第二十七回

災難はにわかには訪れぬこと

鬼神はあらかじめ災いを知らせること

 

質実剛健 (うま)き国

足りて穏やか、並の生活

富みて奢らず、貧に耐へ

心はいとものびやかに

四季は穏やか、五穀は豊か

富を持ちたる息子あり

悪しき振る舞ひ、災ひ招く

罪が満ちなば鬼神は怒り

罰は覿面

百の災ひ下りたる

 さて、明水の地は、昔はもちろんのこと、わが太祖皇帝から天順帝の末年までの百年間にも、礼に従い、義を貴ぶ君子、上司に仕え、法律を守る小人がおりましたので、天は、穏やかな風雨と、国家、人民の安泰とをもたらし、報いておりました。しかし、富貴を楽しむ時間が長くなりますと、後から生まれてきた子孫たちは、一つは軽薄な気を受けたため、二つは誠実な先祖から離れ、耳目を汚されたため、浅薄な気風に馴染み、軽薄から傲慢、傲慢から放縦となり、放縦から法律を犯したり、天理を損なったりして、ますます邪悪なことをするようになりました。そして、天地の間を行ったり来たりする神々−年月日時の功曹、家の竃神、本人の三尸[1]六相[2]−が、これら大勢の人々の罪を、玉帝に上奏しますと、玉帝は激怒し、土地神、谷神[3]を天倉[4]に復位させました。雨師は、不規則に雨を降らせ、雨の降る時期が早すぎたり遅すぎたり、量が多かったり少なかったりするようになりました。風伯は、山を崩し、木を抜きました。七八月に早々と霜がおりたかと思えば、十一二月になってもまだ雷がおちたりしました。以前は、一畝の土地から、五六百石の収穫があったのに、一二石しか収穫がなくなりました。以前は、一年に二回収穫があったのに、今では、不完全な収穫が一回あるきりでした。悪者たちが天の罰を受けていることに気が付き、過ちを改めて祈祷を行えば、天は慈悲深い心をもっていますから、罪行を許し、災厄を除いたことでしょう。しかし、彼らは少しも態度を改めず、玉皇大帝を軽んじ、自分たちはちっぽけな汚れた俗物なのだから、天を軽んじてはならないのだ、とは考えませんでした。天が人を殺すのは、人が蟻を殺すようなもので、何も難しいことではありません。しかし、神さまは、すぐに手を下されようとはせず、しばしば衆生を戒めようとするのでした。

 丙辰の夏、わずかな麦がとれますと、その後は一滴の雨も降りませんでした。六月二十日過ぎに、ようやく雨が降りましたので、人々は晩生を植えました。その年は、七月十六日が立秋で、節気がいつも通りであれば、この晩生の田も実るものと思われました。ところが、八月十日前後になりますと、数日間秋雨が降りつづき、西北の風が吹き始め、人々はぶるぶると震えました。厚い霜がおり、晩生の苗は、凍えてぼろぼろになり、粟、小麦は、一石二両に値上がりしました。理屈からいえば、毎年豊作だったので、一季分の収穫がなくても、ひどいことにはならなかったはずです。しかし、人々は、豊年の収穫を頼りにし、凶作のことを考えず、たくさんの食糧を、気前よく安売りし、食べ物や衣装を買ったりしていました。ですから、突然凶年になりますと、食糧をもっている金持ちたちは、米を隠して売ろうとしませんでした。貧乏な人々は、食べる物がなくなりますと、木の皮を剥いだり、木の葉を集めたり、草を掃いたり、草の根を掘ったりしました。彼らは、これら四つのものを食べ尽くしますと、苫屋の腐った草を持ってきて臼で擦り、水を混ぜて腹に納めましたが、飢えを満たすことができませんでした。そればかりか、胃腸に詰まって、十人のうち十人が死んでしまいました。このほかには、飢えを凌ぐ方法がないのでした。山の上から出る白い土で、餅を焼いて食べる者がありましたが、やはり胃腸に詰まって、便を出すことができなくなり、十人中十人が死ぬのでした。これら二つのものが食べられなくなりますと、死人の肉を切ったり、生きた人をも食べたりするようになり、肉親同士が争い始めました。このことはくわしくお話しするに忍びませんので、少しだけ申し上げておけば宜しいでしょう。しかし、人の肉を食べた怪物たちは、翌年の春になりますと、病気になり、百人のうち一人残らず死んでしまいました。これは、神さまが人々を戒めたのでした。しかし、人々は、傷が良くなり、痛みもなくなりますと、今まで通り悪いことをしました。庚申十月、朝食のときになりますと、雲、霧、風、埃もないのに、前にいる人が見えなくなるほど暗くなりました。一時たちますと、晴れ渡りました。癸酉十二月の除夜には、二更に大きな雷があり、激しい雹、風となり、雨、雪が降りました。丙子七月三日には、二日寒さがあった後、急に東北に黒雲が起こり、碗、拳大の石のような雹が、一尺ばかりも積もりました。

