包待制智賺生金閣雑劇
武漢臣撰
楔子
（冲末が孛老に扮し、卜児、旦児、正末郭成とともに登場）（孛老の詩）せはしなき光陰は水の流るるごとくにて、やすやすと少年の頭を白くす。月は十五を過ぎぬれば光明少なく、人は中年に到りなば万事休せん。
老いぼれは郭二ともうし、蒲州は河中府の人だ。四人家族で、女房は王氏、息子は郭成、嫁は李幼奴。わたしの息子は、幼いときに、経史を習い、満腔の文章を学んだが、わたしはどうしてあのものを受験しにゆかせないのか。わが家は代々、役人をしたことがなく、この福分がないことを恐れるからだ。百姓仕事を続けたほうが、むしろ栄辱がないだろう。ところが息子は、たまたま悪夢を見たために、開口霊という、占いの先生を訪ねていって、まるまる一分を要求された。そのものはこう言った。「この卦には、百日の血の災がありますが、千里の外に行きさえすれば、避けられます」と。そのため、連日、顔には憂えを帯びている。どうしたらいいだろう。
（卜児）息子や、諺に言う。「陰陽は信ずべからず、信じなば肚は悲し」[1]と。信じてどうする。
（正末）父上、母上、かれは開口霊といい、占えば、その験がないことはなく、当たらぬことはございませぬ。わたくしは、嫁を連れ、ともに都に行こうと思っておりまする。一つには、功名を得んがため、二つには、災難を避けんがためです。どうか父上、お許しくださいますように。
（孛老）息子よ、行こうとするのなら、そなたに宝を与えよう。官職を得られれば、それでよし、官職を得られないなら、ご先祖さまが三代にわたり残された、生金閣を持っているから、持ってゆき、この生金閣を頼りにし、官職を得て戻ってくるのだ。
（正末）父上、お見せくださいまし。
（孛老）女房よ、持ってくるのだ。
（小道具を持つ）おじいさん、これにございましょう。
（孛老が受け取る）息子よ、これが生金閣だ。
（正末）父上、この生金閣は、いかなる取り柄がございましょう。
（孛老）息子よ、そなたは知るまいが、この生金閣は、風のない処に置けば、仙音は嘹亮として、風がないなら、扇であおげば、やはり同じように響くのだ。ほんとうに宝物だぞ。
（正末）父上、さようなことは信じませぬ。お見せください。
（孛老）息子よ、信じないのなら、わたしが扇であおぐから聴くがよい。（扇ぐ。響く）
（正末）すばらしい宝物だ。女房よ、しまうのだ。今日は吉日。父上と母上にお別れし、長旅に出ねばならない。（別れる）
（言う）息子よ、旅路では気を付けるのだぞ。
（正末が唱う）
【仙呂賞花時】一つには、受験のために京師にて科場に赴かんがため、二つには、遠い他郷に赴きて禍殃を避けんがためぞ。
（卜児）息子よ、われら母子は、今日別れれば、いつの日に会えるやら。京師に着いたら、気を付けるのだよ。
（正末が唱う）老いたる父母にお別れす。みづからを誇るにはあらざれど、富貴を得ずば、ほんとうに故郷に帰ることはなからん。
（正末が旦とともに退場）
（孛老）息子は行ってしまったわい。われら老夫婦は何事もない。ひたすら門を閉ざして日々を過ごせばよかろう。
（詩）離別の苦には耐へ難く、平安の音を寄せられんことを望みたり。千丈の綫はなけれど、万里に人の心を繋げり。（ともに退場）
第一折
（浄が龐衙内に扮し、従者を連れて登場、詩）第一の花花太歳、世に並びなき浪子喪門。名を聞けば脳も痛む、権勢を持つ龐衙内とはわれぞかし。
わたしは姓は龐、名は勛といい、衙内[2]の職に封じられている。権勢が盛んな家、代々の簪纓[3]の子だ。わたしは位が卑しいことを嫌えば做らず、馬が痩せているなら騎らず、人を打ち殺しても命を償わず、一人の人を打ち殺すのは、蒼蝿を潰して殺すようなもの。ふだんから、貧乏な秀才は眼中になく、わたしが街で先払いを列ね、秀才がわたしの馬にぶつかれば、たちまちに打ち殺す。人さまの家に行き、良い骨董、良い器、琴棋書画が、そのひとの家にあり、わが家にないのを目にすれば、あの供の者たちに借りてこさせる。わたしは三日それを見て、四日目にそれを返して、壊しもしない。同僚の役人が良い馬を持っていて、わたしが持っていないなら、あの供の者たちに借りてこさせる。三日だけ騎り、四日目にそれを返して、壊しもしない。人さまが良い邸宅を持っていて、わが家にはないのを見れば、引っ越してゆき、三日だけ住み、四日目にそれを返して、壊しもしない。「その人を見る前に、僕を見よ」とはよくいったもの。二人の小者はわが腹心で、一人は張龍、一人は趙虎。わたしが心の中の思いを言い出さなくても、かれらはとうに知っているのだ。二人の小者はまことに賢い。しかしわたしは衙内ではあるものの、あいにく今まで、気に入った、良い女房を得ておらぬ。今日は紛紛揚揚と、一天の瑞雪が降っている。家に坐って酒を飲むのは、ほんとうに退屈だから、いますぐに、郊外の野に行こう。一つには、狩猟するため、二つには、雪見するためだ。小者たち、いささかの紅乾臘肉[4]、春盛担子[5]、雀鷂小鷂、粘竿[6]弾弓、花腿閑漢[7]をばうち揃え、さらに何頭かの従馬に鞍を置き、郊外へ狩猟しにゆくとしよう。（退場）
（丑が店員に扮し登場、詩）曲がれる竿に草稕[8]を懸け、緑の楊の影に琵琶をば撥きたり。高陽の若者[9]よ、むなしく過ぐることなかれ。尋常の酒売る家に異なりたれば。
わたしは酒売り。本日は、風は強く、雪は激しい。酒を買い、寒さを防ぐ人があろう。飲み屋を開き、燗鍋を熱くして、誰が来るかを見るとしよう。
（正末が旦児とともに登場）
（正末）わたくしは、姓は郭、名は成という。父母のもとを離れて、女房を連れ、功名を得ようとしたが、旅の途中で、凍天行の病に罹った。ようやくすこし良くなったのだが、ああ、なにゆえに、こんどは紛紛揚揚と大雪が降っているのだ。なにが国家の祥瑞だ。まさに旅するものの敵だな。女房よ、ひとまず元気を奮い起こして、急ぐのだ。
（旦児）ほんとうに激しい雪にございます。
（正末が唱う）
【仙呂点絳唇】わたくしは、口は嘆きて、腹は憂へり。家を離れて、はやくも一月余りなり。わが白髪は無数に増せり。
（旦児）秀才さま、古の不遇の人も、このような苦しみを受けたのでしょうか。
（正末が唱う）
【混江龍】前賢の不遇を思へば、われは阮嗣宗のごとく、窮途にて慟哭せるなり[10]。はやくも悟れり、かやうなる苦しみを受けたれば、われはまことに紫を衣て、朱を拖くことは望まじ[11]。日々書を習ふに慵く、日々つねに薬を服せり。われはやうやく足趾を移して、しひて身躯を整へど、滑七擦と転ばんとして、戦篤速とかやうに虞れり。ああ天よ。われは今まさに三十、われをして、路半ばにて、歩みを運ぶを学ばしむるや。
（旦児）秀才さま、頑張ってくださいまし。
（正末が唱う）ただ見るは、黯淡とせる雲の黑漫漫たる、模糊とせる瑞雪の白茫茫たる。
（旦児）秀才さま、このような大雪ですから、わたしとおんみで村を捜して、いささかの酒食を買って、寒いのを防いでもようございます。
（正末）そなたの申す通りだな。ただ、こちらには村はないから、とりあえず前方に行き、また見てみよう。（唱う）
【油葫蘆】乱紛紛たる絮綿は空にぞ舞へるなる。疏剌剌[12]たる風は乱れて鼓てるなる。寒凛凛たる長天を望みなば、一面の粉妝鋪。遠迢迢たる貧しき親故に遇ふを得ず。急煎煎[13]としたれども、荒れたる村を覓め得ず。わが身は単のみにして、腹には食らふものもなし。「書中におのづと千鍾の粟あり」[14]といふを得ず。
（旦児）秀才さま、このように体が寒く、お腹が空いて、どうしたら良いでしょう。
（正末が唱う）ゆゑもなく、むなしく努力をなししなり。
（旦児）秀才さま、帝都闕下に赴かれ、官職を得て、家柄を改められれば、この苦しみを受けましたのも、無駄にはならぬことでしょう。
（正末が唱う）
【天下楽】股を刺し[15]、髪を懸け[16]、書を読みたることを思へり。われははじめは、胸一杯に、万卷余りを藏せりと、みづから思ひたりしかど、春官[17]に上り、姓名を顕ししこともなく、皇家より俸禄を請ひしこともなし。ああ。むなしくも三冬を忍び[18]、苦しみを受け尽くしたり。
（旦児）秀才さま、このような吹雪ですから、あちらへ避けることにしましょう。
