第三十五回

不徳な生員が塀をごまかし職を争うこと

賢明な県令が冤罪を濯ぐこと

 

瞿唐の桟道

剣閣[1]の羊腸

昔より険しき道は辛きもの

弓矢のような蜂の針

槍にも似たる蠍の尾

声悪しき烏は人を悩ませり

鬼蜮[2]は砂を口にして

山犬、虎は猛々し

寺の中には和尚あり

異類やら

窮奇[3]やら

これらを恐るることはなし

されどある種の悪人は

孔子の弟子に名を借りて[4]

名家の書物を唱へたり

山を背にして文を弄び[5]

いつも役所をかき乱す

事件を起こし争いて

ひどきたはごとでつちあげ

口が減るほど争へり

賢き役人来たりなば

両頭の蛇は殺されん  《望海潮》

 さて、古の人の師となるような人々は、学問が豊富で、道徳的品性が高く、胸の中に志しをそなえており、人に質問されても窮することはなく、問い掛けをしても即座に返答をするものです。彼らは学問上の師にすることができるだけでなく、徳行、気節、品格があり、学生たちの模範となることができます。金持ちの学生は、謝礼を多めに送り、先生に差し上げますが、これは子供が父兄に孝行をするようなものですから、彼らの金を受け取るのは悪いことではありません。また、家が貧しいものは、まったく謝礼を払うことができず、自分では元手を使いませんが、先生はただで彼を立派に教育するのを厭うことはありません。「一日教師をすれば、終生父となったも同じこと」と申しますが、師弟の情は薄くすることができないものであることが分かります。

 しかし、昨今の先生は、役人と同じです。昔の役人は「君主の意思に従って人民に恩徳を施」しましたが、今の役人は人民から搾取して私腹を肥やすだけで、君主に満足してもらえず、気をもんでいる有様です[6]。昔の先生は「過去を受け継ぎ未来を開く」[7]ものでしたが、今の先生は謝礼で生活するだけです。ですから、謝礼が送られてこなければ、食糧を納めることができない人民に腹を立てる州県知事のように振る舞い、学生が別に先生を選べば、逃亡した兵士を処罰する将官のように振る舞うのです。彼らが本当に教えるのがうまく、功績があれば、我慢することもできるのですが、彼らには少しも功労はないのです。

 一人の先生だけがそうなのではなく、どの先生も大抵このようなものです。南方の先生などは、本当に本を暗記しています。彼らは字を読んで暗唱させ、さらに、続け様に先生について唱えさせます。暗唱しますと、さらに目の前で書き取りをさせます。字を書きますと、本当に一筆一画をみて、いい加減にすることを許しません。下手に書いたものは、一つ一つ改めさせ、一つを書くごとに一つを覚えさせるのです。書物を講じるときは、自分の精神を表現し、文章の趣旨をはっきりさせ、一節一節の意味を解説します。はっきりしないものがあれば、比喩にして示し、本をしっかり解説してからおしまいにするのです。講じ終わりますと、大勢いる弟子たちがそれぞれに自分の見識を示し、みんなで議論をします。そして、優れた考えがあれば、すぐに我見を捨てて人に従います。試験のときはいつも、先生はかならず文を作り、学生の文字を彼本人の才能にしたがって添削してやり、さらにとても良い刊文[8]を彼らに印刷してやります。このように日々精進して、教育をすれば、入門してきた弟子は、優秀な人材になり、科挙に合格するものです。ですから、南方の士人は先生の努力の賜物なのです。

 北方人は南方人の文章や学問は、桁外れに優れていると考え、有名な山や澄んだ川、美しい土地と優れた人物がいるため、このような文人に集まるのだと考えています。しかし、昔から、北方人の天性が南方人よりもずっと勝っており、まったく天才的というに恥じないものであることに気が付いている人はいません。皆さん、考えてもみてください。私の話しは言い過ぎではありません。北方で郷試があるたびに、各省で七八十人の挙人が合格します。会試では、一省につき二三十人が進士に合格し、南方と大して違いがありません。南方で合格した挙人、進士は、先生からたくさんの教育、指導を受け、鉄の杵を針に磨き上げるようにして、はじめて合格することができたのです。しかし、北方で合格する挙人、進士は、先生の世話は少しも受けていないのです。彼らは、すべて自分の八字に頼っており、生まれつきの貴人なのです。深い学問をもった文人たちは、前世では、学識が深く知性があり、まったく人の世話にはなっていないのです。このような北方人を南方に連れていき、南方の先生に猿を調教するときのように彼らを教育させれば−考えてもみてください−優れた人物は孫行者のように七十二変化[9]の神通力を発揮することはできなくなってしまいます。また、南方人を北方に呼び、北方の先生の嘘の教育を受けさせれば、彼ら凡人は、そろいもそろって飯を食うしか能のない猪八戒のようになってしまうでしょう。これは明らかに先生の教育によるもので、南には南の、北には北の事情があるなどということは関係ありません。

