第二十八回

関帝像が霊力を現すこと

許真君が人々を救うこと

 

善悪はもとより別もの

正しき道に悪しき道

理に沿はば、夜、歩くとも危険なし

鬼神の加護のあればこそ

旌陽[1]木彫りにあらずして

壮繆[2]泥人形ならず

面と向かって罰を施し

人は茫然自失する。  《卜算子》

 厳列星には厳列宿という実弟がおり、厳列星と同居して暮らしていましたが、二十一歳になっても妻を娶っていませんでした。厳列宿は小さな商売をし、農繁期にはよその人のために短期の雇われ工をし、数両の銀子をため、周基の娘の周氏と婚約し、三月十五日に娶ることにしました。明水の風俗では、嫁は自分で迎えなければなりませんでした。厳列宿は何とか明青の道袍を着け、羅帽を被り、暑韈、鑲鞋を穿きますと、嫁を迎えにいきました。舅の家に行きますと、彼女のために杯を手にとり、赤い布を被せ、ネルの髪飾りを挿してやりました。そして、よその人から一頭の痩せ馬を借り、嫁の轎を担いで出発しました。

 厳列星は数畝の耕地をもっていました。牛の餌やり、種撒き、収穫と耕作は、隣家を脅して行わせていましたが、土地にかかる税金はさすがに隣家に代納してもらうわけにはいきませんでした。しかし、隣家が代納をしないからといって、彼が自分で税金を納めるわけにもいきませんでした。彼は、里長[3]をごまかすことができれば、朝廷に納めるべき、十畝ばかりの土地の租税を納めませんでした。しかし、ごまかすことができないときは、払うしかありませんでした。その年、里長が替わりましたが、彼は厳列星の恐ろしさを経験したことがありませんでしたので、彼がずっと税金を納めていないことを手本に書いて批准され、下役とともに捕縛、審問を行うようにとの命を受けました。下役の趙三はいいました。

「厳列星は名だたる悪人で、秀才であるのをいいことに悪事をしており、役所もあいつをぶつことができません。以前税金を納めなかったため、あいつを呼びだそうとしましたが、呼んでくることはできず、かえって下役が足をへし折られてしまいました。あいつを怒らせることはできません」

里長「知事さまが手本を批准した以上、奴を呼んでから手を打つことにしよう」

趙三「ここからあいつの家までは、往復七八十里の道程ですが、だれが我々に食事を出すのですか。我々は行くことはできませんよ」

里長「食事など小さなことだ。わしがおまえの面倒をみてやろう」

 二人が途中までいきますと、一人の男が嫁とりをしてやってきましたが、何と厳列星の弟の厳列宿でした。

趙三「あいつの兄を捕えても仕方ありません。知事さまはぶつつもりはないでしょうし、あなたもあいつをかじったり食べたりする勇気はありますまい。あいつと敵同士になるよりも、あいつの弟を捕まえていったほうがいいでしょう」

里長「尤もだ」

前に進み出ますと、一人は馬を止め、一人は足を引っ張り、引き摺り下ろしました。厳列宿は里長であることを知ると、いいました。

「税金を納めていないのは兄貴なのに、俺を捕まえてどうする積もりだ」

里長「おまえたち兄弟は別居していないのだから、同じことだ」

有無を言わさず、強引に掴まえていってしまいました。

 新婦は自分で家に行きますと、天地に二拝を行いました。兄嫁は、彼女の顔覆いを取ってやり、部屋の中に送りました。起鼓すぎになりますと、厳列星は厳列宿のふりをして、部屋の中に入りました。新婦は尋ねました。

「私は轎の中であなたが捕まえられていくのを見ましたが、どうして戻ってくることができたのでしょうか」

厳列星はわざといいました。

「見ていたのか。兄さんが土地を耕して税金を納めなかったのに、俺が掴まえられたんだ。俺は県庁に行くと、税金を納めていないのは俺ではない、今日は嫁を娶る日なのに、途中で捕まってしまったと言った。そのお役人は下役を十回板子で打つと、俺を釈放した。俺は布の衫と帽子を質入れし、下役に賄賂を送ったのだ」

