李雲英風送梧桐葉雑劇
楔子
（冲末が任継図に扮し、正旦李氏を連れて登場）わたしは姓は任、名は継図、字は道統、本貫は西蜀の人。女房は姓は李、名は雲英、故丞相李林甫の孫娘。わたしは詩書を学習し、武藝にも通じている。同堂の友人の哥舒翰は、西蕃を防いでいるが、使者を寄越して、わたしを迎え、軍務を補佐させようとしたから、ゆかねばならぬ。女房よ、そなたは家でひとまず過ごせ。かの地に行って、功業を建て、官職を得て、戻ってきたら、そなたとともに富貴を享ければ、よかろうぞ。
（正旦）亭主どの、行かれませ。現在は、安禄山が乱を起こしているために、人は命を顧みませぬ。不測の事態が起こったときは、わたくしはどうしたらよろしいのでしょう。
（任継図）そなたは存じておるまいが、昔から、文と武を修めたものは、功名を乱世で得るものなのだ。そうでなければ、酒を恋い、花を貪り、壮志を堕落させるであろう。むかしから言う。「文武の藝を学びなば、帝王の家に貨るべし」と。その時、わたしの平生の願いは充たされ、金の帯、紫の服を着け、子や妻に恩典を齎して、郷里に錦を飾るのだ。これもよい事であろうぞ。女房よ、邪魔するな。わたしは旅路につかねばならぬ。
（正旦）亭主どのがどうしても功名を得にゆこうとなさるなら、旅路ではお気をつけなさいまし。（唱う）
【仙呂賞花時】雨の涙は紅と流れて、翠の袖を斑にし、錦の被に香を分かちて、鳳の枕は閑たり[1]。雕鞍を鎖ざすすべなし。江は空しく、歳は晩れなば、いづこにか平安を問ふべきや[2]。（ともに退場）
（末）今日は吉日、長の旅路につかねばならぬ。（退場）
第一折
（外が牛尚書に扮して、張千とともに登場）老いぼれは、尚書牛僧孺、天子が蜀に御幸するのに従っている。李雲英という娘がいるが、李林甫の孫娘で、陣中で擒になった。かれはもともと夫がいたと言ったので、老いぼれは、かれを家へと引き取った。夫人[3]はいつも侍妾にするのを勧めるが、老いぼれが思うには、冠は古びても足に履くわけにはゆかず、履は新しくても頭に被せることはできない。この娘は、宰相の家柄だから、納めて妾にすることは、心に忍びぬ。それゆえに、義女として、実の娘の金哥には、かれを拝して姉とさせている。刺繍を学ばせ、雲英の家の便りが届いたときは、かれら夫婦を再会させ、かれの夫が亡くなっていたときは、良い婿に嫁がせることにするなら、ほんとうに陰隲となるであろうぞ。今日は夫人が大慈寺にお参りにゆく。左右のものよ、轎、馬を調えて、お嬢さまとともに、夫人に従ってゆくのだ。（退場）
（正旦が梅香を連れて登場）わらわの夫は任継図、西蕃へ功名を得にいった。あのかたが行かれた後に、安禄山が乱を起こして、長安を陥れ、天子は蜀に御幸され、わらわは陣中で擒になった。さいわいに、牛尚書さまがわらわを引き取り、屋敷に留めて義女とされ、娘御は、わらわを拝して姉となされた。坐して富貴を享けてはいるが、夫婦は別れて消息が知れない。この悲しみをどうしたらよいだろう。今は春、花と柳は妍を競い、この美しい景色に対し、いよいよ別離の苦しみを増す。（唱う）
【仙呂点絳唇】鏡は破れ、釵は分かれ、粉は消え、香は褪せ、方寸は縈ぼる。酒は美く、花は新たに、つねづね家を思ひて恨めり。
【混江龍】韶華はまさに尽きんとし、三分の流水、二分の塵[4]。悶懨懨と白昼に人は寂しく、静巉巉と青春に門を掩へり。白き鸚鵡はしきりに伝ふる花外の語、錦の鴛鴦は避けんとす柳辺の人。暁日に囀れる鶯の音は恰恰[5]として、香風に舞ふ蝶の翅は紛紛とせり。楼閣に映ゆる青山は、隠隠として、池塘に漾ふ緑水は粼粼[6]たるなり。節序を過ぐれば感嘆をひとへに増して、鶯と花をそぞろに悲しめり。桃は火のやう、草は茵を鋪き、歌声は歇み、笑声は頻りなり。わが眼中に意中の人を見ることのなきがため、今春は前春の悶を減ぜず。涙を流す眼に桃花の顔は痩せ、愁に鎖ざす腸に楊柳の眉を顰めり。
（言う）そのかみ、わらわはあのかたが行くのを許し、今日を招くべきではなかったのだ。
（唱う）
【油葫蘆】そのかみ、みづから考へず、やすやすと、羅袂を分かちたることを、いたく悔やめり。今日は、錦箋を鴻鱗[7]に托すに由なし。われは今、痩岩岩とし、腰は痩せ、羅裙は褪めり。かのひとは、急煎煎[8]とし、人は遥けく、天涯にこそ近きなれ。昨日は秋、今日は春、光陰は尽くるとも、情の尽くるは難くして、行雲[9]を覓むる術のなきを嘆けり。