 昔、明水に、汪という姓、名は汪為露、号は汪澄宇という、増広生員に選ばれた先生がおりました。彼の父親も、秀才で、一生しがない家庭教師をして過ごしていました。北方で勉強を教える者は、無能でも俸給にありつけるのですが、やはり幸運に恵まれることは必要でした。この老人は一生勉強を教えたものの、一人の秀才も育て上げることはできませんでした。数人は頑張れば学校に入ることができる器でしたが、先生の運気が良くなかったため、続けざまに十数遍講義をしても、学校に入る望みはありませんでした。別れて、ほかの先生に就きますと、すぐに生員になりましたので、たくさんの銀子を新しい先生へのお礼にしました。後にこの老先生が亡くなりますと、汪為露は教師となり、父親の座を受け継ぎました。すると、彼の父親の不運はすべて幸運に変わりました。運が良いことに、学生たちは次々に入門してきました。他の人の書堂には、数年にわたって学校に入ることができない童生がおりましたが、彼についた者は、試験があればすぐに合格しましたので、二度目の試験は必要ありませんでした。彼は科試、歳試の二つの試験になるたびに、謝礼を受けました。人々は彼のことを悪運が強く、財運に恵まれているなどとはいわず、あちこちに、彼は最も賢い先生だ、昔の先生の倍はいいという噂を広め、みんなが幸運に与かりにきました。彼は勉強を教え、金を儲け、田地、家屋を買いました。彼は書を講ずるとき、自ら門を閉じ、文章を読みました。勉強をみるときは、でたらめな、関係のない批評の言葉をつけました。後に先生は大金を儲けてだらしなくなり、門を閉じて勉強を教えていた時間を、田地、家屋を買うことにつぎ込むようになり、半月講義をしませんでした。そして、いい加減な批評すらなかなかつけなくなりました。一二回分の課業は机の上で埃まみれになっており、学生に与えられることはありませんでした。

 手元に金ができますと、自分の財産を管理したばかりでなく、金貸しを始め、高利を取り、銅銭貸しをし、人々と揺会をしました。これらは簡単にできることではなく、あくせくと走りまわらなければなりません。波の上を走り、地に足をつけないようなことは、勉強を教える者のすることではありません。彼はあちこちに頭を下げ、どんな物が安くて、銀子を出して買うべきか、どんな品物が高くて、仲買人を探して売るべきかを聞き出すのでした。安い物を買うときは、人と競争をしなければならず、高い物を売るときは、つけ買いをされるなどということがありました。そんなとき、彼は自分で告訴状を提出しようとしました。貧乏人、どら息子が、数両数十両を借りにくることがありました。銅銭を貸すときは、甘い言葉で、時間通りに返してくださいといい、十割りほどの利子をつけました。すると、少しも力を労していないのに、期限が来ますと、人々は自分で金を送ってくるのでした。最初の一二か月は約束を破らず、本当に自分で送ってきました。汪為露は喜んで彼の妻に言いました。

「銀子があるときは土地を買うべきではない。手間が掛かって、利益も少ないからな。金貸しをするに限る。十割りの利息で、少しの力を使うこともなく、決められた日に金が送られてくる。こんなに金を稼げる商売はないよ」

女房に酒肴をもってこさせ、利子をもってきた人を引き止め、ご飯を食べさせました。食べないものがありますと、酒だけ飲ませました。二三か月が過ぎると、いい人は、五六日、七八日で、自ら返しにきました。そのほかの人も、催促の使いを出しますと、金を払いました。しかし、だんだんと自分から金を送ってくる者はなくなりました。催促をしてももってくる者は、十のうち一二もありませんでした。汪為露はみずから取り立てに赴くようになり、勉強はお座なりになりました。さらにひどい場合は訴状を書いて告訴を行うこともありました。そんなときは、県庁は彼の居室のようになりました。彼は一月三十日のうち、二十日も役所に出入りしました。