（正末）女房よ、こちらに来たが、見も知らぬ人ばかり、誰に身を寄せればよかろう。はるかに飲み屋が見えるから、とりあえず、あちらへ行って、吹雪を避けて、ゆっくり城に入るとしよう。（問う）店員よ、酒はあるか。
（店員）官人、中にお掛けください。お酒にございます。
（正末が旦児とともに店に入る）
（正末）二百長銭[19]の酒を漉してくるのだ。
（店員）かしこまりました。官人、お酒はこちらにございます。
（正末）女房よ、ゆっくりと一酒飲もうぞ。
（旦児）吹雪はすこし弱まりました。
（正末が酒を飲む）女房よ、ようやくすこし暖かくなったわい。
（旦児）秀才さま。わたしはおんみと故郷を離れ、こちらで酒を飲んでいますが、父母はいかばかり家でわたしとおんみを思っていることでしょう。
（衙内が従者を連れて登場）わたしは龐衙内、この郊外の野に来たが、すばらしい見晴らしだ。雪はますますはげしく降るが、雪のなかには、はるかに小さな飲み屋があるから、雪を避けよう。小者よ、酒売りを呼んでまいるのだ。
（従者）酒売りよ、衙内さまがお呼びだぞ。
（店員）はい、はい、はい。
（会う）わたくしは酒売りにございます。
（衙内）おいおまえ、おまえはわしを存じておるか。
（店員）わたくしは存じませぬ。
（衙内）このわしは、権勢盛んな龐衙内だぞ。
（店員）わたくしは、存じるようになりました。
（従者）こいつめ、はやく迎えにこないとは、打たれたいのか。
（衙内）小者たち、打ってはならぬ。そのものにきれいな座敷を調えさせて、幾杯か酒を飲むことにしようぞ。
（店員）かしこまりました。
（店員に正末）秀才さま、ひとまずあちらに避けられていてください。この旦那さまは、ほかの方とは違います。あのひとは衙内ですから、他人を殴り殺しても、命を償わないのです。この場所をきれいさっぱり掃除しましょう。（会う）旦那さま、座敷をきれいに掃除しました。
（衙内）おいおまえ、おまえにも福分があるのだな。わが片脚がおまえの家に来ればたちまち、おまえの家の九代の先祖はすべて天に昇るぞ。わたしはおまえの酒は飲まぬぞ。小者たち、わたしの酒を漉してきて、こいつに飲ませろ。
（従者）ほら酒だ。
（店員が酒を飲む）
（衙内）わたしの酒は、そなたの酒に比べてどうだ。
（店員が顔）このお酒は、わが家のものより酸うございます。
（従者）こら。
（衙内）その酒を漉してきてわたしに飲ませろ。
（店員）かしこまりました。お酒にございます。
（酒を飲む）
（正末）女房よ、この人はほんとうに贅沢だ。（唱う）
【金盞児】われは見る、かのひとの人と馬とのとよもすを。この人物は尋常ならず。一群の飛ぶ鷹と走る犬とは従ひて、貂裘、暖帽[20]、錦の衣服ばかりなり。門に排ぶる十二戟[21]、戸に列ねたる八椒図[22]をば見ざれども、見よやかの金牌に銅虎を懸けて、玉帯に銀魚を掛くるを。
（言う）女房よ、あちらはお偉いさまのようだぞ。この宝物をあのひとに献じれば、官職を得られない心配はないだろう。
（旦児）秀才さま、あのものは誰だか分からないのですから、良くないのではございませぬか。
（正末）大丈夫だ、あの店員に尋ねよう。店員さん、あちらはどなただ。
（店員）秀才さま、もうすこし小声でおっしゃい。おんみはご存知ございませぬが、あのかたは権勢のある龐衙内さま、人を打ち殺しても命を償いませぬ。あのかたのことを尋ねてどうなさいます。
（正末）あのひとが龐衙内なら、あなたに頼むことがある。
（店員）どのようなお話しでしょうか。
（正末）言いにいってくれ。こちらに一人の秀才がおり、珍しい宝物を持ち、大人に差し上げようとしておりますと。
（店員）良くないのではございませぬか。
（正末）構わぬよ。
（店員が衙内に会い、跪く）旦那さま、あちらには秀才がおりまして、宝物を旦那さまに差し上げようとしておりまする。
（衙内）そのものは、われわれの土地のものではないだろう。そのものは、このわしの性格を知らぬのか。わしは隠れることもない。そのものが会いたいのなら、来させるがよい。
（店員に正末）秀才さま、旦那さまがどうぞと言っていられます。
（正末が会う）
（衙内）秀才どの、どちらのお方か。ご姓とお名は。
（正末）わたくしは姓は郭、名は成と申します。
（衙内）いずかたに住んでいるのだ。
（正末が唱う）
【酔扶帰】わたくしは河中府に住まひせり。
（衙内）いかなる武藝を学んだか。
（正末が唱う）幼きときに、数行の聖賢の書を読みき。
（衙内）それならば、いったいどうして役人にならぬのか。
（正末が唱う）わたくしの運は拙きものなれば、天はお与へにはならず。
（衙内）ただの貧乏秀才であることは明らかだ。
（正末が唱う）あまんじて貧しき活路を守るなり[23]。
（衙内）家には、いかなる者がいるのか。
（正末が唱う）年老いた父母に別れたり。
（衙内）これからどちらへ行こうとするのか。
（正末が唱う）受験するため、まっすぐに梁園へまいります。
（衙内）このものは、受験しにゆこうというのか。わたしに会いに来たのには、どのような事情があるのだ。
（正末）大人、宝物を持っておりますので、大人に差し上げましょう。
（衙内）どのような珍しい宝物を持っているのか。
（正末）生金閣にございます。
（衙内）ああ、ただの生金閣か。秀才よ、わが庫の、良い宝物を知らないな。妝花の八宝瓶[24]、赤色の珊瑚樹、東海の蝦鬚簾[25]、荊山[26]の無瑕玉、瞻天の照星斗[27]、無価の夜明珠、光燦燦たる玻璃の盞、明丟丟[28]たる水晶の盤、ありとあらゆる宝物があるのだぞ。そなたの生金閣はもちろん、純金で築いた大きな家もある。そなたのものには、どのような珍しい処があって、宝物であると申すのだ。
（正末）大人、この生金閣が大したものではないのでしょうか。風が吹く処に置けば、仙音は嘹亮として、風のない処で扇であおいでも、同様に響くのでございます。ほんとうに宝物にございます。
（衙内）わたしは信じぬ。持ってきて、見せてみよ。
（正末）女房よ、生金閣を持ってくるのだ。
（旦児）秀才さま、まずいのではございませぬか。
（正末）構わぬよ。
（旦児）それならば、持ってゆかれませ。
（正末が小道具を献じる）大人、こちらが生金閣にございます。
（衙内）扇を持ってきて扇ぐのだ。
（正末が扇ぐと、管絃が響く）
（衙内）すばらしい宝物だ。
（正末）大人、わたしは嘘をついたりいたしませぬ。（唱う）
【金盞児】わたくしが初めから申し上ぐるを聴きねかし、
（衙内）ほんとうに珍しいわい。
（正末が唱う）この宝物は世になきものにござゐます、
（衙内）いったいどこで手に入れたのだ。
（正末が唱う）わが家に、三代伝はり、しかと收めしものなりき。
（衙内）いかほどのお金が要るのだ。
（正末が唱う）わたしも多くは求めませぬ。満足すれば、お売りしましょう。
（衙内）綾羅、緞子と換えられるのか。
（正末が唱う）綾羅、緞子も要りませぬ、
（衙内）宝物、金珠を上げればよいか。
（正末が唱う）宝物、金珠も要りませぬ。
（衙内）どちらも求めないのなら、いったい何が欲しいのだ。
（正末が唱う）ささやかな前程を得んために帝裏に来たれり。さすればわれも地位を持ち、郷閭に入るべし。
（衙内）このものは、文章も優れておらず、宝物だけを頼りにし、役人になろうとしているのであろう。
秀才どの、役人になろうとなさるのであれば、それもたやすいことでしょう。こたびの試験の貢主[29]に話し、おんみを立派な役人にさせましょう。小者たち、いますぐに手紙を書いて、こたびの試験の貢主に届けにゆくがよい。わたしが話をしたと言い、このひとを役人にするがよい。
（正末）大人に、おおいに感謝いたします。わたしには、一人の醜い女房がおりますが、大人にご挨拶させましょう。
（衙内）奥さまがわたしに会いにこようとするのは、よくないのではございませぬか。それならば、おんみの顔を立てましょう。奥さまを来させてください。
（正末がに旦児）女房よ、あの宝物を献じたら、大人はわたしに官位を約束された。礼儀正しく大人にご挨拶しにゆくがよい。
（旦児）それならば、いっしょにお礼しにゆきましょう。
（会う）大人、わらわが幾たびか拝礼するのをお受けください。（拝する）
（衙内）お楽になされよ。お楽になされよ。この女房はとても綺麗だ。「巧妻はつねに拙夫に伴ひて眠る」とはよくいったもの。秀才どの、宿はおありか。
