第百六回 

譚念修が母を愛して病の床に寄り添うこと

王象藎が婿を選んで婿を得ること

 

 さて、譚紹聞は赴任をし、前の県令と交替しました。前の県令はずるいことをし慣れた役人でしたので、新しい知県が学者馬鹿で新米であるのをみますと、掌管していた金銭、穀物、倉庫で欠損があるところを、曖昧にごまかし、あちこち補填をし、うやむやに事を済ませようとしました。譚紹聞はもともと正しい家の子弟でしたが、軽薄な暮らしをしていたときは、たくさんの金を使ったことがありましたし、改心してからは、族兄の布政司が、財を軽んじ、義を重んじ、慈悲のある心をもっていたのを見ていました。彼は、前の県令が嘘をついていることは分かっていましたが、法を枉げて彼を許し、不問に付そうとしました。しかし、前の県令は酷薄で財貨を貪っていましたので、ずっと、県の士人や民衆の怒りをかっていました。書吏たちは、ある者は譚紹聞に面会し、どこそこにこれだけのごまかしがあるといい、ある者は帳簿を作って、どこそこに少し欠損があると記しました。前の県令は、書吏を捕縛し、彼らが新しい知県の機嫌をとっていると言おうとしました。しかし、書吏は納得しませんでした。「三人の将軍でも理の字は動かせぬ」もので、前の県令は、若干のごまかしや欠損を認めざるを得ませんでした。彼は、言い逃れをして時間を稼ぎましたが、任期が迫りますと、上官は、新しい県令に保証書[1]を提出するように促しました。ごまかしがきかなくなりますと、前の県令は、役所にやってきて、寛大な処置をし、同僚によくしてくれと頼みました。譚紹聞は、半分の欠損を見逃して、けりをつけることにしました。

 前の県令が法の網を逃れて去っていきますと、譚紹聞は、熱心に役人の仕事をしました。彼は下役を思いやり、令状を出して民衆に災いをもたらすことは少しもありませんでした。しかし、書吏には、法をまげない者はなく、上官は気配りをして、利を貪ろうとし、郷紳たちは親しげにし、陽橋[2]の嫌疑を免れませんでした。譚紹聞は、一年役人をしましたが、印を握り、綬を垂らしていると[3]、一つとして当惑させられないものはなく、心配でないものはありませんでした。宅門の中では、愚かな者は役には立たず、賢い者は役人を騙そうとしました。譚紹聞は、あれこれ考えましたが、やはり王象藎が優れている、人を祥符に遣わして王象藎を呼ぶのがいいと思いました。そこで、母親の安否と、簣初の勉強および家庭の雑事を尋ねる手紙を書きました。また、もう一つの帖子で、王象藎に、黄岩に来て仕事をするようにと言いました。さらに、程嵩淑、張類村、孔耘軒にはご機嫌伺いの手紙を、盛希僑、張正心、閻仲端には安否を問う手紙を出すことにし、これらを一つの包みにしました。また、浙江の土産を幾つか買い、自分の家には五鳳冠を一つ、七事[4]、巾着、霞璧を一つ買い、母親に送りました。絹物は巫氏、冰梅の衣服のため、書籍は簣初に読ませるためでした。竹細工は用威のおもちゃでした。首帕、手巾、香袋、扇袋、櫛は、下女たちへの贈り物、靴、帽子、帯などは、下男たちへの贈り物でした。他にも、王象藎に糸で縫いあわせた風呂敷包みを送りましたが、中身は趙大児、全姑、子供へのものでした。譚紹聞は、河南にいったことのある力仕事用の下役を二人選び、旅費を与え、日を選んで出発させ、下役は河南にやってきました。