そういいながら、新婦の顔覆いを取り、衣装を脱がせました。新婦がなおも恥ずかしがる振りをしようとしますと、彼はいいました。

「狭いところで、兄さんと兄嫁に聞かれてしまうから、静かにしよう」

新婦は声をたてようとせず、あらゆることに従いました。

 さて、厳列宿は県庁に連れていかれますと、晩の法廷で、納められていないのは彼の兄の税金で、彼は家の主人ではないといいました。役人は尋ねました。

「別居していたのではなかったのか」

里長「別居してはおりません」

「別居していなかったのなら、どうしておまえに関係がないというのだ」

三本の簽を抜いて、彼のズボンを剥ぎますと、腰から二匹の赤い布と二つのネルの髪飾りが落ちました。役人は尋ねました。

「これは何だ」

彼は返事をしました。

「身に着ける飾りです。今日は結婚式だったのですが、途中で捕まえられたのです」

役人「嫁を迎えに行くときか。それとも嫁を娶って戻ってきたときか」

「嫁を娶って帰ってくる途中でした」

役人「釈放しろ」

そして、里長にいいました。

「おまえは普段はあいつに催促をしていないのに、よりによってこの男が嫁を迎えるときに、縁起の悪いことをするとはな。憎い奴め」

里長を十回板子でぶち、厳列宿を釈放して家に戻らせ、三日で年貢を完納させることにしました。

 厳列宿は、夜になったので、宿屋を探して一晩泊まり、翌朝家に戻りました。彼は、新しい海青[4]、新しい靴、新しい帽子を着けてはいたものの、昨夜契りを結んだ新郎とは違っていました。新婦はだまされたことに気が付きましたが、口に出すことはできずに、尋ねました。

「税金はどのくらい足りないのでしょうか」

新郎「二両五六銭で十分だ」

新婦は、自分のかんざし、耳輪、装身具を幾つか手にとりますと、夫をすぐに戻らせて年貢を完納させ、それ以上延納しないようにさせました。新郎は、装身具を持って、県庁に戻り、銀子に換えて税を納めました。新婦は、一更になって、人々がすっかり眠ると、きちんと衣服を着け、自分の部屋で帯で首を吊り、翌朝になって発見されました。

 厳列星は事情がわかっていましたが、厳列宿はまったくわかりませんでした。舅姑を呼んでも想像がつきませんでした。結婚して二日、新郎は二晩とも家におらず、契りも結んでいなかったのに、新婦はどうして首を吊ったのでしょう。これは前世の悪行の報いに違いありません。このようなどうしようもない事件は、告訴しようにも告訴することはできず、金が掛かって面倒なだけですから、おとなしくしているのが一番でした。そこで、棺をつくり、お経をあげ、三日目に五更に起きて、厳家の墓に運んで葬りました。

 晩に、厳列星と女房は相談しました。

「新婦は、頭にたくさんの装身具を、体にたくさんの衣裳を着けていたが、あれらのものを土に埋めても、何の役にも立たない。月が出ている間に、あの女の墓を掘り返し、装身具、衣服をはぎ取れば、銀子になるだろう」

女房はまったくその通りだと思いました。二更になりますと、二人は斧を手にとり、月の光を頼りに、家から墓へ行きました。家から墓までは、二箭も離れていませんでした。厳列星はツルハシで、女房は鉄のすきで土を掘りました。すぐに棺を掘りだし、棺蓋を開け、死体を取り出しますと、すっかり裸にし、頭の飾りをとり、女房に包ませて家に帰らせました。厳列星は死体を棺の中に置き、今まで通りきちんと埋めて帰ろうとしました。ところが彼がきた道には、小さな一間の関聖廟がありました。その廟を以前、明水鎮の人は何度か増築、改築をしようとしましたが、そのたびに関帝さまが夢に現れ、今まで通りで良いと言っていました。その晩、関聖の塑像は周倉のもっている泥の刀をもち、廟を出、道で賽東窓を胴切りにし、厳列星をも墓で真っ二つにしました。そして、棺の中の死体を生き返らせ、青い木綿の海青を彼女に着せ、彼女に家に帰る道を示しました。

