第二十九回

馮夷神が命を受けて水を氾濫させること

六甲将[1]が按察司の命で堤を巡察すること

 

大波は果てしなく

塞外の九河[2]のやうに滔々と

流れは逆巻き

巴中なる三峡のやうに滾々と

激しき勢ひ、変はらずに

あたかも滝の落つるやう

楊柳は青き枝のみ現して

仏塔は白き頂きのみを現す

中国は(うを)(すつぽん)の国となり

男女は満ちたり鮫宮に

立派なお堂は水晶郷

老若は海蔵[3]に漂へり

禹がまた治水をせんとても

八年以上は掛かるべし

白圭[4]が堰を築くとも

周囲は水浸しとならん。

 さて、その年は、六月二十日に、早くも立秋となり、風が涼しくなってきました。ところが、七月初旬になりますと、ふたたび熱くなり、中伏の頃よりもひどい暑さになりました。七月九日は、まったく雲がなく、太陽は火の鏡のようでした。申の刻になり、太陽が西北の黒雲の中に沈みますと、黒雲が沸き上がり、すぐに風雨がやってきて、雷鳴、稲妻が起こりました。にわか雨は盆を傾けたようで、二時たっても止まず、通りには水が滔々と流れ、川のように沸き返りました。水はあっという間に人家に入りこみ、外に出てゆきませんでした。多くの人々は、災難にあったときに薬を門の外に置けば逃げることができると真君がいっていたことを思いだし、急いで薬を見付け出しました。真君の教えの通りにする者もあれば、包みの中に薬がない者もあり、慌てていたために紙包みごとなくしてしまった者もあれば、何とも思っていなかったために紙包みのことを忘れてしまった者もありました。雨はますます激しく、十日の子の刻まで降りました。雷鳴は天を揺るがさんばかりに轟き、稲妻は空を真昼のように明るくしました。やがて、山が震動しますと、山を崩し海をひっくりかえしたような洪水が、山から下ってきました。平地でも水は二丈の高さがありました。真君の霊薬を門に置いた者の家では、家の門よりも数尺も高い水が、入りこんできませんでした。しかし、そのほかの家は、大きな鍋の中の餃子のような有様になりました。村の十万余の家々は、雨水に耐えきれず、十人のうち七人は去ってしまいました。

 会仙山白鶴観の道士蘇歩虚が道蔵楼にのぼりますと、稲妻の中に、無数の神将が見えました。彼らは、変わった形をした鳥、獣に乗り、大きな波の中から出たり入ったり、東や西を指差したりしながら、一斉に叫びました。

「天符にしたがい、家々を水没させる。罪を逃れることはできぬぞ」

後ろには、龍馬に乗ったたくさんの天将がおり、一斉に叫びました。

「丁甲神将、注意して調べてくれ。真君の堤がある家、真君が行かれたことのある家は、きちんと保護するのだ。命令に背いて壊してはならんぞ」

夜明けになりますと、四方は水浸しで、以前あった人家も藁屋もなく、数えきれないほどの死骸が波に漂っていました。

 翌日になりますと、水はだんだんとひきました。晩に木の上に逃げた者、楼の上に逃げた者は、稲妻の中にいる神々の顔を見ますと、道士の蘇歩虚がいっていたことは少しも間違いではなかったと大声で話しました。残った三割の家々は、少しも変化していなかったばかりでなく、蓄えてあった食糧も水に漬からず、器も流されず、家族は年とった者も若い者も無事でしたが、彼らはすべて善良な人々でした。

 さて、溺れ死んだ人々は死んだのは同じですが、死に方は千差万別でした。呂祖閣の道士張水雲は、その日真君が戻ってきませんでしたので、とても喜びましたが、壁に書かれた詩を見ると、後悔しました。その晩はとても暑かったので、弟子の陳鶴翔に命じて酔翁の椅子を軒下に運ばせ、真っ裸になって眠っていました。すると、間もなく雷雨が起こりました。陳鶴翔は師匠が動きませんでしたので、傘をさして彼のところにゆき、呼び起こしました。ところが、彼の両手両足は、椅子に根を下ろしたかのように、少しも動きませんでした。彼の体は重く、陳鶴翔の体は小さく、椅子は楡の木でできていましたので、動かすことはできませんでした。張水雲はひたすら苦しいと叫びました。雨はますます激しく降り始めましたが、陳鶴翔はどうしようもありませんでした、仕方なく自分の雨傘を彼に手渡し、持たせて覆いにし、自分は雨の中を走ってゆきました。雨は激しく降りましたし、師匠にも変わったことが起こったため、陳鶴翔は眠ることはできませんでした。後に水が溢れたとき、陳鶴翔は黄色い頭巾の力士がこう言うのを聞きました。