 しかし、下役は二か月待っても帰ってきませんでした。紹聞は少し焦り、昼は仕事をし、夜は心配をしました。ある日、突然二人の下役が役所に戻ってきて叩頭しましたが、王象藎の姿はありませんでしたので、不安になりました。下役が手紙を差し出しますと、封には「平安」の二字が見えませんでしたので、心の中でさらにびっくりしました。急いで開いてみますと、それは息子の手紙でした。小さい字がびっしりとならんでおり、紙一杯に「ご隠居さまはお父さまのことを思われて、大病になられました。お父さまは戻ってこられないのでしょうか。役所のお仕事のことは、私にはよく分かりませんから、妄りに口を挾むわけにはまいりませんが、いずれにしても、ご隠居さまは高齢ですから、家に戻られるのがいいと思います」と書かれていました。紹聞は、徐元直[5]のように心が乱れました。また、「王中は家事を切り盛りしており、家を離れるわけにはまいりません」とも書いてありました。そこで、紹聞は、当面は差し迫った仕事もありませんでしたので、彼を呼ぶことはとりあえずやめにしました。

 翌日、すぐに省城にいきました。まず藩台様に謁見し、手紙を提出しました。藩台様はそれを見ますと、すぐに言いました。

「去年、わしは家族を浙江に迎えたが、ご隠居さまは元気だと言っていた。今になって急に病気になられるとは思わなかった。お前は終養[6]を請求するべきだ。父親や母親は、年をとって病気になったときは、息子に会いたがり、息子が官職を得ることを望まず、息子が役人になっていれば後悔するものだ。数人の息子があるときは、役人になった者も役人にならなかった者も、すべて枕元に呼ぼうとし、全員が役人になっていれば、全員が揃わないのではないかと心配するのだ。たとえ親不孝な息子でも、この時ばかりは、子か子でないかが問題で、孝か不孝かは関係なくなるのだ。おまえは、今、浙江にいるが、ご隠居さまは毎晩お前の事を夢に見ておられることだろう」

紹衣が人間の最高の天性─誰でも同じ親を思う心─について話しをしますと、譚紹聞は思わずおいおいと泣き、顔を涙で一杯にしました。譚紹衣

「悲しむのはやめるのだ。お前は役人になって日も浅く、ご隠居さまを役所にお迎えしていない。しかし、去年、皇帝陛下の深いご恩をこうむり、二代の封贈[7]を受け、息子として、先祖を顕彰する心を慰めることができたはずだ。今、ご隠居さまは病気でないが、年は七十を越えている。お前はやはり終養を請求するべきだ。それに、お前は一人息子だから、事例にも合っている。わしはこれから撫院にいって巡撫さまに会い、お前の事情を説明しよう。わしが撫院から戻ったら、お前は巡撫さまに会って話しをするのだ。銭塘県知事は河南の尉氏の方だから、あの方に同郷の役人の保証書を書いてもらうがいい。県庁の書吏に、先例に従って終養を請う上呈書を書かせ、押印するのだ。わしは 原稿を添え、控えを作ろう。お前はまったく虚偽がないことを、布政司に報告し、同郷の役人の保証書を添えるのだ。布政司では親が本当に病気であることの証明書を添えて、撫院に送り、吏部への文書送付、上奏が行われるだろう。聖旨が下ったら、家に戻るがよい。ご隠居さまはお前を見て喜ばれ、きっと良くなることだろう。お前は人を黄岩に遣わし、各房の書吏に、終養を請う理由を説明し、彼らの管理している銭糧、倉庫、馬、船、狼煙台、駅、沿海部の港、城壁、壇、廟、一切の事柄を、台帳を作成し、人を遣わして調査、説明できるようにするのだ。ところで、お前は一年役人をしたが、経理には欠損があるか」

