漢高皇濯足気英布雑劇
第一折
（冲末が隨何に扮して登場、詩）君王は何事ぞ儒臣を軽んず、博帯褒衣[1]にて身を進むることぞ懶き。酈生の烹殺されし後、漢家に遊説する者はさらになし。
わたくしは姓を隨、名を何ともうし、漢王の配下に仕え、典謁に任ぜられている。わが漢王は、亭長より身を起こされて、豊沛に兵を挙げられた。ただ武夫を重んじて、文臣を尊ばず、儒生を見れば、いつもその儒冠を取って、地面に擲ち、その中に小便をして、罵ることをやめようとせぬ。ゆえにわたしは、幾年かお仕えしたが、官位はただの典謁で、禄は一嚢に過ぎず、とても不満だ。ただ、あのかたは、生まれつき、隆準龍顔[2]、豁達にして度量が広く、いらっしゃる処には、つねに五色の瑞雲があり、その上を覆っているのだ。想うにこれは、帝王の気であろう。我慢して、ひとまず配下に留まって、あのかたのため、百官の朝参を掌り、各国の使者たちを取り次ごう。これ以外、謀略を巡らすことでは、張良に及ぶことなく、将軍を点呼して、出撃をさせることでは、韓信に及ぶことがない。これらはすべてわたくしと関わりないこと。楚を破った後、ともに功名をば立てて、帝業を成し遂げて、官職を授かることをめざしても、悪くはあるまい。本日は、漢王さまがお出ましになり、群臣を召集し、相談をなさるから、こちらで伺候しなければならぬわい。
（外が漢王に扮し、兵卒を連れて登場、隨何が会う）隨何が参上いたしました。
（漢王）ひとまずあちらにおるがよい。
（詩）紛紛として鹿を逐ひ、競ひて雄と称したり。短剣をみづから提げて沛中を出でたれば、五国[3]の諸侯はみな命に従ひたれども、楚の重瞳[4]をにはかにはいかんともすることぞなき。
朕は姓は劉、名は邦、字は季といって、沛の者。秦始皇の死後、諸侯はともに起ちあがり、秦を亡ぼした。その時、朕は項羽とともに楚の懐王にお仕えし、懐王は朕を沛公、項羽を魯公に封ぜられ、それぞれに人馬三万を率いさせ、諸侯とともに関中に入らせた。懐王は、先に関中に入った者が王となることを約束していた。朕は最初に関中を破り、もともとは、その地の王となるはずだったが、いかんせん、項羽は自分が重瞳であり、鼎を持ち上げ、山を抜く力を持っているのを恃んで、いつわって懐王を尊んで義帝とし、自分は西楚の霸王と号し、五国の王を改封し、ことごとく悪い土地の王とした。朕は移され、漢王となり、南鄭に建都した。領国に赴く前に、項王は英布に命じて、義帝を郴で暗殺し、五国の諸侯は、一斉に謀反した。朕は韓信の策を用いて、おもてむきは、桟道を修理して、ひそかに陳倉へと渡り、三秦を攻め取って、五国を奪い、彭越の大軍により、彭城を撃破した。朕は項王がほどなく滅ぶと思っていたが、項王は先に一隊の軍馬を出して、大将の龍且に命じ、彭越を防ぎとめ、みずからは霊壁の東で朕を邀撃した。かれと戦い、人馬は倒れ、そのために、睢水は流れなくなった。さいわいに大風が砂石を飛ばし、向かい合っても顔が見えなくなったので、逃れることができたのだ。こたび、また敗残の兵を集めて、滎陽に駐屯し、わが軍の勢いは、ふたたび盛んになっている。しかし、五国の諸侯らは、朕が敗れたのを見ると、また項王に帰順している。どうしたらよいだろう。とりあえず群臣たちがやってきたら、楚を破る計略を、じっくり相談するとしよう。
（外が張良、曹参に扮し、浄が周勃、樊噲に扮して登場）拙者は張良、韓の者。こちらは曹参、周勃、樊噲。みな沛県の者たちで、今は、漢王の大将となっている。今朝は主君がお出ましで、轅門は大きく開かれているから、中に入ってお目通りせねばならぬわい。
（樊噲）軍師どの、お先にどうぞ。
（隨何が知らせる）
（衆が会う）
（漢王）朕は項王と広武[5]を挟んで駐屯している。諸将は項王には敵うまい。軍師どのにはどんな妙策がおありだろうか。項王を撃破して、もう一度、五国を得、天下を取られるのだろうか。
（張良）愚見では、斉王の田広は項王に憎まれておりました。とりあえず項王に帰順しておりますが、しょせんは仲が良くありませぬ。彭越を遣わして、楚の糧道を襲撃すれば、項王はきっとみずから出撃し、彭越に勝てば、兵を率いてかならず斉を攻めるでしょう。項王の力でも、数十日をかけねば往復できないでしょう。項王の配下には英布がおり、その勇力は項王に勝っております。かのものは四十万の精兵を率いつつ、九江に駐屯し、霊壁の戦では、項王は使者を遣わし、英布が来るのを求めましたが、英布は龍且と仲違いしていたために、病と称して赴こうとはしませんでした。能弁の士に、あのものを説得させて、投降させれば、項王が馳せ戻っても、韓信は前を遮り、彭越は後ろで阻むことでしょう。大王がみずから英布を率いられ、まっすぐに真ん中をお攻めになれば、項王はきっと敗れることでしょう。
（漢王）そなたの策はたいへんよいが、聞けば項王の兵士は、少なきをもって多きを撃つことができ、英布のことをもっぱら羽翼と恃んでいるとか。かれは今、四十万の兵を擁して、九江に駐屯し、項王に信頼されているのであろう。口先だけで説得しても、投降させられないだろうから、韓信の兵を移して、かれを撃ってはどうであろうか。
（樊噲）韓信を遣わすことはございませぬ。大王さまが樊噲に八十万の軍馬を借してくだされば、きっと英布を生け捕ってまいりましょう。
（曹参）今はそんなにたくさんの軍馬はない。
（樊噲）英布の手並みはまことに優れておりますから、二人がかりで捕らえなければ、捕まえられてしまいましょう。
（隨何）臣は英布と同郷で、あのものは若いとき結義した弟でもございますから、二十人の隨臣たちとともに、九江に使いして、かならずや英布の兵をみな漢に帰順させ、大王さまのご命に背かぬようにさせましょう。
（漢王が隨何の冠を取って地面に投げる）つまらぬ儒者が勝手なことを、申しくさって、そなたは朕の幕下にあって、容貌は人を驚かせず、才能は衆に抜きん出ず、すでに数年、誰にも名前を知られていない。今、二十人を引き連れて、九江に使いして、英布を説得したいと申すが、そは蒼蝿で巨鼈を釣るようなもの、餌とするには足らぬわい。
（隨何）大王さまはすでにご覧になられたでしょう[6]、大王が檄を飛ばして項王を攻められた時、おんみずからは、韓信に大軍三十万を委ねて、さらに張耳を遣わされ、補佐をさせられたのですが、半年で、わずかに趙の五十余城を占領したのみ。酈生は三寸の舌を操り、一旅の軍さえ労することなく、数日で斉の七十余城を降したのですぞ。かのものは敵に防備をさせることなく、韓信を用い、歴下の軍を撃破することができました。こうしてみますと、儒生も漢の厄介者ではございませぬ。臣隨何は不才ではありますが、まことに酈生の下にはあらず、もしも英布を説得し、漢へと帰順させられなければ、臣をすぐに烹てください。
（張良）大言壮語しておりますから、行けばかならず、君命を辱しめないことでしょう。上さま、どうかお疑いめされませぬよう。
（漢王）それならば、曹参よ、陣中に行き、二十人のすぐれた兵士を選りすぐり、隨何とともに九江へ遣わすがよい。
（曹参）心得ました。
（樊噲）隨何よ、行って成功できなかったら、わしが手助けしてやろう。あの顔に黥された囚人の毛を掴み、大王さまに見えよう。[7]
（隨何が別れを告げる）二十名の兵士たちよ、命令を聴け、大王の命を奉じて、わたしとともに九江へ行くとしようぞ。
