第一回

晁大舎が野を囲み狩猟をすること

狐仙姑が矢を受けて落命すること

 

坊ちゃんは贅沢で

色恋し、妄りにおかしなことをする

身を律するに規則なく

文章を書く才もなし

黄金を女郎(じょろ)買いのため無駄遣い

友人を呼んで酒杯を酌み交わす

目立つ格好(なり)しては酒場でとぐろ巻き

大声をあげて狩場で馬を駆る

美しい服を飾るは貂の皮

狩り衣の裳裾作るは豹の皮

『陽春白雪』[1] 雅びな詞など作れずに

世間の人にけなされる

壮年を恃んで老いた人を苛めて

強健を恃み善き人虐げる

金儲け 女漁れば

すみやかに命と金を失おう

 聖王の世は、和気が盛んで、仁獣の麒麟が生まれます。麒麟は、雄を麒、雌を麟といい、道を進むとき、草がなく、生きた虫がいないところを選んで走り、茎や葉、動物や虫の命を損なおうとしません。麒麟は聖王の世の瑞祥ですが、しょせんは動物にすぎません。一方、人間は万物の霊長で、霊妙で善美な天の気を受けて生まれたものです。天地は我々の父母であり、万物は我々の同胞です。世の中に、万物によって生命を養い、本性の善を取り戻すことができないものがいれば、天地にかわってそれを育まなければなりません。ですから、最も誠実な心をもった聖人は、自分の身を修めるだけでなく、万物を陶冶し、繁茂、活動させ、それぞれのものが安楽に過ごせるようにしようとします。これは最も誠実な仁者の心なのです。万物が自分の同胞でないと考えれば、人間でさえも自分の身内だとは思えなくなるでしょうが、このようなことでは、立派な人物とはいえないのです。

 世の中の生き物で、凶悪な虎や狼は人を食べ、凶暴な蛇や、毒をもった蠍は、尾で人を刺します。鼠は家屋に穴を開け、器物や食糧を盗んだり、悪人の衣服や書籍を噛み、壊したりします。また、蠅や蚊は、皮膚を噛んだり、物を腐らせたりします。これらの有害な生き物は、大慈大悲[2]の観世音菩薩の前で叩き殺したとしても、それは当然のことですから、何の罪にもなりません。しかし、これら悪い生き物以外の、飛ぶ鳥、走る獣、鱗をもった魚や昆虫は、人に害をもたらさないのに、人はどうして彼らを殺そうとするのでしょうか?人は彼らを異類と見做しますが、天地から見れば、それらはすべて同じ生き物なのです。鳥が環をくわえてきたり[3]、犬が草を結んだり[4]、馬が手綱を垂らしたり[5]、亀が宝を捧げたりする[6]のはもちろんのことです。また、君子は、生き物を愛する天地の心を受けていますから、当然残忍ではないのです。

 残忍でない心をひろげてゆけば、禽獣を保護することからはじまって、だんだんと妻子を保護し、人民を保護するようになるものです。しかし、残酷な心をひろげてゆけば、羊を殺すことから始まって、だんだんと牛を殺すようになり、牛を殺しているうちに、人を殺すようになり、人を殺しているうちに、晋の献公[7]、唐の明皇[8]、唐の粛宗[9]のように、自らの息子を殺すようになるのです。君子はどうして厨房から遠ざかるのでしょうか[10]?それは、生き物が殺されるところを見たり、聞いたりしないことによって、残忍でない心を養おうとするからです。父、母、兄、上長は、その子弟が小さいときから、彼の残忍でない心を育んでやらなければなりません。残忍でない心が身につき、性格となりますと、大きくなってから残酷なことをすることがなく、寿命を延ばし、子宝と官位をながく保つことができるのです。

 さて、山東武城県[11]に、一人の監生、姓は晁、名は源という人がおりました。その父親は名士で、名を晁思孝といいました。彼は、二つの試験[12]では、いつも上位になることはなく、弟子を教え、粥を啜るばかりで、暮らしもあまり豊かではありませんでした。彼は、三十歳近くになって息子の晁源を生みましたが、一人っ子でしたので、とても可愛がりました。晁源は、十六、七歳になりますと、赤い唇に白い歯、澄んだ目に秀でた眉になりました。まさに、

白さは何晏よりもすぐれ[13]

芳しき荀令君[14]にまさりたり

勉強をするときに、聡明さや知恵がいささか欠けていても、厳しい教育をすれば、鉄の杵を刺繍用の針に磨きあげるようなこともできるものです。ところが、母親は、息子を溺愛しましたし、晁秀才は女よりも息子を愛しました。晁源は、十日のうち九日は勉強をしませんでした。そして、書房に行かないうちから、下女、小者が茶菓を届け、暗くならないうちに迎えにきました。勉強が遅れても、晁源は聡明でしたので、「上大人、丘乙己」[15]などの字は自分で書くことができました。そして、知識が広がりますと、『千字文』を九霄雲外にすて、不真面目な若い友人たちとともに酒を飲み、雀を捕らえ、魚を釣り、罠を作り、兎を捕らえるようになりました。しかし、晁秀才夫婦は、それを悪いこととは思いませんでした。さいわい、秀才の家は、財産に限りがあり、晁源に浪費をさせることはできませんでしたので、彼が勝手なことをしようとする心も幾分は抑えられていました。

