第二十四回
善気が世に戻り麗しい時代になること
善人が天が報い安らかな世界となること
お上は清廉潔白で
神のごと
心も夢も平穏で
安眠す
夜でも門に鍵掛けず
盗みなし
誰もくすねぬ落とし物
金があり
風や雨でも穏やかで
異常なし
五つの穀物みな実り
豊作ぞ
肉親らが集まりて
睦まじや
大災害は訪れず
安らかに
子に聖賢の道教へ
貴ばす
適当なとき結婚し
良き縁
家の建物、田に畑
世々伝ふ
清く平和なこの世界
有り難や
さて、明水村の住民は、質朴で、真心に汚れがなく、悶々淳々として[1]、豊かな者は貧しい者を苛めることを知らず、強い者は貧しい独り者を虐げようとはせず、みんな愚民のようなありさまでした。俗人の目から見れば、このような「株を守って兎を待つ」者たちは、みんな餓死するはずです。ところが、神さまは特別の取り計らい、特別な物の見方をし、高いところにいながら低いものに従うという正しい態度をとられました。神さまはこの地方の人民を憎まなかったばかりでなく、守ってやりました。今日のような有様であれば、会仙山の泉は日照りで乾き、滝が白雲湖におちていくこともなかったでしょう。長雨がやまず、山の上で洪水が起これば、白雲湖は四方に溢れ出たばかりでなく、水郷の人民も押し流されていたことでしょう。
数十年の間、五日に一回風が吹き、十日に一遍雨が降り、風は枝を鳴らさず、雨は田畑を破壊せず、夜は雨が降り、昼は晴れるという有様で、まことに天下太平でした。会仙山には一面に木が生えていました。大きな家も小さな家も山を所有していました。この湖の魚、蟹、菱、オニバスは、いくら人がとってもなくならず、使っても尽きることがありませんでした。湖の中の水を田に注ぎ、乾いた土地を灌漑したり、菜園に水をやったり、厨房で使ったりして、まるで極楽のような有様でした。神さまは青い空の上にいて、二つのくわいのような目をみはり、すぐれた能力を発揮し、とても清廉で、慈悲深く、優秀な善人を、繍江県の知県にしました。昔から、善と悪の心には、打てば響くかのように反応があるものです。ある地方を悪魔のような役人が治めれば、魔神、魔鬼、魔風、魔雨、魔日月、魔星、魔雷、魔露、魔雪、魔霜、魔雹、魔電が現れるのです。さらに魔外郎、魔書吏、魔p隷、魔快手が現れ、門番、衛兵、甲首、青夫、轎担ぎ、番役、倉番、禁兵が、悪事の手助けをすることになります。弱い人民たちは、悪人たちにとっては三蔵法師、猪八戒、沙悟浄、孫悟空のようなもので、悪人は一日中人民たちを蒸したり煮たりして食べようとします。しかし、善良な神が世の中を守れば、悪魔は自ずと滅び去り、さらに善人が善良な神を助けるのです。どうして繍江県はずっと良い役人が続いたのでしょう?昨今のように、税金を掛けてからさらに追加の取り立てをしたり、捐納[2]をさせてからさらに災害の救援を行わせたり、米、麦の外に、まぐさ、豆を要求したり、正規の税以外に、練餉[3]を要求したり、勤務評定が行われたり、しょっちゅう弾劾をうけたりするようでは、良い役人はなかなかでてこないのです。