 人々が互助団体をつくるときは、必ず仲間になろうとしました。仲間ができれば、交際が多くなりました。今日李四の新居祝いをしますと、明日は張三に誕生祝いをしようとしました。今日趙甲に酒宴に呼ばれたかと思うと、次の日は銭乙に花見に呼ばれました。書斎でしばし静座するなどということは、夢にも考えられませんでした。端午、中秋、重陽、冬至と正月の五つの節句の節儀、春夏秋冬一年四季の学資は、きちんと査収し、一分でも少ないと、家に押し掛けて十回罵りました。ある学生の父兄は、少し善悪を弁えておりました。彼らは先生が子弟の学業をおろそかにするのを嫌がり、テーブル、腰掛けを運び、口実を設けて子供を家に戻しました。すると、先生は彼らと不倶戴天の敵となり、学生の悪口をいい、彼が驢馬に乗っていたとき、先生に会ったのにおりようとしなかったと言いました。さらに子供が人の目の前でだらしない行いをしているといいました。さらに数季分の謝礼が完納されていないといったりもしました。そして、自分で学生を引っ張ってぶち、父兄自らを謝りにこさせようとしました。さらに、学生が新しい先生の力を頼りにしているといい、新しい先生を苛めようとするのでした。

 彼はさらにろくでもない行動をしました。数畝の墓地が劉郷紳の土地と隣り合わせになっていたのですが、彼は木をすべて自分の土地の端に植えていました。後に大きな木になり、劉家の土地まで伸びますと、木の根の脇に木を植えました。劉郷紳が少しも争わないでいますと、木の外側まで木を植えました。劉家の荘園の番人は彼に説教をして、言いました。

「おまえの木が俺たちの土地に侵入したのからして、すでにおかしなことなのに、さらに木を植えるとはな」

彼「わしが最初に木を植えたとき、境界線ぎりぎりのところに植えていたとでもいうのか」

荘園の番人は劉郷紳に告げました。

劉郷紳「このような人間と隣人になったのが運のつきだ。どうすることもできん。奴が耕した場所に石を立てればいい」

荘園の番人は石工を呼び、二本の石柱を彫らせました。そして、畑に埋めようとしましたが、彼はちょうど城外にきており、畑をすくときに邪魔になるからといい、石柱を埋めることを許しませんでした。

 侯小槐は小さな薬屋を開いており、彼と隣同士でした。彼は侯小槐の土地を占有し、五間の小さな棟を建てましたが、侯小槐は彼と争おうともしませんでした。数年後、彼は塀の後ろの侯小槐の敷地に道を築こうとしました。そして、秀才、弟子を引き連れ、県知事が学校にきて行香をするときに、告訴状をもって跪き、侯小槐が彼の敷地を侵害しているといいました。県知事は訴状を受け取りますと、尋ねました。

「後ろに跪いている生員たちは何をしているのだ」

彼「すべて弟子で、私に付き添っているのです」

県知事「筋が通っているのなら、『一虁で十分』[10]で、大勢で怒る必要はない。戻って令状を出し、人をそろえて審問を行おう。侯小槐も訴状を出し、彼は家に二世代に渡って住んでいる、汪秀才は家を新しく買ったものだといっている。売り主に塀がだれのものなのか尋ねればいい。

 県知事は尋ねました。

「汪生員が買ったとき、ここには建物があったのか塀があったのか」

侯小槐「昔から塀だけしかありませんでした。汪生員が買ってから、家を建てたのです」

県知事「侯小槐、彼の家の図を描いてくれ」

侯小槐は地面に手で描きました。

「彼の家は、もともと北の棟、南の棟、西の棟からなっていました。しかし、今、彼は小さな棟を建てています。この塀は私の境界の塀です」

汪為露「この壁はわたしの壁です。後ろにさらに一歩の敷地があるのです。そのことは文書にはっきりと記されております。彼は私が来たばかりなので、悪い心を起こしてごまかそうとしているのです」

県知事は笑って

「この壁を壊して東に一歩敷地を拡大し、大きな東の棟を建てれば、四合の形ができて、とても縁起がよい。おまえがこのような考えを起こすのは当然だ。わしもおまえの善行を完璧なものにしてやるべきだ。しかし、侯小槐は承知しないといっておる」

