第二十三回

繍江県に狡猾で軽薄な習慣がないこと

明水鎮に古代の純朴な気風があること

 

国の初めは純朴で

先帝の恩、いと深し

人々は孝悌忠信を尊び

家々は礼義廉恥を重んじる

貴人なりとも奢らずに

里に入りなば式[1]をせり

金を持つとも礼を知り

法律にこそ従ふれ

食物は薦めし後に口をつけ[2]

財産は納めし後に手をばつく

女は重んず三従の教へ

夫は行ふ百行の源[3]

家にありたる財産は三代たつとも分かたれず

交はり結ぶ友人は心と心を相照らす

仲が良ければ結婚し

徳があるなら弟子をとる

郷の学校、家の塾

朝な夕なに詩を作る

雑草焼きて田を造り

寒暑を分かたず耕作す

民はいつもの仕事をし

士人は恒心失はず

友人に出す食物はちやんとして

神さまに並ぶる供物は清らかに

派手な衣服は作らずに

粗末な布を裳裾にす

分に外れた家持たず

茅で葺きたる家に住む

豊かな暮らしは並み以上

楽しき暮らしは最高のもの

 晁源たちの話しは武城県の物語だったのに、どうして話を繍江県に移したのでしょうか。それは、死んだ人々が生まれ変わって繍江県に集まり、夫婦となったからです。彼らは、後に禅僧に会い、それぞれ仙人になりましたので、これから、繍江県のことをお話ししようというわけです。

 繍江県は済南府から離れた県で、府城から百十里離れていました。山東有数の大都市で、四方には名山名水がたくさんありました。最も有名なのは会仙山[4]で、古の第九番目の洞天福地[5]でした。唐の徳宗の貞元二十一年、大子の順宗が即位し、夜に奇怪な姿をした人を夢に見ました。彼は東海の竜君だといい、丸薬を手に取り、唐の順宗に飲ませました。順宗は喉の中がとても痛くなり、目を覚まして宿直の宮女を呼び、彼女に茶を所望しようとしましたが、話すことができず、おしになってしまい、朝廷に出座することができなくなりました。上奏文がありますと、すべて宮中から批答がなされました。皇后は思いました。

「東海龍神が夢の中にあらわれて投薬をし、皇帝をおしにしてしまった、前からの恨みでなければ、きっと何か気に食わないことがあったのだろう、これは懺悔するべきことだ」

側近の太監李言忠を遣わして勅書を送らせ、御物庫の上等の香、蝋燭、蘇州、杭州で織られた龍袍をもって、勅使を山東の登、莱両府[6]の海神廟にいかせて祈祷をしました。通った名山、大河ではすべて祈祷をし、天子の声が元通りになることを求めました。李言忠は勅旨を受けますと、駅馬を馳せて出発し、繍江を通りました。そして、会仙山が天下の名勝であることを知りますと、勅旨にしたがって、一日山に登り、翌朝五更に祭祀を行いました。このときはちょうど九月の重陽でした。李言忠は四更に起きて髪梳き、洗顔をおえ、五更一点になりますと、祭祀を行おうとしました、すると山頂に楽の音が響きました。目を上げて見てみますと、明りは昼間のように明るく、無数の羽衣をつけた道士が空を旋回していました。しばらく待つと、ようやく山が見えました。この会仙山の上には無数の泉があり、あるものは集まって布のような滝となり、あるものは簾のような滝となり、白雲湖に注いでいました。日照りのときには、この湖の水は涸れることはなく。雨が多いときには、この湖の水は溢れることはありませんでした。