「この道士は死ぬ運命にないのに、どうしてここで死を待っているのだ」

すると、ある力士が言いました。

「呂純陽祖師の命を奉じて彼を罹災者に加えるのです、ここに命令書がございます」

黄色い頭巾を被った力士が言いました。

「命令書があるのなら、改めて文書で報告をしなければならんな」

陳鶴翔が見てみますと彼は椅子ごと漂ってゆきました。後に水がひいてゆきますと、張水雲の死体は椅子に横たわったままの姿で、白楊の大樹の天辺に引っ掛かっていました。登って降ろすことができないでいるうちに、たくさんの烏が集まり、三四日間にわたってつつきました。後に、死体は風で吹き落とされましたが、相変わらず椅子にへばりついていました。陳鶴翔は仕方なく大きな穴を掘り、椅子ごと埋めました。虞際唐、尼集孔は彼らの兄嫁と、張報国は彼の叔母と、呉溯流は彼の妹と抱き合っていました。さいわい水は急に溢れたわけではありませんでしたし、にわか雨、雷、山崩れ、地割れで、人々は眠ろうとしていませんでしたので、体に衣裳を着けていました。

 祁伯常は、三年前に、ずっと前に死んだ伯母の家にゆき、彼の伯母と話す夢を見ました。すると、外から一人の醜い判官が入ってきて、言いました。

「人間の臭いがするぞ」

祁伯常の伯母は迎えに出て、返事しました。

「甥がいるのです」

判官は言いました。

「どうして知らせてくれなかったのだ。彼に正体を見られてしまった。みっともない」

一間の部屋の中に入り、暫くしますと、烏紗の唐巾を被り、翠藍縐紗の道袍、赤い靴に綸子の靴下をつけた、とても美しい少年が現れました。彼の伯母は言いました。

「これははおまえの伯父さんだから、挨拶をなさい」

美少年「お前がきたとは知らず、醜い姿を見せてしまった。お前は百日の災いに遭ったが、わしがお前を守って、死なないようにしてやろう」

そう言いながら酒を準備させてもてなしました。茶を待っている間、従者らしき男が報告をしました。

「按察司の判官[5]さまが会議にくるようにとおっしゃっています」

美少年「とりあえず座っているがよい。すぐに戻ってくるから」

 祁伯常がすきを見て、書房に入りますと、明るい窓、綺麗な机、琴、書物、骨董品があり、脇の棚には大きな帳簿が並んでいました。祁伯常がその中の一冊を取り出して開いてみますと、世の中の人々の死について記されていました。第二葉を捲って見てみますと、はっきりと「祁伯常」の三文字が書かれており、「按察司、三品、七十八歳、妻は某氏、終生伴侶となる、子は三人」と小さく注がつけてありました。祁伯常はそれを見ますと、とても喜び、さらに前に書かれた二つの事項を見てみますと、下に「某年月日、紙で花火を作ったが、花火が風で便所に入ったため、二級降格する。某年月日、某人の奥向きのことについて誹謗したため、三級降格する。某年月日、勉強を教えたときに人の子弟に誤ったことを教えたため、三級降格する。某年月日、伯父の養子になったものの、伯父が死ぬと、財産を実家のものにしようとしたので、官位をすっかり剥奪する。某年月日、実姉と姦通し、姉の家を破滅させたため、五年寿命を縮め、辛亥七月十日子の刻に姉の祁氏とともに水死させることにする」

そのときは己酉の七月でしたので、辛亥の七月までは、ちょうど三年ありました。彼は実姉と姦通したことを隠し、「先ほど書房に行きましたが、冊子に私の名が書かれており、辛亥七月十日子の刻に水死するとのことでした。伯母さま、伯父さんは生死簿を取り扱っておられるのに、自分の甥を救うことはできないのでしょうか」と哀れっぽく頼みました。伯母は言いました。

