第十二回

李観察が巡行して訴状を得ること

褚推官[1]が法に従って審問をすること

 

太平の時代には

国運が盛んなり

天地は清く

時節は正し

風雨(あめかぜ)は穏やかにして

邪気は除かる

文官は清廉で

武官は屈強

下役は貪欲でなく

人民に怨恨はなし

悪人は退けられて

徳行は讃へられたり

士人は品性高くして

臣下は君主をば諫む

賄賂を防ぎ

功利を求めず

家々は

貸し借りを厳格にして

悪人は隠れゆき

善人は喜べり

凶暴な者は除かれ

横暴な者は排せられ

世は盛んにして

悪企みなし

かやうなる役人は

まことに尊敬すべくして

社稷の主は

人民の命なり

龔遂[2]、黄覇[3]

真の孔孟

峴山の碑[4]

甘棠の頌[5]

竹皮を使ひ尽くして

仁政を記すべし[6]

天に訴へ

神へと祈らん

昇進し

子孫は栄え

先祖代々要職にあり

権力をもち

万年に亘り

永遠に尽きざれと

 さて、正統帝は、もともと学問のある聖人で、遅く食事をし、早く起き、国を治めることに精励していましたので、太平をもたらすのは、難しいことではありませんでした。地方官には、于忠粛[7]のような巡撫がおり、中央官の三楊閣老[8]は、すべて賢い大臣で、さらに、麗しい徳をもった皇太后もおりましたが、これらは、あたかも千載の奇遇のようなものでした。しかし、一人の宦官王振が、権力をほしいままにし、悪いことをし、内外の百官を、ひどい目に遭わせ、みなが媚び諂ったため、士気がすっかり失われてしまいました。そうはいっても、彼によって、剛直の気骨を奪われた人々は、「銀鍍金をした臘の槍」のようなもので、きらきらして見栄えはいいものですが、堅い所にぶつかれば、ちょっとそれに触れただけで、自然に折れまがってしまうのです。一方、金剛鑽は小さいのに、どんなに固い物でも穿ってしまうものです。

 当時、山東省東昌府には、臨清[9]の道台がいました。彼は按察司僉事[10]の肩書きをもち、姓は李、名は純治といい、河南省中牟県の人で、庚辰の進士でした。知県だったときは、良い人民がいれば、息子のように愛し、学校の規則を守る、道理を弁えた秀才がいれば、師友のように敬っていました。一方、悪い秀才、愚かな人民がいれば、やすやすと許そうとはしませんでした。郷紳に、地方の公務のために有益なことをする者がいれば、旅館で、彼らと終日談論し、飽くことを知りませんでした。一方、郷紳の子弟親戚、下男友人で、本官の権勢を頼りにし、外で事件を起こし、悪いことをする者がいれば、彼らの面子を立てることはなく、許すこともありませんでした。さらに、手紙を送り、執り成しをするものがあっても、決して偏見をもたず、執り成しがなかったかのように見做し、是には是、非には非という態度で臨みました。不正がある者を、法によって処罰しても、その人は、心服して恨みませんでした。彼は、さらに「二六」「三八」の告訴を行う日[11]や、案件が多いか少ないかといった、小さなことは気にせず、訴状があれば、すぐに受理し、受理すれば、すぐに訴状に批語を書きました[12]。非公式に示談しようとするものがあれば、訴状も受け取らず、報告もさせませんでした。和解しようとせず、どうしても訴え出ようとする者があれば、朝であろうと、晩であろうと、役所であろうと、村役場であろうと、酒席であろうと、来るたびに審査を行いました。諭すべき者には、説明をしてやりました。筋の通らない者があれば、酌量して彼らを何回かぶち、罪に問わず、罰紙をとったりすることもなく、すぐに追い出しました。

 しかし、都の近辺から租税を送る場合、一両につき三分の火耗[13]をとるのが当たり前でした。彼は言いました。

「県の役人は、自分が食べるための費用、上司との交際費、自由に使える公金、やってくる上司、使者に、宿屋を手配したり、食事をとらせたりする金がありさえすればいいのだ。県の金を自分の家に持っていき、田地を買い、家を建てるようなことは、柳盗跖[14]のような行いであり、絶対にするわけにはいかん。しかし、陳仲子[15]のように、自分の土地、財産を売り、県庁で使うようなことをするわけにもいかん」

彼の役所内では、衣食の費用を倹約していました。地方がひどい状態でしたので、手に入れた火耗は、公のこと以外には使わず、民間の、一番安くてあまり売れない食糧を選び、米を買い、倉に入れ、端境期に、貧しい百姓が借りにきますと、すべて彼らに貸しました。民間では、食糧を借りると、すべて十分の利息をつけるのがきまりでしたが、役所が貸すときは、五分しか要求しませんでした。借りても返すことができない者や、死ぬ者もありましたので、精算してみますと、利益は三分でした。二三年足らずで、蔵の中は、腐るほど米が集まる[16]というありさまになりました。毎月の罰として取り立てた穀物は、身寄りのない者や、囚人に与え、貧民の冠婚葬祭を助けるときは、すべてその中からとりだして使いました。

