第三十三回

悪書生が厠で杭を削ること

程先生が袴に糞を漏らすこと

 

英才を育むことこそ楽しけれ 

優れたる人が補佐せり

良き教育を施せば、賢人になることができ

(つくえ)には 雲をも凌ぐ策を列ねて

門下には、師を慕ひ、よく学ぶ人が並べり

気掛かりは、腕白者の塾を乱して

学業を抛ちて仲間をば離るることぞ

一を聞き十を知るわけにはゆかず[1]

苦労はすべて無駄となる

教師の苦労は報いられずに

弟子は恨みて師を尊ばず[2]  《臨江仙》

 聖賢のさまざまな言葉によって、読書人は貧乏な生活に安んじることができます。「野菜を食べ水を飲み、肘を曲げて枕する、楽しみはその中にある[3]」「瓢箪一つ分の食べ物、瓢箪一つ分の飲み物、……その楽しみを変えるわけにはいかない[4]」「泉の水がたっぷりあれば、心行くまで飲むことができる[5]」「一日分の食糧を二日に分けて食べる、一張羅の服を家族で使って外に出る、おろそかにしてはいけない[6]」など、聖賢はどんなときでも、自分がいる場所で日々を過ごすことができるものです。彼らは貧乏に安んじ、運命を楽しむのです。しかし、一畝の土地、垣根で囲まれた家はあっても、良田は半畝もなく、薄い粥も飲むことができず、野菜を食べ水を飲むこともできないことがあります。このようなときは、井戸の脇にいって瓢箪一つの水を飲めばいいのですが、これでは楽しいことはありません。孔子が陳にいたとき、二三日食糧を断たれ、従者もみな病気になりました。剛毅な仲由[7]さえも、腹を立て、先生を責めましたが、このとき、孔子は無理にこういいました。

「君子ももちろん窮迫する。しかし、小人は窮迫するとでたらめなことをするものだ」

私は、そのときの孔子には何も楽しいところがなかったに違いないと思います。むしろ後の人々の方が「学ぶときはまず生活をきちんとしたものにしなければいけない」[8]と、分かりやすいことを言っています。

 しかし、貧乏な秀才が生計を立てようと思っても、彼らにできるのは書店を開くことぐらいなものです。彼らは数百両の元手をもち、もののよく分かった善人を番頭にし、自分で蘇州、杭州にいき、書物を買い、船に乗るのです。彼らは途中で本を読み、陸に上がればさらに本を買い、それを読み、途中で不当に税金をとられる心配もありません。淮水に着いても、税関の主事に本をとりあげられ、半分に引き裂かれてしまう心配はありません。これはとてもいい商売ではありませんか。しかし、良くないところもたくさんあります。第一に、元手にする数百両の銀子がありません。第二に、同門の友人や親戚が、何部かつけ買いしていきますが、つけ買いとは名ばかりで、実際はだましとっていき、返さないこともあるのです。第三に、役所は税をとりませんが、書物を要求するのです。そして、本を与えてしまえば、元手はすっかりなくなってしまうのです。書物がない場合は、郷紳から高い金を使って買うか、遠い波止場へ買いに行かなければなりません。買って戻ってきても、気に入ってもらえるかどうかは分からないのです。この商売は秀才がすることができるものですが、儲けることはできないものです。緞子屋、木綿屋、紬屋、質屋などにいたっては、たくさんの元手がない場合はもちろん、元手があっても、役所で損する金のほうが多いのです。したがって、これらの商売は、秀才たちにできるものではないのです。

 これ以外には、糞拾いをするしかありません、糞拾いは糞をいっぱい担いで戻ってきて、乾かし、粉末にします。そして、一石七八分で人に売り、畑に撒かせ、細絲の銀、銅銭を稼ぐのです。役所は畑からとても離れており、役所が糞を運んでいくことはできません。糞は畑に撒くだけで、腹に入れるわけにもいきません。しかし、このような良い商売にも、良くないところがあります。第一に、人が便所からでてきますと、死ぬほど嫌な匂いがするものです。布団の中で自分がおならをするときでさえ悪心、頭痛がしますし、糞に出くわしたときでも避けようとするというのに、これを自分で担ぐわけですから、臭気は我慢することができません。以前のように元手を用いず、一生懸命はたらけば利益が得られるのであれば、匂いなどどうでもいいでしょう。しかし、今では、糞をする場所は、郷先生[9]や挙人の生活の資金源になっているのです。糞拾いはかならずまず彼らに金を納め、初めて拾って乾かすことを許されるのです。元手を用いて綺麗な商売をせず、このような汚らしいことをすることができるでしょうか。このような商売で、秀才たちが生計を立てることはできません。

