第百五回 

譚紹聞が天子に面会して詔勅を得ること

盛希瑗が友人を送別して良言を送ること

 

 さて、王都憲忬は、文官である左布政司譚紹衣及びその族弟の河南副榜譚紹聞、武将である総兵兪大猷、湯克寛、及び麾下の参将、遊撃、守備、把総らとともに、火箭を用い、福建の賊林参が密かに造った船を焼き、普陀山の数十の賊の群れを全滅させ、普陀山の賊の砦を攻めました。首を斬られたり、捕縛されたりした者は、かなりの数になりました。大功を立てれば、上奏を行うのがすじというものです。そこで、上奏文を書くことを司る幕僚に下書きを渡しました。書吏は、それを浄書しますと、九連発の大砲を響かせ、北に向かって九叩頭し、上奏文を拝みました。上奏文を届ける役人は、駅馬に乗り、日に六百里を進み、京師に到着しました。そして、通政司[1]の役所に上奏文を渡し、宮中に送ってもらいました。嘉靖帝が上奏文を開いて詳しく見てみますと、そこにはこう書かれていました。

浙江等の箇所を巡撫する、都御史提督軍務臣王忬は、倭寇が反逆し、勅を奉じて彼らを殲滅し、大勝利を収め、火攻めを行ったことを謹んで上奏致します。

思うに日本国は、もともとは海外の僻地であり、昔から極めて従順でありました。そして、毎年、産物を納め、海を渡って蛮地の品物をもたらしておりました。天朝は市舶司[2]を設け、市舶司太監[3]に事務を行わせました。恐らく、中国人は愚鈍な彼らを欺き、彼らの儲けを取り、彼らを侮り、侵奪をほしいままにし、祖宗の、蛮夷を手なづけた善良な心を失うに至ったのでしょう。市舶司を設けたのは、最高の善を為さんがためでした。しかし、中国からかの国にこっそり逃げる者がいるため、沿岸地域は不穏になりました。日本は貢ぎ物を納めるときは、一年間に次々とやってきます、必ず先に来るものと後に来るものがあり、品物を売ってはその利益を分け、宴会の時はその席次を決めます。嘉靖二年に先にやってきたのは、日本国左京兆大夫内芸興と、彼が連れてきた僧の宗設、後にやってきたのは、かの国の右京兆大夫高貢と、彼が連れてきた僧の瑞佐でした。慣例に従って事を処理すれば、争いが起こるはずがなかったのです。しかし、こっそり日本に逃げた者が、鄞県の悪人宋素卿の手引きによって、海を渡って寧波に戻り、僧の瑞佐に代わって市舶司の太監に賄賂を贈ったため、品物を売るときに順番が決められず、嘉賓堂の宴会の際は、高貢が首席となり、内芸興が次席となりました。慣例が守られなかったため、倭人は財を争って、殺し合いをしました。宋素卿は刀剣を執って瑞佐を助けたため、堂は壊され、倉庫は略奪され、備倭都指揮[4]が殺害される事件が起こりました。宝物を献上していた国は、それ以後、隙を伺い、虚に乗ずる国となりました。これが、台州、象山、黄岩、定海の諸郡県が、本年不穏となった原因なのです。私は山東を巡撫し、倭冦を滅ぼし、人民を集めよとの詔を奉じ、昼夜兼行で浙江に至り、日々勅命を奉じ、倭に備えている左布政臣譚紹衣と心を合わせ、助け合いました。譚紹衣は三か月前にすでに到着しており、彼の族弟で、河南丁酉の副榜譚紹聞を、寧波の定海寺に潜ませ、密かに外国に逃げた徐万寧、王資、銭亜亨、魯伯醇及び落第生員馮応昂等の消息をきちんと調べました。私は、これらの奸賊は外寇と交遊し、郷土に害毒を流し、国家に災厄をもたらしたのですから、断じて処刑を引き伸ばすわけにはゆかないと思い、謹んで陛下が誅殺の命をたまわることをお願い申し上げました。すでに倭冦の案内役を絶ち、賊の経路を断ちましたので、左布政の譚紹衣とともに、総兵官の兪大猷、湯克寛をつれ、定海寺に進駐して敵を制することができるでしょう。副榜譚紹聞も、火攻めの計画を立て、彼が自ら作った火箭九百万本を軍に献上しました。策は奇抜で、従来の兵法書に記されていないものでした。火箭は軽く、携えやすく、簡単に火を点けて発射することができ、虹霓炮に比べればずっと便利でしたので、私どもは彼の献議を受け入れることにしました。そこへ、ちょうど普陀山の倭寇数十群がやってきました。福建の奸賊林参が、美しく飾った海船二十余艘を造って来冦しますと、私の軍営では、彼らが岸に着き、半分が上陸したのを伺い、不意を突いて、火箭に火を点け、発射させました。あるときは一斉に発射し、あるときは次々に発射しました。賊は火を消し、衣を揉み、日除けを揺り動かしましたが、動かせば動かすほど火は激しく燃えました。美しく飾った船は、あっという間に燃えました。賊寇で水に落ち、火に巻かれた者は数知れませんでした。しかし、中には焼けなかった船もあり、櫓を揺らし、柁を動かして、一目散に普陀山へと逃げ、山寨に立て籠もろうとしました。私は、夜、両総兵に命令して水軍の戦艦で追跡させました。夜半に山につきますと、前方に向かって火箭を発射しました。山の上や山の下は、瞬時にして一面火の海となりました。倭冦たちの茅の日除けや筵の寝床は、あっという間にすっかり燃えてしまいました。両総兵は勝ちに乗じて殺到し、ただちに賊の巣窟をたたき、夜明けには掃蕩を終えました。倭賊の被害を調べますと、斬った首は二百五十三級、捕虜にした者は三百四十三人でした。日本の者は、とりあえず寧波に拘束し、勅命をまって裁断いたします。顔や声が福建、浙江人に似ている者は、すべて省城に護送して厳しく訊問し、倭に通じた仲間について追及致します。以上、今回の戦役における倭冦殲滅の情況は、当然奏聞すべきものであります。さらに、河南の丁酉科副榜譚紹聞は、密かに倭に通じた者の姓名を調べ、火箭を作りましたが、これ以上大きな功績はありませんので、第一に推薦すべきものであります。引見をすべきかどうかは、天子さまのご判断にしたがいます。私は上奏文に臨んで、天子さまのご恩に感じ、お慕い申し上げる気持ちに堪えません。

