巻四
○畜異(六則)
包遅勿は、杭州の諸生で、雲棲僧舎で勉強していた。ある日、天が明けようとし、戸にぶつかる音を聞き、開いて見たところ、一頭の老牛であった。膝を屈して包に向かい、叩頭して止まなかったが、まもなくして肉屋が追って来た。そもそもこの畜生をその晩に屠ることになっていたのであった。包の祖父、父はいずれも戎官[1]で、もともと雲棲蓮池師に礼拝し、仏戒を保って貧しくなっていたので、醵金してそれを贖ってやり、それを雲棲の放生所に属させた。
康熙癸未、浙東の農家で牛が一匹の麒麟を産んだが、全身は牛のようで、四膀[2]にだけ鱗甲があり、甲の隙間から毛を生じていた。
唐蒼蘇は、杭州の諸生で、多才で、庠序で有名であった。康熙丁丑に病死したが、家人の夢に現れ、言った。「わたしは白蓮寺[3]の僧および王小姑の事により、冥司で罰せられて豚に変わり、某地の腐翁[4]の家にいる。」その家は贖って帰り、それを養った。
蘇州のある書生は、国法に明るく、冥王の官署で判司[5]となっていた。生は僧寺で勉強し、数人の書生とともに住んでいたが、しばしば招かれていた。招かれる時はにわかに倒れ、しばらくしてはじめて甦るのであった。中の一人の友人は、性質が軽薄で、ひそかに生に祈った。「また招かれた時、わたしを連れて旅されることを願います。」生は笑い、「招かれても、わたしさえ気づかないのですから、どうしてあなたの行いを知ることができましょう。」と言って断ったが、友人はさらに言った。「わたしを連れてゆかれないなら、計略があります。」ある日、倒れるのを待ち、寝室で首を吊ったが、まもなく生は蘇ったものの友人は甦らなかった。家人はその事を知り、群がって生に向かって騒ぎ、左道が人を殺したと思い、かれを官署に訴えようとした。生は困り、やはり首を吊り、冥土に入って王に尋ねたところ、王は驚いて言った。「おまえを招く用事がないのに、なぜ来た。」生がそのわけを述べると、王はかれを探すように命じ、数人の青衣に、急いで生とともにゆくように促し、言った。「檄が来たものでなければ、関に入れないから、関の外でかれを探すべきだ。」そこで関を出て高くその名を呼んだが、見つからず、道で徘徊し、一人の飯を売る老婆にわけを尋ねたところ、こう言った。「昨日、下役某が、豚に生まれ変わる囚人七名を護送して関を出ましたところ、判司さまを訪ねる一人の書生に遇いました。一人の犯人が金をその下役に授け、交代してゆきましたが、もしやその者ではございませんか。」そこで帰って王に告げた。王は護送官を招き、取り調べて真実を知ると、生に言った。「そのものは誤って崑山の某家の豚の胎内に入ってしまった。先生は急いで帰り、その地にいって贖い、擲って殺せば、かれはおのずから甦ろう。しかし着いた時は最初の出産だ。七番目の豚で、灰色のものがかれだ。」生は甦ると、人々に事情を告げ、夜の間に旅装を整えてゆき、教えの通りにしたところ、その友はほんとうに甦った。しかしそれから冥土にも招かれなかった。
康熙丙申夏、軍の厨房で豚を屠ったところ、腹に四匹の子豚がいたが、その一匹はたいへん異常で、猴の顔、象の鼻、声も猴のようであったので、それを殺した。
その年の春、杭城で一匹の豚が産まれたところ、全身に異常はなかったが、前後が人の手足であった。
○灰で慈像[6]を作ること
吏部侍郎阿爾稗の家で一子が疱瘡になったので、父母は香を焚いて祈り、香の灰で観音像を作り、三日で死んだ。
○さらに畜異(二則)
新安の李某は槜李[7]の新城鎮[8]で塩を売っていた。隣家に狗がおり、しばしば人を傷つけていたので、主人はそれを殺そうとしていたが、李は匿い、勧止してやった。さらに数日すると、狗は一つの紙包みを銜え、李の前に置き、尾を振って去ったが、見ると中に銀一両があったという。(菊公は言った。「この狗は黄雀とともに伝えることができ[9]、命を救ったのに仇で報いるものがいれば、この狗にとって罪人か。」)
国初、杭州の人張世祥の家で一羽の鶏を屠ったところ、肋に「李林甫[10]」の三字があり、字は青色で泥のようであったので、その家はそれを棄てて食べなかった。その時、徐上謂先生がかれと隣人で、徐の父楚白翁が見ることを求め、訪ねるものは市のようであった。銭塘の知事何玉如はそれを聞き、やはり取って見た。(菊公は言った。「わたしがこの鶏を得れば、しっかり調理し、美酒の肴にし、二三人の知己を招き、『唐史』の天宝の時の事を取り、ともにそれを読み、林甫の悪事に遇えば、一臠を食べ、大杯を飲み干せば、何とも愉快でないか。」)
