第十三回

理刑庁で自供をし護送、尋問を受けること

兵巡道が罪を許して上申書に批評をつけること

 

家を立派にしたければ、

二つの犂を買えばいい。

家を滅ぼす積もりなら、

女房(にょうぼ)二人を娶りゃいい。

妾は良家の出でもよくなく、

娼婦上がりは尚のこと。

姻縁伝を御覧じろ、

起こるはまことにひどいこと。

舌を伸ばして、

眉を寄せ、

世の人々の独り身で、

梅花紙帳[1]に寝ようとままよ。

 晁大舎ら犯人は、下役に護送され、ふたたび宿屋に戻りました。珍哥は裁判の結果を尋ね、ようやく判決が確定したことをしりました。彼女は、晁大舎を引っ張って大泣きし、晁大舎も泣くのをやめませんでした。

高四嫂「初めから悪いことをされなければよかったのです、今から泣かれても遅いですよ」

二人の刑庁の下役がいいました。

「褚さまは、このようなご沙汰を下されましたが、上には、さらに道台様がおられますから、あと三回審理をしなければなりません。事情をご存じなのに、こんなに泣かれるなんて。刑がはっきりしてから、泣かれても遅くはありませんのに」

珍哥は、泣くのをやめようとせず、晁大舎に向かって

「金を惜しまずに、私を救ってください」

と言いました。晁大舎は、さらに、下男に、刑庁で事件を取り扱っている書吏を宿屋に呼び、彼に五十両の謝礼を送り、自供書にひどいことを書かないように頼みました。そして、後で釈放されることを望みました。書吏は、銀子を受け取りますと、承知して去っていきました。伍小川、邵次湖は、四本の脚の骨を夾棍で折られ、痛くて豚が殺されるときのように叫びました。

 翌日、書吏は、自供書の原稿を作り、まず晁大舎にみせました。そして、肝心なところを曖昧に書き、一二か所のひどいところは、晁大舎に頼まれて変え、謄本を作り、送付しました。四府は、原稿を見ますと、賄賂を受けたのだと気がつきましたが、晁大舎を大目にみて、彼のために新たに供述をかえてやり、批語をつけ、釈放し、翌日に護送することにしました。その自供書の原稿には、

施氏とは、珍哥であり、年は十九歳、北直隷河間府呉橋県の人、実家の姓名は不明です。幼いときに、父母によって、確かな金額は分かりませんが、役所にいない芸人の施良に売られ、娼妓となりました。正統五年に、初めて客を迎え、劇を演じ、旦に扮することを学びました。翌年の二月に、施良は、施氏ら女芸人を連れ、濮州の臨邑[2]にきて、盛り場で商売をし、武城県にとどまりました。役所にいた監生晁源は、国子監生になる前に、施氏と夜をともにし、後に、だんだんと仲が良くなり、お互いに結婚したいと思うようになりました。媒酌人の龍舟が行き来して話を纏め、晁源は、結納金銀八百で、施氏を買い、妾としました。施氏は分に安んじ、晁源は、正室と妾の区別をはっきりさせればよかったのですが、施氏は、容色を頼りにし、晁源と愛し合い、彼に指図し、首吊り自殺に追い込まれた正妻計氏と一緒に住むことを許しませんでした。晁源も、施氏の唆しを信じるべきではないのに、計氏を、家の一番奥の空き部屋に追いやり、一人で暮らさせました。計氏には、実家が嫁入りのときに持参させた土地が百畝あり、人を雇って耕し、食を得ていました。晁源は、毎年の衣服、食事の面倒をずっとみませんでした。施氏は、計氏が目障りだと思い、計略を用いて計氏を去らせ、自分が正妻になろうとしましたが、その機会がありませんでした。今年の六月六日に、道姑の海会、尼の郭氏が、計氏の家に出入りするべきでないのにも拘らず、たまたま施氏の家の入り口を通り過ぎますと、施氏はそれをとらえて「結構な郷紳だこと。立派なおうちだこと。由緒正しい娘だこと。真っ昼間に、立派な体格の道士、太った和尚が、一人一人部屋から出てくるなんて。私は由緒正しくなく、舞台に上り、客を迎え、間男をとりますが、格好のいい男を選ぶことぐらいはしますよ。このような臭い牛の鼻や禿げた和尚とは、万年夫がいなくても、間男はしませんよ」などといい、さらに晁源を馬鹿、亀と罵り、激怒しました。役所にいる小間使いの小柳青らが、こう証言しております。晁源は、詳しい事情を知っていたのですから、施氏を一喝し、黙らせればよかったのですが、施氏のご機嫌をとり、計氏の役所にいない父計都、役所にいる兄計奇策を家に呼び、計氏が僧、道士と姦通した、真っ昼間に行き来し、何憚る様子もなかったのを、施氏がその目で見たと嘘を言い、計氏を離婚しようとし、計都らに連れ帰らせました。計都は返事をしました。「海会、郭氏は、城中の士大夫の家に出入りしています。彼らが道姑、尼であって、僧、道士でないことは、みんなが知っています。あなたは離婚するつもりで、わざと姦通をでっち上げたのでしょう。無理にここにとどまっても面目ないだけですから、家に戻って部屋を片付け、数日後、娘を迎え、家に帰り、あなたのお父さんの晁郷紳が戻ってこられたら、話しをすることにしましょう」