 孟参政の夫人は奇病になり、銀、鉄を打つ音と「徐」という言葉を聞くと、体中が震えて、死にそうになるのでした。夫人は、五六年使っている小間使いを、とても可愛がっていましたが、彼女を嫁入りさせるときに、尋ねました。

「先方はどんな仕事をしているんだい」

媒酌人「銀細工師です」

夫人は持病の激しい発作を起こしました。さらに、刁俊朝という役者がおり、その女房はなかなか綺麗だったのですが、急に首に瘤ができました。初めは鵝鳥の卵の大きさでしたが、だんだんと大きな柳斗[5]の大きさになり、やがて瘤の中から琴、瑟、笙、磬の音がするようになりました。ある日、その瘤がぱちんと割れ、猿が出てきて、言いました。

「わしは猿の精で、風、雨を呼ぶことができる。漢江[6]鬼愁潭の、年を経た蛟とともに、人々に害を与えていたが[7]、天丁[8]が蛟を殺し、残党を掴まえようとしたため、ここに隠れていたのだ。南の堤の柳の木の中に、銀一錠があるから、お礼に差し上げよう。海粉[9]一斤を食べることができれば、首は元通りになるだろう」

刁俊朝は柳の木の中から、五十両の元宝を取り出してみました。表面に彫られた字によれば、貞観七年の内庫のものということでした。一斤の海粉を食べ終わりますと、首は今まで通りになり、少しの痕もなくなりました。また、張南軒は、年をとってから遺精の病気になり、昼となく夜となく精を漏らし、三年後に死にましたが、納棺されたときは、全身が透明で、内臓、筋肉、骨が、くっきりと見え、まるで水晶のようでした。

 二十六回にでてきた麻従吾と厳列星は、さらに奇妙な報いを受けました。麻従吾は、張仙廟を占領し、二人の道士を追い出しますと、さらに妙案を考え出しました。明水の東南十五里の沈黄荘に、丁利国という者がおり、豆腐を売って生計を立てていました。彼には妻が一人いるだけで、子供はいませんでした。彼らは、後に数百両の財産を築き、小さい家を買いました。さらに、驢馬を買い、豆腐の臼を挽かせました。財産ができたので、夫婦は良い物を食べました。絹は着ず、木綿の衣服でしたが、とても綺麗でした。彼らは、子供がなかったため、橋、道路の修理や、老人、貧民の救済を進んでしていました。彼らは豆腐売りでしたが、村人たちは彼らを敬いました。彼らに銀子を貸すように頼む人がありますと、彼らも二三割の利子を求めましたが、人々は、彼らが一生懸命に金を稼いでいるので、借りた金は必ず返し、だましたりはしませんでした。

 麻従吾は、丁利国が人を救う善人であることを知ると、豆腐売りがかならず通る道を聞きだし、前もって林の脇で待ちました。そして、丁利国が歩いてきますと、悲しげに泣きながら、林の中へ首吊りをしにいこうとしました。丁利国はそれを見ますと、豆腐の荷物を下ろして、尋ねました。

「まだお若いのに、どうして泣いて、死のうとされているのですか」

麻従吾「私をどうなさることもできないのでしょうから、お尋ねになる必要はありません」

丁利国「何をおっしゃいます。動物が死にそうなのを見たときでさえ、彼らを救わなければなりません。人ならなおさらのことです。あなたは方巾をかぶっており、お坊っちゃまに違いありませんから、お尋ねしないわけにはいかなかったのです。どのようなやむをえない事情があったのですか。あなたのお役に立つことができるかもしれません」

