第三十一回

県知事が家を回り金銭を集めること

守銭奴が家を閉ざし財産を貯えること

 

 衆生は、様々な悪行を犯しますが、天帝は、仁の心をもち、その愛には限りがありません。しかし、衆生が理に反しますと、天帝は、懲罰を与え、彼らを戒めます。災害で警告しても、衆生が気がつかなければ、異変を起こします。人民が頑迷であり続けますと、天は急に下界を見下ろすのです。五穀の神を引き上げさせ、玄夷[1]に命じて水を溢れさせ、罪が三辰[2]、景曜[3]に迫りますと、赤魃[4]を遣わし、激しい日照りをもたらし、水郷も火の国にしてしまいます。白雲湖は、万頃の広さがありましたが、湖底は裂け、亀の甲のような模様ができました。会仙山では、たくさんの川が流れを止め、谷川には蝸牛がいなくなりました。蝗は天を覆い、風に乗り、地にぶつかりました。平野には、植物がすっかりなくなり、山には、植物がすっかりなくなりました。金持ちたちが、蓄えてあった穀物を施してしまいますと、貧しい者たちは、わずかな食糧を得る望みもなくなってしまいました。愛しあっていた夫妻、睦み合っていた父子は、離れ離れになり、生きた者同士が食べ合い、肉親同士が殺しあうようになりました。顧大嫂はぴったりとくっつき、武都頭[5]を食べようとし、みんなが同じようなことをしました。牛魔王が猪元帥を煮ようとし、いずこも同じありさまとなりました。天子さまがおわしても意味はなく、ただただ目を見張るしかありませんでした。郷紳は必ずいましたが、彼らは門を堅く閉ざしてしまいました。天は悪人を捕らえ、餓死者を救わせないのです。

 さて、繍江県の明水地方は、辛亥七年十日には、畑じゅうに穀物が実り、至る所に稲が実っていましたが、にわかに雨が降り、少しの草も残りませんでした。もしも普通の自然災害なら、大きな家では普段から食糧を蓄えているものです。しかし、急に水が流れ込んできたため、家ごと流されてしまい、食糧は何も残りませんでした。人も溺れて死んでしまい、家などはいうまでもありませんでした。人がいなくなり、畑には泥がかぶさりました。こんな時、麦を植えれば、良い収穫があるはずです。ところがこの水害の後は、少しの雨も降らず、壬子まで、丸々一年日照りがつづきました。癸酉、甲寅、丙辰、丁巳と、毎年凶作でした。まず、粟一石が一両二銭で売られ、貧しい人々は慌てて泣き叫びました。後に二両に値上がりしてもおさまらず、一石三両になりました。三両でもおさまらず、四両になりました。数日足らずで、五両に値上がりしました。後にさらに六両、七両にまで値上がりしました。大豆、黒豆、とうもろこしは、六両以上でした。麦、緑豆は、七八両の間でした。最初はまだ買うことができる場所がありましたが、だんだんと銀があっても売るところがなくなりました。米糠は一斗が二銭まで値上がりしました。木の皮、草の根は削られたり掘られたりして少しも残りませんでした。あいにくこの年の冬はとても寒く、城外はもちろん、城内でも、毎朝四つの城門から死人が出されました。それぞれの門からでる死人は少なくとも七八十人を下りませんでした、本当に十の家のうち九の家の人が死んでしまいました。残った数人の遺族は、着る衣装もなければ、食べる物がもなく、まるで餓鬼のようでした。老婆や、男、若い女も、面倒をみることができませんでした。小さい息子や娘は、棄てられ、道中に溢れていました。初めは死骸を切って食べるだけでしたが、後に強いものが弱いものを苛め、たくさんの人々が独り者を苛め、生きている人を殺して食べました。最初はたがいに姓の異なる者を食べていましたが、後に肉親、父子兄弟、夫婦親戚を、すきがあれば殺して食べるようになりました。彼らは「よその奴らに食われるよりは、自分の身内を救ったほうがいいだろう」といいました。食べられる人も人に殺されるのを望み、「殺さなくても、いずれ餓死するのだから、早く死ぬ方がいい、生きて辛い思いをしなくてすむし、人を救うことができる」といいました。これが習慣となり、法律も執行されることはありませんでした。