「前の県令のために千五百両を負担し、保証書を出してやりました。一年で千両を補填しましたが、まだ五百両の赤字があります」

藩台「それは大したことではない。今度派遣されるのは─わしは巡撫さまと相談したが─恐らくわしの同年で、上虞県知県の徐守訓だ。わしが彼に話しをし、すぐに保証書を出させ、お前を出発させよう。お前が抱えている欠損の金は、わしが彼に与えよう。わしは属官である州県知事に迫って、事実に即していない保証書を出させ、彼らに迷惑を掛け、問題を先送りにし、後任の州県の役人を難儀させたりはしない。わしは事実に即して事を処理することにしよう。わしが彼に無理やり身元保証書を出させ、上司であるわしが彼を守ることにしても、わしが赴任した後、やってきた知事が事実に即して事を処理したら、州県の役人の命を危うくすることになるからな。わしがうやむやに事を済ませるのではないことは、部下たちも普段から信じている、ましてお前に関することはなおさらだ。お前はとにかくわしが言ったようにするがいい。他にも大事なことがあるから、きちんと相談しておこう。以前、河南にいたとき、簣初に嫁をとる話しをしたが、今度数千里離れてしまえば、今後もあまり顔をあわせることはできまい。きちんと話を付けなければお前もわしも気掛かりだ。嫁はわしの姪で、薛という名字だ。姑老爺[8]は山西の楡次県[9]の任地で亡くなったので、わしは姑太太、姪、甥を役所に迎えた。その頃、簣初が道台の役所にきたが、姑太太は彼を一目見て、婿にしようとしたのだ。今日、お前が家に帰るのなら、わしは是非とも縁結びをしたい。お前の息子の嫁を、お前にみせるから、家に戻ったら、ご隠居さまや奥さんに話すのだ」

紹聞は承知し、何とかして薛家の娘に会おうとしました。そして、心の中でとても喜び、急いで八種類の礼物を買って、納采の儀式を行い、返事の手紙を得ました。

 さらに一日とどまって、晩に城を出ました。黄岩県に戻りますと、すべて藩台の言った通りに処置しました。さらに五日たちますと、上虞県[10]の知県徐守訓が、上官の委牌[11]を奉じて、黄岩県の事務を引き継ぎにやってきました。事務、印の引き渡しを、二人の県令は、慣例通りに行いました。未決の案件、未納の税金、不足の国費の調査、報告については、前県知事には少しのごまかしもありませんでしたので、新しい県令は藩司の請託を受けますと、五日以内に、保証書を出しました。

 譚紹聞は、役所を離れて省城にあがる日を決めました。城内や城外の人民は、連夜万民傘[12]を作り、譚紹聞が省城にあがる日になりますと、盒子にいれた酒を四五里に渡って並べました。父老や子弟は道をさえぎり、轅にすがり、譚紹聞を行かせようとしませんでした。紹聞は酒に弱かったので、ちょっと飲み食いをしただけで、酔っ払ってしまいました。大体、愚かな人民は、激しやすく、騙しにくいもので、役人が金儲けのことを考えますと、彼らの非難をおさえることはできず、役人が人民のことを考えますと、彼らの涙をおさえることができないものです。譚紹聞は着任して幾らもたっていませんでしたが、人民を細かく気遣っていましたし、着任する前から、火箭を作って敵を破ったり、災害に遭った人民の生活を安定させたりして、名声を得ていました。着任してからは、婁潜斎が館陶を治めたときの業績に倣って、幾つかの仕事を行いました。ですから、百姓たちは「いい役人は任期半ばで去っていく」ことを悲しんだのでした。

 昼夜兼行で省城へ行き、藩署[13]に入りました。前任者のために肩代わりした金を、藩台は、日を改めて、上虞県令とともに清算しました。その晩は、さらに水陸の旅費を送りました。譚紹聞は、翌日出発し、船や馬に乗って、急いで旅をし、一か月足らずで、祥符に入りました。

 皆さん、父や母は、年をとってから病気になりますと、心の中に、死の一字が横たわるものです。これは大黄を用いても洗い流すことができず、藜蘆[14]を用いても吐き出すことができず、人参、蓍[15]のような強壮剤を使っても治すことができないものです。しかし、息子が目の前にいて痒みや痛みを訪ねますと、痛みや痒みはやわらぎますし、糞尿を拭き取ってもらえば、心に恐れがなくなるものです。譚紹聞は家につきますと、一声

「母さん、戻りましたよ」

といいました。王氏は、それを聞きますと、神仙から「天官賜福」の札を送られでもしたかのように、笑いながら、

「お前が戻ってきてよかった」

と言いました。そして、病気は七割り方良くなってしまい、胸も痛むことはなくなりました。

 晩に、王氏はふたたび姚杏庵の薬を飲み、服を羽織り、枕により掛かって座りました。紹聞、巫氏、冰梅、簣初、用威は周りを囲みました。紹聞はどのように火箭を作ったか、どのように船を燃やしたか、どのように普陀山を攻撃したかについて話しました。巫翠姐は劇の文章を聞くかのように、それからどうなったのかと尋ねました。紹聞