（正末）ございませぬ。この飲み屋に来て、雪を避けていただけにございます。
（衙内）小者たち、二頭の馬を牽いてきて、かれらを騎せて、わたしの私宅へ行かせよう。
（正末）衙内さまのご引率なら、われらはいっしょに参りましょう。（ともに退場）
（店員）まるまる一日、迷惑をかけられて、酒も売ることができなかった。かばかりに運が良いとは。
（詩）本日の商売はいたくぞ苦しき。ばつたりと大官さまに出くはせり。一銭も稼ぎ得ざれば、門を閉ざして、太鼓を敲くを学ぶに如かず。（退場）
（衙内が従者とともにふたたび登場）小者たち、表と裏の庁堂を掃除して、名人の書画を掛け、骨董の器を並べ、金壺には熱燗を斟ぎ、錦繍の褥を敷きのべ、良い台盞を持ってきて、あの秀才を呼んでくるのだ。
（小者）かしこまりました。（呼ぶ）秀才さま、旦那さまがお呼びです。
（正末が旦児とともに登場）女房よ、衙内さまがお招きだ、わたしとともに大人に会いにゆくのだ。（会う）
（衙内）秀才どの、わたくしはしがないものです。お笑いになられませぬよう。
（正末）わたしにいかなる取り柄があって、衙内さまには、このように宴を設けて、持て成してくださるのでしょうか。
（唱う）
【後庭花】錦の茵を床の上に敷くを見る。
（衙内）小者たち、氈簾[30]を下ろすのだ。
（正末が唱う）氈簾は門外に垂る。
（衙内）炭火で羊の肉を焼くのだ。
（正末が唱う）かのひとの獣炭[31]の上に羊の肉を焼くを見る。
（衙内）酒を温めるのだ。
（正末が唱う）金杯に醁醑を泛べたり。
（衙内）おんみは書を読むお方ですから、おんみを敬うのでございます。
（正末が唱う）われは一寒儒なり、
（衙内）わたしはおんみと親戚に成りましょう。
（正末が唱う）衙内さまと親戚となるわけにはゆかじ。わたしにいかなる福分ぞある。衙内さまの目を掛けられしことに謝したり。
（衙内）わたくしが言うことに、従ってくださいますか。
（正末が唱う）仰ることにことごとく従はん。
（衙内）ほんとうに断られてはなりませぬ。
（正末が唱う）断らんとはいたすまじ。
（衙内）奥さまを、わたくしの夫人にし、おんみには他の人を娶らせるのは、いかがですかな。
（正末が唱う）かれ、かれ、かれははじめから、事情を言ひて、われ、われ、われを脅かし、麻れ酥えしむ。ほか、ほか、ほかに艶やかな女をば求めんと言ひ、われ、われ、われの醜き嫁に換へんとす。妻、妻、妻は面を塗らず、頭を梳かず、いづくに、いづくに、いづくにか気に入る処のあるべけん。
（衙内）いずれにしても、奥さんをわたしのものにいたしましょう。
（正末が唱う）
【青哥児】ああ。おんみはなどて悪しきことをし、悪しきことをし、でたらめをなす。風俗を損なふといふはこのこと。
（衙内）奥さまをわたしの夫人にしようとするのは、大したことではないでしょう。このように四の五の言うとは。
（正末が唱う）もともとは、色よき顔をしたれども、かやうに心悪しくして、夫妻を引き裂き、鳳と鸞とを孤りにせんとす。
（衙内が正末を引く）こいつめ、承知しようとせぬとは、ただではすまさぬ。
（正末が唱う）かのものはわが衣の襟を引き裂けり。
（衙内）寄越さないなら、おまえをすぐに殺してやるぞ。
（正末が唱う）われをただちに殺すとは。われは天へと祈るべし。われに辜無く、声を放って哭くを憐れと思へかし。
（衙内）いずれにしても、この嫁を、このわしの夫人にするのだ。
（正末が唱う）ああ。並頭蓮を、むごたらしくも、根こそぎ抜かば、誰をしてわが生みの父を養はしめん。
（衙内）このものは、ほんとうに、無礼だな。小者たち、大きな鉄鎖で厩に繋ぎ、このものの女房を介添えし、後堂へ行かせるがいい。
（従者が捕らえる）かしこまりました。郭成よ、喋るのを止めるのだ。むざむざとおまえの命を奪われようぞ。
（正末が哭く）（唱う）
【賺煞】ああ、ああ、ああ、ただではすまさじ。すでに做したる馮河暴虎[32]を訴へ難し。わが珍奇無価なる物をさきに求めて、百計をさらに出だして貪れり。ああ。ろくでなし。胆は大きく心は粗し。われら夫妻は怨みを含めど、誰か味方すべけん。なは花枝の嫁を奪ひて、さらにわが命を損なはんとせり。
（言う）ああ。今日になり、悟ったぞ｡女房を連れて出てこなくてもよかったのだ。
（唱う）はじめて悟れり、美女の夫に禍を及ぼすを。（退場）
（従者）旦那さま、郭成を引っ立ててゆき、裏の厩の柱に縛り付けました。
（衙内）郭成の女房がこのように、美しく、愛らしいとは思わなかった。わたしの夫人とするにはうってつけだわい。はるばるやってきたのだから、石鹸を多めにし、顔を洗って、さらに少々臙脂を塗って、錦繍の衣服に換えて、後堂で酒肴を調え、あらたに夫人を得たことを祝おうぞ。ああ天よ、これもまた、わが一点の善意のために、条児糖[33]を食べさせてくださったのでございましょう。
（詩）このもの[34]は、嬌しき容を得る福分はなく、一床の錦の被の半ばは空し。本日は良民の婦を奪ひとり、後堂に三鍾を飲みて祝へり。
（従者）裏の厩に言い含め、こやつをしかと収容し、逃がさないようにしようぞ。（ともに退場）
第二折
（衙内が従者を連れて登場）それがしは龐衙内、喜ばしくも郭成の女房を手に入れて、夫人にしようとしたのだが、意外にも、あのものは愛嬌がなく、どうしても妻になろうとしないのだ。わたしは自分の顔を見る。たいへんな男前だぞ。わたしの顔に白粉が塗られているとおっしゃるが、白粉を塗られてはいらっしゃらぬか[35]。わたしの家にはばあやがいる。わたしの父のお手つきだ。あのひとは、ほんとうに、わたしを幼いときから見ている。今、あのひとを遣わして、宥めさせれば、女房が従わぬはずはなかろう。小者たち、ばあやを呼んできておくれ。
（従者が呼ぶ）ばあや。旦那さまがお呼びです。
（正旦がばあやに扮し、子役とともに登場）老いぼれは、龐衙内さまの家のばあやだ。衙内さまが呼ばれているから、行かねばならない。これなるは、老いぼれの息子にて、福童という。父親を、不幸にも、はやくに亡くした。福童や、学校へゆくのかえ。おまえに鍵を与えよう。わたしを尋ねるのであれば、花園へわたしを尋ねてくるがよい。
（子役）息子や、この鍵を持ち、袖に入れなさい、あなたを尋ねるのであれば、裏の花園にいると仰いましたね[36]。今からわたしは学校へ参ります。（退場）
（正旦）老いぼれは、幼いときから、龐さまのお屋敷で、衙内さまが育たれるのを、一日ならずお世話してきた。（唱う）
【越調闘鵪鶉】兔は走り、烏は飛べり[37]。寒さは来たりて、暑さは往けり。春の日に花が開けば、はや秋の天に月こそ朗るけれ。光陰は葬り去られ、世况は消え失せり。われははや、年老いて、鬢髪は蒼くして[38]、重き生活を做すを得ざれば、軽き勾当をひたすらなすのみ。
【紫花児序】朝間には倉庫を開きて、昼間には花園を掃く、夕辺には到らざれども、厨房をば切り盛りせざることを得ず。小間使ひは、いそぎ来たりて、衙内さまがわたしと相談なされんとせりと叫べば、ぐづぐづするわけにはゆかず、大股でおもての庭に行きてお尋ねいたすべし。
（正旦が衙内に会う）
（唱う）坊ちやま、いかなるお話にござゐましょう。老いぼれに、初めから終はりまで、くはしくお話しくださりまし。
（言う）坊ちゃまが老いぼれを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょうか。
（衙内）ばあや、おまえを呼んだはほかでもない。大小の結納と、大勢の媒妁で、みずから夫人を娶ったが、どうしても、わたしに従おうとせぬ。あのひとを宥めてはくれまいか。宥められ、あのひとが考えを変えたときには、手厚くおまえにお礼しようぞ。
（正旦）坊ちゃま、ご安心ください。老いぼれはあちらに行って、二言三言も用いることなく、あのかたを坊ちゃまに従わせましょう。
（衙内）妻は少々強情だ。ばあやよ、おまえは蒯通[39]にも似た舌を使えばよかろう。
（正旦が唱う）
【小桃紅】老いぼれは、自慢するにはあらざれど、かの名望なき蒯通に異なれり。
（衙内）わたしは礼拝叩頭し、おまえに頼もう。
（衙内が拝する）
（正旦が唱う）ああ、ああ、ああ、礼拝叩頭してわれに頼むを須ゐず。
