第百四回 

譚紹聞が花火攻めの計画をたてること

王都堂が敵を普陀山で破ること

 

 さて、譚紹聞と梅克仁は、前門を出て、江南会館に行きました。実は、譚紹衣は、すでに兵部に行き、勘合[1]を知らされていました。彼は、二日後の朝に出発し、昼夜兼行で浙江に赴くことになっており、兵部から戻りますと、紹聞に会ったのでした。彼は言いました。

「紹聞、一族同士だから、挨拶はぬきだ。昨日、陛下に謁見したところ、陛下は、浙江の御史陳九徳と裴紳の、日本の倭寇が島を占拠して、略奪の機会をうかがっている、漁師や知識人の職を失った者が、密かに彼らの仲間になり、しばしば出没している、という上奏があったため、わしに浙江左布政司の位を授けられた。そして、倭寇に備え、敵を負かし、民を集めるようにという三つの大仕事と、総兵[2]の兪大猷、湯克寛とともに、文官、武官で力を合わせ、浙江を安んぜよという仕事を命じられた。お前は、今、京師で勉強しているが、将来合格できるかどうかは、まだわからない。わしが今回一人で行くとすると、身近で手助けをしてくれる者がいない。お前は男盛りだから、わしについてくれば、勲功をたてることができよう。わしは、昨日、陛下に上奏を裁可していただき、密かに上奏をすることを許していただいた。将来お前は官職を得、国恩に報い、家名を回復することができるだろう。お前は行ってくれるか」

「臣下が国の恩に報い、子が家の名を挙げるのは、丈夫のすることです。私は紹衣さまの引き立てを受け、お教えに従いたいと思っております。文書を作成したり、あちこち奔走したりして、紹衣さまの命にのみ従いましょう」

「わしは来たときに、役所にいる家族を引っ越しさせ、昔の碧草軒に移した。そして、祥符県に命令して、千五百両を買い主に与え、碧草軒はふたたび譚家のものとなった。わしは仕事が終わってから、ご隠居さまにも面会し、わしがお前をつれて浙江に行きたいと思っていることを報告したが、ご隠居さまはとても喜ばれた。簣初の勉強だが、役所の衛先生を西の書斎に引っ越させて勉強を教えている。役所にいるわしの二人の子は、簣初とともに、三人で勉強をしている。わしの道台の印を押すのを代行しているのは、開封府の同年の沈太守だ。彼は仕事ができる人間だから、お前が心配する必要はない。碧草軒を掃除し、家族を住まわせることは、すでに祥符の典史に命令したから、お前に話す必要もあるまい。お前が都で持っていた物は、わしについてきてくれさえすれば、何でも途中で買うことにしよう。お前についている者は何人だ」

「三人です」

「誰が役に立つか」

「家から来たばかりの王中という者が、一番役に立ちます。しかし、彼は家のことを少し心配しています」

梅克仁が口を挾みました

「その男のことを私は知っております。先代様が重用していた男で、仕事を処理するのが上手です」

紹聞

「残りの二人は粗忽者で、車を走らせたり、台所仕事をすることができるだけです」

譚紹衣

「お前は、今晩、城内に入り、荷物を包装して、家への手紙を書くのだ。わしも二通の手紙を書く、一通は開封府に出し、先代様が重用していた男に持ち帰らせよう。彼には三十両の銀子を旅費として与え、二つの家を管理させよう。二人の粗忽者は、役所に連れていこう。役所の中では、粗忽者を使うのが一番いいのだ。役所の中で有能な者をつかうと、本当に聡明な者は役人に従おうとはしなくなるものだ。役人になるということは、騙し合いをするということで、聡明であればあるほど人を騙すものだ。お前は国子監に戻るがいい。同窓の学生たちに、族兄に従って浙江の藩署[3]にゆくという上申書を提出してもらうのだ。行き先をはっきりさせておくことは、小さいことだが、しておかなければならないことだ。国子監は国家の学校だから、世間がどう思おうと、我々は国子監を尊重しなければならぬ」

言い終わりますと、譚紹聞は行こうとしました。梅克仁

「車が今晩城を出る必要はありません。国子監の外で馬に餌をやります。車はもう雇ってありますから、明日の朝に外城にきて、明後日に出発しましょう」

 譚紹聞は国子監に戻りますと、盛希瑗に会い、一部始終を説明しましたが、今まで一緒にいた者と新たな別れをしなければなりませんでしたので、思わず悲しくなりました。盛希瑗