麻従吾「私は繍江県学の廩生で、家に妻と子供がおり、廩銀だけに頼って暮らしていました。しかし、今回、廩銀の半分を差し引かれてしまい、もう半分は期限通りに支給されていません。数人の学生を教えていましたが、凶作の年だったのでいなくなってしまいました。三人家族は、一日中飢えに苦しみ、他に策もないので、自殺をするしかないのです」

丁利国「お尋ねしてよかった。そうでなければ、あなたは死んでいたでしょう。どんな大変なことかと思えば、そんなことだったのですか。あなたは沈黄荘に住むことができますか」

麻従吾「私には家がありませんから、どこへでも参ります」

丁利国は、さらに尋ねました。

「あなたは勉強を教えることができますか。勉強を教えれば、家族三人で生活するのも難しくはありませんよ」

そして、豆腐箱の中から、二百数銭を取り出して、彼に与えますと、

「家にいって数升の米を買い、ご飯を作って召し上がってください。私は先に帰り、あなたのために片付けをし、数人の学生を招き、一年に十二両の謝礼を差し上げましょう。それでも費用が足りなければ、さらに謝礼を増やしましょう」

麻従吾「商売をしている方なのに、どうして私の面倒をみてくださるのですか」

利国「約束をしたのですから、私のことを心配される必要はありません。村に来られたら、豆腐屋の丁善人はどこかとお尋ねください。私のことはみんなが知っています。あなたがた三人のご飯を作ってお待ちすることに致しましょう」

麻従吾「そうしていただけるなら、あなたは私にとって父母のような方です。どうかわたしの義父母になってください」

丁利国「阿弥陀仏。とんでもないことです。私には男の子も女の子もありませんが、それは勿体ないことです」

約束をして、別れました。丁利国は家に戻りますと、女房に話しました。

女房「私たちには子供がなく、その人には両親がありません。その人は廩生ですから、面倒をみればいいことがあるでしょう。そうなれば、私たち二人の果報というものです」

 その後、女房は、家でご飯を作りました。丁利国は、朝に外出し、豆腐を売ってから、家に戻り、待っていました。すると、麻従吾が、女房を連れ、三人で、家にやってきました。彼らは、体以外には、持ち物がない有様でした。

 女房は、四十歳をこえており、ぼさぼさの頭、垢の着いた顔、大きな足、太い唇をしていました。顔は汚く、教養はなく、麻布の裙、衫は、綺麗なものではありませんでした。

 子供は、七八歳足らずで、腕白で、口数は多くありませんでしたが、私にいわせれば、優れた子供で、継ぎ接ぎをしたみすぼらしい靴下をつけていました。

 彼らが中に入り、丁利国ら二人に向かって拝礼を行い、旦那さま、奥さまと叫びますと、丁利国ら二人は、本当に彼らを受け入れ、家の後ろ半分を与えました。余分な部屋は、勉強を教えるための書房にさせました。よその家に子弟があれば、丁利国は引っ張ってきて勉強させました。学費が出せないものは、丁利国がすべて彼らのために謝礼を出してやり、約束の金額は十二両でしたが、さらにたくさんの金を与えました。丁利国は、しばしば手当てを出しました。その妻や子は、一か月三十日のうち二十五日は丁家の食事をとりました。

 麻従吾は、五星[10]の中の天毛、刑切[11]のようなもので、家に入ってもあまり祟りを起こしませんでした。十年間住むうちに、だんだんと父子のようになりました。住んで十一年目に、麻従吾が貢生になりますと、丁利国は、麻従吾の銀子には、一分たりとも手を触れさせず、十畝ほどの土地を買いました。上京の旅費、国子監にいるときの日々の費用は、すべて丁利国が出し、さらに、息子の麻中桂のために、嫁を娶ってやりました。麻従吾は、監生になりますと、試験を受け、通判に合格しました。丁利国は、十年間かけて溜めたものを、ほとんどすべて麻従吾のためににつぎ込みました。二つの官職を経た後、淮安府管糧通判[12]に選ばれ、妻子四人を従えて、二つの家の下男と数人の乳母、下女を招きました。銀帯[13]、衣装を作ったり、礼物を買ったり、旅費を作ったりしましたので、丁利国は、なけなしのお金を、すっかり使ってしまいました。

丁利国「毎年の貯蓄も使い果たしてしまった。夫婦ともに年をとり、婆さんは豆腐を作ることができず、爺さんは荷物を担ぐことができなくなりました。それでも、義理の息子に頼って生活をすることができるので、財産は必要ありません」