 都御史が巡察をし、察院に泊まりますと、察院の女房は二人を殺し、肉をすっかりそぎとってしまいました。

 張秀才には一人の息子しかいませんでした、十七八歳で、銀子をもち、驢馬をおい、布袋をもち、数人の隣人とともに、三十里離れたところに米を買いに行きました。市場にいき、戻ってきますと、家から十里以上はなれたところで、驢馬は疲れ、地面に横になり、いくらぶっても立ち上がりませんでした。そこで知り合いの家を訪ねて休み、一緒にきた隣人に彼の父母への手紙を届けるように頼みました。そこには驢馬が疲れたので、ある人の家に泊まります、明日の朝になったら戻りますと書いてありました。ところが、翌日、朝になり、昼近くなっても、現れませんでした。父母はまずいと思い、昨日一緒に行った人々を集め、さらに地方、郷約も一緒にその家に行かせました。驢馬の皮はまだそこにありました。そして、息子と驢馬の肉が同じ鍋で煮られておりました。半分は売られてしまっていましたが、半分はほかほかと鍋の中で煮えておりました。県庁に連れて行き、十字路に引き出し、彼の手下の息子とともに、板子で打ち殺しましたが、張秀才の息子を生き返らせることはできませんでした。さらにおかしな事に、十数回板子でぶたれますと、無数の飢えた人民がやってきて、彼の両足の肉をぶってめちゃめちゃにしては、飢えた人民が食べることができなくなってしまうからやめてくれと叫びました。

 四十数歳の女が県庁に入ってきて、告訴状を提出すると出ていきました。そして、県庁の前にある牌坊のところへいきましたが、人に押されて、転び、立ち上がることができなくなりました。すると、すぐにたくさんの人が回りを取り囲み、ある者は脚を切り、ある者は腕を切りました。地方、総甲は棍棒で滅多打ちにし、見回りが麻の縄で縛りました。しかし、たくさんの人々をすべてぶったり、縛ったりすることはできませんでした。動けない者を、一人捕縛しますと、すぐに引っ張りだし、打ち殺して晒し、飢えた人々の腹を満たしました。

 呉学周という先生が、十数人の学生を教えていました。学生たちはたったの十一二歳でしたが、半月の間に三人がいなくなりました。家では人にだまされて食べられてしまったと思いました。一人の粉屋の息子がおりました。年は十歳になったばかりで、白く太った子供でした。朝飯を食べますと、父親は、息子が道で人に連れられていってしまうのを恐れ、いつも学校の入り口に送ってから、家に戻っていました。しかし、学校が終わりますと、一緒に帰る学生がいましたので、彼を迎えにきませんでした。その日、息子を学校に送りますと、一人の知り合いに会いましたので、学校の入り口で、しばらく話をしてから、帰りました。ところが、昼になっても息子が食事をとりに戻ってきませんでした。学校にいって彼を訪ねました。

先生「あの子は朝食の後に姿が見えなくなりました」

ほかの学生に尋ねますと、みんなはいいました。

「一緒に家に帰りましたが、学校にもどるのは見ませんでした」

彼の父親はいいました。

「ご飯を食べにもどるとき、あの子を他の学生と一緒にいかせるべきだったのだ。ご飯を食べると、わしはいつも自分であの子を学校へ送り、あの子が学校の門に入るのを見届けてから、家に戻っていた。今日、あの子が中に入ったあと、わしは知り合いが書房の入り口に立っているのを見たので、立ち止まってしばらく話をし、家に戻った。どうして来なかったなどというのだ」

父親は焦って書房で叫び飛び跳ねました。

呉学周「あなたの息子さんは言葉を話すことができないわけではないのですから、私が息子さんを隠せるはずがないでしょう。ほかの学生に、朝飯を食べた後学校にきたかどうかを尋ねるべきです。外に探しにいかずに、ここでわめかれるなんて」

