楔子

(旦が夫人に扮し、従者を連れて登場、詩)

花はふたたび開けども

人にふたたび若き日はなし

黄金は貴しといふなかれ

安楽はもつとも価値あり

わたくしは姓を李といふ。夫は姓を張といひ、つとに失せたり。倩女といふ名の、十七歳の、一人娘があるばかり。娘は針仕事、飲食茶水[1]、よくせざるものはなし。亡夫の在りし日、王同知家と指腹婚して、王家には男児が生まれ、王文挙とぞ呼ばれたる。王文挙どのは成長したまひ、満腹の文才あるも、いまだに妻を娶られずとか。わたしもしばしば手紙を送り、娘はあちらが訪ねきたらば、すみやかに結婚せんとぞ申したる。

小者たち、入り口で見張っていてくれ、王さまが来たら、知らせておくれ。

(正末が王文挙に扮して登場)

黄巻[2]と青灯の一腐儒も、三槐と九棘[3]の位につかん。世の人々は文章が貴しといひ、男児が書物を読まざるは何事ぞといふ。わたしは姓を王といひ、名は文挙。亡父は衡州同知なりしも、不幸にも父母(ちちはは)はともに失せにき。父上の()しし日に、この土地の張公弼と指腹婚して、亡き母上はわたしを生まれ、張家には娘が生まれど、義父さまが亡くなりしため、結婚式を挙げざりき。岳母(しうとめ)はしばしば手紙をば寄せて尋ねられたり。今、春の試験が始まり、会場が設けらるれば、一つには長安で受験せんため、二つには岳母(しうとめ)を訪ねんがため、出掛くべし。

はやくも着いたぞ。下男よ、わしが入り口にいることを報告してくれ。

(下男が報告をする)奥さまにお知らせします。外に一人の秀才がおり、王文挙だともうしております。

(夫人)話を口にしないうちから、王どのがやってこられた。お通ししてくれ。(見える)

(正末)永らくご無沙汰しておりました、お義母さま、お坐りになり、拝礼をお受け下さい。(拝礼をする)

(夫人)立ってくだされ。お楽になされよ。

(正末)お義母さま、わたくしがまいりましたは、一つには義母さまにご挨拶いたしますため、二つには都に登り、合格をせんがためです。

(夫人)坐っておくれ。小者たち、下女に話して、奥の間の娘を呼んで、お兄さまにご挨拶させるのだ。

(従者)かしこまりました。お嬢さま、奥さまがお呼びです。

(正旦が下女を引き連れて登場)わたくしは姓を張といい、字は倩女、十七歳。不幸にも父上はすでに亡くなった。父上のご存命だった日に、王同知さまと指腹婚をし、その後、王家に王文挙という男児が生まれ、我が家にはわたくしが生まれた。だが王さまはご両親とも亡くなられ、この結婚は成就しなかった。本日は母上さまが表の広間で呼んでらっしゃる。何事だろうか。下女よ、いっしょに母上さまに会いにゆこう。

(下女)お嬢さま、お急ぎ下さい。(見える)

(正旦)お母さま、何事でしょうか。

(夫人)娘や、進み出て、お兄さまにご挨拶をし。

(拝礼をする)

(夫人)王さま、こちらが倩女にございます。とりあえず奥の間に戻るがよい。

(正旦が外に出る)下女や、あの若者はどこから来たの。

(下女)お嬢さま、ご存じないのでございますか。あの方が指腹婚にて縁結びした王さまでございますよ。

(正旦)あの方が王さまなのかえ。お母さまは挨拶の時、お兄さまと仰っていたが、どういうおつもりなのだろう。(唱う)

仙呂賞花時】

あの方は壊れし帽子に[4]に薄き(はだぎ)の若者で

わたくしは、繍帔[5]に香車[6]の楚楚たる娘

今しがた、顔を合はせり

母さまは、陽台の路の()

高々と雲雨の壁を築きたまへり[7]

【幺篇】

巫山の窈窕たる娘をば隔てんとして

怨女(やもめ)鰥男(やもを)はそれぞれ悲しみ

母上は、一片のKき心をほしいままにし

われを締め付けざることは考へたまはず

隔たれば隔たるほどに、恋の思ひは増すものを

(下女とともに退場)

(夫人)小者たち、書房を掃除し、王さまをお泊めして、経書や史書の勉強をしていただこう。食事を遅らせてはならないよ。

(正末)お母さま、書房の掃除は結構でございます。わたくしは長旅に出て、都へ受験をしにゆくのです。

(夫人)王さま、一二日泊まられてから、旅されたとて遅くはございますまいに。

(詩)

試験にはまだ早ければ焦られず

とりあへずこの家で幾日か過ごされよかし

(正末の詩)

禹門[8]の浪は暖かく、人を促し

匆匆として桃夭[9]を尋ぬるを得ず

(ともに退場)

第一折

(正旦が下女を引き連れて登場)

わたしは倩女、王さまに逢ってから、心はうっとり。だが母上はこの縁談を後悔なさり、あの方を兄として挨拶させたは、いかなるお考えなのだろう。秋の景色を前にして、まことに悲しい。

(唱う)

【仙呂·点絳唇】

凉しき宵を寝ずに過ごして

颯颯たる風の()にはつとせり

紗窗は明るく

落葉は蕭蕭として

地に満つれども掃ふ人なし

【混江龍】

まさに暮秋の気候なり

眉に上れる心配事をすべて片付け

鏡台に姿を映すこともなく

刺繍の針も手にとらず

毎晩窗の前に坐し、燭影の昏きを恨み

晩妝[10]をする楼上に月高し

われはもともと乘鸞[11]艶質(たをやめ)にして

かの人はかならずや中雀[12]の豊標[13]あらん

母上に阻てらるるに苦しむも

わが情をばやすやすと抛たんわけにはゆかじ

密会の約束をむなしく遅らせ

月の(ゆふべ)と花の(あした)をあだに過ごせり

結婚をする(えにし)なく

いらいらとする定めあり

默默として退屈で

懨懨[14]として母に知らるることを恐れり

はるか遠くを窺へば、天は(ひろ)きも地は(せま)

病は重く、夢は断え、(たま)は疲れり

(下女)お嬢さま、悲しまれるのはおやめ下さい。

(正旦)下女よ、それならば、いつになったら良いことがあるのだえ。

(唱う)

【油葫蘆】

かのひとは病には倒れねど

わたくしは痩するらん

縛られて心はむしやくしや

あの方を出で立たしむるわけにはゆかず

路は長くはあらざれど

心ははやくもはるかな雲に随へり

泪は濺ぎ雨瀟瀟

幾つかの曲がりたる闌干に倚り、湖山に凭るることはあたはず

天涯に一点の青山の小さきを望めるがごと

(言う)秀才さまが寄せられた詩も、わが母上を怨んでいる。

(唱う)

あの方はおそらくはご不満なれば

みづからを奮ひ立たせん

思ひをば遂げざれば

つれづれにものを書き

文雅なさまをひけらかし

秀れしさまを顕はにし

才を誇れり

われはこなたに句法を調べ

揮毫をぞ見ん

【天下楽】

かの人は、読書する人なれば、志気は高しと思ひしに

この寂しさは、いづれの日にか果つるべき

想へばわれら孤りの男と独りの女は、はなはだ薄命

わたくしは、鴛鴦の宿、香しき錦の布団を調へて

かの人は、鸞鳳の鳴く声と琴瑟の調べをぞ待ち望みたる

飛ぶ蝶や

周りをとりまく錦の樹々となることはなし

(下女)お嬢さま、王さまはなかなかの男前、聡明な色男、お嬢さまのお顔立ちなら、まさに王さまとぴったりにございます。お嬢さま、ご安心なされませ、悲しまれないで下さいまし。

