第二十五回

薛教授が山中に籍を置くこと

狄員外が宿屋で縁を結ぶこと

 

隣人選び 家占ひ

仁徳者ならかくすべし

いとも麗しこの山河

何処(いづこ)もここに勝るまじ

絳闕[1]、陽台[2] 必要なし

蓬莱まさにここにあり

それに女と縁があり

ひそかに結ぶ赤き糸  《清平楽》

 さて、明水鎮には、姓は狄、名は宗羽、号は賓梁という金持ちがおりました。彼は勉強がものになっておらず、腹の中にある半瓶の酢は、滔々として、常に溢れだそうとしておりました[3]が、生活が豊かで、侠気があり、人柄にも古人の風格がありました。そして、家の隣に綺麗な宿屋を開き、東の三つの府の役人を招いておりました。飯代やまぐさ代などは、わずかに稼ぐことができればよく、ほかの宿屋のように、ひたすらに、満足するまで金を取ろうとすることはありませんでした。貴い客がくれば、賓客のようにもてなし、飯代をとらず、友人になりました。交際をする人々はみな彼のことを狄員外と呼びました。

 ある日、轎、臥轎、数頭の騾馬が、朝から宿屋に泊まりました。狄員外は人に尋ねました。

「宿に泊まられたのはどんなお方だ」

「一人の旦那さま、ご夫人、妾、下女、二人の下男の女房、三人の下男たちです。河南衛輝府の方で、姓は薛という方です。兗州府学の教授をされていましたが、今回青州衡府[4]の紀善[5]に昇任し、赴任されるところです」

狄員外はさらに尋ねました。

「お年はどのくらいだ」

「五十近くで、とても穏やかな、性格の良いお方です」

狄員外は自ら宿屋に行き、薛教授と会い、履歴を述べました。狄員外は女房に改めて茶を取ってこさせました。話をしておりますと、昔からの友人のようにうちとけました。狄員外は別れて家に戻りますと、人によく接待をするように言い付けました。薛教授も狄員外の家についてきて返礼をしました。狄員外はすぐにもてなし、引き止めて夕飯をとりました。話をしますと、薛教授は別れて宿屋に帰りました。

 翌日の朝、薛教授は四包みの糖纒[6]、二斤のカキチシャを贈りました。狄員外はそれを受けとり、下男に五十文を与えました。さらに、薛教授を呼び、送別をしました。薛教授が五銭の銀の飯代を贈りますと、狄員外は何度も辞退しましたが、薛教授はひたすら受け取ってくれといいました。すると空がだんだんと曇りだし、雨が降りそうになりましたので、狄員外は強く引き止めて、いいました。

「二十里先に二十里舗がございますが、小さな宿屋ばかりで、轎、馬を休めることはできません。さらに二十里先は県城です。この雨はすぐに止むでしょうから、しばらく待ってらっしゃる方がよろしいでしょう。天気がだんだんとよくなりましたら、もちろん長くとどまられる必要はございません。もしも雨が降れば、こちらにはまぐさがございますし、食事もお出しすることができます」

引き止めておりますと、雨が降りだしましたので、薛教授は荷物を解き、晴れるのを待ちました。昔から「門を開いたときに雨でも、食事を終えれば晴れる」といいますが、この日の天気はそうではなく、強くも弱くもない雨が、降りやみませんでした。

 あっという間に昼になりますと、狄員外はさらに昼食を用意して届けました。薛教授は夫人と相談しました。

「雨はやみそうにないから、今日は出発することはできない。ここにじっとしているよりは、何か食べ物と酒を買ってきて狄さんと話しをした方がいい」

薛夫人「味噌桝の中に、よく煮た臘肉[7]、塩漬鶏、済南から持ってきた塩漬肉、さらに甘い小蝦、豆豉、タケノコがございます。また人を遣わして幾つか買ってきておかずにいたしましょう」