男「私は自分であの子を書房に送ったのだから、外に探しにいく必要はない」

叫んでいますと、息子が先生の家から頭を出して様子を見、中に頭を引っ込めました。

男「どうですか。私が言ったとおりです。あなたは息子を隠していたのです。人をびっくりさせて」

呉学周「何をでたらめをおっしゃいます。私が隠してあなたをびっくりさせたとはどういうことですか」

男「私は彼がこちらを伺って中に引っ込んだのを見たのです」

呉学周はなおも必死にごまかしました。

男「あなたには年取った奥さんが一人いるだけです。若くて綺麗な妻、妾などがいるわけでもないのですから、私が強奸をしたなどということもできないでしょう」

そう言いながら、奥に乗り込んでいきました。

 呉学周は慌てて、一生懸命彼を引っ張り、はなしませんでした。その男は家に入ると叫びましたが、息子の返事はありませんでした。そこで、いいました。

「これはおかしい。あの子がこちらを見て、首を引っ込めるのを見たのに、どうして姿が見えないのだろう」

あちこちを見ました。

呉学周「人の家には表と奥があります、あなたの息子さんがいなかったらどうする積もりですか」

すると、呉学周の女房が頭を掻きあげ、かもじをいい加減につけ、ズボンを穿きながら、入り口の後ろでぶるぶる震えていました。竈の前の鍋ではほかほかと何かが煮えており、鼻をつく生臭い匂いがしました。男が鍋の釜を開けてみますと、鍋一杯に人肉が詰まっていました。呉学周は強弁しました。

「さっき犬を一匹買い、鍋で煮たのです、人間ではありません」

男「どこの家の犬に人の手足がついているというんだ」

さらに、いいました。

「人の頭もある」

ほかの学生もわめき声を聞いて集まってきました。

 男は、息子の衣装、履物、三四件の衣装を、すべて捜し出しました。地方をよび、二人の男女の妖怪を縛りますと、すっかり煮えた人の頭をもち、一緒に県に行き、審問を受けました。実は、呉学周は長いこと勉強を教えていませんでした。凶作になってからというもの、彼はいいました。

「このような凶作の年は、人々は書を読む力がなくなっている。人の家の子弟の勉強が遅れるのは惜しいことだ。わしは謝礼のあるなしにかかわらず、読書の好きな者でありさえすれば、弟子にとることにしよう。英才に育て上げ、自分で書物の趣旨を復習することができるようにしよう」

金が掛からないのを好む人は、息子をすべて彼のもとに送りました。しかし、書房に入った学生は、疥癬もちだったり、痩せていたりすれば、命を長らえることができましたが。肉付きのよい子供であれば、くるとすぐに、だまして奥に入れ、二人で縄をの首に掛け、きつく縛って、絞め殺し、衣装をはぎとり、煮て食べたのでした。食べ終わりますと、さらにもう一人、子供を連れてきて、次々に四人を食べてしまいました。

 県知事は、しっかりと自供をとりますと、市場の入り口に連れていき、二人を四十回板子打ちにせよ、ただし打ち殺さないように、と命じ、城外の堀端に引っ張っていき、棄てました。飢えた人民たちは、大勢でついていき、二人が生きている間に、すっかり切ってしまいました。このようなことは、変わった話しということができましょう。

 悪者たちは、凶作になる前に、悪いことばかりしていました。そして、凶作になっても、罪を後悔しなかったばかりでなく、天に逆らい始めました。天が悪人たちを、ことごとくまとめ、劫火に遭わせて灰にし、十二万年たってから、新たに天地を開き、善人を生まれさせるのも、不可能なことではありません。ところが、天地は、父母のようなもので、ろくでもない息子が一生真人間になれないことが分かっていても、彼が善人になり、過ちを改めることを望みつづけ、さらに良い先生が彼を教育することを望むのです。ですから、二人の慈悲菩薩を凡人に生まれ変わらせ、救いにこさせました。一人は守道副使[6]李粋然といい、河南懐慶府河内県の人で、丙辰の進士でした。もう一人は巡按御史で、楊無山といい、湖広常徳府武陵県の人で、辛未の進士でした。この二人の菩薩は、身を清らかにして人民を愛し、家族を忘れて国のために尽くすという長所を持っており、ひたすら飢饉を救う善政をおこなうことを考えていました。

 李粋然はまず管轄している土地で、贖罪のための銀子を集め、役所内の幾つかの酒器、余分な二本の銀帯を、すべて溶かして貧民を救いました。しかし貧民は大きな海のようなものです。手のひら一杯分の砂を中に撒いても、陸地はできないのです。彼は四つの関廂[7]に四つの授乳局を建て、それぞれの局で十数人の女を養いました。道路に棄てられた子供があれば、拾って局内の女性に渡し、養わせました。毎月彼らに食糧二斗を与え、月毎に支給しました。八月から、翌年の五月の麦が熟れる頃まで続けました。一か所だけでなく、彼の十三の州県は、どこもみな同じようにしました。しかし量は一定ではありませんでした。それでも千数人の子供が救われました。