(正旦)下女よ、それならば、どうしたらいいだろう。

(唱う)

【那令】

一日を一年のごとく過ごして

逢ふ日は少なし

三十三天[15]

離恨天[16]こそもつとも高けれ

四百四の病[17]はあれど

恋の病にいかで耐ふべき

(言う)あの方は、これから受験しにゆかれます。

(唱う)

千里の彼方の鳳闕に昇り

あつといふ間に龍門を跳び

絲鞭を受け取りかならずや麗しき人ならん

(下女)お嬢さま、王さまはまことに内才[18]外才[19]がつりあっていらっしゃいます。

(正旦が唱う)

【鵲踏枝】

胸中は

英豪にして

人品は

さらに清高

かの人は、かならずや黄塵を跳び出でて

清霄に走りのぼらん

暁に騒がしき(ちがや)の軒の燕雀の比にあらず

かの人は、風波を抑へ、海を(みだ)せる鯨鰲(げいごう)[20]ならん

(言う)下女よ、かの書生は、

(唱う)

【寄生草】

かの人は素楮(そちよ)[21]鵝溪繭(がけいけん)[22]をば払ひ

中山[23]の玉兔[24]の筆を湿らせて

駱賓王の一夜にて論天表[25]を作りしに劣ることなく

李太白の醉ひて平蛮稿[26]を書きしに劣ることなく

漢相如の病みて[27]徴賢詔[28]を受けしにも劣ることなし

かの人は、十年(ととせ)の間、洛陽城にて書剣[29]に励めば

才高く、一朝にして長安道に冠絶せられん

(下女)お嬢さま、王さまは、本日受験に行かれますので、老奥さまが折柳亭で、送別をなさいます。

(正旦)下女よ、折柳亭に王さまを送りにいこう。(ともに退場)

(正末が夫人とともに登場)お義母(かあ)さま、本日は吉日良辰、わたしは長の旅路について、京師に赴き、合格をいたしましょう。

(夫人)王さま、行かれるのなら、折柳亭で送別をいたしましょう。小者たち、娘を呼んできておくれ。

(正旦が下女を引き連れて登場)お母さま、まいりました。

(夫人)娘や、今日はこの折柳亭で、お兄さまを送別するから、一杯のお酒をついでさしあげなさい。

(正旦)かしこまりました。(酒をつぐ)お兄さま、一杯お飲まみなさいませ。

(正末が飲む)お義母(かあ)さま、わたくしは今日、旅立ちますが、お尋ねいたしたきことがございます。その昔、亡き父母(ちちはは)はお義母(かあ)さまと指腹婚をし、わが母はわたくしを生み、お義母(かあ)さまはお嬢さまを生まれました。その後、わたしの父母(ちちはは)はともに亡くなり、もう数年になりますが、まだ結婚をしておりませぬ。わたくしがわざわざ訪ねてまいりましたは、縁談につき、お尋ねせんがためであります。お嬢さまにわたくしのことをお兄さまと呼ばせましたは、いかなることにございましょうや。わたくしは勝手なことは致しませぬ。お義母(かあ)さまのお考えには間違いはございませねば。

(夫人)王どの、おっしゃることはご尤も。お兄さまと呼ばせたわけは、わが家には三代にわたり、白衣の秀士を婿にしたことがないからでございます。想えば御身は、満腹の文章を学ばれましたが、功名はいまだに得てはいられませぬ。これよりは都に上り、官職を得て、戻ってこられさえすれば、結婚式を挙げるとしましょう。そうすれば宜しいでしょう。

(正末)それならば、お義母(かあ)さまに感謝をし、長の旅路につくとしましょう。

(正旦)お兄さま、役人になられましたら、ほかの方から絲鞭を受けられませぬよう[30]

(正末)お嬢さま、ご安心を。官職を得られましたら、すぐに結婚いたしましょう。

(正旦)ほんとうに別れは辛し。

(唱う)

【村里迓鼓】

渭城の朝雨と

洛陽の残照と

陽関の曲[31]は唱はねど

本日は長安へ若者を送別す

やすやすとわたしを棄てて

やすやすとわたしを棄てて

さすらひの旅に出られり

(嘆く)お兄さま。

(唱う)

楚沢[32]は深く

秦関[33](くら)くして

泰華[34]は高し

人生に別れの多く、逢ふことの少なきを悲しめり

(正末)お嬢さま、わたくしが役人になった暁には、御身は夫人県君[35]ですぞ。

(正旦が唱う)

【元和令】

杯の酒は泪とともに酌み

心の中の事どもをかの人に言ふ

長亭に柳を折りて、柔らかき()を贈りたるかのごときなり

お兄さま

誓ひをな(たが)へたまひそ

これよりは、憐れなる夜をむなしく過ごさん

別れの愁へは耐へ難からん

(正末)かねてより心配はしておりましたが

(正旦)本日は、さらに寂しゅうございます。

(唱う)

【上馬嬌】

竹窗の外には翠の梢が響き

苔むせる(きざはし)の下 緑の草は生じたり

書斎はにはかに蕭条として

故き庭 悄悄として人は到らず

恨みはいかで消ゆべけん

今はもつとも耐へ難し

【游四門】

彩雲に音は絶ゆ 紫鸞簫

この夕べ、何処にか蘭橈[36]を繋ぐべき

帆は西風の烈しきを遮ることなく

雪は逆卷き、浪は淘淘

岸影(きしかげ)は高くして

水雲[37]は千里に漂ふ

【勝葫蘆】

羽毛を惜しむ冥鴻[38]となるなかれ

諺に言ふ「良き事は定かならず」と

身が去らんとも心が去らんことなかれ

こつそりとお知らせいたさん

今しがた、下女は告げたり

母上はいらいらとしてゐられんと

(夫人)下女よ、車を出して娘を帰らせておくれ。

(下女)お嬢さま、車にお乗り下さいまし。

(正末)お嬢さま、お帰り下さい、わたしは長の旅路につきます。

(正旦が唱う)

【後庭花】

こちらには翠簾[39]の車がすでに控へども

かの人は黄金(こがね)の鐙を踏むに懶し

わたしの泪は香羅の袖を潤して

かの人の鞭は碧玉の柄を垂れり

西風の吹く古き道、はるかに望めば恨みは積もる

想へば焦がる、情の多き人は去りゆき

天は青青、心があらば天も老ゆべし

わたしは心が鬱鬱として、溜息は絶ゆることなし

旅の心を動かして、風はびゆうびゆう乱れ吹き

ぽろぽろと泪を零し、白粉の装ひは崩れたり

蒙蒙と香塵を潤して、夕べの雨は飄へり

【柳葉児】

川辺に満つる楼閣を見て

わたくしは車に乗りて、ごろごろと(たにがは)にかけたる橋を過ぐるに懶く

かの人は馬に乗り、ぱかぱかと皇州[40]に上るに懶し

一望すれば心は傷み

かの人は歩むたび、轡をばかへさんとしたれども

はや山河(やまかは)の彼方にぞある

(正末)お嬢さま、ご安心を、わたくしが役人になりましたら、あなたを娶りにまいりましょう。お嬢さま、車に乗って帰られよ。

(正旦が唱う)

【賺煞】

これよりは、恨みの思ひを、芭蕉に記さん

夢を占ひ、(めとぎ)を手にとるべきにはあらず

真珠(またま)や翡翠に囲まれんとする心なし

偽りのなきわが(たま)は縹渺として

かの人の去りし後

周囲を離れず

橋に題せし司馬[41]に隨ひ

駟馬高車にて栄耀をひけらかすことを望まず

瓊姫[42]を棄てさり

子高[43]が到らば

はや碧桃の花の下なる鳳鸞の交はりに背くらん

(下女とともに退場)