さらにたくさんの食べ物を作って、宿屋の一番奥の楼にもっていき、大きな瓶に入った極上の清酒を買い、狄員外を呼び、話をしながら雨を眺めました。まさに「初め会ったときは見ず知らずでも、二回目からは友人」で、ますます仲が良くなりました。

 今回は無駄話はせず、二人の家のことをお話し致しましょう。薛教授は「自分は衛輝府胙城県の者で、名は薛振、字は起之といい、十七歳で廩生、四十四歳で貢生になり、初めは金郷[8]の訓導、次に河南杞県の教諭、その次に兗州府の教授になり、八か月で、衡府の紀善に昇任しました。ここ数年は束修をため、なんとか生活をしておりましたが、家にいた異母弟が、大変な悪人で、私を殺そうとしました。今五十二歳ですが、息子、娘はまだおりませんので、彼を避けております、そうでなければ、ここにきて役人をすることもないのですが」といいました。狄員外は尋ねました。

「息子さんは生まれたのに育たなかったのですか。それとも昔からいなかったのですか」

「妻を娶ってから、一人も生まれていないのです」

「妾をとられてはいかがですか」

「来るときに、一人娶ったのですが、天がどう思われているかは分かりません」

さらに狄員外に尋ねました。

「幾人のお子さんがいらっしゃいますか。お年は幾つですか」

「あなたより十歳若く、今年ちょうど四十二歳です。やはり子供はおりません」

薛教授は尋ねました。

「妾はおもちですか」

「五十二歳のときに妾をとりましたが、妾をとるのは難しいことです。占い師はみんな私が四十四のときに子が生まれるといっておりますが」

「占い師の話では、私は五十四歳のときに女の子が、五十六歳のときに男の子が生まれ、三人の子にみとってもらえるとのことです」

さらに言いました。

「明水は士民は純朴、風俗は美しく、本当に楽園です」

「昔のこの地は、あなたがおっしゃった通りのところでしたが、今はだんだんと昔より悪くなり、最近の若者は、昔の人々ほど質朴ではなくなりました」

「昔には及ばなくても、他の所よりはましです。私の故郷などは、ますますひどい有様です。あなたのところにはよそから人がやってきますか」

「私のところはよその人を拒んだりはいたしません。しかし、土地は売ったことはなく、数世代にわたって伝えております。まさに先祖代々の財産です。しかし、東の三府の大通りでは、田を耕すこと以外でしたら、あらゆる商売をすることができます。ここには布屋がとても少なく、布を使うときは、府に買いにいったり、県に買いにいったりしなければならず、とても不便なのです」

「店を開く人がいないのは、よく売れないからでしょう」

「よその人は、だれも家を離れてこの土地で店を開こうとはしません。この土地の人は幾畝かの土地を耕すのが彼らの本分であるということしか知らず、金を稼ぐ仕事は少しもできないのです。私の家で宿屋を開いておりますのは、金を稼ぐのが目的ではなく、驢馬を休ませ、彼らの糞をあつめて畑にやるためです。飯代、まぐさ代を安くして、泊まらせるのです」

「どうりで、昨日昼をすぎたばかりのときに、済南から七十里歩いて、ここに来ましたが、しつこく泊まるように勧められたわけですね」

話をしながら酒を飲んでおりますと、一更過ぎになりましたが、雨はまだ止みませんでした。狄員外は傘をさし、泥靴を履き、薛教授に別れて家に帰り、朝食を用意するように命じました。