（詩）英布に説いてすべての兵を漢へと帰順させるのは、かならずや金を用いて反間の刑を施すに勝るべし。酈生のごとく斉を売り[8]、油鍋にてくたくたに烹らるることはなかるべし。（退場）
（漢王）隨何は行ってしまったが、朕は一方でひそかに彭越を遣わし、楚軍の糧道を遮り、一方で軍馬を整え、滎陽の南に駐まり、項王を阻みにゆこう。（衆がともに退場）
（正末が英布に扮し、兵卒を率いて登場）それがしは姓は英、名は布ともうし、本貫は寿州六安県の者。若いとき、人相見に逢い、わたしは刑に処されるが、王となるだろうと言われた、二十歳のときに、法を犯して、顔に黥されたので、人はみなわたしのことを黥布と呼ぶのだ。秦始皇の末年に、わが郡は数千人の囚人を驪山に行かせ、労役させることとなったが、途中で雨に阻まれて、進めなくなってしまった。法律によれば期限に遅れた者たちは斬刑となる。わたしはかれらの縛めを解き、自由にさせたが、数千人はわたしの優れたさまを見て、わたしを推して主君とし、兵を挙げ、謀反したのだ。その後、巨鹿で項王さまの軍に遇い、配下となって、いっしょに秦の軍を撃ち、王離を斬って、趙歇を擒にし、章邯を降したのだが、これらはすべてわたしの力によるものだった。項王さまはそれゆえに、わたしのことを信頼し、当陽君の職に封じ、精兵四十万を授けて、九江に駐まらせたのだ。近ごろ漢王の劉季は五諸侯の兵を奪って、彭城を撃ち破り、項王さまと霊壁の東で激しく戦っている。項王さまは使者を遣わし、わたしの軍馬を招き寄せ、漢軍を撃とうとなされた。わたしがどうして病と称して行かなかったのかというと、楚の将軍の龍且めが、胸に嫉妒の念を抱いて、しばしば項王さまに対して、わたしには反逆の意ありと申しておるからだ。項王さまは信じぬものの、わたしを疑われぬわけでもなく、しばしば使者をわたしのところに遣わして、動静を探られている。それゆえにわたしは龍且と仲違いして、並び立つことはできぬのだ。まもなく聴いたところによれば、項王さまは漢兵を撃破され、敵の四十六万の人馬をすべて睢水のほとりで殺され、睢水は真っ赤に染まったとのことだ。項王さまは怒鳴れば、千人をも倒す力があるから、劉季はきっと敵うまい[9]。（唱う）
【仙呂点絳唇】楚将はきはめて多うして、漢軍は僅かなりしかば、まことに他愛なきものなりき。十たびも戦はぬうちに、はや睢水のほとりにて破れたり。
【混江龍】このたびはとりあへずやり過ごし、ふたたび干戈を動かすことなし。
（言う）わが項王は
（唱う）范増と英布を頼りにすれば、韓信、蕭何などは怕れず。われらのみにて楚の社稷をば興さんとして、半分を漢の山河としやうとはせず。つねに威風は奮ひ立ち、断じて鋭気を磨り減らさず、戦場で命を賭けて、かのものが使者を遣はし和議を求むることを許さず。
（丑が探馬[10]に扮して登場）
（卒が知らせる）元帥さまにお知らせします。軍情を探馬が知らせにまいりました。
（正末が唱う）見れば探馬がぱかぱかと旗門[11]の左に闖入すれば、おもはずわたしはぷんぷんと怒りの色を浮かべたり。
（机を叩く）おい斥候、緊急の軍情があるのなら、わたしに知らせよ。
（斥候）漢王が隨何ともうす使臣をよこしてまいりました。そのものは二十騎の人馬を率い、元帥さまを迎えにまいりましたので、つつしんでお知らせもうしあげまする。
（正末が唱う）すべてのことをははといふ冷笑に付す。
（言う）隨何は漢の臣下であり、こちらは楚の陣営なのに、なにゆえにわたしを迎えにきたのだろう。あのものはまことに大胆。
（唱う）
【油葫蘆】かのものはこのわれを三歳の子供のごとく見下して、かくなることをあへてせり。いかなる結果とならんかに考への及ばぬわけでもあるまいに。冷ややかな剣戟の峰に臥し、煌めける斧鉞の叢を過ぐるがごとし。かのものはまことに危ふく、まことに大胆、飛べる蛾の、あたふたと火に投ずるがごときなり。これこそは自らが招きたる災ならめ。
【天下楽】わたしはたちまちかれを殺さん。たとひわたしが活佛ならんとも、などてかは酌量すべけん。
（考える）ああ、あのものの来たわけが分かったぞ。
（唱う）来たりしわけをはや見破れり、かのものは口の内なる言葉をば、陳べ尽くさずと言ふべきも、このわれは胸の怒りを抑ふることを得ざるべし。
（言う）部下よ、あちらで刀と斧を用意し、待機しておれ。
（卒）心得ました。
（正末が唱う）あらかじめ門扇のごとく大いなる人を斬る刀を用意す。
（言う）部下よ、隨何を捕らえてまいれ。
（卒が返事をする）
（隨何が剣を帯び、従者を引き連れて登場）
（卒が隨何を捕らえ、中に入って会う）
（隨何）弟よ、そなたはわたしと同郷で、幼いときから結義した弟でもある。それぞれ別の主君に仕えていたために、ながいこと離れ離れになっていた。本日、そなたを訪ねたのだから、階を降りて迎えればよいのに、どうして仕置人に命じて、わたしをこちらに大勢で推してきたのだ。
（正末が唱う）
【那吒令】説客の御身がわたしに会ひに来たりしものと思はん。結義せし兄がわたしを訪れたるにはあらずして、おそらくは両頼子隨何がわたしを説得せんとしてきたるべし。
（隨何）わしは善意でそなたを訪ねてきたというのに、何たることを申すのだ。そのようにわしに用心するというのか。
（正末が唱う）御身は死より生にむかひて突き進み、功もて罪を埋め合はさんとし、口に任せてひたすら喋るわけにもあらじ。[12]
（隨何）弟よ、自慢ではないが、わたしの舌は蘇秦に勝り、口は范且に勝っているから、すこしでも弁ずれば、そなたが聴かぬはずはあるまい。
（正末）お黙りなされ
（唱う）
【鵲踏枝】御身はさんざん話をし、誘惑すれど、御身はまさに蠍や蜂を刺激して、暴虎馮河の行なひをしぞしたるなる。御身が鎖に掛かるとも、そはなんぴとのせゐにもあらず、友人の情は薄しと咎むることもかなふまじ。
【寄生草】御身が舌を動かせど[13]、わたしは剣の刃を磨かん。胸にはやくも怒りを発し、剣は磨かれ、切れ味はよし。御身の舌は身を亡ぼせる禍ぞ。
（隨何）弟よ、そなたを亡ぼす禍は目前にある。わしはわざわざそなたを救いにきたのだぞ。
（正末が怒鳴る）お黙りなされ
（唱う）わざわざわたしの目前の憂へを救ひにきたりと仰れど、みづからが壕中に坐したるをご存じあるまじ[14]。
（言う）部下よ、縛めを解くのだ。
（卒が隨何の縛めを解く）
（正末）ひとまず呼んできて会おう。（拝礼をする）兄じゃ、まことに驚かれたでしょう。それぞれ主君が違うのですから、どうか気になさらないで下さい。
（隨何）びっくりするにも足りぬわい。ただ惜しむらくは、弟よ、そなたの不幸はまもなくやってくるであろうぞ。
（正末）わたしの不幸がどこからやってくるのです。
（隨何）それならばそなたは三回「禍はない」と言えるか。
（正末）三回はもちろんのこと、百二十回でも言えまする。わたしに何の禍がございましょう。
（隨何）弟よ、そなたは武将で、向かい合い、闘うことを知るのみで、謀をすることを知らぬのだ。項王に信頼されているというが、范増に比べたらどうなのだ。
（正末）あの范増は項王の謀臣で、亜父と呼ばれておりましたから、わたしとは比べものになりません。
（隨何）あの范増は何ゆえに、故郷へと帰らされ、途中で死んでしまったのだ。
