第三十六回

沈節婦が苦心して操を守ること

晁孝子が割股して親を癒すこと

 

悪しき家には罪満つれども

女丈夫は幸を呼ぶ

一族を救ふ肥沃な田

民草を救ふ良き穀物

正義と愛もて家を治めて

妾は(ただ)しく子は孝行

悲しき諍ひままあるも

天には神のご加護あり

 女性が夫の死んだ後、節を守るか否かは、すべて彼女自身の心によって決まります。本人が節を守り、堅い志をたてていても、人に迫られたり、人の勧めを受けたりすれば、初心を撤回し、人の嫁になっていきます。さらに、本人が節を守ることを願っていないときは、脇の人々は彼女を引き止めることができません。彼女の体を引き止めても、決して彼女の心を引き止めることはできず、彼女本人が好きなようにするしかありません。

 考えていることと言うことが一致している女性が、節を守ろうとしていないときは、はっきりと「節を守るのは難しいものです。初めが良くて終りが良くないよりは、初めよりも終わりが良い方がましです」といいます。子供がなければ、なおさらそうすることはいうまでもありません。また、子供があっても、舅、姑に引き渡したり、義兄、義弟に引き渡したりし、財産も持たずに、一人寂しく他家に嫁いでいきます。こうすれば、よけいなことを言う傍観者たちも「どこそこの家の女は子供がいるのに、節を守ろうとせず、嫁にいってしまった」としかいえず、ほかに悪口を言うことはできません。これは上等の善人で、夫の家に義理立てこそしないものの、夫の家の風紀を損なうことはないのです。また、息子、娘がおり、ちゃんと生活することができるのにもかかわらず、嫁にいきたいと考え、他人のことを悪くいおうとする者がいます。舅、姑を持つ嫁は、息子が死んだため、舅、姑が自分をよそ者と見做し、あれこれ差別をし、衣食の面倒をまったくみない、義兄、義弟、義兄、義弟たちがその妻、妾とともに、未亡人を苛める、などといったりします。また、舅、姑や、義兄、義弟がない場合でも、成長した、自分が産んだ息子や、思いやりがあり、よく働く嫁をすて、嫁にいこうと考えることがあります。そして、わざと息子が従順でない、嫁が賢くないといい、厄介ごとを起こして口喧嘩をし、家の中で罵ります。さらに、証拠がないことを恐れ、首帕を頭に巻き、木綿の衫を着、大勢の人のいる市場へ行き、息子と嫁が不孝であるといい、彼らを役所に送ろうとするのです。彼女は大勢の人に宥められて家に戻りますが、その後も何度も同じことをし、「息子の嫁が不孝で、家に身を置くことができませんので、嫁にいき、生きる道を考えることにいたします」というのです。彼女は貴重品を包み、重たいものは残していきます。そして、新しい夫とともに、楽しく過ごし、息子と嫁は一生肩身の狭い思いをすることになります。これは第二等の善人であると思われます。さらにひどい女がいます。彼女の心は豚、犬、発情した驢馬と同じです。彼女は、口では王道がどうのこうのと心にもないことを言いながら、夫の家風にはお構いなく、緑頭巾の封贈を受けさせ、息子の体面にもお構いなく、彼に「妓夫の息子」の四文字の官職名を継がせるのです。彼女は、徴舒[1]の母親のようなもの、衛霊公の家の南子[2]のようなものです。息子は彼女をおさえることはできず、傍観者も彼女を嘲笑するのでした。さらに唐の武太后にならって、勝手な行いをする者もいます。天地も彼女が悪いことをするのを助けますので、彼女は淫乱な心を衰えさせることなく、百歳まで長生きし、子供達は「豆腐が灰の中におちる、吹き払うことはできない」という有様になってしまうのです。