 按院は八月一日に着き、様子を見ますと、言いました。

「秋の収穫のときでもこの有様だ。冬、春には、飢えた人民たちを救わなければ、きっと半分も生き残れないだろう」

そして、罰紙をすっかり集め、自分の給料をなげうち、それに含め、おもての役所の下役の数を大幅に削減し、恩徳を施し、彼らが銀五十両を納めれば、復職するのを許しました。全部で二十名が、一千両を出しました。その結果、合計三千五百両の銀子が集まりました。中軍、下役を手分けして豊作だった所に行かせ、五百石の米を買いました。

 楊代巡は九月二十日から、あらかじめ郷約、地方に貧民の姓名を報せ、帳簿に載せるように命じました。そして、城内城外を八つの区域に分け、毎日一つの区域にいき、一人一人検分し、粥を食べるための切符を与え、十月一日から、翌年二月まで続けました。さらに、二百数名の貧乏な学生が、貧民の列に加わって粥を食べていましたが、

按院「士人と人民は分けなければならん」

学校に粥廠を造り、貧乏な生員に粥を食べさせました。粥廠は男女別々にし、きちんと片付けました。しかし、薛崇礼というならず者がおりました。彼は、家で雑穀店を開き、官塩を売り、普通の人より財産をもっていたのに、女房とともに出てきて、粥の切符を受け取り、郷約に検挙され、県庁に送られ、審問を受け、有力杖刑[8]の判決を受け、上申書を提出され、按院に送られました。楊按院は、彼の罪を許し、三石の粟を罰として課し、飢えた人々の救済に充てることにしました。一日一回の粥は、腹一杯食べるには、十分ではありませんでした。しかし、一日一回、粥を腹に収めますと、死なないですみました。さらに寺、廟に暖かい部屋を準備し、晩に、家のない貧民を泊めました。彼の救済によって、十分のうち二分が生き残ることができました。按院は原籍が湖広でした。そこは気候が穏やかでしたので、正月になり二月をすぎますと、麦も熟し、畑には野菜が満ち、生活をすることができました。彼は北方の山東も湖広と同じだと考えましたので、三月一日に粥を煮るのをやめ、自分も二月六日に巡察をしにいってしまいました。

 繍江県知事は考えました。

「北方の三月はちょうど端境期に当たる。この五か月粥の炊き出しをしたが、急にやめてしまったら、野外には青い草も、若葉もないから、按院さまの功徳も台無しになってしまう。しかし、倉庫にはずっと米がないし、租税は一文も取り立てることが出来ない。ただ、守道[9]が捨て子の救済をしたときの銀子が十四両余っているし、塩院が貧乏な生員を救ったときに余った十三両の銀子、刑庁が援助した二十両の銀子がある。それに自分が二十両の銀を出せば、全部で六十七両になる」

そして、考えました。

「五か月間粥を煮たのは、按院自らが出したもので、郷紳たちには頼っていない。今、さらに百石の米があれば、三か月を過ごすことができる。三か月が過ぎたら、野菜やウマゴヤシが生え、木の上には楊の葉、楡の実ができるので、生活することができる。この一か月は郷紳に救済を頼むことにしよう。それに、城内の郷紳や金持ちは、毎年収穫がないが、水に流されたわけではないから、たくさんの財産を持っているだろう」