 繍江県から四十里の明水鎮には、竜王廟がありました。この廟の境内には、滔々と清く美しい甘い泉がわき出ており、白雲湖に注いでいました。このような神々しい土地に、どうして立派な人が生まれないわけがありましょう。それに太祖高皇帝のときから僅かに六七十年、剛健で清新な時代でしたから、生まれるのはすべて善人、夭折するのはすべてろくでもない悪人でした。大きな家のものも小さな家のものも、念仏を唱えたり、精進料理を食べたり、仏の名を叫んだり、香を焚くということはせず、四六時中祖先を祭るのが父母への孝行なのだと思っていました。舜、曾子、閔子騫のようなすぐれた行い[7]はありませんでしたが、「不孝」の二字を、耳にすることはありませんでした。自分のおじや兄に対しても、勿論敬意のある態度をとりました。父の世代の友人、知らない老人に対しても、若者たちは、とても謙虚にし、軽んじたり侮辱したりしようとはしませんでした。彼らは、一碗のご飯を食べるときは、必ず半碗分をとって先生に捧げました。大多数の家は、三四人五六人が仲間になって、一人の師匠をもてなしました。最も貧しい者は、子供に数年間勉強をさせ、できる子には、科挙の勉強をさせ、できない子には、農業をさせたり、手芸をさせたりしました。何もせずにぶらぶらしているものはおらず、目に一丁字もない者もなく、葱や野菜を担ぎ売りする者でも、「之乎者也」[8]を説くことができました。また、こっそりと悪事をはたらく者もいませんでしたし、監獄には死刑になる罪人はいませんでした。どんなに貧しい家の女でも、おおっぴらに街をぶらぶら歩いたりはしませんでした。恐妻は昔からよくあることですが、繍江だけは夫は夫、妻は妻で、男と女が逆になったり、男と女が逆になったり、雌鳥が夜明けを告げるようなことはとても少ないのでした。人民は、春はたがやし、夏はすき、秋は収穫をし、冬は貯蔵をました。それが終わると、必ずまず食糧を納め、残ると食用にしました。村長は由帖[9]を配る時にだけ人の家にいき、「追呼[10]」、「比較[11]」のことは知りませんでした。村長が由帖をもっていくだけで、人々は、食べきれないほどの鶏を殺し、飯を作りました。秀才たちは数冊の本を抱え、刺繍をする娘のようにまじめに勉強をし、学校で県知事に会うとき以外は、決して県庁に入ることはありませんでした。

 この明水は県城から四十里離れており、世を避ける桃源郷のようでした。この村の人はさらに質朴で、一人一人がすべて古人のようでした。一二の例を挙げれば、今時の人々は目を見開くこともできなくなるでしょう。

 楊郷紳は宮保尚書[12]にまでなった人で、俸給を賜わり、故郷にいました。彼は城内に住もうとはせず、今まで通り明水の荘園におりました。先祖伝来の家をすこし修理しましたが、宮保尚書の家には見えませんでした。彼は家の中に住み、県から送られてくる下役、門番はまったく用いませんでした。あるときはそこで遊び、あるときは田園に行き、遠く離れた所へ行くときは、二人がきの輿に乗り、小作人に担がせました。近い所へ行くときは、自分で竹の杖をつき、童僕を従え、ゆっくりと歩いていきました。古老や隣人、村の農民に会いますと、あるときは廟の前の木の下に、あるときは門の入り口の石の上に腰を掛け、長いこと話しをしました。酒、食事が出されれば、石の上に置き、すぐに食べ、少しも郷紳の雰囲気はありませんでした。荘園の同郷人も彼を尚書とは見做さず、おじさん、兄弟と呼んでいました。人々に冠婚葬祭があると、彼は必ず自分でそこに出掛けました。冬は道袍、夏は葛布の道袍、春秋は白布の道袍が、彼の晴れ着でした。村で祭りがありますと、彼は他の人より必ず先にきて、必ず最後に帰るのでした。