 これら三つの行いは、世の正妻たちがすることですが、妾たちは、もっとひどいことをしでかします。男には、妾を愛し、妻を棄てる者がいます。彼らは妻が棄てるべきものではなく、妾は愛すべきものではないことを知っていないわけではありません。しかし、妾は家にきたばかりの頃は、礼儀正しくふるまいます。彼らはお世辞を言い、真面目な振りをし、わざと慎み深くします。そして、老人をだまし、狄希陳が「空にはきらきらお星様」といいながら字を知っている振りをしたときのようにふるまうのです。夫が彼女と例のことをしようとしますと、「私は体の調子があまり良くありません、私は今はそのようなことをするのは嫌ですし、あなたの体を疲れさせてしまうのも心配です」といいます。夫は彼女が誠実な女だと信じてしまい、少しも用心をしません。そして、彼女はこっそりと好き勝手なことをするのです。さらに『両世姻縁記』[3]にあるように、血を焼酎に混ぜ、老いぼれをだましたり、人の嫁になった未亡人、間男を養っている女がいることをききますと、彼女は淫婦、殺されちまえなどといい、べらべらと、口に任せて罵ったりするのです。そうしますと、男は、灯台もと暗しで、彼女が正しい心をもった女であると思って喜び、彼女が他人を嘲笑するのを見ますと、彼女は決してそのようなことはしないだろうと考え、神仏のように敬い、金石のように貴び、珍宝のように愛し、父母に仕えるときのように彼女に仕えるのです。そして、正妻を敵のようにみなし、すぐに焼いてしまいたい、愛妾を正妻に据えたいと考え、正妻が生んだ子供は、仇敵や借金取りと同じだから、死にたえてもらいたい、愛妾に別に息子を生ませようと考えるのです。そして、自分が高齢で棺に片足を突っ込んでいることも考えず、よせばいいのに、体が強く欲の強い化け物を愛するのです。そして、自分の力を考えず、彼女と枕辺で誓いを立て、「一生浮気をしない」と約束をします。このような馬鹿な老人が、さんざん世話を焼き、彼女にあなたへの節を守らせようとすれば、彼女はぬけぬけと「あなたの話しには、決して承服できません。あなたが死んだら、私は必ず嫁にいきます。そうでなければ、間男をとります」いったりはしないはずです。うすのろや馬鹿だって決してこのようなことはいわず、こう言うでしょう。「ご安心ください。嫁にいったり間男をとったりする女は、人でなしです。私は決してそのようなことはしません。井戸に覆いがなく、家に麻の縄がなく、追い詰められ、死んだとしても、そのようにろくでもないことはしません。ただ、奥さまは私を追い出すでしょうし、息子さんたちがあなたが私に残した物を求めるでしょう。あなたが亡くなったら私を守ってくれる人がいません」

そして、泣くのをやめないのです。

 真面目な男は、正妻や息子たちが悪人でないことを知っていますから、妾がくだくだと話しをしても、構おうとしません。しかし、不真面目な愚か者は、妾の話を本当だと思いこみ、あらゆる手段で、妾のために正妻を遠ざけます。さらに、妾を家に受け入れ、彼女の好きなようにさせるという遺言を書き、息子が彼女に指図することを許さないことさえあるのです。妾はこのようなお墨付きを手に入れますと、天地をも恐れなくなり、夫が死ぬ前から、羽を伸ばしはじめます。そして、当初罵っていた一つ一つの役割を、自分が演じようとしはじめます。そのとき、正妻が生きていれば、妾に対処するのは簡単です。彼らは妾を実家に送り返すか、嫁にいかせ、彼女のものは、すべて持っていかせるかすることでしょう。これは損をして災いから逃れるということです。正妻が死んでおり、息子たちが家を取り仕切っている場合でも、息子たちが世間体を気にしない場合は、妾に対処するのは簡単です。しかし、正妻がなく、息子たちもすべて世間体を重んじる人々である場合、誰からも管理されない野蜂が、死んだ夫が作ったいい加減な遺言を盾に取り、武曌[4]のように振る舞ったとしても、息子たちは目をぱちくりさせて見ているしかないのです。世の中には、人のために害を除く役人もいません。役人に訴えても、役人たちは人々に猿芝居をさせて見物するだけです。このような事は、万分のうち一二分も描くことができません。世の中はおおよそこのようなもので、今も昔もほとんど変わりがありません。