白い連四紙[10]、赤い簽、青い絹で勧進帳を作り、簽には楷書で「万民」と書きました。そして、自分で一編の序文を作りました。

塔を造るときは先端を作るのが一番大事であり、溺れる者を救うときは岸に上がることが大事である。民衆が罪深いため、天が大きな災害を下しているのは嘆かわしいことである。思うに繍江の地は、何度も飢饉にあってきた。按台さまは天の災いがすでに広がっているとはいえ、人の力で救うことができると考えた。そこで、あれこれ救済を行い、さんざん苦労して救済を行ってきた。公金は少しも使っていないし、私人の家の食糧を集めてもいない。最初に人口を計算して食糧を授け、あとで一人一人に粥を支給した。もともとは冬の三か月から、春の正月いっぱいで終わりにする積もりであった。しかし、今は端境期で、新米と古米が交替していない時なので、一生懸命、わずかな穀物を集め、何とか一か月持ち堪えることにした。春はだいぶ深まったとはいえ、麦秋まではまだ時間がある。木の葉をあつものにしようにも、まだ青くなった葉はない。草の茎で食事を作ろうにも、緑の茎はない。凶作の春をすごすことができなければ、長い夏を迎えることはできない。しかし、按台の力は、すっかり尽きてしまっている。県の貯えでは、釜が掛けられている有様を救うことはできない[11]。そこで、按台と相談し、悩みあった揚げ句、郷紳、孝廉、秀才、金持ちの商人、義士、善人に助けを求めることにした。米、豆、とうもろこし、粟の類いを持っているものは差し出すように。わずかな食糧があれば、応分の救済を行うように。多ければ大きな徳行をしたといえるし、少なくても小さな徳行を施したといえるのである。三十日を期限とし、百石を限度とする。こうすれば、救済が貫徹され、人々は生命を保つことができる。伏して郷紳先生、孝廉、秀才、金持ちの商人、義士、善人にお願い申し上げる。仁徳のある人は零細な人民が生きることを望むものである。それに、村里の人民が死ぬのを黙って見ているには忍びない。地方では毎年災害があり、貯蓄は幾らもない。お盆に入れた米を差し出すだけでも、広く恩徳を施すというものである。お碗に入った濃い粥を分ければ、寿命は長くなり、仁徳を積めば、多大の幸福が施主の家にもたらされることであろう。鉢を持ち哀れみを乞うものに、功徳を施すのは人夫の仕事よりも楽なものである。この言葉に間違いはない。范丞相が子孫のために立てた計画を御覧頂きたい[12]。この言葉は嘘ではない。どうか宋尚書[13]の子孫に尋ねて頂きたい。

 県知事は、典史に勧進帳をもたせました。さらに、肩書きを書いた帖子をもたせますと、典史は、すべての郷紳、挙人の家に行きました。学校の金持ちの生員は、教官に援助を募ってもらいました。人民、金持ちは、典史の言うことを聞きました。

 当時、城内には、郷紳が十八人おり、状元は十一人でした。典史は、勧進帳をもち、道すがら、まず郷紳の家の前に行きました。数軒の家を訪ねましたが、彼らはいないと返事をし、門を閉じ、典史を中に入れませんでした。分かったという返事だけする者もいました。典史と会った者は、みんなで相談すると言いました。半日歩き、数軒の家に行きましたが、筆をとって一両、五銭と書く者はいませんでした。さらに、姚郷紳の家に行きました。彼は名を万涵といい、己未科の進士で、元湖広按察使でした。彼は、典史を招きいれ、茶を出しますと、言いました。

「凶作を救うのは、知事さまの善政ですが、すべての郷紳たちの賛同がなければいけません。知事さまは、民間の穀物には手を触れずに、一か月米を支給し、五か月粥を煮られました。一か月の救済は、地方の人に行えとおっしゃるのでしたら、断わりは致しません。しかし、最初にこのようなことをするのは難しいことです。それに、今、私が書いても、自分で力を推し量ってみるに、多くは出せないでしょう」

二十数両と書き、勧進帳を彼のもとに置き、大勢の郷紳たちとよく相談して、この善行を完璧なものにしようと言いました。

 典史が別れを告げて戻っていきますと、姚郷紳は家ごとに募金を集めてまわりました。天を突くような大金持ち、代々の有力者が、十万余の食糧を蓄えていることは、みんなが知っていました。彼らは最初は一粒も出そうとしませんでしたが、姚郷紳が何度も宥めますと、二石と書きました。そのときは、穀物は安くはなく、二石の穀物は銀十両の値打ちがありました。また、元戸部郎中の曹郷紳、張太守、劉主事、万主事が、それぞれ幾らか出しました。そのほかの十数人は、姚郷紳が募金をしたときはもちろん、たとえ姚神仙が募金をしても彼らから毛を一本も抜くことはできなかったでしょう。姚郷紳は策が尽き、帳簿を典史に返しました。典史は帳簿を持って、挙人の家に行きました。しかし、郷紳が先ほど述べたような有様でしたから、挙人には何の望みもありませんでした。中には聞くに耐えないことをいう者が数人おりました。

「この凶作は、天が愚かな奴らに罰を下したものだ。だれがあんたに救済をするように強制したんだ。あんたに力があるなら、もっと救済を行えばいいし、力が及ばないのなら、やめればいいのだ。何も無理にわれわれのものを求めて、彼らに恩を施す必要はない。我々は挙人だが、知府、知県は、我々を助けてくれないのならまだしも、我々に救済を行えというとは、まったくおかしなことだ」