「京師で、権勢や利益のために交際をするときは、別れるときに本当に苦しいということはありません。しかし、親友の間柄では、別れるときに辛いものです。一たび別れれば、一生会えないこともありますし、永遠に会えないと思っていたらもう一度会えたり、二度会えたり、三度会えたりする場合もあります。さらに生命、財産を託されることもあります。我々が別れるときは、顔はあまり悲しんでいませんが、心の中では悲しんでいるものです。このようなことは、滅多にできないことです」

二椀の漬物と一壺の酸っぱい酒で、真夜中まで話しをして床に就きました。紹聞が最も悲しく思ったのは、兵部の婁厚存に短い手紙を書いただけで、面会して別れを告げることができなかったことでした。

 翌朝、城を出るとき、盛希瑗は、胡同の入り口まで送りました。車を雇って荷物を積み、さらに車を雇ってそこに腰掛けました。紹聞が半里以上進みますと、下男

「盛様がまだ胡同の入り口に立ってらっしゃいます」

これが友人の真の送別というもので、目で見送り、心で見送るものです。

 真の友情の話しはとりあえず省略いたします。さて、譚紹聞は王象藎たち三人を連れて、新しい藩台[4]に見え、家人[5]の礼を行いました。譚紹衣はじっと王象藎を見ました。そして、老成した様が顔にあらわれており、正直な中に愚直さを帯びているのをみますと、心の中で彼を立派だと思い、言いました。

「お前は幼いときから譚孝移さまに仕えていたのか」

「はい」

「わしはこれから河南の鹽道、糧道の役所を離れ、家族を碧草軒に住まわせる。碧草軒は、わしがすでに一千五百両で請け戻したから、もと通り譚家のものとなったぞ」

王象藎は思わず目がじいんとしてきましたので、急いで頭を下げ、涙を見られないようにしました。

「お前は戻るがいい。二つの家の家事はすべてお前に任せる。夜は二つの家の戸締まりや、幼い子供の出入りなどに、注意するのだぞ。わしは簣初たちへの手紙を出すから、お前は持ち帰ってくれ。お前には銀五十両を与えよう。旅費も入っている。明日、わしは浙江に出発するから、明日、騾馬を雇って河南に戻るがいい─」

話しをしていますと、梅克仁がやってきて

「兵部の宋さまが挨拶に来られました」

話しがとぎれ。後は続きませんでした。

 新しい布政司は宋少司馬[6]に会い、茶を出して久濶を叙しますと、別れを告げて去って行きました。新しい布政司は、車に乗り、都の役人で、別れの挨拶をするべき者、暇乞いをするべき者、お礼の酒をふるまうべき者を、日が暮れて初更になるまでもてなして、会館に戻りました。

 王象藎は騾馬を雇いました。翌朝は、五更に起き、荷物を積み込み、馬丁は出発を待ちました。譚紹衣、紹聞は、顔を洗い、点心を食べ、王象藎は、出発を告げにきて、叩頭をしました。藩台は立ち上がりますと、両手を胸にあて、うやうやしく、

「家に戻ったらご隠居さまによろしく伝えてくれ」

王象藎は、譚紹衣の誠実な様子をみますと、心の中で「道台さまは本当に裏表のない方だ。口先で謙遜をしたり、上辺だけ恭しくしたりするような軽薄さがない。若さまがこの方についてゆけば、心配することはない」 と考えました。そして、今まで若主人のことを心配していましたが、八割方安心しました。字を知らない王象藎が見識をもっていたのは、経験を積んでいたからでした。彼は、会館を出ますと、騾馬に乗り、十二日には省城に入り、少しもぐずぐずすることはありませんでした。

 さて、譚紹衣が王象藎を見送りますと、梅克仁は駄轎を用意しました。駄轎は江南会館の入り口に集まり、出発を待ちました。都から赴任する役人の華やかな様は、皆さまはすでに見慣れていらっしゃるでしょうから、申し上げるまでもございません。