 彼が行った善政は、これ以外にもあり、百の口があっても言い尽くすことはできませんが、本題を放っておいて、このことばかりお話しするわけにもまいりますまい。このような知県を、二つの役所に入れれば[17]、朝廷のために利をもたらし、害を除き、天子さまに諫言をしていたに違いありません。しかし、このように剛直な人を、科道[18]にしようとする人は、だれもいませんでした。和尚でいっぱいのお堂に、俗人をいれ、争いを起こさせるわけにはいかなかったのです[19]。しかし、彼は進士でもありましたので、彼を水に落とすわけにもいかず、仕方なく礼部主事にし、慣例に従い、郎中に昇進させました。彼ほどの学識があれば、学道にしても、十分勤まるはずでしたが、与えられたのは学道ではなく、巡道[20]の職でした。五年間の給料は、少参[21]ほどの額も与えられず、僉憲[22]にやるほどの額が与えられたにすぎませんでした。

 東昌巡道は、臨清に駐留しました。臨清は、波止場のあるところでしたので、ずる賢いならず者が、まさに「天高く皇帝は遠し」といわんばかりに振る舞い、何も恐れませんでした。盗賊は横暴で、天も太陽もありませんでした。それに、権勢をもった役人は、凶暴で、身寄りのない弱者を苛め、善良な人たちも、とても辛い思いをしていました。彼は着任してからというもの、豸服[23]を着、花銀[24]の帯を結び、印綬をさげ、顔を冷たくし、まるで張綱[25]、温造[26]、包龍図[27]のようでした。そして、告示を出し、改心するように、再三勧めました。殺人強盗以外の様々な囚人に関しては、着任前のものにかぎり、追及を免れさせました。しかし、彼が着任してから横暴なことをした者は、十人のうち九人は、網を逃れることができませんでした。網を逃れたのは、悪事があまり重大でない者たちでした。また、彼はしばしば頭巾をかぶり、騾馬に乗り、一二人を従え、巡道の管轄の十八州県を、絶えず微行していましたので、州県知事も、あまり勝手なことはしませんでした。武城の知事は、一つには進士であることを頼りにし、二つには死期が近いこともありましたので、行う悪事は、一日一日とひどくなりました。巡道が彼を検査をしにくるのも、一日一日と頻繁になりました。

 知事が死んだことを聞きますと、虎か狼のような下役たちは、すべて逃げてしまいました。すると、巡道は、牌も飛票も出さず、突然三十人の快手をつれ、武城県に巡視にきました。そして、察院にも入らず、まっすぐ県庁にやってきて腰を掛け、三回堂鼓を鳴らしました。六房の下役たちは、徐々に集まってきました。卯簿を出し、一つ一つ点呼を行い、問題のないものは、点呼が終わりますと、東に立たせました。話があるものは、西に立たせました。来ない者も多かったのですが、罪を犯していない者は呼ぶことはせず、お構いなしとし、問題があるのに来ていない者は、快手と捕衙の下役に、捕縛をしにいくように命じました。そして、それぞれ四五十回、板子で厳重に処罰しました。伍小川、邵次湖は、身を隠しました。巡道の法は、とても厳しく、命の危険を冒してまで手心を加えてやろうとは、誰も思いませんでした。まもなく、二人とも掴まえられました。彼らは五十回ぶたれ、捕吏に引き渡され、厳重に監禁されることになりました。さらに令状がだされ、審問が行われることになりました。死刑にすることは許されませんでしたが、容赦することも許されませんでした。東に立っている者には、説教をし、釈放させ、その後で、察院に報告し、大きな告示を出しました。

分巡兵備道[28]が、酷吏を除き、人民の恨みを濯ぐことについて。

調べによれば、武城県の役人は、貪欲で規律を乱し、厳しい刑罰で、人民を苦しめているため、人の恨みは深く、神の怒りは頂点に達している。本官は、すでに両台[29]に摘発、通知をし、今、吟味をしている最中である。悪事が満ち満ちれば、天は、その魂を殺すものである。悪人はすでに死んだが、権威を笠に着、悪を煽っていた悪者たちは、法によって排除するべきである。すでに本官が捕縛、監禁した者のほか、彼らによって損害を被った家は、事実に基づき、道台に赴き、申告せよ。すでに消えた灰を、また燃やしてはいけない。檻に入った虎が噛みつく心配はない。彼らは報復することはできず、一生恥ずかしめを受けるであろう。

特に告示する。

 告訴状を提出するものが押し掛け、その数は数百余枚を下りませんでした。計巴拉も、告訴状を一枚書き、牌とともに中に入り、訴状をテーブルの上に重ね、丹墀に行き、点呼を受けるのを待ちました。巡道が計巴拉らの訴状を見ますと、

告訴人計奇策、年は三十五歳、東昌府武城県の人。人命事件で告訴いたします。

妹は、幼い時に、晁源の妻となりましたが、晁源は娼婦上がりの妾珍哥を信じ、一緒に姦通事件をでっち上げ、妹を自殺に追い込みました。酷吏伍聖道、邵強仁は賄賂銀七百余両、黄金六十両を受け取り、珍哥を役所に出すのを免れさせました。妹の命は償いようがございません。証拠の令状がございます。どうか自ら審問をされるか、理刑褚青天に解決をさせるようにお願い申し上げます。ご報告申しあげます。