麻従吾が家族を連れて先に行きますと、丁利国は、家と家具を金に換え、後から出発しました。麻従吾は着任しますと、丁利国が間もなく着くだろうと考え、門番に、家に丁という姓の夫婦がやってきたら、取り次ぎをしてはいけないと言い含めておきました。

 数日もしないうちに、丁利国は、女房を連れていくことにしましたが、通判の父親、母親が従者をつけないわけにもいきませんでしたので、一人の下男を雇いました。息子の任地に着きますと、衣装を着けないわけもいきませんので、さらに晴れ着を用意しました。数両の財産を売って得た銀子から、使った額を除きますと、旅費しか残りませんでした。彼らは、淮安から二十里のところで、宿屋を見付けて泊まり、従者を先に役所に行かせて報告をさせ、彼に迎えの轎を寄越してもらおうとしました。従者は、役所の入り口につきますと、一つには山里の人間で、世間知らずだったため、二つには自分が通判の父親についてきたと思っていたため、役所の入り口に行き、大声で叫びました。門番は、事情を尋ね、丁という姓の二人がやってきたことを知ると、従者の首をつかんで、たっぷり二十歩近く推し出しました。

従者「裏切り者め。俺は通判さまの家の者で、大旦那さま、大奥さまについてきたのだ。おまえたちは乱暴なことをするものだな」

ところが、門番は恐れるどころか、哭喪棒[14]でぶちましたので、従者は飛ぶように逃げていきました。

 丁利国は、宿屋に座って、轎、馬、人足がくるのを、ぼんやりと待っていました。宿屋は、丁利国夫婦を、通判さまの父母だと思いましたので、鶏を殺したり、肉を買ったりして、ご機嫌取りをしていました。従者が戻って事情を話しますと、人々は目と目を見合わせました。

宿屋「淮安の下役は、少し乱暴で、よそ者だと知ると、詳しいことも尋ねずに乱暴をするのです。お付きの方は、相手の態度が不遜だったため、詳しい事情を話されず、逃げ戻ってくることになったのです。私がいけば、必ず分かってもらえるでしょう」

宿屋は、役所の人と知り合いでしたので、役所に行って尋ねました。

「今日はどなたが門の番をされているのですか。通判さまのご両親が来られ、私の家に泊まっておられるので、従者を遣わして前もってお知らせしたのに、棍棒でぶって追い返すとは、どういうことですか。大旦那さまと大奥さまは、とてもお怒りになっています。私は、わざわざあなた方のために、事情を話しにきたのですよ。早くお取り次ぎください」

下役はいいました。

「二三日前に『ここ数日の間に、二人の丁という姓の夫婦がきたら、取り次ぎをしてはいけない』という命令があったのだ。先ほど、あの男に尋ねたら、丁という姓の夫婦がきているということだった。何が『大旦那さま』『大奥さま』だ。おまえも奴らを泊めてはいかん。お咎めがあればただでは済まさんぞ」

宿屋はがっかりして帰ると、尋ねました。

「通判さまは、麻という姓なのに、あなたはどうして丁という名字なのですか」

丁利国「あなたを騙してはいません。これこれこういうわけで、あの人は私たちを義父母にしたのです」

宿屋はそれを聞きますと、怒っていいました。

「やはり本当の親子ではなかったのだな。おまえたちがここにきたら、門番は妄りに取り次ぎをしてはいけない、報告をしたら免職にするという命令を受けているのだ」

 丁利国は、そのことを聞きますと、怒りで目をぱちくり、口をあんぐりさせて、こう考えました。

「明日は五日だから、あいつはかならず総漕[15]の軍門に挨拶にいくだろう。行って、通りであいつに会い、様子を見てみることにしよう」

一晩が過ぎると、朝に起きて髪梳き、洗顔をし、一隻の船を雇い、城外まで行きました。城内に入りますと、ちょうど府の役人が出てきて、軍門に上がって揖をしていました。最初は太守の轎、二番目は同知の轎で、三番目に、麻従吾と推官の二台の轎が左右に並んで進んでいました。麻従吾は、銀帯を着け、山陰県知事の職務を代行していたため、印綬を下げ、翠蓋を差し、彫刻を施した明轎に乗り、意気軒昂としていました。丁利国は、走っていって、彼の轎を引き止め、話しをしようとしました。すると、麻従吾はすぐに気が付き、丁利国に向かって笑い、口を歪めましたので、丁利国は、すぐに足を引っ込めました。麻従吾は、一人の捕り手を呼びますと言い付けました。

