第百一回

盛希瑗が邯鄲県で腹を立てること

婁厚存が趙州橋で古蹟を訪ねること

 

 さて、譚紹聞、盛希瑗は、婁樸とともに、正月六日に京師に赴き、国子監に入って勉強することにしました。その年の内に、盛希僑は、譚紹聞たちが国子監で勉強をすることを、祥符県への上申書で、学憲[1]に報告し、学憲は撫台[2]に知らせ、撫台は礼部への咨文を作成しました。仕事はすべて旧友の銭万里が請け負いました。満相公は銭万里に付き従い、執筆料を与え、後は年明けの出発を待つばかりでした。

 盛希瑗の旅費は、すべて母親がためていた父親の給料でしたので、息子に与えることには何の不満もありませんでした。譚紹聞の旅費は、家運が少し持ち直した時期でしたので、苦心して集めないわけにはいきませんでした。しかし、年末から年始にかけて、王春宇が銀子八十両を送り、巫家からも二十両を送ってきました。孔耘軒、張類村と甥の張正心、程嵩淑、蘇霖臣もそれぞれ餞別を贈りました。

 二日、紹聞と簣初は、道台[3]の役所に行き、叩頭して新年のお祝いをいい、勉強のために上京する日を報告しました。観察[4]

「国子監で勉強をするのは、出世をするための階段だ。北闈[5]でがんばって合格すれば、春の試験[6]はすぐで、来年冬から春にかけて旅をする苦労を省くことができる。簣初はどのように勉強するのだ」

紹聞は、父親の友人張類村が読みを、舅の孔耘軒が文章を教えることを、逐一報告しました。観察は簣初に向かって、

「毎月の課題は十五六編前後だが、原稿や先生の批評を役所に送れば、わしはお前を立派な人間にするための話しをしてやろう。わしは門番に、お前が来たらすぐに取り次ぎをし、決して待たせないようにと言い含めておくぞ」

と言いますと、すぐに梅克仁を呼んで説明をしました。梅克仁は、

「はい」

と返事をすると行ってしまいました。観察

「わしは都の親戚への手紙があるから、明日、送ってくれ。京師についたら、封に貼った付箋を見て届けてくれ」

話しを終えますと、紹聞父子は別れを告げて出ていきました。

 次の日になりますと、観察は、手紙四封、餞別百二十両を、譚家に送りました。隣近所からは、食べ物や餞別を、幾つか受けとりました。五日の晩になりますと、母親の王氏が送別の宴を設けました。紹聞は家事を託し、家中の者は気をつけてと言いました。

 出発の日になりますと、紹聞は双慶児を連れ、さらに華封という下男を手に入れました。そして、鞄と竹籠、布団と衣服を、車に積みました。紹聞は、簣初と王象藎を付き従えて、盛家に行きました。小正月の挨拶が終わりますと、婁樸がやってきたので、お付きの二人は、ふたたび小正月の挨拶をしました。希瑗は、下男二人、昔からの部下二人の、四人を従えました。盛希僑は大きな車を五台雇い、譚、婁は、さらに車を雇う必要がなくなりましたので、一緒になりました。

 盛希僑は酒席を設け、婁、譚は上座に座りました。簣初は下座に着きました。盛氏兄弟は向かい合って座り、お相伴をしました。広間では酒が勧められたり、頼みごとが行われたりし、入り口では荷物が積み込まれました。朝食が終わりますと、主客は一緒に表門を出ました。婁、譚は、希僑に礼をいって車に乗りました。希瑗は兄と内輪の相談をしますと、拱手して別れを告げ、車に乗りました。下男たちは、希僑が戻ってきますと、車に乗りました。車夫が口笛を吹きますと、五台の車は一列になって、祥符の北門を出ていきました。

 黄河を過ぎ、封丘[7]を通り、濁漳[8]を渡りましたが、何事もありませんでした。邯鄲県に着きますと、都から鍾祥[9]にむかう天子の使いに会いました。天子の使いは、城の外れの宿屋を半分ほど占領していました。盛希瑗の五台の車は、南から北に向かい、店さがしの人は早くつきましたので、まぐさ代、飲食費の話しをつけ、店主と下男は入り口で待っていました。車が着いたときには、五間の上房にも、六間の陪房にも、四間の厩舎にも、ほとんど空いた所がありませんでした。残りの部屋には、晩になりますと、二人の行商人がやってきて、泊まる宿屋がないので、多めに宿泊費を払おうといいました。しかし、宿屋の店員は、彼らがあまり金をもっていそうにないと思いましたので、泊めようとしませんでした。その男は仕方なく去っていきました。

