第四十二回

狐の精が悪鬼の振りをして悪事をなすこと

郷約が農民を例貢生にして報復をすること

 

死人は消えた灯明か

手にとる人のなき傀儡(くぐつ)

強くても死んでしまへばおしまひで

幽霊などはありはせず

人妻を抱く部屋の中

疑心暗鬼でびくびくす

狐の精は仕返しし

祟りをなせり汪生に  《卜算子》

 汪為露の葬式のとき、狄賓梁は、息子に八両の銀子を贈らせ、葬儀を助けさせましたが、人々は、陰で、狄賓梁が金を贅沢に使いすぎるといって非難しました。

「生前の汪為露と仲良しで、息子を教育してもらって効果があったのであれば、手厚い贈り物をしても構いませんが、五六年勉強したのに、字も教えてもらわなかったということは、功績がなかったということです。汪為露は程楽宇をぶち、あなたをさんざん罵り、さらに学道に上申書を送りました。このような付き合いなら、あいつとの間には何のよしみもなかったということです。宗光伯さん、金亮公さんたちの面子を潰すわけにはゆきませんが、一両の銀でも手厚すぎるというものです。それなのに、一体全体、どうして八両もやったのですか。宗光伯は挙人なのに六両、金亮公は世家なのに四両しか出していないのですよ」

狄賓梁「十二石の食糧を売り、八両の銀子を集めたのは、大変なことでした。この間、息子が学校に入り、あの人に謝礼を送りましたが、あんなにたくさんあげるべきではありませんでした。私が謝礼を贈ったのは、一つにはあの人が無頼漢であることが怖かったから、二つには先生への贈り物は多すぎるということはないと思ったからですが、あの人は大声で罵り、礼帖を捨ててしまいました。私は礼儀正しく接したのに、あの人は私に非礼をはたらきました。私は筋が通っており、あの人は筋が通っていませんでした。ですから私は礼物を回収したのです。後に、あの人は人を遣わして何度か話しをし、礼物を貰ってゆこうとしましたが、私はあの人を相手にしませんでした。しかし、あの人が死んだので、私は葬式を助けるという名目で、あの人に以前与えようとした謝礼を与えたのです。あの人はもう死んだのです。死人と争うつもりはありません」

見識のある人々は、狄賓梁は教養のない老人ではない、まるで古人のようだと言いました。

 さて、侯小槐は汪為露に敷地を奪われましたが、役所に裁判をしてもらい、境界の壁を取り戻しました。侯小槐は筋が通っていたのですから、汪為露を恐れることはないはずでした。しかし、侯小槐は汪為露を恐れつづけ、どうしても例の敷地を取り戻そうとしませんでした。一年たって、程楽宇がぶたれ、役所に訴状が提出されますと、県知事はこのことを思い出し、侯小槐を呼びました。そして、境界の壁が返されていないことを知りますと、すぐに壁を壊させ、事件に決着をつけました。役所に判断をしてもらったのですから、これまた汪為露を恐れることはないはずでした。侯小槐は汪為露と隣同士ではありましたが、「それぞれが門の前の雪を吐き、他人の瓦の上の霜には構わない」ということにすれば、汪為露は侯小槐をどうすることもできないはずでした。しかし、侯小槐は臆病者でしたので、自分の先祖の建てた家を、安い値段で抵当にいれようとしました。抵当に入れるときは、汪為露がさんざん難癖をつけました。しかし、家を質受けする人は、値段が安かったので、逃げようとせず、汪為露に手厚い礼物を送りました。汪為露はようやく悪さをしにこなくなり、家を抵当にいれるのを許しました。

 侯小槐は質入れの金を受け取りますと、よその土地に行き、小さな家を買って住みました。しかし、汪為露が死にますと、がらりと態度が変わり、人と会うごとに汪為露の名をいっては、罵りました。媒婆から汪為露の女房が嫁ごうとしていることをきかされますと、初めは良心がありましたし、汪為露の霊に悪さをされることを恐れてもいましたので、承知しようとしませんでした。しかし、媒婆が口利きをし、魏才が婚約を承知しますと、考えを変えました。