典史は、そう言われると恥じ入りました。呂春元は、名を呂崇烈といい、二、六のつく日に楊按台とともに洪善書院で講義をしていました。彼は面子を立て、二両と書きましたが、これは十一人の挙人の中では珍しいものでした。

 典史は、さらに、帳簿を教官に送りました。そして、彼に金持ちの士人から募金をするように頼みました。数日後、山西霍州出身の、郭如磐という教官が五両出しました。尚義、施大才という二人の生員は、いずれも金持ちの坊っちゃんでしたが、それぞれ三銭出し、学校の希望を満たしました。人民や金持ちは、錐で彼の背中の筋肉をえぐりでもしなければ、金を出さなかったでしょう。しかし、人から布施をもらうときに、錐で人の肉を抉るわけにもいきませんでした。ですから、人民たちはまたすっからかんになってしまいました。

 三月になりますと、粥を煮ることができなくなりました。仕方なく、按院、守道の銀子百五十両を集め、三千封にして、貧民に分け与えました。前の五か月は、楊按台の救済のおかげで、生き延びることができました。しかし、今では救済が行われなくなってしまい、ほかのところに食べるものがあるわけでもありませんでした。ここまで生き延びた人々は、かわいそうなことに、さらにたくさん死んでしまいました。さいわい楊按台が、四十日の巡察から、三月十四日に戻りますと、撫院から二百石の穀物を買い、三月十七日に新たに粥を煮、さらに一か月救済を行いました。

 そのとき、また春の旱魃がありました。楊按台は麦がまたとれず、ますます救済が難しくなることを恐れ、県庁に文書を送り、祈祷をしました。県知事は、果たして、斎戒して誠意を尽くし、二月七日に城隍廟に赴きました。すると、十日に大雪が降りました。色は霜のように白く、味は苦く、口を刺すかのようで、半寸余りの厚さがありました。しかし、十一日には小雨がふり、綺麗に洗い流されました。十三日に、さらに祈祷文を捧げました。十六日に、小雪が降りました。二十二日、さらに祈祷文を捧げ、祈祷をしますと、二月二十七日の清明に、夜明けから大雨が降り、一昼夜降り続きました。二十八日に、県知事は豚、羊を供え、劇を呼び、城隍神と竜王の雨の恵みに感謝しました。毎日雨乞いをする礼生とともに、胙を分けました。県知事は、さらにそれぞれに四銭の本代を送りました。三月九日になりますと、また大雨が降りました。楊按台は戻りますと、自ら犠牲を供え、感謝をしました、礼生たちは、楊按台を引き止め、言いました。

「昔は謝雨[14]のときは、それぞれ四銭を出すのが習わしでした」

規則通りにどうしても欲しいといいました。楊按台はとても不愉快でした。県知事は胙を郷紳に分け与え、六つの全帖を書いて送りました。数人の郷紳は、胙が少ないことを嫌い、心の中で不愉快に思いました。そして、胙を送ったときの礼帖の後ろの部分を二つに切り、いい加減に返事の帖子を書きました。三月二十三日、地面に染み透るような大雨が降り、その年の収穫は変わりました。

 楊按台は、神のご加護に感激し、竜王廟を建て、香火を供えようとしました。そのためには、もともとあった敷地を、さらに数歩拡張する必要がありました。竜王廟は、郷紳の土地と隣り合わせでしたが、郷紳は、楊按台に多額の銀子をせびりました。しかし、楊按台は、一畝以上の土地を買い、竜王廟の規模を大きくしました。そして、表忠祠の二人の僧に見張らせ、二十畝の公有地を分け、廟を養うことにしました。

 県知事は、人々が長いこと飢えるのを恐れました。新しい麦ができたときに、食事を徐々にではなく、急にいっぱい食べると、胃につまり、十人のうち九人が死ぬのです、あらかじめ告示を印刷し、あちこちに知らせました。しかし、貧民たちは、豊作の時でも、短期工に雇われますと、主人の家の飯をたらふく食べ、口からご飯を吐き出しそうになって、ようやく食べるのをやめるものです。今は六七か月飢えていましたから、大きな饅頭、分厚い単餅[15]を見ますと、だれも口を閉じて、腹五分目までにしようとはしませんでした。彼らは告示の話しを信じず、もう一つ口があればいいのにと思いながら、たくさん食べました。その結果、胃が塞がり、元に戻らず、口を開け、目を見開き、あっという間に死んでしまう者が、たくさんおりました。