（衙内）ばあやよ、どうしようもないのだ。しっかりとあのひとを宥めておくれ。
（正旦が唱う）かばかりに、いたく慌てて、ともに宿らん芙蓉の帳を調へんとす。わたしが甘き言葉で騙し、美しき情もて向かはんことを頼りにす。坊ちやま、おんみはかならずや、金殿に鴛鴦を鎖したまはん。（ともに退場）
（旦児が登場、詩）天下の人の煩悶は、みなわが心の中に在り。秋の夜の雨のごと、一粒ごとに一声愁ふ。
わたくしは、郭成の女房の李幼奴だ。龐衙内は、わたくしの生金閣を奪いとり、そのうえ妻となるよう逼り、わが夫、郭成を厩に繋いだ。ああ、ほんとうに悲しいことだ。
（正旦が登場）こちらはお嬢さまの寝室の入り口だ。（入って旦児に会う）お嬢さま、ご機嫌よう。
（旦児）ばあやさん、ご機嫌よう。
（正旦）お嬢さま、お尋ねします。衙内さまはたくさんの結納品で、おんみを娶られ、百年ともに老いるのを望んでいらっしゃいますが、従われようとしないのは、いったいなぜにございましょう。
（旦児）ばあやさん、あなたはわたしの心の中の怨みが分かっていないのです。
（正旦）お嬢さま、おんみは間違っていらっしゃいます。（唱う）
【憑欄人】女と男が結納、結婚するは正しき礼にして、お二人が睦みたまはば、げに人をして賛へしむべし。ああ、麗しきお嬢さま、御心は、なにゆゑぞ、人を恋ひたまふことなき。
（旦児）ばあやさん、あなたはご存じないのです。わたしは多くの結納品で娶られたのではありませぬ。わたしはもともと郭成の女房でしたが、龐衙内はわたしの生金閣を奪って、さらにわたしに妻となるように逼って、わたしの夫を厩に繋いでいるのです。ばあやさん、あなたはわたしのこのような怨みをご存じないでしょう。
（正旦）仰らなければ、わたしは気付きませんでした。さような事がございましたか。（唱う）
【鬼三台】かのひとの言葉は明らか、わが魂は脅かされて、飄蕩へるなり。お嬢さま、おんみはなどて天羅地網[40]に入りたまひたる。かのものは、驢、狗にも似たる一片の悪しき心腸を持ちたれば、誰をして阻ましむべき。
（旦児）ばあやさん、今日は夫を見ていませぬ。殺されてしまったのでしょう。ほんとうに悲しいことです。
（正旦が唱う）おんみは言はれり、かのものは、昨日、あなたにて、范杞梁[41]をば殺むれば、今日、こなたにて、孟姜女[42]をば茫然たらしめたるなりと。
（旦児）ばあや、わたしは大きな役所を訪ね、あのものを訴えましょう。
（正旦が唱う）おんみは不平を鳴らそうとされていますが、お嬢さま、誰が訴状を受け取りましょう。
（衙内が従者とともに聴く）
（旦児が哭く）ああ、天よ。
（正旦が唱う）
【寨児令】かのひとのいたく悲しみ、泪の汪汪たるを見る、
（旦児）わたしの顔が美しく、愛すべきものだったため、夫は命を奪われた。わたしの顔を引っ掻こう。
（正旦）ああ、惜しいことを。
（唱う）水晶のやうな爪をもて、顔を掻き破りたり。
（衙内が従者とともに聴く）
（正旦が唱う）かのものは、馬より落ちて、身を損なひて[43]、ほどなく亡びん。かのものは盗賊に遭ひ、父と母とを喪はん。
【幺篇】半月足らずで、仕置場にみづから赴き、刀刃を餐はん。高き杆にて脊梁を吊られ[44]、木驢[45]にて引き裂かれ、総身にお碗の大きさの血疔瘡[46]を生ずべし。
（衙内が咳をする）
（正旦が唱う）
【金蕉葉】なんぴとの濁声やらん。そのものは外の面で聴けり。
（旦児が驚く）ばあや、窓の外で、誰かが咳をしましたよ。
（正旦が唱う）お嬢さま、ひとまず慌つることなかれ。われはみづからかの言葉をぞ語りたる。
（衙内が正旦に会う）おいこら。狗のおまえを養ってやったのに[47]、内に向かって吠えるとは。よくもわたしを罵ったな。
（正旦が唱う）
【調笑令】お怒りを鎮められまし。宰相さま、老いぼれの事情を説くを聴きねかし。
（衙内）これ以上、何を申すか。まだわしを罵るつもりか。
（正旦）坊ちゃま、わたしは何も申してはおりませぬ。
（唱う）われは言ひたり、楚の襄王は巫山の窈窕たる娘にぞ言寄せん、逃げ隠れ、品を繕ふことを須ゐず、とにもかくにも雲雨の床を調へよかしと。
（衙内）わたしのことを罵っておらぬと申すが、さきほどわたしはすべて聴いたぞ。
（正旦が唱う）われは言ひたり、坊ちゃまは、城内で第一のお金持、鴉も飛びて渡れぬほどの田と池を持ちたまへりと。
（衙内）小者たち、この老いぼれは、わたしをさんざん罵って、そのうえ、ごまかそうとしている。縄で縛って、八角の琉璃井[48]に棄てにゆくのだ。
（従者）かしこまりました。
（従者が腰から縄を取り、縛る）ばあや、わたしを怨むなよ。みずから招いた死なのだからな。
（旦児）ばあやさん、ほんとうに悲しいことです。
（正旦）お嬢さま、わたしの息子が参りましたら、わたしのために復讐させてくださいまし。天よ。誰がわたしを救ってくれよう。（唱う）
【收尾】ああ、ああ、わたしは耕牛となり、主のためにしたれども、鞭と杖にぞ遭へるなる。唖婦は杯を傾けて、かへつて殃をぞ受くる。いつの日か、包待制が朝堂に到りたまはば、坊ちやま、わたしは秘密を漏らし、おんみの謊を明かすべし。
（旦児とともに退場）
（従者が棄てる）撲冬、投げ込んだ。さらに井桁の石を動かし、押さえにし、屍が浮いてこぬようにしようぞ。ばあや、あんたはまだ良かったよ。水葬になったのだからな。（報告する）旦那さま、われらはばあやを縄で縛って、八角の琉璃井に抛って、殺しました。
（衙内）ばあやは死んだが、郭成がいる。あのものも捕まえてきて、女房の目の前で、銅の鍘で首を切るのだ。
（従者）かしこまりました。郭成、おまえの女房を衙内さまにお送りすればそれでよいのに、どうしても承知しようとせぬのだな。おまえの首を鍘で斬りにきたのだ。趙虎よ、おまえは髪の毛を引け。わしはこの銅の鍘を挈げて、磕叉。（転ぶ）ああ、恐ろしや。
（郭成が地に倒れ、また起き上がり、逃げて退場）
（従者が驚く、衙内に会う）旦那さま、不思議なことにございます。不思議なことにございます。日月が相食むことはございましても、轆轤の軸の皮は剥がれはいたしませぬ[49]。旦那さまは、わたくしに、郭成を厩で捕らえさせました。あのものの女房の面前で、このものは、あのものの頭を押さえ、わたくしは、銅の鍘を挈げてきたのです。がちゃんと、刀を当てますと、首は落ちましたのですが、郭成は、塀を挈げ、首を跳び越え、行ってしまったのでございます。
（衙内）こら。塀を挈げ、首を跳び越え、行ってしまったとはどういうことだ。
（小者）ああ。首を挈げ、塀を跳び越え、行ってしまったのでございます。
（衙内）落ち着け、落ち着け、大騒ぎするな、大丈夫だ。明日は正月十五日、元宵節を見物するから、いささか供の者たちを多くして、棍棒を持ち、わたしに従い、元宵節を見物しにゆくことにするのだ。（ともに退場）
第三折
（社火[50]、楽隊が並ぶ）
（外が老人、里正[51]に扮し、ともに登場）老いぼれは王老人、こちらは劉老人。時は元宵節。預賞のときも正月も[52]、城内も城外も、官家も民戸も、ことごとく花灯[53]を点し、民草は楽しみをともにしている。ご老人、われらはいっしょに提灯を見にゆこう。（提灯を見る）
（衙内が従者を連れて登場）今日は元宵節、小者たち、わたしに従い、提灯を見にゆこう。
（魂子が首級を挈げて突然登場。打つ）
（衙内が慌てる）いずこからこの幽霊が襲ってきたのだ。ほんとうに恐ろしいこと。逃げろや逃げろ。（退場）
（魂子が老人里正を追いかけ、社火楽隊が衆とともに慌てて退場）
（衙内がふたたび登場）小者たち。この幽霊はほんとうに凶暴だ。われわれがこのように走っていると、ますます追い掛けてくるわい。逃げろや逃げろ。
（魂子がふたたび登場、追いかける）
（衙内）幽霊がまた追い掛けてきた。ほんとうに恐ろしいわい。小者たち、わたしを扶けて戻ってゆくのだ。提灯も見ることはできなくなった。（退場）
（店員が登場、詩）商売をして帰るも汗は消ゆることなく、床に上るもなほ明朝を思ふなり。なにゆゑぞ、家を仕切りて、頭はさきに白くなりぬる、暁に夜に考へて、計は万条なればなり。
わたしは酒売り、こちらで飲み屋を開いている。南へ北へ商売する、車を推して、荷を担ぐものたちは、みんなわたしの店に来て、酒を買い、飲んでいる。今日ははやくもこの燗鍋をいささか熱くし、酒を買う人が来たらば、飲ませて火傷させてやろう[54]。