 さらに、もう一つの道がありますが、これには元手が必要です。柳、棗の木を売る者がありますと、それらを買ってきて、薄い板にし、大工に棺を作らせるのです。貧乏な家に売り、死者を埋葬すれば、元金と同じぐらいの利益があります。役所で人が死にますと、彼らは沙板[10]ばかりを使いますから、このような薄い物は欲しがりません。ですから、彼らにただでもっていかれる心配もありません。しかし、このような良い商売にも、良くないところがあります。第一に良くないのは、立派な人が、綺麗な家に、縁起の悪い物を重ね合わせて置きますと、気が滅入ってしまいます。第二に、最近では、役所が郷紳挙人に贈る扁額、役所の中に造る断間、版槅[11]、提学が巡視をするときに小屋掛けの中に敷く床板、重罪を犯した囚人を刑場で処刑するときの木驢[12]、木の杭などは、すべて棺屋が準備するようになりました。元手を用いて、商人になり、このような商売をすることはありません。ですから、棺を売るのも秀才が生計を立てるための道ではないのです。

 この数種類以外に、とても良い商売があります。皆さん。それはどのような商売だと思われますか。それは役人と付き合うのです。まず彼らのために賀序を作り、祭文を作り、駢文の手紙を作るのです。さらに、節句の祝いをし、誕生日を祝い、親友になれば、観風、歳試、類試[13]のときに、彼らの力に頼り、上位で合格することができるのです。城外の人を騙し、名誉を得ますと、童生の試験、公の行事のとき、折りをみて、たくさんの利益にあずかり、村で自慢をし、城外の人々を服従させることができます。このように元手なしで商売をし、利益と名誉を得るのは、まことにいいことではありませんか。ところがこのような良いことの中にも、良くないことがあります。第一に、「天子に会う前に、まず役人に会え」といいますが、役所とつきあうためには、まず下役たちと気脈を通じ、兄弟のようにならなければなりません。しかし、下役に威張られるのは我慢し難いものですし、秀才として振る舞うことができません。たくさんの俗な話しを準備し、へらへらとした顔の練習をしなければなりません。また、大事なときは金を出し、しばしば彼らにおごり、酒を飲ませたり、麺を食べさせたりするのです。役所の下役は兄で、門番は弟です。礼房の先生は友、書吏は親戚、下役、捕り手はみんな知り合いです。このような関係を結んで、初めて役所と話をすることができるのです。第二に、今の役所は、読書人らしさや、読書人の持つべき節操などということは問題にされません。あなたに韓、柳、欧、蘇[14]の文才、蘇、黄、米、蔡[15]の書の才能があっても、あなたは片隅に座らされます。斉人[16]のような顔、趙師[エキ][17] のような腰骨、祝鮀[18]のような舌、婁師徳[19]のような我慢強さ、さらに鉄の杵を針に磨き上げるような時間、最後に祁禹狄[20]のような縁があれば、お話しにならない、ろくでもない文章でも、我慢して受け入れてくれます。そして、お役人と知り合いになれば、役所の受付のところにいっても、門の番をしている下役、宿直の門番に阻まれることもなく、執事たちと会うことができるのです。もっと大事なのは第三の点です。すなわち、穏やかな態度をとり、金を使い、身を低くし、執事がお役人に彼のことを褒めたり、彼のことを謗らないことをひたすら求めるのです。これら三つのことをしっかり行えば、偉い人と知り合いになることができるのです。しかし、仙人は五百年を一劫と考えます。この長い時間を過ごして、はじめて仙人になれるのです。この長い時間を経過しなければ、今は仙人でも、悪運に出食わし、地獄でぶたれて罪を受けることになり、幽鬼たちよりもひどい目に遭うのです。

 皆さん。これはどのような災難だと思われますか。つきあいのあるお役人が栄達し、少しも挫折がなければ、それは護法天尊[21]がお釈迦さまになったようなもので、教義を述べ伝えていた者は伽藍神になることができるのです。しかし、付き合いのある役人が勢力を失えば、「孫行者が火焔山に落ちる−みんなが焼かれる[22]」ということになるのです。弾劾文に名を記されれば、たとえ犯人と関わりがなくても、あたかも麒麟閣[23]に名が記されたようなもので、天子さまがそれを御覧になって下される命令は、天下に広まり、いいようもなく面白いことがたくさん起こります。さらに、役人にひどい目に遭わされている人民、恨みを抱いている政敵が、罪を告発し、恨みに報いることになれば、命に関わることになります。このようなやり方は、利は少なく害が多く、栄誉は少なく屈辱が多く、一時しのぎ的で、秀才にとってはいいやり方ではありません。あれこれ道を考えますと、数畝の家庭教師の口を開発し、筆を犂にし、舌を耒にし、自ら耕して過ごすしかありません。教師になれば、雨が少なくても旱伐の心配はなく、雨が多くても洪水の心配はありません。そして、八人の家族を満腹させるばかりでなく、自分も心身が豊かになり、手足が踊るような楽しい思いをすることができます。さらに、たくさんの凡人を救って仏にし、仏性を悟らせ、金持ちにし、権勢をもたせ、栄誉ある地位に身を置かせることもできるのです。役所の下役、下男、執事が苛めをしにこないのは、いうまでもないことですし、こちらから彼らを尋ねて辱めを受けることもありません。ですから、結局は、勉強を教えることが、秀才が生計を立てる道なのです。