「伯父さんが酒を飲んでいるときに、私がゆっくりおまえのことを頼んでみましょう」

 暫くしますと、美少年は戻ってきて、腰を掛け、祁伯常と杯を酌み交わしました。酒は数巡しましたが、祁伯常は死期が近いことを知っていましたので、悶々としていました。少年は言いました。

「先ほどおまえは楽しそうに笑っていたのに、どうして悲しそうな顔をしているのだ。書房にいって、何か見たのか」

娘「この子があなたの書房にゆき、帳簿を見たところ、辛亥七月十日子の刻に水死すると書かれていたので、悲しくなり、あなたに救ってくれるように頼もうとしていたのです」

少年「あそこはわしの秘密の部屋だ、お前がたまたまやってきて、慌てて鍵を掛けるのを忘れてしまった、どうして軽々しく覗き見をしたのだ。あれは、功曹とともに、天の命を奉じ、地蔵菩薩に知らせ、南斗、北斗の二つの星君にも報告して、帳簿に記入したものだから、変更することはできぬぞ」

祁伯常は跪き、哀れっぽく頼みました。伯母はさらに言いました。

「あなたは天下の人の生死簿を取り扱っていますが、自分の家の甥の面倒をみることができないようでは親戚とはいえませんよ。あなたが親戚に会う積もりがないのならそれでもいいですが、私は実家の人に合わす顔がなくなってしまいます」

少年「まあ怒らないでくれ。この子が食べられる物がどれだけ残っているかを調べにいってから、相談しよう」

少年が戻ってきて言いました。

「さいわいまだ手の打ちようがある。官位はすっかり剥奪されるが、お前は七百匹の牛蛙を食べつくしてはいない。牛蛙を食べるのを差し控えれば、すこしは寿命を延ばすことができるかもしれん」

 さて、祁伯常は普段からとても牛蛙が好きで、十日半月豚肉を食べなくても、気にしませんでしたが、牛蛙があるときは、金を借りてでも、一斤、半斤買って炒め、半壺の焼酎を買い、食べるのでした。これは彼の普段からの楽しみでした。しかし、目が覚めますと、夢の一部始終をはっきりと覚えていましたので、その後は牛蛙を食べませんでした。よその家の宴席で牛蛙が酒の肴として出たり、通りに牛蛙を売る人がいるときは、食べたくて叫び声をあげ、唾をのみましたが、食べようとはしませんでした。彼はいつも辛亥七月十日子の刻のことばかり考えました。こうして一年がたちました。ある日、彼が友人の家の宴席に赴きますと、とてもうまい牛蛙の炒め物がでてきました。香りが彼の鼻に漂ってきましたが、彼は堅い決心をしていたため、食べようとしませんでした、しかし、彼の腹の中の虫は、一生懸命彼に戒めを破るように勧めました。彼はこの勧めに堪えることができず、牛蛙を食べてしまいました。この日以後、彼は毎日牛蛙を食べ、一年間の埋め合わせをしようとし、心の中で思いました。

「夢の中のことは必ずしも信じるべきではない。それに伯母は早く死んだが、伯父はまだ生きているのだから、冥土で他の人の嫁になるわけでもあるまい」

このように自分に言い聞かせましたが、辛亥に死ぬことは少しも忘れることはできませんでした。

 時間はあっという間に過ぎ、その年の六月の終りになりました。祁伯常は本当に辛い思いでした。七月八日になりますと、彼はますます慌てて、心の中でこう思いました。

「水死すると書かれていたから、まず橋を通らないようにしよう、湖、小川、川、井戸の脇は、ここ数日歩くのを差し控えよう。それから、会仙山の頂きの紫陽庵秦伯猷の書房にゆき、二日泊まり、例の日を過ごすことにしよう。山まで水に漬かったとしても[6]、山頂は残るだろう、まさか大水が山頂まで飲み込むこともあるまい」

八日から、朝飯を食べ、轎に乗り、山に行き、秦伯猷の書房に着きました。秦伯猷は笑いながら

「あなたはきっと水害を避けにきたのでしょう。ここにとどまって、大水が山に押し寄せてくるのを御覧になってください」

秦伯猷とともに一夜を過ごしました。

 翌朝、秦伯猷は小者を遣わして言いました。

「学校の幕僚が県庁から県志の編集を頼まれたので、すぐに来るようにといっています。門番は、今、家で待っております」

秦伯猷は祁伯常に言いました。

「あなたはとてもいいところにきてくださいました、とりあえず私のために書房の番をしていてください。この庵の道士は山をおりて彼の妹に会いにゆきましたから、米、小麦、薪は、ここ数日間で使うには十分です」