  内閣が奉じた御批にはこうありました。

ここで述べられている、敵を滅ぼす有様は、この目に見えるかのようである。捕らえられた日本国の倭人は、以前の諭告と同じ様に処置する。倭冦の首領は処刑して死体を沈めよ。脅やかされて従った者は、礼義を教えて帰還させ、ふたたび侵入したときは倭冦の首領と同じように処置せよ。王忬、譚紹衣、兪大猷、湯克寛にはそれぞれ一級の優叙[5]を加える。譚紹聞は兵部に引見をさせ、質問をすることにする。

これを欽めり。

 さて、譚紹衣は、王都憲の委任を受けますと、善後処理を行いました。倭寇が通ったことのない県は調査しませんでしたが、倭寇が略奪を行った所では、まず倉庫を調べました。すべてを奪われた者あり、金庫が奪われて食糧倉が残った者あり、十分の七八が奪われた者もあり、門を開け、鍵をこじあけたところへ明軍が来たため、賊が戦いもせずに逃げていったという者もありました。譚紹衣は、冊子を作って撫台に報告し、倉庫に関する報告の原稿を作り、規則を作りやすいようにしました。次は人民の救済でした。倭寇がやってきた府県では、ある者は殺され、ある者は傷付けられ、ある者は子女が捕虜になり、ある者は蓄えていた財産を奪われていましたが、それぞれには被害の軽重に応じて、救済が施され、公金が支給されました。以上の仕事はすべて譚紹聞が行いました。沿海の市民は、みな感動し、賞賛しました。

 仕事を終えて役所に戻りますと、突然兵部の咨文が省役所に届きました。撫院は布政司に咨文を転送しました。咨文は、河南丁酉科副榜譚紹聞を兵部に召すというものでした。譚紹衣は、譚紹聞を連れて王忬に謁見し、年齢と容貌、本籍、祖父、父親、経歴を記した上呈書を撫院に贈りました。王撫台は浙江寧波府の定海寺での紹聞の事蹟を、四句二十字の評語にしました。「密かに倭に通じた逆賊を探り、さらに火攻めの良策を計画し、大功を立てて勝つことができたのは、まことに優れた計画のお陰であります」。書吏はそれを文袋に包んで、譚紹聞にもたせました。