「汪為露は生きていたとき、自分が強いことと、弟子が多いことを恃んで、わしの土地の境界の塀をごまかし、役所で判決を受けて外に出ると、わしを何度もぶって罵った。しかし、今では奴の女房は節を守らず、人に嫁ごうとしている。奴の女房を娶って、恨みを晴らすことにしよう」

このような考えは、もとより良くないことです。女を娶るにしても、女が野辺送りを終え、家に戻ってから、吉日を選び、きちんと儀式を行い、汪為露の墓に別れを告げさせ、喪が明けてから結婚すればよかったのです。しかし、侯小槐は、よりによって葬式の日に、墓で公然と女を娶ってしまいました。魏氏も、夫妻であった期間が短かったとはいえ、娼婦でさえも、数晩女郎買いをした客と意気投合して命を懸けた契りをかわすことがあるものです。汪為露は魏氏と本当にいい思いをしていたかどうかは分かりませんが、彼は、馬鹿でかい夜叉のような体をしていたのに、二三か月足らずで地獄の餓鬼のようになり、魏氏の若さを愛するあまり、白い両鬢と白い口髭を、毛抜きで抜き、死にかけた宦官のようになってしまいました。これら二つの良いことをしてもらったのですから、魏氏は情義を断つべきではなかったのです。汪為露が強盗のように奪ってきた銀子の行方が知れないなどというのは真っ赤な嘘で、魏氏がすっかり盗んでいたのですが、これも程々にするべきでした。彼女は、魏才、戴氏の謀りごと、扶氏、魏運の手助けに従い、麻縄、喪服、紙銭、白髻[1]をとり、墓に捨て、袷を着、かんざしを挿し、白粉を塗り、墓にきて何度か泣きわめき、二回拝礼を行いました。そして、去る時には流し目もせず、意気揚々と、轎に乗り、先導の鳴り物が響く中を去ってゆきましたが、こんなことをしてよいはずがありませんでした。おそらく内心は忸怩たるものがあったはずです。

 侯家につきますと、侯小槐は汪為露の女房を抱き、汪為露の銀子を使いました。彼は、得意になったり、喜んだり、罵ったりし、毎日のように汚らしい言葉で騒ぎ立てました。こうなると、魏氏も気分を悪くして、言いました。

「あの人はもう死んだというのに、私にこんなにうるさく喋ってどうするのです。あなたがこれ以上こんなことをしたら、私は縄で首を吊って、話しを聞かないことにしますよ」

そこで、侯小槐は騒ぐのをやめました。

 数か月たちますと、小献宝はますます賭博するようになりました。彼はまず宗、金の二人が彼に与えた銀子を賭博の資金にしました。そして、一か月たちますと、衣装、家具を売り、数畝の土地さえ他人に売ってしまいました。結局、残ったのは家だけでした。彼は侯小槐と隣同士でしたので、仲買人をつかわし、侯小槐に買うように言いました。原価は四十五両でしたが、汪為露が死んでから数年間、修理が行われていなかったため、八両減らして、三十七両にしました。魏氏は銀子をもってきて彼の家を買いました。部屋の中には何もありませんでした。『片手で金を渡し、片手で品物を受け取る』とはまさにこのことでした。

 侯小槐は汪為露の家を買いますと、住んでいた家を売った銀子でもとの家を買い戻し、汪為露の家と一つにして、引っ越しました。汪為露の三間の寝室には紙の貼られた壁、煉瓦を敷き詰めた床、木の天井、四角い格子の窓があり、侯小槐はそこで魏氏とともに房事を行いました。すると、二日もたたないうちに、明かりの前でも、月の下でも、夕方も、真夜中も、雨の日も、風の日も、毎日のように、魏氏でなければ侯小槐が、汪為露の姿を見ました。汪為露を安置してあった明間には、棺が見えました。汪為露の死体は雷で砕かれてから、長いこと匂いがなかったのに、臭い匂いがするようになりました。正面の煉瓦の上には人のような形ができ。晴れの日は湿っており、雨の日は乾いていました。