 隣の県の劉方伯が彼に会いにきたとき、彼は方伯を数日引き止め、繍江の景勝地をくまなく見せました。ある日、劉方伯と朝食をとっていますと、老人が、破れた袷を着、破れた靴を突っ掛け、手に布袋を提げ、頭を掻きながら、広間に歩いてきました。楊尚書は、それを見ますと、急いで箸をおろし、自ら階段の前まで出迎え、手でその人を引き、一生懸命広間に案内しました。その人は客が上座にいるのを見ますと、どうしても中に入ろうとせず、ただ一言、数斗の穀物の種を買って、雨の後に地を耕したいと言いました。楊尚書は、急いで人を呼び、種を量りとらせると彼に与え、去る時には、必ず自から彼を門の外まで送り、人に彼の穀物を担がせ、家に送らせました。劉方伯は尋ねました。

「先ほどの人は誰ですか。どうしてあんなに恭しくされていたのですか」

尚書「一族の兄で、数斗の穀物の種を買いにきたのです」

方伯「ただの農夫なのですから、あのようにされなくても宜しいのに」

尚書「私は立派な天子さまに会うことができなければ、兄と同じような暮らしをしていたでしょう。私は官位は兄よりも上ですが、兄の土地は私よりも数十畝多いのです」

劉方伯は大変な失言をしたと思いました。

 さて、彼の住んでいる村のはずれには彼の小さな荘園があり、荘園の前には古い堤があり、堤の下には小川が流れていました。彼は小川の両岸を一丈ばかり拡げ、上に五間の草葺きの家を建てました。さらに、堤に沿って桃、柳を植えますと、二十年足らずで、枝が絡み合いました。晩春になりますと、桃の花は錦のように咲き誇りました。谷川には、平らで幅の広い板の橋が堤まで渡されており、木の中には、青い布の酒簾が掲げられ、部屋の中には、テーブル、腰掛け、酒炉が据えられました。さらに、下男に酒を売らせましたが、二三銭で大きな急須に入った酒が飲め、さらに料理の小皿がつきました。太平で豊かな作柄でしたので、米、小麦は高くありませんでした。彼が酒を売るのは、遊びにきた人々が酒を飲むことができず、つまらない思いをすることを恐れたからでした。彼は、人が来れば必ずもてなしましたが、一つには煩わしさに堪えられなかったため、二つには人々が常にご馳走になりにくるわけにもいかなかったため、名目上酒を売ることにしたのでした。しかし、酒の値段は、実際は元手の半分にも足りませんでした。しかし、一つしてはいけないことがありました。店の中ではどれだけたくさん飲んでも構いませんでしたが、酒を器にいれて他のところへもっていくのは許さないのでした。つけで飲みにくる人は咎めることなく、勝手に飲ませ、帳面にもつけず、催促にいくこともないのでした。また、人々も返したことはありませんでした。尚書自身もしばしば店にいって楽しみました。

 ある日、店に酒の肴にする野菜がありませんでしたので、人に取りにいくように命じました。二人の通り掛かりの旅人は橋を通って堤にやってきますと、店に入り、腰を掛け、叫びました。

「酒を温めて飲ませてくれ」

尚書「酒はありますが、酒の肴にする野菜がないので、番頭が家にとりにいきました。私はここで彼のために店番をしているのです。少しお待ちください」

二人「俺たちは野菜をもっているから、俺たちのために酒を温めてくれ」

すると、楊尚書は自ら二つの大きな急須に酒をいれ、炉の上の湯の中で温め、それを二人のテーブルに運び、さらに二つの杯、箸を運びました。二人は醤斗[13]ら豆豉、塩水に漬けた鶏卵をとりだし、二つの小皿に盛り、酒を注ぎ、尚書を見ていいました。