 譚紹衣はただちに、旅装を整えさせ、餞別を贈り、執事の梅克仁、従者の胡以正、河南から連れてきた小者二人をつれ、船や車に乗って、北京に送りました。そして、ふたたび江米巷の中州会館に行き、休息しました。翌朝には、国子監に行き、盛希瑗に挨拶しました。離別にまさる苦しみはなく、思わぬ再会にまさる楽しみはありません。この二人が仲睦まじくしたことは、詳しく述べるまでもありません。盛希瑗が朝食に誘いますと、譚紹聞は行こうとしました。盛希瑗も一緒に国子監を出ました。一緒に婁厚存に挨拶をし、会館に行き、引見を受けるための準備をしました。そして、同郷人に頼んで、身分保証書を用意し、兵部に届けました。

 譚紹聞は、副榜であるという点からいえば礼部が、役人に選任されるという点からいえば吏部が、軍功によって引見を賜ったという点からいえば兵部が事務を行うことになります。このような例は、とても珍しいものでした。兵部の担当の書吏は、奇貨おくべしと思い、八十の婆さんでも、やって来た商売を逃してはならんとばかり、これは慣例に合わない、あれも慣例に合わないと言って、何度も難癖をつけました。婁厚存は、何度も出向いて指示を下しましたが、書吏は相変わらず面従腹背の態度をとりました。皆さん、お考えになってください。文科の副貢生を兵部で引見するのは、今まで例のないことでした。銀子を書吏の手に渡さなければ、どうして朝廷の慣例に合うことがありましょう。譚紹聞は、戦争をして人が殺されるのを見て、肝っ玉が太くなっていましたので、少し腹を立てました。盛希瑗は何度も宥めて

「六部の書吏たちは、『良いことはほとんどせず、悪いことはたくさんする。彼らに勝っても名誉ではなく、勝たなければ笑われる』ものです。これは書吏たちの十六字の秘訣で、彼らはまさにこれを頼りにしているのです」

譚紹聞は、天子さまに召されていることを頼りにして、承知しませんでした。そこで、盛希瑗は、こっそり二百四十両を立て替えて、書吏の袖に入れました。翌日、書吏は、明日の朝引見をするという報せを送ってきました。書吏は心の中で、譚紹聞が物分かりが良くなったのだと思い、譚紹聞は心の中で、書吏が心を入れ替えたのだと思いました。盛希瑗だけは心の中で、「これは兄さんの力だ」と笑っていました。

 翌日になりますと、兵部の武選司[6]の引率で、天子に謁見しました。御前に跪きますと、履歴が読み上げられました。

「譚紹聞は年三十五歳、河南の丁酉科副榜です。譚紹衣が赴任するのに従い、委託を受けて倭寇を防ぎ、倭に通じていた逆賊を密かに探り、火器を作って勝利を得ました。今回、陛下の勅旨を奉じて謁見いたします」

声は高らかに響き、仕事ぶりはきちんとしていました。嘉靖帝は幾つか質問をされました。天子はとても喜ばれました。じっと見ますと、武将ではなく、文人でした。そこで勅旨を下して浙江福建の沿海の知県の地位を与え、軍功に応じて二級を加えました。引見を行ったのは夏官[7]でしたが、勅旨は吏部から下りました。ちょうど黄岩県の知県の座があきましたので、吏部は即用[8]の規則を用いて、黄岩知県に選任しました。

 譚紹聞は、証書を受けて赴任することになり、心の中で母親を訪ねようと思いました。盛希瑗も、譚紹聞が祥符を通るときに、手紙を送ったり、伝言をしたりしてもらいたいと思っておりましたので、吏部に上呈書を送り、墓を修理するための一か月の休暇を請うように勧めました。吏部は、上呈書を受け、会議をしましたが、黄岩県では倭寇が暴れ回っており、人民は安定を望んでいるということを理由に、休暇を許しませんでした。書吏は会館に返答を送りました。吏部の役人が仕事に忠実でなく、公正な議論を行わない人々で有れば、書吏も法律を曲げて批准をし、賄賂を求めようとしていたことでしょう。盛希瑗は、賄賂を贈らなかったのがいけなかったのかと思いましたが、書吏たちの上司が真面目に仕事をする人々でしたので、書吏たちが少しも役に立つことができなかったのだということには気づきませんでした。