汪為露「知事さまが判決を下されれば、彼が承知しないはずはありません」

県知事「おまえの言うことも尤もだ」

自分の胸を指差しながら

「しかし彼も承知しないのだ。おまえの弟子は今どこにいるのだ」

汪為露「みな外におり、少しも欠けておりません」

県知事「どうして中に入って応援をしないのだ」

汪為露「宗師の法に従ったため、中に入るわけにいかないのです。私が出ていって彼らを呼んできましょう」

県知事「呼びにいく必要はない」

筆を手にとり、こう書きました。

調べによれば、生員汪為露は、三年前に家屋を買い、侯小槐と隣り合わせになった。汪は北の棟、南の棟、西の棟をもっていたが、東の棟はもっていなかった。彼は東側の土地が狭かったため、侯小槐の西の壁を勝手に自分の壁とし、三間の東の棟を建て、四合の形にした。そして、侯小槐が長いこと文句を言わなかったため、先んずれば人を制すとばかり、壁を自分のものとしたばかりでなく、壁の東にも自分の土地があると嘘をついた。汪生員が住む前に、何人の人が住んでいたのかは不明だが、彼らは無頼漢に不当な要求をさせるために欠陥を放置していたわけではない。婦人、子供でさえも、汪為露の話しを信じないだろう。非行のあった生員は、上司に報告して資格を剥奪するべきである。とりあえず二十五回板子にかけ、小さな棟を壊し、もとの塀は侯小槐に返すことにする。さらに悔い改めなければ、歳試のときに劣簡[11]とする。あとのことはすべて不問とする。

県知事は書き終わりますと、言いました。

「もう判決を下したから、読んで聞かせよう」

汪為露はがっかりして、言上しました。

「判決を受けましたから、わたしはこれ以上何も申し上げません。どうかあの人に今まで通り塀を貸すようにおっしゃってください。家を壊すのはやめてください」

県知事「侯小槐が塀をおまえに貸して家を建てさせたのは、情を掛けてくれていたからだ。おまえは、今回役所に告訴を行ったのだから、情実を説くことはできず、すべて法に従わなければならない。それに、おまえのような悪人とは、誰もこれ以上関わり合おうとはしまい。はやく家を壊し、壁を返すのだ。もしも判決に反対すれば、今度の歳試で、お前を「行簡」[12]として報告してやろう。わしははっきりとお前の行状を報告してやる。わしが言っていることは本当だぞ。おまえが罰として米を納めることは許してやろう。出ていけ」

学校に護送し、懲戒を加えました。そして、家を壊しおわってから、侯小槐から壁の受取り状をとらせ、報告をさせました。大門の外に出ますと、汪為露は侯小槐をぶとうとしました。弟子たちも彼の味方をして腹を立てました。

下役「この人はあなたの悪口は言っていません。知事さまはご自分の判断で判決を下されたのです。この人をぶってどうするのです。忠告しますよ。お若い方、後で悔やまないようにしてくださいよ」

 弟子たちはあれこれと侯小槐の文句を言いました。宗昭は、字を光伯といい、名士でしたが、こう尋ねました。

「県知事さまはどのような判決を下されたのですか」

下男は判決文を取り出してみせました。宗光伯はそれを見るとうなずいて

「筋の通ったことをゆっくり話せばいいのです。乱暴なことをしてはいけません」

汪為露とともに学校に行きました。学師[13]は明倫堂に上がり、県知事直筆の判決文を見ますと、門番に腰掛けを運んでこさせ、数通り懲罰を与えようとしました。ありがたいことに、弟子たちが何度もお願いをしましたので、学師は懲罰を免じ、言いました。

「一両の謝礼を県の下役に与え、報告をしにいくように頼んでくれ」

下役「お受けするわけにはまいりません。学師さまが生員たちの面子を立て、懲罰を行わなかったと報告すればよろしいのでしょう」

学師「『上を騙しても下は騙すな』というが、そんなことは必要ない。汪為露がおまえに一両の銀子を謝礼として送らないなら、おまえがどんなに報告しようと、わしはおまえを咎めたりはしないぞ」

外に出ますと、汪為露は一銭も下役に与えようとはせず、弟子たちばかり見ていました。弟子たちも先生ばかり見ていました。中に金亮公という者がおり、言いました。

「我々は十二人います。各人が一銭だし、下役に一両、学校の門番に二銭を送りましょう。私は銀をもっています。あとで金を集めて私に返してください」

汪為露「わしについてきてくれるだけで十分だ。おまえたちに銀子を出してもらうわけにはいかん」

遠慮する振りをし、金亮公に一両二銭の銀子を計りとらせ、下役、門番を離れさせました。

 下役は護送をし、壁の引き渡しをさせようとしました。汪為露はいいました。

「家を壊せとおっしゃるのなら、私はあいつと刺し違えます。毛をすっかり抜き取り、鼻を齧り、目を抉ってやります。私一人ではかないませんが、たくさんの弟子がいますから、決してあのごろつきには負けません」