「母さんが疲れたから、話しはやめだ」

王氏は笑って

「話しておくれ。聞くから」

そこで、紹聞は、京師にいって自分が引見をうけたとき、

「天子さまが南面して座られると、私は跪いて、私は譚紹聞と申し、河南の祥符の副榜で、火箭を作り、日本の賊兵七八千を焼き殺しましたと言いました。天子さまはとても喜ばれ、私を知県にされました。そして、浙江の黄岩県知事に空きがありましたので、私を黄岩に送られました。浙江につきますと、まず紹衣兄さんに会い、それから赴任しましたが、役所の従者たちがいい物を食い、いい物を着、賭博をしてばかりいましたので、王中を呼んで宅門を守らせようとしました。ところが、幾ら待ってもやってきませんでした。その後、興官児の手紙が来て、お母さんが病気だという事が分かりました。紹衣兄さんは、私に終養を請求するように─」

王氏

「終養とは何だい」

「家に戻って母親に会い、病気がよくなったら食事を多めにとって養生してもらうことを、終養というのです」

簣初

「お祖母さまはもう四五割方良くなりました。少し前までは、四五日も食事をとろうとせず、毎日三四口の葛湯を飲まれるだけでした。今ではだんだんと良くなって、粥をとり、乾飯を食べ、葛湯を飲み、毎日三四杯も食べられるようになりました」

巫氏

「私は、神様に劇を三日間奉納する願をかけました」

紹聞

「よくなったら上演することにしよう」

冰梅

「私は精進物を食べるという願をかけました」

紹聞

「お母さまが良くなったのは、みんなのお陰だ。お前たちの気持ちに感謝するよ」

 さて、王氏は息子にあって喜び、ご飯をたくさん食べ、薬は飲まなくなりました。薬をあまり飲まず、食事をたくさんとるのは、病気を治すための良策です。王氏は、日一日と良くなり、起き上がって、杖に縋って歩くことができるようになりました。さらに、杖に縋らずに歩けるようになりました。そして、一か月足らずで、すっかり治ってしまいました。

 これは譚紹聞がよく親の心を慰めたということですが、譚紹衣の処置が適切であったということでもありました。世の中の地位や利益を貪る者たちは、親や子供が病気であることを知りながら、利禄に恋々とし、孝行をしようとは思わないものです。任地で訃報をききますと、父母の『行述』[16]に「不孝某任に罪を待ち、罪逆応に自ずから殞滅すべし。意わざりき昊天(あは)れまず。禍いは家厳(慈)に延し、某月某日疾みて正寝(内寝)に終る。不孝は先厳(慈)見背の日、未だ属\、含飯するを得ず。これ尚何を以てか靦顔もて人の子たらんや」[17]。さらに「先厳の嘉行(先慈の懿徳)[18]」を思い、「血を濡らして縷述」[19]し、あなたがたのような先生に撰文を依頼し、「不孝這里(ここ)に衒結すること窮まり無し」[20]と書くのです。これは衰杖[21]を使う前に[22]、裨ェ[23]のように下書きを作るもので、役人が父母の喪に服す時のお決まりのやり方なのです。そして、作者は「ああ哀(かな)しいかな。豈に笑うべからざらんや」[24]という賛をつけるのです。

 さて、譚紹聞は黄岩県で訃報を聞き、地を這いながら帰途についたわけではありませんでしたので、開封府で他人に親の諱を書いてもらったり、郷紳から肩書きを借りたりする必要はありませんでした。これらのことはさておいて、話しを元に戻しましょう。王象藎は城の南の菜園で若主人が任地から戻ったということを聞き、二歩を一歩にして、蕭墻街に様子を見にきました。そして、主人に会うと叩頭しました。紹聞は急いで彼を引き止めますと、こう言いました。

「僕は黄岩県から下役を遣わし、お前を迎えて門番にしようとしたが、いくら待ってもおまえが姿を現さなかったので、気が気ではなかったよ」

王象藎「ご隠居さまが病気になられたので、行くことができなかったのです。私が行けば家に人がいなくなりますが、私が行かなくても役所には人がいるからです。若さま、碧草軒に行かれてみてください」