「ここで一杯飲んではどうだい」

尚書「ご自由に飲まれてください。私は昔から酒は飲まないのです」

二人は尋ねました。

「楊さまは何歳になられたかな。まだお元気か」

尚書「多分八十以上になりますが、まだ元気ですよ」

二人「阿弥陀仏。あのご老人には二百歳まで生きて頂きたいものだ」

尚書「あの人がそんな年まで生きることを願ってどうするのですか」

二人「俺たちはよく酒を飲みにくる。俺たちは鄒平県[14]の下役で、一年に少なくとも十数回はここを通るが、必ずあのご老人の壺の酒を飲ませて頂いているのだ」

尚書「お二人はあの人の酒を飲んでお金を払っていないわけでもないでしょう。どうしてそんなに感激されているのですか」

二人「金といえば、恐れ多い限りだ。十の急須の酒代が、他の店の五つの急須の代金以下なんだ。あのご老人は、振る舞い酒というのが嫌いなので、わざと戯れに数文の金をとっているんだ」

さらに尚書に尋ねました。

「爺さんはもう五十歳になったのかい。どこに住んでいるんだい」

尚書「この村に住んでおります。今年五十歳を少し過ぎました」

二人はさらに尋ねました。

「爺さんはいつも楊さまに会っているのか」

尚書「私はあの人の隣人で、あの人は私の家主ですから、私たち二人はとても仲が良く、影と体のようなものです」

一人がいいました。

「どうして今日は別々なんだい」

尚書「あの人はすぐにやってきますよ」

二人は尋ねました。

「どこにくるんだ」

尚書「ここにくるのですよ」

二人「すぐに来られるのなら、俺たちがここでご馳走になっていてはまずい。あらかじめ身を避けることにしよう」

尚書「先ほどはあの人に感謝していたのに、今度はあの人を避けようとするのですね。楊尚書だって一つの鼻と二つの目のついた人間なのに、何を恐れておられるのですか」

二人「あの方は一つの鼻に二つの目がついているが、天子さまの大臣で、故郷に戻られてもまだ俸給を支給されている。また、地方の大小の役人は、一日と十五日に、あの人に謁見しなければならんのだ。しがない者のくせに、あの方を見縊りおって」

尚書「私は、彼といつも一緒におりますが、地方官がここに会いにくるのを見たことがありませんが」

二人「初めは数回来たのだが、楊さまは、まったく断ったりはされなかった。その後、役人が会いにきたときはいつも、大きな酒席を設けてもてなしたので、彼らはだんだんと来なくなってしまったのだ。我々は普段は二つの急須を飲んでも何事もないが、今日の酒はきついので、飲むことはできないな」

尚書「もう正午で、太陽も熱いですから、ゆっくりとお飲みください。番頭が新しい料理をもってきたら、さらに急須の酒をお飲みください。もしもおなかが空いたら、出来合いの食事もありますから、ご自由にお食べください」

二人「酒はまあいいのですが。食事はご馳走になるわけには参りません」

尚書「食事をとられるのが嫌でしたら、食事代をお支払いください」

 話しをしていますと、番頭が大きな籠にいれた野菜をさげ、後ろに二人の童僕を従えて、やってきました。片方の童僕は、二つの盆をもち、もう一人は錫の缶をもっていました。

番頭「お客さまが酒を飲んでおられるが、誰が酒を温めたんだ」

尚書「私が温めたのだよ」

「お二人は幸せですね。旦那さまに酒を温めていただくなんて」

二人「こちらが楊さまなのですか」

「あなた方は知らなかったのですか」

二人は慌てて跪き、すぐに叩頭しました。尚書は手をとりながら、笑って

「先ほどは私を褒めてくれて、どうもありがとう。新しい料理がきたらまた飲むことにしようといいましたが、新しい料理がきましたし、食事もきましたから、人にあけさせ、中を見てみましょう」

中には、大きな碗に入った豆豉と肉醤[15]、焼いた小さな豆腐、一碗の塩漬け肉、一碗の粉皮と野菜、一皿の甘味噌に漬けた瓜、一皿のニンニクの茎、大きな薄餅、大きな皿に入った生菜、一皿の甘味噌、大きな缶に入った緑豆と粟の粥がはいっていました。