【天下楽】これこそは、恋の思ひは同じきも、両つところに悲しめるなれ。青春に、人は葬り去られたり。嘆けるは、孤身のあたかも飛絮の滾びたるかのごとくして、虚飄飄たる離乱の人、孤另另たる多病なる身の、清風に憔悴し、損なはれたる。
【那吒令】瓊梳を、緑雲に挿したれば、青天に月痕こそ顕はるれ。湘裙[10]は暁雲と翻り、春衫[11]を汚すは酒の痕ぞかし。鮫綃[12]は素雲[13]を剪りて、啼を搵へば旧き痕にぞ染むるなる。心の愁を封じ込め、眉尖の恨を抑へ込み、唇に朱をつとめて点ずなり。
（梅香）お嬢さま、もうすこしお急ぎください。
（卜児が老夫人に扮して登場）
（正旦）母上、わたしがまいりましたよ。（行く）（唱う）
【鵲踏枝】母上に従ひて、遊春にしぞ赴ける。両行[14]の侍妾と小間使ひを列ね、繍轂[15]と雕輪[16]を取り囲ましむ。虞候[17]らの歩みはいたく急なれば、青霄に聳えたる金碧の山門に、はやくも来れり。（かりに退場[18]）
（任継図が登場）わたしは任継図、哥舒翰の軍の仕事を輔佐しているが、家を離れてまもない頃に、安禄山が乱を起こして、京師を破り、天子は蜀に御幸した。わたしの家族は生死、行方が知れぬため、毎日心配しているところ。今、安禄山は擒にされて、天下はおおいに定まって、至尊は帰京あそばして、わたしはようやく家へと還ることができた。これより大慈寺に赴き、とりあえず、馬を休めて、友人の花卿の子、花仲清と約束し、こちらに来、ともに遊覧することにしたのだが、どうしていまだに来ないのだろう。見れば佛殿の傍らに、ぴかぴかの粉壁がある。詞を口ずさむことにしよう。「詞は『木蘭花慢』に寄す。家を思ひて離別の懐を書く」だ。
（書く。詞）やすやすと離別して、一たび去れば、故郷の消息は絶えり。禍は結ばれて、兵は連なり、嬌鳳と雛鸞は[19]、信を伝ふることぞなき。落花に風絮[20]、杜鵑は血に啼き、行く春をしぞ傷しめる。過客は愁へつつ聞き、東風に佇みて、魂を断たんとしたるなり。
姓名を留めることなく、書きおわり、門を出て、花仲清をさらに待つことにしよう。（退場）
（卜児が正旦とともに登場）灯燭を点し、お参りしよう。
（正旦が佛殿を出て回廊に行く）前を行く、あの秀才は、顔を見たところ、ほんとうにわたしの夫と同じであった。進み出て、確認してみることにしよう。
（任継図）花仲清を尋ねてゆこう。
（正旦が唱う）
【寄生草】いづかたのなよびたる客ぞ。いづかたの年若き人ならん。かのひとは、回廊を転りつつ、いそいで身を退きたまふたり。わたくしは、雕欄を隔てつつ、名を挙げて、問はんとはせず、かのひとは、山門を出で、振り返り、認めたまはず。こは遊仙の夢の裏にて、たちまちに逢へるにや。おそらくは、武陵溪にて、相近づきしことのあるらん。
（言う）お母さまたちは、お参りに行かれるから、灯燭を点しにゆかなければならない。（灯を点す）お母さま、線香を上げてください。（詩を見る）（唱う）
【金盞児】字体は草[21]に真[22]を連ねて、詞句はいと清新にして、三江四海の悶を包藏し、龍蛇[23]を走らせ、筆陣は煙雲を起こしたり。
（言う）もしやわたしの夫だろうか。
（唱う）見ればしきりに涙は滴り、読みおはり、ひそかに魂を消せるなり。いましがた、句を題したる客は、げに断腸の人をいたくぞ苦しむる。
（言う）この字体はほんとうに夫のようだ。（唱う）
【酔中天】この書学は、秦漢を宗びて、唐晋を摸し、この筆陣は、三峡を流し、千軍を掃き、げにや夫の字と似たる。一文字を、初めから認むれば、字法は、すこしも異なることぞなき。芳信をば伝ふるに、そもなにゆゑぞ、名を題せざる。
（言う）そうはいっても、天下の人が書く字には、同じものが多いから、夫の字なのかどうかは分からぬ。一首和さなければならない。夫が見たら、きっとわたしを捜すだろう。わたしはこちらに書いてみよう。（唱う）
【後庭花】霜毫を執り、事情を訴ふ。夫君に別れて幾春ぞ。往事を思へば、あたかも夢のごとくして、青山に上りて、化身して、壁間の塵を拂ふを得ぬことぞ恨めしき、
（言う）わたしもかれの韻に従い、一首作ろう。
（唱う）前韻に和せんとす。二三行、字体は匀ふ。言ふらくは、そのかみの夫婦の恩愛。願ふらくは、夫のみづから見聞きせんこと。世の人のみだりに品評するに任せん。
