第十五回

薄情者が林を焼いて草を抜くこと[1]

裏切者が態度を変え情に背くこと

 

世の中は真暗闇よ、

人情はなく策略多し。

恩を施すも仇をなす。

至る所に中山狼[2]

牙と爪を張り、

襲ひくる。

昔は知友なりしかど、

綿の中には針があり、

陰険なさまは深き川、険しき崖にぞまさりたる。

腹の内なる方寸の地にや、

刀と矛とが、ずらりと並ぶ。 《浪淘沙》

 さて、宦官の王振は天にも漲らんばかりの大罪を犯し、国を誤り、君主を欺き、官を辱め、世に災いをもたらしたのですから、彼の肉を食べ、彼の皮に寝たとしてもそれは当然のことでした。しかし、私にいわせれば、王振は単に王振に過ぎません。彼の三魂六魄はすまぎれもなく人間のそれであり、彼は一人の陰嚢のない老人にすぎません。六科給諫[3]、十三道[4]の御史、三閣、六部の尚書、大小九卿、功臣皇族と天下の義士忠臣は、眉毛を立て、髭を逆立て、正々堂々と、忠君愛国の心で天子に仕えればよいのです。うまくいけば、俸禄を食むことができますし、うまくいかなかった場合も、家に幾畝かのわずかな土地がないわけでもないのですから、飢えたり凍えたりすることはないでしょう。それなのに、悪を恥じる良心を失い、偽りの表情を浮かべ、あの手この手で、先を争って王振の機嫌をとってどうするのでしょうか。人々が心と力を合わせて、何とかすれば、王振が流れを止めることができるほど密で大きな網を張り巡らしても、あなたがたをきれいさっぱり打倒することはできないでしょう。ところが、どういう訳か、当時は国中が狂ったようなありさまで、尚書も閣老も、巡撫も侍郎も、王振を見ると、跪いてたえず叩頭し、義理の父や祖父とあおぐのをやめませんでした。私にいわせれば、このようにご機嫌取りをする必要はなかったのです。

 後に王振は正統帝が親征することを一生懸命唆し、土木の変に遭わせ、正統帝は王振が也先に殺されてぐちゃぐちゃにされ、近くに付き従っていた執事の劉錦衣、蘇都督が同時に体を二つに切られるのを目の当たりにされました。私に言わせれば、これも天の報いというものです。彼の弟、甥、息子で、蔭官、爵位を受けていたものは、すべて官位を奪われ、殺されました。これも、私に言わせれば、国の法律が効力を発揮したということです。彼のために尻を嘗めていた義理の子、孫たちは、恥知らずな顔をしだし、左手に折れた弓を、右手に羽のない矢を持ち、死んだ虎目掛けて射かけました。そして、彼が死んでいないとか、彼が也先の部下になったとか、彼が死んでも恨み足りないとか、彼の三族を滅ぼし、彼の仲間をすべて捜索するべきだとか、あれこれと、口やかましく言うのをやめませんでした。私の拙い考えからすれば、王振はすでに井戸に落ちて上がってくることができなくなったのですから、さらに石を落としても意味がないというものです。

 蘇都督、劉錦衣は王振の執事であることをいいことに、数年間大変豊かな暮らしをしていましたが、物の良く分かった人に言わせれば、何もなかったときの方がよかったというもので、『邯鄲夢』[5]『南柯夢』[6]のように、最後は首を切られ、家財を没収され、妻子に迷惑を掛けることになりました。もしも梁安期が、劉錦衣の従兄弟の甥にすぎず、胡君寵も蘇都督の娘の息子にすぎず、二人は彼ら二人が悪事をするのを助けたことはなく、彼ら二人の家の名をあげて人を脅したこともなく、それぞれがたくさんの銀子を儲けたにすぎず、天を欺く官職を助け、それにまだ官に選ばれたこともなく、まさにずる賢いろくでなしで、彼らを追及しても意味はありません。ところが浪費をしてすっからかんになった小人たちは、ある者が上疏をすれば、別の者も上疏をし、まだ除かれていない悪人がいるという者もあれば、隠れている悪者がいるという者もありましたので、梁生、胡旦も捜査、捕縛の対象になってしまいました。文書が送られ、捕り手が放たれ、百両の懸賞がかけられ、権力者によりそっていた悪者たちを捕らえようとしました。そして、次第に多くの人々が捕らえられました。