尚書「我々二人の物はお二人に食べていただきましょう。わたしは家で食事をします。あなたがたのご飯は人に運ばせましょう」

竹の杖を引き摺りますと、小者が小さな布の傘を差し掛けました。尚書は立ち上がりますと、二人に向かっていいました。

「こんな田舎の村には、あなた方に食べていただけるようなものはありませんが、適当に少しお食べください」

二人「旦那さま、これ以上ご馳走になるわけには参りません」

尚書「最初は見ず知らずの人でも、ふたたび来たときは友人です」

二人は尚書を送って堤を下りますと、店に行きました。

 番頭は食事を並べると、二人に食べさせました。

二人「多いので、三人でも食べきれないでしょう」

番頭にも一緒に食事をとらせました。そして、互いに楊尚書の立派な行いについて話しました。

二人「とても立派な役人になった方なのに、金持ちにはみえない。本当に珍しいことだ。俺たちの県なら、このような大郷紳がいたら、執事たちがさんざん悪事をすることだろう」

「この家にも、十人から二十人の執事がいますが、長い木綿の衫を着たり、悪いことをしようとしたりはしません」

二人「どうしてですか。まさか作ることができないのですか」

「貧乏で作ることができないのではありません。十着の絹の道袍だって作ることができます。しかし、一つには旦那さまが着られるのが古い白布の道袍ですので、我々が他の服を着るわけにいかないからです。二つには知事さまも我々が道袍を着るのを許さないからです。恐らく、我々執事が道袍を着れば、どんな人でも揖をしてくるので、禁止しているのでしょう」

二人はいいました。

「わしは先ほど旦那さまが優しそうなお顔をしているので、厳しい方ではないと思いました」

「厳しい方だったら、人の体は抑えることはできても、人の心を抑えることはできず、人も逃れようとするでしょう。あの方はすべて徳で人を感激させるのです。人が疚しいことをすれば、あのご老人はつんぼか唖になったふりをするのです。そうすると、人々は帰って心が落ち着かなくなり、ますます辛い気持ちになるのです」

そう言いながら、酒代を払おうとしました。

「旦那さま自身が店番をしているときに、酒を飲まれた方からは、酒代をいただかないことになっております」

二人「食事は知事さまがおごって下さったものですからまだしも、酒までただで飲ませて頂くわけにはまいりません。どうかお持ちください。金を払ったことを知事さまに知らせなければいいでしょう」

番頭「先ほど、悪い心を起こすわけにはいかないと申し上げましたが、あなた方は聞いていらっしゃらなかったのですか」

二人「そうでした。そうでした。私たちは知事さまにお礼を申し上げましょう」

さらに番頭に十回ほど揖をして堤を降り、橋を渡っていきました。以上は明水の第一の郷紳のお話しです。

 今度は、勉強を教える先生の行ないについてお話し致しますが、これも世間ではほとんどないお話しです。この村に李という姓の大金持ちがおり、先祖から受け継いだたくさんのお金を持っておりましたが、秀才になる息子はまったくいませんでした。やがて李大郎という人の代になりました。彼は、若いとき、先生を呼んで勉強をしました。彼は土地を耕して小作人になるという話をしますと、心が冴えましたが、ひとたび書物の話しをしますと、二十斤の牛の皮の膠で心臓の穴を塞がれたようになってしまうのでした。十七八歳まで勉強をしましたが、少しも勉強はすすみませんでした。まるで石が水の中にすてられ、一二千年たっても水が染み通らないかのようでした。李大郎には長所がありました。勉強をよくする人のことを聞いたり、勉強をしている人を見ると、とても尊敬するのでした。ところが、天も彼の良い心を裏切ろうとしなかったのでしょう。二十歳のときに一人の子供が生まれ、二十二歳のときにさらに次男が生まれました。長男は八歳で、名を希白といい、次男は六歳で、名を希裕といいました。姓は舒、名は舒忠という先生を呼びましたが、明水県の有名な善人で、繍江県の廩生でした。