 妾がある役人も、自分の正妻、息子に愛情を残すべきで、まったく縁を絶つべきではありません。見識のある人なら、自分が死ぬとき、妾たちを家から追い出し、その後で自分が黄泉路に旅立つのが上等というものです。その次は息子に遺書を書き、妾を金持ちの嫁にし、家に残って悪さをすることができないようにするのです。後に、妾たちが本当に節を守ろうとすれば、息子たちも犬、豚ではないのですから、彼らを追い出して嫁にやろうとはしないでしょう。しかし、彼女が悪いことをし始めたら、父親の遺書を手にとり、処置を行い、彼女が勝手に嫁にいくのを許さないようにするのです。ですから、嫁にいくかいかないかは本人の好きなようにさせるのがよく、横にいる人々は彼女に無理強いをしてはならないのです。

 晁家の春鶯が節を守ったことを話そうとしたばかりに、このようなたくさんの話しをしてしまいました。春鶯はもともと裁縫師の娘でした。その裁縫師は沈善楽といい、江西の人、武城で衣装を作って生活をしていました。やがて、武城県の知事が真紅の紵絲の円領を作ることになりました。県知事は人に頼み、十二月二十四日、十七両の銀子で、補子とともに、南京から布を買ってこさせました。そして、正月までに作って着ようと思い、沈善楽に裁縫をさせました。県知事は自分が気に入った服でしたので、沈裁縫が鋏を使うのを見ていました。沈裁縫は布をきつく引っ張らずに、鋏を入れればよかったのです。しかし、彼は真っ赤な良い生地を見ますと、少しも着服せずに手を休める気にはなれませんでした。そこで、一生懸命きりを吹き、熨斗で力一杯引きのばし、何としてでも不正な儲けを得ようとしました。赤い紵絲は女用の靴にしかならず、女の靴はどんなに小さくても三寸なければなりませんでしたので、三寸五分が必要でした。そこで、彼は一尺七寸くすねました。二尺二寸の広袖は、三寸きりとり、さらに半尺を盗みました。奥に並べ、へりごとに二寸幅の布を切り取りました。両方の袖は三寸短くなりました。一生懸命熨斗を掛けて引き伸ばそうとしますと、襟の前にお碗大の焦げができました。二十六日に仕事を始め、二十九日の晩に品物を引き渡しました。

 翌日は元旦でした。県知事は龍牌[5]を拝しますと、朝服を脱ぎ、赤い円領に着替え、廟に行香をしにいこうとしました。門番が埃を払って服を着せますと、下にきている道袍の半分がむき出しになり、両手を伸ばしますと、腕が半分露わになりました。袖を見ますと、一尺九寸しかなく、両袖が半尺切られていましたので、道袍がすべて外にむき出しになりました。元旦の五鼓は大変縁起がよい時だというのに、怒りのあまり声も出せず、すぐに裁縫師をひっとらえるように命じました。そして、前からあった礼服を着けながら、廟に行香を行いました。県庁に戻りますと、裁縫師はまだ掴まっていませんでした。そこで、役所に戻り、官邸で酒を飲みました。

 すると、外から声がしました。

「裁縫師を捕らえてまいりました」

夫人が尋ねました。

「元日だというのに、どうして裁縫師を掴まえたのだえ」

県知事は例の円領のことを夫人に告げました。そして、人に円領を持ってこさせ、それを身に着けて夫人に見せました。人々はみな笑い出しました、怒りは笑いによって八割りは消えてしまいました。夫人が尋ねました。

「服は台無しになってしまったのですから、その男を掴まえてもどう処置しようもないでしょう」

県知事「四十回板打ちにし、円領を弁償させ、彼を追放することにしよう」

夫人「新年で、よそでは動物を買って放ってやろうとさえしているのです。あなたは私の面子を立てて、彼をぶたないでください。彼を追放してもいけません。円領を弁償させさえすればいいでしょう」

県知事「おまえの面子は立てるべきだが、それでは腹の虫が治まらん」

夫人「このような小人は、大目にみて逃がしてやればいいのです。それを、腹の虫が治まらないだなんて」

 夫人は、人に命じて円領を沈裁縫に与え、台無しにした円領をすぐに弁償させました。下男が伝桶の脇にいきますと、沈裁縫はたくさんの弁明しました。下男はいいました。

「まだ強弁するのか。先ほど、奥さまは何度もおまえのために許しを請い、四十回の大板打ち、他県への追放を免れさせてくださったのだ。早く弁償しなければ、必ずぶたれるぞ」