さらに宗光伯がこっそりと言いました。

「あの人に壁を貸してもらいたいのなら、おだやかに話さなければなりません。それなのに、あの人を罵ったりしては、あの人は怒り、交渉は難しくなってしまいます」

彼は宗光伯の話しを聞くと黙ってしまいました。そこで、とりあえず家に帰りました。侯小槐はしこたま罵られたため、病気になり、床に伏して起き上がれなくなってしまいました。下役が彼に家を壊すように催促したときには、侯小槐は病気で人事不省になっていました。一方、汪為露は頭を掻き、背中をはだけ、侯小槐の家の前の溝に横たわりました。そして、全身上から下まで、髪の毛も髭も、目、耳、鼻、舌も、糞、泥まみれになりながら、侯小槐を罵り、どうしても家を壊させようとしませんでした。彼は普段は老成した振りをし、目で鼻を見、口では尤もらしい官話を話し、道学者ぶった振る舞いをしていました。しかし、今回不面目なことがあってからというもの、人に肺臓、肝臓まで見透かされてしまいました。

 彼にはさらに悪い習慣がありました。毎日初更以降になりますと、こっそりと近隣の貧乏人の家にいき、例のことをする音を聞くのでした。ある日、屠殺屋二人が家で房事を行っていました。彼はそれを聞くと喜び、思わず咳をしてしまいました。屠殺屋は衣裳をつけ、門を開けて外に出ますと、汪為露は遠くへ逃げてしまっており、追い付くことはできませんでした。ところが、汪為露は、翌日、ふたたび盗み聞きをしにいきました。屠殺屋は例のことをしていませんでしたが、外で人が動いているのに気が付きますと、誰かが聞いているのだろうと思い、こっそりと彼の女房の体を触り、わざと例のことを行おうとしました。女房は嫌がる振りをしましたが、やがて従いました。女房はことさらに嫌らしい声をだし始めました。屠殺屋はこっそりと衣裳を着け、足にぴったりの靴をつけました。そして、豚をぶつ杖を手にとり、こっそりと門を開け、顔を合わせますと、豚を縛るときのように、片手でひっつかんで押し倒し、杖で背中からかかとまで殴りました。汪為露がぶたれて這い戻りますと、たくさんの隣人が目を覚ましてでてきました。汪為露を知っている者がおり、こう言いました。

「汪さん、あなたは普段はまじめに弟子を教えているのに、こんな事をするなんてな」

翌日、屠殺屋は訴状を書き、提学道[14]に彼のことを告訴しようとしました。汪為露はたくさんの人に何度も頼み、ようやく事をおさめました。

 昔の弟子の宗昭が科挙に合格しました。挙人を迎える日、汪為露はまず挙人の家にいって待機しました。宗挙人の父親宗傑は、汪為露が弟子の合格をとても喜んでいるのだろうと思い、酒、ご飯を出しました。宗昭が戻ってきますと、布政司の下役が八十両の価値のある二錠の銀子を送ってきました。汪為露は一錠をしばらく見ますと、袖に入れ、こう言いました。

「わしが弟子を教育したから、試験に合格できたのだ、謝礼にしても構わんだろう」

人々は彼がふざけているのだと思いました。彼は厚かましくも首席に座り、宴席に赴き、『四徳記』[15]を選びました。そして、宴席が果てますと、一錠四十両の元宝を袖に入れたまま、「どうもありがとう」と言い、拱手をし、悠然と去ってゆきました。「千人があきれ、万人がめずらしがる」とはまさにことことでした。

 宗昭は貧しい家の出でした。彼は試験に合格し、様々な仕事[16]をしなければならないというのに、四十両の銀子を奪われてしまったため、目に薪が刺さったかのように慌てました。十月になり、上京して会試を受けることになったため、あれこれ工面しましたが、旅費を手に入れることはできませんでした。さいわい提学道が恩典を与えてくれました。

「今回合格した挙人はすべてわたしの弟子だから、それぞれが寄学[17]の秀才を一人募り、百二三十両を集め、会試の資金にするがよい」

すると、汪為露はある人に捐納をさせ、百二十両の銀子を手に入れました。そして、宗昭に、提学に話をしにゆくように催促しました。最もひどかったのは、宗昭は先に一人を決め、包んでもらった銀子を、次々に使っていたことでした。宗昭は何度も先生に頼みました。

「師弟の情は、父子の情のようなものです。さいわい試験に合格しましたが、恩に報いることができるのはまだまだ先のことです。援助をしていただき、会試でさらに合格することができれば、ありがたいのですが」

ところが、汪為露は首をちぎれんばかりに振り、言うことを聞こうとしませんでした。強く頼みますと、ますます聞き苦しいことを言いはじめました。彼は言いました。

「今年は収穫が良くなかった。明日はどうなるかも分からない。今後お前と一緒に生きていけないかも知れない。試験に合格したのだから、別の所から金を借りることもできるだろう。そうすることがわしを大切にするということだろう」