【青哥児】さりとても、一言をもて、一言をもて、尽くすは難し。しがなき命は、進むも退くも、進むも退くも、路はなし。月の圓となるを待ち、花の春をば待てるかのやう。思へばそのかみ、阮肇と劉晨は、薬を採りて、真を尋ね[24]、花の雨、香れる雲は、凡塵を隔てたれども、笙歌もて春の画堂に迎へ入れられ、かれらにも姻縁の分ぞありし。
（言う）書きおわった。読みあげてみよう。
（詞）岐路に臨みて相別れ、一旦にして、恩情[25]は絶ゆ。烽火は連なり、雁帖、魚書[26]は、誰にか伝へん。身は柳絮に似、泥に沾れて、また風に従ひてゆくことぞなき。杜宇をば愁へつつ聞き、啼きて断てるは、故郷を思ふ怨女の魂ぞ。
（卜児）殿上で、お参りしよう。
（正旦が詞を書いているのを見て、怒る）雲英、裙釵女流の輩であるのに、なにゆえに、他人の詞章に和するのだ。かならずや醜態を晒しましょうぞ。
（正旦）母上、わたしが見ましたところ、この詞は夫の任継図が書いたに相違ございませぬ。それゆえに、一首を後ろに和したのでございます。まことにわたしの夫なら、かならずや、わたしを捜しにくることでしょう。（唱う）
【賺煞】わたくしが、衷情を訴ふるを聴き、な怒りたまひそ。
（卜児）おまえは娘なのだから、詩を題すれば、世間の人があざ笑うことだろう。
（正旦が唱う）かれらが笑ふことあらめやは。荒淫の外人を招くにあらず[27]。
（卜児）どんな詩を題したのだえ。
（正旦が唱う）この詞は、春情や子曰詩云[28]を言ふにはあらず。ひそかに悲しみ、雨の涙は紛紛として、頭を垂れて、言葉なく、処分を聴かん。
（卜児が怒る）そうはいっても、おまえは娘。他人の詞章に和するとは、慎みのないことだ。
（正旦）母上、お怒りを鎮められまし。わたしはふたたびこのようなことはしませぬ。
（唱う）本日は、朝から昏まで、本分に外るることなし。こつそりと、晩の妝をする楼に、楚台の雲を目断すべし[29]。（ともに退場）
第二折
（外が花仲清に扮して登場）わたしは節度使李光遠麾下の偏将である花卿の子、花仲清だ。幼いときから、父上に従って、兵法を学び、逆賊の段子章をば、みずから誅し、いくたびも、大いなる功を建てたが、朝廷に重用されることはなく、閑居している。わたしには、友人の任継図がいる。この人は、飽学の才子であるため、哥舒翰は、かれを招いて、軍の仕事を補佐させていた。はからずも、禄山は乱を起こして、家に戻ると、妻子は捕らわれ、財産はすっかり空しくなっていた。この人は発奮し、わたしとともにこちらへ至り、いっしょに受験することにした。さきほど、ともに郵亭に来た。わたしは馬が水を飲もうとしたために、遅れてしまった。馬を走らせ、追ってゆかねばならぬわい。（退場）
（任継図が登場）わたしは任継図、大慈寺に着き、馬を休めて、壁に詞を書き、気晴らしをした。家に戻っていったところが、妻はもう捕らわれてゆき、生死は知れなくなっていた。わたしが思うに、夫と妻の離合には、おのずと定数があるものだから、愁えても詮ないことだ。今、朝廷は、文武の科場を開かれている。わが胸中の万卷の教養を頼りにし、ひとまず奮戦するとしよう。官職を得て、父母の名を顕わせば、すばらしいことだろう。さきほどは、友人の花仲清と、この寺に来て、禅房を借り、宿泊し、試験を待つ約束をした。ずいぶん待ったが、やってこない。とりあえず、禅房に行き、休むとしよう。（退場）
（正旦が小旦とともに梅香を連れて登場）秋風は颯颯として、落葉は飄飄たるなり。秋の天道、かやうなる烈しき風が吹きたれば、いやましに心を動かし、故郷を思ひ、悲しめるなり。
妹や、ほんとうに烈しい風だ。（唱う）
【正宮端正好】新凉は薦れば、残暑は消ゆるなり。行雲はたちまちに落ち[30]、江を翻へし、海を撹ぜ、驚涛は怒り、秋の林の木を揺らし、抜けしめり。
【滾繍球】岸の蘆をば蕩し、庭の竹をば撼はせり。長江に帰りゆく、一片の帆を送り、群山を動かして、万籟を叫ばしめたり。かのもの[31]は、手を翻せば雲となり、手を覆ひなば雨となり、定まることなく、その性は頼りなし。乱紛紛と梧の敗葉は凋みたるなり。おみゆゑに、丹鳳は引き裂かれ、侶と成り難し。征鴻を吹き、書を寄せざらしめたれば、離人をしぞ嘆かしめたる。
（言う）妹や、風には貴賤大小がある。