そして、奥に行き、計氏に知らせました。計氏は、濡れぎぬを着せられ、承服しようとせず、計都、計奇策を外に追いだし、手に小刀を持ち、罵りにきました。施氏は、計氏が騒ぎを起こすのを恐れ、中門を閉じました。計氏は、わめきながら、大門の中にやってきますと、罵っていいました。『おまえは、夫を独り占めして、二三年になる。おまえとは顔を合わせたこともないのに、私のどこが目障りだというのだ。おまえは謀りごとを設け、どうしても私を遠い別の土地に追いやろうとするのか。二人の尼も私のところに行き来していたのではなく、ずっとおまえの家に出入りしていたのだ。この手のひらほどの大きさの武城の街では、大きな家も小さな家も、二人の尼を知らないものはいない。馬鹿野郎、淫婦、出てこい。近所のみんなに聞いてごらん。私のところから出てきたのが尼でなく、本当に和尚、道士ならば、離婚では済まされない。おまえがご近所さまと一緒にやってくれば、私は首を伸ばし、おまえに殺されるに任せよう。しかし、淫婦、馬鹿野郎が計略を設け、私を陥れようとしたのなら、私はおまえたちと刺し違え、死んでやるからね』などと言いました。役所にいる隣の婆さんの高氏は、計氏が大門の中で叫んでいるのを見ますと、計氏を宥め、中に入らせました。高氏の証言では、本月七日、計都は、計奇策とともにやってきて、計氏を迎え、家に戻りました。計氏は、片付けがまだ終わっていない、八日の朝になったら行っても遅くはないと言い、計都らは一緒に帰りました。計氏は七日の夜、いつかは分かりませんが、きちんと服を着、ひそかに施氏の家の門に行き、帯で自ら首を吊って死にました。小夏景らの証言では、計都、計奇策は、役所にいない計家の親戚とともに計氏の死体をおろし、本日申の刻に棺に納めました。

計都は娘を哀れに思って承服せず、施氏が謀りごとを設けて計氏を殺した事情を、本県庁に告訴しました。故胡知県は令状を出し、快手伍聖道、邵強仁に捕縛を行わせました。伍聖道、邵強仁は、晁源に二百両を要求し、分けて自分のものにし、賄賂を受け、施氏を役所に出さないようにとりはからい、晁源らの原告、被告、証人らを、罰紙、罰穀、罰金などに処し、裁きをつけました。計奇策は、計氏が非業の死を遂げたことを悲しんで承服せず、某年月日に人命事件の訴状を書き、東昌道を分巡している李さまに告訴をして受理され、「東昌の理刑庁の調査を仰ぎ、護送する」という批語を受けました。東昌府の理刑褚推官は、施氏ら犯人を捕らえて役所に出させ、別々に審問を行いました。

施氏は、主人を惑わすのが九尾の狐よりもうまく、人を殺すときは、両頭の蛇[3]よりも凶悪でした。自分が新たに寵愛を受けた者であることを利用し、古くからいた妻と夫の間を隔て、妻が家に入りますと、眉を逆立て、嫉妬しました。卑しいものを愛し、貴いものを辱め、巧みな計略を設け、正室を追いだしました。計氏が自らを守る知恵をもたず、晁源が愚かでだましやすく、鹿と馬を区別することができないのをいいことに、尼を男の道士だと強弁し、女主人に密通の汚名を着せ、閨房で醜悪なことが行われているといい、夫を激怒させました。剣を含んだ彼女の舌は干将[4]よりも鋭く、逮捕状を潜ませた彼女の足は飛脚よりも速いものでした[5]。このことを暴露しなければ、周伯仁[6]が理由もなく死ぬようなことが起こってしまいます。彼女のしたことを見ますと、呉の伯嚭[7]のようにずるがしこいものです。法律によって、絞首刑にして当然です。一人の婦人が、恨みをのんで首を吊ったのですから、死刑にしても罪はあがないきれません。晁源は度量が狭く、心はすぐに変化します。彼は、山や海のように変わらない誓いを立てながら、夫婦の愛情を、靴を脱ぎ捨てるときのように簡単に捨ててしまいました。柳、花を折り[8]、つまらない人間であるにもかかわらず、とても尊重しました。野鴨[9]のために鶏[10]を追い払い、きれいな花を植え、蒯草[11]を切りました。寵愛を奪い、まず放置し、讒言を聞き、さらに離婚をしようとしました。計氏は、密通の汚名に安んじていることはできず、すでに受けた辱めにも我慢できませんでした。彼女が悶々として自殺したのは、妾のためですから、殺人幇助罪により、徒刑にしても不当ではありません。伍聖道、邵強仁は、悪人をかばい、捕縛するか放免するかは付け届け次第でした。狽が狼にたよって進むように[12]、金銭を勝手に集めました。二百両の賄賂をとったことが事実であることを自ら認めたので、五年の徒刑は軽減することにします。海会は、道教の戒めを守らず、仲間を呼び集め、郭氏は寺を離れ、家に出入りし、争いを起こし、災いを引き起こしました。もとをただせば、すべて杖刑にするべきであります。