（老人里正が慌てて登場）逃げろや逃げろ。首のない幽霊はいなくなったぞ。ご老人、わたしらはこんなに年をとっているのに、かような怪異を見たことはございませぬ。驚いて死ぬところでしたわい。われらはひとまず飲み屋に行って、何杯か飲み、心を鎮めることにしましょう。店員、酒だ。二百長銭の酒を漉してくるのだ。
（店員）ございます、ございます。あらたに漉した美酒にございます。ご老人。中にお坐りくださいまし。
（老人）ようやく息が鎮まってきた。ゆるゆると何杯か飲むとしよう。
（正末が包拯に扮し、普段着で張千を連れて登場）老いぼれは、姓は包、名は拯、字は希仁、廬州金斗郡四望郷老児村の人、龍図閣待制に封じられ、南衙開封府尹の職を授かった。聖人の御諚を奉じ、老いぼれは、西延辺で軍を労い、戻ってきた。時はあたかも上元節、紛紛揚揚、国家の祥瑞[55]が降っている。張千よ、先払いをせよ。はるかに前を行くがよい。わたしは後ろでゆっくり行こう。（唱う）
【南呂一枝花】西延に上り、汴京を離れ、衣料[56]を押して、京兆にしぞ臨みたる。年老いたりとて辞することなし。路途の遠きを憚らめやは。思ふに宰相官僚は、千鍾の禄を受け、むなしく耗やすことこそ難けれ。忠心を秉り、聖朝を佐けぬことのあるべきや。今は鵷鷺の仙班[57]に在り、後には像を麒麟の画閣[58]に描かれん。
【梁州第七】われもまた、万般の愁のつねに心上に縈ぼれたるがため、両条の恨の眉梢を去ることぞなき。いそぎ戻れば、また新春の到るに遇へり。われはただ見る、寒梅のおそく謝みて、凍雪のはじめて消ゆるを。数軒の村に傍ひ、鶏は唖唖として、半程の野を隔て、犬は[口牢][口牢]。かばかりに、景物は蕭条たれば、げに丹青と巧みなる筆がありとも、描くは難きことならん。われ、われ、われは、青滲滲たる峻嶺と層巒を見き。すで、すで、すでに、黄穣穣たる沙堤[59]を行きて、この古き道をぞ得たる。ああ、ああ、ああ、碧澄澄たる野の水に渡せる橋をはやくも過ぎたり。帰りきたれば路は杳けく、絲鞭を揺らし、林を投せる鳥をいたくぞ羡める。薄暮、荒れたる郊に在れば、西風に馬の疲れて、雪の今しも飄へり、語るとも尽くることなき寂寥にいかで耐ふべき。
（張千）旦那さま、風はいよいよ強くなり、雪はいよいよ激しくなってまいりましたが、遠くに飲み屋がございますから、しばらく吹雪を避けられて、いささかの酒を買われて、飲まれれば、まことに宜しゅうございましょう。
（正末）張千よ、その通りだ。ほんとうに飲み屋だな。（唱う）
【牧羊関】草刷児[60]をば塀に挑げて、酔八仙[61]を壁に描きて、建物は瀟灑清標[62]、「酒は西湖に勝り[63]、店は東閣を凌ぐ[64]」とぞ書けるなる。
（言う）かような村に、きちんとしたところなどあるはずがない。
（唱う）瓦鉢に村醸を斟げるのみにして、金盞に羊羔を泛ぶることなし。大いなる字を書きて、人を留めて酔はしめんとす。このわれが飲まざるは、酒価の高ければなり。
（言う）張千よ、馬を繋げ。
（張千）しかと鐙を整えました[65]。
（正末が店員に会う）
（張千が店員を打つ）酒売りよ、はやく座敷をきれいに掃除し、熱燗を斟げ。馬を牽き、奥へ行き、草を刻んで、くたくたに煮て、馬に喰わせて、痩せないようにするのだぞ。鞍を盗まれ、馬の尾を剪られたら、おいおまえ、睫毛をすべて毟ってやるぞ。
（店員）こいつめ。こいつとて、驢、馬に従う者であるというのに、どうして有無を言わせずに、このわしを拳や足で、ひたすら打つのだ。ひとまず我慢し、こいつを罠に嵌めるとしよう。
（張千）店員よ、酒を持て。旦那さまに一杯お斟ぎするからな。（跪いて送る）旦那さま、旅路ではお寒うございました。わたくしの気持ちです。どうか一杯干されませ。
（正末）おいおまえ、大風と大雪のなか、二つの足で、わたしの馬の四つ足に従って歩いたな。まずはおまえがこのお酒を飲むがよい。
（張千）旦那さまがお飲みにならず、わたくしに飲ませてくださるのであれば、お飲みしましょう。（受け取る）
（正末）おいおまえ、その酒を飲んだらどうだ。
（張千）この酒を飲めば、たちまち綿を添えましょう。
（正末）たちまち綿を添えるとはどういうことだ。
（張千）この酒を飲めば、綿の団襖[66]を着せられたのも同じことです。（飲む）
（店員を打つ）この馬鹿野郎、殴ってやるぞ。何回かわしが殴ったものだから、このような、氷のような冷酒を飲ませるとはな。わしの歯はすっかり凍え、飲みこめば、お腹は割かれたように痛むぞ。まだ立っているのか。すぐ熱燗を斟いでこい。
（店員）かしこまりました。（背を向ける）今度は熱く滾った酒を斟いで飲ませて、この馬鹿野郎を火傷させよう。
（張千）すぐ熱燗を持ってこい。
（店員）熱いぞ。熱いぞ。
（張千）旦那さま、お寒うございます。熱々のお酒です。どうぞ一杯干されませ。
（正末）おいおまえ、おまえは旅路でわたしより苦労したから、この酒もおまえが飲むのだ。
（張千）このお酒も、われらに飲ませてくださるのですね。旦那さま、ありがとうございます。（叩頭して酒を飲む）ああ、とても熱い酒だ。喉が火傷した。
（正末）おいおまえ、この酒を飲み、おまえはさらに綿の搭[衣蒦][67]を添えられたろう。
（店員を打つ[68]）陰険な馬鹿野郎めを殴ってやろう。このような、煮え湯のような熱燗を斟ぎ、わたしを火傷させるとは。唇はすっかり火傷し、水疱ができてしまった。おいおまえ、よく考えろ。おまえの筋をすべて殴って断ち切るぞ[69]。また酒を斟いでこい。
（店員が背を向ける）これでようやく怒りを晴らした。わたしは今から、冷たくもなく熱くもない、ほかほかの酒を飲ませよう。
（張千）お酒をお持ちいたしました。旦那さま、わたくしは、お酒はもう十分にございます。旦那さま、一杯お飲みくださいまし。
（正末）張千よ、「三杯は万事を和して、一酔は千愁を解く」というではないか。おいおまえ、わたしはひとまず飲まないで、この鍾もおまえに飲ませ、三杯に合わせれば[70]、まことに良かろう。
（張千）旦那さまは、また飲まれずに、われらに飲ませる。やむなく飲んで、三杯に合わせよう。（震える）
（正末）おいおまえ、何杯か酒を飲み、なぜ震えはじめたのだ。
（張千）衣を着れば着るほど寒くなりました[71]。
（正末）おいおまえ、何杯かつづけて飲んで、温まったか。老いぼれは、旅路で馬に乗って疲れた。脚が少々痛いから、背を敲いてくれ[72]。
（張千）かしこまりました。（背を敲く）
（店員）馬鹿野郎めが、二杯の酒を飲んで、頭がおかしくなった振りをして[73]、手を揮い、わたしを打つとは。またわしを殴るのか。
（張千）おいおまえ、まだ口答えするか。城内へ来ぬようにしろ。表通りで出くわしたなら、何もしないが、裏町で出くわしたなら、片手でおまえの襟を掴んで、五本の指をきゅっと結んだ拳を挙げて[74]、ただ一拳で…
（正末に当たる）
（正末）張千よ、どうしたのだ。
（張千が慌てる）いましがた、旦那さまは、わたくしに、幾杯かお酒を飲ませてくださいましたが、店員は無礼な奴で、わたくしが酔ったと思い、乱暴しようとしたのです。あのものは、わたくしが旦那さまのお背中を敲くのを見て、わたくしめがけて拳を握り、袖を捲って、拳を伸ばし、打とうとしました。わたくしは、おまえはわしを打とうとするのか、わしに手がないはずがあろうか、おまえにも一拳お返しするぞと言いました。ところが手元が狂ったために、よりによって、旦那さまのお背中をお打ちしたのでございます。
（正末）手に小刀を持っていたなら、どうなっていたことだろう。
（張千）わたくしは旦那さまに気が付きましょう[75]。
（正末）張千よ、馬を見にゆけ。
（張千）かしこまりました。
（店員）あの馬鹿野郎にひどく打たれた。ひとまず奥へ仕事しにゆくとしよう。（退場）
（正末）隣の座敷で人がお酒を飲んでいるから、聴いてみよう。
（老人）ご老人、本日は上元節で、家々は提灯を見ております。宜しいことは宜しいのですが、首のない幽霊が余計です。ご老人、一杯干されよ。
（里正）ご老人、お先にどうぞ。