 晁秀才は、どうしても試験に合格せず、歳貢[16]で故郷を離れるのがやっとでした。当時は国ができてから間もない頃でしたので、秀才が出貢するときに受けとる旗、扁額の類いは、現在よりもたくさんありました。一方、京師へゆくための費用は、現在ほど多くありませんでした。晁秀才は、懐が豊かになりますと、晁源のために計処士の娘の計氏を娶って妻にしました。晁秀才は、息子のために結婚をまとめますと、すぐに上京し、廷試[17]を受けました。当時、礼部大堂[18]の職に空きがあり、左侍郎が代行をしていました。この侍郎は、もともと山東の提学[19]で、晁秀才は、彼のもとで案首になっていました。侍郎は、晁秀才に会うと、久闊を叙し、慰めました。

「おまえは合格しなかったが、それほど老齢でもないし、教師で一生を終わるような顔でもない。廷試を受ける必要はない。国子監に入って、試験を受けるがいい。合格すればそれでいいし、合格しなくても、試験官がしっかりした人なら、きっと引き立ててくれるだろう。それに、わしもまだ数年都にいるから、おまえの面倒をみてやることができるぞ」

晁秀才はその話を聞きますと、言われた通りにすることにしました。

 翌年、順天府試[20]に赴きましたが、合格することはできませんでしたので、こう考えました。

「先生は、私が試験に合格するのを望んでいたのに、私は試験に合格することができなかった。あの人が都にいる間に選任を受けず、あの人に去られてしまったら、頼りにする人がいなくなってしまう。州県の補佐官に選ばれたら、勉強をしたのに、人に会うときに旦那さまといい、叩頭しなければならない。こうなっては大変だ」

そこで、侍郎にありのままの気持ちを話しますと、侍郎も心から尤もだと思いました。

 晁秀才はすぐに吏部に赴いて文書を提出しました。吏部の属官は、侍郎の門生で、侍郎は、あらかじめ彼に請託をしていました。晁秀才は、人々とともに試験に赴きました。出された問題は「民人有りて、社稷有り」[21]でした。晁秀才はもともと頭も良く、試験官の推薦もありましたので、めでたく知県に合格しました。晁秀才自身は、もちろん喜びましたし、侍郎もとても名誉に思いました。

 晁秀才はさらに考えました。

「知県に合格はしたが、空いている職にはありとあらゆる場所のものがあるから、先生が京師にいるうちに、急いで良い場所を探して、選任をしてもらわなければなるまい」

まもなく選任が行われ、名簿に名前が載せられました。すると、うまいことに、吏部尚書の職が空席となり、礼部左侍郎が吏部尚書に推薦されました。翌年四月の大選[22]では、礼物を贈ることもせず、請託をしてもらってもいなかったのに、南直隷華亭県の籤が、晁秀才のためにひかれました[23]。華亭は天下に名高い大県で、進士がたくさんの財産を用いても手にいれることのできないところでした。晁秀才は、何の苦労もせずに、華亭県知事の職を手に入れたことを家に知らせましたが、親戚友人は信じようとせず、こう言いました。

「華亭県知事は、昔から進士がなるもので、歳貢が手にいれることができるものではない」

報告人は街でわめき、門を叩き、三百両を要求し、大騒ぎしました。二日もしないうちに、邸報[24]がとどきましたが、本当に間違いがありませんでしたので、赤い飾り布をかけ、学生を教えていた書房に送りました。そして、百五十両の謝礼金の目録を書き、報告人をおとなしくさせました。

 武城県の、権勢に靡く小人たちは、晁秀才が知県に選ばれ、天下で最高のうま味のある地位を得たことを耳にしますと、晁大舎の陰嚢を引っ張り出して肩に担ぎ、晁大舎の尻を持ち上げ、肛門を嘗めたくてたまらなくなりました。貧民は、親戚、姻戚に、推薦状を送ってもらい、面会を求め、奴隷になろうとしました。中流の家は、土地、家屋を、晁大舎に捧げ、執事になろうとしました。城内で銭卓[25]を開いている者や、金貸しは、立派な礼物を準備して、家に送りました。銭卓を開いている者は、言いました。

「お金が必要なときは、多額であると少額であろうと、帖子を出してこちらにこられてください。等頭[26]は、よその家より重く致しませんし、銅銭は、よその家よりも、一両につき二十文多く致しましょう。小銭を使われるときは、いつでも両替致しましょう」

金貸しは言いました。

「晁さまは、新しく役人に選ばれましたが、すぐにはお金が手元に集まらないでしょう」

高利貸しは言いました。

「私の家には、銀二百両がございます」

ある家は言いました。

「私の家には、三百両ありますから、ぜひお使いください。利息はお好きなときにお支払いください。使われた日数が少ない場合は、利息はお支払いいただかなくて結構です」

さらに、親戚や友人の中には、利息を求めなかったり、三十両貸すといったり、五十両貸すといったりする者が、ひきもきりませんでした。

 晁大舎は、もともと金使いの荒い男でしたが、貧しい秀才の息子だったときは、思いきり金を使うことができませんでした。思えば、昔は両替商から一二百文を借りるにも、さんざん詰られ、他人から一二両を借りるときは、あれこれ言われ、断られたものでした。しかし、今では、両替商が自分から銀子を家に持ってきて、証文さえ受け取ろうとしませんでした。これは、生まれてこの方最大の痛快事でした。そこで、送られてくるものは受け取り、貸してくれるものは借り、身売りしてくるものは、善人悪人に関係なく、手元におきました。十日たらずの間に、下男は数十人、銀子は数千両になりました。一日に一万銭を使い、すべて銭卓に証文を送りました。そして、銀二百五十両で三頭の駿馬、三百両で六頭の良い騾馬を買い、外出するときに乗りました。また、絹物を買い、器を作りました。「金は神をも動かす」[27]とはまさにこのことでした。一か月もたたないうちに、晁大舎は槐安国の駙馬[28]のような有様となり、昔から使っていた小者の晁書に、新しい下男の、祝世、高升、曲進才、董重をひきつれ、銀千両をもって上京し、晁秀才に仕えるように命じました。