 新婦が途中まで行きますと、一人の女が二つに切られて、地面に横たわっていましたので、びっくりして家に走って行きました。入り口に着きますと、門は閉じており、中には閂が掛かっていませんでした。そこで、真っ直ぐ自分の部屋の入り口に行き、叫びました。新郎はびっくりして話しをすることもできず、一言

「おまえとは普段恨みはなく、夫妻になり、結婚式もあげていないのに、まったくひどいことだ。葬ってやったのに、幽霊になって戻ってきて祟りをするとは」

新婦「私は幽霊ではなく、生きているのです。まるで関帝さまのような、赤い顔をした人が、私を救ってくださったのです。しかし私の衣装はまったくなくなっておりましたので、その方は青の木綿の道袍を着せてくださいました。そして、一人を墓で殺し、一人を道で殺しました。どちらも真二つになっています。私がきたとき、赤い顔をした人は、大きな刀を持って、墓に立っていました」

新郎「そんなおかしな事があったのか」

大声で彼の兄と兄嫁を呼びましたが、返事をする人はおりませんでした。仕方なく入り口を開け、彼女を中に入れ、じっくり見てみますと、本当に生きておりました。着ている道袍は実は彼女自身のものでした。明りを点け、彼の兄、兄嫁の家の窓の下へいき、叫びましたが、返事はありませんでした。門に入りますと、影も形もなくなっていました。そこで、心の中で疑わしく思いました。

「殺されたのは彼ら二人ではあるまいな。彼らは墓にいって何をしていたのだろう。墓泥棒をしたのではないだろうな」

両隣の人々を呼び、さらに二人の女を彼の嫁に付き添わせました。さらに郷約、地方に墓を見にいかせました。人々はまだ話を信じませんでした。

 途中まで行きますと、真二つになった人が道の上で死んでおり、腸、肝臓が一面に流れだしていました。脇には大きな衣装の包みがありました。よく見てみますと、彼の兄嫁の賽東窓で、少しも間違いがありませんでした。厳列宿は衣装を拾って抱きかかえ、さらに墓に行きますと、一人の獰猛そうな男がそこに立っていました。人々は足が竦んで、前に進むことができず、尋ねました。

「立ってらっしゃるのはどなたですか」

どんなに叫んでも、一言も返事をしようとしませんでした。そこで、さらに数歩進み、人でなければ何なのかをよく見てみました。そして、ふたたび足を引っ込めますと、石を拾って、いいました。

「返事をなさらないのでしたら、石をひろってあてても、怒らないでください」

それでも声を出しませんでしたので、石を体に当てますと、ばんと音がしましたが、まったく動きませんでした。人々はいいました。

「我々は十数人いるし、手に武器をもっている、あいつが人でも、あいつに勝てないはずはあるまい。一人を帰らせ、さらに幾人かを呼んでこよう」

人々は事件を知りますと、だんだんとやってきました。そして、武器を持ち、叫びながら、押し寄せましたが、よく見てみますと、廟の中の関帝さまでした。関帝さまは手に大刀を持っていました。刀にはべっとりと血糊がついており、地面には真二つになった男が横たわっておりました。よく見てみますと、厳列星に間違いありませんでした。斧は体の脇に、棺蓋は二ヶ所に棄てられていました。人々はみな跪いて関帝さまに叩頭しました。厳列宿は死体を納めて帰ろうとしました。