 梁生、胡旦が隠れた場所は、内部には通報する者、外部からは捜索しにくる者もなく、銅や鉄でできた壁のようなものでした。しかし、晁家の父子には、功臣を殺した漢の高祖のようなことをする欠点がありました。晁老人は凶悪な心をもっていましたが、それを行動に現すことはできませんでした。梁生、胡旦は権勢を失い、彼らが昇進することは二度とないものと思われました。それに、彼らは徐翰林とつきあっておりましたが、徐翰林は自分の身も保てない状態になっておりましたので、もう彼らを恐れる必要もありませんでした。何度か考えた末、彼らを告訴するか追い出すかしよう、と思いました。しかし、表には王道を説く家庭教師邢皋門がおり、それとなく、病気の鳥が人によりそったことや[7]、魯の朱家と季布の物語[8]、孔褒と張倹の友情[9]について話しました。晁老人は彼にあれこれ言われるのを恐れ、手を下すことができませんでした。さらに、有り難いことには、一生懸命夫を善人にしようとする、東の窓で蜜柑を剥いて食べるのを学ぼうとしない賢い夫人が[10]、しばしば枕辺でいいました。

「華亭からすぐに離れることができたのはさいわいでした。もう少しぐずぐずしていれば、江院が出張してこられ、人民たちが一斉に告訴し、どんなことになっていたか分かりませんでした。あの二人がはやく去るように勧めてくれたおかげで、今のような良い官職を得ることができたのです。数両の銀子がかかりましたが、人の話によれば、私たちは通常の半額以下のお金しか使っていないということです。今では、着任してから二年近くがたち、儲けた銀子も二十万両を下らず、すっかり元がとれています。これもすべて二人の力です。私たちは今ここで名誉と富を得ているのですから、恩を忘れてはいけません。それに、彼ら二人は、たくさんの親戚友人がいるのに、そこへ身を寄せようとせず、私たちのところに身を寄せているのです。彼らは私たちをとても頼りにしているのでしょう。私たちが彼らを守れないのならともかく、彼らを死地に追いやるなどとんでもない。阿弥陀仏、私は変心することはできません」

このように、晁老人は夫人によって頭を冷やされていました。そして、仕方なく梁生、胡旦を中に隠しておりました。このように、婦人の執り成しの効き目は、お話しし尽くせるものではありませんでしたが、実際は、父親勝りの息子が目の前にいなかったことがさいわいしていたのでした。晁大舎がずっと役所にいれば、たとえ夫人が忠告をしても、晁老人は息子のでたらめな言葉をきかないわけにはいかなかったでしょう。人々は晁大舎がとても陰険で、とても薄情な小人であることを恐れていましたが、晁老人は息子のことを孔夫子、諸葛亮のような聖人、知恵者であると考えていました。

 ところが、胡旦、梁生の天敵がやってきました、五月十二日、晁大舎は張家湾[11]に着き、船を停泊させますと、役所に知らせを送り、小斑鳩を帰らせようと考え、故郷であらかじめ与えたもの以外に、二十五両の銀子を包んでやりました。そして、道々たくさんの衣装を作り、四両の重さの腕輪を与え、四つの金の指輪、金の丁香[12]、そのほかたくさんの細々したものをやりました。さらに、四両の銀子を船にもち帰らせ、帰りの四十日間の飯代にさせました。そして、船で彼女を帰らせることにし、米、小麦などのものをすべて残しました。彼女についてきた若い俳優には、別に二両の紋銀を褒美として与えました。そして、役所に人を遣わしますと、船を動かして進みました。岸に上がるときになりますと、ふたたび小斑鳩とともに船倉の奥で、何かをしてから、息を弾ませて出てきました。岸にはたくさんの馬が遣わされており、晁老人が乗る大轎がありました。斑鳩に別れ、先払い、殿(しんがり)をつけて州役所に入りました。そして、奥に行きますと、父母に会い、家のことを話しました。荷物を運び終わってからは、書房にいき邢皋門と会いました。そして、暫くしてから、胡旦、梁生のところへいき、時候の挨拶をしました。胡旦、梁生は心の中で、義兄弟の契りを結んだ人がやってくれば、万事面倒をみて貰えるから、頼もしいことだと思っていました。ところが、彼らは安住の地にとどまることができないばかりか、酷い目に遭わされる運命にあったのでした。