 侯小槐と魏氏は恐くなり、そこに住もうとしなくなり、今まで通り自分たちの家に移りました。この家には食糧、家具を置き、だれも行きませんでした。もしも人が行こうものなら、汪為露が床に横たわっているのを見て、必ず家から走り出てきました。臆病な者はびっくりして走りましたが、度胸のある者は足を踏ん張って動かず、彼のいるところを見ました。すると、彼は消えてしまうのでした。ですから、食糧、家具もそこに置くわけにはゆかなくなりました。部屋を空にし、新しく開けた勝手口を煉瓦でかたく塞ぎ、入り口に張り紙をし、人に賃貸ししようとしました。しかし、汪為露が昼間に現れたという噂が広まっていましたので、だれも幽霊を怒らせにこようとはしませんでした。そのため、鍵が掛けられ、長いこと空き家になってしまいました。しかし、長いこと誰も行かず、何の姿もないのに、音だけは聞こえました。急に汪為露の咳が聞こえたり、棒で砧を叩くときのような音がしたり、数本の刀で砧板を激しく切り付けるときのような音がしたりするのでした。魏氏は便所にいって用を足すたびに、汪為露が壁にへばりつきながら彼女を見、消えてしまうのを見ました。このようにして数か月がたちました。

 ある日、侯小槐が魏氏と食事をしていますと、煉瓦の塊が飛んできてテーブルにぶつかり、山崩れのような音をたてました。さいわい人には当たらず、料理を盛った碗も壊れませんでしたが、侯小槐と魏氏はたまげてしまい、それからというもの、汪為露の名前を口にすることもできなくなってしまいました。やがて、煉瓦や瓦が飛んできたり、家の梁が鋸で切られたり、門扉が割られたり、毎晩通りに面した門が開けられたり、尿瓶の底に穴があけられたり、ご飯に汚泥がまかれたりしました。侯小槐は許しを請うたり、祈祷をしたり、願を懸けたり、紙銭を焼いたりしましたが、少しも効果はありませんでした。魏氏は実家に避難しましたが、魏氏が足を踏み入れますと、誰が知らせたものやら、すぐに怪しげなことが始まるのでした。

 ある日、魏氏が実家に帰るのを、侯小槐が送ろうとしていますと、魏氏は顔を真っ青にし、自分で自分をぶち、お話しできないような、たくさんの卑猥な言葉を話しました。さらに、銀子をすべて家にもっていってしまったことを、一つ一つ話しました。そして、玉帝は汪為露の人柄が真面目なので、彼を「天下遊奕大将軍」に封じ、天下の善悪を記録させたから、世の中の人の過去未来のことを知ることができると言いました。そして、魏氏に、金の頭巾、赤の蟒衣、玉の帯をつけ、儀仗を従えた彼の姿を描き、家で祭るように、汪為露の霊を降ろす巫女になり、よその家に行き来して神降ろしをし、吉凶を語れば、おとなしくなってやろう、彼が住んでいた部屋は、彼をまつる仏間にするように、さもなければ魏氏を連れていって「天下遊奕夫人」にしてしまうぞ、と言いました。侯小槐は、下手に跪き、祈祷をし、哀願しました。汪為露は魏氏に乗り移り、侯小槐の悪いところを責めたてました。さらに「この明水鎮の君子は狄賓梁だけ、善人は金亮公だけだ、宗興伯には借りがあるが、人々にわしの短所をあばいたのはけしからん」と言いました。さらに「わしはとりあえず退くから、おまえは二日以内に神像を描き、神降ろしをし、わしが着任できるようにせよ。期限に遅れたら、決して許しはしないからな」と言いました。魏氏はだんだんと意識を回復し、人間らしさが戻りましたが、質問しても、記憶はなく、全身が痛いといって苦しみました。そこで、魏才、戴氏を呼んで相談しました。魏才は娘が神懸かりになり、巫女のような振る舞いをすることを、望まなかったため、一言「三日たったら、また考えましょう。汪為露がまたやってきても、みんなで何度も頼めば、許してくれるでしょう」と言いました。しばらく話しましたが、結論は出ず、戴氏は魏氏をつれ、一緒に家に帰りました。侯小槐はとても不愉快な気持ちになり、外にも出ずに、家に隠れていました。

 三日目になっても、魏氏は実家にいて家に戻ろうとしませんでした。すると、侯小槐の家の台所で火が起こり、煙が天を覆いました。魏氏はそれを聞きますと、母親をつれて、駆け戻ってきました。近くに水があり、隣人がきて火を消しましたので、あまり大したことはなく、部屋の隅が焼けただけでした。人々に礼を言って帰らせますと、戴氏がまだそこにいるのに、魏氏は先日と同じように発作を起こしはじめ、鬢や毛を毟り、頬や顔をぶって、罵りました。