 晁秀才が良い職に選ばれますと、京債[29]を貸す人々は、日がな家から離れようとせず、彼に銀子を使わせ、一割りの利息を得ようとし、純度の高い紋銀[30]を、大きな分銅、秤ではかりとりました。晁秀才は役人に選ばれたばかりでしたし、任地は大きな県でもありましたので、各部の尚書、侍郎に会ったり、郷紳を迎えたりしなければなりませんでした。彼は借金をするひまはありませんでしたが、両替商をしている人々が日々の雑費さえも提供しようとしましたので、あまり困りませんでした。

 晁秀才が客の応対に追われている間に、晁書は、四人の下男を引き連れ、銀一千両をもって、京師に着きました。部下も金もありましたので、笏を買ったり、銀帯[31]を作ったり、裁縫師を呼んだり、茶盞[32]に象眼をしたり、香匠に香を作らせたり、印を刻んだり、紗帽、皮帯に金具を打ったり、朝服[33]、祭服[34]を作ったり、あらゆる物を揃えました。赴任の月に証書を受け取りますと[35]、東江米巷[36]へゆき、福建の最高級の官轎[37]を三台買い、自分、婦人、大舎の乗り物にしました。さらに、二級の官轎を一台買い、大舎の女房の計氏の乗り物にしました。そして、毛織物や絹の帳を作り、儀仗を買い、封印用の紙を印刷し、故郷を通って赴任することにしました。主人が家にいないときも、家にはとても活気がありましたが、主人が着きますと、そのきらびやかな様はいう方もありませんでした。晁大舎は、もてなしと餞別を受け、任地につく頃には、懐がすっかり豊かになっていましたが、これらのことはくだくだしくはお話し致しません。

 さて、晁大舎は、父親が赴任するのに従いましたが、軽薄で活発な性格でしたので、県の役所に閉じ込もって過ごすことができませんでした。役所には、河南笄川県の人で、名を邢宸、字を皋門という幕僚がおりました。彼は風変わりな秀才で、性格は自由奔放、学問があって条理を弁えた人に会うと、相手が貧しい学者でも、へりくだって恭しくしましたが、眼に一丁字もない人や、俗臭紛々たる人物には、相手が王侯貴族でも、畏まったふりをするだけで、心の中では少しも尊敬しませんでした。晁大舎は、自分は坊っちゃんで、金もある、邢皋門は彼の家の幕客だ、と思っていましたので、伯顔が勉強をするときのような顔をしました[38]。しかし、邢皋門は後に尚書にまでなった人でしたから、目に一丁字もない立派な坊っちゃんのことなど、相手にしませんでした。晁大舎は、ますます手持ち無沙汰となり、華亭の役所に半年とどまりますと、大金を包んで蘇州へ行き、幾つかの怪しげな骨董を買い、身分を越えた衣装を作り、たくさんのおかしな形をした盆景を買い、民座船[39]や、楽隊を雇い、計氏とともに故郷に帰ってしまいました。

 旧友たちは、晁大舎が昔のままだと思い、しつこくまとわりつき、質入れをして、銀子や銅銭を借りたり、器物や衣服を安く売ったりして、礼物を買い、みんなでやってきて、晁大舎をもてなし、援助を受けようとしました。ところが、晁大舎は、彼らと自分は同等でないと思っていましたので、嫌そうに応対をし、会うときは、偉そうに、冷たそうにし、以前のように打ち解けた様子をみせませんでした。彼は、北向きの椅子に座り、両方の眼で鼻の先をみて、役人の口調で少し話しをしますと、さっさと立ち上がり、外に向かって拱手をしました。人々は、その様子をみますと、「白瓜で驢馬を殴る−半分に折れる」[40]という有様になってしまいました。新しく来た下男は、以後、このような人々がふたたび尋ねてくることがあれば、中に入れてはいけないのだと思いました。その後、晁大舎が、六千両の銀子で、姫尚書の大邸宅を買いますと、ますます「偉いお方の家は海のように広い」という有様となり、人々は、門を叩くわけにはゆかなくなってしまいました。