○妖鬽(六則)
康熙丁卯、銭塘の木商金晋揆の家で妖が興り、空中に石を飛ばしたが、曲がって人を傷つけないことができ、施錠した器のものを、出すこともできた。大きな鏡を甕の中に入れたが、甕の口はたいへん小さく、どんな術で入れたか分からなかった。
塩商王有陶は、巨軀で体重は三百觔、一人のしもべが塩引[11]を齎すために製塩場にゆき、夜に黄天蕩[12]の東を通ったところ、道で一人の男に逢ったが、漆角[13]の襆頭[14]を被り、頭に深絳[15]の衣を着け、沢の傍らに立っており、体を曲げてしもべに揖し、沢に入った。しもべは知らぬ間にすでに水に達しており、昏い月が波に浸り、月の光が反射していた。しもべは突然はっとし、さらに懐中の塩引を湿らせて傷つけることを心配し、すぐに手を入れ、それを出すと、その怪は畏れることがあるかのようにし、はじめて隠れた。村人が叫ぶのを聞いて助けてくれたので免れた。
芝松里柴垛橋[16]の民が夏の夜に熱さに苦しみ、軒下に臥していたが、眠りが覚めると、犬たちが争って東に向かって吠えていたので、すぐにそちらを見ると、何物かが河向かいの楼の簷の上に坐しており、足を河に垂らしていた。目は碗ほどの大きさで、牙は唇の外に出、両の掌は箕ほどの大きさで、犬を振り返って笑っていたので、臥していたものたちはたいへん驚いて逃げた。
雲林寺[17]西峰石筍庵[18]の僧が夜に歩いていた。月は白く、昼のようであった。天竺[19]の道中で一匹の怪に遇ったが、身長は丈五、藍[20]の半臂[21]に、草履を着け、巨竹を梃とし、月光に乗じて舞っていた。僧はすぐにゆき、振り返らなかったが、怪も林に入って去った。
順治庚子、芝松里[22]の楊家に怪がいた。その広間の前に沢蘭[23]二盆が置かれ、左廂院の中に古梅樹一株があったが、ほんとうに百年の物であった。夏の夜、月が明るくなるたびに、裸体の怪が梅の下から出、惨紅[24]の羅襦[25]を掛け、蓬鬢凸睛[26]、短悍精捷[27]、広間に入って跳躍して止まず、出ればかならず沢蘭を肩に挙げ、家の下に飛んでゆき、人の声を聞くと、蘭を元の所に置き、盆を落として音を立て、見えなくなった。月が明るくなるたびにかならず出、出ればかならずこのようであった。楊氏はそれを嫌に思い、梅の精と思い、それを伐り去ったが、絶つことができなかった。
上高[28]の知事范偉男は仕官する前、山中で勉強していた。ある晩、公が臥していると、月光の中、楼の瓦の上に突然何かが落ち、身を翻して[29]一人の老翁となった。黄褐[30]を着、道巾[31]を着け、布履はあまり長くなく、楼の中で袖を揚げれば、旋風が起こり、転じて止まなかった。公はすぐにかれを捕らえると、一つの石の球を得たが、五色は燦然とし、たいへん美しかった。公は火でそれを焼いたが、今でもまだ残っている。(菊公は言った。「姿が道装だったのだから、きっと古人が遺した丹だ。砕いてそれを食べれば、きっと益があったはずだ。惜しいことだ。」)
○珠(二則)
康熙丙戌、海寧の城南で、雨が草の間を過ぎるとみな珠を生じ、見れば累累然たる珠であった。光華は陸離としており、それを拾い、すぐに砕くと、中は水だけであった。
一人の水夫が夕方舟を泊めたところ、崖の上で火の光が月のように動いて定まらなかったので、戯れに篙でそれを刺したが、見ると一匹の大きな蛇であったので、驚いて逃げた。火は草の中に留まって動かず、臨検すると一つの大きな珠を見つけ、直径一寸ばかりであったが、そもそも蛇が吐いたものであった。
○銀(三則)
杭州清泰門[32]の典庫の主管某は、一生かけて銀四十゚を貯蓄し、暇があればそれを取って弄んでいた。ある日、匣の中で音がして止まなかったので、開いて見ると、すべて蝦蟆に化していた。