その頃はちょうど英宗が復辟した年で、徭役、税金は軽く、法令も緩やかで、収穫は多く、朝廷は少ししか税をかけませんでした。人民たちは食糧をおさめればよく、今のように三割り二割りの付加税を要求されることはありませんでした。裁判で罪に問われれば、紙をおさめることを命じられるだけで、今のように、紙のほかに、さらに罰穀、罰金を要求されるようなことはありませんでした。金持ちの扱い方も、名医が丹砂、霊薬を蓄えておき、人の急病を救い、元気を養うかのようでした。今のように城外に金持ちがいると聞くと、あら捜しをして、すっかり彼の財産を奪ってしまうようなことはありませんでした。このような苦しみは、当時の明水鎮の人には、夢想だにできないことでした。ですから、家々は豊かで、男は豊かな食糧がありました。家々は豊かで、女はたくさんの布をもっていました。まるで「華胥城」[4]に住んでいるようなものでした。
山の中の様子ですが、『満江紅』の詞が明水の景色を述べております。
四方を巡れる山の壁
霧に滴る深緑
季節はうつり
景色はそれに従ひて
薄紅に深き青
谷川は玉にもまして清らかで
水晶の簾は俗世を隔てたり
昔より
すべて集まる白雲湖
流れの尽くることはなし
鱗の家に
蟻の人
雑事なく
静かなり
桑、麻、稲、黍たんとあり
淵には鯉と鮒がゐる
家には下役訪れず
白髪の翁に徭役なし
松の風、鳥の囀り、書を読む声
田畑を耕し、機を織る。
山や川があるところでは、風雨が穏やかで、天の気は下降し、地の気は上昇し、山は水に映り、水の色は山に連なり、天地の気が盛んでした。日月は光り、時節が狂うことはなく、立春になり、出九[5]がすぎれば、日一日と暖かくなりました。草の芽や木の葉はだんだんと青くなり、急に寒くなったり暑くなったりすることはありませんでした。大きな家も小さな家も、男子は田を耕し、女子は蚕を繭を作るのでした。春社[6]、花朝[7]、清明[8]、寒食[9]とすぎるにしたがい、それぞれの家には紫荊、海棠、薔薇、丁香[10]、牡丹、芍薬が、次々と開き、湖畔の周囲の桃、柳や、山の上の花は、錦城[11]、金谷[12]のようでした。さらに「山陰の道上」を進めば、それだけで人々は「応接に暇あらず」という有様になりました。ですから、ある人が『満江紅』の詞を作り、この明水の春の景色を述べております。
柔らかき桃の花
そよぐ柳は薄緑
天まで届く草の色
林には鶯が囀れり
山はいづこも紅と白
寒食、清明すぐに過ぎ
稲田に急いで苗を植え、蔵に入るるは烏麦
夜来の雨が止みたれば
晴れてゐる間に
蓑を干す。
朝の耕作する男
田に満ちて
春の田に食べ物送る女たち
せつせせつせと往き来する
秋の祭りの時になれあ
老いも若きも集ひたる
あちらこちらに腰を掛け
老人席を争はず
人々はご飯の時は無礼講
主と客を忘れたり。
次々に綿花、トウモロコシ、黍、穀、粟を植えおわりますと、稲の苗を植えましたが、すでに四月の半ばすぎでした。さらに急いで筵を作り、縄をない、麦を刈りました。女も蚕をまぶしに入れました。麦を刈り終わりますと、水田に急いで稲を植え、乾いた土地に急いで豆を植えようとしました。春に急いで植えた苗は、またすかなければなりませんでした。菜の花をきり、ニンニクの花茎[13]を作り、夏の三か月間は、忙しくて一刻の暇もありませんでした。有力者たちも、体こそ動かしませんでしたが、朝に起き晩に眠り、心を働かせました。ですから、ある人が『満江紅』の詞を作り、明水の夏の景色をのべております。
高くて広き茅の軒
華やかな窓や家など必要なし
山の巌の近くには
まるで簾のやうな滝
暑き空気を払いたり
庭には数本竹があり
門前の樹々濃き緑
本を手に
涼しき風に吹かれつつ
枕を高くし、本を読む。
疲るれば
しばしの間、本を閉じ
ぼんやり眠り
目を休む
ぐつすり眠り、目覚むれば
食事はすでに出来上がる
食事後は、日は傾いて暑さ去り
襟を開きて清流の隈を散歩し