（正末）あのものは、陳平が反間の計を用いて、太牢[15]を范増の使いに与え、粗末な食事で項王の使いを持て成したがために、項王に漢へと帰順したのかと疑われ、居巣へと帰らされ、途中で死んでしまったのです。
（隨何）弟よ、范増が疑われた理由が分かっているのなら、御身の今日の禍もまた推して知るべしだろう。
（正末）項王がわたしのことをどう疑っていると仰る。
（隨何）その昔、わが漢王が彭城を撃ち破った時、項王はあわてて斉から馳せ戻ってきた。前方は漢王に城を占拠され、後方は彭越に輜重を襲われ、兵士は疲れ、食糧は竭きたため、勝利できないと思って、わざわざそなたを呼び寄せたのだ。一つには虎威を頼りにし、二つには精鋭の人馬を借りて、士気を高ぶらせようとしたのだ。これはまことに飢えた子が乳を待ち望むかのよう、旱の苗が雨を望んでいるかのようなものであった。ところがそなたは病と称し、赴くことがなかったのだから、項王に疑われまいと思うても、それは叶わぬことであろうぞ。もし項王が漢と戦い、敗れていれば、項王方はそなたを頼り、ふたたび戦の準備をするから、何ごともなかっただろう。しかし今、漢王は大敗し、項王は得意満面、龍且の言葉も、毎日耳もとにあるから、こっそり使臣を遣わして、そなたの罪を窺っていることであろうぞ。これでは范増にもまさる禍を受けるであろうぞ。弟よ、よく考えよ。
（兵卒が報せる）元帥さまにお知らせします、楚国の使者がまいりました。
（正末が驚く）
（唱う）
【玉花秋】いづこにかこの疫病神を追ひやらん、事ここに至りなばいかんせん。楚の天臣に見らるるは、避け難きことなれど、いかにせばよかるらん。
（言う）部下よ、はやく香案を調えて迎えてくれ。
（唱う）われはあちらで迎ふれば、とりあへずこちらに隠れたまへかし。
（言う）兄じゃ、屏風の後ろに身を隠されよ。
（浄が楚の使者に扮して登場）楚王さまの手勅である。英布よ、跪いて聴け。
（勅に曰わく）天はわが楚に幸ひせり。寡人はみづから万騎を率ゐ、霊壁の東にて、劉季を攻めて、その四十六万の甲士を破り、そがために、睢水は一時流れず。なんぢは病で赴くことはかなはざりしも、なんぢに助けらるるほどのこともなかりき。このたびは捷書[16]を発し、なんぢに報せん。なんぢは加餐自愛して、後に会ふことを待つべし。
（正末が跪いて勅を受ける。背を向ける）わたしは隨何の話を聞いて、楚の使者が来て、わたしを罰し、首級を取られるかと思うたが、勝利の知らせだったのだ。前もって、あいつを隠してしまったが、使臣に会わせるのもよかろう。（唱う）
【後庭花】はからずも、楚の天臣はまことのことを話ししかども、このわれは漢の隨何をいつはりて逃がれしめたり[17]。
（言う）使臣が去ったら、
（唱う）わたしは隨何を呼び寄せて、くはしく尋ね、かのものがたくみにごまかし、何をいふかを見るとせん。わたしは風波を起こすにあらず、すべては隨何みづからが禍を招きたるなり。かのもののいかにせんか、いかやうの結末とならんかをとりあへず見ん。
（隨何が出てきて楚の使者に見える）英布どのは、もう漢に帰順されたのに、御身はどうしてこちらに来られた。
（楚の使者）英将軍よ、こちらはどなたじゃ。
（正末は返事をすることができない）
（隨何）それがしは漢王の使者隨何。項王が讒言をする龍且を信じているために、英布は安心してはいられず、九江の兵をみな漢へと投降させたのだ。それがしはみずから二十余騎を率いて、ここまで迎えにやってきたのだ。御身ははやく帰られよ。
（楚の使者）英将軍、御身が漢に降られるはずがあるまい。
（正末が返事をすることができない）
（隨何）弟よ、そなたは漢に帰順したから、楚に背くべきなのだ。二頭の馬に騎ることはできないぞ[18]。今、楚の使者に見られたのだから、殺してしまい、口を封じたほうがよかろう。
（剣を抜き、楚の使者を殺す）
（正末が剣を奪おうとするが間に合わない）兄じゃ、御身には酷い目に遭わされましたな。（唱う）
【金盞児】わたしは驚き、顔はぼんやり、口はあんぐり[19]。御身のごとく邪悪なる心胆の天のごときに大なるはなし。ゆゑもなく狼虎を引き寄せ、屋中にしぞ隠したる。勝利の知らせを届けしものは死罪にすべきものにはあらず、剣を持ち、気のふれたるにや[20]。はからずも御身は楚国の使者を殺せり。御身のせゐで、わたしも葬り去らるべし。ああ漢の隨何どの。
（言う）部下よ、隨何を捕まえるのだ。かれを送って、みずから項王に会いにゆこう。
（卒が返事をし、隨何を捕まえる）
（隨何）縛るには及ばぬわい。そなたとともに項王に会いにゆこうぞ。項王のそば近くには、そなたの敵の龍且もおろう。わたしは説客でもあるから、そなたがすべての兵を漢へと帰順させ、わたしに二十騎を率いさせ、迎えにこさせた、楚の使者を殺させて、口封じしたのもそなただったと極めつけるとしよう。そなたが一句話しをすれば、わたしは十句言い返そう。項王はわたしのことを疑うだろうか、それともそなたを疑うだろうか。龍且はわたしを謗るだろうか、それともそなたを謗るだろうか。
（正末が溜息をつく）ああ、このものを捕まえて、項王に会いにいっても、このものは口が達者で、口の中には女房の舌を含んでいる[21]。わたしはがさつな武将だから、あちらに行っても、ぷんぷん腹を立てるだけで、すこしも言い負かすことはできないだろう。仕方ない。御身が行かれる必要はない、部下よ、とりあえずこのものを自由にするのだ。
（卒が釈放する）
（正末が唱う）
【雁児落】楚王がもしも英布に問わば、
（言う）項王は問うであろう、「かれは漢方、御身は楚方、もしも御身が手紙を持ってかれを迎えにゆかなかったら
（唱う）かれはどうして二十の人々を率いて、陣中に来て、騒いだりするだろうか」と。そのときわたしはどのように答えるべきだと思し召される。
（隨何）弟よ、そなたはすでにすべての兵を、漢に投降させたと申せばそれでよいのだ。
（正末）事ここに至っては、漢へと帰順せぬわけにまいりませぬ。ただ一つ、兄じゃに話したいことがございます。わたしは楚では、項王のすこぶる厚い待遇を受けていました。漢王が項王よりも手厚くわたしを遇されるなら、喜んで楚に背き、漢に従うことにしましょう。
（隨何）項王はそなたを手厚く遇しておらぬ。巨鹿を救い、秦関を破り、義帝を弑した功は小さなものではないが、項王はそなたを当陽君に封じただけだった。わが漢王は豁達にして度量が大きく、城邑を取ればすぐさま恩賞を与え、少しも惜しんだことがない。それゆえに、英雄の士は、みな心服しているわけだ。弟よ、韓信を見たであろう。かれはもともと逃亡をした将軍だったが、漢王は、蕭何の薦めを聴きいれて、その日のうちに台を築いて、大帥[22]に任命したのだ。ましてそなたの英名は、ながく知られているのだから、漢王は、きっとそなたを重用されよう。王侯を手に入れるのは、手のひらを返すがごときものであろうぞ。弟よ、すみやかに投降を決心するのだ。ぐずぐずとしてはならぬぞ。
（正末が唱う）
【賺煞】わたしを急きたて、唆すことなかれ。英布もこれより参るべし。はからざりき、重瞳に最後まで仕ふることの叶はざらんとは。嫁たるものが、先に舅と姑を憎みなば、いかでか生くることを得ん[23]。目を睜りつつ、黄河に跳びこめるがごとし。御身はわたしが鼻高き君王に帰順せば、重用せられんとぞ言へる。しかれども、御身には多くの謀があり、たちまちにわたしを瞞き、どつちつかずとなすならん[24]。