 名を知られている先生は結構なものです。自分で塾を開けば、人を呼ぶ必要はありません。自分で書堂を開けば、人々が学生を来させようとします。良い者は受け入れ、良くない者はやんわりと断ります。たくさんの人を教えたいときは、百人を受け入れてもだれも邪魔をする者はいません。数人を減らしたいときは、一人も受け入れなくても、だれも受け入れろと強制するものはいません。師弟が仲良ければ、来る者は拒まないようにします。師弟が仲良くなければ、去る者を追うことがないようにします。十人の学生のうち二人が去っても、さらに八人がおり、八人が去っても、二人が残ります。そのときになって、おもむろに生徒を募集すれば、またやってくるものがいます。しかし、人の家に呼ばれ、一年子供を教えても、翌年呼ばれるかどうかは分かりません。正月近くにくびになって戻ってきますと、ほかの家ではもう人を呼んでしまっているので、家でじっと座り、何もせずに一年飯を食べているしかありません。とりあえず他人の家に行きますと、主人と一緒に住むことになります。もしも主人が友人を尊び、仲の良い友人になり、最初から最後まで面倒をみ、両者合意の上で別れるのであれば、これは上等であるといえましょう。もしも数人の学生がよくなつけば、父兄が師匠を呼んだ善意、先生が教育をした苦労も無駄ではなかったことになります。名目上は師弟でも、心は父子と同じようなものですから、これは上上等といえましょう。父兄が俗臭紛々たる人物で、師匠や友人を侮り、もてなしらしいもてなしをせず、恭しい態度もとらなくても、学生が英才ばかりなら、まだ我慢することができます。これは二等といえます。さらに、主人が礼を尽くし、もてなしをし恭しい態度をとっても、学生が腕白で、「鉄は金になることは難しく、龍になるように教育しても必ず泥鰌、田鰻になってしまう」という場合があります。主人から謝礼金を貰っても、教育の効果が現れないのです。勉強ができるようにならないだけでも、恐れ多いことですが、さらに堕落して獣のようになるのです。原因を追究されればますます恥ずかしい思いをします。これは最悪の家庭教師です。自分が家庭教師になって、このような腕白者に会ったときは、うまく断ればいいのですが、家庭教師の口を探しにいって、このような敵と出食わしたら、もうどうしようもなく、鼻をつまんで一年我慢することになるのです。

 狄員外の息子の狄希陳は、最初はよその塾で勉強をし、八歳から勉強を始めました。この年まで勉強をし、十二歳になっていました。彼は体が大きく、美しい学生で、あらゆることを、すべて知っていました。しかし「『詩』に云く」「子曰く」になりますと、糊のようになってしまうのでした。八歳から十二歳までの五年間、「趙銭孫李」から始まって、「則亦無有乎爾」まで読みました。しかし、読んだ本は、一句も暗唱することはできず、読んだ字は、一画も書くことができませんでした。一つには先生が良くなかったため、本を暗唱したか否かにかかわりなく、宿題を出し、一日の勉強を終えてしまったからでした。彼は三日間『温』の字を書き、勉強をおえました。一冊のお手本を作り、年長の学生に手本を作って与え、彼が勝手に書きなぐるのにまかせました、。だれも書き方を教える者はいませんでしたので、でたらめに、三四十枚を書き終えました。また、彼は書いた字を、一つも覚えていませんでした。対句を作る勉強で平仄をととのえたり、故事を講義したり、古文を読んだりするのは、言うまでもないことです。ところが、この一年十二月十五日に、さっさと学校をおしまいになってしまいましたので、子供は家に戻り、人に爆竹を作らせたり、鬼のお面や琉璃喇叭[24]を買い求めたり、ありとあらゆる悪さをしました。

 狄員外は、もともとあまり字を知りませんでしたので、礼状、招待状は、秀才の趙鶴松に代筆してもらっていました。正月に、薛教授の家の素姐に贈物を届け[25]なければならなかったため、衣服、果物、魚を買い、趙鶴松に帖子を書いてもらおうと思っていました。ところが、趙鶴松は揺会[26]に出掛けており、家にはいませんでした。狄員外が焦っていますと、狄希陳が鼻に回回鼻子[27]をのせ、一本の刀をもち、鹿のような尾をした茶色い犬を追い、叫びながら走ってきました。しかし、狄員外は相手にしませんでした。狄希陳の母親はそれを見ますと、言いました。