 翌朝、空はだんだんと晴れましたので、薛教授は出発の準備をしました。狄員外は彼を客とは考えませんでしたので、飯代を払うわけにもいきませんでした。そこで、何度も礼を言って別れ、人を遣わして礼を言うことを約束しました。薛教授は青州に赴任しましたが、王府の役人という職業でしたし、衡府は天下に名だたる貧しい場所でしたので、その日暮しをするしかありませんでした。正月が近付きますと、一人の下男の薛三槐に二十斤の糖球[9]を持たせ、二匹の寿光[10]産の土絹、一通の手紙を書き、狄家にだけ礼を言いにきました。狄員外は薛三槐を二日引き止め、返事の手紙を書き、二匹の自分で織った木綿の紬、二本の腿肉を包んで返礼にしました。さらに、薛三槐に三銭の銀子を贈りました。その後、二人はしばしば行き来し、互いに贈物を送りました。ある年の二月に、薛教授はさらに下男薛三省を遣わしました。清明までに胙城に帰って墓参りをするのですが、明水は必ず通る場所でしたので、狄員外に手紙を送ったのでした。

 さて、狄員外は、正月二十日に、一人の息子を生みました。そこで、家をあげて珍しい宝を手に入れたかのように喜びました。薛三省がついた日は、ちょうど息子の満月で、親戚、友人はみんなお祝いにきておりました。そこで、酒を買ってもてなし、とても忙しくしました。狄員外は薛三省にいいました。

「あなたは私より十歳年上です。占い師には私が四十四歳で子供を産むといわれましたが、今年四十四歳で、息子に恵まれました。あなたがたのご主人は、占い師に五十四歳のときに女の子が生まれるといわれたとおっしゃっていました。お妾におめでたはございましたでしょうか」

「妾は昨日、二月十六日に、娘を生みました。私がきた日は、ちょうどその次の日でした」

「二つの占いが当たったのですから、きっと男の子も授かることでしょう」

薛三省を引き止めて夜を過ごし、翌日出発させました。

 狄員外は三月十一日に薛教授がしばしば人を遣わしているのに、こちらは二年間一人も返事の使いを遣わしておりませんでしたので、三月十六日の娘の満月までに、彼に祝い品を贈り、彼に息子が生まれたことを知らせようとしました。すぐに、五銭の重さの銀、一両の重さの腕輪、幾つかの食べ物を、下男の狄周に命じて、騾馬で運ばせました。薛教授の家に着きますと、薛教授は手紙を開き、礼物を受け取り、狄周をもてなして二日泊まらせ、返事の手紙を送り、祝い品を返しました。両家の付き合いは、ますます親密になり、あっという間に八年がたちました。藩王府の役人の考査が行われるとき、薛教授は長史[11]と気脈を通じ、老齢で病身であるとを書いてもらい、辞職を許されました。

薛教授「こちらに八年住みましたが、少しも儲けがございませんでしたので、官位を捨てた方が楽です。しかし、故郷に戻り、悪い弟に命を狙われるのは堪りませんから、通り掛かりの明水に住むほうがいいでしょう」

果たして五十六歳で息子がうまれ、五十八歳で次男が生まれました。 薛教授

「この二人の息子が成長してから、家に帰っても遅くはない」

荷物を纏め、先に下男薛三槐に手紙をもたせ、狄員外にあらかじめ家を探すように頼み、明水にしばらく住むことにしました。

 狄員外は手紙を見ますと、薛三槐にいいました。

「薛さまには是非きていただきたいと思います。とりあえず隣の宿屋にとまっていただき、私が付き添ってゆっくりと自分で気に入った家をお探しになればよろしいでしょう。私はここで待っておりましょう」

薛三槐を報告をしにやらせ、人に宿屋の裏の家の掃除、表装をさせ、さらに、敷き布団を清潔なものにかえ、新たに竃を造り、食器、テーブル、椅子の類いを置き、米、麦、薪、油、塩、味噌、酢など、あらゆる物を揃えました。

 一日足らずで、薛教授は家族を連れ、三四十里離れたところから、薛三省を遣わし、住む場所を下見させました。薛三省はあらゆる物が整っているのをみますと、飛ぶように報告をしにいきました。薛教授はとても喜びました。狄員外は急いで女たちに食事を調えさせ、もてなしました。間もなく、薛教授は家族とともにやってきて、奥に入りましたが、家は先日来たときよりもきちんとしており、自分の家でさえもこのように便利ではありませんでした。狄員外はすぐに挨拶をしに行き、自ら食事を運び、別れを告げて家に戻りました。薛教授はすぐにやってきて返礼をしました。