柳の木陰の温泉で
沐浴す。
七月になりますと、とうもろこしを採り、黍を刈り、綿花を摘み、穀物を刈りました。秋には土地を耕し、麦を植え、大豆、黒豆を植え、一切の食糧を収穫し、藁を積み重ね、稲の脱穀をし、昼夜続けて、忙しくしました。秋の三か月間は農家が忙しいときでした。しかし太平で豊かな時でしたので、人々は手足にたこができても、心楽しく、苦しみを感じませんでした。ですから、さらにある人が『満江紅』の詞を作り、明水の秋の景色を述べております。
赤き楓に黄色の葉
紫、緑は山に満ち
玻璃の湖水に映りたり
夕焼けの中に家鴨が一羽
静かな水に吹く風は、残んの暑さを追ひやれり
細らな波に霜の月、湯浴みにまさる爽やかさ
実りの日
果実は畑に生ひ茂り
秋の収穫、満ち足れり
籬には
一叢の菊
窩窖[14]には
重なれる粟
脱穀場にとりたての穀物を積み
魚、蟹は肥え、稲は熟して
棚の新酒を搾りとる
友に会ひ、大いに酔いて一休み
野原の隅で歌ひたり
十月一日、土地神に感謝し、脱穀場を離れる時には、収穫物がすべて揃っていました。しかし収穫がこの時期に行われないこともありました。そのようなときは、さらに半月後に収穫が行われるのでした。十月の半ば以降は、農家が神仙のように楽しい思いができる時で、大きな米蔵に食糧が運びこまれました。大きな甕酒を造り、大きな柵で豚を飼い、たくさんの羊、数十数百の鵝鳥、家鴨を養いましたが、自分で彼らに餌をやる必要はありませんでした。朝にかれらを放って、湖にいかせ、晩には人を湖畔にいかせ、一声呼ぶのでした。鵝鳥、家鴨は飼い慣らされており、聞き慣れた声を聞くと、一緒に家に帰りました。数えてみますと、一羽も欠けていませんでした。鵝鳥、家鴨を飼っているところでは、卵を産みそうなものがあると、家にしばらく閉じ込め、卵を産むと、外に出しました。家々には塩漬けの肉、塩漬けの鶏、塩漬けの魚、塩漬けの家鴨の卵、蟹、小蝦がありました。栗、胡桃、棗、干し柿、干し桃、棗の類いは、すべて山の谷でとれたものでした。茄子、南瓜、瓢箪、冬瓜、豆の鞘、椿の芽、蕨、菜の花は、大きな束にして乾かし、冬を過ごしました。役に立たない樹木は、きってきて木炭にし、空いた部屋におきました。朝は日が高く昇る頃まで眠り、起きて髪梳き、洗顔をし、朝酒には、一杯の熱燗を飲みました。谷川のうまい水で作った緑豆、粟の粥の、黄色くほかほかしたものを目の前に持ってきますと、強い香りがしました。そして、真っ白い豆乳つきの小さな豆腐を、腹一杯食べました。厚い綿の袷を着け、外に行き、親戚、友人や隣人に会い、何人かで連れ立って日に当たり、「孫行者が大いに天宮を鬧(さわ)がす」[15]、「李逵が師師の府を鬧がす」[16]、「唐王地獄に遊ぶ」[17]などの話をしました。午後まで話しをしますと、別れて家に帰りました。昼食をとりますと、日は山におちました。勉強をする子供がいる人々は、学校が終わるのを待ちました。牛、羊を柵に入れ、前後の門を閉じ、数杯の酒を飲み、炕に上がりました。懐に子供を抱き、足もとに妻をのせ、髷と帽子を、同じところに置きました。収穫が少ないときは、強盗が屋敷に入り、火を放つものですが、このような平和な世の中では、本当に表門も閉じる必要はありませんでした。悪い役人がいれば、思いがけない災難が、天から降りてくるものです。しかし、当時の知県は、本当に自分の父母のようなものでした。真夜中に門を叩く者があっても、それは不精な隣人が火を起こしていなかったからか、子供が生まれるので、腹が痛くなって火をおこしているに過ぎませんでしたので、どんなに叩かれても、びっくりすることはありませんでした。ぐうぐうと寝て、真夜中に小便がしたくなれば、小便をしました。小便をしたくなければ、翌日の朝に用を足すのでした。