 宗昭は汪為露は考えを変えない、これ以上話をすれば怒るであろうと考え、仕方なく承知しました。しかし、汪為露に「謝礼」を持っていかれたのは仕方ないにしても、宗昭自身が集めた銀子も、その半分を使われてしまいました。宗昭は金を集めて援助者に返さなければなりませんでしたが、これ以上金などあるはずがありませんでした。そこで、ふたたび汪為露のところにいき、五六十両の銀子を貸してください、金を付け足して援助者に返しますから、といいました。ところが、彼はふてぶてしく構え、腹を立てて言いました。

「どうしてもわしに義理を果たそうとしないのだな。おまえは将来きっと人でなしになり、幽霊にさえなれなくなるだろう。おまえに言っておく。あの秀才のことで、試験の時におまえが世話した秀才の名を報告したり、わしと関係が悪くなったりすれば、おまえは会試にゆくこともできなくなるぞ。都の棋盤街[18]、礼部の門前で、わしは秀才の身分を棄て、おまえは挙人の身分を棄てて、けりをつけることにしよう」

宗昭はびっくりしてすぐに謝罪し、黙って家に駆け戻りました。彼の父親は、数畝の水田を質入れし、さらに高利の借金をし、金を返して残った金で、息子を上京させましたが、息子は進士には合格せず、合格発表の後、落第して戻ってきました。

 汪為露はしばしば訴訟に関与し、自分が銀子、銅銭を手に入れますと、事が理に適っているか否かに関わりなく、足を刺す大蟻のように、宗昭に訴状を書くことを催促しました。府県はこの若い挙人を行いの善くない腕白者と考えましたが、実は汪為露が悪いのだということには気が付きませんでした。後に、汪為露は宗昭の印を彫り、訴訟がありますと、宗昭に知らせもせず、偽の訴状を書きました。書かれているのは理に適っていない言葉ばかりで、文の筋も通っておらず、役所に受理されない恐れがありました。そして、実際に、訴状を届けた者がしばしば役所の怒りに触れ、板子でぶたれましたが、宗昭はそのことには少しも気がつきませんでした。だんだんと宗昭の評判は悪くなり、巡按は弾劾文を書いて弾劾をしようとしました。さいわい宗昭の伯父駱所聞が按院で書吏をしており、言上しました。

「宗昭はわたしの妻方の甥です。十八九歳で、若くて徳のある挙人です。外で起こっていることは、宗昭は噂に聞いてもいません。すべて彼の先生である汪為露がしたことです」

按院はようやく弾劾するのをやめることにしました。

 宗昭は事情を知りますと、荷物と書籍を纏め、府県を後にし、河南の座師の家にいき、彼の息子とともに勉強しました。ところが、後に進士に合格しますと、ふたたび汪為露にまとわりつかれましたので、つまらない小役人によって、「不謹」[19]とされ、閑住[20]を命じられてしまいました。

 宗昭が河南にいったあとも、汪為露は偽の文書を作りました。そして、人命事件の代言人をし、知事の調査を受け、秀才の地位さえ剥奪されてしまいました。それからというもの、彼は悪い仕事から足を洗いました。しかし、彼は家に金をもっていましたし、秀才の肩書きを失い、よそさまの子弟をだますような悪行をしなくなったのは良かったのですが、貪欲で飽くことを知りませんでした。彼は狄員外の息子狄希陳をまるまる五年教え、節句の贈り物以外にも、五四二十、二十両の謝礼をもらっていました。しかし、狄希陳の母親が息子に字を読ませても、息子は「空にはきらきらお星様」の一句しか記憶していませんでした。狄希陳が勉強をしにこなくなり、程楽宇が家庭教師に呼ばれたことを知りますと、人前で腹を立て、通りで狄賓梁父子、程楽宇をぶとうとしました。さらに、薛教授も狄家と一緒に先生を呼ぶべきではない、子弟があればわしのところにこさせるべきだといいました。狄賓梁は文盲でしたが老成しており、長い目で物事を見る善人でしたから、息子が彼について勉強をしなくなったからといって、交際を絶つことはなく、謝礼こそ送らなくなりましたが、普通の贈物、招くべき酒席は、すべて今まで通りとしました。汪為露はとても不満でしたが、つけいるすきがありませんでした。また、薛教授は髭や眉が真っ白で、服装、言動は古人と同じでしたので、彼をぶつわけにもいきませんでした。そこで、程楽宇をやっつけてやろうと考えました。