 翌日、狄員外の女房は一テーブルの酒を用意して、薛教授の夫人に会いにいきました。初対面ではありましたが、とても打ち解けました。薛教授の夫人は娘と二人の息子をつれてきて会わせました。娘は六歳で、夢に白い服を着た仙女が家に入るのを見てから、彼女が生まれたので、素姐と名付けました。上の息子は四歳で、春哥といいました。下の息子は二歳で、冬哥といいました。素姐の姿はといえば、

青黒き顔の皮

黒き髪の毛

白き顔

赤き唇

細き腕

()さき足

ニクズクのつぼみとはいへ

芙蓉の美人にこそならん。

二人の息子も貧相な顔はしていませんでした。さらに妾を呼んで会ってみますと、

先の尖りし()さき髷

履くは弓鞋[12]

紫の顔

容姿はまだ下

か細き身

背は中の上

根無き霊芝といふものの

恐らくは驊驑[13]の末裔

会いますと、人々は長話しをし、別れました。

 翌日は、薛教授の夫人が人に命じて五斤の豚肉、二羽の鶏、二匹の魚、二十匹の蟹、二本の蓮、六斤の山芋、二盆の点心を計りとらせ、会いにきました。狄員外の女房は人に命じて物を買い、接待をし、息子の狄希陳を呼び、薛夫人に会わせました。彼と薛素姐はどちらも六歳でした。狄学生は正月二十日寅の刻の生まれ、素姐は二月十六日巳の刻の生まれで、狄学生は薛素姐より一か月年上でした。狄学生はあまり美しくはありませんでしたが、くっきりした眉に大きな目をしており、重々しさがありました。薛教授の夫人は心の中で思いました。

「もしも我々が河南にもどるのでなければ、私は素姐をこの人と婚約させるのだが」

狄員外の女房は腹の中で考えました。

「彼女がもしここにとどまるなら、陳児をこの娘の婿にしよう」

二人の夫人は心の中で考えたことを、帰ってからそれぞれ自分の夫に話しましたが、そのことはさておきます。

 数日後、薛教授は狄員外とともに明水鎮の人々に挨拶をし、ついでに家を探しました。薛教授は狄員外と相談し、布屋を開くことを計画し、表に店のついた家を探しました。たくさん探しましたが、適当なものはありませんでした。店がよくても裏の家がよくなかったり、裏の家がよくても表の店が良くなかったりしました。

 困っておりますと、ちょうど単教官の息子単豹の家がみつかりました。単豹の父親は単于民といい、南陽府学の訓導をしておりました。儲けの少ない教官の職だというのに、彼は賄賂をとりはじめ、人々も彼に抵抗することはできませんでした。やがて、教授が欠けますと、彼が職務を行うことになりました。その頃、新たに数人の秀才が入学しました。昔は一両を送ればよかったのですが、その頃は三両でも彼を動かすことができませんでした。彼は役所の正規の料金を要求した上に、自分の部署が以前とっていた料金を要求しました。下男も付け届けを要求し、息子も小遣いを求めましたので、新しい秀才たちは、田地を質に入れたり売ったりしました。中に程生、程法湯という者がおりました。彼は幼いときから父母がなかったため、寡婦の家に入婿し、勉強をしていました。彼は府試で情実を加えてもらうための銀子を持っておりませんでしたので、いつも学道の行う試験を受けることができませんでした。ところが、今回はどういうわけか学道の行う試験を受けることができ、二位になりました。すると、単于民はしつこく金を要求し、比較を行い、何度もぶちました。そこで、程法湯は姑と嫁の装身具も鋳潰し、衣服も質入れしました。姑は数畝の土地をもっており、それを売って彼に送ろうとしましたが、婿の二人の家族が食べるものがなくなってしまいますので、土地を売るのをやめようと思いました。しかし、単于民に捕まってしこたまぶたれるのが恐ろしくもありました。