 二三日後、晁大舎は、晁老人とともに、胡旦、梁生のことについて話しました。晁大舎は、彼らは天理を損ない人情から外れた薄情者だと、さんざんいいました。晁大舎が話したことをお話しするほどたくさんの口は私にもございません。晁老人はそれを聞きますと、志公長老[13]が『法華経』を語るのを聞いた山の辺の石のように、ひたすらうなずきました。それでも、晁夫人はいいました。

「若いのだから、誠実なことをして善行を積むべきで、道に外れた言葉で、幸福を損なうことはない。さっきおまえのお父さんをお諫めしたばかりだが、今度はおまえが悪口をいっている。彼らが役者であることを知っているなら、どうして彼らに頼み事をし、恩恵をうけたのだい。彼らと兄弟の契りを結んだのは誰だい。このような『必要なときは近付き、必要でないときは遠ざかる』ことは、おまえ、話を聞いておくれ、これ以上してはいけないよ。おまえは咲いたばかりの花で、上に向かって伸びなければならないんだよ」

晁大舎の驢馬のような耳にも、忠言とは何かということは理解できました。しかし、彼は脇に頼りになる父親がいましたので、意地を張っていいました。

「お母さまに何が分かりますか。人は自分のためになることを真っ先にしなければならないのです。あなたはいまあいつらのことを考えよとおっしゃいましたが、自分のお尻に火が着いてしまいますよ。役人をしているというのに、家に犯人を隠すなんて。あいつらはつまらない罪人などではありませんよ。わたしたちがやつらの面倒をみれば、聖旨に背き、十九族を滅ぼすことになり、私が責任を負うことになるのですよ」

晁老人「おまえは女だから何にも分かっておらんのだ。大舎のいっていることが正しいぞ」

晁夫人「ふん。何が『正しい』ですか。殿方には深い考えがないものですね」

昼食をとりますと、晁老人を晩の法廷に出勤させました。

 晁大舎は東の書房に行きますと、晁書、晁鳳を呼び、いいました。

「しっかりした考えを持たなくてはいかんぞ。お袋の話を聞いてはだめだ。あの二人の役者は罪人で、今は至る所に人相書きが掲げられている。家に隠していることがばれたら、官職を失うのはおろか、一家の食糧、財産も保つことができなくなるだろう。あいつらに銀子をやり、自由にさせれば、あいつらは悪巧みをするだろう。いっそ奴らをひどい目に遭わせ、動きがとれないようにしてやろう。懸賞が掛けられているから、訴え出れば、百両の銀子をもらえるぞ。明日誰かを城内に行かせよう。俺が告発状を書くから、廠衛[14]にもっていき、人を連れて戻ってきて、あいつらを掴まえてくれ。お袋に聞かれないようにしろ。他人の前でも、決して話しをもらさないようにしろ。百両の銀子が貰えるのだぞ。二人で五十両ずつ分ければ、ちょっとした元手になるだろう」