 譚紹聞は、黄岩県の窮状をみて、仕事をするのは難しいと思いました。

書吏

「これは何とかなります。譚さまと布政司さまは、丹徒、祥符に分かれて住んでおられ、兄弟のような間柄で、近くにいて功績を上げようとされています。これなら回避[9]の例があります。一二回の月選[10]で、別のよい場所に選任してもらってはいかがでしょう」

譚紹聞は、初めての任官でしたし、布政司とは一族の誼がありましたので、どうしても承知しませんでした。しかし、あまりたくさん喋るわけにもゆきませんでしたので、一言こう言いました。

「黄岩には行ったことがある。任地を変えていただく訳にはゆかない」

書吏は譚紹聞が話しをしたくないのだと思いました。譚紹聞が上呈書への返事を送ってきた小者に五百文を与えますと、書吏は礼を言っていってしまいました。

 その後は、こちらで利息つきの借金をして贈り物をしますと、先方は紹介費を受けて従者に贈り、仲介人が門番とともに、ピンはねの相談をしました。お針子は、新しい役人の冬の毛皮の外套、夏の葛衣などの豪華品を作らせてもらおうと思いました。小者は、新しい役人に酒や茶を注ぐ仕事にありつこうとしました。さいわい、紹聞は、幼いときに父の教えに背き、何度も大きな挫折を経験し、経験から様々なことを学んでいましたから、新任の役人の悪い前例を踏むことはありませんでした。しかし、聞きまちがいによる笑い話がございましたので、一つお話をし、皆さまに気晴らしをして頂きましょう。

 ある日、梅克仁が前門からやってきますと、一担ぎの桃がありました。そこで、百銭で十個を買い、会館に持ち帰って洗い、盆に並べ、主人と盛希瑗に初物を食べさせました。二人が食べてみますと、甘くて柔らかくおいしいものでしたので、

盛希瑗

「この桃はとてもおいしいですね」

紹聞

「ここの桃は小さいのに、とても高いですから、祥符の安い桃の方がいいですよ」

ちょうど会館の番人の張美が窓の外を通り、王媒婆に手紙を送りました。翌日、王媒婆がやってきますと、張美は王媒婆をつれてきて譚紹聞に叩頭させました。譚紹聞が理由を訪ねますと、媒婆

「聞くところによると、旦那さまはお妾をお求めとか、私がお役にたちましょう。必ずいい人を紹介しますよ」

紹聞は茫然として返事をすることができませんでした。盛希瑗

「おまえは媒婆だな。どういう事なのか話してくれ。どうしてこの方が妾をとろうとしていることが分かったのだ」

王媒婆は張美を指差していいました。

「張二爺が知らせてくれたのです」

紹聞

「おまえはどうしてこの者を呼んできたのだ」

張美

「先日窓の外を通っておりましたら、旦那さまと盛さまが、都で妾をとると値がはる、河南の方が安くていいと話されているのが聞こえたのです。旦那さまはこれから浙江に行かれ、河南には行かれないのですから、妾をとって船にのせた方が安くていいと思います。高いことなどございません」

紹聞はまだ話しがよく分かりませんでしたが、希瑗は分かったので、獅子のように大きく口を開けて笑いますと、言いました。

「我々は桃を食べていたのだ。譚さんは、この桃は小さく、値段が高い、我々のところのもののほうがよく、一銭で二三個の桃が買える、京師では一個の桃が十銭だ、と言っていたのだ。妾をとる事とは関係ない」