（小旦）お姐さま、この風に、どうして貴賤大小があるのでしょうか。
（正旦が唱う）
【倘秀才】あるものは、椒桂[32]に入り、洞房を穿ち、大王のやうに敬はれたり。あるものは、腐儒に揚がりて、陋巷に起こり、庶民を以て比ふべし[33]。かの風は、故郷を思ふ漢の高祖を感動せしめ[34]、張翰を催して、蓴鱸を憶ひ、官を辞め、都を出でしむ[35]。
（小旦）この風は、ほんとうに激しいですね。
（正旦が唱う）
【滾繍球】三層の屋上の茅を卷き、幾つかの砧の杵の音をぞ伝ふる[36]。颼、颼、颼と一天の煙霧をぞ吹き散らしたる。扁舟を送り、江湖を漂はしめて、黄金の菊の蕊を破りて、開かしめたり。臙脂の楓の葉を墜とし、舞はしめて、深山に落つる花をば路に満たしめり。ゆく時は、つねに東南巽位に潜み[37]、羅幃に入り、冷清清、閨中の女の懐ける怨をば掻きたてり。関河を渡れば、寒凛凛、帰るを思ふ塞下の夫をいたく苦しめ、老いし樹に啼ける烏を驚かしめり。
（風が梧桐の葉に吹き、正旦が葉を拾う）妹や、どうして風が一片の葉を吹いてきたのだろうか。そなたといっしょに筆を執り、一首の詩を書くことにしましょう。ああ天よ、憐れと思し召すのなら、この大風で、詩を書いた葉を吹いて、家に届けて、夫にわたしの消息をお知らせください。
（小旦）お姐さま、多くの山河がございますのに、どうしてあちらに着くことができましょう。
（正旦が詩を題する。詩）翠[38]を掃きたる蛾の眉を顰むるは、心に結ぼほれたる事のあればなり[39]。管を執り、階を下り、相思の字をぞ書けるなる。この字に、名をば記さず、この字は、紙には書かず。秋の葉の上に書き、秋風を逐ひ、舞ひ上がることを願へり。天下の有情なる人は、われゆゑに、恋ひ焦がれ、天下の薄情なる人は、相思の意を解することぞなかるべき。有情と薄情、かれ[40]はいづこに落ちぬべき。
（手で葉を撮み、天に祈る）風よ、わらわが他郷に流落するのを憐れみ、一陣の、人の心を理解する、慈悲のある、よい風を借り、この葉をわたしの夫のところへ吹いてゆくべし。（唱う）
【倘秀才】風よ、おんみは、しばらく哮り狂ふのをやめ、申し上ぐるを容れたまへかし。とりあへず、狂ほしき性を鎮め、言い含むるを聴きたまへかし。雌雄を言ひし、楚の宋玉をな信じたまひそ[41]。あへておんみの吹嘘の力を煩はし、飄蕩へる夫を尋ねしめんとせり。離人にどうか味方したまへかし。
（言う）ああ、風よ、どうかわたしの言うことを聴いておくれ。（唱う）
【呆骨朶】わがために、青蘋に起こり[42]、一陣一陣、吹きゆかば、たちまちに、天つ涯にぞ到るべき。な恋ひそね、酔ひて歌へる瓊姫の桃花の扇を。な揺らしそ、離人を惑はせる、空しき庭の翠竹を。桃源の洞にな入りそ。章台[43]の路にな過りそ。一葉の商飆に翻る梧桐の葉を届くるは、青鸞の腸を断つ書を寄するがごときなり。
（言う）風よ、ほんとうに人を馬鹿にしている。さきほどは、山を揺らして、樹を拔いて、沙を飛ばして、石を走らせんばかりに吹いていたものを、わたしがそなたに頼んだら、鎮まってしまうとは。わたしは思う。天は願いを聞いてくださらぬのだろう。この葉を吹いてゆこうとせぬなら、ふたたびそなたに言い含めなければならない。（唱う）
【叨叨令】な関はりそね、城頭の暮れ、胡笳の音を送りて断つに[44]。な言ひそね、旌旗を撹して、影を辺城に動かしむるを。な恋ひそね、歌声に従ひて、綺羅の筵に舞ひたるを。な従ひそね、花信を伝へ、桃李の園に入りたるに。汝は吹ききたり、吹ききたり、すみやかに、凄凉を忍びたる鰥寡の夫のもとへと吹きゆきて、駐まれよかし。
（言う）ああ、一陣の烈しい風が起こった。（唱う）
【伴読書】すんなりと吹きゆけり。一葉は、風に従ひ、飛びゆきて、馬を走らすかのやうに、振り返ることを知るなし。天公の、離人の苦しみを念はんとせられしに謝す。飄然と、神霊の助けのあるがごとくして、階除にたちまちに起こりたり。
【笑和尚】忽、忽、忽と、神仙の佩瑶を鳴らすかのやう。颼、颼、颼と列子の雲路に登るかのやう[45]。疏、疏、疏と、[玉吉]玎璫の風鈴の音は住まることはなく、嗤、嗤、嗤と障子を鳴らし、吸、吸、吸と天衢を度り、刷、刷、刷と斜陽を墜とし、暮れしめり。
（言う）四季の中、同じ風でも、その実は、それぞれ違うところがある。妹や、わたしが四季の風について、話すのを聴きなされ。（唱う）