被告は、珍哥、晁源、小夏景、伍聖道、邵強仁、小柳青。証人は、高氏、海会、郭姑子です。

 巡道は訴状を見終わりますと、尋ねました。

「この七百両の銀子、六百両の金子は、だれに渡したのだ」

計巴拉「誰に渡したのかは、私も存じません。彼の直筆の上申書の朱筆の証拠があるだけです」

巡道に渡して見せました。巡道はそれを見ますと

「七百両の銀子を受け取った証拠は何だ」

計巴拉「令状の日付の下に、目立たない字が書かれています」

巡道が照らしてみてみますと、「五百」の二字がありました。巡道は、溜め息をつきますと、うなずいて

「お前の訴状には、どうして七百と書いてあるのだ」

計巴拉「五百両が払った額で、二百両は伍小川、邵次湖の手数料です」

巡道は、二回溜め息をつきますと、言いました。

「どうしてこのようなことがあったのだ」

さらに、尋ねました。

「お前の妹の姦通は、きっと真実だろう。そうでなければ、自殺するはずがあるまい」

計巴拉「妹の姦通が真実であれば、死んでも罪は償いきれません。しかし、このようにたくさんの賄賂を贈って、人を買収したのはどうしてでしょうか。私が告訴状で証人とした海会は、有髪の道姑、郭姑子は尼で、常に妹の家に行き来していました。珍哥は、海会は道士、郭姑子は和尚である、妹は和尚、道士と姦通した、と嘘を言い、妹の夫晁源に、すぐに妹を自殺させるように迫ったのです」

巡道は、刑庁で待機しているように命じました。翌日、訴状に批語を書いて送付しました。計巴拉は、東昌の刑庁に行き、訴状を提出しました。

 刑庁は、褚という姓で、四川の人、進士になったばかりで、とても若く、剛直な好漢で、巡道のよき副官でした。彼は訴状を見ますと、幾つか質問をしましたが、だいたい巡道と同じでした。計巴拉も、巡道への返事と同じように返事をしました。刑庁は命じました。

「帰る必要はない。わしはすぐに照合してやろう」

人を武城県に行かせ、犯人たちを護送し、珍哥を役所に連れていき、訴状に名が載っている犯人、証人は、一人も逃がすことを許しませんでした。

 当時、武城県の長官は、まだやってきておらず、捕縛を代行している倉官は、期限にしたがって、人を送るようにという命令を受けました。県庁の使いは、晁源の家に行きますと、彼を捕らえにきたとはいわず、計都父子が紙代を納めるはずだが、姿が見えない、ある者があなたの家に隠れているといったので、探しにきたといいました。そして、晁源を広間におびきだしますと、三四人の太った女、五六人の遣いが走り込みました。晁源は、びっくりしました。三四人の女たちは、狼か虎のように、奥へ走っていき、服装が綺麗で、顔が美しい者を珍哥だと思い、前に進み出て捕まえると、押し出しました。珍哥は、計氏の霊に憑かれ、痛めつけられてから、終日げっそりとして、とても元気がなく、さらにびっくりしましたので、本当に三魂のうち両魄が去り、下女、小間使いたちも、びっくりして気を失いそうになりました。

晁源「お前たち、これが何のためなのか、はっきり話してくれ」

先に中に入ってきた二人の使いが言いました。

「刑庁の褚さまが、道台さまの命を奉じ、若さまと奥さまを会わせようというのです。しかし、大きなお屋敷で、若さまは出てこようとされず、姿を見せられませんでした。ですから、仕方なくこのように呼びにきたのです。どうしようもないことですから、若さまは、私たちをお咎めにならないでください。男たちも奥さまに無礼を働く勇気はございませんでしたので、私たち女に、奥さまの面倒をみさせたというわけです」

 珍哥は、事情が分からず、先日のような結果になるだろうと思い、少し恐れていましたが、ひどく恐れているというわけではありませんでした。しかし、晁源は、巡道の命令であり、刑庁は融通がきかない人であることを聞きますと、心の中でこう思いました。

「今回はまずいぞ。どんなに偉い役人でも、銀子を使えば、恐れることはないが、あの二人のろくでなしには、銀子を送ることはできないし、情実を説いても通じない。命の償いもすることができないから、助かる見込みがないぞ」

奥の者に命じ、酒と飯でもてなしました。珍哥は、四五人の女たちによって、広間の中の西の裏間につれていかれ、腰を掛けました。使いが令状を取り出して見せますと、表に小夏景、小柳青らの女の名がありました。彼女たちの引き渡しを、晁源に命じるものでした。

晁源「これらは、小間使いと下男の女房たちです。いま家におります。行くときは、全員出発させればいいでしょう」

使い「褚さまの法度はとても厳しいのです。ご飯をご馳走になることはできません。早めに出発し、明朝、広間で文書を提出致します」

晁源「すでに人と裁判を起こしたのです。布団は用意されていらっしゃいませんし、旅費ももっていらっしゃらないのでしょう。皆さんがみんな鍋を持っていらっしゃるわけでもないのでしょう[30]

使い「そうおっしゃるのなら、若さま、はやくあなた自身の荷物を纏められればいいでしょう。私たちのことは、心配される必要はありません。褚さまはとても厳しい方です。一文の銭も受けとるわけにはまいりません」

 話しをしておりますと、六七人の遣いが、高氏、海会、郭姑子を呼んで、やってきました。高氏は、中に入りますと、叫びました。

「われらが知事さま。われらがご先祖さま。私たちまで巻き添えになさるとはね。これは、郷紳さまの隣に住んでいたものだから、目をかけてくださったというわけでござんすね」