 王象藎は鍵を貰い、譚紹聞はついていきました。門を開けてみてみますと、碧草軒は、父親が生きていた時より、さらに美しくなっていました。そもそも譚道台が離任するとき、家族がここに住もうとし、開封太守が代わりに代金を渡したため、碧草軒は元の持ち主に戻ったのでした。開封太守はすぐに様々な職人を呼び、壁を積み、甬道を築き、格子に表装をし、ドアや窓を塗装し、道台が役所にいたときに買った、民間に流れていた艮岳[25]と、太湖石三つを移し、道台の役所の花や木三十鉢、金魚鉢二つ、涼喫八つを運びました。後に家族は引っ越すとき、王象藎に碧草軒を預けて鍵を掛けさせました。今日、紹聞は碧草軒をじっくり眺め、とても嬉しくなりました。そして、突然、昔、賭けをして負け、ここで自殺しようとしたことを思いだして、思わず後悔をしました。改心して勉強し、紹衣に会い、正人と交わることができなければ、家名を貶めたのはもちろん、碧草軒にこのように美しい日が照り、清らかな風が薫ることもなかったでしょう。しかし、一本の奇妙な形をした松だけは、肉屋酒を売る者たちの手によって、古色蒼然たる有様、謖々たる[26]趣きを汚されるのを免れることはできませんでした。王象藎は庭番に水をやらせますと、庭の門に鍵を掛け、城の南の菜園に戻りました。

 紹聞が堂楼に戻りますと、一家の人々が集まりました。紹聞は興官児が薛氏と縁結びすることを話しました。王氏

「どこに住んでいるんだい」

「紹衣兄さんの姪です。父親は進士で、山西の楡次県の知県でしたが、任地で亡くなりました。紹衣兄さんは役所に彼女を迎えているのです」

王氏は巫氏、冰梅に向かって言いました。

「きっと薛おばさんの娘の全淑ちゃんだよ。道台様の家族は裏の書斎に引っ越され、道台様の奥さん、薛おばさん、全淑ちゃんはここにきている。あとで宴席を設けて招待し、趙大児親子二人を呼んでお客の世話をさせよう。全淑ちゃんと全姑は会った時から、仲が良くて姉妹のようで、離れようとしなかったよ。片や絹、片や木綿を着ているが、顔立ちに優劣はなかったよ。道台夫人、薛おばさんは、どちらもまるでそっくりだと褒めていた。彼らはすぐにいなくなってしまっていたが、楼にいって何かを話していたのだろう。後に、道台様が家族を迎えにきた時、うちで酒宴を開いて送別することにしたが、全淑ちゃんは何も食べずに、二人で楼に上がって、顔に塗った白粉をこすって、別れるのが辛い様子だった。私は全姑を興官児に嫁がせようと思っていたが、全淑ちゃんの縁談があるなら、仕方ない。全姑の縁談はなしということにしよう」

「お母さんと同じように、私もずっと全姑を嫁にすることを考えていました。しかし、話すことができなかったのです。もし王中が従わなかったら、顔を合わせにくくなります。しかし、心配はいりません、母さんが王中に会われたら、話しをもちかけ、彼が承知しなければ、母さんは女の方ですから、年をとって耄碌したといって、手をひかれれば、何もなかったも同じことです」

「それもよかろう。王中が承知しなければ、全姑を嫁にとるのは断念してもいいだろう」

 ちょうど翌日、王象藎が城内に入ってきました。彼は磁器の罐に入れた紫蘇を持ってきて、ご隠居さまが病み上がりだから、ご飯の漬物にするといいと言いました。王象藎が楼の入り口に着きますと、王氏は、

「王中、そこに立っていなさい。出ていって話しをするから」

と言い、楼の東の間から杖に縋ってゆっくりと出てきました。王象藎

「ご隠居さま、すっかりよくなられて」

「頭がまだくらくらするが、他はどうという事はない。おまえたち四人は、戻ってきて西の書斎に住んでおくれ。娘が大きくなったのに、城の南の菜園には塀がないから、体裁がよくないだろう」