「あの紫花布の道袍を着け、頭巾を被っている男は、わしの故郷の隣人だ。あの男にどこに泊まっているか尋ね、先に宿屋に戻らせてくれ。役所に戻ったら、手を打つことにするから」

捕り手は、丁利国を宿屋に戻らせました。

 麻従吾は、揖をして戻ってきますと、役所に入り、女房と話しをし、十両の銀子を包んで、彼らを追い出すことにしようとしました。

女房「数日間役人をすると、銀子を糞土の様に使われるのですね。大切な銀子を、十両も人に送られるなんて」

麻従吾「あの人にどれだけ送ればいいと思うのだ」

女房「一両か、多くても二両以下ですよ」

麻従吾「帰りの旅費に足りるようにしなければなるまい」

女房「私たちがあの男を呼んできたのですか。あの男の旅費に足りるかどうかなど関係ありませんよ」

 夫婦が相談をしていますと、息子の麻中桂が歩いてきて、尋ねました。

「お父さま、お母さまは何を話されているのですか」

女房「家に丁という姓の夫婦がきたんだよ。父さんは彼らに十両の銀子を送ろうとしたが、私は、銀子は糞土ではない、彼らには二両送れば十分だといったのだよ」

麻中桂は尋ねました。

「丁という姓の夫婦とは誰ですか」

女房「ぺっ。丁という姓の人間といえば決まっているだろう」

麻中桂「丁爺、丁奶奶ですか」

女房「そうだとも、ほかに誰が来るというんだい」

麻中桂は尋ねました。

「今どこにきているのですか。どうして役所に呼ばないのですか。ゆっくり食事代を払っても遅くはないのに、どうして先に銀子を送られるのですか」

女房「ぺっ。何を言ってるんだい。彼らに二両の銀子を与え、追い出すんだよ。彼らを役所に迎えたら、追い出すことができなくなるじゃないか」

麻中桂「彼らをどこに追い出そうというのですか。僕たち一家をここ数年養ってくれたのですから、彼らを養うべきです。二日も住まわせず、二両の銀子を送って、追い出すなど、とんでもないことです。千年役人をして、故郷に戻ったり、人に会ったりしないというわけでもないのですからね」

女房「この子ったら、何を根拠にそんなことをいうんだい。彼らが私たちを養ったというのかい。お父さまが、口の隅を、焦げ茶色の泡だらけにして勉強を教えたというのに、彼らが私たちを養っただって」

麻中桂「あの人はお父さまとお母さまを養ってはいないかもしれませんが、僕は、八歳のときから、あの人の食事を食べ、あの人の衣装を着、嫁まで娶ってもらったのです。あの人は、実によく僕たちの面倒をみてくれました」

麻従吾「じゃあ、どうしたらいいと言うのだ」

麻中桂「僕は、二人のご老人を、役所に呼んで住まわせ、良いお茶とご飯で恩返しをし、亡くなったら、葬式を出してあげればいいと思います」

女房「彼らの姓は丁で、私たちの姓は麻なんだよ。和尚と俗人のように、何の関係もないんだよ。それなのに彼らを養うだって」

麻中桂「あの人たちの姓は丁で、僕たちの姓は麻ですが、僕たちが彼らに何をしてもらったかよくお考えになってください。あの人は、十一二年間、僕たちを養い、僕が銀子を使って女房を娶るときも、お金を出してくれたのですよ」

女房「私の考えは決まっているよ。あれこれ言って、私の考えを乱さないでおくれ。人に二両の銀子を包ませ、はやく追い出すことにしよう」

麻従吾「金を払っても、少ないと文句を言って去ろうとせず、外でわめくかもしれない。役人になったのだから、昔のように恥知らずのならず者のようなまねはできないぞ」

女房は、麻従吾の顔に向かって、糞のように臭い唾を吐き掛けますと、罵りました。

「首切られじじい。秀才のときは、天も地も恐れなかったのに、役人になってから、人を恐れ始めるなんて。あいつがわめいたって、夾棍、板子が封じ紙で包まれているわけでもないだろう」