晁書は晁鳳にいいました。

「明日行けばいい。稼いだ褒美はすべておまえのものだ。俺は都へいったことはあまりないのでな」

晁鳳「やはりおまえが行ってくれ。俺は仕事はできない。俺は残酷なことができないから、うまくいくはずがないよ」

晁大舎は晁鳳を見て舌打ちをしますと

「ろくでなしめ。つまらないことを言いやがって。百両の銀子が手に余ることを心配しているのか」

二人「この件については、大旦那さまともう一度相談されるべきです。あまりそそっかしいことをなさってはいけません。このようなことはするべきではないと存じます。彼らは私たちにたくさん良いことをしてくれました。今の官職も、彼らの力がなければ、四五千両の銀子を使っても、手に入れることはできませんでしたよ。私たち二人が蘇都督の家に四五十日とどまったときは、毎日四つの小皿、八つのお碗のもてなしを受けました。彼らは私たちに破格のもてなしをしてくださり、とてもへりくだっていました。私たちは彼らをしばらくとどまらせ、お返しの宴席を設けるべきです。華亭の件に関しても、彼らに感謝するべきです。彼らがいなければ、私たちは徐翰林を訪ねることはできませんでした。口利きの手紙を送ってもらえなければ、私たちが何をいっても信管のない爆竹のようなものでした。私たちが彼らをおさえつけて、立ち上がることができないようにしても、あの南方人たちは善行を積んでいるのですからね」

晁大舎「おまえはお袋みたいに、口を開けば、天理だ、良心だ、よそさまは善良だとかいう。しかし、今の世の中は、息子でも父親を、弟でも兄を忘れるものだ。それなのに、天理だとか、良心だとかいうとはな。明日はおまえたちが食事をとるのを許さないぞ。おまえたちが天理と良心を食うのをみてやろう。俺は普段からこのような性格なのだ。人から苛められるべきときには、苛められるが、人を苛めるべきときには、態度を変えて思いきり苛めてやらなければならない。念仏をあげるべきときには、すぐに香を焚き、ぐずぐずしてはいけないんだ。尻を窄めて遠くでしゃがんでいろ。おまえは俺がすることをみて、情報をもらさなければいいんだ。少しでも情報を漏らせば、俺はおまえたちの足を叩いてやるぞ」

晁鳳、晁書は罵られ、別のところへ行ってしまいました。晁大舎は、後ろ手を組み、うなだれ、中庭を東へいったり西へいったりしながら、腹の中で妙案を考えました。

 翌日の朝、髪梳きを終え、梁生ら二人の部屋に行き、腰を掛けますと、尋ねました。

「お二人は銀子を持ってこられなかったのですか」

二人「数両ありますが、多くはありません。どうかなさったのですか」

大舎「府知事さまが人を遣わし、一万両の軍資金を要求しました。どんな銀でも構わないから、すぐに借りたいというのです。あいにく倉庫の銀子は昨日すっかり運ばれてしまいました。軍資金は大事なものです。役所では金を集め、府知事に貸さなければなりません。府知事は、税金の徴収が終われば、私たちに返してくれます」

梁生ら二人「数両の銀子は使ってしまいましたので、取り戻すことはできません。今ある銀子は、二人合わせても、六百両に満たないかもしれません」

鞄の中からこまごまとしたものを集めますと、それでも六百三十両ありました。梁生ら二人は、一封一封手渡し、三十両の端数を残そうとしました、

晁大舎「三十両の端数も中に入れてください」

外側を風呂敷でしっかりと包み、胡旦の天藍の鸞帯で縛り、自分の部屋に運ばせますと、邢皋門、晁鳳、晁書に報せないように言いつけました。

 さらに一日過ぎますと、晁大舎は官報の後ろの空白部分に、胡君寵、梁安期が通州知州晁思孝の役所内に匿われていることが分かったので、勅旨を請い人を遣わして捕縛するという、廠衛の偽の文書をつけました。そして、文書を持ち、あたふたと梁生の門房に行きますと、人払いをして、言いました。

「事が露見して、まずいことになりました。廠衛から、勅旨を奉じた人が遣わされてきました。中に入ってきて捜索をして、もしも人がいなければ、言い逃れをすることもできますが、見付かれば、あなたがた二人はいうまでもなく、私たち一家も連座して殺されてしまいます」