 日が落ちる頃、若い一人の旅人が、騾馬に乗り、とても重たい荷物をもってやってきました。店員は騾馬の轡を引っ張って、旅人を中に引き込もうとしました。しかし、若者はさらに北へ行って宿を捜そうとしました。すると、店員は、

「北には天子さまのお使いがいますから、空き部屋はありませんよ」

と言いながら騾馬を引っ張って、中庭に行きました。若者は仕方なく騾馬からおりますと、まず宿泊費を尋ねました。店員は、

「『一つの州に二つの法令はない』といいますから、上房のお客様と同じで結構です。一文たりとも余分に頂きは致しません」

と言いながら、洗顔水を運び、茶壺をもってきました。若者は手洗いとうがいを終え、少し休みますと、騾馬に餌をやり、まぐさ代を尋ねました。店員

「騾馬にはたっぷり食べさせましたから、全部で百銭です。それから水代が二銭です」

 晩に、店員は壺にいれた水をもってきて、若者の部屋に行きますと、笑いながら、

「旦那はお客を呼ばれますか」

「友人もいないのに、客などよばないよ」

堂客(おんな)を呼ぶんですよ」

「兄が柏郷県[10]で京師の物を売る店を開いているんだ。兄に知られるかもしれないから、いらないよ」

「お気に入られると思いますがね」

「中庭にはたくさん人がいるから、そんなことはできないよ」

 上房にいた譚、盛、婁は、話しを聞きますと、若者が老成していると言いました。そして、上房の戸を閉め、壁に書かれた旅人の詩の批評を始めました。ある者は、この詩は古色蒼然としているが、筆力は弱くはないと言いました。またある者は、この詩は閨秀の詩で、美しくなまめかしいが、言葉はあっさりしている、いい詩だが、残念なことに宿屋の壁に書かれているので、人々にあれこれいわれて、つまらない目にあっていると言いました。さらに壁の隅の一首を照らして見てみますと、お笑いものの、女に和した詩がありました。無理に韻をそろえ、何とか調子を合わせていましたが、自分の詩の醜悪さが分かっておりませんでした。談論をしていますと、城内の初更を告げる鐘が聞こえたような気がしましたので、ある者が言いました。

「もう寝ましょう。火鉢の火を絶やさないようにしましょう。明朝の五更に寒い思いをしますからね」

街では銅鑼が鳴り、店の中では拍子木が鳴りました。

 五更近くまで眠りますと、急に中庭で叫び声が聞こえました。店員が、

「八両の銀子で足りると思っているのか。江瑤[11]の貝柱、魚翅(ふかひれ)、官燕[12]の料理は、そんな金では足りないぞ。状元紅[13]百壺はどうしてくれる、お前のために銀子を払って酒を買うことなどできないぞ。化粧箱[14]を送るだけなら、俺たちはお客さまを騒がすわけにいかないから、あんたに二吊の大銭をくれてやるんだがな」

さらに男が女の使用人をぶとうとして「ここ半月、ずっと宿泊料が足りないんだ」と言っているのが聞こえました。さらに、女の泣く声が聞こえ、ますますひどい騒ぎになりました。あの若者の声はまったく聞こえませんでした。

 騒いでいますと、車夫がまぐさをやる音、馬が草を欲しがる鳴き声が聞こえました。車夫は凍えた口を開いて、『圧圧油(ヤアヤアヨウ)[15]を歌いました。

田舎の爺さん、ヤアヤアヨウ。おもてに出たら山羊に会い、肝を潰してずっこけた。二本の骨が天に伸び、四つの蹄に、一つの尻尾、俺にむかってメエメエと鳴く。見てみろよ。下唇にゃ、だらりと垂れた一房の髭。

歌い終わりますと、あくびして、叫びました。

「旦那さま方、起きてください」

 中庭ではぎゃあぎゃあとわめき声がして、収拾がつきませんでした。盛希瑗は早くも起きだしましたが、とても不愉快な気分でした。そこで、上房の戸を開けますと、給仕を呼びました。すると、小僧が飛ぶようにやってきて、言いました。