（卒がともに退場）
（隨何）英布は漢に帰順した。楚の使者を殺さなければ、あのものは、頑として投降しようとしなかったろう。わたしは昔、漢王のもとで、大風呂敷を広げたが、はたして言った通りになって、儒生のために面目を施したわい。英布の兵が出発するとき、わたしは二十騎を率い、後から進発すればよかろう。
（詩）兵事は測りがたきもの。当陽はわづかなる言葉にて、たちまち召しに応じたり。これより儒冠は安泰にして、君王の溺に染むるを免れん。（退場）
第二折
（正末が兵卒を率いて登場）わたしは英布。項王の配下にあって、四十万の衆を擁して、九江を鎮守していたが、王には封じられなかった。それゆえに、心はつねに楽しまなかった。はからずも、隨何の弁ずるのを聴いて、楚に背き、漢に従った。ずっと進んで、成皋関に近付いてきた。漢はどうして何らの糧秣さえも供せず、人馬を迎えに寄越さぬのだろう。おそらくわたしを呼び寄せたのは、隨何一人の考えで、漢王はまだ知らされていないのだろう。
（溜息をつく、詩）ああ。わが君[25]に最後まで仕へざりしは、同輩に一時の怨みがありしためなり[26]。ふたたび漁師の手に掛かりたることをはやくも悟れば、あらためて釣り針を呑むことはなからん。部下よ、随何を呼んできてくれ。
（卒）隨大夫さま、お入りください、
（隨何が兵卒を率いて登場）事の心に掛かるにあらず、心に掛くる人ぞ乱るる。わたくし隨何は三寸の舌を操り、九江に使いして、英布に説いて四十万の人々を、漢王に帰順させ、もう成皋関に到着した。英布が人を遣わしてわたしを呼んでいるのだが、漢王が迎えにこないからだろう。あのものが話しはじめるのを待てば、わたくしが嘘をついたことになる[27]。今からかれに会いにゆこう。おのずから考えがある。（会う）弟よ、楚と漢が戦っていることを存じておるか。
（正末）存じませぬ。
（隨何）わが漢王は項王と、広武江を挟んで布陣し、項王はわが漢王と面会し、力比べをしようとした。わが漢王は、知恵を比べるならよいが、力比べはしないと言われ、項王の十大罪を数えあげた。項王は激怒して、隠してあった弩を漢王の足指に命中させた。それ以来、漢王は、営門を堅く閉ざして、その中で傷を養い、重要な軍情さえも、まったく通報させぬのだ。
（正末）さようなことは存じております。わたしはこたび、成皋関にやってきて、わずか一射の地を隔てているのみですのに、漢軍はなぜ糧秣を、わたしの軍馬に、すこしも供してくださらぬのでございましょう。これはまあよいとして、尋常の投降受諾の礼に従い、人を遣わし、わたしを迎えるべきでしょう。
（隨何）弟よ、わたしは先に漢王に報せにいって、半張の鸞駕[28]を整え、出迎えさせるが、貴殿は如何思し召される。
（正末）これ以上、兄じゃを煩わすわけにはまいりますまい。
（隨何が別れる）これは典謁であるわたしの務めであろう。
（詩）とりあへず単騎で去るも、八鸞[29]がほどなく迎へん。（退場）
（正末）隨何は行ってしまったが、漢王が矢傷を患い、出迎えをすることが適わなくとも、将官が数人で迎えるべきだ。部下よ、兵馬にゆっくり進むよう命令してくれ。（衆が返事をする）
（正末が唱う）
【南呂一枝花】帝王の宣旨に従い、将軍の命令を受くるよりましなれば、反逆をせず、騒擾をせぬわけにはゆかず。今、両国は争ふも、風雷の性[30]をほしいままにせず、とりあへず何も分からぬふりをして、漢の城へと入るとせん。このわれも上辺の言葉を信じ込み、剣をもて、遣はされたる使者を斬るべきにはあらざりき。
【梁州第七】わたしはまことに、劉を興して、楚を滅ぼさんとしたるなり。にこにことして、暗君に背を向けて、賢君にしぞ身を寄せる。これぞまさしく、太平はもとは将軍が定むるなり。かのもの[31]が人の頭を提げて抛ち、熱き血を噴き、注がしむとも、勢ひは勇ましく、威は猛くして[32]、勝敗を決せんとせり。きつちりと、将軍を率ゐつつ兵士を並べ、わあわあと、虎は闘ひ、龍は競へり。湿りたる雪に臥し、霜に眠りしこともあり、ごつごつとした山に登りて、嶺を越えたることもあり、こつそりと陣を襲ひて、砦を奪ひしこともあり。隨何よ、わたしは御身とは幼馴染の兄弟なりしに、なにゆゑぞ漢王はわたしのことを敬ふことなき。御身はかれが龍顔[33]にして真命[34]なりと言ひたれば、わたしは楚国の重瞳をいと軽んぜり。ああ。隨何どの、仰りし通りになされよ。
（卒が知らせる）元帥さまにお知らせします。もう成皋関に入りました。
（正末）隨何が行ってずいぶんたつのに、なぜ漢王が出迎えにこないのだ。これも怪しい。（考える）どうして隨何も来ないのだ。部下よ、砦を築いてくれ。
（卒）心得ました。
（正末が唱う）
【隔尾】わたしはここに陣を布き、心を鎮めつつ待ちて、眼を怒らせ、眉を顰めて、耳をそばだてつつ聴けり。高き声にて、隨何よ、御身は一歩あるかば、八つの嘘をつくものなりと叫ばんとせり[35]。まことに呼べども答ふることなし。人がわが動静を見にきたるかと思ひしも、
（見て、言う）違うわい。
（唱う）人が来て、わが命令を聴くかと思へば、
（見る）また違うわい。ぺっ。
（唱う）こはそも風がひらひらと轅門の繍旗の影を動かせるなり。
（隨何が登場）
（正末が会って怒る）御身の半張の鸞駕は、今、どこにある。
（隨何）弟よ、わたしは嘘をついてしまった。漢王さまの矢傷が癒えたら、半張の鸞駕で出迎えるのはもちろん、全副の鸞駕も難しくはなかろう。ただ、傷口がいまだに治らないために、漢王さまをお疲れさせるわけにはゆかない。くわえて、周勃、樊噲などの大将たちは、気概を尊ぶものたちなので、漢王さまの御前にて、御身は投降してきたばかりで、わずかばかりの功績もない、昔から、君王が投降してきた将軍をみずから迎える礼儀はないと言ったのだ。わたしはそなたの勇力は、他の将軍の比ではないと思うたから、舌が半分擦り切れるほど話をしたが、最後には、漢王さまが樊噲たちに阻まれたため、わたしは嘘を申したことになってしまった。どうしたらよいだろう。
（正末）かくなる上は、かれが迎えにこないからとて、九江に戻るわけにもまいりませぬ。今、漢王はどちらにいらっしゃるのでしょう。わたしが会いにゆくとしましょう。
（隨何）漢王さまは、帳の中に臥してらっしゃる。わたしといっしょに陣に入って会うとしよう。
（正末が古門を臨む）
（漢王が二人の宮女を率いて登場、足を洗う）
（正末が怒る）（唱う）
【牧羊関】あきらかに見る、劉沛公の両足を洗はせて、当陽君をちらとも見ざるを、わたくしは腹を立て、雷霆[36]を抑へ得ず、目を睜りつつ、ゆつくりとぐるぐる回り[37]、ぷんぷんとして、さらに身震ひをも添へたり。おぼえずわたしは怒りは胸に、憎しみは胆に生ぜり。「客に会ふときは客となるときのごとくせよ、人を軽んぜばみづからが軽んぜられん」といふにあらずや。
（天を仰いで髯を扱き、気を噴く）けしからぬ劉季めは、足を洗わせつつ面会し、あきらかにわたしのことを糞土のように軽んじている。こたびはまことに失敗だった。部下よ、軍令を伝えよ。今すぐに陣を抜け出し、わが九江へ戻ってゆこう。
（隨何）弟よ、そなたは戻って、ふたたび項王に会うのか。