「陳児や、こっちへおいで。おまえは五年間勉強をしたのだから、一年に十の字しか覚えなかったとしても、五十は字を覚えたはずだ。体の大きな学生のくせに、回回鼻をかぶり、飛び跳ね、猿のように落ち着きがないね。この帖子はおまえが書くべきではないのかえ」

狄希陳は彼の母親に返事もせず、叫び声をあげ、飛び跳ねながら、さっさと行ってしまいました。趙鶴松は戻ってきますと、帖子を書き、日が西に傾くときに礼物を送りました。

 薛家では礼物を受け取りますと、枕頂、男女の靴を返礼として送りました。戻ってきて明かりの下に行きますと、狄員外の女房は、狄希陳を指差しながら、いいました。

「こんなに大きくなって、五六年も勉強したというのに、帖子を人に書いてもらうなんて、恥ずかしいと思わないのかえ」

すると、狄希陳は、両手を彼の母親にむかって振りました。彼の母親が顔色を変え、手を引っ張り、腕をねじりますと、彼は口をゆがめて泣きそうになりました。

母親「この子ったら。どうして泣いたりするんだい。ぶち殺してやるよ。おまえは勉強した本を持ってきて読んでみておくれ」

彼はそれでも動きませんでした。彼の母親は腕を二回ねじりました。

狄員外「はやく本をとってくるのだ。おまえの母さんが怒ったときのことは、おまえも知っているはずだ。母さんはわしまでぶとうとするからな。わしがおまえのしつけをしなかったといってぶたれたら、誰も母さんを抑えることはできないぞ」

 狄希陳は読んだばかりの『孟子』をとってきました。彼の母親はそれを開きますと、指差しながら彼に読ませました。彼はその書を指差しながら、

「天の字、上の字、明の字、星の路、滴の字、溜の字、転の字」

といいました。彼の母親は、首根っこめがけてびんたを食らわせました。

狄希陳「どうしてぶつの。字を知っていのに、僕をぶつなんて」

彼の母親「この子ったら。おまえの皮を剥いでやる。馬鹿な父さんをだますならまだしも、男勝りの私までだまそうとするとはね。聖人の書に、『空にはきらきらお星様』などと書いてあるものかえ」

狄員外「どういうことだ。わしは聞きとれなかったが」

母親「大したものですよ。あなたは良い先生を探し、立派に子供を教育してくれたものですね。あのろくでなしの泥棒め。絶対に人に生れ変わることができない馬鹿野郎め。人さまの息子の勉強をこんなに遅らせてしまうなんて。ああ、だめだ。あの先生にわたしの飯を食べさせることはできないよ。先生をよんでこの子を教育しない方がよかった。明日、この子の舅と相談をし、まともな秀才を呼べば、三度のお茶と六度の食事を出してもいいよ」

狄員外「自分の子供ができがよくないからといって、先生をひたすら憎むとはな。しかし、おまえが先生を信じないなら、ほかの人を呼んでも構わんぞ。いずれにしても以前洪水があったとき、神さまはこの子が成都府経歴になることができるといっていた。この子は放っておいても成都府の経歴になれるのだ」

母親「まったく下らないことをいわれますね。あなたに子供の教育をさせるわけにはいきませんよ。成都府の経歴は字を知らなければなりませんし、令状に書き込みをしなければいけないのですよ。この子はあなたの話を聞いたら、勉強をしなくなってしまいますよ。私は構いませんよ。いい先生を呼んでも、この子が熱心に勉強をしなかったら、私はあなたをただではおきませんからね。あなたが明日この子の舅のところへ行って話をしなかったら、私は自分でこの子の姑のところへ話をしにいきますからね。この子の舅はこの馬鹿息子のことを聞いたら、縁談を解消するかもしれませんよ」

狄希陳「いいよ、縁談を解消してもいいよ。僕はあの薛さんは必要ないんだ。家に住んでいる小菊姐の方が、綺麗だからね」

母親「ああ、ああ、よくいってくれるね。おまえの父さんは神さまの話しを信じ、おまえを騙し、だめにしてしまったんだよ」

ずっと大騒ぎをしました。

 翌日の朝まで眠りますと、狄員外の女房は、狄員外を起こし、髪梳きをし、薛教授に挨拶をしにいきました。そして、ほかに先生を呼ぶことについて相談しました。

薛教授「それはごもっともなことです。うちの薛如卞も、年が明ければ十一歳になりますが、まったく勉強をしません。小冬哥も年が明ければ九歳で、やはり勉強をしなければなりません。何でしたら、先生を呼び、婿どのと二人の息子に勉強を教えさせることにしましょう」