【三煞】春されば、楼台に歌声流れ、かろやかに檀板をもて『黄金縷』[46]をぞ敲くなる。庭院に入り、和やかな気を扇ぎ、香を瓊漿の白玉の壺にしぞ匂はしめたる[47]。園の花は条を鳴らして、溪河に凍は解けて、柳葉は青く揺れ、桃萼は紅く咲き、花は錦の機に飛び、草は青める苔に偃し、梅は瓊酥[48]を落とすなり。簾は垂れ、檻は曲がり、寒は料峭、羅の幮[49]に透れり。
（小旦）お姐さま、夏の風はいかがでしょうか。
（正旦が唱う）
【二煞】夏されば、竹床と枕簟[50]は凉の生ずる処なり。軒窗に、夢より覚めて、茶を飲みはてり[51]。波は魚の鱗を成して、扇は蝉の翼を揺らせり[52]。龍涎の香を裊はせ、蝦鬚の簾を漾はす。水面にて、荷の蒂を牽けるなり。池頭にて、蓮の香を遠く渡せり。波心にて、荷の珠を揺らし落とせり。凉けさは院宇に生じて、微雨を送りて雲衢を出でしむ。
（小旦）秋、冬はいかがでしょうか。
（正旦が唱う）
【煞尾】秋されば、啾啾と響き、蛩の音は喧し。颯颯と吹き、ななめに飛べる雁の影ぞ寂しき。八月の初め、秋声に心動かし、彩扇に詩を題したる班婕妤[53]、景に対して、秋に悲しむ宋大夫[54]あり。江の上に紛紛として敗蘆[55]は折れて、田の内に瀟瀟として禾黍は偃し、流螢の座隅に入るを送るのみなり。やうやう凋み落ちたれば、岸の柳は疏らとなりて、ゆるゆると荷盤[56]の老いし柄は枯るるなり。丹楓[57]を飄へし、井梧[58]を落とせり。女は凄凉をば怨み、涙の珠を滴らせ、晩の窗に悲しみて、征旅を憶へり。冬されば、羊角の鳴る音はいとも凄まじく、走石、飛沙は路途に満ちて、氈簾[59]に染み込めば、酔ひは醒め、寒さは氷霜をば助け、膚に透れり。清しき香は裊ひて尽き、篆炉[60]は冷えり。凛冽として、厳しく凝りたる冰箸をば掛け、顔を吹き､衣を着くるもいかで防がん。四季の中、風のなき日はなかれども、深秋のみはいと凄まじく、芭蕉の夜窗の雨に和するにいかで得耐へん。（ともに退場）
第三折
（任継図が登場）今しがた、友人花仲清を迎えて、郵亭に来て、しばらく徘徊したのだが、まだ来ない。寺へ行き、気晴らしをせねばならない。（回廊に入り、葉を見る）こんなところに、なにゆえに、一片の葉が空から飛んできたのだろう。拾い上げ、見てみよう。（葉を拾う）わたしが妻を失ったのを誰かが知って、ことさらにこの詩を作ったのだろう。天が与えた姻縁だから、夫婦にはかならずや再会する日があるだろう。わたしはひとまずお堂に上がり、遊覧しよう。（お堂に上がり、壁上の和詩を見る）この詩はわたしがそのむかし題したものだが、人が後ろに和している。この姻縁にはかならずや結末があるだろう。とりあえず禅堂へ戻り、休むとしよう。
（詩）まさに、寂しき空門に索居をぞ嘆くなる。姻縁は他日いかにぞなりぬべき。天涯の遊子に羈思は多く、腸を断つは梧桐の葉の書ぞ。（退場）
（牛尚書が登場）老いぼれは、牛僧孺。目下、文武の状元が及第したが、かれら二人の状元は、いずれも立派な男前。うちの金哥は生長したから、彩楼を組み立てて、状元が遊街[61]する時、繍球を投げさせて、絲鞭[62]を渡させ、佳い連れ合いとなることを求めさせよう。義女雲英は姉だから、まずは夫人に尋ねさせなければならない。一つには、雲英に操を守る心があるか否かを見るため、二つには、「先にその疏に及び、後にその親に及ぶ」[63]のが、礼であるからだ。夫人を呼んで、相談しなければなるまい。夫人はどこだ。
（卜児、正旦、小旦がともに登場）
（正旦）わらわは夫と別れてから、今まで三年、音信は杳としてない。こちらで坐して富貴を享けているものの、眉の上、心の中の、一点の相思は、いつの日に、叶えられるやら[64]。（唱う）
【中呂粉蝶児】粉は悴せ、脂は憔へ、悶懨懨とひそかに懐抱を傷ませて、困騰騰とむなしく眉梢を損なへり。画堂は深く、朱戸は悄しく、雁書は到らず、情緒は蕭条、影児は孤しく、鏡鸞は照らすことを羞ぢたり。
【酔春風】人は去り、玉簫は閑として、雲は深く、丹鳳は杳として、夢魂は夜として関山にあらざるはなし。いづれの日にか了るべき、了るべき[65]。つねに錦の被に包まれ、綺窗[66]に嘆き、画楼に瞳を凝らすなり。
（小旦）お姐さま、母上さまがお呼びですから、会いにゆかれねばなりませぬ。（見える）