（老人）まあいいでしょう。わたしが先に飲みましょう。ああ、馬鹿爺め[76]、澆奠[77]を忘れてしまった。（澆奠する）第一の酒は、天下の太平を願ふなり。第二の酒は、黎民の業を楽しむことを願ふなり。役人と為りたるものは、なべて卓魯[78]のごとくして、令史らはことごとく蕭曹[79]を圧すべし。徭や税を軽くして、塗炭を受くるを免れしむべし。
（正末）あのものは、なかなかうまいことを言っておる。（唱う）
【賀新郎】かのものは、あなたにて、杯を挙げ、天に澆げり。今は五穀が豊作にして、万民は安楽なるなり。田蚕[80]に十倍の収穫あるをひけらかし、農民の、農民の好しきは、言ひ尽くし得ず、さらに徭や税を軽くせらるることを望めり。かのものは、かく言へり。官長たちは卓魯のごとく、令史らは蕭曹を圧すれば、高眠し、閑愁に擾はさるることなしと。かばかりに、人の心は厭き足ることなく、天も多くの凹を填め得ざるべし[81]。
（正末が老人を引く）ご機嫌よう。
（老人が慌てる）ああ。首のない幽霊がまた来たぞ。
（正末を見る）ああ、首のない幽霊と思いきや、糞爺だったのか。おまえのせいでひどく驚かされたわい。
（張千）こら。無礼を申すな。包、包、包……[82]
（正末）包、なんだ。
（張千）ご老人がた、一包の絲綿を買おうと思うのですが、ありますか。
（正末）張千、下がれ。
（老人）おい。爺さん、挨拶しようとするのなら、おまえも一声「ご老人、ご挨拶いたします」と叫ぶのだ。わしらはすぐに気が付いただろう。いったいどうして声をたてず、息をせず、わたしをいきなり背後から引き、挨拶したのだ。それにおまえは顔だちが美しいから[83]、わしらは驚き、跳び上がったぞ。道理を知らぬ糞爺めが。
（張千）こら。龍、龍、龍……
（正末）どんな龍だ。
（張千）かれら二人は少々耳が遠いでしょうと申したのです[84]。
（正末）こいつめ、下がれ。
（老人）死に損ないの爺めが。
（張千）こら。図、図、図……
（正末）どんな図だ。（言う）おんみに問うが、ご老人、おんみはさきほど首のない幽霊とやらがいると言われた。
（老人）知らぬのか。話すのを聴くがよい。われらはいずれも城に住む、老人里正だ、今日は上元節なので、城内へ提灯を見にいったのだが、首のない幽霊に出くわしたのだ。かれは手に首級を挈げ、人々を追い駆けて、殴ったために、われらは慌て、しばし飲み屋に隠れて酒を飲んでいたのだ。おまえはさきほど、声もたてず、息もせず、わたしを引いて、挨拶したが、わたしは首のない幽霊がまた来たと思ったために、首のない幽霊と言ったのだ。
（正末）老いぼれは、存じませなんだ。お咎めになりませぬよう。お咎めになりませぬよう。
（老人）行け。行け。おまえを咎めはせぬ。われらも酒を飲むのはやめて、それぞれ家に戻ってゆこう。
（里正とともに退場）
（正末）朝廷を離れてこのかた、このようなおかしな事があろうとは思わなかった。（唱う）
【牧羊関】かのものは、あなたにて、語りおはれば、われは怯えて、魂はひそかに消えたり。城内を離れてはつか半年余り、そもなどて、白日に神は嚎きて、黄昏に鬼は鬧げる。われは半生、正直なること多かりけれど、かやうな怪異を見しことぞなき。ただ今は、村里を離るるになほ早し、
（言う）張千よ、馬を牽け。
（張千）かしこまりました。
（正末が唱う）われはなんぢと皇都に到り、晩の朝議に赴かん。（行く）
（魂子が登場、回転する）
（正末）ああ。すばらしく激しい風だ。ほかの人には見えないが、老いぼれには見えるのだ。わが馬の前にいる幽霊は、老人たちが言っていた、首級のない鬼だろう。これ、幽霊よ、どのような怨みがあるのだ、とりあえず、城隍廟へ戻ってゆくのだ。晩になったらわたしが味方してやろう。はやく退け。
（魂子がいざって退場）
（正末）張千よ、私宅へ戻るな、わたしに従い、ただちに開封府庁へ行くのだ。（行く）
（張千）喏。役所にて、人馬が平安ならんことを。文書を運べ。
（正末）張千よ、十日の期限を与えるから、わが私宅から布団を取ってまいるのだ。当番は誰だ。
（張千）本日は誰が当番なのだ。
（婁青が登場）わたしは婁青。兄じゃ、戻ってこられましたな。日を改めておんみの旅の労苦をねぎらうことにしましょう、申し訳ございませぬ。申し訳ございませぬ。
（張千）弟よ、わたしは今から退勤するぞ。（退場）
（婁青が正末に会う）はい、わたくしが当番をいたします。
（正末）婁青よ、当番ならば、おまえは人を捕らえにゆくか。
（婁青が笑う）旦那さまがお尋ねになられなければ、わたしも申し上げようとしませんでした。もちろん人を捕まえまする。渾名を催動坑といわれておりますからに。
（正末）なにゆえに、催動坑と言われているのだ。
（婁青）そのむかし、旦那さまはわたくしに人を捕らえにゆかせましたが、わたくしが来るのを聴いて、人々はみな逃げて、一人もいなくなっていました。わたくしが振り向きますと、土坑[85]がございましたので、逮捕状を土坑に置いて、怒鳴りました。「おい土坑よ、そなたはわしに従って、開封府庁へ報告しにゆけ」。わたくしが前を行きますと、土坑は後ろで速碌碌、速碌碌、わたくしについてきました。それゆえに、催動坑というのです。
（正末）それはよい、今からそなたに人を捕らえにゆかせよう。
（婁青）今すぐに参りましょう。（あわてて走る）
（正末）婁青よ、戻ってくるのだ。そなたは誰を捕らえにゆくのだ。
（婁青）誰を捕らえるのでしょうか。
（正末）首のない幽霊を捕らえてきてくれ。
（婁青が慌てて跪く）人間は捕らえることはできますが、首のない幽霊はどうして捕らえられましょう。
（正末）催動坑だと申しただろう。
（婁青）旦那さま、今は促しても動かなくなりました。
（正末が唱う）
【哭皇天】そなたは催動坑なりとさきほど言へり。そもなどて、公務を怠らんとせる。そなたの口は禍の苗、
（婁青が顔を打つ）なにゆえに、余計なことを言ったのだ。
（正末が唱う）舌は身を斬る刀なり。
（言う）婁青よ、
（唱う）城隍さまのもとへ行き、祈ってくれ。
（婁青）旦那さまは、わたしに何を祈らせるのでございましょう。
（正末が唱う）恨みを含めるかの業鬼、非業に死にし怨霊に話をし、かのものをして、今宵、訴状を提出せしめよ。この包龍図が南衙、南衙で待てりと言ふべし。
（婁青）かしこまりました。すぐに捕らえにゆきましょう。
（正末）婁青よ、戻ってまいれ。まだ早いわい。
（婁青）それならば、いつ行くのでしょう。
（正末が唱う）金烏が山に墜ち、銀蟾の樹に出づるときを待てかし。
（婁青）わたくしは、お言葉に従って、城隍神に祈りましたが、かれら二人の耳は泥もて塑ねたもの。聴いても分からないでしょう｡
（正末）婁青よ、牒文[86]を与えよう。（唱う）
【烏夜啼】すみやかに、城隍廟に赴きて、牒文を火に焼きて、かの首級のなき業鬼をはやく挈げて来たれかし。
（婁青が恐れる）ああ。城隍廟は鬼の棲家だ。真夜中に、一人で行くのは、ほんとうに恐ろしい。どうしたら良いだろう。
（正末が唱う）かのものは、恐るれば、怯怯喬喬[87]、絮絮叨叨[88]。かのものは恐るれば、戦簌簌と脚の震ふを抑へ得ず。可撲撲と心の跳ぬるを抑へ得ず、おまへがもしも逆らはば、
（言う）わたしの剣を見るがよい。
（唱う）剣もてそなたの肢体を分かち、鍘をもてそなたの脂膏を切るとせん。
（言う）婁青よ。
（婁青）はい。
（正末）婁青よ。今晩、この牒文を持ち、まっすぐ城隍廟に行き、この牒文を焼くがよい。恨みを含む幽霊たちを、すべて開封府庁に来させよ。老いぼれは、みずから事件を取り調べよう。
（婁青）旦那さま、これこそ迷宮入りの事件にございます。取り調べようとなされても、ご満足するのは難しいでしょう。
（正末が唱う）
【黄鍾尾】満足せずば、今夜ただちに宣詔を返上すべし[89]、
（婁青）旦那さまは、言われた通りにすることができますか。
（正末が唱う）言った通りにしないなら、これより包を姓とすることをやめよう。
（婁青）わたくしはいつ参りましょう。
（正末）時間は早いぞ。
（唱う）初更の闌けて二鼓とならんとするを待ち、怨霊を捕へきて、真実を調べあげ、事情を問はん。殺人犯は捕まへて、仕置場へ赴かしめて、高やかな杆に挑げて、脊筋を吊るべし。われがかの非業に死にし人を天へと昇らしめなば、民草たちは老ゆるまでわれを讃へん。