 ある日、程楽宇は晩の勉強をおえて家に戻りました。汪為露は息子の小献宝をつれ、二人のごろつき朱国器、馮子用を道に潜ませ、程楽宇が通ったところを、引っ張って引き倒しました。そして、よってたかって、徳のある学者を踏み付けにしました。程楽宇はぶたれ、鼻は青くなり、目は腫れあがりました。汪為露は程楽宇が告訴をするのを恐れ、五更に起きて繍江県庁にいき、程楽宇が人を集めて略奪をしたといいました。程楽宇はすぐに県庁に赴き、訴状を提出しました。県知事は程楽宇が顔に重傷を負っていましたし、かねてから汪為露の行動について耳にしていましたので、訴状を批准し、捕り手を遣わし、捕縛を行いました。汪為露の数人の仲間、龍見田、周于東、周于西、景成は、間にたち、程落宇と和解しようとしました。程楽宇は最初は承知しませんでした。人々は汪為露に三両の賄賂を出させ、一テーブルの料理を準備させ、恥知らずの教官閔善に、程楽宇を呼びにいくように命じ、どうしても仲直りさせようとしました。程楽宇が難色を示しますと、閔教官は強硬な態度をとりだしました。程楽宇は権力を恐れ、和解することを承知し、書類を提出して出廷することにしました。汪為露と景成は和息牌[21]を担いでいきました。

 県知事は最初に程英才を呼びにいき、尋ねました。

「おまえは和解したいのか」

程英才「殴られてこのような重傷を負ったのですから、和解など願ってはいません。しかし、大勢の人々に迫られたため、従わない訳にいかなかったのです」

周于東らは一斉に言いました。

「和解したばかりだというのに、知事さまに会ったら、また前と同じことをいうとはな」

県知事「おまえたち悪党は悪によって結び付き、多勢を恃んで脅迫をしたのだろう。彼が態度を変えたというわけではあるまい。兎が死ねば狐は悲しむように、同類は同類同士かばい合うものだ。秀才が人にぶたれて重傷を負ったというのに、敵と争おうとせず、和解するはずがない」

周于東らは弁明しました。

「一般の人民が殴打したなら、生員が怒りをいだくのは当然です。しかし、二人の生員が殴りあったのですから、私たちは彼らのために調停をせざるを得なかったのです」

県知事「小献宝、朱国器、馮子用、みんな来るのだ。奴ら三人は秀才なのか」

周于東らは言いました。

「この小献宝は汪生員の息子です。朱国器の父親も生員です」

県知事「おまえは秀才の息子は秀才をぶつことができるというが、知県の息子が知県を殴り、教官の息子が教官を叩いていいはずがあるまい。小献宝ら三人のごろつきを大きい板子でぶて」

大声で数を唱え、五回ごとに人をかえ、各人三十回ぶちますと、枷をとってきて、こう書きました。

「通りで枷にかける。生員を殴打した廉によりさらし者とし、二か月で釈放する。汪為露は罰として煉瓦五万を課す。煉瓦は学校に送り、尊経閣を修理するのに用いる。龍見田、周于東、周于西、景成は、学校に護送し、それぞれ二十回の板打ちにする。汪為露を護送し、殴打を行った場所で、人々の立ち会いの下、程相公に謝罪させる」

 処置を終え、二門に近付きますと、県知事は犯人たちを呼び戻し、尋ねました。

「汪為露、おまえは侯小槐の敷地を占領したが、家を壊して彼に返したのか」

彼はすぐに返事をしました。

「知事さまが判決を下されてから、すぐに壊して返しました」

県知事「おまえたちはひとまず西に立っているがよい」

一本の簽を抜き、下役を遣わし

「早く侯小槐に報告をさせろ。侯小槐がいなければ、彼の妻を呼んでもいいぞ」

 使いはしばらくすると、侯小槐を呼んできました。県知事は尋ねました。

「彼は塀を返したのか」

侯小槐はひたすら叩頭しました。汪為露は脇から彼にこういいました。

「あとで返してやるから、そう返事をしてくれ」

県知事「まだ返していなかったのか」

侯小槐に尋ねました。

「おまえの受取り状は、誰が書いたのだ」

侯小槐「私は書いておりません。彼は表門の外にやってきて、私の毛や鬢を毟り、あれこれ侮辱しようとしました。彼の弟子たちもやってきて私を辱めました。さいわい宗挙人が庇ってくださいました。私はこのようなひどい目に遭い、傷寒になり、三か月床に就いていました。だれが受取り状を書いたかは、存じません」