 さて、譚紹衣は、水陸の宿駅を通り、浙江に着きますと、任務に就きました。総督[7]、巡撫に謁見したり、右布政司の同僚、按察司、道台、学使の所に行き来したことは、決まりきったことですから、詳しく申し上げる必要はございますまい。

 陛下が文武力を合わせて倭寇の防備にあたるようにという勅旨を下されますと、総兵の兪大猷、湯克寛と左布政司譚紹衣は、たがいに戦闘、防備について相談をしました。譚紹衣は、譚紹聞に、二人の総兵の間を行き来するように命じました。二人の総兵は、譚紹聞が藩台の弟で、河南の副榜でしたので、酒を飲んで歓談し、義兄弟の契りを結びました。譚紹聞は、海口集市─定海寺の中に五百ほどの人家があるのです─に居を構えました。四五人の下男と、六名の衛兵がつきました。一見閑職のようですが、沿岸を防衛するために、布政司の役所へ情報を届ける役目でした。

 冬が近付きますと、譚紹聞は、来年の正月の元宵節に、定海寺の門前で、仕掛け花火を行うように命じました。そして、この省の最も優れた花火師を呼んで、質問をしました。花火師は、呼ばれますとやってきて、譚紹聞に叩頭をし、言いました。

「仕掛け花火には数百種の製法があります。旦那さまはどのようなものをお望みでしょう。お言い付け下されば、材料を買い、紙を買いましょう。数万本の火箭[8]、数万の筒花[9]、数万の走毒子[10]、数万の地雷子[11]、数万の明灯子[12]を、すぐに用意いたします」

「それらはどのような出し物なのだ」

「お役人の方々への出し物です。一つ目は『天下太平』で、硫黄の字で、玉皇の篭の前にある長さ五丈、幅一丈の条子に、四つの石臼の台ほどの大きさで『天下太平』と書くのです。二つ目は『皇王有道』で、上座に皇帝が腰を掛け、両脇には文武の官が並び、上には、長さが五丈、幅が一丈の横額が掛けられていて、石臼の台ぐらいの字で『皇王有道』と書いてあります。三つ目は『福禄寿三星ともに照る』、四つ目は『万国来朝す』、五つ目は『文官相を拝す』、六つ目は『武将侯に封ぜらる』です。その他にも『日月璧を合す』『五星珠を聯ぬ』『双鳳陽に(むか)う』『二龍珠に戯る』『海市蜃楼』『回回宝を献ず』『麒麟子を送る』『獅子繍球を(こと)がす』があります。『八仙海を過る』『二仙道を伝う』『東方朔桃を偸む』『童子観音を拝す』『劉知遠[13]瓜を看る』『李三娘[14](うす)を推す』『張生鶯鶯に戯る』『呂布貂蝉に戯る』『敬徳[15]馬を洗う』『単雄信[16](ほこ)を奪わる』『華容道[17]に曹を(はば)む』『張飛喝して当陽橋[18]を断つ』『張果老[19]驢に倒騎す』『呂純陽[20]酔いて樹精を扶く』『韓湘子[21]妻を化して仙と成さしむ』『費長房壺に入る』『月明和尚翠蓮を(すく)[22]』『孫悟空五行山を跳出す』『陳摶老祖[23]大いに睡覚(ねむ)る』『老子牛に騎りて函谷を過る』『陳澹[24]海に下る』『周処[25]蛟を斬る』『楊香[26]虎を打つ』『羅漢龍を降す』『王羲之鵝を愛す[27]』『蘇属国[28]羊を牧す』『荘子蝴蝶の夢[29]』『八戒蜘蛛の精[30]』などは言うまでもなく、楽しいものは『張仙狗を打つ』[31]、面白いものは『和尚驢に変ず』です。覚えようとしても覚えきれず、話そうとしても話しきれません。私どもが詳細な目録を作って、旦那さまに選んで頂ければ、私がお作り致しましょう。遠くから人々に見せることをお望みなら、火箭を多くし、衣装を焼けば、ボタンをはずしたり、ベルトをとったりすることはできません。近くで人々に見せることをお望みなら、筒花を増やせば、彼らはじっくりと見ることができます。いずれにしても走毒子が幾つか必要です。人を焼くことができないのは、いい花火とはいえません」