 困っておりますと、ちょうど八月の丁祭[14]になりました。祭礼が終わりますと、単于民は名簿を手にとり、秀才たちの点呼を行い、やってこない者からは、すべて賄賂を取り立てました。各人五六銭の銀子でした。程法湯は名を呼ばれますと、恭しく返事をしました。彼は程法湯を跪かせ、いいました。

「妓夫にも色長[15]という(かしら)がいるし、強盗にも大王という頭がいるものだ、おまえたち秀才にも頭がいないわけはあるまい。『山の見張りは山の薪を燃やし、河の見張りは河の水を飲む』ものだ[16]。おまえは、学校に入って、わしに数両の銀子をおくっただけで、拱手しようというのか。わしは妓夫や芸人を指導しにきたのではないぞ」

腰掛けを運んできますと、門番に命じて二十五回、程法湯を天にも上れず、地下にも下ることができないほど、しこたま板打ちにしました。程法湯は、ひとえの袴はぼろぼろに、二本の足は真っ黒な固まりになり、心の中で腹を立てました。名誉を得るために学校に入り、姑、嫁の装身具、衣装をすっかり鋳潰したのに、不興を買い、しこたまぶたれてしまったのでした。彼は棒で打たれた傷がひどく痛み、腹を立てて、傷寒になり、四五日足らずで死んでしまいました。

 孫郷紳という人が兵部主事をしていました。彼は景皇帝が英宗太子を廃そうとしたとき、諫言をして怒りに触れたため、故郷に戻り、閑居しておりましたが、この事件があったことを聞きますと、不平に思い、自ら程法湯を弔問し、程法湯の尻を検分しました。腿はぶたれて青黒くなり、もう一方の腿はぼろぼろに裂けていました、彼はそれを見ると大声で泣き、すぐに単于民と争うことにし、自ら省役所に赴き、両院司道[17]に上申書を出しました。両院は学道を派遣し、単于民は河間衛に充軍となり、銀子七百両の賄賂を返すように命じられ、二百回以上板子でぶたれました。二人の門番は徒刑になりました。単于民は一文無しにはなりませんでしたが、一敗地に塗れて故郷に帰りました。

 単豹は単于民の一人息子で、若いときは大変な美男子でした。体はあまり大きくありませんでしたが、白い顔に長い髭をはやし、とても気高い雰囲気がありました。十八歳で学校に入り、廩生になりましたが、いつも優等になっておりました。人と付き合うときは、本当にでたらめなことを言わず、いい加減な行動をしませんでした。数杯の酒を飲むこともできましたが、酒乱になることはありませんでした。花柳の巷では、ろくでもない友人たちも、彼をだますことはできませんでした。家では孝行で、反抗的なところは少しもありませんでした。単于民が教官になり、単豹が三十数歳になりますと、だんだんと性格が悪くなりましたが、それでもまだ人間らしさが残っておりました。ところが、程法湯を打ち殺してからというもの、単豹はますますおかしくなり、まず自分の嫁を、毎日のように殴り、二か月あまりで、首を吊らせてしまいました。そして、単于民の姿を見ますと、目を剥いて、叫んだり罵ったりし、拳骨でぶとうとしたりしました。お父さん、お母さんと呼ぼうともせず、単于民を「牛」、単于民の女房を「犬」、自分を「程さま」と呼び、やがて性格がばかりでなく、顔や声まで昔とすっかり変わってしまいました。左の目は吊り上がり、鼻は右に曲り、顔にはおかしなところに肉がつき、長い髭は縮れて回教徒のようになりました。たまに目が吊り上がらず、鼻も曲がらず、父母に会うと、普段のように従順なときがありましたので、以前どうしてあのようなことをしていたのかと尋ねますと、彼はその話しを信じようとせず、自分を騙していると言い、また悪くなってしまうのでした。歳考に赴いても、彼は文章を作らず、答案に程法湯の冤罪を訴える文章をびっしりと、とてもくわしく書くのでした。学道は彼がよく書けているのを喜び、六等の一位にし、さらに県庁で調査をしました。県庁は報告をしました。