晁大舎「高さん、あなたには迷惑をかけましたから、必ず補償をいたします。あなたを満足させ、十分喜ばせてあげます。ですからあれこれ勝手なことをいわれないでください。この二人の尼さんたちにも、損をさせるつもりはございません」

高四嫂「県庁には役人がいませんから、刑庁で審問が行われるでしょう。私たちは、早めにいき、審問が終わったら戻ってきましょう。その後、荘園に脱穀を見にいきます」

使い「刑庁の審問ならいいが、これは巡道の命令書で、刑庁に引き渡して審問をするようにと指示してある。我々は、さらに府役所にいかなければいけない」

高四嫂「それはいけません。刑庁だったら、あなた方いっしょにまいりますが、府役所は、往復百十里の地ですから、行くことはできません」

すぐに、外に出ていってしまいました。下役は外に追い掛けました。

晁大舎「私が彼女に頼んでみますから、あなた方は追い掛けないでください」

進み出て言いました。

「高さん。あなたは他の人よりもましですよ。この裁判は、あなた次第です。百十里の地は、遠いことはありません。四嫂が四つ脚に乗りたければ、私たちには、馬も騾馬もありますから、おとなしいのを選んで、人にひかせましょう。四つ脚に乗るのがお嫌でしたら、私たちの家に、轎が置いてありますから、担ぐ轎に乗っていきましょう。いずれにしても、珍哥もいかせ、さらに、女たちをあなたに付き添わせましょう。私は、人に命じて、数吊の銭を郷里に送らせ、工賃を払い、さらに四嫂に二匹の絹、十匹の紗布、三十両の銀子を、今すぐお送りいたしましょう」

「清酒は人の顔を赤くし、白い財は人の心を動かす」もので、お世辞を言い、しばらくしますと、鋼鉄のような高四嫂も、ついつい態度を柔らかくし、いいました。

「そういう約束をしてくださるなら、まいりましょう。しかし、私は先日と同じ話しをしますよ。あなたが私にほかに嘘をつかせようとされても、私はできませんからね」

晁源「あなたがおっしゃっていたことはすべて本当のことです。だれも彼女を打ち殺したりはしていませんよ」

あれこれ宥め、高四嫂を晁大舎に従わせました。

 酒と食事が運ばれますと、人々はそれを食べ、荘園に人をつかわし、一般人の乗る四つ脚を用意させ、二台の騾馬車を準備し、珍哥、高四嫂と女たちを乗せ、食べたり使ったりするための米、麺、敷物などの物を積みました。さらに、向かいにいき、禹明吾を呼んできて、保証人にし、晁大舎を奥に行かせ、旅費、荷物を準備させました。さらに、礼物を準備して、下役、捕衙の人々に礼を言いましたが、全部で三十両掛かりました。四人の女たちは、それぞれ四両でした。刑庁の二人の下役、晁源は、八十両でした。さらに、高四嫂、海会、郭姑子には、それぞれ五両を出し、全部で十五両かかりました。高四嫂に約束したものも、一分も少なくせず、すべてこっそりと送りました。そして、禹明吾に言伝を頼み、もしも珍哥の罪を免除し、役所にでないようにすれば、さらに百両の銀子を出して礼を言おうと言わせました。二人の使者は言いました。

「禹さん、あなたは私たちとともに役所にお勤めです。あなたが話しをされれば、私たちは、承諾しないことはございません。それに、晁さんは、私たちを、礼を尽くしてもてなしてくれました。百両の銀子を、五十ずつ分けることにすれば、愉快ではありませんか。しかし、褚さまは、この人たちを捕まえようとしています。われわれが、命がけで罪を被っても、珍哥は、逃れることはできないでしょう。むしろ彼女を出ていかせた方がいいでしょう。われわれは、晁さんから手厚いもてなしを受けたのですから、晁さんに辛い思いをさせようと思っているわけではないのですがね」

そう言っているうちに、晩になりました。晁大舎は、人に命じ、寝床と布団を用意させ、下役たちを休ませました。下役は、珍哥を奥に行かせなかったため、裏間で、女たちと一緒に眠りました。

 晁源の実の妹は、尹郷紳の孫の嫁になっていました。尹郷紳の孫は、もともと百万の財産をもっていましたが、舅が死にますと、四五年たらずで、三四人の兄弟は、すっかり落魄れてしまいました。すると、晁大舎は、尹妹夫の財産の大半を使ってしまったうえに、さんざん割引きし、すべて買ってしまいました。そして、尹妹夫が貧乏になったため、妹すら薄情に扱いました。今回、府役所にいって裁判をすることになりましたが、家の番をする人がいませんでしたので、仕方なく妹を家に迎え、番をさせることにしました。翌朝、人々は出発し、まず二人の下男を遣わし、府城にいかせ、広い宿屋を探させました。二人の下男は、途中まで行きますと、昼食をとり、四つ脚に餌をやり、さらに半日進み、その日、日が落ちる頃、城内の宿屋に入りました。伍小川、邵次湖も同じ所に泊まりました。晁源は彼らの世話をしました。

 翌朝、人々は、朝食をとり、服を着替え、訴状提出の準備をしました。すると、様子を探る人がやってきて言いました。

「刑庁さまのおなり」

人々は、広間の前にいき、待機しました。まもなく、褚四府が出廷し、晁大舎らは、投文牌とともに、中に入りました。下役は、批文を投じ、一人一人点呼を行いましたが、一人も欠けていませんでした。珍哥の前まで点呼が行われますと、直堂吏が叫びました。