麻従吾「あの人たちを夾棍に掛けてぶつわけにはいかないだろう」

麻中桂は、しばらくぼんやりしていましたが、地団太を踏みますと、天よと叫びながら、家に入っていきました。麻従吾は、二両の銀子を包みますと、道の捕り手を呼んで、言い付けました。

「先ほど、道で出会った爺さんは、姓を丁というのだ。おまえはあいつを老丁と呼び、こう言ってくれ。『私の主人は、着任して間もないため、少しも収入がございません。さらに、総督、巡撫、道知事と同じ城内に住んでいますから、見聞きされるとまずいことになります』とな。二両の銀子を旅費として渡し、すぐに帰らせるのだ」

捕り手は、宿屋とともに、すぐに丁利国夫婦を追い出して、報告をすることにしました。

 捕り手は、宿屋まで尋ねていきますと、麻従吾が話したことを話し、主人とともに、丁利国夫婦に、出ていくように促しました。丁利国は焦って、言いました。

「たくさんの財産はすっかりあの方に使われてしまいました。数間の家もここにくるためにすべて旅費にしてしまいました。二両の銀子だけでは、ここ数日の食事代を払ったら、帰りの旅費がなくなってしまいます」

捕り手と宿屋は、上司を恐れており、よそからきた貧乏な夫婦のご機嫌をとろうなどとはしませんでした。宿屋は、丁利国夫婦のことを、大旦那さま、大奥さまだと思っていましたので、三度の食事、鶏、魚、酒、肉など、とてもよく面倒をみていました。元本と利子の計算をしますと、宿代は一両四銭五分で、全額を払いますと、五銭五分の銀子しか残りませんでした。夫婦は、敷き布団を担いで、大声で泣きながら宿屋を離れました。捕り手は、彼らが遠く離れたのを見届けますと、戻って報告をしました。麻従吾がこのような薄情なことをしますと、淮安城の内外の、大きな家も、小さな家も、みんな彼のことを罵りました。

 さて、丁利国夫婦は、来るときは旅費がたくさんありましたので、馬に乗り、さらに従者を雇っていました。しかし、雇われた男は、このよう子を見ますと、うるさく恨み言を言いました。丁利国は、彼に五銭五分の銀子、紫花布の道袍を与えて、先に帰らせました。丁利国は、女房の銀のかんざし、銀の丁香[16]も売り払い、足も動かなくなりました。怒りのため、前後して病気になって倒れますと、宿屋の主人は、彼らを追い出そうとしました。

宿屋の主人の女房「『家の中では父母が頼り、家の外では宿屋が頼り』といいます。彼らは重い病気になっているのですから、追い出すことはできません。死んでから、彼らの家の人が尋ねてきたとき、どう受け答えをしたらいいのですか。それに、彼らは淮安の糧庁からきたといっていますから、追い出すわけにはいかないでしょう」

宿屋は、女房の話を聞きますと、彼らを宿屋に泊まらせました。二日後、夫婦は同じ日に死にました。宿屋が県庁に報せますと、県庁では捕り手を遣わし、二つの破れた敷き布団を売り、二両の大きな筵を買って巻き、無縁仏の墓地に運んで埋めました。数分の銀子が残りましたので、紙銭を買い、彼らのために燃やしてやりました。宿屋は、二日分の粥を損し、さらに陰陽師のお祓いの費用を出すはめになりました。

 ふたたび、麻従吾が丁利国を出発させた日のことについてお話し致しましょう、息子の麻中桂は、怒って一しきり泣きますと、まるで精神病になったかのように、おかしなことを言い、裸になって狂いだしました。さらに、丁利国夫婦が死んでからというもの、役所の中の食器がひとりでに動いたり、入り口の窓がひとりでに開いたり閉じたり、犬が麻従吾の紗帽を被って人が歩くのをまねしたり、烏が飛び込んできて、彼の寝床の上で鳴いたりしました。数日が過ぎますと、釜の中に、犬の糞が撒かれたり、飯が炊ける頃に、空中から煉瓦が落ちてきて、飯を炊く鍋を粉々に砕いたり、二人が床で寝ているときに、寝床の足が鋸で切られ、寝床が床に崩れ落ちたりしました。さらに、数日が過ぎますと、丁利国夫婦が、以前の事を話し、罵ったり、呪ったり、大泣きしたりしはじめ、麻中桂夫婦を除いて、一人としてとりつかれない者はありませんでした。祟りは、日一日と厳しくなりました。道士を呼び、お祓いをしましたが、幽霊は、生身の人にとりついたり、麻従吾夫婦の体にとりついたりしました。道士に事情を告げ、しばしば禁呪を行いましたが、手のほどこしようがありませんでした。さらに、揚州の瓊花観[17]から、道士を呼んできました。丁利国夫婦の霊魂が人にとりついて訴えますと、道士は