秦伯猷は別れを告げますと、ゆっくりと山を下り、門番とともに騾馬に鞍を据え、城内の学校へゆきました。

 祁伯常はずっと庵におり、うまくいったと思っていました。ところが、九日、灯点し頃になりますと、山の下とまったく同じように大雨が降りました。そして山頂から洪水が起こり、十日の子の刻になりますと、紫陽庵に天の川が注いだかのように、人を家ごと、まるで流れに漂う木と葉のように押し流し、止まることを知りませんでした。他の人々は水に流されたとはいえ、平地だったためまだ良かったのですが、祁伯常は山の上から石もろとも流されたため、水を被ったばかりでなく、石にぶつかり、骨は砕け、肉は破けたあげく、棗の木に引っ掛かりました。秦伯猷は、その日、城内にとどまっていたため、少しも災難には遭いませんでした。

 また、陳驊は、九日に、城内に行って、女房と一緒に舅の誕生日祝いをしにゆきました。舅の家では客が揃わず、席に着いたのがとても遅かったので、彼は三杯も飲まないうちに席を立とうとしました。舅姑は何度も彼を引き止めようとしましたが、彼はどうしても出発しようとしました。奥に行き、姑に別れを告げますと、姑は彼を強く引き止めました。女房も言いました。

「家にはとりたてて用事はありませんし、日も暮れそうですし、西日はきついし、何も召し上がっていないのですから、ここで一晩過ごされ、明日、私があなたと一緒に帰れば宜しいでしょう」

ところが、彼は女房がいないすきに、急いで家に戻り、父親の妾と一戦交えようとしていましたので、どうしても家に帰ろうとしました。家から十里ほど離れたところにきますと、空が暗くなりました。馬を飛ぶように走らせ、五六里の道を、大雨を冒して、家に着きました。そして、雷雨であるのをさいわい、派手に一戦を交え、兵を収めました。海竜王は、二人がふたたび戦を行うことを恐れたため、二人を水晶宮に案内し、玄酒[7]を買い、講和させました。水晶宮は愉快でしたので、二人はそこに長いこととどまり、家に帰ろうとしませんでした。

 さて、狄員外のお話しを致しましょう。真君が五月五日に明水に着き、狄家に行きますと、ちょうど狄員外が出てきて、尋ねました。

「お師匠さまはどこからこられたのですか。ここではお見掛けしませんでしたが」

真君「私は江西南昌府の許真君です。鉄樹宮[8]で修行をし、会仙山、白雲湖の美しい景色のことを聞きましたので、旅をし、お宅に斎食を頂きにきたのです」

狄員外は急いで中に入れると斎食を出してもてなし、尋ねました。

「すぐに行かれるのですか。長くとどまられるのですか」

真君「気候がとても暑いので、とりあえずとどまって夏を過ごしてみることにしよう」

狄員外はさらに尋ねました。

「どこに泊まるお積もりですか」

真君「とりあえず呂仙閣に泊まるつもりです」

狄員外「呂仙閣の住持の張道士は、人を泊めず、もてなしが十分ではありませんから、長くとどまることはできないでしょう。あなたは俗世を離れたお方なのですから、きっと仙術ができることでしょう」

真君「仙術などは知らず、托鉢をして飢えを満たしてきたのです。また、本物の処方箋にはよらずに、偽の薬を売り、貧民を救って日々を過ごしてきただけです」

狄員外は笑って

「お師匠さま、あなたは偽の薬だとおっしゃいますが、きっと良い薬に違いありません。自分で霊妙な薬だと自慢している者の薬は、必ずしも本物とは限りませんからね」

話をしていますと、狄周が出てきて尋ねました。

「お斎食は揃いましたが、どこで食べることに致しましょう」

狄員外が中に並べさせますと、

真君「外に運べばいいでしょう。遊行の者は、中に入れるわけにはゆきませんからね」

狄員外「通りでお客さまをもてなすわけにはまいりません。遠来のお客さまなのですから、疎略にすることは許されません。すぐには斎食を差し上げることはできませんから、お掛けになってお待ちください」