金持ちが、太平の世を楽しんだ話はこれまでといたしましょう。さて、游という姓の秀才がおりました。彼は游希酢という名で、年は四十近くでした。妻は駱氏といい、年は三十五六歳ぐらいで、少し字を知っていました、また、少し酒を飲んだり、囲碁をしたりすることができました。長男は名を詢といい、十六歳でした。娘は淑姑といい、十四歳でした。下の息子は名を咏といい、十二歳でした。次々に生まれた三人の息子と娘がいました。家の中には、十三歳の小間使いの茗児、台所には、下女が一人いました。家には六七十畝の土地しかなく、草葺きの家に住んでいました。屋敷の東には菜園、四季の草花がありました。東南には書房を建てましたが、なかなか綺麗に整備され、きちんとしていました。游秀才は中で勉強をし、毎日一定量の本を読みました。庭園の中の二つの楊の木、木の下には石のテーブル、四方には石の腰掛けがありました。三月から、八月の中秋まで、この数か月、游秀才は書房で一定量の本を読み終えますと、食事もおくって食べさせ、あらゆる家事はすべて彼の妻が切り盛りしました。その間、彼の細君は家事を切り盛りしながら、娘に裁縫を教えました。夕方になりますと、游秀才は仕事をやめ、細君も手を休め、息子たちも勉強をやめて家に帰り、一家で庭園の石の腰掛けに座り、数皿の酒の肴の料理を並べ、脇で火鉢に火を起こし、適当な量の酒を器にはかりとり、顔を合わせて談笑し、息子と読んだ書の文章について話したり、娘と孝子、節婦などの故事について話したりしました。そうでないときは、妻と囲碁をしました。酒を飲み終わりますと、家具を整理するのを常としました。冬が深まりますと、晩には火鉢を囲み、蝋燭をつけ、息子は夜の勉強をし、自分も仕事をし、妻と娘も仕事をし、いつも四角いテーブルの上、二つの蝋燭の下にいました。人々は仕事を終えますと、今まで通り酒肴を準備し、酒をのみ終わりますと、片付けをして安眠しました。歳試、科試で城内に行くとき以外は、彼に会うことは難しいのでした。ですからある人が『満江紅』の詞を作り、明水の冬の景色を述べております。
林は雪にとざされて
氷柱は数多垂れ下がり
草葺きの家に懸かりたり
何もせず
綿入れの袍、毛氈の帽子
壁を背にして旭を眺め
周瑜と魯粛の話をし
或ひは宋江三十六[18]
夕日はみるみる西に落ち
冬烏
古木の上に宿れるを見る。
垣根閉じ
啜る晩の粥
明かり掻きたて
真夜中に本を読む
新しい酒幾杯か
頭巾を脱いで床に就く
平和な山里に雑事なく
枕高くし安眠す
翌朝赤い日が上り
眠り足る。
昼も夜も雨の日も晴れの日も、月も風も雪も雨も、すべて趣きがありました。昼間は四方の山、緑の木、鏡の表のような湖水、魚の鱗や馬の歯のような人家が見えましたので、たくさんの人々が優れた景色を記した詩を詠んでおります。二句だけをとってみますと
空のほてりは一百丈、なすは五色の綾模様
二つの岩に生えし木の緑は千々に重なれる。
晩になり、山寺の鐘が鳴り、門を閉じますと、鶏、犬の声ではなく、砧の音が聞こえ、耳に届きました。高い所から下を望みますと
炊煙は雨より濃やかに
灯火は星より密なりき。