「炭をくべましょうか」

「ああ、それから湯を持ってきてくれ」

小僧は急いで戻っていきましたが、中庭に行きますと、また叫びだしました。

「江瑤の貝柱と官燕の料理だ。十両出せ」

希瑗

「炭をくべてくれよ」

小僧

「すぐに参ります」

希瑗

「あの若い人が、十両の銀子を払えば、それでいいんだろう。騒いでいるのはどうしてだ」

店員は笑って

「実は料理代が足りないのです」

希瑗

「でたらめを言うな。江瑤の貝柱、燕の巣は、小皿に盛る物ではないぞ。江瑤の貝柱を、おまえの旅館で小皿に盛って出しているわけはないし、邯鄲の張さま[16]だって、見たことはあるまい」

店員

「旦那さまは出世することだけをお考えください。ご自身とは関係ないことに、ちょっかいを出されるものではありません。つまらないことに関わってどうなさるのです」

盛希瑗も坊っちゃん気質でしたから、罵りました。

「この馬鹿野郎めが」

店員

「あの小部屋に泊まっているのは、本当の馬鹿者ですよ」

盛家の下男は、すぐにビンタを食らわせました。さらに、もう一人が張り手を食らわせて倒しました。店員は叫びました。

「よくも殴ったな」

 すると、突然、街に、南から北へ行く先触れの声がしました。天子の使いが四更に出発したため、張公が天子の使いを送って城に入ったのでした。知事は、車に二三の提灯が掛けられているのを見ました。二つには国子監、一つには済南府と書かれ、三人の主人を照らしていました。七八人の下男が、轎を止めて報告しました。

「知事さまが所管されている地域の者が天子さまの通られる道で宿屋を開いていますが、店主は私娼をおき、客商をゆすっております」

邯鄲県知事は、下役の出身で、下情に通じており、清廉潔白でした。彼は、小僧を呼んできますと、抑えて跪かせました。轎の中で知事がぶてといいますと、下役は小僧を地面に倒し、ズボンを脱がせ、パンパンと二十回棒で打ちました。知事は轎の中から言いました。

「私娼を捕まえ、店主を追及するべきだが、真夜中だから、客の荷物が紛失して、上京が遅れてしまうかもしれん。下役を二人残そう。小僧を押さえ付け、殿方に叩頭させ、すぐに殿方を出発させろ。朝までに、私娼、店主を役所に連行し、厳しく処置することにしよう」

轎かきが叫びますと、一群の行列が、先払いの声とともに、大仰な動作をしながら、城内に入って行きました。

 店で金を払い、出発しようとしますと、若者が上房にきて叩頭しました。婁樸

「あなたも私たちと一緒に行きましょう」   

紹聞

「夜が明けたら別れればいいのです」

そして、一緒に店を出て北へ行きました。

 二人の下役の頭は、ただで大金を儲けますと、県知事に「調査をしましたが証拠はありませんでした」という報告をし、事件にけりをつけました。店員はまったく後悔せず、ただ笑って、

「運が悪かったんだ。どうってことはないさ」

と言いました。

 以上は宿屋でよく起こることで、くどくどお話しする必要はありますまい。さて、婁、譚、盛の三人は、それぞれ車に乗り、八人の下男も車に乗りました。「黄粱夢」[17]に着きますと、下男に荷物を見張らせ、三人で盧生廟に行き、盧生が夢を見たところを見ました。

 門に入りますと、照壁に四つの石板が嵌め込まれていました。そこには「蓬莱仙境」の四文字が書かれておりました。中殿[18]には漢鍾離[19]の像がありましたが、頭に二つの髷を結い、長い髭をはやし、腹をはだけており、仙人の趣がありました。さらに、お堂に入りますと、石で彫られた盧生の眠っている像がありましたが、鼾をかいて夢を見ているかのようでした。どうやら役人になり爵位を受けている頃のようでしたが、永遠に目を覚ますことはないでしょう。両隣には真っ白な壁があり、詩があちこちに書かれていました。三人が詩を吟じておりますと、廟守が茶を飲むように勧めました。三人は道舎[20]に入りました。廟守が香りのある茶を差し出しますと、三人はそれをすっかり飲みました。婁樸は机の上の上等の筆や硯を見ますと、詩興を沸き起こしました。そして、廟守が滑らかな彩箋[21]を持ってきますと、墨をたっぷりつけて字を書き始めました。