張美は笑って

「私はお祝儀をねだってばかりいるので、聞きまちがえたのです」

一男一女は笑いながらいってしまいました。甬道に行きますと、媒婆

「お役人さまは妾を欲しがって気違いのようになりますが、張二爺はお金のことを考えてつんぼになってしまったのですね」

張美は媒婆の肩を叩いて、言いました。

「王さんはお祝儀のことを考えて、足までむくんでしまっているじゃないか」

二人は大笑いして、会館を出ました。譚、盛の二人は、部屋の中で、笑いがとまりませんでした。

 無駄話しはこのくらいにいたしましょう。さて、譚紹聞は赴任するにあたって、郷試の試験官に別れの挨拶をし、餞別の贈り物をしなければなりませんでした。副榜は、試験官に期待をかけられている門下生というわけではありませんが、役人になったときに、恩師に会わないと、自分が恩知らずのように思われる恐れがあるのです。試験官も、今では、譚紹聞のことを門下生と思い、酒と食事を出し、対聯を与え、とても嬉しそうにしました。同郷の郷紳たちに別れの品を贈ったり、酒宴や文章のやり取りをしたりするのは避けることができないものです。州県知事は、貴人と会いますと、後日面倒を見てもらおうとしますし、貴人は州県知事にちょっとした役に立ってもらおうとするのです。これら一切の雑費は、すべて盛希瑗が黄金を換金してまかないました。

 様々な用事がおわると、盛希瑗は、紹聞が出発する前の晩に、酒を用意して送別をしました。二人以外に客はいませんでした。三四杯飲みますと、希瑗が口を開いて、言いました

「君は今日から役人になるが、君に言いたいことがある。今日の送別は、北京城内の役人たちの酒席とは違う。仁者は人に言葉を送るものだが、こうしてこそ真の友人といえるのだ。諺に、『知県は父母の官』という。世の人々は、他人を『爺』と呼んだり、『公』と呼んだり、『伯』『叔』と呼んだり、『弟兄』と呼んだりするが、他人を父、母と呼ぶことはない。しかし、知県だけは、人民の父母と呼ばれるのだ。一番大事なのは、父や母が貪欲になり、子供達の肉を食らったり、血を飲んだりしてはいけないということだ。例えば、今日役人となる者は、どこそこはいい任地で、どこそこは悪い任地で、どこそこは目立つ任地で、どこそこは目立たない任地だという。そして、衝、繁、疲、難の話しはせず、美、醜、明、暗の話しをしてばかりいる。金の事ばかりを考えていれば、天下に良い役人はいなくなってしまう。最もひどい者は、どこどこでは一年で数「方」[11]稼げる、どこそこは一年で数「撇頭」[12]稼げるという。「方」とは欠筆すると万の字に似ているから、撇頭とは千の字の頭が払いだからこういうのだ。万を方ということは、宋のときすでにあったが[13]、今では官界の恥知らずの者たちの決まり文句になっている。官界では『儀礼』一部といえば三千両[14]、『毛詩』一部といえば三百両[15]、『師』といえば二千五百両[16]、『族』と称すれば五百両をさし[17]、口で言うだけでなく、文書にも書いたりしている。役人たる者は、公費を盗まず、人民の財産を貪らなければ、金儲けはできないのだ。しかし、結局、身は破滅し、銭は一文も残らない。金が手に入って、これを子孫に伝えても、女郎買いや賭博の元手になるに過ぎない。このような家に、良い子孫が出ることなど考えられない。結局は『須らく知るべし天に眼の有るを、枉げて地をして皮無からしむ』[18]ということなのだ。欲を出してどうするんだ。役人になったら、第一に下役を信じるべきではない。このことは誰でも知っている。しかし、長隨を過信すべきでないことも知っておかなければならない。下役は、役所の長隨で、長隨は、官舎の下役だ[19]。彼らは冷たくなった燕の巣や、お碗の底のなまこを食い、都で流行っている、摸本[20]の黒い緞子の靴を履き、帽子は役人らしくないものの、暮らしぶりは官と変わらない。彼らが拱手をして立ち上がって旦那さまと言い、腰を曲げ頭を下げて奥方さまと言うのがなぜかといえば、それは金を目当てにしているからなのだ。宅門の防備はおざなりにしていいものではないが、彼らに番をさせようとしても役に立たないのだ。彼らは宅門の中では賭博ばかりし、外に出れば女郎買いをする。君の家の王中が門番をすると、何事も起こらないのとは大違いだ。役人になって幕僚を雇うのも最も難しいことだ。一番いいのは『五経』『四書』に通じ、二十一史に熟通し、法律にも詳しく、人品が正しく、分かりやすい文章が書ける者だが、このような者は百人に一人もいない。一段下の幕僚は、手紙を書いてくれと頼むと、『春光暁霽、花柳妍を争い』[21]とか『(つまび)らかに(おも)うに老寅台[22]長兄先生は、循声遠く著わる。指日高擢せん。預め其の不次を卜すべし。額賀、額賀』[23]云々などと書く。俗な調子で嫌になるが、彼らは改めようともしないから、彼らに文章がおかしいと言うのも気が引ける。これは一番厄介なことだ。彼らに告示を書いてもらうと、『黄岩県正堂を特授され八級を加えられ十次を記録されし譚、厳禁せんが事の為にす。…本県は言を出だすこと箭のごとく、法を執ること山のごとし。或いは訪聞を被り、或いは告発を被らば、臍を噬む[24]も何ぞ及ばん。本県之を言うこと預めせずと謂う勿かれ』[25]と、万事この調子なのだ。人民は字を知らないから、『臍を噬む』の意味がわかるはずがない。告示を出す者は、人民によく理解させ、女子供でも分かるようにし、陳腐な言葉は述べないようにするべきだ。八股文を学ぶ学生に『盤庚』[26]の上下編ばかり読ませるようなことをしていいはずがない。幕僚たちは、最も手に負えない者たちだ。彼らは召し抱えられない時は、乾飯を食い、鴨の卵を半分に切り、箸で豆腐乳[27]を突き刺しているが、召し抱えられると、炭火で沸かした茶を飲まず、薪で炊いた飯を食べず、炭火で銅の壺を暖め、コックを罵り、門番を殴るんだ。下男が七八人いても面倒をみきれない。追い出そうとしても、彼らは上官と手を結んでおり、上官や幕僚と親戚である場合もあるから、追い出すわけにゆかず、彼らが役所で怒鳴ったり、書吏のような真似をするのを放任しておくしかないのだ。他のことはともかく、巳の刻になっても、錦の布団にくるまって起きてこなかったり、毎日かかとがつぶれた藤の靴をつっかけているのには、まったく嫌な気分にさせられるよ。ところが、彼らはそれを閑雅な姿だというんだ。役所の中では、まず骨牌遊びをせず、劇を上演しないようにすれば、俗な幕僚が嫌らしいことをすることがなくなるだろう。さらに、口では理学を説くが心では金のことしか考えない奴等がいる。よく知っておかなければならないぞ。訴訟を審理するときも、やはり一定の才能をもっていることが必要だ。親、義、序、別、信[28]を重んじ、孝、友、睦、姻、任、恤[29]を大切にし、姻戚、財産などに構わなければ、大きな間違いはないし、間違いを繰り返すこともない。僕は役人になったことはないが、母方のおじの家では、一族の外祖父が一人、汾州府の太守になったことがある。彼らの役人としての心構えは、たったの六文字『三綱[30]正しければ、万方靖らかなり』というものだった。僕から贈る言葉は、これで尽きているよ」