四方に黒い雲が重なりますと、清い風が起こり、雷の音はごろごろと、稲妻の光は金色に輝きました。楼に上り四方を見渡しますと、牛、羊は山を下り、鳥は木を飛び回っていました。樵は薪を背負い、連なって帰りました。漁師は鯉を手にして、次々に帰りました。俄か雨が降ると峰には滝ができ、谷には川が流れました。小糠雨のときは濛々と霧が立ち込め、瀟湘[19]の三月の雨のようになるのでした。やはり二句の詩がございます。
怒濤は黄河の音のやう
琉璃は覆へり青き山。
虹が出て雨が止み、雷がおさまりますと、雲が流れ、風が吹きました。佩玉の音が竹林に聞こえ、笛の音が松の林に流れました。顔にあたる風は冷たくなく、花を吹いて趣がありました。二句の詩がございます。
鳥の音(ね)と葉の音はこだまして
谷川と松風の音は溶けあえる。
月夜は、四季を通じて趣がありました。物音一つせず、周囲は寂寞としていました。木の疎らな林の空には月が懸かり、湖畔では月が水浴びをしていました。笛の音が、どこからか聞こえ、遠くの鐘の音が、山寺から聞こえてきました。やはり二句の詩がございます。
四方の山は砂の壁
家巡る木は玉の杜。
雪景色は、雨、晴、風、月のあるときの景色とはまた違いました。一面の山河、大地が、どこもかしこも、白粉で装い、玉を彫刻したかのようになるのでした。深い谷、険しい峰があるところも、平らな土地のようになってしまうのでした。まして、このような美しい場所は尚更で、すべてが広寒宮[20]、氷や玉の壺の中のような景色になり、人々は心正しく気高くなり、空はどこまでも澄みわたるのでした。やはり二句の詩がございます。
湖は三千頃の珠の海
山々は百万層の藍の畑。
山東の六つの府の中では、泰山、東海が、天下の奇観で、会仙山、白雲湖は、もとよりこれらに及ぶものではありませんでした。しかし、済南の華不注、函山、鵲山、鮑山、黌山、夾谷、長白、孝堂、紫楡、徂徠、梁父、大石、平原、大明、趵突、文衛、濯纓は、いずれも名勝で、地理書にも記載がありますが、会仙山、白雲湖の良さには及びませんでした。
さらに兗州の尼山は、雄大な景色ではありませんが、聖母顔氏が祈って孔子を生んだところでした。今でも顔氏が出産をした谷では、草木の葉はすべて上に向かって伸びており、谷では、草木の葉はすべて下に垂れるのでした。これは孔聖人が生まれた場所ですから、優劣を比べることはできません。雷沢は神が守っているといわれ、その神は龍の体に人の頭をしており、腹を叩いて雷の音を出すといわれています。『史記』に「舜は雷沢に漁る」というのが、ここです。この聖人がいた場所についても善し悪しを論じる必要はありません。防山、亀山、嶧山、君山、昌平、南武、澹台、太白、棲霞、谷城、馬陵、南武、これらはすべて兗州の名山でした。会、済、站、竅、洙、泗は、兗州に属する古い川でした。范蠡湖、蜀山湖、桃花澗、滄浪淵、南池、阿井、沢花池は、すべて兗州に属する名水でした。さらに梁山濼がありましたが、これは賊が隠れている場所ですから、数に入れることはできません。これらの場所も、すべて明水の風景には及びませんでした。
さて、東昌にも弇山、陶山、歴山、箕山などの山がありましたが、どれも低くて数えるにたりないものです。舜が最初に耕したところは歴山、許由[21]が隠棲したところが箕山でした。舜は山西平陽府蒲州の人なのに、東昌にいって土地を耕し、許由は故郷の首陽、中条という大きな山には行かずに、舜とともに東昌に隠棲しましたが、これはなぜでしょうか?鳴石山には少し良い景色がありました。その山には百余丈の高さがある石があり、これを叩きますと、音は磬を叩いたときのように響くのでした。昔、ある人が岩の下に隠居していました。彼は一人の白い単衣をきた男が岩の上を行ったり来たりし、朝に去って行くのをしばしば見ました。ある日、彼の袖を引っ張り、来歴を尋ねますと。彼はいいました。