(正末)わたくしは、今日お義母(かあ)さまにお別れし、長の旅路につきまする。部下よ、馬を牽け。功名を得るために、出で立つことといたそうぞ。(退場)

(夫人)王秀才は行ってしまった。役人になり、戻ってきてから、結婚しても、遅くはあるまい。(退場)

第二折

(夫人が慌てて登場)

歓びは尽きざるに、悩みはまたも訪れり。倩娘は折柳亭に王秀才を送別し、家に戻りしその日より、病を得、床に臥し、起くることなし。医者を呼び、治療をせしも、痊ゆることなく、病状はまことに重し。

どうしたらいいだろう。娘は白湯を飲みたいのだろう、みずから奥の間に行って、様子を見よう。(退場)

(正末が登場)わたしは王文挙、お嬢さまと折柳亭で別れた日から、思いは切切、心の安まることはない。今宵は岸で舟支度をしているところ。膝に琴をば横たえて、一曲を奏で、愁えを解こう。(琴を弾く)

(正旦が遊魂に扮して登場)わたしは倩女、王さまと別れた日から、恋の思いは耐え難いから、あの方とともに行くよりほかはない。お母さまには内証で、まつすぐに追い掛けてきた。王さま、御身はひたすらお進みになりますが、わたしが過ごしているさまをどうしてお分かりになりましょう。(唱う)

【越調·闘鵪鶉】

人は陽台[44]より去りて

雲は楚峡[45]へ帰りゆく

かの人は川岸に舟を停め

いづれの時にかわが家に来られん

悄悄(しやうしやう)冥冥(めいめい)[46]

瀟瀟灑灑(しやうしやうしやしや)[47]

ここに岸辺の(すな)を踏み

月華(つきかげ)にしぞ歩みたる

万水と千山を見たれども

すべてはあつといふ間なり

【紫花児序】

倩女の心に離恨あり

王生の柳外[48]の蘭舟を追ふ

天上に(いかだ)を浮かべし張騫[49]を待ち望めるがごときなり

汗は溢れて、瓊珠[50]は顔に輝きて

ぼさぼさの雲髻[51](からす)を積めり[52]

歩み疲れて

御身は晩に秦淮の酒家にしや泊まりたまへる

断橋の西             

さらさらと人なき川に秋の水

冷え冷えと明るき月に蘆の花

(言う)半日歩き、川辺に到り、騒がしき人声を聞く。ちょっと見てみるとしよう。(唱う)

【小桃紅】

たちまちに騒がしき馬の嘶き、人声を聞き

垂楊(しだれやなぎ)の下に隠れり

わが胸は、びくびくとをののけど

その実は、ぱんぱんと拍子木を打ち鳴らし、魚と蝦を捕へたるなり

われはこなたで、西風に隨ひて、こつそりと耳を澄まして

厭厭[53]たる露華

澄澄たる月の下

寒雁のガアガアと()を飛び立つに驚けり

【調笑令】

(すな)の堤をゆつくりと踏み

霜を帯び、莎草(ささう)[54]は滑らか

湘裙翡翠の紗を潤せり

蒼苔に露は冷ゆ 凌波の(したうづ)

江上を見れば、暮の景色は描くべく

天上天下は、氷壺(ひょうこ)のごとく瀲として[55]

一片の碧玉の瑕なきにしぞ似たるなる

【禿厮児】

なんぢは見たり、遥けき浦の孤鶩落霞を[56]

枯れし藤、老いし樹に(ゆふべ)(かしましどり)は鳴きたり

長笛の()はいづこにぞ発したる

うたふ舟歌

櫓はぎいぎい

(言う)船では琴が響いている。おそらくは王さまだろう。聴いてみよう。(唱う)

【聖薬王】

(たで)生ふる(みぎは)に近く

蘋花(ひんくわ)[57]を望み

折れし蒲、枯れし柳に老いし葭

水辺に近く

漁船は繋がれ

霧は冷たき水に籠め、月は(すな)にぞ満ちにける

(ちがや)(いへ)は二三あり

(正末)夜はかくも更けたるに、岸辺に女人の声を聴く。あたかも倩女のごときなり。こころみに尋ねみん。(尋ねる)倩女どのではございませぬか。こんな時間に来られましたは何ゆえにございましょう。

(魂旦が相見える)王さま、母には内緒で、まっすぐに追い掛けてまいりました、いっしょに都に上りましょう。

(正末)お嬢さま、何ゆえにここまで追うてこられたのです。

(魂旦が唱う)

【麻郎児】

御身はまことに愁へなき伯牙なれども

わたくしは道に迷へる[58]妻となりたり

わたくしが何ゆゑにこつそりと繍榻を離れしと思しめさるる

御身ともに天涯に奔らんとすればなり

(正末)車で来られたのですか。馬で来られたのですか。

(魂旦が唱う)

【幺】

わたくしは、歩み疲れり

御身が遠く都に赴かるる時に

薄命なわたくしは、御身のことが気に掛かり

思ふ心はいつまでも止むことぞなき

【絡絲娘】

棄てられて、逢はるる頃には

わたくしは、痩せたるか死にたりつらむ

(正末)老奥さまに知られたら、どうなさるのです。

(魂旦が唱う)

追ひつかれなば、いかがせんずる

諺にかくいへり「事をなしなば怖るることはなからん」と

(正末が怒る)古人は「聘せらるれば妻となり、奔れば妾とならん」といへり[59]。義母さまは結婚をお許しになりたれば、わたくしが役人となりし後、戻りて両家の誼を諧へば、道理に適はん。こつそりと追ひ掛けてきて、風教を汚すとは、いかなる道理ぞ。

(魂旦)王さま。(唱う)

【雪里梅】

色をなし、お怒りを揩オたまへども

わたくしはじつと見つめて家に帰らず

もとより偽りなどはなし

脅かすわけにはござらねど

すでに心は(ましら)か馬のごときなり

(正末)お嬢さま、すみやかに帰られよ。

(魂旦が唱う)

【紫花児序】

いそいそと旅路に登られたとばかり思ひしが

その実は、悶々と疲れて琴書に凭れたまへり

わたくしは、悲しみて、泪は琵琶を湿らしむ

蝉翅[60]の霧鬢[61]を軽く調へ

宮鴉[62]の双眉を淡く掃く心なし

柳絮は飛べる花のごと

外に出づるは家にあるにぞしかざらん

多くは申し上ぐるまじ

願はくは、秋風の中、百尺の高帆[63]に乗り

春光の中、樹にことごとく鉛華[64]を付したまはんことを

(言う)王秀才さま、追い掛けてまいりましたは、ただ一つ、あることを防ぐためです。

(正末)お嬢さま、わたしの何を防がれるのです。

(魂旦が唱う)

【東原楽】

瓊林の御宴[65]に赴かれし後に

媒酌の人々は馬を引き留め

描きたる麗はしき人の絵を高く掲げて

王侯や宰相の家にて生まれたることをひけらかすべし

御身は豪奢な暮らしを慕ひ

かの人の家で結婚したまはん

(正末)わたくしが旅をするのは、及第せんがためなれば、御身のことは忘れたりいたしませぬ。

(魂旦)もしも合格なさいましたら、(唱う)