 真君が狄員外について中に入ってゆきますと、狄員外は席を勧めました。斎食がでてきますと、四皿の小料理で、一碗は炒め豆腐、一碗は麩入り胡瓜、一碗は白菜、一碗の胡瓜の和え物、一皿は薄餅、粟、緑豆の粥で、一双の箸がついていました。

狄員外「さらに箸をもってきてくれ。お師匠さまに付き添って食事をするから」

狄周は影でこっそり言いました。

「誰かれ構わず人を呼び、付き添って斎食を食べるお役人さまなど見たことがないよ。それに、最近は以前ほど収穫が豊かでないから、強盗たちはすべて僧、道士に姿を変えているんだ。彼らは人の家に行き、主人をだまし、内部の事情を熟知すると、強盗をするんだ」

真君「員外さまからお斎食を頂きましたが、やはり外で一人で食事を致しましょう。どうか私ごとき者には構われないでください。付き添われる必要はありません。執事どのは、強盗が僧、道士に変装して主人をだますことを心配されていますが、ご尤もなことです」

狄員外は

「あの男に構われる必要はありません。どうかお掛けになってください」

といいますと、心の中で考えました。

「わしは一歩も離れていないが、狄周はそんなことはいっていないぞ」

 狄周がさらに飯を出しますと、

狄員外「お前はどこかでお師匠さまの話しをしただろう。お師匠さまがおまえのことをお咎めになっているぞ」

狄周「私はお師匠さまの話などしておりません」

真君「おまえがこれ以上何か言ったら、わしは大きな蜂におまえの左の口を刺させるぞ」

狄周は笑って

「お師匠さまの法術だったのですね。大官人が食事に付き添うといわれたとき、私はこっそり独り言を言いました。『旦那さまは誰彼となく人を呼び入れ、一緒に食事をとっている。最近は豊作ではなく、和尚、道士に変装して、よその家に行って宿主をだまし、掴まえて、強盗をするものがたくさんいるというのにな』。すると、小さな蜂が右の口の隅を刺し、飛んでゆきました」

狄員外「おまえはどこでそのことを喋ったのだ」

狄周「台所の入り口で喋ったのです」

狄員外「台所はここから一箭近く離れており、少しも気が付きませんでした。お師匠さまが気付かれたのは、すごいことですね。ところで、蜂が口の隅を刺したのに、どうして赤い腫れがないのですか」

真君「善人を刺すときはおしるし程度にすぎないので、赤い腫れなどはないのです。こっちへくるがよい。微かな痒みさえ感じさせないようにしてやろう」

手で狄周の右の口の隅を撫でますと、痛みはすぐに治まりました。狄周は奥に行きますと、狄員外の女房に向かって真君のことをべた褒めしました。

「きっと神仙に違いありません」

 狄員外の女房は、娘の巧姐を生んでから、涼しい場所に座っていたため、白帯下(はくたいげ)になり、腹が冷え、数年来妊娠しませんでした。ズボンは穿くと二三日もたたないうちにべとべとになり、夏はとても生臭かったので、こう思いました。

「そんなに優れた人なら、きっと海上の仙薬の処方箋などをもっているにちがいない」

しかし、狄周にいうことはできませんでした。すると、真君は食事を終えてから、土を摘み、唾を吐き、緑豆の粒の大きさの三つの丸薬を作り、袖の中から紙を取り出してくるみました。そして、別れを告げて斎食に感謝し、薬を狄員外に手渡すと言いました。

「奥さまが薬をご所望ですが、口に出されてはおりません、この薬を黄酒で飲めばすぐに治ります」

狄員外はそれを受け取りますと、お礼を言いました。

「お斎食を召し上がるときは、とにかくおいでください。張水雲を責められてはいけません。この街の住民には斎食を出そうとするものはいないのです」

表門から送り出しました。

 狄員外は奥に戻って女房に言いました。

「おまえは道士さまから薬を貰おうとしたが、口に出さなかっただろう。道士さまは薬を残され、黄酒で飲むようにとおっしゃった。おまえは何の病気を治そうというのだ」

女房「決まっているじゃありませんか。それにしても、私が心の中で思ったことを、あの方はどうして分かったのでしょう」

包みを開けてみますと、その薬は緑豆の大きさで、金箔がかかっており、変わった香りが鼻を突きました。

狄員外「これはまたおかしなことだ。わしはあの人が土を手に摘み、唾を混ぜ、三つの粗製の丸薬を捏ねるのを見たが、どうしてこのような金丹に変わったのだろう」

酒を温めて飲みますと、腹が発熱し、小便とともにたくさんの真っ白な粘着物が出てきました。それからというもの、病気は完治しました。その日以後、真君はしばしばやってきて、狄員外も彼を呼んで斎食を食べさせました。老いも若きも、彼のことを道士ではなく、神仙であると言いました。