 晁大舎は、友人たちを家に寄せ付けなくなりましたが、これは、富貴になった者が貧しいときの友人を見捨てるということで、よくあることでした。ところが、そのうちに、晁大舎は、貧しいときの妻を見捨てることを思いつきました。計氏の父親は、勉強のできない生員でしたが、旧家の子弟でした。計氏は、のっぽでもなければちびでもなく、美しくもなければ醜くもなく、色白でもなければ色黒でもなく、三寸の金蓮でもなければ半朝の鑾駕[41]でもありませんでした。人々は、計氏は普通の女だと思いましたが、晁大舎は、計氏のことを絶世の美女だと思いました。計氏は、愛されていることを恃んで奢り高ぶり、晁大舎は、彼女のことを恐れていました。ところが、今では、計氏は昔と同じでも、晁大舎の眼は昔と同じではなくなっていました。彼は、計氏が下賤であることを嫌い、「こんな貧乏臭い奴は、うちのような立派な家には似合わない」と言いました。さらに計父子が貧しく卑しいのを嫌い、「立派な邸宅に行き来するには不適当だ」と言いました。そして、心に六七割の嫌悪の情を抱き、顔から二三割の敬意を消し去りました。しかし、計氏は、夫が昔のままだと思っていましたので、威嚇し、罵倒し、手を振り上げてぶとうとしました。晁大舎は、罵られたときは、口答えはしませんでしたが、両目をむいて睨みました。ぶたれたときは、やり返す勇気はないものの、以前のようにぶたれるにまかせることはなく、手でうけとめたり、逃げたりしました。やがて、計氏が二言罵ると、一言言いかえすことができるようになりました。計氏が追い掛けてきて、掴んだり殴ったりしますと、すきをみて一押ししたり、二足蹴ったりしました。そして、だんだんと対等に罵り合い、殴り合うようになり、さらに、計氏をぶったり、罵ったりしはじめました。以前は、晁大舎は、計氏が首吊りをしたり、自刎をしたりすることを恐れていましたし、計氏は、晁大舎が部屋に入ることを許さなかったり、寝床に上がって眠ることを許さなかったりしましたが、今では、晁大舎は、これらのことをまったく恐ろしいとは思いませんでした。彼は、計氏をすぐにでも殺し、名門の美人を娶りたくてたまりませんでした。本当に首吊りをしたり、自刎をしたりして、死んでしまったとしても、計家の父子は、彼をどうすることもできませんし、お経をあげ、葬儀を行う費用など、牛の体から一本の細い毛を取り去るようなものだったからでした。彼は、以前は、家の外にはゆく場所もなく、家には一間の寝室、寝室の中には一つの布団があるだけでしたので、部屋に入ったり、一緒に寝たりするのを許されなと、辛い思いをしていました。しかし、今では至る所に書斎をもち、書斎の中には匡床[42]や薄絹の帳、藤の小箱、紗の布団がありました。また、暖閣もあり、そこには暖炉、床下暖炉や、錦の布団、象牙の寝床がありました。さらに、一団の女の役者を常に家に抱え、今までずっとしてきた男色の代わりにし、家から離れさせませんでした。門を閉じて中に入れないときはもちろん、計氏が門を大きく開き、地面に塩水をまき、入り口に竹の枝をかけても、彼の羊車をとどめることはできませんでした[43]。ですから、計氏は、腕組みをして、術を使えない張天師[44]のようになってしまいました。計氏は、日一日と臆病に、晁大舎は、日一日と大胆になり、下女を用いても、二日過ぎると、綺麗でないのを嫌い、すててしまいました。さらに、六十両の銀子を使い、遼東指揮[45]の娘を娶り、妾にしましたが、彼女がお世辞をいうことができないのを嫌い、関係を絶ってしまいました。そして、毎日、女劇団の中の正旦に扮している小珍哥と仲良くしました。

 小珍哥は、容貌はあまりぱっとしておらず、数幕のおもしろい劇を演じることしかできませんでした。しかし、劇団の妓女で、とても活発でしたので、晁大舎は、彼女をとても可愛がり、人に頼み、妓夫を説得し、金に糸目をつけずに、結納を送り、妾にしようとしました。そして、計氏はすでに五六割方病気に罹っており、まもなく死んでしまうから、珍哥を正妻にしようと約束しました。珍哥も、晁大舎の嫁になろうという気が満々でした。しかし、妓夫は、勿体をつけて、言いました。

「私の劇団では、三千両を使って、芸を仕込みましたが、まだ数百両の銀子すらとりもどしていません。正旦がいなくなれば、すべての劇団がなくなったも同然ですから、劇団全部を晁さまに差し上げ、晁さまに観賞していただいた方がましです」

そこで、人を遣わし、話し合いをさせました。媒酌人は、偽の帳簿をつけ、下男は、中間搾取をし、付き添い人は、お礼を要求しましたが、晁大舎は、八百両の銀子を作り、珍哥を家に娶りました。計氏は、相変わらずよく怒り、よく罵りましたが、晁大舎が勝手なことをするのにはかないませんでした。計氏は、屈服しようとせず、珍哥は、へりくだろうとはしませんでした。晁大舎は、財産も権勢もありましたが、家がごたごたしたため、とても体裁の悪いことになってしまいました。そこで、陪賓の董仲奇の計画に従い、ほかの場所に家を買うことにしました。衣装、装身具を作り、下男、下女を買い、わずかな間に、様々なものを揃え、珍哥をその中に住まわせました。晁大舎は、一か月、計氏の所へゆきませんでした。やがて、米、薪は少なくなり、珍哥のところから、不足しているものをもらわなければならなくなりました。計氏は「おしが黄柏[46]を食べる、その苦い味をいうことができない」[47]という状態になってしまいました。

 ちょうど十一月六日の冬至の日、雪が降りだしました。晁大舎は、料理人に、三四卓の酒を準備させ、留春閣に、床下暖炉を造り、飾り付けをし、金持ちたちを呼び、雪見をしました。客は、三三五五集まりますと、席に着きました。女の役者たちは、やってきて酒を注ぎ、杯を勧めました。この日は、劇は演じられませんでしたので、人々は、窃盗や詐欺の話しをし、勝手気ままな姿をさらけだしました。彼らは教育を受けていない、俄か成金の、馬鹿な坊っちゃんばかりでした。席上に、塩漬けの魚が出されますと、人々は、いいました。

「今年の冬は、雉、兎がとても多く、狼が野にいっぱいで、豊年になりそうにないな」。

ある者が喋りますと、別の者が喋りました。

「みんなは馬がをもっているし、鷹、犬もいるから、一緒に狩りをして、一日遊ぼう」。

中の一人がいいました。

「狩りをするのなら、晁さんの荘園へゆこう。雍山の南北は、土地が開けていて、獣がとても多いから、晁さんに宴席を設けてもらうのがいいだろう」。

晁大舎は、すぐに承知しました。暦をもらい、十一月十五日の、狩りによい吉日をえらびました。そして、きちんとした身なりをし、格好をよくし、卯の刻に教場[48]にゆき、そろって出発することを約束しました。三牲[49]をそなえ、山神、土地神[50]を祭り、さらに三牲をそなえ、祭旗[51]をすることにしますと、