【綿搭絮】

御身の貴門の婿となるのは

矜らしきこと

大臣(おとど)の屋敷は豪華にて

錦繍が積み重なれば

尋常の家に飛び入ることはなからん

かの時は龍門に踊りし魚が海涯(かいがい)[66]に逃ぐるがごとし

御酒(ぎょしゅ)[67]を飲み

宮花[68]を挿して

鰲頭[69]を占め

鰲頭を占め、上甲[70]にしぞのぼるらん

(正末)合格をしなかったら、どういたしましょう。

(魂旦)合格をされなかったら、わたくしは(いばら)(かざし)(ぬの)(はかま)で、甘苦をともに致したく存じます。(唱う)

【拙魯速】

御身がもしも賈誼のごとくに長沙へと左遷せられば

わたくしは、孟光[71]のごとくに賢さをしぞ示さん

すこしでも約束を違へたり

すこしでもぐづぐづするとな思ひめされそ

わたくしは、お膳を眉まで持ち上げて、書榻[72]に添はんことを願ひて

玄米を食べ

貧乏な暮らしをし

荊の(かざし)を戴きて

木綿や麻の衣を着るべし

(正末)お嬢さまにかくも誠があるならば、わたしと一緒に上京されては、いかがでしょう。

(魂旦)わたくしを連れていかれるのでしたら、(唱う)

【幺篇】

船頭をとく呼びねかし

家中(かちゆう)の者に捉はるる恐れのあれば

遠き樹に寒鴉[73]あり

汀の沙に岸の草

菊花は目に満ち

幾すぢか残霞を見るのみ

すみやかに帆を高く掲げて

月明のもと

東風(はるかぜ)の吹くに乗じて

停まることなく

とく出で立たん

(正末)お嬢さま、本日は、試験を受けるわたくしと上京しましょう。わたくしが官になったら、あなたは夫人県君ですぞ。

(魂旦が唱う)

【收尾】

ごろごろと長安道で車に乗りて

文苑の客の今すぐに奮ひ起たんを願ふのみ

わたくしは臨邛の市に酒を売る卓文君

濯錦江にて橋に題せし漢司馬に仕ふることにぞ甘んぜん[74]

(ともに退場)

 

第三折

(正末が従者を引き連れて登場)

わたしは王文挙、都に至り、答案を提出し、たちまちに、万言の返答をなしたれば、陛下は大いに喜ばれ、状元に及第せしめたまふたり。妻も一緒にこの地に至れり。これよりは、平安を告ぐる手紙を書きて、人を遣はし義母(かあ)さまに告げ知らすべし。部下よ、筆と硯をもってまいれ。(手紙を書く)書き上げたぞ、一遍読んでみるとしよう。「都下に寄寓する、婿王文挙よりお義母(かあ)さまへ。わたくしは闕下に至り[75]、状元に及第しました。官職を授かりましたら、令嬢とともに故郷に帰ります。そのときはどうぞ宜しく。不悉。」手紙はすでに書き上げた、部下よ、わたしのために張千を呼んできてくれ。

(淨が張千に扮して登場)

(詩)

従者のわたしはまことに有能

適切にたくさんの仕事をこなし

一日に走ること三百里

二日目にやつとのことで炕に休めり[76]

わたしは張千。状元さまが呼ばれているから、行かねばなるまい。(見える)何のご用でございましょう。

(正末)張千よ、まっすぐに衡州へ行き、平安を告げる手紙を、張公弼の家を訪ねて届けてくれ。老奥さまにお会いしたら、わたくしが官職を手に入れたことを告げてくれ。気を付けてな。

(淨が手紙を受け取る)かしこまりました。わたくしはこの手紙を持って、まっすぐに衡州へまいりましょう。(ともに退場)

(老奥さまが登場)倩娘は、王さまと別れし後に、病の床にぞ臥したりける。話をしたり笑ったり、何の病であることやら。ここ数日は逢っておらねば、わたしみずから様子を見にいかねばなるまい。(退場)

(正旦が病み、下女が介添えをして登場)王秀才が去りし後、病臥して起くることなく、ただ眼を閉じて王さまとともにあり、恋の病はまことに苦し。(唱う)

【中呂·粉蝶児】

みづから手を執り、別れに臨み

この憔悴をむなしく留む

人生は別れこそもつとも辛けれ

話をしても元気なく

床に臥しても寝返りをせず

お茶やご飯もおいしくはなし

かやうに寝食をば忘れ

憔悴し日にけに痩せゆく。

【醉春風】

瞑眩薬[77]を服するもあだにして、癒すあたはず

この汚らはしき病より、いづれの日にか起くべきや

良くならば、あの方に逢ふ日を待たん

わが(いたつき)はあの方のために得しもの

あの方のために得しもの

ある時はぼんやりとして

魂を忘れ

ある時は目が醒めて

(からだ)を使ひ

ある時はぼんやりとして

天地を知らず

(言う)目の前に王さまがいるものと思うていたが、下女だったのか。下女や、今はいつだえ。

(下女)今、春はまさに尽きんとし、緑は暗く紅は稀なり、まもなく四月にございます。

(正旦が唱う)

【迎仙客】

日は長けれど愁へはさらに長くして

(くれなゐ)は稀なれど音信はもつとも稀なり、

(言う)ああ王さま、本当にひどいお方。

(唱う)

春はたちまち帰れども人は帰らず。

(下女)お嬢さま、あの方が去られて一年足らずですのに、何ゆえかようにあの方を思われますのか。

(正旦が唱う)

数十年別れたりしかと思ひたり

数万里離れたりしかと思ひたり

帰らるる日を数へしために

かの中庭の翠の竹にあまねく刻み目をぞつくる

【紅繍鞋】

去りたるは、楊柳に西風の吹く秋の日なりき

今またも梨花に暮雨あり、寒食を過ぐ

(下女)お嬢さま、占いをなされましたか。

(正旦が唱う)

亀卜など当てにならねば

頼むとも詮無きことぞ

喜蛛(くも)は頼りなく

霊鵲(かささぎ)は誠なく

灯花は喜ぶには足らず

(夫人が登場)娘の部屋の入り口にきた。下女よ、娘はすこしよくなったかえ。

(正旦)どなただえ。

(下女)奥さまが逢いにこられました。

(正旦)わたしは毎日王さまを見て、お母さまなど見ておりませぬ。

(夫人)娘や、病気はどうなったかえ。

(正旦が唱う)

【普天楽】

病がもつとも気に掛かる

春の日に二日酔ひにて眠るがごとし

晴れた日の雪 楊花[78]は通りの上を巡りて

東風(はるかぜ)を追ひ 燕は楼の西にあり

うら若きわたしを棄つれば

麗しき日は(あだ)となり

別れの愁にいとど縛られ

さらに景色の乱れたるにも堪へられず

愁ふる心は鳥の一声啼くに驚き

幸薄き命は春とともに果てなん

香魂[79]は一片の花を追ひつつ飛べるなり

(正旦が昏倒する)

(夫人)娘や、しっかりおし。

(正旦が目を醒ます)

(唱う)

【石榴花】

わたくしの重き病は改まり、頭はぼうとし

死はすでに間近に迫れり

病はすでに膏肓に入り、針灸ももはや手遅れ

(夫人)良医を呼んで治療しよう。

(正旦が唱う)

あの方がここに来られば

扁鵲盧医[80]を呼ぶに勝らん

(夫人)人を遣わし、王さまを呼んでこよう。

(正旦が唱う)

あの方を呼び

婿とすることを約束せらるとも

今となりては手遅れならん。

(夫人)王さまが行かれてからは、音信はまったくないよ。

(正旦が唱う)

かの人の吉報を寄せざるは何ゆゑぞ

二つのことが先に知られり

【闘鵪鶉】

かの人は官を得ば、他の人と結婚し

落第をしたまはば、故里(ふるさと)に帰るを羞づべし

(夫人)心配のしすぎだよ。とりあえずお休みなさい。

(正旦が唱う)