「ご隠居さまのおっしゃることはご尤もです。すぐに戻りましょう。城の南の菜園は、小作人に与えて耕させてもいいのです。しかし、野菜は手に入れにくくなってしまいますが」

「私は全姑を可愛く思っているから、あの子に私の世話をさせておくれ」

「ただの小娘で、何も知りませんよ」

「わたしは年をとったから、朝晩、若い娘に世話をしてもらい、話しをして気晴らしをしたいのだよ。私は興相公にもそばにいてもらいたいのだが、彼ら二人はどちらも十七八歳だから、都合が良くない。私は思うんだが─、私は─」

王象藎は事情が分かっておりましたので、言いました。

「ご隠居さま、おっしゃってください」

「年をとって惚けてしまったので、変な話しをするが、悪く思わないでおくれ」

「変に思うなど、とんでもございません」

「彼ら二人を結婚させてはどうだろう」

「私は奴隷です─」

王氏はちょっとびっくりしました。

「─興相公のことを私は注意してみてきましたが、あの方は、将来出世されるお方です。奴隷の娘を主人のお子さんに嫁がせるのは少し不安です。旦那さまのお墓に叩頭して報告させてください。私は自らの良心にそむくようなことはできないのです」

「おまえは興相公に許嫁があるのを知っているのかい」

「気が付いておりました。道台様のご家族が裏の書斎に住んでおられたとき、私は全淑さまを見たことがございました。その時から、私は全淑さまが興相公の許嫁であればいいと思っておりました。若さまは、浙江で、きっと興相公と全淑さまの縁談をととのえられたことでしょう。ご隠居さまが今おっしゃったことは、天が人の望みに従ったというものです。私に異存はございません。明日、旦那さまのお墓に行き、報告致します」

話しをすっかり聞きますと、王氏はとても喜びました。

 紹聞が閻楷の書店から戻ってきますと、王氏

「王中は、娘が妾になってもいいといった。明日、墓にいっておまえのお父さんに報告しよう」

紹聞

「私は、戻ってきた時、お母さまがご病気でしたので、祠堂でご先祖さまに報告をいたししましたが、墓には叩頭しておりませんでした。明日、行くことに致しましょう。日を改めて、吉日を選んで、ご先祖さまをお祭りましょう」

墓に行き、叩頭したことについては、一言書けば、おおよそのことは分かろうというものです。

 その後、譚紹聞は、車に乗って、婁、孔、程、張、蘇らの家に挨拶をしました。六七十歳の模範的な老人や、二三十歳の俊才たちは、下男を遣わして誘い合わせ、一緒にお祝いを述べました。譚紹聞は、ますますうやうやしくして、王象藎の家と婚約を交わしたことへの、意見を求めました。蘇霖臣

「これも『権にしてその正を失わない』[27]というものだ。経書に、『子に二妾あり、父母は一人を愛す』[28]とある。これは父親が生きているときに子供が妾をとることがあるという、一つの証拠だ。しかし、正室を迎えないうちから妾をとるのは、少し早すぎる嫌いがあるがな」

張類村

「妾をとるのは争いのもとです。そのことが心配です」

程嵩淑は笑って

「諸侯が一度に九人の娘を娶ったのは、彼女たちが嫉妬をしなかったためですよ[29]とある」

紹聞は、さらに義父にも教えを請いました。孔耘軒

「お母さまがお命じになったのだし、お母さまがご高齢でもあるから、あの娘に世話をさせることが必要だ。言われた通りにするのがいいだろう。しかし、親迎や廟見[30]の時に、正妻と妾の区別をしないのはよくない」

程嵩淑は大笑いして、

「『聖人は、成事は説かず』[31]といいますからね」

話しは終わりました。酒肴が尽きますと、客たちはそれぞれ帰っていきました。

 さて、王氏が王象藎と楼で話しをつけ、紹聞が王象藎とともに墓から戻ってから一か月の間に、紹聞は、絹の生地、金や翡翠の頭飾り、酒甕と肉の入った盒子を贈りました。品物は、とても豊富で美しいものでした。結婚の日になりますと、樊婆は花轎に乗って新婦を迎え、小作人の女房は、新婦を送りました。簣初は衣冠を整えていましたが、親迎、奠雁の礼を行おうとはせず、妾を娶る時は、夫人を娶る時のように六礼をすべて行う必要がないことを示しました。