狄員外「何をおっしゃいます。あなたは水に流されてから、苦しい思いをなさっておられることでしょう。あなたが学問好きの人を探してくだされば、我々がその人を家に呼び、食事を出し、謝礼を厚くし、息子たちを教育させます。薛兄さんと婿どのを呼んで勉強をさせましょう。私がすべて面倒をみます。あなたは面倒なことをされる必要はありません」

薛教授「あなたと一緒になってもいいのですが、私には書房がありませんから、あなたにばかりご迷惑をかけることになります」

狄員外「書房など大したことはありません。私たちは、今度楊春の土地を買いましたし、私たちのところには材木、干し草がありますから、二三の家を建てるのは、簡単なことです。その時になったら、十一二歳になる妻の甥も入れて、四人の子供たちを一緒に勉強させることにしましょう」

薛教授「あなたと一緒に子供たちを見守ることにしましょう」

狄員外をひきとめ、朝食を食べさせることにしました。まもなく、朝食がでてきました。

 程楽宇という者がおり、名を程英才といいました。彼は、増広生員で、もともと水寨[28]の唐家で二年勉強を教えていました。年が暮れますと、水寨が家から遠いのが嫌でしたので、近くに家庭教師の口を探そうとしていました。狄員外は、薛教授と相談をし、彼を呼び、勉強を教えさせようとしました。

狄員外「程楽宇とはここ数年付き合っていますが、付き合いにくいなどと思ったことはありませんし、試験ではいつも上位になっています」

薛教授「付き合いやすい人柄で、試験の成績が悪くないのは、結構なことです。まず人を遣わし、謝礼について交渉し、話しが纏まったら、挨拶をしにいきましょう」

狄員外「おっしゃることはご尤もです。人を遣わして話しをさせましょう」

狄員外は犂作り[29]の沈木匠を遣わしました。彼は程楽宇の親戚で、彼に話をしにいくように頼みました。

「十一二、十三四歳の四人の学生ばかりです。食事付きで、謝礼は一年二十四両、驢馬三十頭分の薪で、さらに四季の贈り物つきです。いくらでも差し上げますよ」

沈木匠は一つ一つ話しをしました。程楽宇は少しも交渉をせず、気前良く承知しました。沈木匠は狄員外に報告をしました。

狄員外「先生を呼んだ以上は、書斎を建てなければいけない。沈把総を呼び、準備をしましょう。まだ十数日の時間がありますから、まず材木を用意してくだされば、我々が工事をしましょう。元宵節をすぎたら、学生を勉強にいかせましょう」

沈木匠は承知しました。薛教授と相談し、十二月二十二日を選び、狄員外の妻の弟の相朝、号は棟宇とともに、三人の眷生全帖、連名の招待状を準備し、一緒に程楽宇の家にいき、挨拶をし、招待状を渡しました。程楽宇もその日のうちに挨拶を返しました。

 狄員外は、沈木匠が梁、棟、戸、闥、門、窓を拭くのを見ていました。あっという間に正月三日の吉日になり、工事はおわりました。金のある家でしたので、二十日足らずで書房は完成しました。その年は立春が早く、気候も暖かく、壁はすっかり綺麗に塗られました。正月二十六日吉日を選び、程楽宇を呼びました。三人の主人が四人の学生を連れてきました。狄希陳は勉強は駄目でしたが、年からいえば最年長でした。二番目は相棟宇の息子の相于廷、三番目は薛如卞、四番目は薛如兼でした。贈物を送り、三四回拝礼をしました。三人の主人は酒を渡し、しばらく腰を掛けますと、別れを告げて家に帰りました。

 先生は、席に着きますと、彼らとともに勉強を始めました。狄希陳はふたたび『孟子』、相于廷は『小雅』、薛如卞は『国風』、薛如兼は『孝経』を読むことになりました。さらに、簡単に字形を正しましたが、狄希陳だけは、一つの字も知らず、口ずから教えても、字を見ずに、両手を袖の中で回していました。一二十遍教えましたが、材木に向かって勉強を教えているようなものでした。先生が教えますと、彼は口で唱えました。先生が口を噤みますと、彼も声を出しませんでした。先生はどうしようもなく、四五行の本を二つにわけて彼に教えることにしました。二三十遍教えましたが、牛に向かって琴を弾いているようなものでした。後にはさらに四つに分け、さらに一句一句彼に教えましたが、少しも記憶しませんでした。先生は口で彼に勉強を教えましたが、彼は