四名のうち、計奇策は三十五歳、高氏は五十八歳、小柳青は十七歳、小夏景は十三歳、それぞれの自供は同じです。五名のうち、晁源は三十歳、伍小川は六十二歳、邵強仁は三十三歳、海会は二十四歳、郭氏は四十二歳、それぞれの自供は同じです。

一、施氏らの犯罪を審理した結果、施氏は、威力を用い、上長を追い詰め、死に至らしめた者に関する法律を適用し、絞首刑にすべきである。立秋以後に処罰することにする。晁源は、威力を用い、人を追い詰め、死に至らしめたが、減刑し、杖百回、三千里の流罪にする。伍聖道、邵強仁は、公人と私人をだまし、金を手に入れた者に関する法律を適用すべきであるが、賄賂をとったことを窃盗として考え、入れ墨にするのを免じ、百二十貫以上、百回の杖刑とする。施氏の死罪を減刑することはできないが、晁源、伍聖道、邵強仁、海会、郭氏は、大赦があれば減刑する。晁源、伍聖道、邵強仁は、それぞれ杖八十、徒刑五年とする。海会、郭氏は、ともに七十回の杖刑とする。晁源は、監生で財力があり、海会、郭氏は、婦人であるから、収贖[13]することを許す。伍聖道、邵強仁は、下役であるから、罪をあがなうことを許さず、仕事の多い駅に送って徒刑にし、期限がきたら釈放する。護送して審問を行い、処置するべきである。

一、計奇策は告紙銀[14]二銭五分、高氏、小柳青、小夏景、伍聖道、邵強仁、海会、郭氏は、民紙銀二銭、晁源は官紙銀四銭を納めること。さらに贖罪をすること。晁源は工価銀[15]二十五両を納め、海会、郭氏は、それぞれ杖刑の贖銀一銭五分を納めること。上申書が批准されれば、貯蓄を調査し、きちんと支払わせる。伍聖道、邵強仁に関しては、晁源から脅し取った二百両と、元の持ち主によって告発されていない不当利得を、没収すべきである。晁源は監生だが、礼部に報告して除名する。伍聖道、邵強仁は、快手だが、免職にし、新たに募集を行う。計奇策は、もともと計氏の妝奩地百畝を嫁入りのときに持参させたのだから、計奇策に返還して耕作させる。いずれも受取書をとり、提出するように。以上

文書を一つ一つきちんと書きますと、批語を加え、花押を書きました。翌日、下役と犯人たちは、点呼を受け、珍哥、晁源、伍聖道、邵強仁らは、手錠を嵌められ、下役に引き渡され、連行され、巡道へ護送され、審問を受けました。

 晁源、珍哥は、事ここに至りますと、すっかり元気をなくし、下役とともに宿屋へ行きました。晁源は、下役に、手錠を外してくれと頼みました。

下役「若さまは手錠には慣れていませんし、奥さんはなおさらそうでしょうから、緩めなければなりますまい。私どもは、若さまから厚いご恩を受けているのですから、若さま、奥さまを引き連れて、道を歩いたりはいたしません。しかし、まだ城内にいますから、自由になっていただくわけにはまいりません。褚さまは、常に人を出し、監視をされます。万一みつかれば、私たちは、とんでもない目にあいます。城を出て、二三十里進んでから、自由にして差し上げましょう」

荷物を準備しますと、馬具をつけ、車をくくりつけましたが、晁源は、手錠を嵌められていましたので、馬に乗ることができませんでした。そこで、二人がきの小さな轎を雇い、腰を掛けました。女は車に乗り、伍聖道ら二人は、今まで通り、板で作った担架に乗りました。二十余里進みますと、晁源は、下役に命じ、手錠をとらせました。