「図々しい淫婦め。恩知らずの私娼め。わしはおまえと争わず、おまえが神降ろしするのを許した。わしはおまえを殺さなかったばかりか、おまえに金を稼がせ、二番目の夫まで養わせてやることにし、三日の猶予を与えてやったのだぞ。それなのに、魏才じじいの考えに従って、わしの像を描かず、神降ろししないとは、何と図々しいのだ。わしはおまえに神降ろししてもらわなくても構わんし、おまえが夫人になってもらわなくてもよい。わしはおまえを連れてゆき、十八層地獄[2]におとし、罰を受けさせ、盗んだ銀子、銅銭を返させることにするぞ」

侯小槐と戴氏は、地面に跪き、ひたすら叩頭しました。魏氏はさんざんひどい目に遭いましたが、誓いをたてますと、ようやくおとなしくなりました。

 二三日たらずで、また神懸かりがありました。侯小槐は汪為露の像を描き、魏氏に彼の神おろしをさせ、吉日を選び、時山人を呼び、汪為露が言っていた通り、彼が金頭巾、赤い蟒衣、玉帯、黒い靴をつけ、八人がきの轎に乗っている姿を描きました。黄色い薄絹の三つの縁のついた涼傘が、前後で列を組んでいました。吉日を選び、数人の巫女を呼び、神降ろしをさせ、豚、羊を殺し、祭祀を行い、彼をもともと住んでいた明間にまつり、赤い絹の帳を作りました。

 侯小槐はもともと普通の人でした。邪神を神降ろししても、誰も願を懸けにきたり、八卦をみてもらいにこようとはしませんでした。すると、汪為露は魏氏に乗り移り、看板を掛け、よその家に知らせるように命じました。彼にしたがって看板を出しますと、吉凶を尋ねる人がやってきました。魏氏は巫女をするのには慣れておらず、まだ恥を知っておりましたので、最初は人をだますこともできず、数十文のお布施をほどこす者があると、値段の交渉もせず、相手の出す金額に従いました。おまけにとても口下手でした。また、彼女は神降ろしがうまくありませんでしたので、しばしば馬鹿にされました。しかし、物事というものは、経験さえすれば、できないことはなくなるものです。最初は勝手が分からなくても、二度目には慣れ、三度目には上手になり、四度目には玄人になってしまうものです。何かを尋ねる人があれば、神さまが一句しか話していなくても、二三句を付け足しました。また、病気について尋ねる者があれば、こう言いました。

「この病気はとても大変で、閻魔さまはもう命令を下されています。しかし、何とかしてあなたを救ってあげましょう。助かれば、あなたの運がよいということですし、助からなければ、運命と思って諦めるしかありません」

失踪や、盗難について尋ねてくるものがあれば、彼女は言いました。

「私は犯人を知っていますが、敵を作りたくはありません。急いで東南に追い掛けてゆけば大丈夫です。東南でだめなら、西北に追い掛けてゆけば、必ず会うことができるでしょう。探すことができなければ、隠れてでてこないか、逃げて姿をくらましているかのどちらかです。すべてはあなたの運次第です」

腹の中にいるのが男か女かを尋ねるものがありますと、

彼女「女の子です。私にお布施を多めに出してくだされば、一緒に子孫娘娘に話しをしにゆき、女の子を男の子に変えて差し上げましょう。女神さまが承知されるかどうかは分かりません。女神さまが承知して、男の子が生まれたら、あなたは女神さまだけでなく、私にも感謝されなければなりません」

何かを尋ねてくるものがあれば、だいたいこのような調子のよい話しをしました。愚かな人々は彼女のでたらめを信じ、少しもでたらめに気が付きませんでした。汪為露の霊が「天下遊奕大将軍」になった、彼の女房の魏氏が神懸かりになった、吉凶を尋ねれば、ぴったりと当たる、という噂が広まりました。魏氏は若い女でしたので、八卦をみてもらいたいという者も、しばしば彼女の家にくるようになり、一日だけでもたくさんのお布施を貰いました。汪為露は、毎日三十個の鶏卵、一斤のとても濃い焼酎を供えるように要求し、供えると、あっという間にどこかにいってしまうのでした。後に魏氏の前にしばしば姿を現しましたが、汪為露の姿をしていることもあれば、白髪の老人の姿、なまめかしい少年の姿をしていることもありました。後には姿を現すだけでなく、例のことをするようになりました。最初は侯小槐がくるのを許していましたが、後には彼が魏氏を独り占めし、侯小槐が触るのを許しませんでした。侯小槐は城隍に彼を告訴しようとしました。さらに、汪為露の弟子たちに、彼を宥めるように頼もうとしました。しかし、彼は言いました。