「走毒子とは何だ」

「火箭に棒をつけないものを走毒子というのです。人の体に当たりますと、走れば走るほどひどい害をもたらします。当たった人の服が風を受けますと、ますます激しく燃えるのです。走毒子に棒を加えたものが火箭です。人の体にぶつかりますと、大工が使う錐のように、服を破り、肉に刺さるのです」

「花火には軍隊が交戦する出し物はないのか」

「ございますとも。陸での戦いには、『砲もて襄陽を撃つ』[32]という出し物がございます」

紹聞は首を振って言いました。

「それはだめだ」

花火師はさらに言いました

「水の上の闘いでは、『火もて戦船を焼く』という出し物がございます」

「それはいい。話してくれ」

「曹操が七十二隻の戦艦を率いて武昌を出発します。この花火では、諸葛孔明が壇上で風を祭ります。何隻かの小船には、黄蓋が火を放ちます。黄蓋の船では、火の粉を撒き、火箭を放ち、一斉に威力を示します。黄蓋の船と曹操の船は縄で結ばれており、火薬の仕掛け[33]がつけてあります。仕掛けには将軍がついており、手に刀をもち、仕掛けが曹操の船にいきますと、一刀の下に曹操の首を切ります。さらに、もう一つの仕掛けには一人の将軍がついており、許駲[34]の船にいって許駲を、張遼[35]の船にいって、張遼を殺します。二人の将軍は、ふたたび火薬の仕掛けによって戻ってきて、孔明の七星壇に戦功を報告します。七つの灯には硫黄が配合してあり、真夜中すぎまで燃えることができます。七十二隻の曹操の船は、火箭を乱射し、曹操の船の仕掛けにあたります。その船には爆竹が積まれており、一斉に数万の爆竹がなり、船はすべて砕け、火柱があがり、地面は火の粉でいっぱいになります。七星壇上で髪を振り乱し、剣にすがっていた孔明は、からくりが焼き切れて、ゆっくりと陣幕の中に入ってゆくのです」

「それはいい。目録を書いてくれれば、私が選ぶことにしよう。『皇王有道』『天下太平』『火もて戦船を焼く』は絶対に必要だ。目録の中から、さらに大きな仕掛け花火を五六種選ぼう。小さな仕掛け花火は、お前たちがやり慣れていて、仕掛けが面白いものを自由にやるがいい。どれだけの硝石と硫黄、どれだけの紙が必要か、きちんと計算して、目録を書いてくれ。銀子を払うから。いずれにしても、数十万、数百万の火箭を作ろう。多ければ多いほどいい。走毒子は一つもいらないぞ」

「まず千斤の明礬が必要です」

「なぜだ」

「紙に明礬を加えると火がつかなくなるのです」

「明礬は少しもいらない。紙に火がつくのがいいのだ」

 翌日、花火師が目録を書いてきました。硝石、硫黄数万斤、紙数万枚、葦や蓬の茎数万束と書いてありました。紹聞は銀子を払い、定海寺に工房を作って、製造を始めました。

 兪総兵は知らせを聞きますと、「火に注意すること。違反すれば厳罰に処す」という告示を出しました。湯鎮台[36]も「火薬がある重要な場所なので、兵卒は巡回をするように」という告示を出しました。紹聞

「元宵の仕掛け花火は、もともと民間の神を祭る行事なのですから、告示を貼り出す必要はありません」

花火師は製造を行い、紹聞は毎日見に行きました。

 ある日、省城からの報せがありました。陛下が山東巡撫、都御史王忬に、浙江の軍務を指揮するように命じたため、王忬が急遽赴任するというのでした。王忬は、赴任の後、上奏文を提出して、言いました「浙江の人民は軟弱で、戦闘にはたえられません。私に兵権を与え、自由に賞罰が行えるようにして下さい」。さらに上奏文を挟み、こう言いました。「浙江人徐海[37]は、日本に潜伏しましたが、寵姫王翠翹[38]は、中国を捨てようとしておりませんので、計略をもって彼女を誘えば、徐海を帰順させることができます。手厚い贈り物をして彼女を招くことにしましょう」。さらに、「福建人林参[39]は、日本と密かに通じ、自ら剌達総管と称し、勝手に船を造り、倭寇と結託して港に入って乱をなしております」といったことを上奏しました。そして、「浙江の倭寇防備の諸務は、すべて王忬の自由に任せる。これを欽めり」という勅旨を得ました。