晁大舎「大したことではないから、僕が自分で準備しよう」

約束は決まりました。翌日の五更まで食事をしますと、雪はだんだんと小降りになり、ある者は家に帰り、ある者は晁家の暖房の中で、女役者と一緒に眠りました。

 晁大舎は一晩酒を飲み、さらに珍哥と例のことをし、申の刻まで眠ってから起床しました。表に泊まった友人たちも去ってしまっていました。晁大舎は髪梳きと洗顔をせず、二碗の酸辣湯[52]をのみ、しばらく座り、明かりを手にとりましたが、二日酔いはあまり覚めていませんでしたので、珍哥とともに寝床に上がって眠り、枕辺で、十五日にみんなで雍山にいって狩りをし、荘園に泊まるので、準備をしなければならないことを話しました。珍哥は詳しいことを尋ねますと、言いました。

「一日狩りをするのでしたら、私もいって、気晴らしをしたいものです」

晁大舎「おまえは女なのだから、男の群れの中に加わるわけにはゆくまい。それに、みんなが馬に乗るのに、おまえが轎に乗っては、ついてくることはできないだろう」

珍哥「私はあの人たち全員の春画を描くことができます。十人のうち、私は十一人と一緒にいたことがあります[53]。私があの人たちを怖がるはずがないでしょう。馬に乗るなら、あなた方でも私にはかなわないでしょう。人の家で葬式が出る時はいつも[54]、私は馬を走らせる役を演じていました。『昭君出塞』[55]か、『孟日紅賊を破る』[56]でした。今回、狩りをするときも、同じことをするだけですから、何もおかしなことはありません」

晁大舎「おまえの言うことは尤もだ。おまえがゆけば、面白いだろう。おまえはあの石青色[57]の刺繍をしたマントをさがしだし、一匹の銀紅[58]の地味な綸子で裏打ちをし、裁縫師の陳さんに服を作らせれば、その日のうちに着ることができるだろう」

珍哥は笑って

「あなたは何も分かっていらっしゃらないのですね。マントをつけて狩りをしにゆけば、『老児灯』[59]を演じることになってしまいます。ほかにも劇団から私の金の勒子[60]、雉の羽、蠎の刺繍のついた肩掛けを借りて、軍装をしてゆかなければいけません」

晁大舎は枕の上で叫びました。

「それはいい。それはいい。しかし、劇団に借りにゆくことはない。臭くて、汚らしいだけだからな。自分できちんとしたものを作れば、数日でできるだろう」

枕辺で互いに撫でたり擦ったりしはじめました。

 晁大舎は翌朝から、毎日狩りの準備をしました。彼は金持ちの子弟よりもさらに綺麗な格好をしようとし、彼らと同じ格好をしようとはしませんでした。珍哥と真っ赤な飛魚[61]の狭い袖の衫、石青の坐蠎[62]の肩掛けを作りました。三十六両の銀子で、貂の皮を買い、臥兔[63]を作り、七銭の銀で、羊の革を内側に張った紺色の紵絲[64]の、足にぴったりの革翁鞋[65]を作りました。金黄[66]の毛織りの紐のついたネルの腰帯を作り、ちょうどいい長さの、銀鍍金をした剣を買い、黒い去勢された馬を選び、前もって調教させました。さらに、六人の太った下男、下女、四人の丈夫な小間使い、十数人の農民や小作人の女房を選び、各人が狐の皮の臥兔を着け、天藍布[67]を馬に掛けました。さらに、元気の良い女房を選び、きちんと軍服を着けさせ、珍哥の馬の後ろで、旗を担がせ、目印にしようとしました。そして、晁大舎自身の衣装と、下男や荘客[68]の衣服を一つ一つ準備しました。さらに、あらかじめその土地の守備に当たっている劉遊撃から三十頭の馬、二十四名の馬に乗った管弦楽士を借り、自分の家の鷹、犬のほかに、劉遊撃から四匹の猟犬、三羽の鷹を借りました。そして、人を荘園に遣わし、二三の獲物を殺し、三四石の粉を挽き、十五日の狩りの食事を準備しました。

 十一月十五日、卯の刻前後になりますと、十数人の金持ちたちが、続々とやってきましたが、目一杯盛装をしていたものの、似合っていませんでした。最後に、晁大舎がやってきて、屋敷の中で、隊列をととのえました。女が乗った馬が、並んで先に進み、後から、珍哥が軍服を着、馬に跨がりました。後ろには、旗、幟が付き従い、幟の後ろでは、十から二十人の女たちが、しんがりとなって出発しました。足並みは揃い、隊列は乱れず、まるで民間の劇の、細柳営[69]のような雰囲気がありました。人々は、それを見ますと、褒めそやしました。晁大舎は、馬からおり、珍哥とともに人々と会いました。人々は、珍哥の古馴染みでしたが、水揚げをした後でしたので、あまり話しをするわけにもゆかず、真面目な話しをし、門出の酒を何杯か飲みました。晁大舎は、彼の精鋭が混乱するのを恐れ、彼らを部隊に分けますと、爆竹を鳴らし、出発させました。そして、程無く、雍山の南に着き、狩り場に整列しました。その様はといえば、