人々「このような異常なことは、役所に知らせて検分をしなければなりません。死体はとりあえず動かさず、一晩輪番で見守ることにしましょう」

帰る者が、廟の中に入りますと、関帝さまはいなくなっていました。周倉の手の刀を見てみますと、なくなっていました。そこで、廟の入り口の柵の中に行きますと、関帝さまが片手で門框を支え、体半分を門の外に出して、外を睨んでいました。郷約、地方は昼夜兼行で城内に入り、県知事に知らせました。県知事はすぐに人夫と馬をせきたて、自らやってきて子細に検分をし、豚、羊を供えて祭りました。塑像を二人がかりで廟に入れ、位牌の上に据えました。近くや遠くの人々は大騒ぎをして、とても大きな廟を建てました。

 新婦の周氏が騙された事情をくわしく話しますと、県知事は烈婦の扁額を掛けました。厳列宿も棺を買い、四つになった臭い死体を埋葬しました。このような奇妙なことは、天地が別れて以来初めてのことではありませんか。最近、蘄州の城隍廟の泥でできた鬼判が真っ昼間に街を走り、そのことが新聞に載り、天下の人々はみなそのことを知りましたが、関帝さまが霊力を現したことは、見聞の広くない者に話しても、信じようとはしないでしょう。

 明水の住民ちは、村で関帝さまが霊力を現しますと、「其の上に在るが如し」[5]どころか、本当に上座に座っていると感じました。「其の左右に在るが如し」[6]どころか、本当に左右に立っていると感じました。不忠、不孝、無礼、破廉恥な愚民たちは、この厳列星と女房賽東窓の悪い報いをみて、急いで行いを改め、善い行いをし、悪い心を去ろうとしました。関帝さまは心の真っ直ぐな神さまで、昔の悪事を咎めるだけでなく、必ず新しい善事を助けるのです。ところが、愚か者たちは厳列星たち二人への報いを見ても、少しも恐れず、天理を傷付けていた者は今まで通り天理を傷付け、姦淫、窃盗、詐欺を行っていた者たちはますます姦淫、窃盗、詐欺を行うようになりました。彼らの悪行は年ごとに激しくなり、日ごとに激しくなりました。彼らは「天地」の二文字を、耳元の風のように考え、関帝さま、城隍神、泰山府君、聖母を、効果のないもののように見做しました。

 最初は麻従吾だけが、後には厳列星だけが様々な悪事をしました。人々は運命だというしかありませんでしたが、天は胸のすくような報いを与えました。数年後の、人民たちの悪行、郷紳たちの横暴については、お話しする必要はございますまい。勉強をする学校の中で、虞際唐、尼集孔、祁伯常、張報国、呉溯流、陳驊らの禽獣は、それぞれ倫理に背くことをしはじめましたが、彼らのしたことを逐一指摘しようとしても、一つには口が汚れるため、二つには人々の耳が汚れるため、三つには正しい道を損なうため、四つには悪いことをする人は彼らだけではありませんでしたので、彼らのしたことを暴露するわけにはいきませんでした。しかし、獣たちは、後に少しの違いもなく報いを受けましたので、少しお話しすることにいたしましょう。それら妖怪たちの毒気が天の門をついたため、玉皇大帝は九霄凌虚宝殿にじっとしていられなくなりました。天旨が勘校院の普光大聖のところへくだされ、どのような罰を与えるかがくわしく議論されました。ところが、人というものは、飲んだり食べたりすることがすべて前世で定められているばかりでなく、一本の薪を焼き、一碗の水を使うことさえも、運命で決められているものなのです。清水さえもすべて神が司っています。神は人々の福徳の厚さを量り、毎日水を数斗飲むべきか、数升飲むべきかを決めてあるのです。十分に飲める人には何の問題もないのですが、定められた数量を越えた場合は、減点が行われ、罪もただでは済まされないものになるのです。水のあるところでは、水を値打ちのないものと見做しますが、これは孟夫子のいう「晩に人の家の門を叩いて水、火を求めたときに、与えないものがないのは、最も満ち足りている」[7]ということであります。人々は水も最高の宝であり、五穀と同じくらい貴重であり、天下のどこにも滔々として尽きることのない泉はないことを知らないのです。