 さて、王都憲[40]忬は、沿岸一帯の府県や各兵営の兵士に「武芸を訓練し、鎧を磨き、火薬と大砲を準備し、倭寇を防げ」という命令を出しました。そして、各地の海港に「中国人を日本に潜入させてはいけない。彼らが倭寇の案内をして中国に侵入し、人民を殺したり倉庫を略奪したりすることがないようにせよ」「部隊の兵卒に、鎧兜が錆び、槍、刀、弓、矢の扱いに慣れていない者があれば、その部隊の総兵、参将、游撃将軍を、軍法に従って処罰する。海港が防備を怠り、悪人たちが悪いことを重ね、こっそり外国に逃げたり、島に隠れたりしている場合は、彼らが捕らえられてから、どこの港から逃げたのか厳しく尋問を行い、その港を管理している役人や下役を、監督不行き届きの罪に問い、悪人を逃がした場合と同じように処罰する」と命令しました。そして、すぐに札を送りましたが、三日足らずで、倭寇が台州府および黄岩[41]、象山[42]、定海[43]の各郡邑に侵入したという報せがありました。警報は、一日に三回届きました。王都憲は、左布政司譚紹衣に報せ、一緒に倭寇を防ぎにゆきました。彼らは五千の兵士を率い、遊撃[44]、守備[45]、把総[46]などの官をつれ、昼夜兼行で出発しました。そして、二人の総兵兪大猷、湯克寛に檄を飛ばし、定海寺[47]に集まり、協力して賊を討つことにしました。

 さて、譚紹衣は、途中で譚紹聞の使いから報告を受けとりました。そこでは、倭寇の行動と案内のルートが報告され、倭寇の手先として、台州府は東洋口の徐万寧、黄岩は荻葦港の魯伯醇、象山は望島崖の王資、銭亜亨、定海は城内の龍神巷の中の、中庭に椿の大木があるのが目印の、落第した生員の馮応昴であることが調べられていました。定海寺で作った火箭は、全部で九百万本余り、敵を討つために備えました。譚紹衣は、手紙を持って、王都憲に報告しますと、言いました。

「これは私の族弟で、譚紹聞といいます。私は、彼を定海寺に駐屯させ、倭寇の手先がどこの村どこの鎮にいるのか、屋敷の目印は何なのかを探らせ、討伐をしやすいようにしました。火薬と矢は、彼が火攻めのために作ったものです」

王都憲はとても喜んで、

「老先生が倭寇を防げとの命令を受けられ、準備をされたので、きっと敵を制することができるでしょう。弟さんのご身分は」

「河南の副榜です」

「大功を成し遂げた暁には、真っ先に推薦いたしましょう」

「すべては陛下のご厚徳によるものです」

沿岸の府県に札を送り、敵についている馮応昴らを捕まえて尋問しました。

 定海寺に着きますと、譚紹衣は、譚紹聞を連れて謁見をし、跪いて二束の火箭を差し出しました。火箭は二百本ごとに一束になっており、先端は丸く包まれ、棒の端の細い所には、藁を入れて縛ってありました。両端は対称になっており、形は枕のようでした。一本の麻縄がつけられ、肩に掛けることができ、軽くて疲れないようになっていました。王都憲はとても喜んで、

「火攻めの奇策は、実に頼もしいものです」

譚紹衣の方を振り向きますと、

「これを作るお金はどうされたのですか」

「私が自腹を切ったのです。今までこのような策が用いられた例はございませんから、公費を使う訳にはまいりませんでした」

王都憲は、

「火攻めはとても効果があるでしょう。費用を上奏なさるべきです」

と言いますと、すぐに兵士に、寺へ行って火箭を受けとるようにという命令を伝えました。譚紹聞は、点呼を行いますと、火箭を配り、火箭を受けとる者は、肩に火箭をつけました。彼らは、ぞろぞろとやって来て、ぞろぞろと退出しました。その後で兪大猷の兵が到着して、同じように火箭を受けとりました。また、湯克寛の兵が到着して、同じように火箭を受けとりました。火箭は半分がなくなり、残りは廟に蓄えました。