「彼は精神病です」

「これは精神病ではなく、何かの恨みの報いだろう」

県から報告書が送られますと、学道は調査をやめてしまいました。後に彼の父親が死にますと、棺に納めようとせずに、引き出しました。一族の人が無理やり棺に入れますと、彼は金槌で開けて見ようとしました。ある日、彼は棺を腰掛けごと押し倒し、底を開けました。臭い匂いで村中が迷惑し、人々は彼を掴まえて役所に送ろうとしました。彼の母親は彼には内緒で、新たに職人を呼んで棺に石灰をまき、四更に起き、閂で運んで埋葬しました。

 単于民が埋葬されてから、精神病はだんだんと変化しました。単豹は酒を飲むと狂ったようになり、賭場に行きますと、どんなごろつき、乞食とでも、腰を掛けて賭博をしました。人が彼に勝ちますと、金額通りに金を払いました。人に彼が勝ちますと、催促しようとはしませんでした。娼婦に会うと、美人でも、醜女でも買いましたので、体中に「天報瘡」ができてしまいました。

 単于民が新しく買い足した財産は、すっかり売られ、先祖が残した家しかのこりませんでした。その家は楊尚書の向かいにあり、おもてには三間の店舗、裏には住宅、客間、書斎がすべて揃っていました。薛教授はとても喜びました。しかし楊家の向かいに、よその人が入り込むことはでず、楊尚書の孫に買われてしまいました。そこで、狄員外に頼んで話をしにいかせました。薛教授が家を借りて住もうとしているのだがといいますと、楊家ではすぐに承知して、いいました。

「この家はすぐ隣だったので買ったのです。実際は使いませんから、ご自由に泊まられて構いません。百五十両の銀子で買いましたから、毎月一両五銭の家賃で結構です」

狄員外は薛教授に話し、半年の家賃の銀子九両と一両八銭の敷金を包み、狄員外とともに家に送りました。楊官人はそれを受け取りますと、いいました。

「修理するべきところがあれば、ご自由に修理なさってください、このお金は、帳簿につけ、家賃とすることにしましょう」

薛教授はすぐに修理をし、吉日を選び、引っ越しました。狄員外は隣人たちを集め、彼のために転宅祝いをし、狄員外の女房も礼物を買い、日を改めて薛教授の夫人に転宅祝いをしました。薛教授は引っ越しをしてから、とても平和に暮らしました。狄員外たち二人はいつも一緒に話をし、布屋を開く相談をしました。

 ある日、青州の布商人が、臨清から布を仕入れてきました。彼らは行くときは明水に泊まりませんでしたが、臨清から帰るときは、三日目に済南の東二十五里の王舎店に泊まり、四日目に繍江県に泊まりました。この日は雨が降りましたので、明水に泊まったのでした。狄員外と商人は、布屋の商売について話しをはじめました。商人はくわしく話しをしました。親戚がここで布屋を開こうとしているといいますと、商人はいいました。

「それは簡単なことです。私たちはたえずやってまいります。ご親戚にはきちんと準備をしていただき、私たちが戻ってまいりましたら、その人をつれていくことにいたしましょう。この商売は儲けが多く、わが青州に行っても、確実に二割の利益がございます。ここに来るだけでしたら、三割の利益があることは請け合いです[18]。この布屋には少しも粗悪品がなく、半尺数寸でも売ることができます。ただ、商売はきちんとした人にやらせるべきです。もしも途中で派手に飲み食いをし、二晩女郎買いをし、店で質の悪い銀をつかまされたり、見間違って偽の銀子をつかまされたりされたら大変です。その人を私たちと一緒に行かせれば、間違いはございません」