 ある日、綿花畑に植えた青豆が熟しましたので、狄周を小作人の監督にゆかせ、熟した物を選んで刈ってこさせました。狄周は人を連れてゆきますと、熟れているかいないかに拘らず、すべて刈り取ってこさせました。

狄員外「半熟のものまですっかり刈ってしまったな。これは駄目だ、役には立たない」

狄周は強弁しました。

「あなたは豆を刈れとおっしゃっただけでしょう。熟した物を先に刈り、熟していないものは残しておくようにとはいわれませんでしたよ。はっきりおっしゃらなかったのに、人を恨むなんて」

狄員外「そんなことはいう必要もないことだ。おまえにだって目がついているだろう」

狄周は口では何も言いませんでしたが、心の中で罵りました。

「何て馬鹿な奴だ。強盗が家に入ってきてこいつを切り殺そうとするとき、俺が前に進み出てこいつを救っても罪作りになるだけだ。数本の豆を間違えて刈っても、大したことはないのに、くだくだと文句ばかり言いやがって」

心の中で呪いながら、外に歩いて行きました、すると、あまり痛くはありませんでしたが、かなりの痒みを感じましたので、木綿の衫を開いてみますと、小指の先ほどの大きさの蠍が、地面に振り落とされました。足で踏み付けようとしますと、蠍は壁の隙間に入り込んでゆきました。狄周はぶつぶつと言いました。

「まったくついていない。数本の豆のために、くだくだと文句を言われ、おまけに、蠍に噛まれてしまった。踏みつけることもできず、逃がしてしまったのは残念だ」

 翌日、狄員外は狄周に真君を呼ばせ、お斎食を食べさせました。狄周を見ますと、真君は笑って

「昨日は蠍に刺されて少し痒いだろう」

狄周は昨日の蠍が神仙の法術であったことに気が付き、返事をしました。

「痒くてたまりません」

真君「下々を思いやるご主人さまなのだから、これからは悪い考えを起こして罵ってはならんぞ」

袖から二つの蠍を取り出しました。大きい方は、三寸あまりの長さがあり、小さい方は小指ほどの大きさしかありませんでした。真君は笑って

「この小さな蠍は痛くはないが、この大きな蠍が人を刺せば、死ぬことだろう」

そう言いながら、大小二匹の蠍を袖に入れ、狄周と談笑しながら、部屋に行ってしまいました。

 狄員外が真君に付きそってお斎食を食べていますと、薛教授が客間にきて、真君と狄員外に挨拶をしました。薛教授は腰を掛けてお斎食を食べました。薛教授はご飯を食べながら、心の中で思いました。

「この道士は狄さんの家にばかりいて、どうしてわしの家にこないのだろう。明日、お斎食を準備して彼を家に迎えることにしよう」

口を開こうとしましたが、さらにこう考えました。

「急いではだめだ、家に何があるか考えてみよう」

「米がない。粟でもてなすわけにもゆかないから、早めに数升の米を買いにゆかせよう」

真君がお斎食を食べ、別れを告げて去ろうとしますと、薛教授は尋ねました。

「明朝、お暇でしたら、拙宅にこられて、お斎食を召し上がってください」

真君は言いました。

「私が明朝お斎食を受け取りに参ります。施主さまは絶対に米を買いにゆかれてはなりません。私は食べませんし、施主さまは靴を汚すことになり、勿体ないことです」

薛教授は笑いながら

「お師匠さまは神仙に違いありません。私は家に米がないので、家に帰り、米を買って差し上げようと思っていたのです」

薛教授は家に戻りますと、店の番をし、薛三槐に米を買いにゆかせようとしました。ところが、店ではたくさんの人が木綿布を買っており、だんだんと日が暮れてきましたので、仕方なく数十文の銭を持ち、冬哥に籠を提げさせ、一緒に米屋にゆき、五升の米を買って戻ってきました。ところが、ある家の入り口にさしかかりますと、一人の女が鉄の鋤で子供の糞を掃除し、門から捨てており、それが折悪しく、薛教授の靴に掛かってしまいました。