 こうして、兵士たちは海岸に勢揃いしました。倭寇の手先が捕らえられていましたので、倭寇は行く当てもなく、遠くから旗を眺め、剌達総管林参の造った船に乗って、襲いかかってきました。岸に近付きますと、倭寇は胸をはだけ、乳を露にし、手には大刀や大きな斧、長い矛、鋭い刀を持って、飛ぶように走ってきました。火箭が発射されますと、胸に当たれば肉を焼き、服に火が着けば火傷をし、船の苫に当たれば火が起こり、船に入れば物にふれて燃えました。倭冦たちは不意を突かれ、瞬く間に、闘うことができなくなりました。船は大きく、水に落ちる火箭も数知れませんでしたが、あっという間に針鼠のように矢を浴び、もちこたえることはできませんでした。日が落ちますと、星の海の中に漂う幾つかの祝融峰[48]のように、あっという間に消えてゆきました。後から来た船は、船同士がぶつかって、火薬がついてしまいました。王都憲は、火箭は大切にしなければならない、勝手に発射しないようにという命令を伝えました。

 日本国の残党は、火を避けるために島へ逃げようとしました。水夫や船頭を見ますと、櫓は、劉向閣中の太乙の杖[49]の様、彼らの船は、蔡邕の机の上の焦尾琴[50]の様でした。彼らは普陀山[51]麓、希保島の砦に行きました。王都憲は夜に兪大猷、湯克寛に命令をだし、水軍の戦艦で、攻撃に行くように命じました。この二人の総兵が命令を出して火箭を放ちますと、憐れ草葺きの小屋は松明のように燃えました。焼死して頭を焦がし、額を焼かれた者は数えきれませんでした。残りは二百五十三人が首を斬られ、三百四十三人が生け捕りになりました。

 王都憲は、中国の大勝、日本の大敗を上奏しました。倭寇が抜扈していたこと、浙江が略奪にあっていた悲惨さを詳しく述べ、兪、湯の二総兵の立派さ、一書生である譚紹聞の計略の奇抜さ、定海寺の火箭数万本は、今までの兵書には載っていないことである、といったことを、事細かに、すべて上奏文に書きました。嘉靖帝はそれを見て、とても喜ばれ、内閣に勅旨を出しました。

「『賊を殲滅する様子が、目に見えるようだ。譚紹聞を都に引見して、話を聞くことにする』これを欽めり」

 王都憲の上奏文の詳細は、次回で申し上げます。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]割り符。

[2]正二品の武官。

[3]布政司の役所。

[4]布政司。

[5]下男。

[6]兵部侍郎。

[7]清、置く。一省または数省の民治軍務を節制する最高の官をいう。

[8] ロケット花火。

[9]筒花火。

[10]説明は後出。

[11]鼠花火。

[12]打ち上げ花火。

[13]戯曲『白兎記』の主人公。兄夫婦に苛められ、瓜畑の番をさせられる。

[14]戯曲『白兎記』の主人公劉知遠の妻。兄嫁夫婦に苛められ、臼をひかされる。

[15]唐の武将尉遅敬徳のこと。洛水で馬を洗っていたとき、主君李世民が単通に追撃されていることをきき、裸体で鞭だけをもって救援にいった話が『隋唐演義』にみえる。

[16]元尚仲賢の戯曲『尉遅恭単鞭奪槊』に登場する人物、諱は単通。李密の部将。李世民を追撃するが、鞭だけをもった尉遅敬徳に槊を奪われる。

[17]赤壁の戦いに敗れて敗走する曹操を関羽が待ち伏せした場所。関羽は曹操を捕らえるが、曹操の哀願を容れ、放免する。『三国志演義』第五十回参照。京劇に『華容道』一名『華容飢曹』があり、このことを描く。

[18] 『三国志演義』第四十二回に見える、曹操が江陵を攻めた劉備を追撃した際、張飛が曹軍を一喝して退けた場所。

[19] 第十回の注参照。驢馬に逆さに乗っていたというのは民間の伝承。その姿はしばしば画題とされた。

[20]呂洞賓のこと。元馬致遠撰の戯曲『岳陽楼』では、酔って柳樹の精、梅花の精に出家を勧め、人間の男女に生まれ変わらせる。

[21]韓愈の甥。八仙人の一人。

[22]月明、柳翠は元無名氏撰の戯曲『度柳翠』の登場人物。月明は月明羅漢で、観音菩薩の命を受け、観音菩薩の浄壷の中にあった柳の生まれ変わりである妓女柳翠をもとの姿に戻す。