狄員外は尋ねました。

「あなた方はいつまでに戻ってこられるのですか。私はここで親戚を待機させましょう」

客「二十日に一回まいります。時間を違えることはございません。雨が降っていても、半日も遅れることはございません」

その日、人々の飯代を、狄員外はどうしても受け取ろうとはしませんでした。狄員外は、商人を出発させますと、薛教授に話をし、彼に銀子を準備させ、下男たちには、商人たちが戻ってきたら同行するように命じました。そして、きちんと片付けをし、品物がきたらすぐに店を開けるようにしました。薛教授は五百両の布を買う元手をそろえ、さらに五十両でスカーフ、汗巾、靴下、麻布、手巾、細々とした雑貨を買い、薛三槐、薛三省の二人を遣わして同行させ、その後は彼らを代わり番こに行かせました。

 期日がきますと、商人たちは戻ってきて、薛教授に会いました。薛教授は商人たちを酒、飯でもてなし、すぐに薛三槐たち二人を一緒に出発させました。まもなく、彼らは商人たちとともにたくさんの布を買い、驢馬に載せて戻ってきました。そこで、吉日をえらんで布屋を開きました。大きな街で、このような商売をしますと、一日二三十両の儲けがありました。薛三槐たち二人は代わり番こに、番頭をしたり、金の出し入れをしたりしました。薛教授は、何もないときは、一日中店に座って商売をするのを見ていました。狄員外は暇なときはいつも、薛教授の店にいって腰を掛け、長いこと話をしました。後に、両家はますます仲が良くなり、奥の女たちさえしばしば行き来しました。狄希陳も常に狄員外とともに薛教授の店に遊びにいき、家の奥にも行きました。しかし、薛家の素姐は狄希陳がきたことを聞きますと、門を閉ざしてすぐに隠れてしまうのでした。素姐の母親はいいました。

「おまえたちは子供なのだから、一緒に遊べばいいのに、どうして隠れるのだえ」

素姐「どういう訳か、あの人を見ると、腹が立ってくるのです。ですからあの人に会うのは堪えられないのです」

母親は笑って「この子ったら。あの子と一緒にお菓子を食べるときに、あの子がおまえの分まで奪ってしまうのが嫌なのかね。いずれあの子をおまえの婿にしてやるからね」

素姐「あの人が私の婿になったら、昼に打ち殺せなければ、晩にかならず打ち殺して、私の怒りを晴らすことに致しましょう」

母親は笑って

「この子ったら、おかしなことをいうものじゃないよ」

このような無駄話は、耳元の風のようなもので、よくあることです。

 さらに二年たちますと、薛教授は商売が繁盛しましたし、豊かな土地でもありましたので、どうしてもここに籍を置き、河南に帰らないことにしようとしました。そして、しばしば狄員外と相談しました、

狄員外「気に入った場所であれば、籍を置かれても宜しいでしょう。今では昔と違って、家や土地を売る者もおります。明日仲買人に話しをし、適当な地所があれば、交渉をすることにしましょう」

 その年、狄員外にはさらに娘が生まれました。七月七日の生まれでしたので、巧姐と名付けました[19]。薛教授にはさらに息子が生まれました。十月の立冬の日の生まれでしたので、再冬と名付けました。狄、薛両家はたがいに交際しました。ある日、薛教授は媒婆の田さんを狄家に遣わし、巧姐を再冬の嫁にしたいといいました。狄員外は女房に言いました。

「我々はまるまる十年一緒に暮らし、とても親しい付き合いをしてきた、しかしあの人は故郷に帰ってしまう恐れがあるから、婚約をするわけにはいかない」

田さんは報告をしました。

薛教授「私はここに籍を置きたいのです。昨日、狄員外に地所を探すように頼みました。信じられないのでしたら、まず素姐を希哥と婚約させ、お互いの娘を嫁に迎えることにいたしましょう」