彼は台無しにした円領を持って家に行きましたが、楽しいお正月どころではなく、うなだれ、悄気てしまいました。

 彼は方策を思い付きました。恩県[6]に一人の郷紳がおりました。彼は姓は公、名は亮、号は燮寰といい、兵部車衙司の員外でしたが、故郷で病気療養をしていました。彼は身長が三尺ほどしかなく、とても短い腕をしていました。沈裁は彼のために仕事をしたことがあり、彼が正月七日の生まれであることを覚えていました。そこで圓領の裾をばっさり一尺切りとり、新しく作り直し、公郷紳の体にぴったりの礼服を作り、さらに上等の白鷴の補子を縫いつけました。そして、数種の食品を買い、七日の朝に公家へ行き、いいました。

「公さまが起用されたという吉報をおききしましたので、吉服を作り、お祝いに参りました、ついでに昇進の報告にも参りました」

 門番が取り次ぎをしにいきました。公郷紳はとても情に厚い人でした。彼は、誕生日に、ふたたび起用されたことを報告され、さらに吉服も送られてきましたので、とても喜びました。そして、沈裁を中に入れますと、赤い毛氈の包みに入れた円領を手にしていました。見てみますと、ぴったりしていました。さらに幾つかの食べ物もありましたので、公郷紳は喜んで手厚くもてなし、二日引き止め、二十両の紋銀を送り、食事をとらせて出発させました。しかし、彼は故郷にいかず、この銀子を手に臨清にいき、南京の赤い紵絲を買い、県知事の円領を弁償しようとしました。緞子屋に行きますと、気にいった生地二匹がありましたので、十六両で話を纏めました。そして、袖から銀子の包みをとりだそうとしましたが、銀子はありませんでした。道袍の肌につけている木綿の衫まで探ったあげく、浮橋を通ったときに人に切り取られてしまったことにようやく気が付きました。そこで「大変だ」と叫び、赤い緞子も買わずに、着ていた道袍を旅費にすることにしました。そして、焦文用が銀子を弁償したときにように帰りました。下男はまた催促にきました、さいわい県知事は東昌府臨清県に行き、挨拶をするのに忙しく、夫人はさらに何度も調停をしました。使いは裁縫屋とは友人でしたから、あまりひどいことはしませんでした。二人は金がなくなったため、円領を弁償することはできませんでした。刑罰を受け、弁償を免れることができるなら、必死に耐えることもできますが、刑罰を受けたうえに、弁償しなければならないとしたら、これはもうどうしようもないことでした。

 手の打ちようがないので困っていますと、男がビロードの布をもち、草を挿してやってきました[7]。彼は前に呼ばれますと、布が大きく毛も多いのをみますと、二つの帽套を作ることができるだろうと考え、交渉の末、四銭の銀子の値段で買いました。さらに、緞子屋にいき、数尺の白い綸子を買い、職人を呼び、二つのとても立派な帽套を作りました。彼は郷紳の胡翰林が冬に亡くなったことを思い出しました。胡翰林の二人の息子はあまり世の中のことを知りませんでした。彼らは普段から貂の帽套を被り慣れていましたが、父の喪中でしたので、初春でとても寒いというのに、被ることができませんでした。彼は普段の顧客をたよりにし、うまいことをいい、二つのビロードの帽套を彼らに送りました。二人の胡公子は、帽套を被り慣れており、とても寒かったので、一人は白い木綿の表地に白い綸子の裏地の幅巾[8]を、もう一人は裏も表も木綿布の襟巻を作っていました。しかし、綺麗でないのが嫌だと思っていましたので、真っ白な毛の厚い耳当てを見ますと、とても喜び、それぞれ銀五両をだし、さらに酒、ご飯を出しました。彼はこれらの物を貰いますと、嫌な気分は半分消えましたが、その他には少しも手立てがありませんでした。使いはだんだんときつく催促をするようになりました。そこで、仕方なく、自分の十一歳の娘喜姐を身売りさせました。媒婆の魏、鄒に頼み、よその家に連れていって売ってもらい、七両の銀子を要求しました。幾つかの家を回りましたが、四両も出せばいい方で、それ以上はだしませんでした。折しも晁夫人が下女を買おうと思っており、彼女を気に入りました。まず四両だし、五両まで増やしました。仲買費は別でした。交渉をして承諾しますと、媒婆は彼女の両親に銀子を受け取らせ、契約書を交わさせました。