下役「ここは臨清から百余里と離れておりません。いっそのこと手錠をつけたまま歩きましょう。手錠を外しても、あそこについたら、また手錠を嵌めなければなりませんから、とても面倒なのです」

この下役は、手錠を外すことによって、多額の金をゆすりとろうとしていたのでした、晁源は、彼の話しを聞きますと、一分もやりたくないと思いましたが、このときになりますと、その下役は、ゆっくりと賄賂を出せとほのめかしましたので、晁源は、各人に、さらに二十両ずつ銀子をやりました。そして、なだめたり、すかしたりして、手錠を解いてもらいました。

 邵次湖は、夾棍に掛けられ、悪血が心臓に上ったため、担架の上で、意識を失い始めました。冷水を掛けますと、叫ばなくなりました。落ち着いたのかと思ったら、死んでおりました。人々は、仕方なく、路上で脚をとめました。下役が場所を探しますと、保甲がやってきて、検分をし、死亡証明書を書き、破れ筵を探し、死体を乱雑に包み、一本の藁縄で縛り、さらに、二人の小甲[16]に命じて、浅い穴を掘り、薄く土を掛けて埋め、出発しました。夜になりますと、宿屋を探しました。晁源、珍哥は、まるで一万の心配事が覆い被さってきたかのようでしたし、伍小川も、ひたすら痛みを堪えながら悲しみました。しかし、下役たちは浮き浮きとして、鶏を殺し、酒を買い、何人かの妓女を呼び、叫んだり、笑ったりするのをやめませんでした。これらは、すべて晁源の支払いでした。彼らは翌日の朝まで眠り、起きて髪梳き、洗顔をし、さらに酒、飯を食べました。晁源は、彼らのために、宿代を払ってやりました。やがて、人々は出発し、さらに先に進みました。臨清[17]の城門に入りますと、道台の役所の付近に、宿屋を探しました。人々は、夕食をとりますと、下役は、今まで通り、女郎買いをし、酒を飲んでやめず、伍小川、邵次湖のひどい有様を見ても、まったく気配りをせず、ひたすら強い態度をとり、金をゆすりとりました。

 翌朝、人々は、髪梳き、洗顔を済ませ、朝食をとりました。下役は犯人たちを引き連れ、道台の役所へ行き、文書を提出しました。巡道は、一人一人点呼を行い、批文を返し、邵次湖が死んだ証明書を提出し、翌日の朝に審問を行うように命じました。宿屋に戻りますと、みんなが悲しい思いをしていましたが、下役だけは楽しみました。晁源と珍哥は、頭を抱えあって泣きました。

「僕とおまえが一緒になれるか否か、助かるか否かは、明日半日で決まるのだ」

晁源は、少しも珍哥が災いを起こしたこと咎めず、ただ

「裁判がおわり、生きられることになれば、俺は復讐するぞ。死んだら、俺は、やつの死体を棺からひっくりかえし、焼いて粉々の骨にし、山に撒き、二百二十両で買った棺を乞食にくれてやる」

といい、ぎりぎりと歯噛みをしました。しかし、珍哥は、以前、計氏に乗り移られ、掴まれ殴られてからというもの、肝を潰しており、あの日から、今に至るまで、強気なことをいう勇気はありませんでした。一しきり泣きますと、二人は無理に何杯かの酒を飲み、同じ床で眠ることを許すようにと下役に頼みました。

 翌朝、食事をとりますと、道台の役所の前に行きました。門を開け、文書の提出と受領が終わり、解審牌[18]がでてきますと、下役は、人々を連れ出しました。晁源、珍哥、伍小川は、今まで通り手錠を嵌められ、鉄の鎖を結ばれ、丹墀に跪きました。巡道の役所は、威厳からいえば、刑庁よりもさらにすごいものでした。そのさまはといえば、