田さんは狄員外に話しをしました。

狄員外「それならば、何もいうことはない」

田さんは命を受けますと、薛教授に報告をし、吉日を選び、互いに行き来して、結納品を贈りました。薛教授の夫人は素姐に冗談を言いました。

「おまえはあの子を見ると腹が立つといっていたが、どうしたことだろうね。あの子はおまえの婿になってしまったよ」

素姐「何も申し上げることはございません。私が仇討ちをするのを御覧になってください」

母親「勝手なことをいって。これからはおまえと話しをしてやらないよ」

素姐「真面目なことを申し上げているのに、お怒りになるなんて」

両家はもともと仲が良かったのですが、今回さらに親戚となりましたので、互いに尊敬しあい、まるで漆と膠のようでした。一人は河南の人、一人は山東の人で、二千里を隔てて縁結びをしましたが、『縁があれば千里離れていても会うことができる』とはまさにこのことではありませんか。しかし、素姐の言葉は良いものではありませんでした。それからどういうことになりましたか。さらに次回を御覧ください。

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]赤く塗られた門、転じて宮殿のこと。

[2]楚の襄王が夢で巫山の神女と交わり、別れるときに神女が、自分は、巫山の陽台の下で、朝には雲、暮れには雨となろうといったという故事に因み、男女が情を交わすところをいう。

[3]原文「肚裏也有半瓶之醋、滉滉蕩蕩的、常要雌将出来」。「半瓶醋」は口語で生半可な知識を持った人を指す。この文章は狄賓梁が生半可な知識しか持ち合わせていないことをいっている。

[4]明代山東省に置かれた王府。衡王府。

[5]明代、親王の属官。講授を司る。

[6]蔗糖から作った石蜜を、各種の果物にからめたもの。『佩文斎広群芳譜』巻六十六「石蜜即白砂糖凝結作塊如石者…以石蜜和諸色果、融成塊為糖纏、糖煎。総之皆自甘蔗出也」。また、『竹嶼山房雑部』巻二に製法を載せ、中に入れるものとして「胡桃仁、榛仁、松仁、瓜子仁、瓠子仁、烏欖核仁、人面果仁、楊梅核仁、蓮心、杏核仁、梧桐子、栗、蓮[艸的]、榧、橙、香櫞皮、芝麻、大豆、紫蘇、白豆泛仁、縮砂仁、艸果仁、細茶葉、薄荷葉、生薑、桂花」が列挙されている。

[7]中国風ベーコン。

[8]山東省兗州府。

[9]明陸嘘雲『世事通攷、果品類』に、「糖毬」を載す。また、許宝華、宮田一郎主編『漢語方言大詞典』によれば、膠遼官話、中原官話で、糖葫蘆のことをいうという。サンザシ、ナツメなどの実に砂糖をかけて固めた菓子。冬期に食べられる。

[10]山東省青州府。

[11]藩王府の別当。

[12]爪先のそりあがった婦人用の靴。 (図:周等編著『中国衣冠服飾大辞典』

[13]古の良馬の名。『荀子』性悪「驊驑、[馬菫]驥、繊離、緑耳、此皆古之良馬也」。

[14]陰暦二月、八月に行われる祭礼で、孔子を祀る。

[15]宋、元の時代、楽工を管理した役人。

[16]原文「看山的也就要焼那山裏的柴、管河的也就要吃那河裏的水」。ものを管理する人は、管理しているものから恩恵を得るものだということ。

[17]両院については第十三回の注参照。司道は布政司・按察司と道台。

[18]臨清、明水、青州は、西から東へ、左記の順に並んでいる。臨清明水間は、臨清青州間より短く、旅費も安いため、儲けは多くなる。

[19]七月七日を乞奠と称する。

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