 別れるとき、母と子は手を取り合って泣き、離れようとしませんでした。彼女の母親は言い付けました。

「おまえは人の家に売られたのだ。私たちの手元にいるときとは違う。大奥さまのいうことを聞かなければいけないよ。もしも言う事を聞かず、ぶたれたり罵られたりしても、私はおまえの面倒をみることはできないよ。髪の毛を梳き、顔を洗い、よく勉強しなければいけないよ。第一に撮み食いをしてはいけない。第二に足をだらしなくしてはいけない。おまえがもし従順であれば、私はいつもおまえの面倒をみてやろう。おまえが一生懸命働こうとしないなら、私はおまえを捨てたかのように考えるだろう」

千人の人が涙を流すほど泣きました。晁夫人も目に涙を浮かべて、尋ねました。

「おまえたちは名残惜しそうにしているが、作柄も悪いわけでもないのに、どんな急の事情があって彼女を売ったのだえ」

 裁縫師の女房は自分の亭主が憎いとはいわず、一言

「県知事さまに円領を作りましたが、あの方は怒りっぽく、できがよくないとおっしゃいました。そして、期限を定めて、銀十六両を請求しました。恩県[9]の郷紳が二十両を援助してくれましたので、臨清に持っていき、緞子を買おうとしましたが、浮橋[10]で人に切られてしまいました。昨日、胡旦那の家の二人の若さまが十両を援助してくださいましたが、まだ半分が足りず、仕方なく、子供を売って償いをするのです」

晁夫人「胡の若さまが十両を援助してくれたのなら、出来の悪い円領のはずがあるまい。子供を売る必要はあるまい」

彼女は言いました。

「作った円領は送り出しておりませんし、さらにほかにも償いをしなければいけないのです」

晁夫人「阿弥陀仏、貧乏人のものを奪い取り、人に子供を売らせるとは。十両に、子供を売った五両をいれれば、十五両になる。十六両で足りるというが、ほかに金はないのかえ」

沈裁縫の女房「これ以外に、二両あれば十分です。昨日、臨清で大紅の雲紵[11]を交渉の末十六両で売りました。往復の旅費と袖につけた補子の代金が二両足りません。全部で二両たりないのです」

晁夫人「二両はどうやって手に入れるのだ」

彼女「家にはほかにも数件のぼろの衣装、家具がありますから、すべて売って足しにすることにしましょう」

 晁夫人はとてもかわいそうに思い、彼女に食事をとらせました。去る時に、晁夫人はいいました。

「仕方ない。二両の銀を与えよう。事件を解決してやろう。他のところで金策をする必要はないよ」

女は何度も礼を言い、晁夫人にむかって念仏を唱えてやめませんでした。晁夫人はさらに言いました。

「安心してください。私はよそさまの子供を苛めるようなことはしません。暇があれば会いにきてください、私も咎めませんから。この子は利発そうですから、きっとおねしょはしないでしょう。私は彼に特別に掛け蒲団を作ってあげましょう」

 女は銀子を持っていきました。晁夫人は娘を撫で、食事をとらせ、さらに果物を食べさせました。真夜中には彼女を炕で眠らせ、起こして小便にいかせました。赤い絹の袷、緑の絹の裙、普通の緑の木綿布の小さな綿入れの袷、青い木綿布の綿入れ袴、チョッキ、綿入れ靴、青い絹の脳搭[12]の、とても綺麗な装いでした。また、大変な仕事はさせませんでした。華亭につれていき、さらに通州に行きました。家に戻り十六歳になりますと、ますます美しくなりました。晁知州は彼女を妾にしようとし、彼女の父母をよび、彼に十二両の礼物を送りました。新しい衣服を作り、装身具を作りました。沈裁縫たち二人もいったりきたりしました。