梁生ら二人は大慌てで、どうしたらいいか分からず、全身を震わせました。

晁大舎「ほかに手立てはありません。はやく荷物を纏め、香岩寺に行かれてください。あなたがたを仏殿の後ろの二重壁に隠しましょう。あそこは私がこの目で見たことがありますが、一年隠れていても誰にも見付かりません。あの和尚は最近強盗と関わり合いになりましたが、父が彼を釈放したので、彼は私たちの恩徳に感謝しています。人を遣わして彼に話しをすれば、勝手なことはしないでしょう。ぐずぐずしてはいけません。はやく出ていかれてください」

二人は急いで荷物を纏め、荷物には布団だけをつめ、衣装もすべておいていきました。

梁生「細かい銀子をとりあえず数両ください、緊急のときに使うでしょうから」

晁大舎「銀子を使うところはありません、私はたえず人を遣わして様子を見ますから、そのときに持っていっても遅くはありません」

二人は邢皋門に別れを告げることができないので、いいました。

「大奥さまにもお別れをしなければいけません」

晁大舎「事が収まるのをまつのです。すぐに隠れなければなりませんから、別れは告げないことにしましょう」

役所の門を開けますと、外には二人の役所の男が待機していました。

晁大舎「くわしく話しをしておいた。お二人を送ってくれ。ぐずぐずしていては駄目だぞ」

二人の役所の男は承知し、布団を担ぐといってしまいました。

 香岩寺は通州の西門外五里のところにありました。二人は布団を担ぎ、梁生、胡旦とともに西門を出、石橋の上にいきました。彼らは足を止め、一人は橋の下で用を足すと嘘を言い、細道を通って逃げてしまいました。もう一人はいいました。

「さらに五六里の太い野道があります。役所から二頭の馬をつれてきて、お二人に乗っていただくことにしましょう」

梁生ら二人「道はそれほど遠くありませんから、ゆっくりいきましょう」

男「すぐそこに馬がいますから、門の中からひいてきます」

布団を橋の欄干におきますと、これまた逃げてしまいました。梁、胡の二人は、朝から食事をとっていませんでした。昼になりますと、最初に用足しにいった者はいうまでもなく、馬をさがしにいった者もいなくなってしまいました。当時は六月の日の長い時でしたので、飢えで腹の中が暑くなりました。橋の下は賑やかで、果物を売るもの、米のお粥を売るものが、一人二人と荷物を担いで通り過ぎましたが、梁、胡の二人は僅かな金すら持ってきていませんでしたので、苦しんでどんなに叫んでも、買うことができませんでした。二人は心の中で恨んでいいました。

「あの二人の下役は、俺たちがぼろい服に着替えていたものだから、俺たちを馬鹿にし、晁大舎の義弟であることが分からなかったのだ。二三日して晁大舎に会ったら、文句を言い、奴らをぶってもらおう」

さらに、罪を背負い、難を避けているというのに、賑やかな橋の上に座っているのはおかしいと考えました。さいわい、破けた服を着、二枚の薄い掛け蒲団があるだけでしたので、あまりじろじろ見る人はいませんでした。そこで、自分で荷物を担ぎ、ゆっくり香岩寺を訪ねていくことにきめました。