叢台を出づれば朝の気は新た、

笑ふなかれ旅路の塵にまみるるを。

車を駆りて神仙の家に到りて、

壁に詩を書けば識者に知らるることも多からん。

出世の近道 求むる者は、

官界の迷津[22]なるを知るを得ず。

竈では炊事の煙 たちまちに消え、

目覚むれば旅姿 現実(うつつ)なりやと尋ねたり。

婁樸は書き終わりますと、笑って

「旅先の作で、しっかり推敲をしていませんから、お二人に直して頂きましょう」

紹聞

「七歩、八叉[23]とはこのこと[24]。実に詩を作るのが早いですね」

盛希瑗

「一服の清涼剤のようです。優れた作というべきでしょう」

廟守

「韻律のことはよく存じませんが、字は、龍が飛び、鳳凰が舞っているかのようです。墨が乾いたら、すぐに部屋に掛けさせて頂き、識者に鑑賞して頂くことにしましょう」

婁樸

「壁が汚れますよ。普通の味噌を入れた壺の口を塞ぐのに使っていただければ結構です」

 譚紹聞

「相談したいことがあります。一人一人が別の車に乗っていては、どうしても寂しいものです、今日から、三人が同じ車に乗り、話しをすることに致しましょう」

盛希瑗

「それはいい。僕たちは婁さんの車に乗り、君の下男たちを僕たち二人の車に移すことにしよう。彼らにも彼らの話しがあるだろうから、彼らにも話しをさせることにしよう。そうすれば、眠たい思いをしなくてすむよ」

婁樸

「君達が僕の車に乗るのなら、僕は轅に座って鞭を手に執ることにしよう」譚、盛の二人は声を揃えて言いました。

「僕たち二人は年が若いのですから、先駆け[25]をするのが筋です」

三人は大笑いしました。

 廟守に別れ、車の所に行きました。下男たちに命令を下すと、彼らは敷物を移しました。三人は一台の車に乗り、その後は友人同士で話しをして楽しみました。紹聞は笑って

「婁さんの詩には『道は叢台を出でて暁気新たなり』とありましたが、唐の人の詩にも『客有り新たに趙地より(かへ)り、自ら言ふ曾て古叢台に上ると』[26]というものがあります。この叢台駅とは、きっと邯鄲の叢台のことです。この台は古跡で、まだ遺跡があるはずです。昨日は気が付かず、見に行くことができませんでした。明日、引き返すことにしましょう。私にもいい詩があります『客有り新たに趙地より(かへ)る、自ら言ふ未だ古叢台に上らずと』[27]というのです。これなら、誰も私が陳腐な詩を作ったとは言わないでしょう」

婁樸は笑って、

「私は何度も会試を受けているから、『客有り頻りに趙地より(かへ)、自ら言ふ 重ねて古叢台に上ると』[28]と言わなければなりません。これなら、人々は、私が字は踏襲しているが意味は踏襲していないということでしょう」

人々は一斉に笑いだしました。

 盛希瑗

「叢台とは一体どこにあるのですか」

婁樸

「邯鄲城の東北の隅にあり、上には雲台[29]があります。馬武[30]と光武帝が会議をした遺跡で、煉瓦で小さな台が造られています」

盛希瑗

「昨晩、南関に泊まった時に、見に行くべきでした」

婁樸

「今日の五更に北関を出たとき、遺跡がありました、暗かったので見えませんでしたが」

譚紹聞

「何の遺跡ですか」

婁樸

「学歩橋です」

盛希瑗

「『邯鄲に歩を学び、その故歩を失ふ』[31]の遺跡ですか」

婁樸

「その通りです。私は、私たちが車をおり、橋の上を何歩か歩いて、『独り青雲を歩む』[32]のに失敗してしまったら、残念ではないかと心配したのです」

三人はまた大笑いしました。

 譚紹聞

「さっき『黄粱の夢』の遺跡を通り過ぎましたが、『黄粱の夢』の物語は本当にあったのですか」

婁樸

「小説家の作った物語に、その話しがあるのです。しかし、盧とは范陽[33]の盧氏のことで、夢は都で見たのです。ところが、俗人たちはここの土地の話しだとこじつけ、漢鍾離、呂洞賓の話しを加えたのです。本当だろうが嘘だろうが、廟が大通りに建てられ、上官にとり入ってはやく出世することを求める者に、一服の清涼剤を与えるのもいいでしょう[34]