中には大きな五(けん)の間、

公案上にましますは痩せた顔、

薄い頬、

顔しかめたる閻魔さま。

両脇の小さな三間の建物にゃ、

頑強で、

鷲鼻で、

胸の張り出た混世魔王[19]がたむろする。

升堂鼓[20]三回獅子のように吠え、

並ぶ杖まるで二十の犬の脚。

六月なのに寒気が生じ、

悪人どもは肝冷やす。

月の光は美しく、

善き人の影照らしだす。

十八省の民草は清らかな風に靡いて、

百万軒の家々は厚きご恩を蒙らん。

 巡道も、犯人たちをそれぞれ一人ずつ呼び、別々に審問を行いました。刑庁の審問で、真実は明らかになりましたが、今回の再審理には、どのような違いがあるのでしょうか。簽が抜かれますと、晁源は二十回の大板打ちに、珍哥は服を脱がされ、二十五回板打ちになり、伍小川は、一回拶子にかけられ、二百回叩かれました、海会、郭姑子は、それぞれ一回拶子に掛けられました。女が役所に出るときは、服を脱がされてぶたれることを予測し、短いズボンを作って尻に縛り、人に見られたくないところを覆い、腿だけを露出して刑を受けるものです。ところが、珍哥は、用意しておりませんでしたので、その日は、見られたものではありませんでした。さいわい、刑罰を受けるときに金を払っていましたので、あまりひどくはぶたれませんでした。拶子が終わりますと、返答書を下役に交付し、批語をかいて返しました。公文書は、すべて東昌府宛てで、批語には犯人を東昌府に連れ帰り、収監、尋問すると記されていました。府役所に差し戻されたことが分かりましたが、どのように上申書に批語がつけられたのかは分かりませんでした。下役に頼み、二両の銀子を包み、道台の役所の書房にいき、様子をききました。晁源、珍哥も、ぶたれて動くことができず、下役に頼み、臨清にとどまりました。そして、外科医を呼び、傷をみせました。下役は、臨清のような賑やかな街では、賭博の銭を提供するものもありましたので、真っ昼間から賭博をし、女郎買いの金を提供するものもありましたので、晩になりますと、女郎買いをして、憂さを晴らしました。辛いことはなく、何もかも思い通りで、一年でも泊まろうとしました。晁源、珍哥は悲しみ、上房の床の上で叫び、伍小川は、西の廂房の炕の上で叫び、客商を泊める旅館は、枉死羅城[21]にかわってしまいました。

 高四嫂は、刑庁で審問がすめば、戻っていいものと思っていました。ところが、さらに護送されなければならず、府役所に差し戻されたあとは、三四回審理を受けるということでした。どこの州県にいくかも分からず、一緒に争う暇もありませんでした。人の心が分かる女であれば、他人がぶたれ、口を開け、歯をむき出しにしている様子を見たときは、話をしても無駄だろうと考えるものです。また、他人からたくさんの物をもらっていたのですから、文句をいうべきでもありませんでした。ところが、彼女は、ぶつぶつぶつぶつと、恨みごとをいうのをやめませんでした。晁源もいらいらしていましたので、怒りだし、言いました。

「おまえは、とんでもないことをいっているぞ。俺がおまえを証人にするように頼んだわけではないのに、俺を恨むのか。俺は、おまえとは隣同士だ。人が告訴をし、おまえを証人にしたのだ。俺は今回の件ではおまえの世話にならなければならないから、丁寧におまえに頼み、冰光細絲[22]三十両、十匹の大きな紗布、二匹の綸子、絲綢、六吊の黄辺銭[23]を送ったのだ。よくしてやったのに、このろくでなしめ。おまえに五十両ほどの銀子を与え、おまえが役人の前でいいことをいうのを望んでいたのに、おまえは融通の利かない証言をし、少しも気の利いたところがなかった。連れてこられた人々は、死罪に問われたり、板でぶたれたりした。俺とおまえが隣同士で、おまえは俺から銀子をたくさんもらったのだぞ。たとえ赤の他人でも、顔をぶたれているのを見れば、かわいそうに思うものだぞ。こん畜生め。おまえには慈悲の心があるのか。行こうと思うなら、自分の臭い例のところをすぼめていけ。俺はもうおまえに頼みごとなどしないぞ。金ならあるぞ。一吊の銭を旅費にし、家に帰れ。これからは、おまえがとどまろうがとどまるまいが俺とは関係がない。おまえがとどまっても、俺はおまえの食事の面倒はみないし、おまえの家畜の面倒もみないぞ。秀才が牛の世話などするものか。いってくれ」

高四嫂「私は罵られて当然ですね。私は口の減らない売女ですよ。考えのない売女ですよ。この前、あんたに頼まれたとき、おとなしく、一緒にやってきたのが間違いでしたよ。役人の前で、私はありのままを話したというのに、この恩知らず。強盗に殺されておしまいなさい。明日、府役所で審問されるときは、さらに百回板打ちになるでしょうよ。今度役所に行ったとき、あんたが板子打ちにならなければ、私は『高』の字を逆さまに書いてやりますよ」

罵りながら、布団を片付け、晁源の床の下に行き、一吊の銭を引き出し、布団袋を担ぎ、外に歩いていきました。一人の下役が表門のところで腰掛けに座り、足の手入れ[24]をしていましたが、高四嫂が布団を背負い、一吊の銭を掛け、外へ飛ぶように走っていくのを見ますと、足の手入れもまだおわっていないのに、靴を突っ掛けながら追い掛け、彼女を掴まえ、尋ねました。