 山東は十二山河と呼ばれ、済南には趵突、芙蓉など七十二の泉がありました。このように水の豊富な国でしたので、川幅も十里ありました。西南五十里のところに、炒米店という場所がありました。その周囲四五十里は、地面を一二万丈掘っても、一滴の泉もありませんでした。そこで、往復の百里を、驢馬、騾馬で運びました。ここは泰安に通じる幹線で、春秋の雨の季節に、泰安にお参りにいく者が、一日に数十万人通りました。しかし、この場所に着きますと、顔を洗うのはいうまでもなく、冷水を飲んで暑さをいやすこともできないのでした。

 済南の属県のうち、海豊、楽陵、利津、蒲台、浜州、武定の泉は、塩のように辛いものでした。そこで、みんなで池を造り、夏秋に雨水をため、冬に雪を掃除しました。春先に氷が解けますと、水は緑色に濁りましたが、家畜はその水を飲み、人々は水汲みをしました。大きな役人の家では、庭に数百の大甕を置き、夏秋の雨水を蓄えました。そこには青い苔がはえ、赤い色の米粒大のぼうふらは、手で掴まえることができるほどでした。しかし、霜が降り、水がだんだんと澄んできますと、ほかの甕を用いて水を澄ませました。同じことを二三回繰り返し、水が透き通り、少しの滓もなくなりますと、拳大の石炭を真っ赤に燃やし、熱いうちに水に投げ入れました。それぞれの甕に一塊いれ、甕の入り口をきつく閉めますと、その水は夏になっても腐りませんでした、茶を煮てもあまりまずくはなく、とても良い清酒ができ、一年中飲むことができました。

 河南の五吉、石泊、徘徊、冶陶、猛虎などの鎮では、煉瓦を積み、水を蓄えていました。遠くから桶に入れた水を運んできますと、銀子二銭の値段がつきました。家畜に水を飲ませるのには、五六分の銀子を要求しました。冶陶の宿屋には女将がおりました。年は二十数歳、汚い顔はまるで幽霊に髭が生えたようでした。手の裏表には一寸ほどの厚さの泥がついていました。泥は厚く積もっており、塊が落ちてくることもありましたが、露わになった皮膚は白くて柔らかいものでした。じっくり見てみますと、目、耳、鼻、舌、体は、醜くはありませんでした。彼女の夫を呼んで、尋ねました。

「あの女は何て汚ならしいんだ。餅を伸したり、麺を捏ねたり、飯を作ったり、米を研いだりしているのを見たから、飯が食べられなくなってしまったぞ」

男「ここでは、水で顔を洗うことはできないのです。雨が降ったら、それを蓄えなければなりません。地面の窪みから水があふれるようなときだけ、老若男女が顔や手を洗うのです」

そこで、二分の銀子を加えて彼に与え、女に顔、手を洗わせ、麺を捏ね、米を洗ってもらいました。顔を洗いますと、赤い色や白い色は、一輪の芙蓉のよう、二本の腕は、柔らかくて花の下の蓮根のようで、衫も履物もつけていない薄化粧の美人になりました。