 李大郎は先生を呼び、二人の息子を教育しましたが、先生が熱心に教えてくれない恐れがあったので、束修を十分厚くし、一生懸命教えてもらおうと考え、毎年四十両の束修以外に、四季の節礼、冬夏の衣装などを贈り、礼を尽くして待遇しました。舒秀才は李大郎の待遇に感激し、全力を尽くそうと考えました。二人の子供は、大変奇妙なことに、父親の才気をすべて横取りしたような息子で、目を通すとすぐに暗誦ができ、彼らに本を読んでやると、版木のように心の中に刻み込み、本を読みますと、忘れることはありませんでした。三年教えますと、舒秀才は教えることがなくなってしまいました。

 家庭教師というものは、品格のない秀才が先生になると、勉強が遅れても構おうとはしませんし、太い棒を使っても、彼を追い出すことはできません。しかし、舒秀才はいいました。

「この二人の学生は将来大器となられますから、良い先生を呼び、彼らを指導するとよろしいです。私はもう彼らを教えることができなくなりましたから、お別れして、お子さんたちの勉強を遅らせることがないようにいたしましょう」

李大郎「何事もなく一緒にいるのに、どうして去っていかれるのですか。上の子は十二歳になったばかり、下の子は十歳になったばかりですから、彼らを教えることができないというわけでもありますまい。きっと待遇に行き届かないところがあったために、口実を設けて去っていこうとされているのでしょう」

舒秀才「あなたの待遇が行き届いていなければ、私は去っていきません。待遇が行き届いているからこそ、あなたのご厚意に背いて、息子さんの勉強を遅らせるようなことをしたくないのです。二人の息子さんは、石の中の二つの美玉のようなもので、玉を彫刻するのがとてもうまい職人を探さなければ、美しい器にすることはできません。でたらめな職人に勝手なことをさせれば、優れた才能が損なわれてしまいます。十数歳の子供は、ちょうど酒のようなものです。良い酵母があれば良い酒を造ることができ、酸っぱくて臭い酵母で造られた酒は酸っぱくて臭くなります。読んだり聞いたりしたことを忘れることができるのならまだいいのです。大きくなったときに下らない知識をすて、ふたたび新しい知識を受け入れればいいのですから。しかし、彼ら二人は、心に入ってくるものはすべてしっかりと記憶しますから、彼らをきちんと守ってやらなければならないのです。私は今度新しい先生をあなたに推薦しましょう」

李大郎は仕方なく彼のいうことにしたがい、別れました。

 舒秀才は果たして他に良い先生を推薦しました。二年教えますと、上の子は十四歳で学校に入りました。さらに二年たちますと、上の子は一等の十位になり、廩生になりました。下の子も十四歳で学校に入りました。人々はみんな彼らと縁結びをしようとしました。

 李大郎は舒秀才の人柄に心服していましたので、彼に二人の娘がいることを知ると−一人は十五歳、もう一人は十三歳。舒秀才は貧しい家ではありましたが、代々読書人の家で、妻の家も名族でした−人に頼んで、何度も彼ら二人の娘を二人の息子の妻にしようとしました。

舒忠「私のような貧乏人は、お金持ちの家と縁結びはできません。ましてあの二人のお子さんは、私が最もかわいがっていた子たちですから」

舒秀才は再三辞退しましたが、李大郎が何度も懇願しましたので、後に仕方なく婚約をしました。この二つの家は、後に、同じ腹から生まれた兄弟のように付き合い、とても仲良くしました。

 李大官は後に布政使にまでなり、李二官は戸部郎中にまでなりました。舒秀才は貢生となり、訓導に選ばれ、通判に昇任しました。楊先生は工部尚書にまでなりました。李大郎は二品の封誥を受けました。

 以上の二つは郷紳、読書人のお話しでした。

 さて、村にはさらに零細な農夫がおりましたが、彼もとても尊敬すべき人でした。彼は姓を祝、名を其嵩といいました。家には十畝ほどの田があるだけでしたが、門の前で客をとめる宿をひらいていました。彼には一人の妻、一人の息子がおり、三十歳ほど、色白で太っていました。彼は半身付随の病気でしたが、一人の妻と一人の妾がおりました。何もゆとりはありませんでしたが、不足もありませんでした。