「珍哥」

珍哥は返事をしましたが、まことに、

簫の音は響き

磬の音は揺蕩(たゆた)へり

風に吹かるる細柳

崔鶯鶯に扮ししがごと

艶やかな花は露を帯び

卓文君に扮ししがごと

一朶の芙蓉(はす)(うはく)が覆ひ

緑の袖は二本の蓮の根を覆ふ

私が見ても()に愛ほしく

心は猿か馬となる

慣れているかはいざ知らず

恐らくは鶴を煮て、琴を焼くやうなもの[31]

 刑庁は、一目見ますと、晩に審問を行うように命じました。晁大舎らは、宿屋に戻りますと、二人の使者に銀子を持たせ、役所中の下役に、賄賂を送りました。二人は、たくさんの仲介利益を得ましたが、ふたたび賄賂をもらえたので、人々は喜びました。武城県で審問したときほどではありませんでしたが、人々はご機嫌取りをしましたので、晁大舎が体面を失うことはありませんでした。

 刑庁は、法廷に腰掛けますと、最初の人々を中に入れました。首吊り事件で、巡道の指示で審理のやり直しをするのでした。この事件は、五十歳で、白くて太ったやもめの老婆が、三十数歳の若者と間男し、財産の大半を彼に与え、さらに年をとっていることを若者に嫌われることを恐れ、一生懸命嫁を彼に引き合わせようとしたというものでした。その嫁は、旧家の娘で、姑に従えば、自分の身を辱めることになると考えましたので、姑に逆らいました。すると、淫婦はさらにとても凶悪になったため、嫁は縄で首を括る羽目になったのでした。娘の実家ではどうすることもできず、こらえるしかありませんでした。隣人たちは怒って、郷約、地方に知らせ、郷約、地方は県に上申しました。県知事は、いい加減にたくさんの罰を与え、たくさんの罪に問い、まじめな対応をしませんでした。しかし、巡道はお忍びをし、詳細を知りますと、彼らを刑庁に送り、犯人たちをそれぞれ別々に審問し、詳しい事情をすべて調べあげ、淫婦を四十回鴛鴦板子[32]でぶち、一回夾棍に掛け、二百回杠子に掛け、罰金に処し、引き摺り出しました。

 二番目は晁源でした。刑庁は証人も呼ばず、原告も呼ばず、最初に晁源を呼びますと、尋ねました。

「計氏はお前の何なのだ」

晁源「私の妻です」

「珍哥はお前の何なのだ」

「私の妾です」

「もともとはどこの家の娘なのだ」

「施家の娘です」

「良家の娘ではないか」

「宗師さまに嘘は申しません、もともとは娼婦です」

「計氏は何で死んだのだ」

「首を吊ったのです」

「どうして首を吊ったのだ」

「去年、私が妾を父親の任地に連れていき、今年の四月までもどってこなかったからです」

「お前はどうして妻と一緒に行かず、妾といったのだ」

「妻が病気だったため、同行しなかったのです」

「妻が病気なら、どうして妾を家に残し、妻の世話をさせなかったのだ」

「父親の使いが迎えにきて、妾と一緒に行くしかなかったのです」

「嫁を迎えず、息子の妾を迎えたとは、愚かな老人だ。さらに話を続けろ」

「私が家にいなくなってから、海会という道姑、郭氏という尼が、私の家に出入りしました。私が、妾と一緒に、家に戻りますと、六月六日、これら二人の尼たちが、計氏のいる奥から出てきました。私の妾は、それを見ますと、道士、和尚であると誤認し、どうして真っ昼間に奥から出てきたのかと言いました。私もまちがって信じてしまい、彼女に文句を言いました。彼女は自らを恥じ、自分で首を吊ってしまったのです」

「和尚、道士でなかったのなら、どうして恥じたのだ。尼が家にくるのを、お前の妾は見ていたのに、彼女が出ていくときになって、和尚、道士と誤認したのか」

「計氏は奥の別の場所に住んでおりました」

「お前はどこにいたのだ」

「私も表におりました」

 さらに、小夏景を呼び、尋ねました

「お前は珍哥をどう呼んでいたのだ」

「姉さんと呼んでおりました」

「お前の『姉さん』は、和尚、道士を見たときどういったのだ」

「何もおっしゃいませんでした。道士、和尚が出ていったといっただけで、ほかには何も言いませんでした」

「お前は、主人を何と呼んでいるのだ」

「主人とは何でしょうか」

「お前は、晁源を何と呼んでいるのだ」

「旦那さまと呼んでおります」

「お前の旦那さまは何と言ったのだ」

「旦那さまも何も言われず、どこの和尚、道士だ、図々しくやってくるとはと言われました」

「お前は、計氏のことを奥さまと呼んでいたのか」

「はい、奥さまと呼んでおりました」

「お前の奥さまは何と言ったのだ」

「奥さまは、刀を持って、旦那さまと姉さんと闘おうとされ、表門で罵られました」

「どのように罵ったのだ」

「『馬鹿野郎。淫婦。私はお前の邪魔になるようなことは何もしていないのに、お前は私を追い出そうとするのか。』と罵られたのです」

「彼女が罵ったとき、お前の旦那さまと姉さんは、どこにいたのだ」

「旦那さまは、二門の中に隠れて、外を見ており、姉さんは、家で門を抑えていました」

「奥さまは、どこで首を吊ったのだ」

「旦那さまと姉さんの家の入り口です」

 さらに、小柳青を呼び、同じ質問をしましたが、返答はやはり大体同じでした。そこで尋ねました、

「珍哥が和尚、道士がいたと言い、計氏を辛い目に遭わせていたのに、どうしてそのことを言わなかったのだ。お前の言ったことは、小夏景の言ったことと違う。夾棍を持ってこい」