あつといふ間に絶体絶命

倒れしさまは半ばは人間、半ばは幽鬼

恋焦がれ痩せ衰ふとも、お腹のすかぬは何ゆゑぞ

懕懕として体は苦し

(夫人)お粥をすこし飲んだかえ。

(正旦)お母さま、

(唱う)

新婚を成さしめたまはば

龍の肝、(おほとり)の髓を食らふに勝らん

(言う)ぼうっとしてまいりましたので、しばらく寝るといたしましょう。

(夫人)下女や、静かにおし、この娘が寝たら、わたくしはとりあえず戻るとしよう。(夫人が下女とともに退場)

(正旦が眠る)

(正末が登場し旦に見える)お嬢さま、逢いにきました。

(正旦)王さま、いずこにいらっしゃいますか。

(正末)お嬢さま、わたくしは役人になりました。

(正旦が唱う)

【上小楼】

裏切られしかと思ひしが

及第せられたまひたりしか

丹墀にて叩頭し

朝章[81]を得て

白衣に換へり

お顔を見れば

その昔

別れし時より

三千丈の五陵の豪気を加へられたり

(正末)お嬢さま、わたくしはまいります。(退場)

(正旦が目を覚ます)明らかに王さまを見た。役人になったと言っていられたが、醒めれば南柯の一夢であった。

(唱う)

【幺篇】

しばしむなしく疑ひて

今しがた明らかにこの場所で

思ひを述べて

時候の挨拶をば交はし

真の(こころ)を訴へり

あの方はすぐに離れて

わたくしはさつと跳ね起く

探すはもはや難しく

冷ややかな半竿[82]の残日を見るのみぞかし

(下女が登場)お嬢さま、何ゆえに大騒ぎしてらっしゃるのです。

(正旦)今しがた、王さまを夢見たのだが、役人になられたということだった。(唱う)

【十二月】

その実は南柯の

二三[83]の文翰[84]を知り

かの者たちは[85]を訪ねて

[86]典礼をば習い

[87]に通じ

歩の才あり

韵により賦をつくり[88]

縦横に筆をとり

天上に風雷を遂ぐるを得たり[89]

【堯民歌】

年にして身は鳳凰池[90]にぞ至る

卿相[91]元輔[92]たちに金杯を勧めたり

かの方の言詩には合に並ぶ者なく

[93]は全く[94]は調ひ

首席を占めて月の春雷は響きたり

まづ親に吉報をもたらすは

すべてこの枚の登科記[95]のため

(浄が登場)わたしは張千。王さまの言葉を奉じ、衡州に来て家書を届けり。張公弼さまのお家を尋ぬれば、人はこなたがさなりと言へり。(下女に見える)お嬢さん、こんにちは。

(下女)殿方は、どなたでしょうか。

(淨)張さまのお家でしょうか。

(下女)はい、何ゆえに訪ねてこられたのでしょう。

(淨)京師よりまいりました。王さまは官職を得て、わたしに手紙を届けさせ、故郷におわすご夫人に、お知らせ申し上げるのでございます。

(下女)ここにいてくださいまし。お嬢さまに話をしてまいります。(正旦に見える)お嬢さま、王さまが官職を得て、遣いの者が手紙を持って、今、入り口にまいっております。

(正旦)お通ししておくれ。

(下女が淨に見える)手紙を届けてくださった方、お嬢さまにお会いください。

(淨が正旦に会い、びっくりし、背を向けて)本物の奥さまだ。わしらの家の奥さまと同じお顔だ。(ふり返る)都にいられる王さまが、わたくしに、ご夫人宛の手紙を預けられたのでございます。

(正旦)下女や、手紙をわたしに見せておくれ。

(下女)男の方、手紙をこちらへ。

(淨が手紙を渡す)

(正旦が手紙を読む)「都下に寄寓する、婿王文挙よりお義母(かあ)さまへ。わたくしは闕下に至り、状元に及第しました。官職を授かりましたら、令嬢とともに故郷に帰ります。そのときはどうぞ宜しく。不悉。」本当は奥さんがいたのですね。腹立たしや。(怒って倒れる)

(下女が扶ける)お嬢さま、しっかりなさってくださいまし。

(正旦が目を覚ます)

(下女)みんなこの手紙を届けた男が悪いのでございます。(淨を打つ)

(正旦)王さま、御身のせいでわたくしはまことに悲し。(唱う)

【哨遍】

過ぎにしことを初めより思ひかへせば

百年(ももとせ)の情は一つの長嘆となる

何ゆゑぞ結納の話しをせざる

恐らくは春闈[96]にぞ落ちにけるらん

想へばそのかみ竹辺の書舍

柳外の離亭[97]にて

いくたびもたちもとをれり

匆匆として去ることの急なるをいかにぞすべき

麗しき音容を見ることもなく

清らなる詞翰(てがみ)をむなしく留めたり

巫山をば望夫石[98]かと見誤り

小さき手紙を綴り合はせて断腸集とす

あたかも微雨ははじめて暗く

はや皓月は窗にさし

行く雲は飛びやすきなり

【耍孩児】

母さまは鴛鴦の冰綃[99]を切り裂けど

別るるに忍びずに、陽関を送り出すこと数里なり

今は征く帆を送る心あり

雕鞍を駐むるすべなく

離愁の心に掛かれるをいかんともせず

愁ヘは纏はり

古き宿場の枝垂れ楊は(いと)千縷

泪はいや満ち

長亭[100]に日は落ちて酒一杯

これよりは

独りの時に

寂しき日

故郷を憶ひ、別れを愁へ

床に就き、病に耐へん

【四煞】

一春ずつと消息はなく

やうやくに一通の手紙を見たり

春心は紙に満ち、墨痕は淋漓たるかと思ひしが

その実は、封書のつきたる去り状なりき

怒り悲しみ、血のごとく泪は流れ、尽くることなし

魂は東風(はるかぜ)に吹かれて帰らず

秀才たちは腹Kし

貧児が富まば

金持ち病を[101]を癒すは難し。

【三煞】

この秀才は僧堂で、三回の斎食をとるがよし

夜もすがら火の消えし炉をつつけるがよし

灯りを偸み、鄰家の壁を穿てるがよし

雨に降られて、中庭の麦を濡らさるるがよし

真夜中に雷に薦福碑[102]をば撃たるるがよし

わたしはつまらぬ怒りを発せるにはあらず

死するなら、死すとも怨まじ

悔ゆるなら、悔ゆるも遅し

【二煞】

わが身には病が纏へば

天も憐れと思しめされよ

下女や

わたくしの心はそなたのみぞ知る

かの人が来ば、誠の心を訴へん

半年病に甘んじて

日もすがら、黛をひく心なし

やつとのことで今日まで堪へて

頭上には黒き傘

馬前には二列の(あけ)の衣を並べり

【尾煞】

琴の緒の断たれしを接ぐことはなく[103]

山間に旗を揮へり[104]

何ゆゑぞ絲鞭を受けて新しき妻を娶れる

わたくしは死なんばかりとなりけるに

(下女が正旦を扶けて退場)

(淨)すべて主人の悪しきなり。結婚なさるはご自由なれど、手紙を届けさせたるは何の積もりぞ。平安を告ぐる手紙と思ひしが、その実は去り状にして、お嬢さまをば怒らしめ、下女もまたわしを殴れり。思へば、すべて主人が悪し。

(詩)

思ふに主人のする事はでたらめなれば

手紙を寄せて愁へを生ぜり

ふたたび手紙を届けさせなば

亀のごとくに(かふべ)を縮むるよりほかなからん(退場)

第四折

(正末が登場)