 晁知州が亡くなりますと、沈裁縫夫婦は娘を嫁に行かせようと思いました。しかし、娘が妊娠五か月であることを知りますと、黙ってしまいました。冬に息子が生まれました。晁夫人は彼女の娘を珍宝のように思いましたが、口にすることはできませんでした。晁知州の喪が明けたら、さらにゆっくりと晁夫人に話すつもりでした。三年がたち、晁知州の喪が明ける頃になりますと、晁夫人は、一つには彼女が息子を生んだから、二つには喪が明けたから、正月から三月の時期になりますと、春鶯に石青の衫、紗の衫、水紅の湖羅[13]の衫、黒い冰紗[14]の衫、真珠の頭箍、金と真珠の珠排[15]、メッキの七鳳を一揃い[16]、たくさんのメッキの折枝花[17]、四つの金の指輪、四両の重さのある銀の腕輪を作りました。さらに、小和尚に栗色の偏衫[18]、瓢帽[19]、赤い緞子の僧鞋[20]、黄色い絹の小褂[21]を作りました。乳母も衣装を作りました。小間使い、下女、下男とその女房も、褒美を貰いました。

 三回忌になりますと、真空寺の智虚長老を呼び、喪明けの法事を行いました。あちこちの親戚、晁思才の一族の男女、沈裁の家族は、喪明けの礼物を送ってきました。午後に精進落としをしてもてなし、法事をおえ、春鶯は服に着替え、美しい装いをし、新たに挨拶をしますと、みんなは散っていきました。

 一か月たちますと、沈裁の女房は、盒子にいれた桜桃、盒子半分の碾転[22]、盒子半分の豌豆を持ち、晁夫人に会いにきて、何度も先日のご馳走へのお礼を言いました。沈裁の女房は、しばらく腰を掛けますと、晁夫人にむかって言いました。

「大奥さまに相談したいことがございます。どうしても大奥さまにしていただきたいというわけではございません。喜姐にも話しはしておりません。善いことか悪いことかは、大奥さまと娘で考えてください。子供、財産がない人でも、節は守らなければなりません。まして娘は、大奥さまからこのように養って頂き、子供とともに、天宮のような家に住み、いいものを着たり食べたりしています。それらを捨てていいはずがありません。しかし、年があまりに若く、今年二十歳で、これから先が長いのです。大奥さまは娘と相談なさってください。娘がどういう考えかをごらんになり、後日彼女に恨まれることがないようにしてください」

春鶯「母さんが二つの盒子を持ってきたので、何かいいことを話すかと思っていたら、そんなことだったのですか。私を二回も売り飛ばしたのに、さらに売り飛ばすつもりですか。ここ三四年間、いい物を食べ、太って頭がおかしくなってしまわれたのですね。私がほかの人の嫁にいっても、このように面倒はみてもらえませんよ。大奥さまは年をとられ、子供はこんなに小さいというのに、嫁に行けだなんて。あなたの言うことはまったく馬鹿げていますよ」

母親「まあ待っておくれ。大奥さまとおまえを相談させるといったじゃないか。私はおまえに嫁に行くように迫ってなどいないよ。私は母親だがお前にすべてを任すよ。おまえ自身が節を守りたいと思うのなら、それでいいよ。おまえが考えを決めるなら、以後話しをしたりはしないよ」

晁夫人「お母さんがこういうのは尤もだ。おまえのお母さんはおまえの気持ちを知っているのかえ。とどまりたくないのなら、若いうちに私に話しをしておかなければいけないよ。年をとってからでは遅いのだよ。おまえは嫁にいかないといった以上、深い考えがあるのだろう。私は六七十歳の人間で、何年も子供の世話をすることはできないが、お前はたくさんの財産を、長いこと享受することができるのだよ。今年おまえは二十歳になるじゃないか。四五年は私が家を切り盛りするが、お前が慣れてくれば、お前に管理を任せよう。そうすれば、私は自由になり、勝手気ままにできるからね」

