌房を建てることになっていました。県庁では、張其猷、張其美は実の兄弟、楊氏、王氏は義理の姉妹であるから、簡略にしてもらいたい、一つの牌房を建て、男女四人の名を並べてくださいと言いました。ところが、按院は四人を丁重に表彰することにし、県庁にふたたびいきますと、勅旨を奉じ、それぞれに牌坊を建てることにさせました。そして、工事を県知事自らが見にいくように命じ、下役だけに仕事をさせるのを許しませんでした。県知事は上意を奉じ、街の賑やかなところに、敷地を選びました。そして、煉瓦、石、木材を買い、職人を選び、吉日を選んで工事に取り掛かりました。彼は自ら現場にいき、棟上げ式まで行おうとしました。明水は県から四十里離れており、県知事が自らその地に行くのは、まるで天の神が降りてくるようなものでした。村中の人々は大騒ぎをし、地方は小屋がけを建て、郷約は絨毯を敷き、飾り付けをしました。明水鎮に住んでいる郷紳、監生、秀才、耆老は、礼服や衣巾を着け、県知事のお供をしました。張其猷、張其美は、孝子の衣巾、儒巾、黒服を賜わり、意気軒昂としていました。

 間もなく、県知事が来ました。太鼓が鳴り、鮮やかな旗が翻りました。県知事は轎から降り、拝礼用の絨毯の上で、挨拶を行いました。挨拶が終わりますと、小屋掛けの中に移り、おおぜいの紳士たちと会いました。張其猷兄弟は、礼を述べ、県知事は格別のもてなしをしました。この日は、明水鎮の男女が総出で見物にきたばかりでなく、一二十里離れた隣の荘園の女たちも、みんな見物にきました。彼らのうち、不孝な行いをし、父母に逆らい、舅姑に背いていた者は、良心を励まされ、さらによく勉強しようという志を立てました。父母の教訓を聞かず、愚かな民衆、舅姑を尊敬せず、舅姑を殴り、罵っていた者たちも、以前の悪事を悔い、きちんと勉強をしようという志を立てました。ですから、役人が人民の風俗を変え、悪を去ろうと思えば、表彰を行うべきなのです。

 薛教授は、その日、よその土地の郷紳ではありましたが、礼服を着、主だった人々の中にまじっていました、このような盛大な儀式を、見にこない女たちはありませんでした。牌房が建てられたのは、相棟宇の家の前でしたので、急いで薛三省を家に帰らせ、薛夫人、素姐、薛如卞の女房連氏を呼びました。彼らは相家に綺麗な牌房を見にいきました。

薛夫人「牌房を建てることなど大したことではありません。若い娘をよその家に行かせるのですか。牌房を建てたぐらいで、こんなに大騒ぎをするのですか」

薛三省「張さんの二人の息子が孝子に推挙された。二人の嫁は姑が病気のときに割股して治療をし、孝婦に推挙された。勅旨を奉じて、彼らのために牌房が建てられたのだ」

薛夫人は、薛教授の考えを理解し、言いました。

「素姐、早く準備をしておくれ。私たち三人は見にいくから」

素姐「あなたがたが行かれても、私は行きませんよ」

薛夫人「お父さんが私たちを迎えにきたのだから、行かないわけにはいかないよ」

素姐「私をからかうつもりですか。私はずっと利口ですよ。私は孝婦になどなりませんし、牌房など屁とも思いません。私は自分の肉を、犬に食べさせてもいいですが、腿肉のスープを作ったりはしませんよ。それなのに、下らないことばかり言って」

構おうとせず、去っていってしまいました。

 薛教授が家に戻り、行かない理由を尋ねますと、薛夫人は素姐の話しを伝えました。薛教授は長嘆息し、少し頷きますと、部屋の中に入っていきました。龍氏は脇で言いました。

「そんなくだらないことは、話さなければよかったのです。いつもあの娘を馬鹿にし、おまけに刺激するなんて」

薛夫人「なにが刺激するですか。あの娘を馬鹿にしてなどいませんよ。あなたが娘の教育を誤ったといわれるのも尤もなことですね」

薛教授は腹を立て、両目をむき、部屋から出てきました。龍氏は顔を挙げてそれを見ますと、まずいと思い、頭を下げ、肩を窄め、厨房に入っていきました。薛教授は、しばらく目を剥いていましたが、こう言いました。

「あの私娼(ばいた)を逃がしてしまったわい。蹴っとばしてやればよかった」

 こうして見てみますと、素姐が姑に逆らい、婿を殴ったのは、明らかに前世の報いなのであります。その後、さらにひどいことが起きたのですが、それは次回でお話し申し上げましょう。

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]婦人が寝るときにはいた靴。色は赤く、柔らかく作ってある。睡鞋。

[2]不法な拷問。

[3]馮商に関しては第三十四回の注を参照。

[4]月の中で桂の木を伐っているという、伝説上の人物。

[5]彩色を施した太帯。

[6]原文「会里」。「会」は文人が酒を飲みながら、詩、文を作りあったりする「文会」をさすものと思われる。

[7] 『詩経』『書経』に代表される儒教の経典。

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