本日にまさる歓びはなく、今日(こんにち)のごとき喜びはなし。わたしは王文挙、夫人とともに京師に到り、はや三年(みとせ)。ありがたい聖恩により、衡州府判[105]に任ぜられ、故郷に錦を飾った。部下よ、旅装を整えて、美しい車に乗って、夫人とともに衡州へ赴任しようぞ。本日は吉日だから、長の旅路につくとしようぞ。

(魂旦が登場)若さま、二人して故郷に錦を飾りましょう。今日があろうとは思いも寄りませんでした。(唱う)

【黄鍾·酔花陰】

行李は蕭蕭[106]、整ふることは懶く

幾歳(いくとせ)も甘んじて帝京(みやこ)にとどまる

花外に杜鵑の声ありて

帰るを促す[107]

来し方を初めより省みれども

心は今なほ晴るることなし

家を棄て、悪夢の世界と相成りぬ

【喜遷鶯】

才ある君は

賢さを天より得しにや

内才と外才は相称ひ

一見すれば覚えず心は動きたり

心ははなはだ誠実なれば

人の命を傾けて

人の(こころ)を引かざらめやは

(正末)お嬢さま、手綱を引き締め、ゆっくりといきましょう。

(魂旦が唱う)

【出隊子】

一頭の駿馬に乗れば

その年齢はまことによろし

一枚の紙を載すともかやうには軽からず

玉の(くつわ)は引き締めきれず

つねにをののく

雕鞍[108]にしかと坐れず

何ゆゑぞものに驚く[109]

絹の(たづな)は挽ききれず

馳せんとす

【刮地風】

長き道十数程を休まず進み

いやましに骨は痩せ、蹄は軽し

暮春の頃ほひ、景物に人は興味を催せり

景色を見、心を留む

怪しむは路もせに花の生ぜる

一叢(ひとむら)の緑の楊に紅き(あんず)

一双の紫の(つばくろ)(あめ)の鶯

一対の蜂

一対の蝶

それぞれが相並びたり

想へば天は何ゆゑぞ

人の心を楽しましめたる

【四門子】

真ん中に、(くれなゐ)の花の(みち)、ひとすぢありて

美しき夫婦は馬を()めゆけり

今よりは、富貴を手に入れ、故郷に還り

門閭[110]に輝き、昼錦[111]の誉れを信ぜん

母に逢ひなば

母は驚き

以前に言ひしことは言ふまじ[112]

かやうに家格がつりあへば

妹と兄として会話せしめんはずはなし

【古水仙子】

たえて想はず[113] この結婚が宿世の(えにし)なりしとは

祆廟[114]に ぼうぼうと烈しき焰を生ぜしめ

水面(みなも)なる鴛鴦(をし)をして交へし(うなじ)を離れしめ

雕鞍[115]を置き、手綱を緩め[116]

偸香(あひびき)すれば大声を出し、鈴を振りたり

弦を断つとも碧玉の筝[117]を接ぐことはなく

綺麗な煉瓦[118]に鏡をぶつけ、がちやんと割りて

井の中に銀の瓶子をぽとんと墜とせり[119]

(正末)はやくも家に着きました。お嬢さま、わたしが先にまいりましょう。(見え、跪く)お母さま、わたしの罪をお許し下さい。

(夫人)おまえに何の罪があるかえ。

(正末)お嬢さまをお連れしてこっそり上京しましたが、お知らせいたしませんでした。

(夫人)娘は今、病で床についており、外出してはおりませぬ。娘が何処にいると申された。

(魂旦が見える)

(夫人)これは妖怪にちがいない。

(魂旦が唱う)

【古寨児令】

憐れなるわたくしは独り寂しく

盈盈たる両の泪を抑へ得ず

手で胸を打ち、みづから明かさん

みづから嘆き

みづから悲しみ

みづから悔いて

みづからの心に従ふ

【古神杖児】

母さまは名だたる悪しきお方にて

母子(おやこ)の情はたえてなし

母さまのため、一人の若き恋人は

故郷を離れり

くる日もくる日も鬱鬱として

ただ独り

いらいらとする病となりて

命を損なふ

(正末)化け物め、おまえはどこの妖怪だ。本当のことを言え。本当のことを言わねば、(つるぎ)で真っ二つにしてくれよう。(剣を抜き、斬る)

(魂旦がびっくりする)どうしましょう。(唱う)

【幺篇】

突然の一声は恐ろしきこと(かみ)のごと

たちまちに驚きて(たま)は消えたり

こは母親の悪しきなり

汚名[120]を消すため

呆けたるふりをせり

妖怪なりとはいかなることぞ

王文挙さま

過ぎし日の恩に免じて

とりあへずわたくしを許したまひて

ご夫人に弁明せしめたまへかし

(夫人)王秀才どの、しばし待たれよ。この人は妖怪でないと言っています。部屋に連れてゆき、この人に仕えた下女が誰なのか、見させることと致しましょう。

(下女が介添えをし、正旦は昏睡する)

(魂旦が見え、唱う)

【掛金鎖】

たちまちに門庭に入る

わたくしは立つを得ずして歩くも難し

頭飾りと化粧箱を見

心中は穏やかならず

数人の年若き小間使ひらは

喋りつづけて

手を動かして

半ば死したる佳人を(いだ)けど

()べども醒めず

叫べども応ふることなし

【尾声】

たちまちに身を返し合はさりて

床の脇には一皿の孤灯あり

ああ

伴ひし人の痩せたる姿は見えず

(魂旦が正旦の体にのりうつり、退場)

(下女が叫ぶ)お嬢さま。お嬢さま。王さまが来られましたよ。

(正旦が目を覚ます)王さまはいずこにいられる。

(正末)お嬢さまはいずこにいられる。

(下女)今しがた、あのお嬢さまがわがお嬢さまのお体に乗り移り、お目覚めになったのでございます。

(旦、末が相見える)

(正末)わたしは官位を得た後に、張千に手紙を届けさせました。

(正旦が唱う)

【側磚児】

ああ

裏切り者の王学士どの

今日は心は晴れなんと思ひたりしに

やうやくに届きし手紙(ふみ)

悲しみをわれに与へり

【竹枝歌】

官となり、桂枝を折りたまひしことを聴きしかど[121]

他の人と結婚すとはいかなる存念

今や恨みは堪へ難し

お兄さまの益体もなきお手紙を

−これなる娘にお尋ねあれかし−

わたくしはびりびりと引き裂けり

(正末)あなたは確かに都に居られ、わたしに三年(みとせ)連れ添いましたに、今日はどうして一体となられたのでしょう。

(正旦が唱う)

【水仙子】

その昔、しばし旅行く棹を停めて、別れの(たる)の酒を飲み

千里の関山、夢をしきりに見るを恐れり

たちまちに霊犀の一点はひそかに通じ[122]

身外に身を生ぜしがごときなり

同じ姿の二人の佳人が

一方はかの人とともに行き

一方は重き病に損はれたり

お母さま

これぞまさしく倩女(わらは)の離魂したるなる

(夫人)天下にかような珍事があるとは。今日は吉日良辰だから、おまえたち二人のために結婚式を挙げるとしよう。娘は五花の官誥を受け、夫人県君と相成った。羊を殺し酒を造って、盛大に祝いの宴を設けよう。

(詩)

鳳闕に(みことのり)して挙子を集めて

陽関曲は悲し気に旅ゆく人を送りたり

素琴[123]を奏で、王さまは恨みを記し

青瑣[124]に迷ひ、倩女は離魂したるなり

最終更新日:20101123

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[1]未詳だが、食事を作ったり、茶を湧かしたりすることであろう。