 話しをしていますと、小和尚が靴をもちながら、飛ぶように走ってきました。乳母が片足を引き摺って、後から追い掛けていました。

晁夫人「お前、どうしたんだい」

乳母「先ほど足に布を巻いていたのですが、坊っちゃまが靴をもって走っていってしまったのです」

小和尚は靴を持ち、手を背中にまわし、晁夫人の胸に飛び込み、靴を乳母に向かって投げますと、言いました。

「母さん、おばさんの『運糧船』[23]を見てよ。ねえ」

家中の者は大笑いしました。さらに、晁夫人から幾つかの紗、羅を貰い、沈姐を彼の「豆姑娘」[24]にしようとしました。

春鶯「私はなりません。私はよそに嫁にいこうと思っているのです」

小和尚はまた晁夫人の胸に走っていくと尋ねました。

「沈姐さんはお嫁にいきたいといっているけど、どうして嫁に行くの」

晁夫人「この娘は私たちがご飯を食べさせてあげないのが気に食わないし、おまえにあれこれ仕事をさせられるのが嫌だから、私たちの家にはいずに、よその家へいくのだよ」

小和尚は地面を転げ回って、いいました。

「僕は姐さんをよその家に行かせたくない。僕はそいつをぶちにいってやる」

晁夫人「起き上がっておくれ。転げ回っては駄目だよ。姐さんが本当に行こうとしたら、おまえ

に知らせてやるから、その時にぶてばいいじゃないか」

小和尚はそれからというもの、食事のときになりますと、尋ねました。

「お母さん、沈姐さんにご飯を食べさせましたか。姐さんはまたお嫁にいこうとしているのではありませんか」

晁夫人「これからは姐さんにご飯をあげるから、もうそんなことは言う必要はない。嫁にいくのはよいことではないからね」

小和尚「よいことではないのですか」

彼はとても記憶力が優れており、その後は二度と彼女に剪紙を作らせるような細かい仕事をさせたりすることはありませんでした[25]。沈裁縫夫婦と晁夫人、春鶯とは、それからというもの、何ごともなく暮らしましたので、もうこのお話しは致しません。

 光陰は矢のごとく、月日は梭のよういすぎさり、春鶯は三十歳になりました。晁夫人は七十四歳になりました。小和尚は十四歳になり、頭の毛をたくわえ、赤い唇、白い歯の綺麗な学生になりました。頭はとても良く、作る文章は五六割りの出来栄えでした。彼は姜副使の娘と婚約しました。

 二月の終わりになりますと、雍山荘に家が建てられ、棟上げ式がありました。季春江は晁夫人に見にくるようにいいました。夫人は二日足らずで戻ってくるつもりでした。着ていたのは綿入れでした。しかし、荘園に着きますと、気候が急に暑くなりました。袷を持ってこなかったので、綿入れを脱ぎ、二つの綿の紬の衫をつけましたが、冷たい風に当たって風邪をひき、ひどい病気になりました。城内に手紙を届けますと、春鶯は人を遣わし、尹三嫂に話をしました。そして、すぐに門に鍵を掛け、晁書、晁鳳の嫁に見張りをさせ、尹三嫂、小和尚とともにすぐに城外に行きました。晁夫人は重症でした。春鶯と小和尚はとても焦り、人に治療をするように頼みました。七日になりますと、汗が出なくなり、とても焦りました。

 小和尚は考えました。

「私は人がこういうのをきいたことがあります。『父母が病気で、薬で治すことができないときは、子供達は肉を切ってスープにして飲ませるといい』と。これは、『割股救親』といわれています。お母さまはこのように重い病気ですが、スープを飲ませれば、汗が出るかもしれません。さらに『この割股は父母に知らせてはいけない。もし知られたら、かえってまずいことになる』とも聞いています」

そうしようと考え、刀傷の薬と木綿布、絹を買いもとめ、鋭い刀をもって、土地廟に行こうとしました。そこには人がいませんでしたので、割股を行うことができました。廟の前門を開け、中に入りますと、床に帖子がありました。拾い上げてみますと、表に「おまえの母親は十二日足らずで助かる。今晩三更に汗が出るだろう。息子は割股をする必要はない。母親を悲しませるだけだから」とありました。小和尚はこの帖子を見ますと、こう思いました。

「このことは私が心の中で考えたことだ。他には知る人がいないのに、どうして帖子が床におちているのだろう。ひょっとしたら土地神が霊験を現したのかも知れない。今晩三更に汗が出るといっているから、半日待たなければならない」

神前で叩頭し、願を掛けました。

「母親が良くなりましたら、神前に袍を掛け、三年間精進物を食べ続けます」

願を掛けますと、刀を袖に入れ、家に戻りました。

 晁夫人はますます精神の安定を失いました。春鶯、尹三嫂、小和尚ら三人は、ひっきりなしに泣き、七日間、眠ることもできませんでした。二更が終わる頃、晁夫人は落ち着かず、びくびくするようになりました。三更になりますと、全身から冷や汗が出、だんだんと落ち着き、こんこんと眠りました。三人の側使えの者が代わり番こに見張りをしました。翌朝、夜明けに目を覚ましますと、蜜を所望し、二三口飲みました。暫くしますと、粥を食べようとし、米湯を飲みました。一日一日と時は過ぎ、十二日目に良くなりました。さらに数日休みますと、家を管理する人がいないだろうと思い、城内に入りました。小和尚は母親に土地廟の帖子のことを話し、袍を掛けにいこうとしました。晁夫人は、彼のためにあらゆるものを買い整えてやりますと、自分もすぐに精進料理を食べました。