康熙初年、魚屋甲がおり、五鼓に歩き、烈帝廟を通り掛かると、朱門が半ば掩われ、燈火が熒熒としており、ひそかに見ると、紅袍束帯のものが上座に臨み、小吏十余人が銀鋌を運んでそれを数えていた。鋌は積もって屋梁に達しており、数千万に近かった。甲は驚き羨んで門に入り、叩頭哀願すると、紅袍のものは一鋌を与えるように命じた。甲はふたたび哀願叩頭して益を求めたが、できなかった。冊籍を持った吏が前に走って来て耳うちすると、紅袍のものは笑い、さらに一鋌を与えた。甲は奇遇を得たので、戻って湯餅[33]の店に入り、食事していると、懐中で物が蠢くのを覚えたので、驚いて探ったところ、一匹の大きな蝦蟆だったので、溝の中に棄てた。まもなく、さらに動いたので、それを探ったところ、ふたたびそうであった。甲が大いに失望し、燈下にぼんやり坐っていると、同業者乙が店を訪ね、甲を呼んで言った。「天が明けようとしているのに、どうしてこちらに坐っている。」甲はかれに事情を告げたが、乙は信ぜず、溝の中を探ると、すぐに二鋌が出て来たので、はじめて冊籍を持った吏が耳打ちしていたのは、そもそも一つを付け加えて乙に贈ることであったのに気づいたのであった。二子は欣然として、それぞれ一鋌を懐にして帰った。
汪貞木は、杭州の諸生で、芝松里に住んでいた。夜に青い火が屋内から出ていたことがあったので、宝物があると思い、兄弟家人を集め、そこを発掘したが、一丈余に達しても何も見えず、一つの石が見つかっただけであった。長さは六尺余、青瑩[34]光潔[35]で、石の案を作ることができたが、水をそれに浴びせると、一体の屍の影が上に横たわっていた。家に乩壇があったので、人々がそれについて尋ねると、乩は詩を示して言った。「此疾我能く知る、二人心茲に在り。亡魂唯小女なるのみ、相見ゆるは是心期[36]なり。」末尾にさらに「方孝孺」の三字を大書すると、乩は寂然とした。人々は詩意に気づかず、さらに一枚の仙符で招くと[37]、乩が動いて言った。「わたしは伭女さまの侍香吏です。」方の詩を見ると、大いに笑い、大書した。「はは。これは正学先生があなたがたを謗っているのです。」言葉に「痴念妄想」の四字が含まれています。(思うに、汪の住まいは、佑聖観の裏の空き地であり、実は宋の中宮であった。宮女が罪を得て死に、石で圧せられていたので、この影があったのかも知れない。青い火はまさに燐火であった。仙の詩を玩味すると「亡魂唯小女なるのみ」とあり、「妄」の字を含んでいるが、そもそもこの事情をも示しているのである。)
○又虎
魏塘[38]の銭廉江が江右に旅した時、一人の半面の漢に遇ったことがあったが、そのわけを尋ねると、語るには、若い時、山に入り、虎に遇い、それに追われたので、すぐに一本の大樹に縋ってそれを避けた。虎は樹の根を齧り、流血するに至ってはじめて止んだが、なお蹲ってじっとして去らなかった。しばらくして、樹の顛から突然一本の絲がかれの顔面に落ちて来たが、たいへん冷たく、すぐに手でそれを摩れば、血が流れ、襟を濡らしており、かれの半面の肉はすでにすべて消えていたのであった。下ろうとすると、虎はまだ牙を砥いでやまなかったので、懸命に樹の顛に昇り、それを観察したところ、その物は斗ほどの大きさで、翠色、身は丸く、耳目手足はなく、口を開ければ真っ赤で、口の中の一本の絲が顔面の肉を包んでおり食べ尽くしていなかったので、その人はひどく慌てふためいた。さいわいもともと勇力があったので、大きな枯れ枝を折ってすぐにそれを押すと、物は地に落ちた。虎は飢えており、人を待っていても得られなかったので、それを吞んだが、たちまち地を転げ回って死に、人は無事であることができた。(菊公は言った。「かれが危うかった時は、『前に進めば敵に殺され、後に退けば法に死ぬ』[39]ということではないか。物は人を傷つけようとして結局虎に殺され、虎は人に満腹しようとしてかえって物に殺されたのは、天道ではないか。世にこのようなことは多い。どうして異類だけであろうか。」)
○又龍
龍井は、西河[40]の西に位置し、龍がそこに住んでいた。呉の葛稚川[41]はここで煉丹していた[42]。明の正統年間、宦官李徳が龍井に旅した時、旱であったので、人にそれを浚わせたところ、鉄牌二十面、玉仏一像、金銀それぞれ一鋌[43]を見つけたが、上に「元豊」 の字があった。次に一つの石を見つけ、八十人でそれを出したが、奇怪で突兀としており、高さは六尺ばかりで、「神運」の二字が彫ってあった。その後、さらに鉄牌十五、銀二条を見つけたが、上に「赤烏」の年号があった。そもそもみな龍に投じて雨を齎してもらったものであった。
○伯噽の首級
康熙丁丑、金叉袋港[44]の北の民家で地を掘ったところ、一つの髑髏が見つかったが、斗ほどの大きさで、傍らに一つの石があり、中に四つの篆字で、「伯噽の首級」とあった。