飛び上がる馬 竜のごと

強い男は熊のよう

虎翼の旗[70]は並びつつ、先をゆき

はたはた風にうち靡く

豹尾の幡[71]は真ん中に立ち

ひらひらと風に舞う

鷹を乗せ 犬を繋いだその姿

灌口二郎神[72]のよう

矢羽と弓もつその姿

桃園三将軍[73]のよう

下男に小作

老いも若きものっぽもちびもでぶ、痩せも

肩を並べて諂い笑い

争って主人を囲む

下女、小間使い

黒いのも 白いのも 美しいのも 醜きも 小脚の者も あばずれも

やってきて美を競い 寵愛を得ようとし

女主人を迎えるために進み出る

主人は鴉の羽の黒袷をば身につけて

淡い五色の暗繍[74]の飛魚の図がある

女主人は猩血紅の袍を身に着け

主人が乗るは風よりも速い騄耳[75]

手に持つは純鉄の棒

いと猛く威風をば奮い立たせる

女主人は元気な白黒馬に乗り

腰に二つの革の札[76]

荒き武芸を披露する

誰か知る男勝りが狩りする様は

軟弱な蕭使君[77]よりはるかにまさり

藤六神[78]も黒雲を起こそうとせず

凶星は陣に臨みて

漢桓侯 [79]が橋を遮り

新垣平[80]が南の空に太陽を戻すかのよう

大狼に暴れ虎

狐を燻し、鹿を追い

雌鹿を担げる者の喜ぶ声に地は揺らぐ

簫を吹き、笛を炙りて[81]

太鼓を敲き、銅鑼を鳴らして

隊伍を整え、帰りゆき 歌声は天にとよもす。

まさに、

人生は今楽しけりゃそれでよし

楽しみは尽くとも悲しみ生じゃせぬ

 ノロジカ、オオノロジカ、鹿、雉、兎、野豚、狼がびっくりして出てきますと、人々は、犬、鷹を放ち、弓矢を手にとり、握ったり、掴まえたりし、たくさんの獲物を手に入れました。

 さて、雍山の洞窟には、かねてから、年をへた雌狐がすんでおり、しばしば姿を変え、あちこちで人々を惑わしておりました。彼女は、周家荘にゆき、仙姑という偽名をつかい、農家の若者につきまとっていましたので、雍山にきて悪さをするひまがありませんでした。彼女は、様子を見に、自分の洞窟に戻るだけでした。そして、ある時は絶世の佳人に化けたり、ある時は年老いた老婆に化けたりし、よく人と顔を合わせていました。その日は、周家荘から戻り、狩り場を通りました。そこには、たくさんの人、馬、猟犬、鷹がおり、逃げないのは危険なことでした。ところが、彼女は、自分の神通力に自信を持っており、人間の姿に化けているのだから、鷹、犬には気付かれないだろうと思っていました。彼女は心掛けがよくなく、かねてから晁大舎に首ったけになっていました。しかし、晁大舎の荘園の仏閣には、朱砂で印刷された梵字の『金剛経』がまつられており、無数の神々が護衛をしていましたので、中に入ることができませんでした。彼女は、晁大舎が好色な悪人で、妓女、妾をつれて狩りをし、男女が一緒になっているのを見ますと、ここでしか彼をものにすることはできないと思いました。そこで、二十歳以下の、とても美しい女に化け、白の喪服を着け、晁大舎の馬前を、落ち着き払って歩きました。二三歩離れないうちに、振り向きますと、晁大舎は気も漫ろになり、心の中で思いました。

「雍山の南の人々を、俺はすべて知っているが、どこからこんな美しい女がきたのだろう。誰も付き添っていないから、立派な家の者ではないに違いない。喪服をつけているから、夫を失ったばかりの寡婦に違いない。本当に奇貨おくべしだ。家に連れ込めば、珍哥と対にすることができる。左に女英、右に娥皇[82]で、一生楽しい思いができるというものだ」

とりとめもないことを考えました。しかし、愚かな男の目をごまかすことはできても、鷹、猟犬の優れた目は、この狐の精の正体を見破っていました。猟犬は走り、鷹は飛んできて、狐に覆い被さりました。狐の精は、足をばたつかせて、元の姿に戻りました。狐は、周囲を鷹、犬に取り囲まれ、隠れるすきもありませんでしたので、晁大舎の馬の腹の下に逃げました。彼女は、晁大舎が命を救ってくれることを望んでいたのですが、晁大舎は、昔から殺生を好む男でしたので、救おうとはせず、弓袋から、彫刻をした弓を取り出し、矢を手にとり、右手を上に引き、左手を下に推し、馬の下の、狐の精のいる場所に狙いを定め、鐙の方向に矢を射ました。狐の精はぎゃあという声をたて、とびあがりました。そして、横から、一匹の茶色い犬が進み出、噛み付きますと、あっという間に、千年をへた妖獣は、死んでしまいました。晁大舎は、狐を、犬の口から奪いとりますと、獲物の動物の中に置き、人馬をととのえ、一緒に荘園に戻り、食事をしました。城内に戻ると、晁家に行きました。珍哥と女たちは、奥へ行きました。果物、野菜が運ばれますと、みんなで酒を飲み、捕らえた獣を、均等に分けました。射殺した狐の精だけは、晁大舎の手元に残させました。やがて、人々は、別れを告げ、家に戻ってゆきました。

 晁大舎は、客を送り、戻りますと、表門に入りましたが、人に顔を張られたときのように、全身に寒気を覚えました。彼は、昼間に疲れたのだと思い、寝床に上がって眠りました。ところが、その晩に眠った後、面白くないことが、毎日のように起こったのでした。とりあえず、次回のお話しをお聞きください。