盛希瑗

「路傍の古跡が、すべて嘘だということもないでしょう」

婁樸

「土地の人はしばしば通俗的なものの考え方をします。例えば、私たちは、先日、黄河を渡って封丘に行きました。封丘は昔の虫牢[35]ですが、人々は韓憑[36]の妻の『妾はこれ庶人、相応を楽しまず』[37]という詩の話しはせず、崑曲の劇で、周愈[38]が黄陵集の旅の宿で息子に会ったのは、封丘県で起こったことなのだといいます。劇の話しはさておきましょう。私たちは先日衛輝の汲県を通りましたが、そこは魏の安釐王[39]の墓から『汲冢竹書』[40]が掘り出されたところでした。これは地下に千年埋まっていたものですが、そこには太甲[41]が伊尹[42]を殺したことが書かれていました。これも理解できないことです。また、汲県の北の比干[43]の墓には、「武王」の『銅盤銘』[44]が書かれており、『林を左にし泉を右にし、岡を後ろにし道を前にす。万生の霊、焉に于いて是れ宝なり』とあります。しかし、これは偃師[45]の暘山の麓の何比干[46]の墓中銘なのです。漢のときの大廷尉何比干が、殷の比干とされているのです。このようなことは、放っておいて、論じなくていいのです。要するに、彰徳[47]を通ったら韓魏公[48]の『安陽集』の話しだけをし、声伯[49]が洹水[50]を渡る夢を見て、夢の中で瓊瑰[51]を食べたという話しを[52]する必要はありません。湯陰[53]を通ったら岳武穆[54]が忠実に国に報いた話しだけをし、朱亥[55]が湯陰で晋鄙[56]を鉄椎で打ち殺した話しをする必要はありません。古人を偲ぶときは、偉大な事蹟を見、正しい事蹟を知ることが貴いのです。細かい逸事を求めても、徒らに話しのねたになるだけで、貴ぶには足りません。さらに、先日のように漳河[57]を通った時は、西門豹[58]が巫女を沈め、史起[59]が水路を開鑿した話しだけをし、東北にむかって、曹孟徳[60]の銅雀[61]、冰井[62]を見たり、西北にむかって、高歓天子[63]の大墓をみたりする必要はないのです」

譚、盛の二人は、ここ数日、同じ車に乗らなかったために、「高く群言を()む」[64]先生から、教えを聞くことができなかったといって後悔しました。すると、婁樸

「とんでもございません。宜溝駅[65]を通った時は、端木祠[66]に参拝しませんでしたし、羑水河[67]を通ったときは、演易台[68]に行きませんでした。これは私の大きな誤りでした。私から教えを受けられることなどありません。これからは、毎日同じ車に乗り、絶対に旧跡を見落とさないようにしましょう」

 午後、臨[69]に着き、一緒に冉伯牛[70]の祠に参拝しましたが、伯牛の墓があるということでした。

譚紹聞

「『伯牛(やまい)あり』ということは、『魯論』[71]に見えます。伯牛は魯の人なのに、どうして遠く離れたこの地に埋葬されているのでしょう」

婁樸

「唐宋の時代の農民は、牛の神を祭り、百頭の牛を壁に描き、百牛廟と名付けていました。後に訛って、冉伯牛廟になったのです。これも重要な遺跡ではありません。要するに、臨関を通るときは、李文靖公[72]のことを思い、さらに進んで沙河[73]を過ぎるときは、宋広平m[74]のことを思うのです。羅士信[75]が戦いをした狗山─今、婁山[76]と名付けられています─などは、大して重要な遺跡ではありません」

 さらに、ある朝、趙州橋に着き、飯屋で朝食をとりました。向かいの書画店には、張果老[77]が驢馬に乗って橋を通り、魯班[78]が橋が崩れるのを恐れて、橋の下で支えている絵がありました。その絵を買うものは、家に貼り、火災避けにしていました。りますと、朝飯をとりますと、張果老の驢馬の蹄の跡、魯班の手のひらの跡を見にきました。