 祝其嵩が、ある日、城内にいって田賦を納めますと、酒屋の入り口に、糧道の書吏がいました。彼は長山県の人で、道院に出勤する途中に、繍江県の城内で休んでいたのでした。彼は朝早く、酒屋にきて酒を飲んでいましたが、去るときに、袖の中の銀の包みが見えなくなりました。外側は白い薄絹の汗巾、内側は油緑の包みで、七両六銭の銀子があったとのことでした。彼は酒屋の中で落としたのだ、番頭は拾ったのに返さないといい、番頭の帽子を粉々に引きちぎり、長い髭を掴み、大きな手でびんたを食らわせました。番頭は、彼が道院の書吏でしたので、鍾馗に苛められる小鬼のように、動くことができませんでした。たくさんの野次馬が回りを囲みましたが、書吏が詳しい話しをしていましたので、番頭が悪い心を起こしたのだと思いました。

 祝其嵩は言いました。

「じっくり考え直してみることが大切です。あまり慌てるのはよくありません。他のところに落としたのかもしれません」

書吏は酒売りを放し、祝其嵩に唾を吐き掛けると、言いました。

「ぺっ、汚い例のところから生まれた奴め。どこの山猿だ。城内にやってきて他人の肩を持つとは。まったく憎らしい奴だ」

顔にびんたを食らわせました。見ていた人々は言いました。

「おまえはまったく口の減らない奴だ。この方が銀子をなくして焦っておられるのに、この方に指図するとはどういうことだ」

祝其嵩「『道が平らでなければ踏み固めなければいけない[16]』といいます。彼が拾ったわけでもないのに、どうして帽子を引き千切り、髭を引き抜いたのですか。私は先ほど牌坊の下で白い薄絹の汗巾を拾いました。ずっしりと重く、中が何かはわかりません。人々と一緒に開けてみてみましょう、もしもあなたが先ほどおっしゃったこととぴったりだったら、これはあなたのものです」

書吏「俺は劉和斎というのだ。銀の包みの上には『和斎』の二文字が書いてあるぞ」

人々「これはますます証拠がしっかりしているということだ」

祝其嵩が袖から汗巾を取り出して開けてみますと、はたして油緑の潞綢の銀の包みがあり、象牙の簽でとめられていました。開けて見ますと、「和斎」の二文字が書いてありました。銀子を計ってみますと、七両六銭ありました。

人々「善い人に拾われてよかった、こうであってこそ、廟の中に不当に殺された人の幽霊がいなくなるのだ。酒売りは、銀子を損したのならまだしも、長い髭をすっかり引き抜かれてしまってかわいそうだな」

書吏「この銀子はだいぶ少なくなっているぞ。俺は十七両六銭をもっていたんだ。ほかにも五両の二つの銀塊があったんだ」

祝其嵩を掴まえて放しませんでした。

祝其嵩「私は善意で銀子を拾い、包みを解かずにあなたに渡したのに、嘘をつかれるとは。あなたは私を酒売りと同じだとおもっているのですか。酒売りはあなたを恐れたでしょうが、『汚いあそこから生まれた』私はあなたを恐れませんよ。県庁の入り口はすぐそこですから、知事さまに会いにいきましょう。あなたは道院の書吏であることをいいことに、わが繍江県でゆすりをしているのではないですか」

 書吏は悪神のような男でしたから、このような言葉には我慢できず、祝其嵩を引っ掴むと、叫びながら中に入りました。県知事は晩の法廷に出ていました。二人はそれぞれ話しをしました。さらに、酒売りと脇で見ていた人々を呼び入れて詳細を尋ねました。