[1]高尚な楽曲をいう。宋玉『対楚王問』〔注〕「翰曰、陽春白雪、高曲名也」。

[2]仏教語。菩薩の衆生に対する、大いなる慈悲、憐憫の心をいう。

[3]黄雀が自分を助けた楊宝に白環四つを与えた故事。『後漢書』楊震伝の引く『続斉諧記』華陰黄雀に見える故事。「宝年九歳、時至華陰山北、見一黄雀為鴟梟所搏、墜於樹下、為螻蟻所困、宝取之以帰、置巾箱中、唯食黄花百余日、毛羽成、乃飛去、其夜有黄衣童子、向宝再拝曰、我西王母使者、君仁愛救拯、実感成済、以白環四枚与宝、令君子孫潔白、位登三事、当如此環矣」。

[4]原文「狗結草」。「結草」は『春秋左氏伝』宣公十五年に見える言葉。晋の大夫魏武子に娘を助けられた老人が、魏武子と闘った杜回を、草を結んで躓かせ倒した故事にちなみ、報恩のこと。ただ、狗が草を結んだ故事の有無は未詳。

[5]原文「馬垂韁」。慕容沖に襲われ、谷川に落ちた苻堅を、苻堅の馬がたずなを垂らして救ったという、『異苑』巻三に見える故事にちなむ言葉。「苻堅為慕容沖所襲、堅馳馬堕澗、追兵幾及、計無由出、馬即踟躕、臨澗垂韁与堅、堅不能及、馬又跪而授焉、堅攀之、得登岸、西走廬江」。

[6]揚州の厳泰が、漁師にとらえられていた亀五十匹を銭五千で買い、江に放ってやったところ、その晩泰の家に黒い衣を着た五十人の男が現れ、銭五千を授けたという、『独異志』に見える故事にちなむか。『淵鑑類函』引『独異志』「陳宣帝時、揚州厳泰、江行逢漁舟。有亀五十、泰用銭五千、贖放之。行数十歩、漁舟乃覆。其夕有烏衣人五十、扣泰門、謂其父母曰『賢郎附銭五千、可領之』父母雖受銭、怪其無因。及泰帰問、乃説贖亀之異。因以其居為寺、里人号曰厳法寺」。

[7]春秋時代晋の公。側室驪姫の讒言により、嫡子の太子申生を殺した。

[8]唐の六代皇帝玄宗のこと。恵妃の讒言により太子李瑛に死を賜った。

[9]唐の七代皇帝。第二子越王李係を殺した。

[10]原文「君子因甚却遠庖厨」。『孟子』梁恵王上に見える「君子之於禽獣也、見其生不忍見其死…是以君子遠庖厨也」にちなむ言葉。

[11]山東省東昌府。

[12]歳考と科考のこと。いずれも学政官が生員に対して行う試験で、三年に一度行われる。科考は歳考の翌年に行われ、歳考は受験が必須、科考は必須でないという違いがある。

[13]原文「何郎傅粉三分白」。「何晏よりも白さで三分勝る」。「何郎傅粉」は、魏の何晏が色白で、白粉を塗っているのではないかと疑われたという、宋劉義慶『世説新語』容止の物語にちなむ言葉。「何平叔(何晏)美姿儀、面至白。魏明帝疑其傅粉、正夏月与熱湯餅。既噉、大汗出、以朱衣自拭。色転皎然」。

[14]原文「荀令留裾五日香」。荀ケが座っていたところは芳香がしたという、『太平御覧』巻七百三引『襄陽記』に見える故事にちなむが、『襄陽記』では三日間芳香がしていたということになっている。「劉和季性愛香、上厠置香炉、主簿張坦曰『人名公作俗人、真不虚也』和季曰,『荀令君至人家、坐処三日香。君何悪我愛好也』」

[15] 「上大人、丘乙己」は『三字経』に出てくる言葉、画数が少なく、ここでは簡単な字の代名詞として使われている。

[16]科挙に合格しない生員のうち、優秀なものを学政が選抜して国子監に送ること。国子監の試験を受ければ、その成績により官職に就くこともできる。

[17]原文「作興旗扁之類、比如今所得的多」。「作興」は「おそらく」という意味の副詞だが、ここでは資金を送ること。

[18]国子監生になるために上京した生員を対象に行われる試験。この成績が劣等だと国子監生になる資格を剥奪される。

[19]官名。州県の学政をつかさどる。『清通典』職官十三に記載がある。

[20]府知事が主催する試験。これに合格すると、学政官(学院)が主催する院試を受け、院試に合格すれば、生員の資格を得られる。

[21]人民があって社稷がある。『論語』先進。

[22]吏部が官職を授けること。

[23] あきがある地方官の職に誰を選任するかは籤引きで決められ、これを掣簽といった。

[24]官報。地方長官が都にもうけた邸内から発するのでこの名がある。

[25]小規模の両替商。

[26]秤で物を計るときに差し引く重さ。

[27]原文「銭可通神」。「金はとても大きな魔力をもっている」。

[28]駙馬は皇帝の女婿。「槐安国の駙馬」は唐の伝奇『南柯太守伝』にちなむ言葉。『南柯太守伝』の主人公淳于は夢の中で槐安国に行き、もてなされ、駙馬となった。「槐安国の駙馬のような有様となり」とは「夢のような歓迎を受け」という意。

[29]新任の役人が赴任前に都で高利で借りる金。利率は二.三〇パーセントから四.五〇パーセントに達した。清趙翼『陔余叢考、放債起利加二加三加四并京債』「至近代京債之例。富人挟貲往京師、遇月選官之不能出京者、量其地之遠近、缺之豊嗇、或七八十両作百両、謂之扣頭、甚至有四扣、五扣者.其取利最重」。