 譚紹聞は、立ち上がって礼を言い、叩頭し、車が揃うと出発しました。友人同士は握手をし、名残りはつきませんでしたが、やがて、拱手をして別れました。

 譚紹聞は、張家湾[31]に着きますと、梅克仁が飛沙船[32]を一隻、太平船[33]を一隻雇いましたので、荷物や鞄を積み込み、車を降りて、船に乗りました。

 通州を過ぎ、天津に着きますと、老君堂[34]に停泊しました。黄色い布の旗があり、上には「黄岩県正堂」の大文字が書かれ、空に翻っていました。内閣、三省、巡撫、布政司、按察司の旗と比べると官職が劣っていましたが、一介の副榜貢生でありながら特別の恩典を受けたため、表には「奉旨特授」の四つの横文字が書かれており、威風堂々たるものでした。

 風に従って船を動かし、武城[35]に着き、子遊[36]祠に入り、牛刀所、割鶏処を見ました[37]。魚台[38]に着きますと、魯の隠公が「魚を棠に(なら)」べたこと[39]について考えました。微子湖[40]に着きますと、微山の殷姓三百家[41]を訪れました。露筋祠[42]に着きますと、米元章[43]の碑を読みました。平山堂[44]に着きますと、欧陽文忠公の遺跡を訪れました。焦山[45]に着きますと、『瘞鶴銘』[46]の古い拓本を求めました。金山[47]に着きますと、郭青嚢[48]の墓所を訪ねました。姑蘇に着きますと、虎邱山に登り、千人石[49]に座りました。さらに五百里を行きますと、武林[50]に着きました。そして遙か遠く開封府のことを思い、宋人[51]の詩句『()だ杭州を(もつ)[52]と為さん」を吟誦して、故郷を懐かしみました。