「先生、先生、二羽の雀が喧嘩していますよ」

というのでした。先生は

「ああ。勉強をしているときに、雀などを見るとは」

と言いました。

さらに暫くしますと、

「先生、先生、二羽の雀がいってしまいましたよ」

というのでした。

先生「本を教えてやっているのに、勝手なことを言いおって」

間もなくすると、さらに言いました。

「先生、先生、僕は楽隊を見にいきたいのですが」

先生「勉強を教えてやっているのに、このように勝手なことをいうとは」

百遍教えますと、ようやく覚えました。二句目を教えるときは、さらに百数遍読みました。二句目が理解できたところで、前の一句を繋げて読ませますと、前の句はすっかり忘れてしまっていました。彼に前の句を教えますと、二句目は忘れているのでした。

先生「わしは疲れた。持っていって黙読してくれ。少し休んでから教えてやろう」

 さて、昼食をとりますと、狄希陳は、家に戻り、狄員外に言いました。

「先生は僕に恨みがあるんだ。ほかの子には一二回教えると、彼ら自身に読ませるのに、僕だけはテーブルの脇に立たせるから、ふくらはぎが痛くなってしまったよ。それに、人が話をしないうちに怒るんだ。僕はまた汪先生について勉強したいよ」

狄員外「声を小さくするのだ。母さんに聞かれたら、二十回捩じられても、許してもらえないぞ」

相于廷「四五行の書を、先生は三十遍教えてくださるのですが、希陳さんは一句も読むことはできません。さらに二つに分けて教えても、読むことはできないのです。四段に分けても、雀ばかり見ているのです。さらに入り口に楽隊を見にいこうとしたので、先生は怒鳴りつけたのです」

狄員外「おまえたち三人は、先生に何回教えてもらえば覚えることができるのだ」

相于廷「私と薛如卞は本を教えてもらってはおらず、字形を正してもらっただけです。薛如兼は三回教えられれば、自分で唱えることができます」

 狄員外「あの先生は汪先生と違い、ずっと厳しいのだ。汪先生の手に唾を吐いたと思えばいい。先生はもちろんおまえをぶつだろうし、牙のない虎のようなおまえのお母さんだっておまえをひどい目にあわせるだろう」

狄希陳「ぶってください。井戸と川には蓋があるわけではないし、台所には刀がないわけではないでしょう。縄だってあるでしょう。生まれ変わったほうがさっぱりします」

狄員外は長嘆息しました。彼の女房は台所で人に命じて先生に食事を運ばせますと、狄希陳と相于廷にご飯を食べにこさせました。二人は勉強部屋にいきました。先生は首をのばして長いこと勉強を教えましたが、一句も覚えさせることはできませんでした。遅くなってから、勉強をおえました。先生は班ごとに、対句の問題を出し、対句を作り終わったら、揖をさせて帰らせようと考えました。先生は尋ねました。

「おまえは今まで何文字の対句を作ることができたのだ」

相于廷と薛如卞「四つの字の対句を作りました」

薛如兼は何も言いませんでした。

狄希陳「汪先生は対句の問題を出されたことはありませんでした」

先生は相于廷と薛如卞に四文字の課題「穿花蛺蝶」を与えますと、相于廷は「激水蛟龍」の対句を作り、薛如卞は「点水蜻蜓」の対句を作りました。先生は喜び、言いました。

「とてもよい対句だ」

さらに二字の「薄霧」という課題を出しますと、薛如兼は「軽風(そよかぜ)」という対句を作りました。狄希陳はしばらく考えてから「稠粥(こいかゆ)」という対を作りました。先生は彼の対語を「長虹」と改め、揖をしますと、別れて帰りました。

 狄希陳は家に着きますと、あれやこれやと、先生への恨み言をいい、先生を辞めさせようとしました。翌朝は、起きようとせず、掛け蒲団を頭に被り、病気だと嘘をつき、叫んでいました。狄員外は大慌てしました。彼の母親は彼の体を触りましたが、ひんやりとして、まったく熱はなかったので、罵りました。

「ろくでなしの悪者め。早く起きて学校にお行き。私は掛け蒲団を捲り、おまえの尻を靴でぶってやるよ」

 狄希陳はぷんぷんしながら、すぐに袷のズボンを穿き、靴下を結びました。服を着けおえますと、書房に行くと言いました。彼は母親が本当に掛け蒲団をはいでぶつことを恐れていましたので、服を着ました。ところが、服を着ますと、今まで通り掛け蒲団をかぶって眠り、腹、こめかみ、腰がすべて痛みだしたと言いました。すると、彼の母親はふたたびやってきて、掛け蒲団を捲り、彼の靴を手にとり、綿の袷を捲り、背中を靴で二回ぶち、叫びました。