婁樸

「これはすべて田舎の子供騙しのお話しです。橋は隋の職人の李椿が造ったもので、魯班─公輸子(班)が造ったものである訳がありません。ここには大事な遺跡がありますが、人々は注意していません。あの橋の両脇の小さな穴は、秋の増水のとき水の勢いを弱めるためのものですが、宋の使臣が北方の金に遣いする時、ここに名を刻みました。又、暇なときにここに遊覧し、詩を題し、名を穴に刻んだ者もいます。私たちはそれを見ることにしましょう。誰かに筆と硯を持ってこさせて、書き写して籠に入れましょう。そうすれば、正史に載っていないことを補い、見聞を広めることもできるかもしれません。広く天下を巡れば文章がうまくなるというのはこのことです」

三人はすぐに紙に詩を書き写しました。婁樸

「京師の旅館に着いたら一つに集め、一人一人が一冊づつ書き写し、表装屋に頼んで本にして、『趙州洨河橋石刻集覧』と名付けましょう。驢馬の蹄の跡や、魯班の手のひらの跡の絵を買う必要はありません、印を押した『天官賜福』の書き付けを人に送り、自分は都からきたと言えば、立派な贈り物になりますよ」

三人は大笑いをしました。

 譚紹聞は詩興がわきましたので、笑いながら

「私は詩が一首できました。お二人には笑われるかも知れませんが、声に出して読んでみましょう。

城南の道には万の柳が植わり、

大きな橋には仙人の言ひ伝へあり。

地名は今も趙邑なれど、

(いしぶみ)に刻まれし、隋の年号は剥がれ落ちたり。

虹は大きな玦のやう、

月はあたかも弓のやう。

名を書きし者には宋の使者多し、

じつくりと見て先賢を偲びたり。

婁樸

「これはいい」

譚紹聞

「私たちは親友なのですから、面とむかってお世辞をおっしゃる必要はありませんよ」

盛希瑗は笑って

「では、まあまあだな、というのはどうだい」

譚紹聞

「無理に作り上げたものですから、うまくできている筈がありません」

 三人は飯屋に戻り、大観[79]、政和[80]の、北方への使者の詩を籠に入れ、さらに同じ車に乗って進みました。後に欒城[81]を通ったときは潁浜[82]の話しをしました。定州[83]を通ったときは東坡[84]の話しをしました。慶都[85]を通ったときは、堯母の諱をおかしているが、書生が文句を言うわけにはいかない。将来必ず聖天子が良い名前をつけ、十四か月かけて「天の如き」[86]聖人を生んだ母親を敬うことだろう[87]、我々は嘉靖年間に生きる人間だから、いつの時代に名前が変わるか予測できないが、と言いました。

 朝には発ち、夜には泊まり、京師に近付きました。涿州[88]に着きますと、桓侯廟[89]に参拝しました。廟には「唐は姓を留め宋は名を留む」という六字の額が掛かっていました。

盛希瑗

「これはどういう意味ですか」

婁樸

「唐の張睢陽[90]と、宋の岳武穆のことです」

譚紹聞

「これはでたらめです。後の世の人が見たら腹を抱えて笑うことでしょう」

盛希瑗「後ろの落款は、進士のものではありませんか」

婁樸「誰も彼が進士でないなどとはいっていません。張桓侯は風雅な学者将軍だったのに、梆子劇では、黒い顔に白い眉の、粗暴でがさつな男になってしまいました。桓侯の『刁斗銘』[91]には、漢人の趣きがあります。『閫外春秋』[92]は、彼が武で功名を立てたばかりでなく、文も上手だったといっています。劇では、三束の髭、赤い顔、黒い顔を配役にするのがお決まりのパターンです。唐ならば秦叔宝[93]、程知節[94]が、赤い顔、黒い顔です。宋ならば宋の太祖が赤い顔で、鄭子明[95]は黒い顔です。士大夫は歴史を知らなければ、劇を見て、まちがった考えをもってしまうことになるのです」

 涿州を離れ、良郷[96]に近付きますと、車夫が叫びました。

「旦那さま方、昊天塔を御覧になりましたか。楊六郎[97]が父親の楊敬業[98]の骨を盗んだ所です」

盛希瑗

「後ろの車夫もそう言っていますが、どうしましょうか」

婁樸

「でたらめです。昔、楊業が敵と戦っていたとき、王侁[99]、潘美[100]は楊業が必ず勝つと思い、救援をしなかったため、楊業は一人ではささえきれず、陳家谷[101]で敗れたのです。骨が良郷の塔にあるはずがありません」