 省城に入りますと、まず族兄である藩台に会いました。次に撫台に会い、道台、知府に会いました。さらに暇を見付けて涌金門を出て、半日西湖で遊びました。蘇公堤[53]、林和靖[54]の孤山などは、最も気に入りました。

 翌日、黄岩に行きました。定海寺を通りますと、寺僧が茶を持って会いにきました。『千字文』で使われている文字を利用して検査してみますと、火箭はすでに十分の二が失われていました。昔、この火箭を作ったときは、譚紹衣が金を出してくれたからよかったが、もしも国費を使っていたら、法を執行するものが法を犯すことになるではないか、役人の仕事は、とても難しいことだ、と感じました。そこで、黄岩県知事に受けとりにこさせました。下役はさらに何束かを運び、寺の門前で数百発を放ち、以前、敵を破った時の痛快な有様を再現しました。さらに、寺に戻りますと、封印をし、火箭を収めた廟の入り口に貼り、食事をとりますと、黄岩に向かいました。

 新任の役人が着任するときの儀式は、どこでも同じで、誰でも目にしていることです。恩典に感謝し、印を拝領し、挨拶回りをし、廟に参拝したことや、傘や扇、旗や幟が翻るさま、銅鑼の音や先触れの声などは、つぶさに申し上げる必要はございますまい。良い役人は温和で、質実な儒者としての態度を改めませんが、俗な役人は奢り高ぶり、ごろつきのようなことを始めるものです。その違いは、ごく僅かなところにあるのですが、ずるい下役たちはその違いに気が付きますし、経験豊富な者もそれを見破るのです。譚紹聞は、悪い子弟たちの集まる場所で経験を積み、苦しい目にも嫌というほど遭ってきましたから、今日、役人となって着任しますと、風雅な態度をとり、俗悪な態度をとらず、奢り高ぶった様子を顔に表すこともありませんでした。ああ。これで、譚孝移も瞑目することができるというものです。

 まさに、

我輩は役人なりといふなかれ、

諸人(もろびと)は冷たき目もて君を見ん。

かくなるは何故ぞ、

人の心の鏡のごとく澄みたれば。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]上奏文を校閲して内閣に送る官。

[2]蛮貨、海舶、征閥、貿易の事を掌る官。

[3]宦官。

[4]倭寇の防備に当たる都指揮使(軍務長官)。

[5]官吏の特別な功績に対し、通常に倍して官等を進めること。

[6]清代の官名。選除、詔勅の頒布などをつかさどる。

[7]兵部。兵部は『周礼』の夏官司馬に当たるため。

[8]直ちに任用すること。

[9]親戚が同じ場所で役人をするのを禁じる制度。

[10]吏部に於ける官吏選抜の法。毎月行うもの。

[11] 「一万両」の隠語。

[12]一千両の隠語。「撇頭」は、「頭が払いになっているもの」の意で、数字の千を指す。

[13]典拠未詳。

[14] 『礼記』中庸「礼儀三百、威儀三千」とあるのに因む言葉。

[15] 『詩経』は三百十一篇の詩を収める。三百はその概数。

[16]古代の軍制で、師とは二百五十人の軍団をいう。参照『周礼』地官、小師徒。

[17] 「旅」の誤りと思われる。旅は五百人の軍団をいう。参照『周礼』地官、小師徒。

[18] 「天は必ず見ている、(悪いことをした人を)何の財産もない有様にしてしまう」。

[19]働く場所はそれぞれ違っていても、本質は同じだということ。

[20]第六十九回注参照。

[21] 「春の光りは明るく、花と柳は妍を競い」。極めて陳腐な表現。また、花、柳は妓女を連想させる。

[22]寅台は同僚に対する呼称。

[23] 「つらつら思んみますに老寅台長兄先生の令名は、遠方にまで知られています。まもなく出世されることでしょう。特別に抜擢を受けることが予想できます。まことにおめでたいことであります」。「老寅台長兄老先生」という呼称は敬語の使いすぎだし、「指日高擢」は戯曲『指日高升』を連想させる。また「額賀」という言葉も文雅な言葉とはいえない。