（正旦）母上、わらわを呼ばれて、どのようなお話しでしょうか。
（卜児）娘や、おまえを呼んだのは、相談があるからなのだ。年若いうちに、良い婿を、おまえのために捜すのを、どう思うかえ。
（正旦が唱う）
【迎仙客】老尊親は考へを誤られたり。操を失ひたる罪を逃がるるは難きことなり。くはへてわらはは年若し。
（言う）思えば、雁は雄雌の一対があり、片方が死ぬとふたたび群に入らずに、ながく孤雁となりまする。
（唱う）婿を取り、ふたたび婿を求むるは、人たるも鳥にさへ及ばざるなり。母上さま、お考へあれ。
（言う）わたくしは宰相の家の女、ふたたび人に嫁ぎましたら、
（唱う）世間の人に笑はれんことを恐れん。
（言う）忠臣は二君に仕えず、烈女は二夫を更ふることなし。（唱う）
【紅繍鞋】一つには、先王の礼教のあればなり。二つには、唐宰相の根苗なればなり。
（卜児）今日、従わず、ふたたび後悔することがないようにおし。
（正旦が唱う）弦は絶ゆれど、鸞膠[67]を覓めんとする心なし。
（卜児）夫の消息を待とうとするのか。
（正旦が唱う）芳心は玉杵[68]を懸けて、旧約は藍橋にあり[69]、ああ、わたし雲英は、などか嫁がん。
（卜児）父上は、彩楼を組み立てて、おまえには、金哥とともに、佳い連れ合いを求めさせようとしている。おまえは金哥の姉だから、まずは尋ねることにしよう。ほんとうに操を守る心があるなら、やはりおまえに従おう。おまえには、金哥を連れて彩楼に登り、繍球を抛たせるが、どう思うかえ。
（正旦）母上の仰ることはご尤もです。
（言う）ならばおまえと金哥は盛装しておくれ。
（正旦）妹は盛装すれば、ますます美しくなりましょう。（唱う）
【普天楽】玉娉婷は、あらたに髪を梳けるなり。曲弯弯たる柳の眉は、薄き青。香馥馥たる桃の臉は、嬌やかな紅。腰肢は一捻の軽さ、挙止はいとも俏し。画像なりとも、花にも似たる貌を描き得ず。麗しきさまには三つの喩へあり。
（卜児）いかなる三つにございましょう。
（正旦が唱う）若耶溪にて、西施は瓢に戯れて、九龍池にて、玉環は闘草[70]して、鳳凰台にて、秦女は簫を吹きたりき。
（言う）夫人[71]、お嬢さま[72]を楼に登ってゆかせます。
（卜児）老旦那さま、わたしはひとまず後堂に戻ってゆきます。（先に退場）
（正旦が小旦を連れて楼に上る）すばらしい彩楼だ。（唱う）
【上小楼】この彩楼は、百尺の高さあり、勢は、南山と北岳をしぞ圧したる。六曲の闌干に、四面の簾櫳[73]、一片の旌旄。彩扇[74]は交はりて、錦帳は飄り、金珠は錯落。嬌滴滴たる香はしき風の裊ひ、玉人の来んことを待ち望むなり。
（小旦）お姐さま、わたしを扶けて、彩楼に上らせてくださいまし。
（正旦が唱う）
【幺篇】人の扶くることを倩ひ、玉の梯を登るなり。天仙の九霄を下れるかのごとく、蘭麝は氤氳、環珮は玎璫たるなり。繍幕は飄飄として、備へして、長安の年少を待ちたれど、かの新しき状元に、いかやうの風韻のあるやを知らず。
（外が鼓楽を奏で、二状元を迎える）
（正末）われら二人の兄弟は、文と武の状元と成り、本日は誇官[75]している。こちらはいかなる家であろう。彩楼を組み立ててある。
（正旦が唱う）
【脱布衫】香はしき風を噴き、葡萄は鼻を撲てるなり。青き天に挙がれるは耳にとよもす笙と簫。翠の袖と金の釵は両行列なり、光綽綽と従人はきそひて導けり。
【小梁州】煙は金炉に裊ひて、宝篆[76]を焚き、雲錦[77]の衣の飄れるに傍ふ。群仙は連れだちて青霄をしぞ下りたる[78]。いそいで取り次ぐ。蝶躞[79]として馬蹄は遙けし。
（言う）妹や、状元が来た。（唱う）
【幺篇】雀屏[80]と銀燭は輝きて、芙蓉の刺繍の褥を敷けば、光は揺れぬ[81]。かさねて楽を奏づれば、人は歓び、笑まふなり。六街は騒がしく、春色は仙桃に酔へるなり[82]。
（任が正旦を見、眼で合図する）
（正旦）見よやこの状元は、瓊林の宴に赴く。（唱う）
【石榴花】状元は、かすかに酔ひて、鞍轎に拠り、猩血[83]の宮錦[84]の袍を着けたり[85]。轡を緩むれば、玉驄は、風に嘶き、驕るなり。たちまちに頭を抬げ、多嬌を見る。
（小旦が繍球を抛って退場）
（正旦）繍球にございます。
（任継図）山妻は、行方が知れない。富貴を貪るのであれば、不義の人だ。（受け取らない）