「どういうことだ」

引き止めて戻りますと、下役は、彼女を一しきり宥め、布団をおろさせました。

晁源「俺はもう旅費を払ったし、おまえはもう出発したのだ。下役殿がおまえを引きとめ、戻ってこられたのだから、これからは、下役殿に世話をしていただくのだな。おまえは晩になったらこの部屋ではなく、下役どのの部屋に眠りにいけ」

高氏「減らず口を叩くんじゃないよ。あんたの女房も下役の部屋に行かせて眠らせるんだね」

晁源「女房が下役と一緒に眠ることができれば、結構なことだ。恐らく下役の部屋で眠ることさえできないだろうからな」

そう言いながら、珍哥とともに、声を振り絞って天よと叫び、大声で泣きました。そこへ、道台へいき、批語について尋ねた下役が批語を書き写して戻ってきて、小柳青に渡し、晁大舎にみせました。晁大舎は、床の前に蝋燭を移させ、その批語を読みました。

もしも計氏が和尚、道士と姦通したのが本当であれば、自ら首を括っても罪は余りあります。しかし、計氏と交際のあった者をきちんと検査してみますと、尼であって、僧ではなく、道士でもありません。施氏は、風もないのに波を起こし、夫を激怒させ、混乱を引き起こし、正妻を自殺に追い込みました。その心を慮るに、謀殺に関する条文を適用し、絞首刑にするのが相当であります。晁源は、美しい妾に唆され、正妻を首吊り自殺に追い込みました。伍聖道は、下役であるのをいいことに、財産をだましとり、賄賂を受け、犯人に寛大な態度をとり、法の網から逃しました。虚偽報告の罪に処すべきであります。海会、郭姑子は、寺にじっとしておらず、人の家に入ったため、全員杖刑に処するのが相当であります。施氏は死刑に関わる罪を犯しておりますので、くわしく審問しなければなりません。東昌府には、ふたたび尋問を行われますよう、お願い申し上げます。

 晁大舎は、批語を見ますと、とても喜んで

「この批語は、とても正しいものだ。裁判は差し戻しになったぞ」

珍哥も喜んでやめず、晁大舎に読んで聞かせてもらいました。晁大舎は、読みました。

「『計氏が僧、道士と姦通したのは真実なので、首を括っても憎み足りません[25]』。これは、計氏と僧、道士が、本当は姦通をしており、すでに首を吊って死んだが、尚も恨むべきだといったものだ。さらに『計氏が交際していた者には尼もいれば、道士もいるし、和尚もおります[26]』とある。ここで言っていることは、死んで当然だということだ。お咎めを受けなくてすむぞ」

喜んで叫びました。すぐに小間使いに酒を温めさせ、珍哥とともに床の上で大いに飲み、悲しみをほとんど忘れてしまいました。下役たちは、外で言いました。

「晁さんは、どうして喜んでいるのだろう。上申書によい批語がついていたのだろうか。道台の幕僚は、上申書には、ひどい批語がつけられていたと言っていたが、一体どういうことだろう」

 晁大舎は、珍哥と一更まで酒を飲みますと、明かりを吹き消し、眠りました。翌朝になりますと、二人の棒で打たれた傷は、すっかり悪くなりました。彼らは、豚が殺されるときのような声を出し、急いで外科を呼び、みてもらいましたが、房事を行ったので、頑瘡[27]になったのだ、一二か月しないと、良くなる見込みはないと言われました。伍聖道は、夾棍、拶子にも掛けられていましたので、一日に二三回、気を失いました。五六日たちますと、伍聖道が気を失ったときに、必ず邵次湖が目の前にきて、一緒に地獄へ行って別の案件を審理しようと言うのでした。意識が戻っても、邵次湖は一刻も離れずに目の前にいました。さらに一二日過ぎますと、邵次湖一人ではなく、彼の手に掛かって殺された人々が、償いを求めにきました。そして、伍聖道の棒打ちの傷を足で蹴ったり、煉瓦のかけらでぶったり、夾棍に掛けられて砕けた骨を、太い棍棒でぶったり、拶子に掛けられた手を、針でつついたり、あらゆることをしました。伍聖道は、苦しみを我慢することができないとひっきりなしに言い、ひたすらはやく死にたいと願いました。

 さらに、五六日が過ぎますと、晁大舎と珍哥は、療養をしたため、あまり痛みを感じなくなりました。下役は、あまりぐずぐずするわけにもいかないと思い、荷物を纏め、東昌府にいこうと唆しました。晁大舎、珍哥は、座ったときに傷が痛みますので、どちらも騾車に乗ることはできませんでした。そこで、新たに臥轎を買い、一緒にその中で眠ることにしました。そして、二班の十六名の人夫を雇い、担がせました。ほかの者は、今まで通り、車や騾馬に乗ったりしました。伍小川の両腿と両足、両手は、腐って骨が露出しておりましたので、板の担架にのせました。さらに、六人を雇い、二組の人々で担ぎました。部屋代、食事代を払い、泊まった家のご馳走に感謝しますと、人々は東昌へ帰っていきましたが、このことはお話し致しません。