「晁大舎は人を遣わして住職に話をしたといっていた。俺たちがいって事情を話せば、当然泊めてくれるだろう」

肩に荷物を担ぎ、道を尋ねながら、五六里歩きますと、果たして香岩寺がありました。その様子はとても立派でした。

 二人は山門に入り、仏殿に行き叩頭し、住職のいる方丈を訪ねました。二人が真っ直ぐ中に入りますと、小僧が歩いてきて尋ねました。

「何をされているのですか」

二人はいいました。

「州知事さまの役所からきた親戚です。長老にご挨拶したいのですが」

 その小僧が去って暫くしますと、長老が出てきました。その有様はといえば、

年は五十を超えざるも、

体重はほぼ四百斤、

鼻息は呉牛[15]に似、

猛々しさは蜀虎のやう。

垂らしたる安禄山の太つ腹、

見たところ、

体はまるで弥勒仏。

収むるは董太師[16]に似た悪しき腸、

その中身、

海陵[17]の色欲の胆と違ひなし。

 二人が門の外まで出ますと、和尚はあらためて二人を中に招じ入れ、座席を据え、やってきた理由を述べました。長老が見てみますと、二人は二十歳ほどでした。梁生は綺麗ではありましたが、男らしさがありました。胡旦はまるで女性のようで、顔も潤いがありました。長老は、二人は苦労を経験したようにはみえないのに、どうして外側の衣服はぼろぼろなのだろうかと思いました。さらに、じっくり彼らの服の裏地を見てみますと、華美ではありませんでしたが、すべて生羅の衫、ズボンで、とてもきちんとしていました。しかし、州知事の親戚なら、どうして誰も送ってこなかったのでしょうか。二人が途中で逃げたとはいっても、これは証拠のない話でした。それに、どうして彼らを役所に泊めず、寺に送ってきたのでしょうか。親戚だとしても、役所で何か悪いことをしでかして、逃げてきて、出ていけばいいのに、ここに泊まろうとしているのではないしょうか。彼は絶えず人を遣わして様子を窺わせ、とりあえず成り行きをみることにしよう思い、精進料理を食べさせました。

 この寺はもともと皇太后の命で建てられた、経を安置し、香を焚き、修行をするための場所でした。周囲には土地が二三十頃ありましたし、和尚は度牒を授けられ、とても金持ちで、とても贅沢をしていました。精進料理とはいえ、とても豊富で清潔なものでした。二人が精進料理を食べますと、和尚は綺麗な部屋を準備し、彼ら二人を泊まらせました。夕方になりますと、明かりを持っていきましたが、尋ねてくる者はありませんでした。さらに引きとめて晩飯をとりますと、少し夕涼みをしましたが、まったく誰もきませんでした。二人は晁大舎が「おびきだしの計[18]」を用いたことにはまだ気が付かず、錦衣衛の遣いが到着し、役所で騒いでいるのかもしれないと思いました。しかし、証拠はありませんでしたので、落ち着いて泊まっていることはできませんでした。三四日とどまりますと、和尚は州役所の人がこないので、怪しいと思い始め、二人を追い出そうとしました。

二人「我々の荷物と旅費はすべて役所にあるのです。数日したら人が迎えにくるといっていたので、少しも持ってきませんでした。梳匣と二三の鍵をもってきただけで、少しの金もありませんので、行くことはできません。私が手紙を書きますので、ご住職が適当な方を州役所に遣わし、報せを貰ってきてください」

便箋、封筒を貰いますと、和尚が信じない恐れがありましたので、和尚の目の前で、こう書きました。

先日、お暇(いとま)いたしましたが、大旦那さま、大奥さまにお別れの挨拶をすることができず、申し訳なく思っております。二人の男は石橋の上にきますと、一人は手洗いにいくと称して、もう一人は馬をひいてくると称して去り、戻ってきませんでした。私は午後まで待ったあげく、仕方なく自ら荷物を担ぎ、寺に身を寄せました。さいわい長老があなたの面子を立て、引きとめ、もてなしてくださいました。ところが、このところ手紙が送られてきませんので、私たちは進退窮まっております。どうしたらいいか、すぐにご指示をお願いいたします、手元に一文もありませんので、お心遣いをお願いいたします。名前はご存じでしょうから申し上げません。

 書き終わりますと、糊で封をしました。長老は常に州役所に出入りしている男を、州役所に行かせ

「三日前、役所から二人の若者がやってきて、寺に泊まり、役所の人を待つといって出ていこうとせず、この手紙を送るようにいわれました」

役所の門番は奥に取り次ぎました。晁大舎は自ら伝桶の前にやってきて返事をしました。

「うちの役所の役者は、役所に住んでいるはずだ。どうして寺に送ったりするものか。どこかのならず者が詐欺をしているのではないか。すぐに追い出してくれ。少しでもぐずぐずすれば、寺中の和尚を捕らえて重罰に処するぞ」