[24] 「後悔する」の意。『左伝』荘公六年に典故のある言葉。

[25] 「黄岩県正堂を特別に授けられ八級を加えられ十回記録を受けた譚は、厳重な禁止をおこなう。…本官は命令を発するのは矢のように早く、法律を執行するときは山のように揺らがない。調査を受けたり、告発を受けたりしたときは、後悔しても間に合わない。本官のいっていることが自分とは関係がないなどと思ってはならない」。記録、加級については八十八回の注を参照。

[26] 『書経』の編名。難解であるとされる。韓愈『進学解』「周誥、殷盤、佶屈髫牙」(大誥、康誥、種誥、召誥、洛誥、盤庚は、難しくて読みにくい)。

[27]小さな豆腐を納豆菌で発酵させ、塩やその他のものとともに甕につめて作る食品。

[28]五常。人の行うべき五つの正しい行い。

[29]六行。六つの善行。『周礼』地官、大司徒に出てくる言葉。孝(孝行)、友(兄弟愛)、睦(九族に親しむこと)、姻(姻戚に親しむこと)、任(友に信あること)、恤(憐れみの心の深いこと)。

[30]君臣、父子、夫婦の道。

[31]北京の東方、通州の南方にある村。

[32]未詳だが、沙船といえば、北方で用いられる、浅海航行用の、底の平らな船をいう。飛沙船はその速いものをいうか。『籌海図編』巻十三「沙船能調戧使闘風、然惟便於北洋而不便於南洋。北洋浅、南洋深也。沙船底平、不能破深水之大浪也」 。(図:『籌海図編』)

[33]清高某『正音撮要』舟車に「太平艙」があり、これと同じか。具体的にどのような船なのかは未詳。

[34]河北省良郷県にある地名。運河永定河の起点。『清史稿』卷一百二十八、河渠三、永定河「三十七年、以保定以南諸水與渾水匯流、勢不能容、時有汎濫、聖祖臨視。巡撫于成龍疏築兼施、自良郷老君堂舊河口起、逕固安北十里鋪、永清東南朱家莊、會東安狼城河、出霸州柳岔口三角淀、達西沽入海、濬河百四十五里、築南北堤百八十餘里、賜名永定」。

[35]山東省東昌府。

[36]孔子の弟子。

[37]孔子の弟子。

[38]孔子が武城を通ったとき、弦歌の音を聞き、「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」(割鶏焉用牛刀)といったことに因む遺跡。『論語』陽貨「子之武城、聞弦歌之聲。夫子莞爾而笑、曰、割鶏焉用牛刀」

[39]山東省兗州府。

[40] 『春秋』隠公五年に「春、公、魚を棠に矢ぶ」とある。『春秋』の難解な文の一つ。

[41]微山湖ともいう。山東省兗州府。

[42]殷王朝の末裔。

[43]祠の名。江蘇省高郵県の南にある。露筋は唐の時代の女子で、名は不詳。兄嫁と郊外に行き、日が暮れたため、兄嫁が農家に泊まろうとしたが、女は、嫌疑を受けるのを恐れて野宿した。折しも蚊がたくさんいたため、女は血を吸われ、血管が浮き出て死んでしまった、人々は彼女を祭り、露筋祠と称したという。

[44]米芾のこと。宋代の著名な書家。

[45]江蘇省江都県の西北にある堂の名。宋の慶暦年間、郡守欧陽修が建てた。

[46]江蘇省梁の天監十三年、華陽真逸が書いた石碑。丹徒県の東。

[47]江蘇省鎮江県の西北。

[48]郭璞のこと。

[49]虎邱山にある巨石。千人が座ることができるからこういう。

[50]杭州。

[51]林升『題臨安邸詩』「山外青山楼外楼、西湖歌舞幾時休。暖風熏得遊人酔、直把杭州作汴州」。林升は南宋淳煕年間の人。

[52]開封のこと。

[53]蘇軾が西湖を浚渫したときに出た泥で造った堤。

[54]宋の林逋。孤山に庵を結び、二十年間街に出ず、庵の脇に自らの墓を造り、梅を植え、鶴を飼った「梅妻鶴子」の故事で有名。

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