 山西のように、水がないところはどこでもこのような有様でした。平順県は、潞安府から百里離れていました。城から五里の所には、浅い井戸が一つありましたが、一日五桶の水しか得られませんでした。県知事が二桶、典史、教官がそれぞれ一桶汲みますと、すぐに濁ってしまいました。夏秋の雨があるときでもこの有様で、日照りのときは、その分量すらありませんでした。上に井戸を造り、四方に柵を造り、井戸番を設け、昼夜守らせ、厳重に鍵を掛けました。そのほかの郷紳は井戸水を味わうことはできず、飲むのは池の中の雨、雪ばかりでした。日照りが長く続けば、池すらも涸れてしまい、黎城県まで歩くしかありませんでした。百六十里の道を、金持ちの家は家畜で運びましたが、貧乏な家には家畜はおりませんでしたので、人を使って担ぎにいかせるしかありませんでした。どういう風俗か分かりませんが、水売りはすべて女でした。それらの女は、まるで牛頭馬面のようではありましたが、彼らに水売りをさせるのでした。これはとても哀れを誘うものでした。

 このような乾いたところでは、水は無駄遣いできるものではありませんでした。しかし、明水の会仙山にある数十の噴泉、二三の滝、竜王廟の境内にある泉、白雲湖は広々として果てがありませんでしたので、水を汚すものではないとか、汚すのは罪深いことだとかいう考えをもつ人はいませんでした。そして、金持ちも貧乏人も水を家の中に引き、竜王の怒りに触れることを恐れず、水神を汚しているとも考えませんでした。また、この水で、よその人が飯を作ったり茶を沸かしたりすることや、この水をよその人が汲んで神、仏にそなえることも考えませんでした。気儘に濫用するのならまだしも、ひどい場合は男子、女子が、川では洗うべきではないものを、何でも洗いました。竜王はしばしば上奏を行い、河伯[8]は毎日恨み言をいいました。水官大帝は、厄を払い、罪を許す神でしたが、悪事を行う男女たちを隠し立てすることもできなくなり、天の命令が送られてきますと調査をし、天宮に上奏するしかありませんでした。明水の地は、世間の人々が犯す様々な悪事のほかに、泉の水を粗末にする罪を犯したのでした。そこで普光大聖会に二十天曹があつまり、会議をし、人々の罪をくわしく報告しました。二十曹官の中には、明水の住民が贅沢で淫乱であるのは、富裕だからだ、富裕なのは水の利を得ているからだという者がたくさんいました。他の所が夏に日照りでも、この地方には田を潤す水がありました。他の所が水害でも、この地方に水をうけとめる湖がありました。水の大きな恩恵を受けながら、人々は恩返しをすることを知らず、水を粗末にしていました。それに、昔から、恩恵を与えるものは、かならず災害をも与えるものです。巡り巡って、その時は災害が与えられるときにあたっていたのでした。

 玉帝は江西南昌府鉄樹宮の許旌陽真君は、神蛟を放ち、隣の郡の南旺、漏盛、范陽、趵突の泉を溢れさせ、白雲湖の水吏と協力し、辛亥七月十日子の刻に氾濫を起こし、悪人たちを溺れさせようと考え、玉帝に上奏をしました。玉帝は上奏を受け入れ、許真君に命令を下しました。しかし、玉のような人々を石のような人々と一緒に焼き[9]、良い人々を巻添えにするわけにもいきませんでした。許真君は命令を受け、慧眼から霊光を放ち、明水の悪人を見ますと、天符に書かれていることと少しも違わず、善人は百人中一二人、悪人は十中八九人でした。

 五月一日になりますと、真君は道士に扮し、繍江県に旅し、明水の地にやってきて、呂祖閣に泊まりました。昼間に外に出て家々を托鉢して回り、晩に戻って住持の道士張水雲とともに泊まりました。張道士は財産を貪り、色を好み、酒を飲み、女郎買いをする、大変な不良少年で、この地方の厄介者でした。毎日大きな盆にちぎった犬肉を入れ、焼酎を持ち、焼餅をつまみ、酒に酔うと飯をたくさん食べました。たまに曇って雨が降り、真君が托鉢に出掛けていないと、彼は薄いスープとお粥を勧める振りすらしようともせず、酒に酔っては、四の五の言い、真君を追い出そうとし、こういいました。