 ところが、豊作になっても、人が半分死んでしまっていましたので、短期工をする人がまったくいませんでした。それに、貧民どもは、凶作のときは、人の家に頼り、人のために仕事をしても工賃を欲しがろうとはせず、二回粥が食べられればいいと思っていたくせに、今年は収穫が少し多かったため、あれこれ勿体をつけはじめ、一日八九十文の金を要求しました。彼らは、まず食事に文句を言い、昼間は饅頭、蒜麺[16]を、朝と午後は緑豆の粥を食べようとしました。少しでも食事が気に入らないと、一斉に大声を出し、去っていってしまいました。そして、日が山に沈まないうちに、みんな手を休めました。彼らのなすがままにしておくのはまだ良い方でした。日が出ているぞ、どうして手を休めるのだなどと言いますと、彼らは、わざと仕事をさぼったり、収穫物を畑に放ったり、束ねて途中まで担いでいき、ぶらぶらとしたりし、日が落ちますと、こう言うのでした。

「日が落ちたぜ。あんたはもっと働けというんじゃないだろうな」

そして、がやがやと一斉に去っていき、主人は焦って叫ぶことになるのでした。まさに、

傷が癒ゆれば痛みを忘る

豚、犬に咬まれたとても惜しむに足らず

これから不作にならんとも

彼らの飢ゑを哀れむなかれ

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]夷は河神の馮夷のこと。玄は五行の水に属する。また水神を玄冥という。

[2]日、月、星。

[3]瑞星の光をいう。

[4]魃は日照りの神。日照りの神か。『詩経』大雅・雲漢の毛伝に「魃、旱神也」。赤は五行の火に属する。

[5] 『水滸伝』登場人物武松のこと。

[6]分守道の副官。

[7]城門外の大通りとその付近。

[8]罰金、罰穀を払って杖刑を免れること。

[9]分守道のこと。布政司の属僚参政、参議をこれに任じ、州県の政治を督察することを司る。

[10]連史紙ともいう。江西、福建で産する、竹を原料とした高級紙。

[11]原文「又釜懸而莫済」。釜懸」は『韓非子』十過「城中巣居而処、懸釜自炊、財食将尽、士大夫羸病」に典故のある言葉。食糧がなくなっているさまをいう。

[12]范丞相は范仲淹のこと。蘇州に帰郷したとき、自分だけが富貴を享受するわけにはいかないといい、財産を一族の人々に分け与えた。宋兪文豹『清夜録』「范文正帰姑蘇、有絹三千匹、尽散与閭里親族朋旧、曰『親族郷里、見我生長、幼学壮行、為我歓喜。何以報之。祖宗積徳百余年、始発于我。今族衆皆祖宗子孫、我可独享富貴』乃置田数千畝為義荘」。

[13]宋の宋祁のこと。『宋史』巻二百八十四に伝がある。工部尚書。死に際して、薄葬を命じた。「(宋祁)又自為誌銘及治戒、以授其子。『三日斂、三月葬。慎無為流俗、陰陽拘忌也。棺用雑木漆其四会、三塗即止、使数十年足以臘吾骸朽衣巾而已。毋以金銅雑物置冢中。且吾学不名家文章。僅及中人、不足垂後。為吏在良二千石下。勿請諡、勿受贈典。冢上植五株柏。墳高三尺、石翁仲他獣不得用。若等不可違命』」。

[14]日照りの後で雨が降ったとき、神に感謝すること。

[15]蕭帆主編『中国烹飪辞典』(中国商業出版社)は吉林、黒竜江の小吃に単餅があると記している。吉林のものは、小麦にラードを加えてこね、薄焼きにしたもので、炒め野菜とともに食すという。黒竜江のものはやはり小麦を薄焼きにしたもので、紙のように薄く、柔らかく、味噌、葱などとともに食すという。いずれにしても薄い餅で、本文の「分厚い単餅」(原文「厚厚的単餅」)という記述とは合わない。

[16] ニンニクを具にした麺と思われるが未詳。許宝嘉、宮田一郎主編『漢語方言大詞典』によれば、中原官話で、ニンニク汁に和えた麺という。

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