（退場）
（婁青）包待制の牒文を持ち、城隍廟へ、首のない幽霊を捕らえにゆこう。「生者が鬼を見るのを好めば、かならず死ぬ」と仰るか[90]。わたしがもしも行かないならば、あのかたはわたしの首を切るというから、やはり死ぬのだ。わたしが思うに、銅の鍘で切られるときに、鍘を振り下ろされれば、この頸がとても痛いし、頭も断たれてしまうだろう。鬼に脅かされて死に、痛い思いをすることなく、完全な屍になる方がよい。しかたなく、今晩の三更を待ち、牒文を持ち、城隍廟に幽霊を捕まえにゆく、いずれにしても命懸けだな[91]。（しばらく退場）（提灯を持ってふたたび登場）今は三更、提灯を挈げているというのに、どうしてますます恐ろしくなってくるのだ。家の瓦は、各剌剌、各剌剌、塀の土は、速碌碌、速碌碌。幽霊だ。幽霊だ。（灯を持って照らす）ああ。風が箬の葉を吹く響だったか。わたしは昼間、道官に、廟の入り口を半分だけ閉ざしておけと言っておいた。門外に来たが、やはりまだ閂が掛かっておらぬぞ。（廟門を推し、廟に入り、言う）この門を推し開けよう。（驚く）一陣の冷たい風が、はやくも中から吹き出してきた。ああ。灯も消えた。首のない幽霊が、あらかじめ、あちらで待っているのだろう。（入る）ああ。慌てたために、脚の筋を捻ってしまった。こちらは二門、こちらは両廊、こちらは正殿。（提灯を置き、跪く）城隍さま、包待制さまの御諚によって、首のない幽霊を捕らえにきました、神さま、憐れと思し召されよ。わたしはこちらに牒文を持っております。おりしもわたしの提灯は門に着いたら消えてしまった。どこで火を手に入れようか。ああ。この琉璃[92]の中に灯がある。凳[93]を踏み、灯を点けよう。（凳に上り、倒れる）ああ、慌てたためにまた脚を滑らせた、驚いたわい。提灯に灯を点ければ、風がきたとて、恐くはないぞ。（提灯の覆いを取り、灯を点し、紙銭を焼く）神さま、神さま、憐れと思し召されませ。（内が響く）（恐れる）幽霊だ。幽霊だ。（倒れる）
（魂子が首級を挈げて登場、婁青を扶け起こす）
（婁青）わたしを扶けたのは誰だ。
（魂子）わたしは首のない幽霊だ。
（婁青が見る）ほんとうに恐ろしい。ほんとうに首のない幽霊だ。
（魂子が応える）その通り。
（婁青）首のない幽霊よ、包待制さまがお呼びだ。ついてこい。
（魂子が応える、ともに退場）
第四折
（正末が従者の張千を連れ、排衙[94]して登場）
（張千が怒鳴る）左右のものよ、伺候せよ。大人が出廷されて、裁判なされる。
（正末）今晩は、灯燭は煌いて、白日のよう。事件を取り調べるのにはちょうどよい。（唱う）
【双調新水令】襟懐に染み透る、一陣の冷風は吹き、長空を閉ざしたる暮雲はすべて退き、碧澄澄たる天気の爽けき、明皎皎たる月光の輝きたるを顕はせば、灯の焰を加へ[95]、耀けること白日のごときなり。
（言う）婁青はほんとうに仕事ができぬな。いったいどうして今になっても来ないのだ。
（婁青が登場）役所の入り口に来た。あいつは居るのか居ないのか。一声叫ぶことにしよう。首のない幽霊よ。
（魂子がいっしょに登場して応える）はい。
（婁青）そなたはこちらに居るがよい。わたしは取り次ぎにゆくとしよう。
（魂子）かしこまりました。
（婁青が正末に会い、跪く）婁青が参りました。
（正末）婁青よ、いかなる人に会ったのだ。
（婁青）人には会っておりませぬ。幽鬼に会ったのでございます。
（正末）どのような幽鬼を捕らえた。
（婁青）居ります。居ります。髪の毛を掴んで連れてまいりました。
（正末）連れてきてくれ。
（婁青）かしこまりました。この門を出て、あのものを一声呼ぼう。首のない幽霊よ。
（魂子）はい。
（婁青）大人が呼ばれているから、行くがよい。どんな怨みがあるのかを、みずから話せ。
（婁青が正末に会う）面を上げよ。
（正末）婁青、事情を話させよ。
（婁青）大人のお達しだ。事情を話せ。
（婁青が聴き、従者を引く）聴こえますか。
（従者）聴こえませぬ。
（婁青）わたしにも聴こえませぬ。
（正末）いったいどうして言葉がないのだ。婁青を追い出せ。
（張千が婁青を推す）出てゆけ。
（婁青が門を転げ出る）運が悪いわい。首のない幽霊は門の外では呼べば応えていたというのに、どうして大事な場所では話をしなかったのだ。行ってしまったのだろうか。ふたたび一声呼ぶとしよう。首のない幽霊よ。
（魂子が応える）はい。
（婁青）どこにいたのだ。
（魂子）わたしはお腹が空いたので、蒸餅を買い、食べていました。
（婁青）こいつはまたもふざけたことを申しておるわい。蒸餅を食べに行こうとしたと申すが、手に饅頭を持っておるわい。はやくゆくのだ。
（正末に会う）首のない幽霊よ、話すのだ。
（正末）なにゆえに、また話さぬのだ。追い出せ。
（張千が門から推し出す、婁青）ついて来なかったのか。ふたたび一声呼ぶとしよう。首のない幽霊よ。
（魂子が応える）はい。
（婁青）どうしてまた来なかったのだ。
（魂子）行くことはできませぬ。
（婁青）なぜ行くことができぬのだ。
（魂子）門神戸尉に阻まれたため、行けませなんだ。
（婁青）なぜはやく言わなかったのだ。
（婁青が正末に会う）大人、憐れと思し召されませ。この首のない幽霊は、門神戸尉に阻まれたため、参ろうとしなかったのでございます。
（正末）そうか。大きな家にも小さな家にも、それぞれ門神戸尉がある。
（詩）老いぼれは、心の中でみづから考ふ。銀銭と金紙をとく調へよかし。邪魔と外道は阻むべけれど、非業に死にし怨霊は入らしめよかし。
（唱う）
【沈酔東風】わが開封府の門神戸尉よ、すみやかに告示を伝へ、ぐづぐづとするなかれ。非業に死にし魂と、怨恨を含みたる鬼を入れ、ただ邪魔と悪祟[96]のみを阻めかし。
（婁青）紙銭を焼いた。ほんとうに冷たい風だ。
（正末が唱う）われはただ見る、黯黯と愁ふる雲と惨しむ霧の迷るを。ああ。はやくも天地は暗くなりたり。
（魂子が正末に会い、跪く）
（正末）ほかの人には見えないが、老いぼれには見えるわい。灯燭の下に幽鬼が跪いている。まことに憐れだ。（唱う）
【慶東原】紙銭を身に掛け、人頭を手に挈げて、前に来て、灯前にひたと寄り添ひ跪きたり。われはこなたでねんごろになれに問ふべし。なれはいづこに住みたるや。
（魂子）われらは河中府の人にございます。
（正末が唱う）姓と名は。
（魂子）姓は郭、名は成にございます。
（正末が唱う）富豪か、商人か、庶民か、官吏か。
（魂子）わたくしは秀才にございました。
（正末）おい幽霊よ、非業に死んだ事情を、くわしく述べるなら、老いぼれはそなたに味方してやろう。
（魂子）わたくしは、姓は郭、名は成といい、本貫は河中府の人。四人家族で、父母は高齢、女房は李氏にございます。わたくしは悪夢を見たため、市に行き、占いをしましたところ、百日の血の災があるものの、千里の外なら、避けられるとのことでした。わたくしは、家に来て、父母に別れを告げました。一つには、災難を避けるため、二つには、功名を得るためでした。旅の途中で、冬の折柄、風は強く、雪は激しく、小さな飲み屋で、酒を飲みましたのですが、権勢のある龐衙内に出くわしました。あのものは、わたくしの生金閣を強奪し、さらにわたくしの女房を妻としようとし、わたくしが従わないと、銅の鍘で殺したのです。わたくしの一霊真性は散じることなく、知事さまにお会いしにまいったのです。わたくしの、かような怨みを憐れんでくだされば、天のように高く、地のように厚く、樹のように深く、道のように長いというもの[97]。
（詞）それゆゑに、一点の怨霊は、つひに散ぜず、日夜飄颻ふ枉死城。怨みに報い、恨みを消さば、陰司を離れ、ふたたび托生するを得ん。只今は、上元節の初更にて、龐姓の無徒の出で、看灯をするに遇ひたり。わたくしは、街頭を繞りて命を索むれば、遊覧したる老若はみな驚けり。南衙の包待制さまに見ゆるを得しことは、千にも難く、万にも難きことなりき。おんみはもともと上天の殺人星。昼には陽間の事を裁かれて、晩にはさらに陰霊を裁かんとしたまへり。ただ願はくは、待制さまの懐中に軒轅の鏡[98]をたかく掲げたまひて、わたくしの悲悲痛痛、酸酸楚楚、語れども休むことのなき、訴ふれども尽くることのなき、怨みを照察せられんことを。