 その日、五台の車は飛ぶように京師に入りました。蘆溝橋につきますと、税関に申告をし、彰儀門では通行手形の検査を受けました。難癖をつけられたり、引き止められたり、脅迫されたり、侮辱されたり、役人であればあるほど、ひどい目に遭うものです。彼らに勝っても自慢にはならず、勝たなければ笑われます。それに決して勝つことはできないのです。税関の下役たちが一言『これは駄目だ』といいますと、どんな役人でも、どうしようもありません。挙人、貢生なら、ますますうまくいきません。日が暮れて、争いごとがなくなりますと、城に入ることができました。そして、急いで正陽門[102]の内側の河南会館に駆け込みました。─これは、江米巷に李鄭州文達[103]の邸宅があったため、天順[104]から賜わり、文達が去ってから、中州会館になったものであるということを、ついでにご説明しておきましょう。

 証明書を提出したり、試験を受けたり、国子監に入って勉強をしたりしたことは、次の回で詳しくお話し致します。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

中国文学

トップページ

 



[1]地方の学事をすべ司る官。提学使。

[2]巡撫。

[3]地方長官。

[4]道台。

[5]順天府試。

[6]会試。

[7]河南省衛輝府。

[8]漳水には清漳と濁漳とがあり、河南省渉県東南の合漳村で合流する。

[9]湖広安陸府。

[10]直隷、真定府。

[11] いたらがい。江苒柱とも。

[12]最上等の海燕の巣。白燕、崖燕とも。

[13]茘枝の一種。粒が大変大きく、味は清甘、拭く州産のものが最も優れているという。『茘枝譜』「状元紅、顆極大、味清甘、福州産為第一」。

[14]下女へのお祝儀。

[15]俗謡の名。

[16]知事、後出

[17]邯鄲県のこと。

[18]三つある殿宇のうち真ん中のもの。

[19]鍾離権。『黄粱夢』で盧生を点化する黄粱道人。

[20]道士の住んでいる場所。

[21]色模様のついている便箋。

[22]迷いの境界。衆生の迷い苦しむ三界六道をいう。

[23]温庭筠は八回腕組みする間に八つの韻を踏む詩を作った『北夢瑣言』「 温庭筠工賦、毎入試作賦,八叉手而八韻成」。

[24]七歩、八叉ともに、詩を作ることが早いこと。

[25]原文「前駆」。先駆け。前衛。

[26]李遠『聴話叢台』詩。「趙の地から帰ってきた旅人がいる、古叢台に登ったことがあると自ら言っている」。

[27] 「趙の地から帰ってきた旅人がいる、古叢台に登っていないと自ら言っている」。

[28] 「何度も趙の地から帰ってきた旅人がいる、何度も古叢台に登ったことがあると自ら言っている」。

[29]後漢の宮中にあった高台。光武帝が臣下と会議をするときに用いられた。

[30]後漢の武将。

[31] 「邯鄲の人の歩き方の真似をして、自分の歩き方を忘れる」。『漢書』序伝「昔有学歩於邯鄲者、曾未得其髣髴、又復失其故歩、遂匍匐而帰耳」。

[32]出世する。

[33]直隷順天府。

[34]盧生の物語は、黄粱一炊の間に、盧生が出世をする夢を見るという話しで、利禄のはかなさを説いたもの。したがって、出世熱にとりつかれているものには一服の清涼剤になるのである。

[35]春秋時代魯の成公が晋侯と会盟したところ。『春秋』成公五年参照。

[36]戦国、宋の大夫。康王に妻を奪われて自殺。妻も『烏鵲歌』を作って自殺。

[37] 『烏鵲歌』の一節。

[38]周愈は周羽の誤り。周羽は戯曲『尋親記』の登場人物で、封丘県の生員。

[39]魏の第七世。

[40]晋代、汲郡の不準が安釐王の墓を発いて得た書。

[41]殷の二世。

[42]殷の宰相。太甲が無道だったので、太甲を追放。『史記』巻三に伝がある。

[43]殷の紂王のおじ。紂を諫めて心臓をえぐられる。

[44]唐の開元四年に偃師の「比干」の墓で出土した銅盤に書かれていた銘。『尚書』武成に、武王が「比干の墓を(つちも)りし」たという記載があるため、銅盤の銘は武王がかいたものとされた。しかし、偃師の「比干」の墓は、本文で後述されているように、漢の何比干の墓であり、武王が封したという殷の比干の墓ではない。