○火の夢
康熙辛酉、杭州忠清里の人が夢みたところ、八人の囚人を門で殺していた。翌日、その忠清里で大火があり、延焼してかれの家の門に達して止んだので、はじめて「八人」が「火」であったことを悟った。
○誇天曲
山東の士人某は、言うことが誇大であることが多く、もともと知識がなかったので、人々はかれを笑うことが多かった。以前、大樹に言及し、言った。「わたしの村のある樹は、大きさが計り知れませんが、そもそも四千年の久しきを経ています。」いつの時代のものか尋ねると、言った。「趙宋の時のものであると伝えられています。」聞いたものは絶倒した。物好きはかれの平生の話を纏め、集めて一曲にし、『黄鴬児』といい、話柄としたという。曲にこうあった。「宋樹四千年、熟楊梅朱陳県[45]、一驢日走ること三千站。十套史全く、百觔鯉鮮し、三千馱子金剛鑽[46]。更に誇る天賊[47]の来りて餅を食ふに、一頓打つこと三千なるを[48]。」
○塔の影
嘉禾[49]の東塔寺は、漢の朱買臣の旧宅で[50]、中に墓があり、相家蕩[51]から十里ばかり、人が塔を見なくても、水が塔の影をたいへん明るく映し、七層がくっきりとすべて現れていた。
[1]軍官のことであろう。
[2]未詳だが四肢の付け根の部分であろう。http://xh.5156edu.com/html3/14094.html
[4]未詳だが豆腐屋の老翁であろう。
[6]話の内容からして観音像であろう。
[7]https://baike.baidu.com/item/%E6%AA%87%E6%9D%8E古地名。今の浙江省嘉興市一帯。
[9]『捜神記』にある、黄雀の報恩譚を踏まえた句。
[11]https://baike.baidu.com/item/%E7%9B%90%E5%BC%95/3422978塩引は「塩鈔」とも称し、塩を得る証券、貨幣の代用として流通できた。
[13]原文同じ。未詳。襆頭の脇に突き出た角状の部分に漆が塗られているのか。
[16]https://www.google.com.hk/search?hl=zh-CN&source=hp&biw=&bih=&q=%E6%9F%B4%E5%9E%9B%E6%A9%8B&gbv=2&oq=%E6%9F%B4%E5%9E%9B%E6%A9%8B&gs_l=heirloom-hp.3...1650.1650.0.2017.1.1.0.0.0.0.73.73.1.1.0....0...1ac..34.heirloom-hp..1.0.0.zRykZoJfAk8
[20] 青い絹。
[24]色の名称と思われるが未詳。
[26]ぼさぼさの鬢と突き出た目。
[27]未詳だが短躯で敏捷・精悍なのであろう。
[29]こちらに適切な語釈なし。訳文の意であろう。
[34]https://baike.baidu.com/item/%E9%9D%92%E8%8E%B9青くて透き通っていること。
[41]https://baike.baidu.com/item/%E8%91%9B%E6%B4%AA/28958?fromtitle=%E8%91%9B%E7%A8%9A%E5%B7%9D&fromid=1639430
[42]https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=169340&searchu=%E6%96%B9%E5%A3%AB%E8%91%9B%E6%B4%AA%E5%98%97%E9%8D%8A%E4%B8%B9%E6%96%BC%E6%AD%A4
[44]「港」は「巷」の誤字であろう。https://www.google.com.hk/search?q=%E9%87%91%E5%8F%89%E8%A2%8B%E5%B7%B7&safe=strict&hl=zh-CN&gbv=2&oq=%E9%87%91%E5%8F%89%E8%A2%8B%E5%B7%B7&gs_l=heirloom-serp.3..30i10.48555.49443.0.50220.7.3.0.4.0.1.538.729.1j1j5-1.3.0....0...1ac.1j4.34.heirloom-serp..6.1.82.ydHc_f7IKDc
[45]原文同じ。まったく未詳。
[48]原文「更誇天賊來吃餅、一頓打三千。」。未詳。