両脇のp隷は、声を揃えて叫びますと、夾棍を出すように命じました。獄卒は、大きくて太い夾棍を持ってきますと、月台のところで、天を揺るがすような音を立てて、下におろしました。両脇のp隷が、小柳青を連れていこうとしますと、彼女は、慌てて言いました。

「本当のことを申し上げます。夾棍にかけないでください」

四府は叫びました。

「ちょっと待て。話しをさせよ。また嘘を言ったら、夾棍に掛けよ」

「あの日は、六月六日で、ちょうど昼でしたが、珍ねえさんは、私たちが縄を垂らして、衣裳を干すのを見ていました。すると、小青梅が、一人の尼を連れ、奥さまのいる奥の間から出てきたのです」

「小青梅とは誰だ」

「海会のことです」

「先を続けろ。その小青梅は、それからどうしたのだ」

「青梅が先を歩き、尼は後からついてきました。珍ねえさんは、それを見ると、『立派な郷紳だこと。立派な汚れなきお家だこと。立派な由緒正しきお方だこと。真っ昼間に、大きな頭をした道士、白くて太ったがっしりした和尚が、家から出てくるなんて。私たちは由緒は正しくないけれど、舞台に上がり、間男をし、客をとるときは、格好のいい人を選んで、接待しますよ。こんな汚らわしい牛の鼻、汚らわしい禿げた驢馬は、私は一万年夫がなくても、欲しいとは思いませんよ』と叫ばれました。そうしておりますと、旦那さまが亭からやってこられました。姉さんは、旦那さまを指差して、馬鹿、亀と罵り、さらにこう言われました。『どうしてあんな女を家に置いて、立派な汚れなき家の、由緒正しい女の振りをさせているのですか。』。旦那さまはこういわれました。『本当か。真っ昼間に、和尚、道士が、人を避けずに、出たり入ったりするわけがあるまい』。姉さんはこういわれました。『あんたは馬鹿だよ。私だけが見たわけではないのだよ。この人たちもみんな見ているのだから』。旦那さまは、門番を呼び、尋ねました。『お前は、和尚、道士を、どうして中に入れたのだ。』。『和尚、道士ではございません。劉家の小青梅と尼が出ていったのです』。旦那さまは尋ねました。『その尼はだれだ。お前は知っているか。』。彼女は言いました。『存じません』。旦那さまはいわれました。『お前が知らないなら、どうして尼だと分かったのだ。』。『小青梅が和尚と一緒に歩くはずがございません』。旦那さまはこうおっしゃいました。『小青梅の奴は、他人のために案内人になるから、和尚が尼に変装してやってきたのだろう』。そして、飛び跳ねておっしゃいました。『あいつには我慢できん。すぐに計爺さんを呼んでこい。離婚してやる』。暫くしますと、計老人と計さんが外にこられました。何を言ったかは存じませんが、私は聞いておりません。暫くしますと、計老人と計さんは、奥から出てこられました。さらに暫くしますと、奥さまが刀を持って表にきて罵られたのです」

「どのように罵ったのだ」

「『淫婦め。馬鹿野郎め。尼は私が招いたものではないし、お前の家に出入りしていたときのことは、みんながみている。私が道士、和尚と間男をしたというが、真っ昼間に、和尚、道士が、お前の家の入り口を通ったのなら、和尚、道士を掴まえるべきではないのかい。それだったら、私はお前に殺されても、何も言うことはできないよ。ところが、お前は、和尚、道士を放っておいたのだろう。これでは、私が本当に和尚、道士と密通したとしても、お前には不利じゃないか。お前は、私の父と兄を呼んで、私を離婚して帰らせようとしているのだろう。馬鹿野郎、淫婦め、出てこい。近所の人たちの前で、お前に理を説き、すべてがはっきりしたら、離婚書を持って出ていってやる』といっていました」

「罵っていたとき、お前の主人は、どこにいたのだ」

「旦那さまは、二門の中に隠れて聞いてらっしゃいました」

「お前の姉さんは、どこにいたのだ」

「姉さんは、門を抑え、家に隠れてらっしゃいました」

「女主人は、しばらく罵っていたのに、どうしてやめたのだ」

「向かいの高さんが、宥めて中に入れたのです。そして、三日後の晩、いつかは分かりませんが、姉さんの家の入り口で、首を吊られたのです。朝、小夏景が、起きて門を開け、それを見て、びっくりして気を失い、半日して意識が戻りました」

「下がれ」

さらに、高氏を呼びました。

 高氏は、公案の前に歩いていきますと、二回拝礼をしました。p隷は、叫びますと、彼女を跪かせました。そして、前後の事情を尋ねましたが、一句一句は、先日、県庁で話したのと同じでした。さらに、海会、郭姑子を呼び、尋ねました。