狄員外「この子をぶってどうするのだ。本当に体が痛いのかも知れないのだぞ」

彼の女房は靴をもちますと、狄員外の肩をしこたまぶって、罵りました。

「この糞じじい。おまえと闘ってやる。これが勉強を初めて数日のことなら、私も我慢できるが。昨日勉強を始めたのに、今日は病気の振りをしているんだよ、二人の義弟も一緒にいるし、妹の夫もいるんだ。彼らがおまえの舅に噂を伝えたら、舅、姑が腹を立てるじゃないか」

狄員外は、道袍を着せ、狄周に命じて書房に送らせました。他の子たちは、本を暗唱させ、宿題を出し、字を正せばよく、とても楽なものでした。しかし、「成都府経歴官」は別でした。それからというもの、外では先生が、家では父、母がさんざん勉強を教え、勉強ができなければ、遊ぶことができないようにしました。これは悲しむべきことであって怒るべきことではありませんでしたが、彼はさらにありとあらゆる悪戯をしでかしました。

 ある夏の日、先生は昼間まどろんでおりました、先生がぐっすり眠りますと、彼は爪をそめる鳳仙花を一つ砕き、白い明礬を加えました。そして、砕かれた鳳仙花が冷たいために、先生がびっくりして目を覚ます恐れがありましたので、日に晒して暖めてから、そっと先生の鼻に置き、さらにゆっくりと押さえました。先生が眠っている間に、花はすっかり乾燥し、鼻じゅうに染み込みました。先生はまったく気が付きませんでしたが、鼻は真っ赤に染まりました。先生は鏡に映してみてみますと、鼻がすっかり酔っ払いのようになっていましたので、愉快ではありませんでした。しかし、彼がいたずらをしたのだとは気が付きませんでした。

 便所の穴の脇に杭がありました。先生は毎日その杭に掴まり、便所の穴の脇で尻を捲り、用を足していました。彼はそれを見ますと、ある日、朝起きて書房に歩いていき、刀で杭の根元の周囲を細かく切り、小指程の太さにし、土で隠しました。先生は朝食をとると、今まで通り用を足しにいきました。そして、何も知らずに木杭に掴まり、頭から仰向けに転び、便所に仰向けになり、自分では立ち上がることができませんでした。学生には引っ張る力はありませんでしたので、狄家へ行って二人の小作人を呼び、汚いのにも構わず、引っぱりだしました。そして、服をすべて脱がせ、狄員外の衣巾、履物を借りました。家に行き、糞が染み込んだ衣服を川で三日洗いましたが、臭気は洗い流すことはできませんでした。杭をみますと、誰かによって細く削られており、追究してみますと、ほかでもない狄希陳が犯人でしたので、狄員外に告げました。狄員外は何度も先生に謝り、貸した服を先生に与えました。

 ある日、友人が程楽宇と話をしにきました、程楽宇は彼と出ていきました。狄希陳は先生がいってしまったのを見ますと、中庭の槐の木に登って遊びました。ところが、急に先生が戻ってきました。先生は熱くて全身から汗を流しており、衣服をぬぎますと、学生に椅子を運んでこさせ、木の下に置かせ、涼みました。彼は先生が木の下にいましたので、降りるわけにもいきませんでした。そして、尿が出そうになりますと、木の上で小便をしました。先生は頭を延ばし、居眠りをしていましたが、口に小便が注がれましたので、目を覚ましました。そして、子供を木からおろしますと、十回ほど板子でぶちました。

 ある日、夜の勉強を終え、谷川のほとりで水浴びをしていますと、遠くに程楽宇がやってくるのが見えましたので、彼は川底の泥を全身に塗りました。程楽宇はそれを見ますと、びっくりしましたが、よく見てみますと人間で、さらによく見てみますと狄希陳でしたので、尋ねました。

「水浴びをするならともかく、どうして全身に泥をぬっているのだ」

彼はいいました。

「僕が顔に泥を塗らなければ、水から鼈がでてきて、僕の顔を覚えてしまうでしょう」

程楽宇はちょうど薛教授が門の前に立っていましたので、この事を告げましたが、腹立たしくもあり、おかしくもありました。

 ある日、先生は腰掛けて本を読んでいました。彼は眠るわけにもいかず、用を足す振りをし、出恭牌をとり、便所に入り、便所に内側から閂を掛け、入り口に自分の夏布の裙をしき、入り口の礎石に頭を乗せ、「夢に周公を見る」を決め込みました。先生は腹が少し痛くなり、用を足したくなりましたので、落とし紙を持って便所に行き、入り口を押しました。ところが、入り口には中から閂がかかっておりました。先生は学生が用を足しているのだと思い、戻ってきました。しかし、腹がだんだんと痛くなりましたので、ふたたび便所にいきました。ところが、やはり扉が開きませんでしたので、仕方なくまた戻ってきました。だいぶ待ちましたが、便所は相変わらず開きませんでした。誰が中にいるか調べてみますと、狄希陳だけがいませんでした。先生の腹はますます痛くなり、うんこは尻の穴からとびだしそうになりました。人を遣わして便所の入り口を推させましたが、狄希陳も腹痛の振りをし、閂を抜こうとしませんでした。彼は肩で入り口を押さえましたので、樊噲[30]でさえも中に入ることはできなかったでしょう。