「わしは『遊奕大将軍』の肩書きをもっており、城隍神はわしの部下だ、おまえが告訴しても怖くはないぞ。弟子たちには優れた者がおらず、彼らがわしを徳で動かすことなどできないし、彼らがわしを脅す心配もない。彼らなど何とも思わないわい。おまえはわしの女房を奪ったくせに、わしを告訴しようとするとはな」

ははと大笑いしました。汪為露がいないときは、魏氏と侯小槐はこっそりを例のことをしましたが、彼は戻ってきますとそのことを知っており、魏氏だけを乱暴に苛めました。魏氏は侯小槐と話をする勇気すらなくなってしまいました。

 金亮公と宗光伯、紀時中らは、汪為露の霊が現れたことを聞きますと、そろって侯家にやってきました。彼は魏氏に言いました。

「学生たちがわしに会いたいというのなら、まずはおまえが出ていって彼らを迎えてくれ」

金亮公らはまず魏氏に会うと、言いました。

「先生の霊が現れ、話しをされたと聞きましたので、会いに参りました」

魏氏が彼らを案内して神棚にゆき、跪いて叩頭しますと、神棚の中から

「ご苦労、ご苦労。おまえたちが助けてくれなければ、わしの骨は土になっていたところだった。さいわいおまえたちの力添えがあったために、あのような立派な葬式を出してもらうことができた。しかし、愚かな妻は、わしの銀子をすべて盗んでいってしまい、さらにわしの墓の前で嫁いでゆきおった。玉皇さまは、わしが公平で正直、孝悌で誠実、利を貪らず、色を貪らず、村人とむつみあい、子供達を教育し、上長を尊敬し、悪いことをしなかったといわれ、わしを太子大師にしようとした。後に『天下遊奕大将軍』の地位が空き、正人君子を選ぼうと思ったが、正人君子はいないと仰り、わしをこの官職につけた。わしは南贍部洲の生死ばかりでなく、四大部洲の善悪をも記録することになった。立派な地位で、とても忙しいが、魏氏との前世での縁が尽きていないので、人の世にいるのだ」