 さて、伍小川は、死期が近いことをさとり、ひたすら東昌に着くことを願いました。一つには家が近かったから、二つには府城には良い棺があり、死骸を納めることができ、邵次湖のように道端で死に、破れ筵に包まれ、埋められないですむからでした。ところが、初めの日に泊まったのは、以前きたことのある宿屋でした。伍小川は、ひどく苦しみ、いいました。

「邵次湖の魂と怨霊が、命を取るためについてきました」

翌日起きますと、人々は朝食を食べ、今まで通り出発しました。先日、邵次湖が死んだところにいきますと、伍小川が大声で叫びました。

「皆さん、私をぶたないでください。邵さん、彼らを防いでください。私があなたと一緒にいけばいいでしょう」

口を開け、何度か足を痙攣させますと「(ねが)はくは()けよ」[28]ということになってしまいました。人々は、先日泊まったところで、轎、馬を休め、下役は、ふたたび先日の郷約、地保を尋ね、証明書を求め、三四枚の破れ筵を買い、よせ集め、死体をくるみますと、邵強仁の脇に、浅い穴を掘り、仮埋葬しました。

 出発しようとしますと、郷約、地保が、晁大舎に、何分かの酒代を求めましたが、晁大舎は、彼らに与えようとしませんでした。人々は言いました。

「どれだけ金をやったかわからないぞ。数十文の銭をやればいいですよ。こいつらの二つの破れ筵と、二枚の証明書を使ったのですからね」

晁大舎は、人に首を押さえられていれば、多い少ないに拘らず、必ず金を出すのですが、彼を押さえる人がいないと、一文の銭も払おうとはしないのでした。郷約、地保は、彼がどうしても彼らに金を与えようとしないので、いいました。

「金をくれないのならそれでいい。しかし、後日護送されて、ここで死ぬときに、俺たちから筵をもらおうなどと思うなよ」

罵りながら、帰っていきました。晁住は、馬を引き返し、追い掛けて彼をぶとうとしました。すると、保正は鶏卵ほどの大きさの石を拾い、馬の鼻に投げ付け、馬は痛がって転げ回りました。数十文の銭を、使うべきときに使わなかったばかりに、とても不愉快なことになりました。日が落ちようとする頃に、府城に入り、昔の宿屋に泊まりました。

 翌日、府役所に文書を提出し、点呼をうけました。翌日、文書を受けとり、聊城県[29]に命令を下したことが分かりました。聊城で審問が行われ、府に上申書を転送し、改めて冠県[30]で批語が加えられました。犯人たちは、[31]についていき、半月たってから、全員府に送られ、三四回差し戻しになったとはいえ、先例通りに、三回差し戻され、ようやく自供書に書き判がなされました。一人の刑庁が、犯人の審理を終え、道府が再審査し、お許しがあるかもしれないと期待しました。府知事は、犯人を本県に送り返すように命じ、別々に収監し、保証人を捜し、事件が上級官庁に報告されるのを待って、両道[32]、両院[33]と文書が上に送られ。さらに、上から下へと許可が行われ、すべて最初の判決通りとなりました。珍哥は、武城県に監禁され、晁源は保証人を立てて贖銀を納めることにし、伍聖道、邵強仁はそれぞれ家族が賄賂を返還するように命ぜられ、海会、郭氏は保証人を立てて釈放され、そのほか計奇策、高氏、小柳青、小夏景は釈放されて帰宅しました。

武城県の裁きが下りますと、晁源は珍哥の手をとり、珍哥を送り、監獄の入り口に行き、頭を抱いて、天地が暗くなるほど泣き、見ていた人も、みんな涙を流しました。下役は収監証明書を引き渡さなければなりませんでしたので、とどまらせようとはせず、珍哥に監獄に入るよう促しました。晁源は、二人の小間使いを一緒に入らせ、面倒をみさせようとしましたが、獄卒は、彼らを中に入れるのを許しませんでした。下役は、獄卒に言いました。

「晁さんは、薄情な人ではありません。あなた方を頼りにしようとしているのですから、二人の小間使いを中に入れれば宜しいでしょう」

獄卒も承知し、態度を変えていいました。

「晁さん、安心してお戻りください。奥さんが中にいる間は、私たちがあらゆる面倒をみます。奥さまをひどい目に遭わせたりは致しません。何かを伝えたり送ったりされるときは、おっしゃってください。ご奉仕いたしますから」