「人と幽霊は別々に住むものだ。恨みがあれば、地獄へいって告げるべきなのに、どうして人の世にやってきて悪さをするのだ。陰陽を乱したことは、許すことはできぬぞ」

と言い、叫びました。

「二つの甕をもってこい」

道士は、剣に寄り掛かって呪文を唱え、令牌を叩きますと、叫びました。

「はやく甕に入れ」

すると、幽霊たちは、大声で泣きながら、甕の中に入りました。道士は、豚の膀胱で、甕の口を塞ぎ、上に朱砂で呪文を書き、封じ紙を張り、四人に二つの甕を担がせ、城外の西北の十字路に運び、埋めました。空の甕とはいっても、中には幽霊が入っておりましたので、とても重いものでした。道行く人々は、それを見ましたが、中に何が入っているかは分かりませんでした。それからというもの、役所は、今まで通り静かになりました。ところが、半月後、一日以上の雨が降りますと、この二人の幽霊は、急に怒りだし、以前よりひどい祟りをするようになりました。彼らは言いました。

「おまえはわしらをひどい目に遭わせ、永遠に出ることができないようにしようとしたが、また出てきてやったぞ」

「甕の中に入り、半月じっとされていたのに、どうしてまた世の中に出てくることができたのですか」

と尋ねますと、

幽霊「わしらを担いでいって埋めた日、人々は、甕が重たそうなので、中に何かがあると思い、毎日掘ろうとした。しかし、見回りがいたので、手を下すことができなかった。昨晩、雨が降り、夜回りはこなかった。そこを人が掘り返したため、逃げることができたのだ。これでも道士を呼んできてわしらをおさえつけようとするのか。わしら夫婦がおまえたち夫婦の腹の中に隠れ、おまえたちを思い通りに操れば、道士もどうすることもできないぞ」

麻従吾と女房は、腸を引っぱられ、心臓、肝臓を掴まれたため、頭をぶつけ、転げ回って叫んで許しを請い、救月[18]のときのように、ありとあらゆる願を懸けました。幽霊は腹の中で言いました。

「腹の中はとても熱く、住むことはできない。口を開けてくれれば、出ることにしよう。おまえたちは、あと数日生きられるだろう。我々二人は、ここを離れ、先に猫児窩に行き、おまえたち二人を待っていることにしよう」

それからというもの、役所はふたたび平穏になりました。

 翌年の正月になりますと、麻従吾は、漕撫に弾劾され、本籍に帰ることになりましたが、幽霊が待っていると言っていましたので、それを避けようと考え、下役の男に尋ねました。

「陸路をいきますと、桃源から二十里のところに、猫児窩がございます。水路をいきますと、曉州から北に三十里のところに、毛児窩がございます」

麻従吾は、水路を通って、猫児窩がある所を避けることにし、官船に乗りました。ところが、曉州から北三十里の所を通りますと、丁利国夫婦が岸に立っていました。麻従吾が「まずい」といいますと、二人の幽霊は、旋風のように、船の上に飛んできました。麻従吾と彼の女房は、自分で頭の毛を引っ張り、四つの黒い目の玉を、それぞれ抉り出し、鉄の火箸を、自からの耳に突き刺し、七つの穴からは止めどなく血が流れました。麻中桂が跪いて悲しげに頼みますと、幽霊は言いました。