金亮公「四大部洲の仕事を司るには、どれだけの部下が必要なのですか」

彼は言いました。

「三千名の紀善霊童と、一万名の紀悪童子、百万人の巡察天兵がおる」

紀時中は尋ねました。

「先生の天上の役所は、増設したものですか。それとも、もとからあったものですか」

彼「天地開闢のときからあったのだ」

紀時中は尋ねました。

「もとの将軍がどこへいってしまったために、先生が選ばれたのですか」

彼は言いました。

「玉皇はもとの将軍が仕事を怠けているのを怒り、罰として下界に生まれ変わらせたのだ」

紀時中「先生は天下のことを司り、数百万の天兵を司っておられるのに、どうしてここを一時も離れず、いつも奥さまにまとわりついてらっしゃるのですか」

「わしは神通力があり、目は千万里の彼方を見ることができ、一日に九千の法事[3]に赴き、この身を動かさずに、あらゆる仕事をすることができるのだ」

紀時中「先生は生前はこのような才能をもっていなかったのに、どうして亡くなってからこのような才能をもたれたのですか」

「神と人とは違うものだ。神になった以上、神通力があるのは当たり前だ」

紀時中「神に神通力があるのなら、どうしてもとの将軍は、仕事を怠け、下界に生まれ変わらせられたのですか」

「おまえは相変わらず口が減らんな。わしはもうおまえにはとりあわんぞ」

 金亮公「先生は玉皇が先生を太子大師にしようとしていると仰いましたが、この『太子大師』とはどのような官職なのですか」

「太子大師とは太子を教育する先生だ」

金亮公「玉皇にも太子がいるのですか」

「玉皇は下界の皇帝と同じで、太子がいるのだ。今は三四人の太子がいる」

金亮公「皇帝の太子は皇帝になりますが、玉皇は死にません。天地開闢以来どれだけの年を経ているか分かりませんが、太子たちは何をして、どこにいるのですか」

彼「太子は生まれ変わって皇帝になり、そのほかは親王、郡王になるのだ」

 宗光伯が尋ねました。

「勉強をしていた人は亡くなっても、読んだ本を覚えているものですか」

「記憶していないはずがなかろう。記憶していなければ、太子大師になるわけにはゆくまい」

宗光伯が尋ねました。

「先生は読まれた本を、すべて覚えているわけでもありますまい」

「玉皇はわしが本のことを良く知っているから、わしを太子大師に招いたのだ。本を覚えていなければ、玉皇がわしを求めても仕方あるまい」

宗光伯「先生は生前『鬼神の徳たるや』[4]という本を講じられたときは、とても明解に講義されました。しかし、私は時間がたったので忘れていました。さいわい先生のお声を聞くことができるのですから、もう一度講義をしてくださるようにお願いいたします」

すると、彼は喋らなくなってしまいました。

 金亮公「先生があの本を講じてくださらないのなら、『狐狸之を食す』[5]の句を講義してください」

すると帳の中から大声で怒鳴る声がしました。

「見破られてしまったわい。これ以上とどまることはできん。わしはゆくぞ」

急にとても大きな狐が跳びだし、人々を突っ切っていってしまいました。

 魏氏は長い酔いから覚めたかのように、「遊奕将軍」の神像を引き剥がして焼き、神棚を壊し、絹の帳を洗い、衣服の裏地にしました。すると、昼も夜も汪為露はあらわれず、正面の煉瓦の上にも汪為露の姿はなく、棒の音、砧板の響きも聞こえませんでした。しかし、侯小槐は家に二度と住もうとはしませんでした。その後しばらくは何事もありませんでしたが、魏氏が汪為露の数百両の銀子を盗んでいったという噂は広まり、一人が影を見て吠えれば、百人が吠え立てるという具合に、彼女がどれだけの金を手にいれたか分からないと言いました。

 折しも朝廷が例監生を募集し、人々に出資を求めました。繍江は大きな県でしたので、十六人の監生が割り当てられました。県庁に告示が貼られ、例監生が募集されました。告示は一か月あまり貼られましたが、誰もやってきませんでした。例監生が、役所から礼儀正しく待遇され、秀才出身の監生の仲間入りをすることができ、雑役を免れることができるのであれば、繍江県が十六人を募集したときはもちろん、百六十人を募集しても、それ以上の希望者があったことでしょう。しかし、朝廷がいくら募集しても、下級の役所は、朝廷の麗しき意思にそわず、例監生をあれやこれやと辱めるのでした。金持ちであれば、例監生になるのを避けることができましたが、ひとたび監生になりますと、犯人であることを暴露された強盗のように、あらゆる人々を恐れなければなりませんでした。地方にやってくる上官は、必ず彼に帳や屏風を要求し、テーブル、椅子、骨董品、布団など、何から何まで借りてゆきました。物を借りてゆかれるだけでも大変でしたし、借りるとはいっても、実はすべて「馬偏に扁の字」[6]なのでした。上官が自ら持っていってしまう場合もあり、県知事が手元にとどめて使う場合もありました。上官が持ってゆかなかったもの、県知事が使わなかったものも、工房、礼房、催事[7]、捕り手がみんなで分け合い、返さないのでした。兵乱の時などは、量を定めて米、豆を出させようとしました。凶作の年には、数を定めて彼に義捐金を出させました。緊急に税を納めなければならないときは、強引に借りようとしました。裁判などをすれば、数百数千の役人たちが賄賂を要求し、人を遣わしてたくさんの金を脅し取り、少しも容赦しようとはせず、平民よりもたくさん板子でぶたれました。監生は風、雨を避けられないばかりか、風や雨を引き起こしてしまうので、だれも例監生になったりしようとはしませんでした。戸部は布政司に文書を送り、例監生が出す銀子を矢のように催促しましたので、布政司は、各里長に、金持ちの家の頭のいい子を報告させるしかありませんでした。やがて、頭の良くない者でも、金があれば報告するようになりました。しかし、本当に金のある家は、知り合いが善人であったり、人々が彼を恐れていたりしていたため、名前を報告されることはありませんでした。報告されるのは「貧乏でも金持ちでもないおとなしい人物」でした。こんなとき、数両の銀子を里長に与えれば、里長は名前を消し、ほかの人を報告しました。そして、ゆすりをしても、最後まで銀子を贈らなかったものを、報告してしまうのでした。こうなりますと、何から何まで真っ暗闇で、役人たちはだれも弁明を聞こうとはしませんでした。そして、罰金を催促するときのように、保証人を立てさせ、二回の期限以内に完済しないと、比較を行いました。比較してからも完済しないと、家族を捕まえ、監獄に入れました。銀子を納めるときは、二倍の割増金を加え、三四十両を要求しました。国子監に入ったもののうち、十人の九人は完納することはできず、家、財産は売られてすっかりなくなり、ご飯を貰い、貧乏書生をするという苦労をするのでした。