「お前は、いつ計氏の家にいったのだ」

「六月六日です」

「お前は、彼女の家に、何をしにいったのだ」

青梅「私の姑舅の親戚ですので、かねてから出入りしておりました」

「珍哥は、お前を知っていたのか」

青梅「もちろん知っておりました」

「郭姑子も親戚か」

「いいえ。北直隷の景州からきて、ようやく一年になったばかりです」

晁源を呼んで、尋ねました。

「お前は二人の尼を知っているか」

「海会は知っておりますが、郭姑子は存じません」

「海会を知っているのだな。おまえは、彼女が尼であることを知っていたのに、どうして軽々しく彼女が和尚であると信じ、妾の話を鵜呑みにして、妻を離婚しようとしたのだ」

「和尚であるということを聞きますと、心が落ち着かなくなったのです。後に、実は尼であったことを知り、信じるのをやめました。私の妻は、もともと従順ではありませんでしたので、自責の念に駆られて、首を吊って死んだのです」

「なるほどな。彼女が従順でないことを知っていたからこそ、わざとこのような汚らわしい言葉を加え、彼女を自殺させたのだな。計略はなかなかよかったが、不当に人を殺してしまった。計氏の命は、お前と珍哥二人で償え」

 珍哥を呼びだしますと、尋ねました。

「お前は、あの日、計氏の住んでいる裏から出てきたのは、和尚、道士だったと思ったのか」

「唐巾をかぶり、道袍をきた、がっしりとした人と、大きな体をした色白で太った禿頭が、私の家の入り口を通りましたので、すぐに和尚、道士だと誤認してしまったのです。後に二人の尼であったことが分かりました」

「はっきりと見ていなかったくせに、どうして、立派な家の、由緒正しい娘さんだこと、真昼間に、太った和尚、道士が次々に部屋から出てくるなんてといったのだ。お前は、私は舞台に上がり、由緒が正しくないが、良い客を迎えますよ、和尚、道士は迎えませんよと言い、さらに、晁源を亀、馬鹿と罵った。お前は、女主人が姦通したと嘘を言い、主人を唆した。これは、他人の剣を借りて人を殺したようなものだ。謀りごとを設け、手を下したのは、すべてお前だ」

「私がこの話しをしただけで、晁源は、あの女の父親を呼び、あの女を離婚して帰らせようとしました。しかも、あの女は、自分で首を吊って死んでしまいました。あの女が表にきて罵ったとき、私は門を閉めておさえ、外を覗くこともできませんでした。私とは関係がございません」

「お前が、和尚、道士が彼女の部屋から出てきたのには、確かな根拠があると言ったから、晁源が信じてしまったのだ。お前がはっきり見たと言ったので、晁源も本当だと思い、計氏は死なざるを得なかったのだ。計氏が出てきて表で罵ったとき、お前は門を閉じて隠れていたというが、これは、毒薬を人に飲ませたのと同じことだ。毒を飲んだ人が倒れているときに、毒を盛ったお前が彼をぶちにいく必要はないだろう。毒を飲んだ人は、自然に死ぬからな。計氏の命は、お前に償わせる。おまえは一万の口があっても弁解しきれまい」

 計奇策を呼び、言いました。

「わしは、珍哥に、お前の妹の命を償わせることにした。お前の訴状には、伍聖道ら二人が、賄賂を受けたと書いてあったが、どのような令状があるのだ。持ってきて見せてみよ」

計奇策は、原票と写しを渡しました。四府は、それを見ますと、

「どうして原告、被告、証人、関係者の区別もせず、一律にこんなにたくさんの品物を、罰として課したのだ。完納したのか」

「完納致しました。上には『支払い済み』の印が押してあります」

「計都とは誰だ」

「私の父親です」

「お前たち二人の紙価は、どうして完納していないのだ」

「妹は、数畝の土地を持っておりました。私は、判決が下されて家に戻ってから、役所に売るつもりでした。ところが、晁源は返そうとせず、下役も、彼に催促をしようとはせず、わざと私を辱め、毎日家にきて、ぶち、罵り、しばしば女を掴まえて、罰を与えようとしました」

さらに、稟帖を見て、

「どうしてこの稟帖の上には、朱筆で土地を金にしたことが書いてあるのだ。これは一体どういうことだ」

「その朱判の日付けの下には、『五百』の文字が書いてあります。裏返せば見ることができます。五百両の銀子が少ないのを嫌い、さらに、この六十両の銀子を加えたのです」

「おまえの訴状では、七百両とあるが、これは五百両だ。二百両は、何の証拠があるのだ」

「この五百は、引き渡したもので、二百は、伍小川、邵次湖の二人が不正に得た金ですから、稟帖にはないのです」

「なるほど。奴らは、自分の金を使おうとはしないから、少なければ承知しないだろう。しかし、この票とこの稟帖は、どうしておまえの手元にあるのだ」

「伍聖道が、わたしに紙代を催促しにきたとき、他の人は、みな納めおわったのに、私たち父子二人は収めていないと言い、票を取り出して見せましたが、収めるときに、靴の中に入れ損ねたので、私が拾ったのです。紙挾みもございます」