「中桂よ、おまえはいい人間だから、ひどい目には遭わせない。しかし、おまえの親たちはとても薄情なので、わしは天の命を頂き、現世に仕返しをしにきたのだ」

麻従吾と女房は、あっという間に、死んでしまいました。麻中桂が板を買って納棺をし、棺に寄り添いながら明水に戻ったことは、いうまでもありません。さいわい、二か月前、三百七十両の銀子で、家を買っていましたので、麻中桂は、父母の棺を、母屋にとどめ、何度か法事を行い、清明の日になると、野辺送りをしました。麻中桂は喪を終えると、学校に入りました。麻従吾は、八か月通判をし、山陽県で、六か月の県知事の職務代行をし、人民の財産を搾取し、八千の銀子を稼いで家に帰りました。麻中桂は、たくさんの土地を買い、金持ちになりました。後に水害が起こりますと、ほかの善良な人々と同じように、押し流されることはありませんでしたが、これは、丁利国を裏切ろうとしなかった、善良な心によるものに違いありませんでした。麻従吾夫婦のような行いをすれば、息子も生きていることはできず、家は滅んでしまっていたはずです。諺にも「悪いことをすれば、遅いときは子孫に、早いときは自分自身に報いがある」[19]と申します。しかし、子孫が行いを正しくしますと、天地は特別な計らいをするのです。父母が悪いことをすれば、子孫が善人であろうと悪人であろうと、必ず悪い報いがあるというのであれば、これは報いが不当であるということです。

 厳列星への報いは、さらに奇妙なものでした。まずは、彼に関する二つの小さな事件についてお話しし、古今未曾有の奇妙な事件は、後でお話しすることに致しましょう。初めて生まれた彼の息子は、七八日糞をせず、小さな太鼓のように腹が膨れ、昼夜泣き叫びました。よく見てみますと、肛門がありませんでした。処置の仕様はなく、死ぬのを見守るしかありませんでした。翌年、ふたたび息子が生まれましたが、七八日目になりますと、やはりこの有様でした。ある遊行の道士が、秤の竿を突き刺すといいと言いましたので、いわれた通りに突き刺しますと、すぐに死んでしまいました。三年目には、ふたたび息子が生まれましたが、肛門はあったものの、全身に無数の穴が開いており、血が外に流れ、まるで矢で射られた土地神のようでした。このような報いがあっても、厳列星は、今まで通り悪事をし、反省することを知らなかったため、最後に異常な報いを受けることになりました。まことに、

善悪必ず報いあり

あるは遅速の違ひのみ

 

最終更新日:2010118

醒世姻縁伝

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[1]三虫、三彭、三尸神に同じ。上尸、中尸、下尸。

[2]六神、六臓神、六甲神に同じ。肺、心、肝、胆、腎、脾。

[3]穀物の神。

[4]西方七宿のうち婁宿をいう。

[5]柳を編んで作った穀物入れ。

[6]陝西省に源を発する、長江の支流。

[7] ここに見える刁俊朝の物語は、宋欧陽玄『逎車志、漢江鬼』を敷衍したものである。「伶人刁俊朝妻、項飄如数斛之嚢、飄裂一皰跳出、曰『吾老猴精、解風、与漢江鬼愁潭老蛟往還』」。

[8]天兵。

[9]亀からとる食品。巨石を亀の背に乗せると口から吐く粉だという。明謝肇淛『五雑俎』物部一「海粉乃亀黿之属腹中腸胃也、以巨石圧其背、則従口中吐粉、吐尽而斃、名曰海粉馬。持斎者常誤食之」。

[10]木、火、土、金、水星のこと。

[11]天毛、刑切ともに未詳。

[12]知府の副官。

[13]銀の飾りのある帯。

[14]葬儀の時、死者の息子がすがる杖。

[15]漕運を総管する官。『明史、職官志二』「成化八年分設巡撫、総漕各一員」。

[16]丁香に関しては第十五回の注参照。

[17]揚州甘泉県にある蕃釐觀のこと。唐代に瓊花が植えられたという瓊花台がある。嘉慶重修『揚州府志』巻三十二、古蹟二、甘泉県「瓊花台在小東門外蕃釐觀内。唐所植。天下独此一株。欧陽修作無双亭以賞之、元至正間、因花不存、補植八仙花為台、以誌其処。元末廃。正統間知府韓宏重建」。毛奇齢詩「何年創此瓊花觀、不見瓊花此觀閨v。蕃釐觀は揚州府甘泉県大東門外にあり、もとは漢の成帝元延二年に建てられた后土祠であったという。前掲書巻二十八、寺観一、甘泉県「蕃釐觀。大東門外。即古后土祠。漢成帝元延二年建」。

[18]月蝕のときに行う儀式。

[19]原文「可見雖説是『遠在児孫』」。「遠在児孫」は、「遠在児孫近在孫」の省略形。

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