（正末）会わないはずがございませぬ。
（隨何）弟よ、項王に見えれば、項王は、「そなたはわしの使者を殺して、すべての兵を漢へと帰順させようとしたが、漢王がそなたを用いなかったから、楚の国に帰ってまいったのであろう。楚の国が無縁仏の祭壇で、そなたが勝手に行き来するのを、すこしも禁じぬはずはあるまい」[38]と言うだろう。龍且も脇から、何度も唆すだろう。あの項王はすばらしい性格だから、ただ一声、「仕置人よ、轅門から推しだして、斬りおわったら知らせてくれ」と言うだろう。そのときは悔いても遅いぞ。
（正末）確かに仰る通りです。わたしは今や、家はあっても身を寄せ難く、国があっても身を寄せられなくなりました。御身のために酷い目に遭わされました。
（隨何）弟よ、とりあえず嘆くのはやめるのだ。
（正末が唱う）
【哭皇天】誰かかやうに口に任せてでたらめな答へをなしたる。おそらくは心の知れたるよき友の御身なるべし[39]。劉沛公とは君臣の新しき誼なし、ああ、隨何どの、わたしは御身と兄弟の旧き誼なし。
（隨何）わたしはもともと漢王が項王の隠してあった弩を足指に中てられて、傷口が癒えぬので、足を洗っていると言ったぞ。
（正末が唱う）御身隨何は悪巧みせり。御身が昔の友にあらずば、このわれの一生の怒りやすさと、半生の猛々しさをもつてして、佩びたる剣を支楞支楞と響かせて、御身の口が達者なりとも、たちまち異郷に死なしめん。
【烏夜啼】そのときに漢の隨何は、わが天臣の命をば償はざらんや。劉沛公の顔を見しかど、名に聞けるほどのものにはあらざりき。御身は相持し、相競ひ、わたしの疾駆する軍馬、縦横の武芸を用ゐず。御身は楚の江山を火の上で氷を弄ぶがごとくすることはなく、漢の天下を碗内の蒸餅[40]を取るがごとくにすることはなかるべし[41]。ああ、隨何どの、何ゆゑぞ話されず、答へられざる。これよりは、将軍は馬より下りず、それぞれがわが道を行くとせん。
（隨何）弟よ、ひたすら心を楽にして待つがよい。漢王さまはきっと御身を重用されよう。
（正末）足をば洗うご厚意を、わたしはすでに賜わりました。諺に「一番目の酢が酸くなくば、二番目の酢も濃くなし」と申します[42]。これ以上、待っても詮ないことでしょう。楚国に戻るわけにもゆかず、天下には七尺の身を置く場所がございませぬから、剣を抜き、自刎したほうが宜しゅうございましょう。（剣を抜く）
（隨何が剣をおさえる）
（正末が唱う）
【罵玉郎】ああ。誰かわが青鋒の柄をきつく握れる、またもや隨何先生か。
（隨何）弟よ、早まるな。螻や蟻さえ、命を貪るというのに、人たるものがどうして命を惜しまないのだ。そなたは蓋世の英雄で、右に投降したときは、右に尊ばれ、左に投降したときは、左に重んじられようぞ。いずこでも功業を立て、いずこにあっても王侯を得られるものを、自尽しようとするとはな。これぞまさしく、匹夫匹婦の料簡で、まことに浅はか。
（正末が唱う）御身はわたしが、蓋世の英雄にして、並ぶものなく、ある国に投降をせば、その国に尊重せられ、功業を立てんと欲せば、功業は成り、王侯を得んと欲せば、王侯とならんと言はれぬ。
【感皇恩】わたくしは、溝涜に自経せる愚夫愚婦とならんとし[43]、命を惜しめる螻や蟻にも及ぶことなし。懸命に絳紅の纓を断ち切り、犀皮の胄を剥ぎ取りて、血は征袍の領を染めたり。これよりは、騒がしく地を奪ひ、城をば攻むることを終はらせ、烈しく名利を争ふことをやめにせん。遊魂は散り、いづれの時にか休らはん、遺骸は誰にか葬らしめん。王侯将相たるべきも、むざむざと黥に遭ひしのみなり[44]。
（言う）自刎するべきではないと仰るが、今となっては、漢に仕えず、楚にも帰らず、四十万の大軍を引き連れて、また鄱陽湖へ盗賊をしにゆくとしよう。
（隨何）弟よ、そなたが王に封じられるのは、まもなく項羽を滅ぼせば、嚢の中の物を取るのも同然であるというのに、盗賊の大王になろうとするとは、まことに意気地がないことじゃ。
（正末）お黙りなされ。（唱う）
【采茶歌】これよりは、すみやかに兵を駆り、すみやかに陣を離れて、鄱陽湖に赴きて、思ひのままに振る舞はん。ひとまずかれら鷸蚌が闘いて、ともに斃るる日を待ちて、漁師のわれは笑みを含みて、ふたたび中興するを待つべし[45]。
（言う）隨何どの、御身の口をお借りして、漢王さまに言伝てん。わたしが去るのは二十人の楚の霸王でも、阻み難しと。（唱う）
【煞尾】劉沛公がこのたび無礼なりしため、漢の天下は十年太平ならざらん。かのものは尊大に振る舞ひて、権威をばひけらかさんとし、このわれを糞土のごとく汚らはしく、草芥のごとく軽しと思ひなしたり。われは怒りて大軍を率ゐつつ、故郷に帰らん。汗は湯を濺ぐがごとく、怒りは雷の轟くがごと。二十人の霸王に当たらば、支ふることは能はざるべし。われに説きたる御身をも、ただではすまさじ[46]。
（隨何）弟よ、わたしの話すことを聴き、さらに待つなら、重用される日もあるだろう。
（正末が怒鳴る）お黙りなされ。
（唱う）誰が御身の無道の君を聖明なりとなすべけん。
（兵卒を率いて退場）
（隨何）漢王さまは足を洗いつつ英布に見えた。これはことさら英布を軽んじたのではなく、かれを罵らせるための演技だったのだ。英布が無敵であるのを恃んで、漢を侮る心があるのを怕れたために、かれの鋭気を挫いたのだ。ましてや英布はもともとは鄱陽の大盗だったから、深い考えはないのだ。かれが砦に戻ったら、おのずと牢絡する術もあるだろう。漢王さまは豪傑を操られたのだ。英布はすでに陣に到着したことだろう。ふたたび会いにゆくとしよう。（退場）
第三折
（漢王が張良、曹参、周勃、樊噲、兵卒を連れて登場）朕漢王は、さきに、隨何を九江へ赴かせ、英布に投降するように勧めさせたが、ことさらに二人の宮女に足を洗わせ、英布に見えた。聞けば英布は大いに怒り、剣を抜き、自刎しようとし、陣に戻ると、大軍を引き連れて、鄱陽へ戻り、盗賊をしようとしているとのことだ。これは英布のいつものやり方。想えば、君主が梟将を御するのは、鷹を養うようなもの。鷹は空腹であるときは人に懐くが、満腹すれば飛びあがるもの。こたび英布はわたしに帰順してきたばかり。楚との誼はすでに絶え、漢との誼は固まらず、今はまさしく、空腹で人に懐く時期にあたる。朕はまず光禄寺に酒宴を設けさせ、教坊司には歌児舞女を選ばせて、あのものの陣中に行き、持て成させ、あのものが喜ぶか喜ばぬかを見るとしよう。その後で、子房に命じて、曹参ら将官たちを連れてゆき、ともに持て成し、懇ろな朕の気持ちを伝えれば、きっと喜ぶことだろう。もしも怒りが鎮まっていない時には、朕がさらなる手を打てば、あのものはかならずや朕といっしょに楚王を破ることだろう。子房よ、そなたはどう思う。
（張良）王さまのご高見は、拙者と同じにございます。聞けば項王は龍且を遣わし、魏を救い、韓信を防ぎとめ、みずから大軍を率いて、彭越を外黄に撃っているとか。愚見では、彭越は項王にかないませぬから、外黄はきっと破れることでしょう。外黄が破れれば、楚軍はますます勢いを増しましょう。こたび英布が投降いたしましたから、侯の印をかれに与えて、本部の人馬を率いさせ、彭越を救いにゆかせ、二人して項王を攻撃させればよろしいでしょう。この機を逃がされてはなりませぬ。