「清らかな仙人の家に、汚らわしい遊行の道士を入れるわけにはいかん」

しかし、真君は彼が罵るにまかせ、構おうとしませんでした。彼は酔翁[10]の椅子に、仰向けに座り、真君が出入りするのを見ても、体を曲げようとしませんでした。ある日、椅子を門のところに運んでいき、呂祖[11]の神像に背を向け、腰掛けてぐうぐうと眠りました。真君が托鉢に出掛けようとしますと、彼は殿門をぴっちりと閉めました。真君は溜め息をついていいました。

「『神さまによって服を着、神さまによって飯を食べる』という。おまえは純陽さまのお陰で、このようなさっぱりした場所に住み、方々からお布施を受けている。このような恩恵を受けながら、どうして尻を純陽さまの顔に向け、汚しているのだ。わしは彼に説教してやりたいが、一つには彼の死期が近いし、一つには彼は純陽に仕える者だから、指図するわけにはいかんのだ」

しばらく考えますと、真君は彼の脇を通り過ぎていきました。

 真君は毎日托鉢をし、人の家の前にいって経をよんだり、市場にいって薬を売ったりしました。丸薬は、目の前にある泥土をとり、唾を吐いて調合し、こねたもので、病気に応じて治療を行いました。彼は人々を避けず、彼らの前で唾を泥に混ぜましたので、人々はそれが仙丹であることを信じようとしませんでした。そして、彼の薬を買わなかったばかりでなく、彼を見ても、お斎食すら与えようとしませんでした。ある人が慌てて真君の前にやってきますと、真君はいいました。

「おまえ、ちょっと待て。おまえの女房が難産だが、他の人の薬はきかない。わしの丸薬をすぐに持って行き、温水で飲ませるのだ。この薬を子供が手にもって出てきたら、わしに返してくれ」

その人はびっくりし、

「女房が出産することができず、今にも死にそうなことを、あいつはどうして知っているのだろう。この泥の丸薬に効果があるとは到底思われないが、あいつは女房のことを占いもせずに知ることができたのだから、効果があるのかもしれない」

薬を持ちながら走って帰りました。女房は頭を振り乱して転がっておりましたので、湯をあけて、薬を飲ませますと、すぐに腹が少し鳴って、膣が開き、いとも簡単に白く太った子供が生まれました、子供は左手に丸薬を持っておりました。その人は喜んで飛びはね、薬を持って、急いで彼が薬を売っている場所に行きますと、真君はまだそこに座っていました。その人は何度も礼を言い、噂を広めました。人は羊のような性格で、一人が良いといいますと、皆がいいと言い、一人がよくないと言えば、人々もみんな良くないというものなのです。泥の丸薬がお産を促すのは珍しいことですが、人々はさらにその噂を有り難がり、無数の人が集まって、買おうとしました。真君はいいました。

「金をおいていかれる必要はありません。薬を持っていき、症状に合わせてお飲みください。この薬は相性がいいことが大事なのです。相性のいい人が飲めば、病気は手で取るようによくなります。相性がよくなければ、飲んでも役に立ちません。ですから薬を飲まれ、効果があってから、お金を払ってくださればいいのです」

病気で薬を飲む人たちは、本当に真君のいった通りで、飲むとすぐに良くなるものもあれば、飲んでも利き目がないものもありました。「薬は不死の病を癒し、仏は有縁の人を救う」というのはこのことでした。

 その後、真君の薬はよく売れるようになりました。真君は人の前で、泥をまぜ、薬をこね、薬を売った金は、貧民に分け与えたり、何か生きた動物を買って放ったりしました。後には丸薬を売らず、散薬を売り出しました。その散薬は地黄、白朮、甘草、茯苓を調合したものではなく、地面の乾いた土を、摘んで売るものでした。もっていきますと病気を治し、効果がある場合は、丸薬と同じ効果がありました。七月七日になりますと、真君はいいました。