汪為露「みんなの立ち会いのもと、塀をわしに貸してくれることにしたではないか。それなのに知事さまにそのようなことを言うとはな」

県知事は下役を呼びました。当直の役人は、号簿[22]を調べさせました。

県知事「号簿を調べる必要はない、下役は劉宦だ」

呼び出しをかけましたが、劉宦は仕事をしにいっているとのことでした。

県知事「おまえは人の敷地を騙しとろうとしたのだから、本来なら罪に問うべきだ。しかし、判決に不服というのであれば、五万の煉瓦はもう請求しないこととしよう。出ていけ」

彼は罰として煉瓦を提出しないということが、彼を「劣行」[23]と判断することであることに気が付きますと、冠を脱ぎ、哀れっぽく頼みました。彼の弟子たちも何度も頼みました。そこで、五万の煉瓦の罰をうけることになりましたが、さらに三万を加えられてしまいました。また、塀の西に立てられた小さな棟を壊し、侯小槐に元の塀を返さなければならなくなりました。劉宦は審問を受け、十五回板でぶたれました。閔教官は、大計[24]の時「貪」の評語を書かれてしまいました。汪為露はつまらないことをしたと思いました。まさに、

跪くのは易きこと

強情張るはやめよかし

時機をみるのに鈍ならば

最後はひどき目に遭はん

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

中国文学

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[1]長安から蜀に入る道に当たる大剣、小剣二山の要害。

[2]鬼と蜮。蜮は水中におり、人影を見ると砂を含んではきかける。吐きかけられた人は病むという。『詩』小雅・何人斯「為鬼為蜮、則不可得。〔集伝〕蜮短狐也、江淮水皆有之、能含沙以射水中人影、其人輒病而不見其形也」。

[3]西北の地にいる怪獣。善人を害し、悪人を喜ぶという。『山海経』西山経参照。 (図:「三才図会」)

[4]原文「宮墻托迹」。「宮墻」は、宮殿の壁だが、『論語、子張』に、子貢が孔子とみずからの賢明さを大きな宮墻と小さな宮墻にたとえた話があることから、孔子一門をいう。

[5]原文「負嵎据器」。「負嵎」は『孟子』尽心下「虎負嵎、莫之敢攖」(山を背にした虎は捕らえることができない)に典故のある言葉。虎が山を背に、ほしいままに悪事をすることをいう。「据器」は、文を弄ぶもの。『書』大禹謨〔疏、三旬至苗格〕「伝惟言舞文者以據器言之」。

[6]原文「不覚便自熱中」。『孟子』万章上「仕則慕君、不得於君則熱中」朱熹集注「熱中、躁急心熱也」。

[7]原文「継往開来」。王陽明『伝習録』巻上に見える言葉。

[8]印刷された八股文。

[9]孫悟空が会得していた七十二種の変化術をいう。

[10]原文「一夔足矣」。虁は堯の時代の楽官、『大章』という楽曲を作った。「一夔足矣」は本来は「優れた人は一人で十分」という意味。

[11]劣は行いが悪劣なこと。簡は行いが簡慢なこと。ともに生員に対する評語。

[12] 「行為簡慢」の意で、素行が良くないこと。歳試は学政官が生員を対象に行う試験だが、その際に、県知事が素行の良くない生員を学政官に報告することがあった。

[13]府、州、県の学校の教官。

[14]学政、学道、督学、学院、学台、宗師などとも呼ぼれる。正式の名は、提督○○省学政。

[15]明代の戯曲。馮商の善行を描く。馮商の善行に関しては第三十四回の注を参照。

[16]原文「百務斉作的時候」。挙人は上京して会試を受験しなければならない。ここで言っているのは、受験で上京するために様々な準備をしなければならないということ。

[17]明代、捐納などによって秀才と同じ待遇を受けることになった童生をいう。

[18]北京内城大清門外にある通りの俗称。朱一新等撰『京師坊巷志』巻二「棋盤街」「『旧聞考』「大清門外俗称棋盤街、乾隆四十年修葺周囲石闌以崇体制」。

[19]官吏の勤務評定の際の評語の一つ。役人らしからぬ振る舞いをすること。清周亮工『書影』巻八「明初旧制、吏部考察、但老疾、罷軟、貪酷、不謹四条」。

[20]明清時、官吏に対する処置の一つ。官職を免じて、故郷に居住させること。

[21]和解を申し立てる者が掲げていく札。

[22]役人の職務を記録した帳簿。清黄六鴻『福恵全書』莅任・出堂規「凡出牌票該承行、務将原案同号簿送僉。如有牌票無案、有牌案無号簿者重責」。

[23]生員に対する評語の一つ。品行が良くないこと。

[24]明代、三年に一度行われた役人の勤務評定。『清文献通考』巻五十九、選挙十三参照。

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