「私は姓は王、字は中倫といい、周の宣王のとき、少室山に入って修行をし、この地に行き来したり通り掛かったりしていますが、この石の清らかな響きが好きで、しばしばここにきて聞いているのです」
彼に養生の術について尋ねますと、雀の卵ほどの大きさの石を残して、急に見えなくなりました。石を口に含みますと、一日中腹がすきませんでした。このような山は、会仙山とは兄弟のようなものだといえますが、取り立てて優れたところはありませんでした。
漳河、鳴犢河、衛河、瓠子河、粽川、鶴渚などがありましたが、これらは東昌の川でした。さらに濮水の岸に、荘周が釣をした台がありました。昔、師延という楽師がおり、紂のために淫哇、委靡の楽を作りました。武王が紂を征伐しますと、武王が彼を殺すのを恐れ、自ら濮水に身を投げて死にました。後に、衛の霊公が、夜、濮水のほとりに泊まりますと、太鼓、琴の音が聞こえましたので、楽師師涓を召してよく聞かせ、曲を学ばせようとしました。師涓はそれをちょっと聞きますと、言いました。
「これは亡国の音楽ですから、学んでも仕方がありません」[22]
このような川もすべて地方志に記載されているのです。
青州府には雲門山、牛山があり、斉の景公が涙を流したところでした[23]。孤山、沂山、霊山、大甅山、瑯岈山、九仙山、浮莱山、大弁山、三柱山、淄澠水、白河、康浪水、葛陂水は、普通の名所でした。范公泉は府城の西にありました。范仲淹が太守になって善政を行ったとき、急に泉が湧きでたため、范公の名をつけたのでした。今、医者は泉を汲んで丸薬を作り、「青州白丸子」と名付けていました。この薬は地元では効き目はなく、省を出ますと、痰症を治すのに効果がありました。
さらに、登州の丹崖山、田黄山、羽山、莱山、之罘山、崑崙山、文登山、召石山がありました。海のほかにも、祖洲が海中にあり、「不死草」が生えるといわれ、葉は菰の苗のように、群生し、一株で一人を生かすことができるといわれていました[24]。秦の始皇帝のとき道士徐福が男女各五百人を島に入らせて薬を採り、後に行方知れずになったことがありましたが[25]、これは根拠のないでたらめの話です。
最後にさらに莱州の黄山、之莱山、天柱山、孤山、陸山、大珠山、不其山がありました。漢のとき、童恢という者がおり、不其県の知県になりましたが、虎が人を食べていました。童恢は山の神に祈り、人食い虎を捕らえようとしました。二日足らずで、猟師が二頭の虎を掴まえてきました。童恢はその二頭の虎に言い付けました
「人を食べたものは頭を垂れて罪に服し、人を食べていないものは頭を上げて自らの潔白を明かすがよい」
一頭の虎は頭を垂れて動きませんでした。童恢は首を上げた虎を山に放ち、首を垂れた虎を殺しました。後に「馴虎山」と改めました。水の湛えられたところは、海を除いて、掖河、膠河、濰水、芙蓉池がありましたが、これらはすべて明水には及びませんでした。
これらの山水は、人が箔をつけたものでしたが、明水の山水は、人を育て上げるものでした。ですから、私は何度も褒め、さんざんお話ししたのです。天地が常に善人を生み、人がいつも善い行いをすることを望み、元気を健やかに養い、善美なものをしっかりと育んでやればいいのです。しかし、昔から百年変わらぬ運気はなく、永久に剛健な風俗もないものです。さらに後の御覧ください。