（漢王）朕の考えは、まさにそのとおりのものだ。今から子房は諸将とともに英布の陣に行くがよい。朕は後からそちらへ行こう。
（張良）曹将軍どの、英布の陣へいっしょに行って、持て成しをするとしよう。
（樊噲）英布には何も能力はなく、どこにいたとて、顔に黥された男にすぎませぬ。先ほど、あいつに会われた時に、真っ先にあいつの鉄の帽子を剥ぎ取り、尿を中に撒かれればよかったのです。どうして二本の臭いみ脚をあいつに嗅がせただけだったのです。あいつは鼻詰まりですから、香りも臭いも分からずに、頭を下げようとはしなかったのでございます。わたしたちは、今からあいつの砦へとまいりましょう。軍師どの、御身はわたしに従われませ。わたしは殴り合いをして、先にあいつを転ばせて、仰向けにして、わが面目を失わぬようにいたしましょう。
（曹参）樊将軍よ、余計なことを申すでない。どこへ行っても、軍師さまの仰る通りにすればよいのだ。（ともに退場）
（正末が兵卒を率いて登場）
（詩）思ひ通りにならざることはつねに十中八九なれども、人に語れることは十中二三さへなし。
わたし英布は九江の四十万の人々を挙げ、漢王に投降し、かならずや重用されると思うていたが、漢王は足を洗って、あきらかにわたしのことを糞土のように軽んじたので、あやうく怒りで死ぬところだった。これよりは大軍をふたたび率い、鄱陽湖に盗賊をしにゆこう。部下よ、軍令を伝えてくれ。砦を抜けて、もときた道を通って出発するとしよう。
（衆が返事をする）
（正末）隨何はわたしの幼馴染の兄弟なのに、騙しにくるとはけしからん。あのものを殺さなければ、怒りは晴れぬ。（息を噴きだす）
（隨何が料理人を連れ、宴席を運び、四旦が妓女に扮して登場）弟よ、こちらへ来てくれ。漢王さまはそなたをきっと重用すると仰せになったが、これより、光禄寺には、宴を設けさせ、教坊司には、歌児舞女を選ばせて、饗応させるぞ。
（正末）その宴席はやめにしましょう
（唱う）
【正宮端正好】わたしは江淮をば鎮め闘ひをなからしめ、まことに気ままでゆつたりとせしかども[47]、わたしが王に封ぜらるべしといふ、嘘つきで、天を欺く隨何の口を、はからずも信じたり。
【滾繍球】なんぢが皓き歯で謳ひ、錦の瑟を爪弾きて、二列の翠裙紅袖を列ねつつ、百種の珍味を並ぶとも、いとど醜く思はれぬ。口のみのため、酒肉を喰らひしことはなし。なんぢのせゐで、国はあれども身を寄せ難く相成りぬ。たとひなんぢが肉麺[48]の山を築くとも、胸の怒りは抑へきれず。酒醴の海を掘るとも、顔の怒りは雪ぎきれず。いかで楚国の亡囚[49]となるべけん。
（張良が曹参、周勃、樊噲とともに登場、入って会う）
（張良）わが君は足傷がいまだに癒えなかったため、先ほどははなはだ失礼いたしました。拙者は大将たちといっしょにご挨拶にまいりました。一つには主君に替わって罪を請うため、二つには御身をお持て成しするためでございますれば、お咎めになりませぬよう。
（正末が返事をしない）
（樊噲が強がりを言う）あいつは今でも怒っているのでございましょう。わたしはあいつをたちまちに十八回転ばせてやりましょう[50]。
（張良）酒をもて。（酒を運ぶ）この杯を干されよ。
（正末が受け取らない）（唱う）
【倘秀才】われはおみらと参辰卯酉[51]、みだりに出される茶や酒を飲みたくはなし。
（隨何）弟よ、こちらは軍師の張子房どの。
（正末が唱う）ああ、桟道を焼かれたる先生は、二度と現れざる御仁。御身は昔、さんざんに謀略を施されたり。
（隨何）これなるは建成侯曹参どの。
（正末）曹参どのは、牢番をなさるがお得意。
（隨何）こちらは威武候周勃どの。
（正末）周勃どのは、簫を吹き、葬送をなさるがお上手。
（隨何）これなるは平陰侯樊噲どの。
（正末）樊噲どのは、豚を裁いて、狗殺しするがお得意。
（樊噲が怒る）わたしが狗殺しであったのがおかしいか。こら、御身は黥布[52]ぞ。このわしはそなたのように殺人、放火、強盗をしたりはせぬぞ。
（正末が唱う）
【滾繍球】樊噲さへも万戸侯とぞ相なれる。かれはわたしと比ぶれば、ただ狗を殺し得るのみなれど、君王の旧友なるをさいはひに、百万の貔貅を率たり。かれはわたしと旧友にあらざれば、あだに手を拱きて、今上に推薦をしにゆくことぞなき。ああ、子房も懦弱なる男。御身らは池の緑の水を独占せんとして、よそ者に釣舟をおろさせず[53]、われをしていづこにか釣をせしめん。
（張良）主君は拙者に、諸将を連れて、お相手をしにこさせたのです。飲まれないなら、主君の顔が潰れましょう。
（正末）わたくし英布は四十万の大軍をすべて率いて、遠い九江からここに来て、漢王に目通りしたが、漢王は人間としての礼節で持て成さず、寝床に坐って、足を洗って、わたしのことを糞土のように軽んじたのだ。本日の酒が金波か玉液であろうとも、英布は福が薄いため、飲むことはできぬのだ。
（隨何）弟よ、そなたもいささか怒りすぎだぞ。わが漢王は足の矢傷が癒えぬため、きれいに洗って、膏薬を貼りやすいようになさっていたのだ、くわえてご幼少のころから脚気を患われているために、人を接見するときは、十中九は足を洗ってらっしゃるのだぞ。
（正末が唱う）
【脱布衫】そのかみは、豊沛県にて草履屋の団頭となりて[54]、朝にはつねに露の中にて牛を探して[55]、驪山の駅へと人夫を見守りつつ歩き、狗皮を纏ひつつ、酔ふて石臼に眠れり[56]。
【小梁州】これぞまさしく、幼きときより汚なき病に罹りたるなり。「良薬を服するは、諌言をすんなりと納るるがごとし」とぞいへる。御身のごとく賢士を軽んじ、謙ることのなきものはなければ、わたしは怒り、敵となりたり。今となりては、零れし水をいかで収むることを得ん[57]。
（漢王が冲末が扮した勅命を読む役人を連れ、兵卒が牌と剣を捧げ、車を推して登場）
（卒が知らせる）聖駕のお出まし。
（冲末が上座に立ち、勅命を読む）漢王さまの手勅であるぞ。英布よ、跪いて聴け。
（勅）聞くならく、良き鳥は木を択んで宿り、忠臣は主君を選びて仕ふるなりと。なんぢ当陽君英布は、もとは楚の将なりしかど、寡人のもとに帰順せり。主君を選ぶ炯眼がなかりせば、こちらへと来ることもなかりけむ。今、項王は龍且を遣はし、魏を救ひ、わが韓信を阻みつつ、みづから二十万騎を率ゐ、彭越を外黄に撃ちつつあり。特になんぢを九江侯、楚を破る大元帥に任命せん。ただちに本部の軍馬を率ゐ、彭越の応援にゆき、もろともに項王を討てよかし。功成りし日は、さらに恩賞をば取らせん。なんぢそれ欽んで、恩徳に謝せ。
（正末が跪き、詔を受ける）
（卒が牌と剣を捧げ、正末が上坐に立つ）
（漢王が拝礼をしながら送る）元帥どの、牌と剣とを受けられよ。
（卒が車を推して登場）
（漢王）元帥どの、車に乗られよ。寡人がみずから轂を推そう。
（正末が車に乗る）
（漢王が跪いて轂を手に取る）天より下、地より上、いやしくも漢室に利するものは、元帥これを制すべし。[58]
（卒が牌と剣を持って先に進み、漢王が車を推して三たび回る）
（正末が車を下り、漢王に拝礼する）
（漢王）酒をもて。
（妓女が酒を斟ぐ）ご酒にございます。
（漢王が跪き、杯を送る）元帥どの、この杯を飲み干されよ。
（正末が跪いて受け取り、飲んで起ちあがる）（唱う）
【幺篇】紅妝[59]を来たらしめ、黄封の酒[60]を進むるかと思ひしが、劉沛公が手づから金甌をば捧げ、相勧め、懇ろにせり。