[2] 『書言故事』書史類「書名黄卷、有所自、古人写書、皆用黄卷、用黄蘖染之、以辟蠹、故曰黄卷」。

[3] 『周礼』秋官、朝士「朝士掌建邦外朝之法、左九棘、孤卿大夫位焉、群士在其後、右九棘、公侯伯子男位焉、群吏在其後、面三槐、三公位焉」。

[4]原文「矯帽」。未詳だが、「矯」はネガティヴな方向であろう。

[5]未詳。ただし、帔は袖無し羽織なので、刺繍を施した袖無し羽織のことであろう。『釈名』釈衣服「帔、披也。披之肩背、不及下也」。

[6]七香車に同じ。さまざまな香木で作った車という。

[7]陽台は、巫山の神女が雲雨となって現れる場所。前二句は、倩女が自らを巫山の神女にたとえ、母親が、王文挙との逢瀬を邪魔することをのべたもの。

[8]山西省の地名。龍門に同じ。ここを鯉がさかのぼると龍になることで有名。ここでは、試験に赴こうとしている王文挙が自らを龍門を上る鯉にたとえている。『後漢書』巻六十八李膺伝注引『辛氏三秦記』「河津一名龍門、水險不通、魚之屬莫能上、江海大魚薄集龍門下數千、不得上、上則為龍」。

[9]結婚式をいう。『詩』桃夭「桃之夭夭、灼灼其華、之子于歸、宜其室家」。

[10]晩の化粧。

[11]自分自身を、月宮の仙女に譬えたもの。『異聞録』「開元中、明皇与申天師游月中、見素娥十余人、皓衣乘鸞、笑舞於広庭大桂樹下、楽音嘈雑清麗、明皇帰製霓裳羽衣曲」。

[12]婿に選ばれること。竇毅が婿を選ぶとき、屏風の孔雀を求婚者たちに射させ、李淵が孔雀に矢を中て、竇皇后と結婚した故事をふまえる。『新唐書』太穆竇皇后伝「(竇毅)因畫二孔雀屏間、請昏者使射二矢、陰約中目則許之。射者閲數十、皆不合。高祖最後射、中各一目、遂歸於帝。

[13]立派な風采。

[14]病み疲れるさま。

[15]欲界の第二天、忉利天をいう。『佛地経論』五「三十三天、謂此山頂四面、各有八大天王、帝釈居中、故有此数」。

[16]三十三天の中でもっとも高いところをいう。

[17] 『維摩経』「是身為災、百一病悩、一大搗ケ、則百一病生、四大搗ケ、四百四病、同時倶作」。

[18]内面的な才能。

[19]風采。

[20]鯨と鼈。

[21]白紙をいう。

[22]鵝溪絹に同じ。『唐書』地理志劍南道「陵州仁壽郡、本隆山郡、天寶元年更名.土貢:麩金、鵝溪絹」。

[23]春秋時代、中山国のあった地域をいう。現在の河北省。

[24]普通は月をいうが、ここでは兔の美称であろう。

[25]未詳。

[26]典拠未詳。但し、明代の通俗小説『警世通言』に「李謫仙酔草嚇蛮書」あり。

[27]漢相如は漢の司馬相如のこと。司馬相如は消渇を病んでいた。『漢書』司馬相如傳「相如口吃而善著書、常有消渇病」。

[28]司馬相如がその作品上林賦を見た武帝に召されたことをいうか。『史記』司馬相如伝「上読子虚賦而善之曰、『朕独不得与此人同時哉』得意曰『臣邑人司馬相如自言為此賦』上驚乃召問相如」。

[29]読書と撃剣であろう。

[30]結婚の時、新郎が絲鞭を受け取るという記述が、元曲に見られる。『裴度還帯』第四折「瓊醸金盃長寿酒、新郎舒手接絲鞭」。「接絲鞭」はすなわち結婚すること。

[31]王維の『送元二使安西』のこと。「渭城朝雨浥軽塵、客舍青青柳色新。勧君更尽一杯酒、西出陽関無故人」。「洛陽残照」は未詳。

[32]雲夢沢。

[33]函谷関。

[34]陝西省の華山のこと。

[35]五品官の母、妻に与えられる称号。

[36]木蘭で作った船の櫂。蘭櫂。ここでは舟のことであろう。

[37]水の上の雲。

[38]世間のしがらみを離れた君子のたとえ。「羽毛を惜しむ」は命を惜しむということであろう。『法言』問明「鴻飛冥冥、弋人何慕焉?〔注〕君子潛神重玄之域、世網不能制禦之。」。

[39]翡翠の羽で作った垂れ幕であろう。

[40]帝都。

[41] 『藝文類聚』巻六十三引『華陽國志』「蜀城十里、有升遷橋、送客觀。司馬相如初入長安、題其門曰、『不乘赤車駟馬、不過汝下。』」。

[42]仙女の周瓊姫のこと。『雲麓漫抄』巻十「王回、字子高、旧有周瓊姫事。胡徽之為作伝、或用其伝為六幺」。

[43]王子高のこと。前注参照。

[44]陽台は、巫山の神女が雲雨となって現れる場所。ここでは男女歓会の場所を指す。

[45]杜甫『夔州歌』「白帝夔州各異城、蜀江楚峡混殊名」趙彦材注「(夔州)上流而為蜀江、下流而為楚峡」。ここでは、巫山のある巫峡のこと。楚峡の雲は、楚の懐王と契った巫山の神女が、雲と化したという伝説に因む言葉で、ここでは倩女をさす。

[46]静かなさま。次の「瀟瀟洒洒」とともに、岸辺を歩む倩女のありさまを述べたものであろう。

[47] さらさらとして軽やかなさまであろう。

[48]柳の植えられた郊外の水辺のことか。陸游『橋南納涼』「曳杖来游柳外涼、画橋南畔倚胡牀」。

[49]張騫が槎で黄河を遡って天に到ったという話は、宋『歳時廣記』卷二十七「得機石」引『荊楚歳時記』に見える。

[50]真珠と宝石。ここでは汗をたとえる。

[51]高く結った髷をいう。曹植『洛神賦』「雲髻峨峨、修眉聯娟」。

[52]高く結った髷が、鴉の濡れ羽色であるということ。鴉髻という言葉がある。佩文韻府引『張燦詩』「桜唇朱滴滴、鴉髻黒峨峨」。

[53]露しげきさまであろう。

[54] ハマスゲ。

[55]水と天が相連なるさま。『海賦』注「瀲灔、相連之貌。」。

[56]『滕王閣序』「落霞與孤鶩齊飛」

[57]浮草の花。

[58]原文「没路」。未詳。とりあえず、こう訳す。

[59] 禮記』内則。礼をもって迎えた者は妻となり、私奔した者は妾となる。

[60]蝉の羽。鬢はしばしば蝉の羽に喩えられ、蝉鬢という言葉もある。

[61]霧のように薄い鬢髪であろう。

[62]宮中に棲む鴉。ここでは眉の黒い色の暗喩であろう。

[63]大船を指していよう。『北史』隋煬帝紀・大業八年「又滄海道軍舟艫千里、高帆電逝、巨艦雲飛、斷[水貝]江、逕造平壤」。

[64]鉛華は白粉。王学奇主編『元曲選校注』は、木に咲いた白い花を喩えるとする。この句の原文「尽春光付一樹鉛華」。含意があると思われるが未詳。

[65]宋代、科挙合格者に対し、皇帝が瓊林苑で催した宴。『宋史』選挙志一科目上「八年、進士、諸科始試律義十道、進士免帖經。明年、惟諸科試律、進士復帖經。進士始分三甲。自是錫宴就瓊林苑」。