四府は、手にとってみますと、中には四五十枚の令状があり、全部で一万両を下りませんでした。四府は、うなずきますと、嘆息して

「このような強盗がこの地にいては、人民がひどく貧しくなり、盗賊が蜂起するのは当然だ」

紙挾みを手元に収めました。

 さらに、伍聖道、邵次湖を呼び、尋ねました。

「おまえたちは金子を手に入れたのか。おまえの七百両の銀子は、どこに渡したのだ」

「金子を手に入れたとはどういうことでしょうか。七百両とはどういうことでしょうか」

刑庁は、彼の稟帖を渡して、尋ねました。

「これは、おまえたち二人のどちらが書いたものだ」

二人は目を見張り、互いに顔を見合わせ、返事をすることができず、ひたすら叩頭しました。四府は尋ねました。

「この稟帖の日の下に書かれた五百両はともかくとして、そのほかの二百両は、幾人で分けたのだ」

「二百両を手に入れてはおりません」

四府は尋ねました。

「先日、巡道さまは、おまえたちの脚をぶったか」

「五十回大板でぶたれましたが、脚はぶたれておりません」

「それなら、脚も挟まなければなるまい。夾棍を持ってきてくれ」

二つの夾棍が、一斉に、伍小川、邵次湖を挟みました。さらに、言いました。

「それぞれ二回棒打ちにするとよかろう」

さらに、各人が二百回叩かれた後、釈放されました。

 犯人たちは、供述をとられました。珍哥は絞首刑、晁源は徒刑を金で免れましたが、伍聖道、邵強仁は、徒刑を受けることになり、海会、郭姑子は、贖杖[33]になりました。そのほかの者は、供述をする必要もなくなりましたので退出し、護送されました。さらに言いました。

「晁源、珍哥は、本当なら夾棍に掛け、棒打ちにすべきだが、道台さまに刑を執行して頂くことにしよう」

それぞれを下役に預けました。晁大舎と珍哥は、まさに、

以前悪さをせしために

不幸が一度に至りたり

早晩必ず報いあり

罪の露見は免れず

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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[1]府の役人。刑獄査問を司る。

[2]漢の人。渤海太守として善政を行ったことで有名。『漢書』巻八十九に伝がある。

[3]漢の人。潁川太守として善政を行ったことで有名。『史記』巻九十六に伝がある。

[4]峴山は湖北省襄陽の山名。晋の羊祜が襄陽太守として善政を行ったことをたたえる碑がある。

[5]周の時代、北燕に封じられた召公が棠の木の下で善政を行い、召公の死後、人民が召公を懐かしんで『甘棠』の詩を作った。『甘棠の頌』はこれをさす。

[6]原文「罄山筠、書徳政」。竹は書籍を作るときに使われ、史書の代名詞。

[7]于謙のこと。明銭塘の人。也先の入寇を退けた。『明史』巻百七十に伝がある。

[8]明の仁宗朝の、楊士奇(左春坊大学士)、楊栄(謹身殿大学士)、楊溥(武英殿大学士)をいう。閣老は大学士のこと。

[9]山東省の州。武城、夏津、丘の三県を管轄する。

[10]按察使の属官。検察事務を司る。

[11]役所は十二日と二十四日に告訴を受け付けることになっていた。

[12]原文では、このあと、「交付原告自拘、也不掛号比件」とあるが、義未詳。

[13]正式な税額に加えて余分に徴収する税。

[14]伝説上の大盗。

[15]戦国、楚の人。於陵子。自分の土地、財産を売って、県庁で使った話の典故は未詳。

[16]原文「陳陳相因」。出典は『史記』平準書。

[17]原文「其実叫他進両衙門里辺」。二つの役所とは、後出の科道官をいう。

[18]科道官。明代、六科給事中と都察院各道監察御史を科道官と称した。天子に諌言をしたり、検察を行ったりする官。

[19]原文「一堂和尚、叫低這个俗人在里辺咬群」。「自分たちと違う者を中に入れて、争いを引き起こしたくない」の意。

[20]官名。明代、各省の按察司、按察使以外に、按察副使、按察僉事があった。一省を数道に分け、副使、僉事をして分察させ、これを按察分司といい、分司に分巡道、兵巡道、兵備道などの諸名称があった。

[21]布政司の属官。参議ともいう。

[22]僉都御史。都察院の官員で、左右副都御史の次に位する。

[23]獬豸の縫い取りのある服。

[24]模様のある銀。明王佐『新増格古要論』銀「銀出閩、浙、両広、雲南、貴州、交阯等処山中、足色成錠者、面有金花、次者緑花、又次者黒花、故謂之花銀」。

[25]後漢の人。地方の風俗の視察を命じられたとき、いくことを承知せず、都で大将軍梁冀らを弾劾したことで有名。

[26]唐の御史。大金吾李祐を弾劾し、李祐に恐れられたことで有名。

[27]包拯のこと。宋、合肥の人。字は希仁。諡は孝粛。名裁判官として名高い。

[28]前出の巡道に関するを参照。

[29]布政使、按察使。

[30] 「泊まっていってください、お金を差し上げましょう、お食事を差し上げましょう」ということを暗に述べている。

[31]原文「恐為煮鶴焚琴」。「興ざめだ」という意。『山堂詞考』引『西清詩話』「『李義山雑簒』、品目数十、蓋以文滑稽者、其一曰殺風景謂清泉濯足、花下曬褌、背山起楼、焼琴煮鶴」。 ここでは、美しい珍哥が苛酷な取り調べを承けることを譬えていよう。

[32]左右から交互に棒で打つ刑罰で使う棒。

[33]罰金を払って杖刑を免れる罪。

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