（言う）漢王に会ったら幾度か罵ってやろうと思っていたのだが、今では何も言うことはない。
（唱う）天威によりて、はやくも口を閉ざしたり。ああ、英布よ、そなたは、上辺は銀の鑞の槍なり。
（正末が背を向ける）今日のこの一杯の酒は大したものではないが、後の世の人々に、漢王が某年某月某日に、英布の陣で跪き、一杯の酒を送ったことを知らしめることができれば、わたし英布はすぐ死ねといわれても、死ぬことができるであろう。（振り返って、拝謝する）大王さまにはお酒を賜わり、有り難うございます。（唱う）
【叨叨令】御身漢劉王さまは、龍椅に端坐し、受けたまへかし。はやくも来たりし張子房には、半句の偽りさへもなし。光禄寺は幾度も前後に行き来し[61]、教坊司[62]は笙歌を奏でたり。まことに楽し、まことに楽し、かやうなる楽しみを誰か享くべき
（言う）漢王は大臣たちに会うときは時々罵ることがあり、まったく礼儀正しくないと言われているが、今日見てみると、すべてはでたらめであった。（唱う）
【剔銀灯】思ふに、ぺらぺら言ひたることの、十中九はでたらめにして、みだりに喚きたるのみならん。麒麟をば打ち殺す手をひろげ[63]、今すぐに諸侯を罵り尽くすべし。そもそもかれが罵るは郷間漢、田下叟のみにて、英雄の輩と仇となることはなかるらん。
【蔓青菜】かのひとは、胸と腹とをはだけて袍袖をばはおり、相も変わらず、枌楡社か、秋の麦干し場にあるごとく[64]、にこにことして気ままなり。吐哺握髪して名士を迎ふることはなけれど、こもわれが風雲に際会せるなり。
（漢王が酔うて眠る）
（張良）わが君は酔われましたから、隨大夫どの、お護りし、陣に戻っていってくだされ。
（隨何が漢王を扶けて退場）
（張良）お訊ねしますが、元帥どの、いつ兵を動かして彭越を救いにゆくのでございましょうか。
（正末）大王さまは陣に戻ってゆかれてしまった。彭越を救うのは、火を消すようなものですから、一時もぐずぐずしてはなりませぬ。わたくしは本日中に命令を出し、兵を率いて項王を撃ちにまいりましょう。
（樊噲）元帥の牌と印とはわたしに譲ったほうがよかろう。その昔、鴻門の宴では、わたしは兜鏨も着けないで、轅門を守る兵士をたちまちに打ち倒し、項王は驚いてその座からころころと転がり落ちたが、御身はそれをご存じか。
（張良）この間、韓信は元帥を拝命すると、壇上で点呼して、真っ先に大将の英蓋を斬りました[65]。本日の英元帥もわが君がみずから任命された方。牌と印とを手に持ってらっしゃいますから、御身の首を斬ろうとするのは、まことにた易いことですぞ。
（樊噲）こいつに首を斬られるのなら、狗殺しをしたほうがよいわい。
（正末が唱う）
【柳青娘】あきらかに、わが君はご酒をお召しになりたれば、近辺を驚かし、奏聞すべきにはあらず。わたしは張子房どのに、愁ふることなく、英布の戈矛[66]を統ぶるを見よと言ひ含めん。このたびは無理をして大言壮語するにはあらず、楚の重瞳はこの世で天に亡ぼされ、漢劉王は軍州に覇たるべし。かのもの[67]は雀が鷹に逢ふかのごとく、羊が虎に遇ふかのごとく、たちまちにしぞ滅ぶべき。
【道和】軍を収めて、軍を収めて、江山の安穏にして、ことごとく劉に属して、わづかばかりも求むるところのなきを見ん[68]。想ふにご恩は厚くして、享くるのも忝きほど。報いんとする願ひを果たすは難ければ、ぐづぐづとすべきにあらず。ぱかぱかと軍馬は驟く、争はば、みな形勢を見て逃がるべし。争はば、みなわが手の内にて死せん。戦場は血に塗れたる死骸を横たへ、ひたすらに戦へば馬の前にはころころと、死人の首級が転がれり。
【啄木児尾】彭越の憂へを除き、睢水の仇に報いて、ひたすらに戦ひて、天まで届く江河の流れを堰きとめて、これより後は、鴻溝を双方の境となさん。（卒とともに退場）
（張良）英布は兵を率いて楚を攻撃しにいった。項王がふだん恃みとする大将は、英布、龍且があるのみだ。思うに、龍且はがさつな男で、かならずや韓信の手に掛かるであろう。項王は龍且が死んだことを聞けば、きっと怯えることであろう。さらに英布が漢に帰順し、自分を撃ちにきたのを見れば、きっと戦うことはなく、外黄の囲みを解いてしまうであろう。その上で、彭越の軍馬を出して、英布とともに項王を挟撃すれば、項王はきっと敗走するであろう。一方で韓信に通知して、あのものを迂回して夏陽へ出させ、項王の退路を絶てば、かならずや項王を捕らえることができるであろう
（樊噲）そのようにきちんと考えられたのでしたら、わたしも軍馬を整えて、項王をいっしょに攻めにまいりましょう。ただただ陣の中にいて、狗を殺して食らうわけにもまいりますまい。
（張良の詩）英雄黥布は軍を出だすを肯んぜり、天が楚国を亡ぼすはまさに今なり。轅門に勝利の宴を整へて、子供には『大風』[69]の詩を唱はしむべし。（曹参らともに退場）
第四折
（漢王が張良、曹参、周勃、樊噲、隨何を連れ、二旦が符節を持って登場、詩）霸王は昔長江を渡りきて、一騎の烏騅に百万の軍は開けり。沛上に真龍の起これるを知らんと欲せば、こころみに見よ陣前の大会戦を。
朕は軍師の計を用いて、英布に命じて彭越を救いにゆかせ、ともに項王を撃ちに行かせることにした。何日もたったがいまだに勝報が来ぬ。まことに待ち遠しいことじゃ。
（張良）拙者はすでに健脚の忍びの者を、陣頭に遣わして、様子を探らせ、勝敗を見ば急報せよと命令をした。今、一通の信風が来たから、拙者はそれを袖に入れ、伝えよう[70]。おそらくは吉報が来たのであろう。
（隨何）彭越はもとは漢家の猛将ですが、今また英布が加わって、項王を二人で挟み撃ちにしました。項王は勇猛ですが、前後から攻められるのには耐えられますまい。この戦いは、保証をしても構いませぬが、勝ちあるのみで負けはないことでしょう。
（樊噲）御身はまたも弁舌を弄しておるな。その昔、彭城を撃破したとき、項王は斉から三日三晩で馳せ戻ったのだ。人馬は走り疲れていたので、味方の諸将は城の中から突撃し、彭越は城の外から突入し、項王の前後を攻めたが、かれは単騎に一本槍で、突撃してきた。人々は退却し、それぞれ逃げて、漢の四十六万の人馬はすべて睢水に落ちたのだ。さいわいに死人が多く、睢水が流れなくなったので、われわれは、戦死者の死骸の上を、馬に騎りながら逃げ、ようやく難を逃れたのだ。今、話しても、わが胸と胆はどきどきと動くわい。御身は顔に黥された囚人が加わったとて、そのような色よい話をしておるが、陣頭で保証書を立てねばならぬ、御身の達者な口ならば保証できても、このわしは保証はできぬ。
（正末が斥候に扮し、旗を執り、後方にとんぼ返りをうちながら登場）ものすごい闘いだ。（唱う）
【黄鍾酔花陰】ただ見るは、楚漢の鋒を交へて天下を争へる。楚国の霸王が喜んで負くるはずなし。この闘ひは尋常ならず、漢の英布の武勇に並ぶものぞなき。まことに猛く、称ふるに堪え、韜略を知り、兵書に明るし。
（言う）馬を出せ、馬を出せ、
（唱う）たちまちに楚の項羽を倒せり。[71]
（中に入って会う）お知らせにございます、お知らせにございます。