[66]海の果て。

[67]天使から賜わられた酒。

[68]進士及第者のうち、上位三人に天子が賜う金の帽子飾り。

[69]状元に同じ。科挙の第一等合格者。『類書纂要』「賀中状元、曰巍占鰲頭」。

[70]科挙の上位合格者をいう。

[71] 『後漢書』梁鴻伝「妻為具食、不敢於鴻前仰視、舉案齊眉」。元雑劇にも『挙案斉眉』あり。

[72]原文「我情愿挙案斉眉傍書榻」。前注参照。「書榻」は書を読むためのベンチ状の腰掛けであろう。韋荘『夏夜』「傍水遷書榻、開襟納夜涼」。

[73] コクマルカラス。小型の背中が白いカラス。

[74] 『成都記』「司馬相如初西去過昇仙橋、題柱曰、不乗後車駟馬、不過此橋」。

[75]闕下は朝廷。そこに至るとは、殿試を受験するということ。

[76]原文「捱下炕」。未詳。

[77]未詳。

[78]柳絮のこと。

[79]女性の魂をいう。

[80]春秋時代の名医。『難経序』「『黄帝八十一難経』者、斯乃渤海秦越人所作也。以其軒轅時扁鵲相類、乃号之為扁鵲、又家於魯国、因命之曰盧医」。

[81]朝廷の典章制度をいうが、それでは意味が通じぬ。前後の脈絡から、朝廷から賜った御衣のように思われるが未詳。

[82]日の高く登ったさまを、竿三つ分の高さということで、三竿と称するが、ここでは竿半分ぐらいの高さ、地上すれすれといったぐらいの意味であろう。

[83]未詳。

[84]文章。

[85] 『論語』先進「コ行:顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語:宰我、子貢。政事:冉有、季路。文學:子游、子夏」注「弟子因孔子之言、記此十人、而并目其所長、分為四科。」。

[86] 『書経』泰誓下「狎侮五常」疏「五常、父義、母慈、兄友、弟恭、子孝」。

[87] 『周礼』保氏「保氏掌諫王惡、而養國子以道、乃教之六藝、一曰五禮、二曰六樂、三曰五射、四曰五馭、五曰六書、六曰九數。」。

[88]温庭筠が八回腕組みをする間に八韻の詩を作ったという故事をふまえた言葉。ここでは、王文挙が温庭筠のように豊かな才能を持っていると言うこと。『北夢瑣言』「温庭筠才思艶麗、工為小賦、毎入試押官韻作賦、凡八叉手而八韻成」。

[89]原文「九天上得遂風雷」。含意未詳。赫赫たる名声を手に入れるということか。

[90]中書省をいう。『通典』職官典「魏晉以來、中書監、令掌贊詔命、記會時事、典作文書。以其地在樞近、多承寵任、是以人固其位、謂之『鳳凰池』焉。」。

[91]九卿に同じ。時代によって名称が異なるが、ここでは高官というぐらいの意味で使っていよう。

[92]元輔は宰相のこと。顔延之『三月三日曲水詩序』「王宰宣哲於元輔」注「済曰、王宰、宰相也、哲、智也、元、君也、言宰相之心、宣智力於君、以為輔佐也」。八元輔は未詳。

[93] 『書経』洪範「五福、一曰壽、二曰富、三曰康寧、四曰攸好コ、五曰考終命」。

[94]四時の氣をいう。梁簡文帝『上菩薩樹頌啓』「八風調、四氣正、天下定、海外安」。

[95]科挙合格者の記録。唐代、進士登科記といった。『事物紀原』学校貢挙部、登科記参照。

[96]会試。

[97]城から離れたところにある亭。ここで送別が行われた。

[98]巫山は楚の懐王が神女とちぎった山。ここでは男女の会う場所のたとえ。望夫石は夫の帰りを待ちわびた女性が変化した石。『幽明録』「武昌陽新縣北山上有望夫石、状若人立。相傳昔有貞婦、其夫從役、遠赴國難、婦攜弱子、餞送此山、立望夫而化為立石。」この句は、王文挙と契りを交わせると思ったが、その帰りを待ちわびる身になってしまったことを述べたもの。

[99]軽くて薄い絹。

[100]十里ごとに設けられた亭。庾信『哀江南』「十里五里、長汀短亭」。

[101]原文「飽病」。衣食が足りたことによって生じる淫欲。「飽暖生淫欲」という成語がある。

[102]薦福寺にある欧陽詢の石碑のこと。范仲淹が、貧しい書生を救うため、この石碑の拓本を千枚とり、売ろうと計画していたが、石碑が雷でうち砕かれてしまったという故事が『墨客揮犀』に見える。「范文正公守饒、有書生上謁、自言、平生未嘗飽、天下寒餓無如某者、時盛称欧陽率更字、薦福寺碑墨本値千金、文正欲為打千本、使售于京師、紙墨已具、一夕雷撃其碑」。元雑劇にも『薦福碑』あり。

[103]原文「并不聞琴辺続断絃」。「続断絃」を、『元曲選校注』は別に妻を娶ることと解するが、離ればなれになっていた倩英と王文挙がふたたび結ばれることを指しているものと思われる。

[104]原文「倒做了山間滾磨旗」。「磨旗」は旗を振ること。含意未詳だが、浮気をするという方向であろう。

[105]衡州府の判官。

[106]物寂しいさま。誰も手を着けないことをいったものか。

[107]原文「催起帰程」。ホトトギスが「不如帰去(帰った方が良い)」と鳴くことにちなんだ句。『本草』杜鵑「釈名、其鳴若曰不如帰去」。

[108]彫刻を施した鞍。

[109]原文「眼生」。馬がものを見て驚くこと。

[110]村の入り口の門をいう。

[111]錦を着て昼間歩くこと。故郷に錦を飾ること。『北史』毛遐伝「鴻賓為刺史、詔曰、此以昼錦栄郷」。

[112]原文「剛道来的話児不中聴」。未詳。とりあえず、こう訳す。

[113]主語は「夫人」と解釈する。

[114]拝火教寺院。

[115]彫刻を施した鞍。

[116]原文「疏剌剌沙鞴雕鞍撒了鎖[革呈]」。未詳。疏剌剌沙は擬音。

[117]未詳。碧玉の飾りのある筝か。

[118]原文「精磚」。未詳。

[119] 「祆廟」以下の句の含意は未詳だが、おおむね、夫人が倩英と王文挙の結婚を妨害したことの暗喩であろう。祆廟云々は、『淵鑑類函』巻五十八引『蜀志』の故事を踏まえた句。物語は、蜀帝の公主がその乳母の子と、成人後、祆神廟で密会を約するが、公主が訪ねたとき、乳母の子は眠っていたため、公主はそのまま帰る、乳母の子は目が覚めてからそれを怒り、怨気で、廟が燃えたというもの。祆神廟は男女の密会場所の隠喩として、元曲にはしばしば出てくる。『竹塢聴琴』第四折『誤入桃源』第四折『争報恩』第一折など。銀瓶に関しては、『牆頭馬上』第三折に、裴尚書が、李千金と裴少俊の結婚を妨害し、糸で結んだ銀瓶で、井戸の水を汲ませ、糸が切れたら結婚を許さないと言う物語があり、これと関係があるか。

[120]原文「要打滅醜声」。呉振清は倩英が王文挙と私奔したことを指すというが、そうではなく、先ほど、『古寨児令』の前で、倩英が夫人から「これは妖怪にちがいない」といわれたことを指していよう。

[121]原文「打聴為官折了桂枝」。科挙に合格することを折桂という。『避暑録話』四「世以登科為折桂」。

[122]心が通じることをいう。李商隠『無題』「身無綵鳳双比翼、心有霊犀一点通」。

[123]飾りのない琴。

[124]青い連環紋を彫刻した窓。閨房のこと。

 

 

 

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