晁大舎は何度も礼を言い、

「家に戻ったら、お礼を致します。それから、衣服と布団をお送り致します」

彼らと別れ、家に戻りました。このときの悲しい有様は、想像するだけでも胸の傷むもので、どのように晴らしていいものやら分かりませんでした。人々は、彼のために四句の詩を作っております。

金も妾も失ひて、

監生の地位を奪はる。

はやくも悟るこの憂き目、

前の暮らしに及ばずと。

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]寝台の一つ。四つの柱に錫の瓶がかけてあり、梅を挿す、帳は紙製。宋林洪『山家清事』梅花紙帳法用独牀、旁置四黒漆柱、各掛以半錫瓶、挿梅数枝。後設黒漆板約二尺、自地及頂、欲靠以清坐。左右設横木一、可掛衣、角安斑竹書貯一。蔵書三四、掛白麈一。上作大方目頂、用細白楮衾作帳孛之。前安小踏牀、於左植緑漆小荷葉一。真香鼎、然紫藤香。中只用布単、楮衾、菊枕、蒲褥」。

[2]山東省の県名。

[3]春秋時代楚の令尹孫叔敖の故事をふまえる。彼が幼時両頭の蛇を埋め、陰徳を積んだ話は『賈誼新書』巻六、春秋に見える。「孫叔敖之為嬰兒也、出遊而還、憂而不食。其母問其故、泣而對曰、今日吾見兩頭蛇、恐去死無日矣。其母曰、今蛇安在。曰、吾聞見兩頭蛇者死、吾恐他人又見、吾已埋之也。其母曰、無憂、汝不死。吾聞之、有陰コ者、天報以福。人聞之、皆諭其能仁也。及為令尹、未治而國人信之」。

[4]春秋時代、呉の名剣の名。

[5]原文「柔嫚捷于急脚」。柔嫚は義未詳、とりあえず上のように訳す。

[6]晋の周。王敦が王導に周のことを尋ねた際、王導が返事をしなかったため、王敦によって殺された。王導は、自分が周を殺したわけではないが、周は自分によって殺されたようなものだといった。『晋書』巻六十九参照。

[7]春秋時代呉の人。呉王夫差の臣。伍子胥を讒言して死に追いやった。

[8]「水商売正式でない連れ合いの譬え。の女を手に入れ」ということ。

[9]正妻の譬え。

[10] アブラガヤ。

[11]原文は「植繁花而摧蒯草」。繁花は珍哥を、蒯草は計氏を譬えているものと思われる。

[12]狽は狼に似た動物で、前脚が短く、後ろ脚が長いため、つねに狼につかまって歩くという。ここでは、狼と狽のように悪者同士で助け合うということ。『集韻』「獣名、狼属也。生子或欠一足、二足者相附而行、離則顛、故猝遽、謂之狼狽」。

[13]金で罪を贖うこと。

[14]未詳。後出する官紙銀の誤りか。なお、判決文に出てくる官紙銀、民紙銀については未詳。

[15]建築費用に供する罰金。

[16]甲長。十戸の長。

[17]山東省の県名。

[18] 「解審(護送して審問する)」と書いた札。

[19] 『水滸伝』の豪傑混世魔王樊瑞のことをいうが、ここでは強い男の喩えとして使っている。

[20]出廷を告げる太鼓。

[21]横死した者の魂が行く地獄と思われるが未詳。羅城の羅は閻羅の羅。

[22]少量の白銅を加えた銀。細絲白銀。

[23]銅銭の隠語。

[24]原文「修脚」。爪を切ったり、垢をとったり、たこ、まめなどの治療をすること。

[25]原文「計氏通奸僧道是真、則自縊猶有余恨」。批語の原文「計氏通奸僧道是真(もしも計氏が和尚、道士と姦通したのが本当であれば)」の「もしも」を読み落としたもの。

[26]原文「計氏往来的也有尼、也有道士、也有和尚」。批語の原文「与計氏往来者、尼也。非僧也。非道也」を読み間違えたもの。

[27]湿気などによって起こるできもので、長期間にわたって化膿する病気という。謝観等編著『中国医学大詞典』頑瘡「此症或因湿侵、或因熱盛、或温熱寒邪交至、以致気血不宣、血滞不散、遂于手足頭面胸背等処生瘡、経年累月、膿血不浄、甚至生虫」。

[28] (ねが)はくは()けよ」は、墓誌銘の最後につける常套句で、転じて「死ぬ」の意。

[29]山東省の県名。

[30]山東省の県名。

[31]山東省東昌府。

[32]守道と巡道。『歴代職官表』司道・国朝官制「国初設布政司左右参政参議、曰守道。設按察司副使僉事曰巡道」。

[33]巡撫(撫院)、巡按(按院)をいう。

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