 明水鎮の里長、郷約は、あちこちで金を脅しとりながら、侯小槐のところにやってきました。侯小槐が思いがけなく金を手に入れたという噂は、四方に広まっていましたので、里長、郷約は、二十両の銀子を脅しとっても手を引こうとせず、五十両出せば許してやろうと言いました。侯小槐は五十両の銀子を手元にもっていませんでした。郷約は侯小槐がけちなのを見ると、彼が弱い者を苛め、強い者を恐れる人間で、屈服させることができると分かっていましたので、彼の名を県に知らせました。赤い令状をもった下役が遣わされ、彼を監生にすることにしました。侯小槐は、鶏を殺し、酒を買って使いをもてなし、使いが帰るときに三両の紋銀を送りました。すると、使いは上申書を提出することを許して去ってゆきました。

 侯小槐は慌てふためき、数両の銀子をもって城内に入りますと、県庁の入り口で人を探し、自分は代々農業に励み、目に一丁字もない、先祖から残された土地は四十畝足らずで、例監生になる力はないという弁明書をかかせました。さらに、房科にゆき、賄賂をおくりました。翌日、書状を渡しました。県知事は書状を見ますと、彼を呼びました。

侯小槐「私は田を耕す農夫で、『十』の字を書くこともできません。郷約は私に恨みがあったので、私の名を報告したのです」

県知事「郷約がほかのことでおまえを報告したのなら、これはおまえに恨みがあるということだ。しかし、今回、おまえの名を報告し、国子監にいれようとしたのは、おまえを読書人の仲間に入れてやろうとしているからだ。国子監に入れば、儒巾をかぶり、円領を着けることができ、府、県、院、道はみな揖をしてくれるだろう。大宗師さまは、おまえを出世させてやろうとしているのだ。郷約はおまえを恨んでなどいないぞ」

侯小槐「私は文字が読めません[8]。頭巾をかぶり、円領をつけても、一字も知らず、目くらの牛のようなものですから、監生になることなどできません」

県知事「おまえが一字も知らないから、国子監にいれたのだ。もしも幾つかの字を知っていれば、おまえを農民にするように報告していただろう」

侯小槐はさらに言いました。

「私が四十畝の土地しかもっていないことは、赤暦[9]で調べることができます。四十畝の土地を売っても銀百両にもなりません。国子監に入ることなどできません」

県知事「だれが土地を売れといった。おまえの女房が汪為露から盗んだ銀子で国子監に入ればおつりがくるだろう。はやく銀を納めるのだ。銀子を納めおわったら、おまえのために記念の旗と扁額を掛けてやろう。ぐずぐずすれば、おまえをぶち、家族を監獄送りにしてやるぞ」

護送して保証人を立てさせました。侯小槐はなおも弁明しようとしましたが、脇から下役が出てきました。彼は城外の人で、城から四十里離れたところに住んでいました。城内には保証人になってくれる知り合いはいませんでした。使いは彼を護送し、城外に出ますと、狼か虎のように、酒、ご飯を食べ、銀子を脅しとり、さらにたくさんの侮辱を加えました。さいわい、魏才が別の地区の郷約をしており、何度も下役に事件の処理をさせてくれと頼みました。さらに、彼と相談し、六十両の銀子で、県知事が付き合っている山人にとり成してもらいました。そして、県知事が事を処理したため、郷約はどうすることもできなくなりました。