 翌朝、真君は、狄員外とともに薛教授の家にきて、薛教授に会いますと、笑いながら言いました。

「施主さまは私の言葉を信じられなかったので、きっと良い靴を汚されてしまったことでしょう。米のとぎじるで洗えば、汚れはなくなります」

奥で米の研ぎ汁を使って洗いますと、果たして少しも痕跡が残りませんでした。その後、真君は、しばしば薛家に行きました。ある日、薛教授に会いますと、二匹の青い木綿で道袍を作るように頼みました。

薛教授「このような暑い日に、木綿布は着ることはできません。一二日たって、新しい品物がきてから、二匹の青い夏の木綿の道衣を作れば、少しは涼しいでしょう」

真君「夏の木綿布は、寒くなってきたら使うことはできません。木綿の布は、今は少し熱いですが、涼しくなれば役に立ちます」

薛教授「涼しくなってから、木綿布をお送りすれば宜しいでしょう」

 二日たって、夏物がつきますと、薛教授は二匹の極上のものを選び、染め物屋に送り、藍色に染め、裁縫師に道袍を作らせ、真君に送りました。翌日、真君が自らお礼を言いにきますと、薛教授は彼を引き止めて食事をとらせました。数日たちますと、真君は、薛教授に木綿の衫、一重のズボンをさらにお布施するように頼みました。薛教授は一つ一つ揃えて送りました。七月九日になりますと、真君は、ふたたび薛教授の家に行き、山に帰るので、別れをいいにきたといい、三両の銀子の旅費をもらおうとしました。薛教授は少しも嫌な顔をせず、引き止めてお斎食を食べさせ、三両の銀子を包んだ上、蒲鞋[9]、五百銅銭を送って、言いました。

「約束の二匹の青い木綿の布をまだお送りしておりませんでした」

真君はお斎食を食べ終わりますと、薛教授をじっと眺め、長く短く溜め息をつきながらじっとしていましたが、さらに言いました。

「私は施主さまからたくさんのお布施をいただきましたが、もうお別れです。私は人相見に通じておりますから、家の方々を全員呼んできて、拝見させてください」

薛教授は二人の女房と四人の子供を呼びました。真君は彼らを見て、うなずきますと、一枚の黄色い紙を小さな正方形に切り、筆を幾度か動かし、人々にそれぞれ一枚を頭に被るように命じましたが、素姐にだけは与えませんでした。

薛教授「娘も欲しいといっておりますが」

真君「薛施主さまはとても良い方ですが、ご令嬢を除いて、家中の方々が、まもなく災難に遭われることでしょう」

 狄員外は真君を引き止めてお斎食を食べ、やはり五両の銀子と靴、靴下、木綿の類いを送りました。

真君「私は独りぼっちの遊行の者で、使うこともありません。私の荷物を重くなさらないでください」

真君を門の外に送り出しますと、狄員外は薛教授の家に行き、来意を告げ、薛教授は護符をかぶって人相見をしたことを話しました。狄員外が別れを告げて家に帰りますと、薛教授は箱を片付けましたが、真君に送った道袍を作るための夏布と、木綿の衫を作る白い木綿布、一重のズボンを作る青い木綿布、蒲鞋、三両の銀子、五百文の銅銭は、そのまま箱の中に入っていました。さらに帖子にはこう書いてありました。

な恐れそ な恐れそ

天の兵士が守るべし。

大禍事が来たりなば

みなで木に登るがよろし

 薛教授は奇妙な言葉をみますと、真君が神仙であったと確信しました。しかし、神仙がいう差し迫った災難が何の災難かは想像がつきませんでした。

 薛教授はきちんと片付けをしますと、自ら狄家へいって木綿布と銀が残されていたことと帖子に書かれていたことを告げました。

狄員外「天の秘密はあらかじめ漏らされることはありませんが、天の兵が守ってくれる、家中の人を木に登らせるようにといわれた以上、何か災いがあっても助けられることでしょう」

そして、薛教授を家まで送りました。後に水が溢れたとき、狄員外の家では、雨降りにあったものの、山の上から溢れた水は、少しも流れ込んできませんでした。薛教授は雨がとても激しく降っているのを見ますと、水が溢れるだろうと思い、みんなで衣装を縛り、梯子を探しました。そしえ、水がきますと、一家で中庭の大きな槐の木の上に登りました。果たして子の刻になりますと、叫ぶ声が聞こえました。