「先生が中で用を足されるから、入り口を開けてくれ」

彼「僕をだまして入り口を開けさせて、先生に僕をぶたせるんだろう」

程楽宇「早く入り口を開けてくれ、おまえをぶったりしないから」

彼「本当に僕をぶたないのですか。先生、誓いを立てたら、僕は入り口を開けましょう」

先生は誓いを立てようとしませんでしたので、彼は入り口を開けようとしませんでした、間髪をいれず、先生のズボンの中でぱんと音がし、大便がズボンの中にぶち撒かれました。先生は焦って地団太を踏み、自分を呪っていいました。

「こんな教師をするくらいなら、女房を寝取られた方がましだ」

相于廷は家に帰って狄希陳の母親に話をし、狄員外の夏用の清潔なズボンを持ってきました。さらに狄周に命じて先生に着替えの手伝いをさせました。薛如卞は詩を唱えました。

孔子の弟子は三千人

希陳に勝るものはなし。

鼻を染め、小便を掛け、杭を抜き

師匠を馬鹿にしてばかり

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

中国文学

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[1]原文「一隅徒挙枉艱辛」。「一つのすみをいたずらに示すばかりで苦労する」の意。生徒の出来が悪くて苦労するの意。「一つのすみを示す(挙一隅)」は『論語』述而「挙一隅而示之、不以三隅反(一つのことを示すと、三つのことを答える)」にちなむ言葉。

[2]原文「弟怨道非尊」。「道非尊」は『礼記』学記「師厳然後道尊(先生が厳しくして人を教える道が尊ばれる)」をふまえた言葉。

[3] 『論語』述而「飯蔬食飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣」。

[4] 『論語』雍也「一箪食、一瓢飲…不改其楽」。

[5] 『詩経』陳風衡門「泌之洋洋、可以楽飢」。

[6]原文「并口而食、易衣而出、其仕進必不可苟」。「易衣而出、并口而食」は『礼記』儒行にみえる言葉。

[7]孔子の弟子子路。

[8]原文「学必先于治生」。宋王柏『魯齋語録』「学者以治生為急」に基づくものか。

[9]官を辞めて郷里で生徒を教えている人。

[10]朱砂を塗った板。

[11]「断間」は間仕切り、版槅は格子かと思われるが、ともに未詳。

[12]車輪付きの木組み。罪人を乗せて曝したり処刑したりする。

[13]類省試、省試ともいう。唐宋の時代、尚書省、礼部省によって行われた試験。明清時代の会試にあたり、ここでは会試の雅称として使われている。

[14]唐、宋の文学者韓愈、柳宗元、欧陽修、蘇軾。

[15]北宋の書家蘇軾、黄庭堅、米芾、蔡君謨。

[16]明代の伝奇『東郭記』の登場人物。辱めを受けながらも乞食をする。

[17]北宋の人。奸臣韓侘冑に諂ったことで有名。『宋史』巻二百四十七に伝がある。

[18]春秋時代衛の人。『論語』雍也で、孔子にその弁舌をたたえられた人として有名。

[19]唐の人。唾をかけられても拭いてはならぬ、乾くまで待てといった人として有名。『旧唐書』巻九十二、『新唐書』巻百八に伝がある。

[20]祁羽狄に同じ。明代の文言小説『天縁奇遇』の主人公。様々な女性と遍歴を繰り広げる。

[21]護法天童のことと思われる。護法善神の使者で童子の姿をしている。

[22]原文「孫行者陥在火焔山、大家倶着」。「孫悟空が火焔山に落ちれば、ほかの者にもすべて火がつく」ということで、「力のあるものがやられれば、関係者は全滅」の意。

[23]前漢の武帝が立てた高殿で、宣帝の代になり、功臣の肖像が描かれた。

[24] ビードロ。ぽっぺん。一端がラッパ状になっており、吹いて音をたてる。

[25]原文「追節」。結婚の後、男方が節句に女方へ贈り物をすること。

[26]頼母子講。民間の互助機関。組合員に毎年或いは毎季醵金をしてもらい、サイコロによって遣う人を決める。

[27]原文「天上明星滴溜転」。

[28]水寨鎮。山東省章丘県の西北。

[29]原文「投犂的」。「投犂」は犂に木の部分を取り付けること。

[30]漢の高祖の部将。鴻門の会の時、高祖を守るため、宴会場に突入したことで有名。

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