（正旦が唱う）状元は、玉鞭をたかく振り上げ、躊躇ふがごとくして、受けんとするも、抛てり。かのひとが断るのなら、ほかにかの英豪に中てずばならず。
【闘鵪鶉】ふたたび鳳友鸞交を訪ひ、文と武の強き弱きを分かつことなし[86]。
（正旦が外を見る）
（唱う）ただ要するは、愛しき女と賢しき郎の、もろともに誼を徒にせざること。福分のありしかば、まずは春風翡翠の巣をぞ奪ひたる[87]。
（小旦が花状元に中て、絲鞭を渡す）
（正旦）妹や、後ろの状元は絲鞭を受け取られました。
（唱う）美しき姻縁は天の巧みなお計らひ。錦片の前程を成就せり。とことはに、ともに歓び、老いに到らん。
【耍孩児】歓声は沸き易し、長安の道。当今の貴豪は志を得り。小登科して、大登科して[88]、栄誉を広め、皇朝に喧伝せしめり。学問は身の宝にて、書読む人のもつとも優れたることをはじめて知れり。宮花[89]をななめに烏紗帽[90]に挿し、紫の袍は身に昵み、金の帯は腰に垂れたり。
（末が旦を指す）この婦人はほんとうに妻のようだ。
（旦）この状元はほんとうによく見た顔だ。（唱う）
【三煞】かの状元は、意は遅遅として[91]、玉鞭を打ち、眼を転ぜずに見たるなり。
（言う）この状元はわたしの夫だ。
（唱う）ぽろぽろと涙の滴は頬に落つ。かのひとの顔はまことにわが実の夫に似たり。相親まんとしたれども、見違ひたるを恐るれば、はつきりと言はんとはせず、かのひとは、真の心で、われをや認めたまひたる。ことさらにからかひたるにや。
（それぞれ合図する）
（正旦が唱う）
【二煞】この状元は、ゆるゆると、鞭を加へて、玉驄を催せるなり。かの状元は、ことさらに徘徊し、宝鐙をば踏みたまふなり[92]。わたくしは、欄に倚り、目を極め、しきりに眺めり。老天の離人の苦しみを念はれて、この日、街にて相会はせたまひたるにや。
（任がじっくり確認する）
（正旦が唱う）かの状元は、行くに臨むも、金の鞭をぞ裊らしたまひし。かのひとは、口に誦へて、心に思ひたまふたり[93]。
（言う）妹や、下りてゆき、父上と母上に会いにゆこう。（唱う）
【煞尾】つばらかに、父母に告ぐべし。よかれあしかれ、かれらの思ひに従はん。かの状元は、おそらくは、張京兆。逢ふを得ば、黛をしぞ掃ふべき[94]。（ともに退場）
第四折
（牛尚書が夫人とともに登場）姻縁、姻縁、事は偶然にはあらず。本日、文武の状元が遊街し、金哥には彩球を抛たせ、絲鞭を渡させることにした。まずは文状元に中てたが、文状元はしばしためらい、鞭の先で繍球を遮った。二番目は、武状元に中て、絲鞭を渡し、佳い連れ合いと相成った。義女雲英は、老いぼれに、文状元がかれの夫と同じ顔だと言っていた。その状元は、雲英を見て、おたがいに恋恋として、馬を停め、確認するかのようにして、怏怏として立ち去った。思うにこれは容易いことだ。今日は吉日、状元を家に迎えて、金哥と結婚させるとしよう。あの文状元を招いて、客を送らせて、席上、雲英を出てこさせ、挨拶させれば、事情が知れよう。左右のものよ、どこにいるのだ。盛大に宴を設け、状元を家に呼ぶのだ。（迎える）
（任継図が登場）わたしは任継図、一挙に及第。昨日、武状元どのが遊街したとき、牛尚書家のお嬢さまが、彩楼の上で繍球を抛って、わたしに中てた。わたしは妻を失って、行方の知れないことを思って、繍球を遮って、馬に鞭打ち、過ぎさった。この後、武状元に中て、結婚を成就した[95]。あの日、わたしは楼上の一人の娘を望み見たのだが、ほんとうに、失った妻のようだった。その娘もわたしを見、慕わしげにすることをやめなかった。四つの眼で見つめあい、おたがいに確認をした。思うにあちらは牛尚書さまのお屋敷だから、軽率なことはできないし、人違いである恐れもある。本日は、尚書さまがわたしを招き、客を送らせ、花状元どのの相手をさせる。左右のものよ、馬を繋げ。
（正旦が登場）今日は金哥が結婚し、状元が家に来る。父上はわらわを呼ばれ、挨拶をさせようとしていられるから、ゆかねばならない。（唱う）
【双調新水令】華堂にて、褥は刺繍の芙蓉を隠せり。錦のやうに桃源の仙洞を妝ひ成したり。この状元は、簪花[96]して玉殿の前に在り。かの状元は、月宮に桂を折れり[97]。孔雀の屏風[98]、本日はすでに合格したるなり。