県知事「おまえはその銀子を持ってきてみよ。わしが自ら計ってみよう。おまえが計り間違えたのかもしれないからな」

書吏は銀子を渡しました。県知事は庫吏に計りとらせ、庫吏は報告しました。

「これは七両六銭です」

県知事は銀の包みと汗巾をじっくり検分しますと、いいました。

「おまえの銀子は十七両六銭で、これは七両六銭だから、この銀子はおまえのものではない、おまえはよそに探しにいけ。この銀子は銀子を拾った人に持っていかせよう」

書吏「この銀子と汗巾と銀の包みは、私がもともともっていた物です。二つの銀塊の十両がなくなっているのですよ」

県知事「おまえはその十両をどこに置いたのだ」

書吏「銀の包みの中におきました」

県知事は庫吏に五両の銀子をもってこさせると、書吏に渡し、いいました。

「おまえはこの二つの銀子を包んでみよ」

銀の包みは大きくはありませんでしたので、七両以上の銀子でいっぱいになってしまい、それ以上十両の銀子をいれることはできませんでした。すると、書吏はすぐに言うことを変え

「私は十両の銀子を別の汗巾に包んだのです」

県知事「おまえの汗巾に十両の銀子を包んだときの皺はどこについているのだ」

そして叫びました。

「追い出せ」

祝其嵩「このような汚らわしいものは、私は欲しくありません。他の用途に当てて下さい」

県知事「おまえが銀子を拾ったのだから、自分で持っていくがよい。おまえが使わないのなら、貧民に与えるがよい」

祝其嵩が銀子を持ち出しますと、ちょうど貧民が県庁に食糧を受け取りにきていました。そこで、祝其嵩は汗巾に包まれた銀をすべて貧民たちに分け与えました。書吏は目を見張っているしかありませんでした。

 酒売りは、長い髭を全部引き抜かれたことを、泣きながら訴えました。

県知事「道台様に、おまえの髭への償いをするように取り計らって頂こう」

県知事は始末書を書いて糧道に報告しました。糧道は書吏を三十回の板打ちにし、免職にしました。

 後に、この書吏は四川省彰明県[17]の典史に選ばれ、そこで悪いことをして人民を苦しめました。ところが、うまい具合に、繍江県知事が御史の行取を受け、四川の巡按に選ばれたため、書吏は、考察[18]のときに、二十回の大板打ちになり、すぐに職を追われました。まさに、

万事必ず報いあり

善人を神は見棄てじ

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]軾に同じ。車の横木に寄りかかってする挨拶。

[2]原文「食非先薦而不嘗」。『春秋繁露』「君子未嘗不食新、天賜至、必先薦之、乃取食。尊天敬宗廟之心也」にちなむ言葉で、初物を食べる前にまず先祖に供える君子の振る舞いをいう。

[3]原文「丈夫操百行之源」。は孝行のこと。『白虎通』考黜「孝、道之美、百行之本也」。

[4]鄒平県の西南十五里にある山。山頂に八仙台がある。道光二十年『済南府志』巻五「山水一」「会仙山在鄒平県西南十五里。県志云、山巓有八仙台」。

[5]仙人のすみかをいう。洞天は八つあるとされる。

[6]登州府と莱州府のこと。

[7]舜は中国の聖天子、自分を殺そうとした父母にも孝養を尽くした。曾子は孔子の弟子曾しんのこと。『孝経』の著者として知られる。閔子騫は孔子の弟子、自分をいじめる継母に孝養を尽くした。

[8] 「之乎者也」は経書で多用される言葉。ここでは経書のことをいう。

[9]税額をかいた票。

[10]胥吏が家に赴いて税金の催促をすること。

[11]収税をするとき期限を設け、期限に達しないと罰を与えること。

[12]官名。清代、太師小保の称。

[13]味噌を入れる容器と思われるが未詳。

[14]山東省済南府。

[15]肉をペースト状にしたもの。

[16]不当な行いを見たら正さなければいけない。

[17]成都府。勤務評定。

[18]勤務評定。

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