「大水だ」

薛教授は梯子を伝って、木の上に上がりましたが、誰かに持ち上げられているように感じました。木の上には大勢の神将がいて、言いました。

「ここは薛振の家だ。娘の素姐を除いて、全員が溺死する運命にあるが、もう水に落としたか」

木の下のたくさんの神将が言いました。

「許旌陽真君の命を奉じ、一家全員を助けることに致します。私たちは彼らを守るために遣わされたのです」

神将は尋ねました。

「その根拠は」

木の下の神将が返事をしました。

「真君自らが命令を書かれたので、従わないわけには参りません」

上の神将はようやくほかのところへゆきました。

 狄希陳はしばしばおばの家に行き、二三日そこで遊んで家に帰ることがなく、その日もちょうどそこにいました。氾濫が起こると、彼は彼のおばの一家とともに水に落ちました。狄希陳は箱の環を掴んで、水に浮かんでいました。すると、黄巾をかぶり、魚に乗った人が叫びました。

「成都府の経歴[10]を溺死させてはいかん。早く探すのだ」

さらに、金冠を戴き、龍に乗った者が返事をしました。

「どこにまぎれているものやら、見付かりません。高い官位の人ではなのですから、殺しても取り調べはないでしょう」

黄巾をかぶった人は言いました。

「いや、とんでもない。湖広の沙市里で放火があり、巴水駅の駅丞が焼死したとき、火徳星君は我々を減給にした。我々六丁神のうち二人は、まだ釈放されていないのだ」

そこへ、狄希陳が箱の環を引っ張りながら、流されてきました。神は叫びました。

「いた。いた。あれがその男ではないか。家に送ってやろう」

狄希陳は箱の環にしがみついたまま、木のまたに流されてゆき、箱ごと引っ掛かりました。夜が明けてから、狄周が楼に登り、四方を見渡しますと、家の外の水は自分の家の軒よりも数尺高く、門の前の木の枝には箱が掛かっており、一人の子供が箱の環をじっと掴んでいました、よく見ますと狄希陳でした。狄周は叫びました。

「希陳さまがいらっしゃいます。門の前の木の上です」

狄員外も楼に登ってみてみますと、果たして狄希陳でしたが、彼を救うことはできませんでした。彼に呼び掛け、箱をしっかりと掴んで、手を離さないようにさせました。午後になりますと、水が引きましたので、ようやく救い下ろすことができました。狄希陳は、神に救われたことについて話しました。

 人の生死はすべて運命で決められているのです。成都府の経歴は神に救われましたが、薛教授の家にあった器具、店にあった布は、流されて少しも残りませんでした。神さまが「薛振は一家がすべて溺死する運命にあるが、水に落としたか」というのがはっきりと聞こえました。ほかの神々は「許旌陽真君の命を奉じて、一家を救うことに致しました」と返事をし、真君が自ら書いた護符を持っていると言いました。実は、道士は許真君の生まれ変わりだったのでした。薛教授が彼のことを普通の遊行の道士だと思い、怒鳴りつけて傲慢な態度をとっていれば、真君は決して薛教授を救おうとはしなかったでしょう。ですから、君子は「相手が多いか少ないか、貴いか卑しいかにかかわらず、決して人を侮ることはない」[11]というのです。これぞまさに、

人は顔では決められぬ

英雄は埃まみれの人の中

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

中国文学

トップページ

 



[1]道教の神将。『無上九霄雷霆玉経』「六丁玉女、六甲将軍」。

[2]黄河の九つの支流をいうが、具体的にどの河なのかは諸説ある。

[3]竜宮にあるといわれる宝物庫。

[4] 『孟子』告子下に登場する人物で、戦国時代魏の人。治水を行った。

[5]原文「判爺」。按察司経歴のこと。

[6]原文「懐山襄陵」。『書経』堯典。

[7]祭礼で酒の代わりとして用いる水。

[8]道観の名と思われるが未詳。

[9]蒲で作った夏用靴。蒲履。

[10]文書出納官。

[11]原文「那君子要無衆寡、無小大、無敢慢」。『論語』堯曰に「君子無衆寡、無小大、無敢慢」。

inserted by FC2 system