手紙を届けた者はびっくりし、大急ぎで寺に逃げ、もとの手紙をもちながら、梁、胡の二人とともに、長老に報告をしました。

 二人はそれを聞きますと、ぼんやりとし、顔色を変え、怒りで話をすることもできませんでした。長老は引き止めることは許さないといわれたものの、胡旦が綺麗でしたので、よからぬ心を断つことができませんでした。すぐに二人の地方が寺にやってきて調査をしましたが、長老が勅旨によって得度した人だったおかげで、その地方も勝手なことをするわけにはいかず、少し話しをすると去っていきました。胡旦ら二人はいいました。

「われわれは半歩も進むことはできません。一分の旅費もないのです。出発することなどできません。ここで死ぬしかありません。いずれにしても死ぬしかありません」

前後の事情を洗いざらい、どのように銀子を借りたか、どのように外に出されたかを、すべて和尚に告げました。

長老「そうだったのか。これは大舎が計略を用いたのだ。おまえたちの六百両と荷物で、官職を求めたときの銀子を取り戻したということだな。おまえは本当のことをわしにはっきりと話したから、事はうまく処理してやろう。おまえたちは安心してとどまるがいい。寺にはおまえたちがとる食事もある。おまえたち二人は、とりあえず頭の毛を剃って和尚になるのだ。まもなく改めて太子が立てられ、赦免状が下るから、そのときに還俗しても遅くはない。今はとりあえず寺に止まるのだ。どんなに偉い者でもわが寺で人人の捜索をすることはできないからな」

胡、梁の二人はいいました。

「それならば、私たち二人は長老さまを終生の師と仰ぎ、還俗したりは致しません。それに、私たち二人は婚約をしているとはいえ、妻を家に迎えてはおりません。後に良い果報を得ることができれば、長老さまによって得度したのも無駄ではなかったというものです」

胡、梁の二人を剃髪して僧にしたことは後でお話しいたしましょう。

 晁大舎が巧みな計略を用いて、梁生、胡旦を追い出しますと、晁老人は息子を孔明の再生、孫、[19]の再来のように尊敬しました。ある日、地方が報告をしました。

「梁、胡の二人はどちらも追い出しました」

晁老人は喜んで全身から蓑を脱いだような気分になりました。しかし、晁夫人は息子が梁生、胡旦を追い出したことを聞くと、不愉快になり、まるまる二日食事をとらず、さらにこう咎めました。

「あの二人も変わっているね。普段からわたしとは馴染みなのに、どうして私に一言の別れも告げずに、いってしまったのかねえ。きっと腹を立てて、私まで咎めたのだろう。我慢せずに外にいっては、人に掴まってしまうよ。誰か彼らについていったのかい」

老婦人は部屋の入り口を閉じ、悲しげに泣くのをやめませんでしたが、やがて声がやみ、物音がしなくなりました。小間使いは窓の外から中を覗きますと、叫んで、何度も言いました。

「大変です。大奥さまが床の欄干で首を吊っておられます」

人々は慌てて、入り口を掘ったり、窓を壊したりしました。そして、母屋から晁老人を、書房から晁源を呼んできて、しばらく薬を飲ませますと、晁夫人はようやく息をふきかえしました。晁老人は何度も小間使い、下女たちに尋ねましたが、みんなは理由が分からないといいました。大奥さまは二日間食事をとらず、部屋に鍵を掛け、大泣きした、物音がしなくなったので、窓から中を覗いてみると、首を吊っていたということでした。晁老人は何度も晁夫人に理由を尋ねました。

晁夫人「理由はないのだよ。息子がいるときに死ねば、彼が麻布を被り、喪服を着け、私を墓場に送ってくれるだろう。しかし、死ぬのが遅くなれば、人から独り者といわれ、先祖の墓の外に埋められてしまうよ」