 樊婆は、家に戻りますと、「寝屋の物音を聞いて子供結びを作れ」という諺に従い、こっそりと赤い木綿の帯を買いました。用威が床に腰掛けますと、新郎新婦の部屋には、数人の隣家の婦人がお祝いにきました。夫婦固めの杯がすみ、夜が更けますと、人々は帰り、簣初は門を閉めました。樊婆は人々が寝静まってから、手に赤い帯を持ち、足音を潜めて、窓の外でこっそりと物音を聞きましたが、何も聞こえませんでした。しかし、暫くしますと、どうやらああという声が聞こえたようでしたので、樊婆は結び目を作りました。そして、立っていて腰が疲れたので、立っていられなくなって去っていきました。

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]原文「具結」。前任者が汚職をしていないことを保証する文書。

[2]陽橋は白魚(ニゴイ)のこと。『説苑』政理によれば、釣糸にすぐ吸いついてくるが、まずい魚だという。阿諛追従する者の譬え。「陽晝曰、夫扱綸錯餌、迎而吸之者也、陽橋也、其為魚薄而不美」。(図:『本草綱目』)

[3]印綬は、役人の地位の象徴。「印を握り、綬を垂らしていると」とは、「役人生活をしていると」という意味。

[4]身につける七つのもの、佩刀、刀子、砥石、契苾真、炮厥、針筒、火石。

[5]徐庶。三国の人。劉備に仕えたが、母親を曹操に捕らえられたため、「今老母を失ひ、方寸(こころ)乱る。請ふらくは此れより辞せん」と言って、劉備の下を去った。

[6]親の終焉を見とること。

[7]朝廷が功臣及びその先祖に爵位、名号を賜うこと。封は生存者に、贈は死者に賜うこと。

[8]姉妹の夫。

[9]山西省太原府。

[10]浙江省紹興府。

[11]官庁の長官が属員に委任して所属官署の事務を辧理せしめる時、属員の身分権限を保証するために公文書を給し、その文を写してこれを官署の門首に掲出公示する木牌。

[12]清廉で実績のあった役人が離任するとき、人民が記念に作る傘。

[13]布政司の役所。

[14] しゅろそう。毒があり、『本草綱目』によれば「之を服すれば吐いて止まず」とある。(図:『三才図会』)

[15] めどはぎ。『本草綱目』によれば「気を益し肌膚に充つ」とある。

[16]死者の平生の事蹟を記した文章、行状。

[17] 「不孝者の私は任地で役人を務めておりました。その罪は身を滅ぼして当然です。ところが、天は私をよく思われず、父親(母親)に災いをおよぼし、父親(母親)は某月某日病気となり、亡くなってしまいました。不孝者の私は父親(母親)がなくなったとき、属\、含飯をすることができませんでした。厚かましくも人の子として生きていくことはできません」。属\は、死に掛かった人の口に新しい綿を当てて、呼吸の有無を確かめること、含飯は、死者の口に含玉、飯玉を含ませること。

[18] 「亡父の優れた行い、亡母の優れた徳」。

[19] 「血で筆を濡らしてつぶさに述べ」。

[20] 「不孝者の私はここに深くご恩返し致します」。

[21]喪に用いる麻絰(喪服)と竹の杖。衰絰と苴杖。

[22] 「父母が生きているうちに」の意。

[23]春秋時代の鄭の大夫。鄭国の辞令は彼が草稿を書いた。

[24] 「ああ悲しい。笑うべきことではないか」。

[25]万寿山ともいう。宋の徽宗が政和七年に京師の庭園に造った築山。

[26]松に風が吹くさま。

[27] 「破格のやり方だが正しい」。

[28] 『礼記』内則。

[29] 『魏志』武宣卞皇后伝に、「天子十二女、諸侯九女」(天子は十二人の娘を娶り、諸侯は九人の娘を娶る)。

[30]婦人が嫁にいって初めて夫の家の廟に参拝すること。

[31] 「できたことはいうまい」。『論語』八佾。

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