最終更新日:2010年11月6日
[1] 『老子』五十八章に出てくる言葉。「悶々」はおおらかなこと、「淳々」は純朴なこと。
[2]金を払って官位を買うこと。
[3]明代、練兵所の軍糧として徴収した税。
[4]黄帝が夢に見たといわれる国で、目が覚めてから心が楽しく、天下は大いに治まったという。『列子』黄帝「黄帝昼寝而夢、游華胥氏之国…既覚怡然自得、天下大治」。
[5]冬至から八一日目。
[6]立春後五回目の戌の日。この日土の神をまつり、豊作を祈願する。
[7]旧暦の二月十五日。
[8]春分後十五日目。
[9]冬至後百五日目。
[10] ライラックのこと。
[11]四川省成都の南にあった都市。錦官城ともいう。織錦官の役所があったのでこういわれる。古来花の美しいところとして、しばしば詩に詠まれた。杜甫『春夜喜雨』「暁看紅湿処、花重錦官城」など参照。
[12]洛陽の西北の地名。石崇が金谷園を作ったところとして有名。
[13]原文「蒜苔」。「蒜苔」は「蒜薹」の誤り。
[14]円形の穀物蔵。
[15] 『西遊記』第三〜七回をもとにした劇。梆子戯に『大鬧天宮』がある。
[16] 『水滸伝』を題材にした戯曲と思われるが未詳。師師は李師師のことで、『水滸全伝』に登場する妓女。
[17] 『西遊記』第十二回をもとにした劇。唐の太宗が死んで地獄へ行くが、判官の崔艱が帳簿を書き換え、二十年長生きさせて生き返らせるという物語。京劇に『唐王游地府』あり。
[18] 『水滸伝』に登場する三十六人の豪傑。三十六星の化身とされる。宋江、盧俊義、呉用、公孫勝、関勝、林沖、魯智深、穆弘、孫立、花栄、薫平、柴進、項充、秦明、楊志、李応、武松、呼延灼、史進、張清、朱仝、徐寧、索超、劉唐、雷横、戴宗、李逵、阮小二、張横、阮小五、張順、阮小七、李俊、李立、石秀、燕青。
[19]瀟水と湘水。湖南省を流れる川で、名勝。
[20]月宮のこと。
[21]中国の伝説上の人物。堯が天子の位を譲ろうとしたところ、拒絶したことで有名。『史記、伯夷列傳』正義「皇甫謐『高士傳』云『許由字武仲。堯聞致天下而讓焉、乃退而遁於中嶽潁水之陽、箕山之下隱』」。
[22]師延は殷代の楽師で、紂王のために長夜靡靡の楽を作った。殷滅亡の際、濮水に入水したという。『醒世姻縁伝』本文の「淫哇、委靡の楽」を作ったという話の典故は未詳。師涓云々という話は『史記』に見える。『史記』樂書第二「集解鄭玄曰、濮水之上、地有桑閨A在濮陽南。正義昔殷紂使師延作長夜靡靡之樂、以致亡國。武王伐紂、此樂師師延將樂器投濮水而死。後晉國樂師師涓夜過此水、聞水中作此樂、因聽而寫之。既得還國、為晉平公奏之。師曠撫之曰、此亡國之音也、得此必於桑鞨`上乎。紂之所由亡也」。
[23] 『晏子春秋、内篇諫第十七』「景公遊于牛山、北臨其国城而流涕曰『若何滂滂去此国而死乎』艾孔、梁丘據皆従而泣」。
[24]原文「除了海、有一个祖洲、在海中間、相伝生不死草、葉似菰苗、藂生、一株可活一人」。この部分は、漢東方朔『十洲記』の記述をふまえている。『十洲記』によれば、死後三日たった人を不死草で覆うと、生き返るという。また、服用すると長生きするともいう。「祖洲、在東海之中、地方五百里。去西岸七万里。上有不死之草。草形如菰、苗長三四尺。人已死三日者、以草覆之、皆当時活也。服之令人長生」。
[25] 『史記』秦始皇紀参照。