[45]河南省河南府。

[46]漢、平陵の人。字は少卿。『漢書』巻七十二に伝がある。

[47]河南省彰徳府。

[48]宋の韓g。

[49]子叔声伯、公孫嬰斉とも。魯の人で、宋や鄭の討伐を行った。

[50]安陽河。

[51]珠玉。

[52] 『左伝』成公十七年「声伯夢渉洹、或与己瓊瑰、食之」。

[53]河南省彰徳府。

[54]南宋の岳飛。湯陰出身。

[55]魏の人。信陵君の部下。秦軍が趙を囲んだとき、晋鄙を撃殺して趙を救ったという。戯曲『窃符救趙』はその様を描く。

[56]魏の将軍。

[57]河北省清河県の南を流れる河

[58]戦国時代魏の人。『史記』巻百二十六。

[59]戦国時代魏の人。『漢書』巻二十九。

[60]曹操。

[61]曹操が作った高殿。河南省彰徳府臨県にある。

[62]曹操が作った高殿。河南省彰徳府臨県にあり、銅雀台、金虎台とともに、三台といわれる。

[63]北斉の高祖。

[64]韓愈『送窮文』参照。

[65]湯陰県の南。

[66]子貢をまつった廟。

[67]湯陰県の西北から東に流れる河。『水経注』「羑水出湯陰西北、韓大牛泉」

[68]周の文王が六十八卦を作った台。

[69]現河北省臨鎮。『唐書』地理志「洛州広平郡臨県」。

[70]孔子の弟子。

[71] 『論語』の異名。

[72]宋、肥郷の人。字は太初。『宋史』巻二百八十二に伝がある。

[73]直隷順徳府。

[74]唐、南和の人。玄宗の時の名宰相。

[75]唐、歴城の人。劉国闥に敗れて死す。

[76]河北省永年県の山。

[77] 第十回の注参照。

[78]春秋時代の魯の巧匠、公輸班のこと。

[79]宋の徽宗の年号。一一〇七〜一一一〇。

[80]宋の徽宗の年号一一一一〜一一一八。

[81]直隷真定府。

[82]蘇轍。蘇軾の弟。『宋史』巻三百三十九に伝がある。

[83]直隷。

[84]蘇軾のこと。元祐八(一〇九三)年、定州知事として赴任。

[85]直隷保定府。明代は慶都といったが、清代には望都となった。

[86] 『史記』五帝本紀「帝堯者、其仁如天」。

[87]堯が十四か月間母の胎内にいて産まれたことは、『漢書』外戚伝参照「元始三年、生昭帝、号鉤弋、子任身十四月迺生、上曰『聞昔堯十四月而生、今鉤弋亦然』。

[88]直隷順天府。

[89]張巡の廟。

[90]張巡。唐、南陽の人。安史の乱のとき戦死。

[91]刁斗は銅鑼のこと。

[92]唐の李筌撰。逸書。四巻五巻のみが現存する。鳴沙石室佚書初編。

[93]秦瓊。唐、歴城の人。太宗にしたがい、死後、凌煙閣に画像を描かれる。

[94]唐、東阿の人。本名は咬金。竇建徳、王世充を討つ。

[95]宋の功臣鄭恩のこと。第五十六回の注参照。なお、趙匡胤、鄭恩の結義を描いた劇としては清李玉撰『風雲会』が有名。

[96]直隷順点府。

[97]延昭。宋、太原の人。太宗の時、しばしば契丹を破る。『楊家将演義』『楊家府通俗演義』などの登場人物として有名。 彼が昊天寺の塔に吊されていた父親の遺骸を盗み出したという話は、元雑劇『昊天塔』などに見える。

[98]宋、太原の人。契丹と戦って捕らえられ、絶食して死す。

[99]宋の人。字は秘権。

[100]宋の大名の人。字は仲詢。雍煕中、北伐して敗れる。

[101]山西省朔県。

[102]北京城の正南の門。

[103]李賢。明、ケの人。字は原徳。翰林学士になり、『大明一統志』を編集。

[104]明の英宗。

inserted by FC2 system