（正末）おい幽霊よ、明日になったらそなたに味方してやろう。ひとまず退がれ。
（魂子）婁青兄さん、やはりわたしを送っていってくださいまし。わたしはすこし幽霊が恐いのです。
（婁青）こら。
（魂子が退場）
（正末）夜はもう明けた。張千よ、放告牌[99]を担いで出てゆけ。
（張千）かしこまりました。
（旦児が子役を連れて登場）訴えごとにございます。
（正末）張千よ、誰が不平を鳴らしておるのだ。来させるがよい。
（張千）女よ、行って目通りするがよい。
（旦児が子役とともに正末に会い、跪く）
（正末）女よ、なにゆえ不平を鳴らしておるのだ。事情を申せ。
（旦児）わたくしは河中の人で、李幼奴と申します。大人、憐れと思し召されませ。わたくしは、龐衙内が、わたくしの生金閣を強奪し、わたくしに妻となるように逼って、わが夫、郭成を殺したことを訴えまする。こちらはばあやの息子の福童、このものの母上は八角の琉璃井に突き落とされて死にました。青天さまにはわたくしにお味方してくださいますように。
（正末が唱う）
【雁児落】昨の宵、城隍に牒文を奉り、怨鬼を捕らへり。今日になり、南衙を開けば、はたして冤詞[100]を逓るものあり。龐衙内は、虎狼の威をば欲しいままにし、むごたらしくも鴛鴦のおんみらを引き裂けり。
【得勝令】ああ。かのものは、蕭何の律[101]を衣とし、総身に罪を纏ふべし[102]。誰か許さん、かのものの、財を奪ひて、人の命を奪ひしを。誰か許さん、かのものの、人妻を奪ひ、逼りて妻と做したるを。かやうに愚かなりしとは[103]。かのばあやには、いかなる罪のあるべきや。げにやげに悲しむべきなる。おんみのために、かのものを捕らへきたりて、徹底的に問ふとせん。
（言う）女よ、おんみら二人は、ひとまず司房に居るがよい。
（旦児が子役とともに退場）
（正末）婁青よ、羊を買いにいってくれ。
（婁青）かしこまりました。羊を買いました。
（正末）婁青よ、絵を掛けてくれ。
（婁青）絵も掛けました。
（正末）人を呼びにいってくれ。
（婁青が返事をし、立ち去る）
（正末）婁青よ、戻ってくるのだ。そなたは誰を呼びにゆくのだ。
（婁青）誰を呼びにゆくのかは存じませぬ。
（正末）龐衙内を呼んできてくれ。
（婁青）親爺さんは[104]、どうしてあいつを呼ぼうとするのだ。あいつは恐ろしい奴だ。「お上の使いで、来た人に過ちはなし」、胆を据え、あいつを呼びにゆくとしよう。こちらは龐府の入り口だ。（咳をする）
（龐衙内が登場）誰が入り口に居るのだ。
（婁青が会い、跪く）わたくしは役所の婁青。包待制さまがわたしを遣わされ、大人を呼びにこさせたのです。
（衙内）包待制がわたしを呼ぶのはどうしてだ。あのかたは、ほんとうに恐ろしいわい。言いにゆけ、すぐに参ると、
（婁青）かしこまりました。
（正末に会う）衙内を呼んでまいりました。
（正末）通してくれ。
（婁青）旦那さま、どうぞ。
（衙内が会う）老宰輔どの、わたしにいかなる取り柄があって、酒宴を調え、招いてくださったのでしょう。
（正末）老いぼれは西延辺で軍を労い、戻ったばかりで、おんみを招いて一杯飲むのでございます。衙内どの、お掛けください、老いぼれは年老いて、ご無礼がございましょうが、ご寛恕くだされ。これからは、わたしとおんみは一蓮托生。
（衙内）老宰輔どのの仰る通りにございます。われらは一蓮托生にございます。
（正末）衙内どの、老いぼれは西延辺で軍を労い、戻りましたが、珍しい宝を手に入れましたので、衙内どのにお見せしましょう。
（衙内）いかなる物にございましょう。
（正末）生金塔にございます。塔は珍しくございませぬが、卓に置き、誠実な心を持っている人が、三たび五たび拝しますと、塔の先には、五色の毫光の真仏が出現するのでございます。
（衙内）大したものではございませぬな。わたくしは生金閣を持っていますが、風がある処に置けば、仙音は嘹亮として、風がない処では、扇で扇げば、やはり同じように響くのでございます。
（正末）老いぼれは信じませぬ。
（衙内）小者たち、はやく家に行き、持ってくるのだ。
（小者）生金閣をお持ちしました。
（衙内）卓に置き、扇で扇げ。
（婁青が扇ぐ、管絃の音が響く）
（正末）すばらしい物にございます。ほんとうに無価の宝にございます。
（婁青）いずこにて、生金閣が響いているのだ。死んだわたしの舅の霊が戻ったか[105]。
（正末）衙内どの、この宝物は、めったに見られないものにございます。わたしに貸して、妻に見させてくださりませぬか。
（衙内）老宰輔どの、持ってゆかれて、御覧下さい。わたくしたちは一蓮托生。
（正末が唱う）
【沽美酒】小細工をいささか用ゐ、人殺しをぞ騙したる。こは天がおんみに報いを与へたるなり。わたしは口にせんとする言葉あり。返礼の宴をおんみが開くを須ゐず。
（衙内）老宰輔どのが返礼の宴を求められぬのは、ほんとうに良いことにございます。われわれは一蓮托生、酒を飲み、興を尽くして、帰りましょう。
（正末が唱う）
【太平令】酕醄として沈酔し、興を尽くしてはじめて帰る。
（衙内）これよりは一蓮托生。
（正末が唱う）龐衙内には権勢があり、さらに包龍図と一蓮托生。おまへがこちらに居るのなら、半刻足らずで、おまへの身躯を粉と碎かん。
（言う）宴に楽がないならば、楽しめぬわい。婁青よ、歌い手を呼んできてくれ。
（旦児が子役を連れて登場、跪く）訴えごとにございます。
（正末）女よ、誰を訴えるのだ。
（旦児）龐衙内を訴えまする。
（正末）衙内どの、あのものはおんみを訴えておりますぞ。
（衙内）われわれは一蓮托生にございます。
（正末）衙内どの。あの女は、おんみがかれの生金閣を強奪したと申していますが、ほんとうですか。
（衙内）さきほどの閣がまさしくそれにございます。
（正末）おんみはかれをむりに奪って妻として、かれの夫の郭成を殺したと申していますが、ほんとうですか。
（衙内）あのものをからかったのです。
（正末）そのうえ、ばあやを井戸に落として、殺されたのは、ほんとうですか。
（衙内）それもその通りです。
（正末）婁青よ、紙、墨、筆、硯を持ってきて、衙内に署名させるのだ。
（婁青）かしこまりました。旦那さま、言われた通り署名なさいまし。どのみち一蓮托生にございますから。
（衙内）わたしがしました。わたしがしました[106]。わたくしは、いずれにしても、包さんと一蓮托生。
（正末が口を尖らせる）婁青よ、捕まえて、引っ立てるのだ。
（婁青が捕らえる）旦那さま、お出でください。いずれにしても一蓮托生。
（衙内）じじいめ、どうするつもりなのだ。
（正末）婁青、枷を持ってきて、龐衙内を死囚牢へと下すのだ。
（婁青が枷を持ち、衙内に掛ける）衙内どの、枷を掛けられよ。
（衙内）じじいめ、これは一蓮托生ではないぞ。
（正末）皆のもの、わたしの裁きを聴くがよい。龐衙内は権勢を頼りにし、生金閣を騙しとり、良人の婦である李氏に逼って妻として、秀才の郭成をみだりに殺し、ばあやを井戸に突き落とし、殺して、風化を傷ったから、仕置場に護送して、首を斬り、衆に示すとしよう。ばあやの息子の福童は、幼いながら、母親のために復讐したから、大きくなったら才能を考慮して、任用しよう。龐衙内の財産は、福童に一割をやり、養育の費用としよう。郭成の妻は身は凌辱に遭いながら、貞心を変えず、節婦と称するべきだから、賢德夫人に封じよう。やはり龐衙内の財産の一割をやり、護送して帰郷させ、義父母の世話をさせるとしよう。郭成は、特別に、進士を賜い、栄誉を与え、幽壤に光あらしめようぞ。
（旦児、子役ともに拝謝する）
（正末の詞）この龐衙内は、権勢を頼りにし、狂ほしきこと多くして、良民を苦しめて、公道に依ることぞなき。貧乏な秀才は、宝を献じて京師に到り、賊徒は利を見て、悪しき心を生じたり。かのひとの一命を黄泉に喪ぼし、奸淫を恣にし、むりに佳人を求めたり。老いたるばあやを、むごたらしくも、井戸の中へと突き落としたりしかば、虎狼よりさらに凶暴なるを覚えり。王法を論ずれば、首を斬るとも辜にはならねば、財産を原告たちに分け与ふべし。李幼奴の賢德は、褒め称ふべく、かの福童は、長じなば官爵を加ふべし。包待制がよく智慧を施さざりせば、誰かかのものを賺きて生金閣を出だしめたりけん。
最終更新日：2010年11月10日