 晁夫人は、彼が精進料理を食べるのを許そうとしませんでしたが、彼は神前で願を懸けていました。彼が精進物を食べることを承知したものの、心の中ではとても愛していましたので、とても辛く思いました。小和尚はふたたび帖子を取り出してみてみましたが、ただの白紙で、何も字が書かれていませんでした。

晁夫人「暗くなってから明りの下で見てみれば、かならず字があるはずだ」

すると本当に字が見えました。人々はそれを見ますと、とてもめずらしがりました。まさに、

天は孝行御存知で

不孝なことも御照覧

悔い改めよ悪しき人

災来た時ゃもう遅い

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]夏姫のこと。春秋、陳の大夫の妻。夏徴舒の母。『春秋左氏伝』『列女伝』などに事跡がある。

[2]春秋衛霊公の夫人。宋の公子朝との不倫で名高い。『春秋左氏伝』定公十四年『論語』衛霊公『史記』巻三十七などにその名が見える。

[3]小説名と思われるが未詳。

[4]唐の則天武后のこと。

[5]仏前に供える龍の模様のついた木札。

[6]山東省東昌府の県名。

[7]原文「挿了草走過」。草を挿すのは、売り物であることを示す動作。

[8]縑巾ともいう。縑帛(固織絹)で作る。 (図:周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』)

[9]山東省東昌府。

[10]船を並べて造った橋。

[11]雲緞に同じ。雲の模様のある緞子で、明末、圓領を作るときに用いられた。清姚廷遴『姚氏記事編』「明季現任官府、用雲段為圓領」。

[12]脳包児のことか。脳包児は防寒用の耳覆い。

[13]浙江省湖州で生産される羅。同治十三年『湖州府志』巻三十三「物産、布帛の属」に「羅」を載せる。

[14]紗の中でもっとも軽いもの。浙江省湖州に産するものを最上とする。同治十三年『湖州府志』巻三十三「物産、布帛之属、紗」「『双林志』「素曰直紗、花曰軟紗、葵紗、巧紗、燈紗、夾織紗。最軽而利暑曰冰紗。毎匹重不過一二両。花素皆備。吾鎮所造、他処不及」。

[15]明代の女性のアクセサリー。真珠と牌から構成され、冠から垂らす。挑牌、挑排、珠子挑牌、挑珠牌、挑牌結子などともいう。

[16]原文「一副小金七鳳」。「小金」は「銷金」に同じ。「七鳳」は七つの鳳凰をあしらった、鳳冠と思われる。

[17]折れ曲がった枝のついた花をかたどった髪飾り。図は、刺繍の紋様としての折枝花。(図:周等編著『中国衣冠服飾大辞典』)

[18]僧尼の礼服。『事物起源、偏衫』「僧尼之上服也」。 (図:周等編著『中国衣冠服飾大辞典』)

[19]僧尼がかぶる帽子の一つ。水瓢といわれる水柄杓に似ているのでこの名がある。

[20]僧侶、道士が用いる靴。普通は木綿で作り、薄底、つま先が高く隆起している。

[21]清代男子の普段着。礼服の大褂に対していう。 (図:周等編著『中国衣冠服飾大辞典』)

[22]稔転ともいう。蕎麦粉で作った細長い食べ物、蕎麦と思われる。『明宮史』火集「四月……韋十八日…取新麦穂煮熟、剥去芒殻、磨成細条食之、名曰稔転」。

[23]運糧船は穀物を運ぶ船のこと。大足を船にたとえた。

[24]小間使いと思われるが未詳。

[25]原文「也就再不叫他扎媳婦、剪人児諸般的瑣碎」。「扎媳婦」は未詳。「剪人児」も未詳だが、とりあえず上のように訳す。

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