 魏才は侯小槐に言いました。

「令状を受け取りますと、郷約はたくさんのことを言いました。あの犬畜生は、あなたから金をゆすろうとしましたが、願いを遂げることができなかったために、役所に訴え、あなたを破産させようとしたのです。あなたはのがれることができましたが、あいつの恨みはますます深まったはずです。今、あいつは農民の推薦をしようとしています[10]。監生になると家が破産しますが、農民の推薦を受ければ、金庫を提供したり、穀物蔵を提供したり、接待をしたり、餞別を提供したり、家具を提供したり、旅行中の昼食を提供したりすることを要求してくるでしょう。もしも金をださなければ、家が破産するばかりでなく、徒刑、充軍になるのを免れることはできません。今のうちに三十数両の銀子を工面し、布政司にゆけば、推薦を免れることができるでしょう」

侯小槐はそれを聞きますと、魏氏から三十数両の銀子をもらい、魏才とともに省城の布政司の役所にゆき、監生になることを願い出る書状を提出しました。八のつく日[11]に銀子を納めました。首領官[12]への付け届けには、正式な額は二十両でしたが、四両を加えました。吏房[13]への様々な付け届けには、五両かかりました。県に文書を送って保証書をとるときには、郷約、里長、宿直、書吏に四両払い、印肉代として五両払いました[14]。往復の旅費、屯絹[15]の大、黒い靴、儒縧を作るために、二両余りかかりました。全部で四十数両の銀子がかかりました。魏氏は盗んだ銀子のうち百数両を魏才に与えてしまいましたし、そのほか持ってきたものにも限りがありましたので、家を買い、神像を描き、お礼参りをし、神降ろしをし、情実を求め、書吏に付け届けをしますと、「悪銭身に付かず」という言葉通り、金はほとんどなくなってしまいました。残された女房も、偽の汪為露の霊に、心行くまで辱められてしまっていました。このことから、あらゆることは天が計画するものであり、人が計画するものでないことがわかります。因果応報の繰り返しは、すみやかに断ち切らねばならないのです。

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]葬式の時に婦女がかぶる鬘で、麻縄の外側に白い布、紙をかぶせて作る。かぶるときは簪でとめる。孝髻。

[2]十八の地獄、すなわち、光就居、居虚倅略、桑居都、楼、房卒、草烏卑次、都盧難旦、不盧半呼、烏竟都、泥盧都、烏略、烏満、烏籍、烏呼、須健居、末都乾直呼、区逋途、陳莫。『十八泥犂経』にはその苦しみが述べられている。

[3]原文「日赴九千壇」。「壇」は祈祷、法事などを数える量詞。

[4] 『礼記』中庸。

[5] 『孟子』滕文公上。

[6] 「騙(だまし取る)」の意。

[7]徴税その他の催促を行う下役と思われるが未詳。

[8]原文「小人可以認得个瞎字」。「瞎字」は「読めない文字」の意。せりふは「『読めない文字』を知っている」ということで、つまり「文字が読めない」ということ。

[9]布政司に提出する帳簿で、農民が自分の納税額を記したもの。『清史稿』食貨志二「(順治十一年)有赤暦、令百姓自登納数、上之布政司、歳終磨対」。

[10]原文「這眼下就要挙報農民」。ここでいう「農民」とは、後述されているような便宜を供する義務を負った農民と思われるが、未詳。

[11]原文「三八日」。毎月八日、十八日、二十八日をいう。

[12]清代、地方官の補助官をいう。『清国行政法汎論』地方官庁・正印官及佐貳雑識首領「自司府至県之正印官、在其補助官、則有佐貳、雑識、首領等僚属」。

[13]地方官庁で、人事を司る部署。中央官庁の吏部に相当。『福恵全書』莅任部・看須知「吏房経管吏書官属、本治候選等項」。

[14]原文「心紅去了五両」。「心紅」は印肉のこと。印肉代に名を借りた賄賂のことと思われるが未詳。

[15]京師に産する布の一種だが、どのようなものかは未詳。光緒『順天府志』食貨志二・物産・布帛之属「屯絹、『畿輔通志』引旧志『屯絹出京都者佳』」。

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