（張良）斥候ぞ。かれは陣中より来れり。かれは嬉しげなる顔をして、一張の弓は秋月を曲げ、二本の矢には寒星を插す。肩のうへには一幅の泥金令字旗[72]をば担ひ、頭のうへには八角の紅纓桶子帽[73]を戴く。九重の囲みの中を行き来して、梭を飛ばすかのごとくして、万隊は陣中を行き来して、馬を走らすかのごとし。騰騰と殺気は遥けき空を蔽ひて、一声言伝する声は金鐘のやう。双方が戦ひて勝敗を決めたることは、来たれる者の開ける口の中にあるべし。
斥候よ、両陣営のいずれが勝って、いずれが負けたか、息をするのが楽になったら、ゆっくりと話すのだ。
（正末が唱う）
【喜遷鶯】がらがらと旗門が開けば、楚の重瞳は陣にて高く叫びたり。「無道を殺すは許すべきことなれば、情理よりして、これなる匹夫[74]は許し難し」と。双方は辱しめあひ、あなたにて、そなたへの待遇は軽からざりきと言ひたれば、こなたにて御身に背くも罪はなしとぞ答へたる。
（張良）ああ、項王は陣頭で英布を目にし、どうして怒るまいことか。
（【西江月】詞）両軍の旗門はたがひに向かひあひ、陣頭にそれぞれ戈矛を掲げたり。項王は大音声で「英布は楚の亡囚なれば、わしと争ふわけにはゆかじ」と言ひたりき。はげしく鋒を交へし後に、勝利を得たるものは誰そ。君王は耳をそばだて、事情を聴かれ、勝報を上奏するをもつぱら待たれぬ。
斥候よ、息をするのが楽になったら、ふたたび話せ。
（正末が唱う）
【出隊子】先鋒にあるわれわれは、よく指揮をして、闘へり。ひようひようと陣頭に金鏃を射て、きつちりと陣前に兵士を並べ、囲みの中に軍馬を走らす。
（張良）両陣は対峙して、門旗[75]が開けば、英元帥は馬を出だせり。かのひとはいかやうに装ひたりしや。星辰を描き、日月に輝ける、鶏の翎を插し、鳳の翅を並ぶる、見事なる三角叉[76]の、棗穣紫金の盔を戴き[77]、刀を防ぎ、矢を避けて、魚鱗に鎖され、月鏡に掩はれし[78]、柳葉で作り上げたる亀背唐猊の鎧[79]を着けて、人の魂をば奪ひ、目を眩ませる、猩紅を染め、天巧を奪ひたる、西川の新十様の縫目なき、錦の征袍[80]をば纏ひ、裂けども開かず、捻れども断たれざる、香綿[81]を包み、彩綫を攅めたる、きつく束ねし八宝獅蛮帯を結び、殺場に行き、宝鐙を踏みて、犀皮を刺し、獣面を攅めたる[82]、吊根墩子製呑雲の抹緑の靴[83]を履き、明るきさまは雪のやう、疾きこと風のやう、寒さは心に沁みとほり、冷たさは歯に逼る、純鋼を鍛へ上げたる宣花蘸金斧[84]を振り回し、両耳小さく、四つの蹄は軽くして、尾は細く、胸は闊く、水に入りても平地にあるかのごとくせる、巻毛の赤免馬に跨り、かならずや項羽に勝つべし。
斥候よ、息をするのが楽になったら、ふたたび話せ。
（正末が唱う）
【刮地風】とん、とん、とん、凱戦の太鼓の三たび鳴るのも待たで、はたはたと二流の旗ははためきて、ぱかぱかと二頭の馬の交はるところ、喊声は天際にしぞとよもせる。寄せては返し、勝ち敗けは定まることなく、二頭の馬と両将軍は、流るる星のごとくせり。火尖槍[85]をば使へるは誰そ、そはまさに楚の項羽にて、たちまちに胸を突きたり。
（張良）英元帥は、猛将だが、項王の一槍には敵うまい。
（詩）征塵を巻き上げて、二馬は交はり、槍と斧とは往き来して、容赦することこそなけれ。漢家のために力を出だし、天下を争ひ、懸命に前へ進むはこの時ぞ。
斥候よ、ひとまず息を鎮めたら、ふたたびゆっくりわたしに話せ。
（正末が唱う）
【四門子】われらが英布はまさに英雄。槍が来るのを見ればはやくもやすやすとやり過ごし、両将軍はそれぞれ隙を伺へり。大いなる体にて巨毒[86]を回し、退くと見せかけては進み、進むと見せかけては退いて[87]、それぞれの決まりにしたがひ瞞きあへり。退くと見せかけては進み、進むと見せかけては退いて、天にも届く喊声の挙がれるを聴く。
【古水仙子】紛紛と土の雨は濺ぎて、黒き気と黄の雲は靄靄と空を覆へり。刷刷として、馬は征塵を動かし、隠隠として、人は殺霧[88]に蟠り、吁吁として、馬と人とはみな息をしぞ弾ませる。がちやがちやと、槍と斧とは身を掩ひ、ざくざくと、斧は槍をば迎へ撃ち、幾たびか煙と焔は挙がりたり。かちやかちやと、槍は斧をば迎へ撃ち、万条の火花は出でて、しゆるしゆると、鎧を断ちて、兜を落とせり。
【尾声】怒りつつ、一頭の軍馬に跨り、しがみつき、かの楚の項羽は北に向かひてあはてて逃げり。（とんぼ返りをする。[89]）英元帥は、
（唱う）きらきらとした箕のごとき、金もて鍛へたる斧をむざむざと損はれたり[90]。
（張良）われらは勝って、かれらは敗れた。斥候よ、そなたには三甕の酒、羊の肩の肉をとらせて、十日仕事を免除しようぞ。
（斥候が叩頭して感謝し、退場）
（樊噲）項王は敗走し、どこへ行ったか。軍馬を率い、追い掛けて、かれを殺せば、功績を分けあうこともできるだろう。黥顔の男に功を独り占めさせてはなるまい。
（隨何）項王はすでに敗れて、帝業は成しとげられた。われらは大王さまのため、千秋の觴を挙げるといたそう。
（漢王）今日の勝利は、軍師の妙計、隨使者の遊説の功、諸将らの協力によるものだ。英元帥が凱歌を奏して戻ってきたら、朕は領地を分け与え、功の大きなものは王にし、功の小さな者は侯にし、惜しみはせぬぞ。
（正末が兵卒を率い、馬に乗り登場、唱う）
【側磚児】なにゆゑぞ、身を棄てて、戦の庭にて死闘せる。赤心を持ち、漢の国家を建てんと欲したればなり。功績にあぐらをかきて謙虚ならずと言ふなかれ、われはもとより天の生ぜし碧玉柱、紫金梁[91]なり。
【竹枝児】英布がいかにして外黄を救ひたりしかとお尋ねならば、項羽は負けて夏陽へ逃げりと申すべし。まつすぐに烏江に追ひ詰めざりしことこそ慨けれ。本日は銅鑼を鳴らして、兵馬を収め、凱歌を奏して、君王に見えんとせり。気を付けよ。かのひとは、無体なる振る舞ひをなし、また胡床にて足を洗ひて坐るらん。
（言う）はやくも漢の陣地に着いた。部下よ、馬を繋いでくれ。（退場）
（卒が知らせる）大王さまにお知らせします、英元帥が轅門の外にまいりました。
（漢王）隨大夫よ、御身が出てゆき、連れてきてくれ。
（隨何が出迎える）
（正末が入って会う）わたくしは、兵を率いて外黄の城下に到り、項王と決戦し、さいわい微功を得ましたが、命令を受けていなかったため、追い詰めるわけにはまいりませんでした。大王さまには、お咎めになりませぬよう。
（漢王）項王は負け、意気は消えうせ、龍且、周蘭も韓信に斬られてしまった。諸将の兵が集まってから、項王を追ったとしても、遅くはあるまい。朕は兵法に「兵にはすぐに恩賞を与えよ」[92]とあることを聞いていたから、韓王が斉に勝ったときには、すぐに三斉王に封じた。このたび、御身は大功を建てたから、淮南王に封じよう。九江の諸郡はすべて御身のものじゃ。隨何は御身を説得し、漢に帰せしめ、功はそれに次ぐものだから、御史大夫とする。その他の諸将は、とりあえず項王を捕らえた後に、あらためて恩賞を取らせよう。あちらで牛を殺して、酒を調えて、陣中で功を寿ぐ宴を設け、兵士には三日間、大宴会を賜わろう。
（正末が隨何とともに恩徳に謝す）（唱う）
【水仙子】天恩の浩蕩として尋常に出でたることに感謝せん。
（言う）わたくし英布は、
（唱う）韓信の三斉と拮抗したり。隨何は思ひがけなくも、賢人を薦めしために、上等の賞を賜はり、紫綬金章を手にしたり。劉を扶けて項を退け、狐群狗党を逐はずんば、顔に黥されたる王はいかでか顕はるるを得ん。