[23]元馬致遠の雑劇『泰華山陳摶高臥』の登場人物。占いをし趙匡胤が天子となることを言い当てたが、泰華山に隠棲した。

[24] 『封神演義』の登場人物、七歳のとき東海口で水浴びをし、竜王の子敖丙を殺した。

[25] 『世説新語』自新に登場する勇者、龍、蛟と戦ってこれを退治し、さらにみずからの乱暴な性格を改める。彼の物語は元瞰天錫『善蓋試処三害』を始め、多くの戯曲の題材となっている。

[26] 『異苑』に登場する女性。父が虎に咬まれたとき、素手で虎をうったという。『今楽考証』には『楊香跨虎』という戯曲が著録されている。

[27]晋代の書家。庭で鵝鳥を飼っていたことで有名。『太平広記』巻二百七参照。

[28]漢の蘇武のこと。匈奴に遣いし、孤島に監禁され、羊を飼って生活し、後漢に帰還。その物語は『蘇武牧羊記』を始め、様々な戯曲の題材となっている。

[29]荘子が夢で蝴蝶になったという物語。原話は『荘子』斉物論に見えるが、後世『蝴蝶夢』などの戯曲の題材となった。

[30]蜘蛛の精は『西遊記』に登場。七人の女の姿になって水浴しているところを猪八戒に見られ、糸で八戒を捕まえる。

[31]原文「張仙打狗」。張仙は張道陵のことと思われるが、「張仙狗を打つ」に関しては未詳。

[32] 『三国志平話』先主跳檀渓に見える、劉備が襄陽で曹仁の陣を焼き討ちする物語を題材にした出し物と思われる。

[33]原文「烘薬馬子」。火薬の噴射力などによって動く仕掛けではないかと思われるが未詳。

[34]曹操の部将。実際には戦死していない。

[35]曹操の部将。『三国志演義』第十一回で、曹丕が呉を攻めた際、呉の将軍徐盛用の火攻めにあい、曹丕をかばって矢にあたって死んだことになっているが、『三国志』魏書、張遼伝では、戦死したことにはなっていない。

[36]総兵のこと。

[37]明末の海賊。寵姫王翠翹の説得を容れ、明に降ったが殺された。事跡は茅坤『紀剿徐海本末』を参照。彼と王翠翹の物語は、様々な戯曲、通俗小説の題材とされた。

[38]元江南の妓女、徐海の寵姫となる。徐海を説得し、明に降伏させたが、その後徐海が殺されると、後を追って入水。王世貞『続艶異編』に『王翹児伝』、余懐に『王翠翹伝』がある。清代の才子佳人小説『金雲翹伝』も彼女を主人公とするもの。

[39] 『明史紀事本末』巻五十五、二十五年の条に、名が見える。「大侠林参等、号称剌達総管、勾連倭舟入港作乱」

[40]都察院の都御史。

[41]浙江省台州府。

[42]浙江省寧波府。

[43]浙江省寧波府。

[44]清の武官。従三品。

[45]正五品の武官。

[46]正七品の武官。

[47]未詳。

[48]祝融峰は湖南省衡山県の地名だが、ここではその意味ではなく、火柱の意と思われる。祝融は火の神。

[49]漢の劉向が天禄閣で校書をしていたとき、夜に太乙の精が現れ、杖の先を燃やして、暗い中で書を読んでいた劉向に面会し、『五行』『洪範』の文を授けた。『三輔黄図』に見える話し。ここでは、倭冦の船の舵が燃えている様子を太乙の杖に例えている。

[50]後漢の蔡邕が、桐の木が焼けて裂ける音を聞き、良木であることを知り、焼けていた桐の木でをもらいうけ、端の焦げた琴を作った。『後漢書』蔡邕伝に見える故事。ここでは、倭冦の船が焼け焦げている様を焦尾琴に例えている。

[51]浙江省定海県の東の海中にある島。全島にわたって寺院が存在。明末は倭寇の根城となっていた。

 

 

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