[30]純度九八.六八の銀。

[31]銀の装飾のある帯。

[32]盞は底の浅い杯。

[33]朝廷に出仕するときの衣服。

[34]祭祀のときに着る服。

[35]原文「対月領了文憑」。地方官に吏部が発給する証書を受け取ること。文書は赴任後総督、巡撫に見せる。証書の発給は省ごとに、決められた月に行われ、「対月領憑」といわれた。

[36]後の東交民巷。現在の東城区の地名。朱一新等撰『京師坊巷志』巻二「東巷米巷」「亦称交民巷、西有坊曰敷文、井二、俄羅斯館明会同館古阯也。今為俄国使館、又有美国徳国法国日国比国和国諸使館。東有武定会館」。

[37]役人用の轎。

[38]伯顔は闕名氏撰『霞箋記』の登場人物。「自分の機嫌をとるものは功績がなくても褒美を与え、自分に逆らうものは功績があっても誅殺する」(奉我者無功亦賞、抗我者有績必誅)といった人物。ここでは、晁大舎の勉強をするときの態度が傲慢であったことをいう。

[39]民間から徴発した、役人の使う船。

[40]何の手応えもない、当てが外れる、の意。

[41]鑾駕は天子の乗り物。半朝は未詳。いずれにしても大きなものを指していると思われる。

[42]真四角の寝台。

[43] 「計氏は晁大舎を引きつけることはできませんでした」ということ。「羊車」は、晋の武帝が後宮で羊の車に乗り、羊が止まったところにいる后妃と一夜をともにしたので、皇妃たちは部屋の前に塩をまき、羊を引き寄せようとした故事にちなむ言葉。『晋書』后妃伝上・胡貴嬪参照。

[44]後漢の道士張道陵のこと。五斗米道の創始者。葛洪の神仙伝に見え、道教で崇拝される。

[45]指揮は指揮司のこと。一省の軍務最高機関。

[46]黄檗ともいう。キハダ。漢方薬として用いられ、苦い。『本草綱目』黄檗・気味に「苦寒」とあり。

[47] 「苦しみを人に打ち明けられない」の意。

[48]練兵場。

[49]牛、羊、豚。

[50]農村の守り神。白髭の老人の姿をしている。(写真を見る)

[51]出陣の前に行う儀式。

[52] ナマコ、イカ、鶏肉などを細切りにし、酢やごま油を加えて作ったスープ。

[53] 「あの人達以外の男とも付き合いがあります」ということ。

[54]中国には、葬式の時に、戯曲を上演する風習がある。

[55]王昭君が匈奴に嫁すことを題材とする戯曲。明の陳与郊撰。

[56] 『孟日紅破賊』という題名の戯曲は著録されていない。孟日紅は明の紀振倫撰『葵花記』に登場し、九天元女から神書と宝剣を授けられ、賊を討つ女主人公。

[57]濃い紫。

[58]赤みがかった銀色。

[59]戯曲の名と思われるが未詳。

[60]婦人の額当て。金属、布、皮などで作られており、装飾品。(図:周著『中国歴代婦女妝飾』(彩色の図を見る)

[61]飛魚とは『太平御覧』巻九百三十九の引く『林邑国記』に現れる動物で、体が円く、長さ一丈あまり、蝉のような翼があるという。「飛魚身圓長丈余、羽重沓、翼如胡蝉、出入群飛、遊翔翳薈而沈則泳海底」。服の模様としての飛魚は、翼のはえた蟒蛇として描かれている。明初には二品官の服に図柄として用いられたが、龍と見間違えやすいので、明末嘉靖十六年に廃された。 (図:『三才図会』)

[62]龍が蟠り正面を向いている図柄。

[63]毛皮の帽子。芝居で王昭君がつけている。

[64]緞子のこと。田藝淇『留青日札』巻二十二「『玉藻』『士不衣織』。織音志。注『染絲而織之也』。近人以紵絲曰段子」。

[65]綿入れの長靴。

[66]赤味を帯びた黄色。

[67]薄い青。

[68]荘園を耕す小作人、雇い工。

[69]前漢の将軍周亜夫が細柳に駐屯したとき、軍規が厳格であったことから、規律の厳しい軍営をいう。なお元の王廷秀に『周亜夫屯細柳営』という雑劇がある。

[70]翼の生えた虎を描いた旗。

[71]豹の尾を飾りにつけた旗。天子の儀仗に用いる。『清会典』鑾儀衛・豹直「豹尾旛、懸豹尾、長八尺、上銜金葉、冒以緑革、綴金鈴四、高二寸五分、径三寸八分、加金鈴繋旛」(図:『三才図会』)

[72]二郎神、楊二郎ともいう。玉皇大帝の外甥で火の神。

[73]桃園で結義した劉備、関羽、張飛をいう。

[74]暗繍。未詳。

[75] 『竹書紀年』に登場する名馬の名、周穆王八駿の一つ。

[76]原文「夾皮牌」。未詳。

[77] 「使君」は刺史のこと。

[78]神の名と思われるが未詳。

[79]原文「還不数漢桓侯遏水断橋」。蜀漢の張飛。長阪橋で曹操の軍を撃退した。『三国志演義』第四十一、四十一回参照。

[80]新垣平は前漢の人。太陽をふたたび南中させたことで有名。『漢書』「文帝時新垣平言『臣候日再中』居頃之、日却復中」。

[81]原文「炙管」。炙笙に同じ。笙を演奏に先立ち暖め、音の出をよくすること。

[82]女英、娥皇ともに舜の妃の名。

 

 

最終更新日:2010116

醒世姻縁伝

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