【駐馬聴】羽を和して、宮を流して[99]、一派[100]の笙歌は太空に徹り、龍を烹て、鳳を炮き、満堂の羅綺は香はしき風は藹めたり。思へばそのかみ、雲英は広寒宮に到ることなく、裴航は遊仙の夢を作せるも徒なりき[101]。本日は藍橋に路は通ぜず。玄霜[102]玉杵も何にかはせむ。
（正旦が任と会う）（背を向ける）この状元は、ほんとうにわたしの夫のようだ。（唱う）
【喬牌児】嫣然たる一笑の中、ひそかに幽情を送れり。かのひとは、顰を含み、語ることなく、肩を聳て、宝帯を推して緩めり。
（任継図が小声で問う）妻よ、なぜこちらにいるのだ。
（正旦）やはりわたしの夫であったか。（唱う）
【沈酔東風】兵戈のために、驚き、恐れ、夫妻は拆かれ、断梗飄蓬[103]。鴛の枕に泣きて、鳳の衾にぞ悲しみし。こなたにて、また逢はんとは、誰か知るべき。相見ゆるも夢の中かとなほも思へり。万種の凄凉に耐へたりき。
（牛尚書が怒る）状元どの、おんみは書を読む人であるのに、なにゆえ礼を弁えられぬ。娘は裙釵女流であるのに、おんみといかなる縁故があるのだ。
（任が旦とともに跪く）わたしがひとりで西蕃に赴いたとき、安禄山が乱を起こして、京師を破り、妻李氏は捕らわれて、行方が知れませんでした。秋、大慈寺に宿泊し、科挙の受験を待っていたとき、壁で詞を唱和されたのですが、妻の作ったものでした。わたしはさらに回廊で、梧桐の葉を拾いましたが、葉には詩が書かれており、これもまた妻が作ったものでした。錦の嚢にそれを收めて、懐につねに所持しておりました。お屋敷に引き取って頂いていたとは思っておりませんでした。ご恩は報い難いものにございます。
（牛尚書が正旦に問う）なにゆえに寺に行き、詞を唱和した。
（正旦）母上に従って、お参りに行き、壁の字が、夫が書いたもののようでしたので、唱和したのでございます。
（牛尚書）梧桐の葉に書かれた詩はあるか。
（正旦）かつてはございました。
（任継図）どうしてこちらにやってきたのだ。
（正旦が唱う）
【川撥棹】思へばそのかみ、恨は衝衝[104]。乱離の間に財産は空しくなりて、浪迹浮踪に、水は遥けく、山は重なり、槍の尖と剣の鋒を逃がれ出でたり。大恩人の鄭重にせられしに謝す。
（牛尚書）そなたは娘であるというのに、なにゆえ梧桐の葉の上に詩を題したのだ。そのうえかように奥深い屋敷から、なにものがそなたのために手紙を届けに出ていったのだ。その時は、そなたは状元どのの行方を知らなかったのだから、裏にはきっと別の事情があるのだろう。
（正旦が唱う）
【七弟兄】かの日はまさに女功して、手に繍の絨を撏りしに、画楼の中にて、遥けき院に琴を三たび弄づるをふと聴きしなり。離別せる鸞鳳は匆匆たるを悲しみて、双すぢの涙を垂れて、郷心の動けるを抑へ得ざりき。
【梅花酒】欄杆に倚り、断鴻を数ふれば、狂ほしき風は起こりて、梧桐を吹き落としたり。飄り、簾櫳に入りたれば、手づから一首の詩を題し、別れの恨をその中に書き、家郷の信の通ぜざりしかば、詩を題し、天公に告げ、雁帖に替へ、魚封[105]に当たらしめたりき。風は巻き、長空に入り、南北と西東に行くに任せり。
【收江南】ああ。われは、風の吹き、一たび去りて、杳として踪なかりしは、紅葉に題し、深宮を出でしめたるに似ると思へり[106]。涙の痕は、墨痕の濃きに映え、この朝、ふたたび逢ふを喜びて、昨の宵、夢魂に君とともにせしことを思へり。
（牛尚書）姻縁により、会ったのならば－偉そうにするわけではないが－今までわたしが屋敷に引き取り、女としたのも、天の数だ。そうしなければ、兵馬が荒れて乱れるなかで、かならずや、追われるか、捕らわれるかしていたであろう。わたしはおんみの舅にもなれるであろう。花状元とともに東床にして、おんみらを団圓させ、盛大に宴を設け、祝いの筵席と致そうぞ。
（衆が拝礼する）
（正旦が唱う）
【鴛鴦煞】凉けき宵に、衾枕を共にする人はなしやと思ひしに、誰か思はん、洞房花燭に笙歌もて送られんとは。楽しき事は重なりて、喜びの気は和らげり。げに人と月は円かに、魚と水は睦むなり。ふたたび挙案齊眉[107]して、老ゆるまで相仕ふべし。この一葉の梧桐がなくば、半世の夫妻の旧き恩愛を失ひたりけむ。
（任継図の詩）夫妻の操を守りしことは憐れむに堪ふ、義に仗りて、恩を施したりしかば、宰相こそは賢けれ。金榜[108]に名を掛けて、二人して及第し、洞房花燭に二人して団円せり。
最終更新日：2010年11月10日