晁老人「何を言っているのかわからんな。このような最高の息子がいて、彼のもとで愉快な生活を送ろうと思っているのに、どうしてそんな縁起の悪いことを言うのだ」

晁夫人「私は女ではありますが、古典を読んでおります。薄情で人を裏切る、良心のない者が、このようなずるいことをして、長生きをし、幸福を得たことなど聞いたことがありません。さっさと口と目を閉じ、運気の良いうちに死んだ方が愉快です。それなのに救われてしまうなんて」

晁老人は、晁夫人の話を聞きますと、思わずぞっとしました。しかし、晁夫人は、彼らが銀子を一文も残さずに奪われ、服も一つも持たずに追い出され、地方が派遣されて彼らを追跡しているということはまだ知りませんでした。人々は強く宥め、晁夫人を慰めました。しかし、噂は広まるもの、事件は邢皋門にも知られてしまいました。まさに、

和やかな気は幸福(さいはひ)をもたらして、

邪な気は災異(わざはひ)をもたらせり。

かくなる家は、

幸を得ること叶ふまじ。 

その後、つまらないことがだんだんと起こるようになりました。

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]原文「焚林撥草」。「抜草除根」と同じで、相手をすっかり追い払うことをいうと思われる。

[2]自分の命を救ってくれた東郭先生を食べようとした恩知らずの狼。無名氏『中山狼伝』がもとになった物語で、明代に康海によって戯曲化された。

[3]給事中のこと。侍従、規諫をつかさどる官。

[4]十三省に同じ。山東、山西、河南、陝西、湖広、江西、浙江、福建、広東、広西、貴州、四川、雲南をいう。

[5]唐代伝奇『枕中記』や、それに取材した湯顕祖『邯鄲記』、車任遠『邯鄲夢』などの戯曲をさしているものと思われる。後出の『南柯記』と同じく、主人公が夢の中で栄耀栄華を極めるが、没落したところで、夢から醒めるという物語。

[6]唐代伝奇『南柯太守伝』や、それに取材した湯顕祖『南柯記』、車任遠『南柯夢』などの戯曲をさしているものと思われる。

[7]原文「病鳥依人」。典故未詳。

[8]朱家は周家の誤り。季布は項羽の部将。項羽が劉邦に敗れると、漢陽の周氏に匿われ、後に赦されて王となった。

[9]孔褒は後漢の人。孔融の兄。孔融がかくまった張倹が捕らえられると、代わりに罪を受けた。

[10]原文「不肯学那東窗剥桔子吃的一个賢徳夫人」。「東窗剥桔子吃」は、薄情なことをするという意味だと思われるが未詳。

[11]北京の東にある通州の東南にある地名。運河の沿線。

[12]丁香はライラックの花。ここではそれをあしらった装身具をいう。丁香はボタンや耳飾りのデザインとして使われるが、ここにでてくる「金の丁香」がそのどちらであるかは未詳。

[13] すでに逸した戯曲として、元王実甫撰『志公和尚問唖禅』があるが、本事は未詳。和尚が説教をし、石がうなずくという物語は、虎邱寺で『涅槃経』を説いた生公のものが有名で、あるいはこれと混同したものか?

[14]明代、東廠、西廠、錦衣衛の合称。特務機関。

[15]呉の牛は月を見ると恐れて息が荒くなるという。『事類賦』巻一引『風俗通』「呉牛望見月則喘、使之苦於日月、怖而喘焉」。

[16] 『三国志演義』に登場する董卓のこと。肥満していたことで有名。

[17]金の第四代皇帝。明馮夢龍編『醒世恒言』第二十三巻に『金海陵縦欲滅身』がある。

[18]原文「弔虎離山之計」。「調虎離山」とも。虎を山からおびき出すこと。転じて敵を有利な場所から離れさせる計略。

[19]春秋時代の軍師、孫臏、龐涓のこと。

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