「あなた方とのご縁も尽きましたから、十日に山へ帰ります。私がここにいる間に、薬が欲しい人は早く来てください。病気を治すばかりではありません。なにか災害があったとき、薬を門框の外に置けば、泰山のように安泰でしょう」

しかし、生半可な読書しかしたことのない人々は、普段は道理を弁えていないくせに、このときだけは、道理を信じて、いいました。

「そのようなことがあるはずがない。数両の人参、蓍、金石を買い、丸薬を捏ねたり、散薬を砕いたりしているが[12]、持っていって病気を治そうとしても、少しも効果はあるまい。今、土を人々の目の前で練り、人々を騙し、数百数千の金を騙しとっている。また災害の時は、薬を門の前に置き、災いから逃れることができるなどといい、怪しげな言葉で人々を惑わしている。このような怪しげな男がここで世を惑わし民を騙すのを、地方、総甲が許しているのは憎むべきことだ」

しかし、愚かな人々は固く真人を信じ、二三服ずつ買っていきました。七日から九日の晩まで売りますと、真君は呂祖閣に戻らず、姿が見えなくなりました。人民で薬を買ったものは、大事に保存するものもあれば、大したことはないと考え、家にもらってきても、ほったらかしにしておくものもありました。

 さて、呂祖閣の住持張道士は、真君が晩にやってこないのを見ますと、喜んで言いました。

「あの道士の奴は俺のところで二か月四日も世話になり、ようやく来なくなったが、ほかの所へ行ったのだろう。あいつの寝ていた場所に何かが残っていないか見てみよう」

弟子の陳鶴昌に蝋燭を持たせ、ついていきました。何もありませんでしたが、彼が眠っていた部屋の山墻[13]には、四句の詩が書いてありました。よく見てみると筆跡には湿り気があり、まだ乾いていませんでした。その詩は、

竹皮の冠、すすき(ぐつ)

鄱陽に往復、八千里。

語らず鉄樹宮のこと

神仙といはるるを恐るれば

張水雲と陳鶴昌はそれを見ますと、とても訝かりました。詩が何を言っているか分かりませんでしたが、心の中で教養のない道士ではなく、神仙に違いないということが分かりました。そして、ここ二か月、彼にたくさんの傲慢な行いをしたことを、とても申し訳ないと思い、しばらく後悔しますと、床につきました。その後、張水雲に事件が起こったのでした。

仙宮の鶴の世話役にはならず

竜宮の鮫の見張りの役となる

とりあえず次回を御覧ください。

 

最終更新日:2010118

醒世姻縁伝

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[1]晋の仙人許遜をいう。蜀の旌陽県令になったことがあるのでこういう。

[2]関羽のこと。関羽の諡が壮繆公なのでこういう。

[3]明代百十戸の長。

[4]広袖の服。鄭明選『秕言』巻一「呉中方言称衣之広袖者為海青」。

[5] 『礼記』中庸。

[6] 『礼記』中庸。

[7]原文「昏暮叩人之門戸、求水火、無弗与者、至足矣」。『孟子』尽心上。

[8]黄河の神。馮夷、冰夷、馮遅とも。『荘子、秋水』「於是焉、河伯欣然自喜、以天下之美為尽在己」陸徳明釈文「河伯姓馮、名夷、一名冰夷、一名馮遅」。黄河で沐浴していて溺れ、河の神になったという。『文選』李善注引『清泠伝』「河伯姓馮氏、名夷、浴於河中而溺死、是為河伯」。

[9]原文「玉石倶焚」。『書経』胤征「火炎崑岡、玉石倶焚」。

[10]酔翁椅。揺らして動かすことのできる安楽椅子。

[11]八仙の一人呂洞賓のこと。呂純陽ともいう。

[12]原文「修合[口父]咀丸散」。「[口父]咀」は草木の薬と鉱物の薬をいっしょに砕くこと。

[13]建物の四つの壁のうち、山形になっている二つの壁。 (写真を見る)

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