第九十五回 

宴席に赴いて学台が役人の戒めについて話すこと

族弟に会い観察が家庭の礼法について述べること

 

 さて、譚観察は鄭州から省城に戻り、すぐに旅装のまま巡撫に謁見し、布政司に会いました。そして、災害の状況、救援の設備についてつぶさに述べ、季知州が心から人民を思いやっている、もっともすぐれた役人であると褒め

「将来、必ず推挙をおこない、知府の任を与えるべきです」

と言いました。巡撫

「以前、季とかいう男と会った時、注意して観察しましたが、誠実で地味な人間だとしか思いませんでした。そのような才能があったとは知りませんでした」

「天下の本当に有能な官員は、大体誠実で地味な人なのです。物腰が滑らかで、応対が機敏な者は、才能があるようにみえますが、多くは責任逃れの上手な輩で、信頼できないのです」

巡撫は

「その通りです」

といい、布政司にむかって言いました。

「鄭州の上申文がついたら、すぐに金を計りとって支給を行いましょう。少しでもぐずぐずすれば焦眉の急を救うことはできないでしょう。ほかの州県からはまだ報せがありませんが、すでに人を遣わしてこっそり様子を探らせています。人民の苦しみを無視している者があれば、必ず弾劾文を提出し、職責を果たさず、人民を損なう者が、法の網から逃れることがないようにしましょう。皆さん、心して仕事をなさってください」

 道台は巡撫と別れますと、道台の役所に戻りました。そして、簽押処に行きますと、すぐに梅克仁を呼んで言いつけました。

「西門外の大旦那さまのお墓だが、お墓の前に霊宝公の神道碑がある。お前は内宅の小者とともに、あそこへいって様子をよく見てくれ。墓の塀を修理し、大きな門楼を建てることにするから」

「この城内の下役のかしらを連れていきましょう。彼らが道を知っています」

「墓の塀の件はわれわれの私事だが、下役は身分が低いとはいえ、朝廷の役人だ。それに、彼らが工事監督をすれば、必ずピンはねをする。内宅にいる自分の召使いに仕事をさせるのがいいだろう。磚や瓦、椽や棟木、石灰や煉瓦は、公正に売り買いすることにしよう。工事をすれば、近くの幾つかの村は、凶作の年ではないとはいえ、工事をしたり資材を運んだりするときの工賃で、ちょっとした儲けを得ることができるだろう」

 梅克仁は馬に乗り、馬子をつれ、譚家の墓にやってきました。そして、神道碑を見つけますと、馬から降りて墓に入り、茨と草の中で何回か叩頭をしました。さらに、孝移公の墓碑を見つけると─埋葬されてから十年ほどたっているようでした─やはり叩頭しました。そして、立ち上がりますと、辺りを見回して見積もりをしました。

 一箭ほど離れた所に、関帝廟があり、傍らに二三軒の飯屋がありました。梅克仁はそこに戻って休み、墓の塀を修理し、匠役[1]を雇い、資材を買うことについて話しだしました。飯屋の老人は言いました。

「譚家の墓には、もともと百十本の大きな柳の木がありましたが、全部売ってしまい、譚家もあっというまに没落してしまいました。しかし、今では父子二人がどちらも学校に入り、生活が上向いてきました」

梅克仁はようやく河南の若主人が学校に入った事を知りました。

 紹聞父子が学校に入ったことは、城中に広まっていたのに、どうして道台の役所は少しも知らなかったのでしょうか。それは、役所が大きく、院考[2]や入学は、地方の小さな事だったため、知ることができなかったからでした。譚観察の取次ぎ係は、公務でなければ内部のことは話しませんでしたし、外部のことを聞きませんでした。ですから、梅克仁が役所に戻って報告をしますと、道台は初めて紹聞父子が同じ試験で学校に入ったことを知り、心の中でとても喜びました。

 譚道台は、梅克仁に百五十両を渡し、墓園を修理させ、紹聞父子に襴衫と絹織物八匹、頭巾と靴二対、銀花四つ、馬具つきの駿馬二頭を送るように命じました。そして、薪割りの下男を一人、掃除をする醜い小者を二人遣わしました。持ってきた拝匣の中には、二つの帖子が入っていて、一つには「おば上様のご機嫌を伺い、新年のお祝いを申し上げます。甥紹衣頓首」もう一つには「紹聞は十一日に役所に来るように。襴衫、巾冠をつけ、位牌に拝礼を行うように。兄衣命ず」とありました。

 紹聞は命令を聞きますと、王象藎に針子を雇わせ、急いで襴衫を作らせて、役所にいく日を待ちました。

 十日の晩になりますと、急に夏鼎がやってきました。彼は、胡同の入り口に着きますと、書斎にやってきました。ちょうど紹聞が息子と一緒に書斎から出てきました。紹聞の容貌は俊逸で、以前とはだいぶ違っていました。夏鼎は役所に半年住み込み、振る舞いや言葉遣いも板についていましたので、思わずお辞儀をしますと、こう言いました。

「門番の梅二爺の命により、私がお知らせを申し上げます。道台さまは、明日、巡撫さま、布政司さま、按察司さまとともに学台さまを呼ばれるので、役所であなたをお持て成しすることができません。後日、あらためて日をきめ、ふたたび若さまを役所にお招きいたします」

紹聞が書斎に案内して話しをしようとしますと、夏鼎は、

「すぐに戻ります。梅二爺が報告を待っていますから」

と言い、急いで行ってしまいました。

 夏鼎のような無頼漢は、悪者のいる場所では、勝手なことをして悪知恵を働かせますが、役所に入りますと、腰は曲がり、足は萎え、諂いの表情をうかべて、せかせかと歩き回るものです。これは知らず知らずのうちにそうしているだけのことなのです。また、彼らは、城外の愚民たちの家に行けば、天王が下界にくだり、黒煞[3]が俗界におりたったように振る舞いますが、これも心が行動になって現れたもので、「之を致すこと莫くして至」った[4]ものなのです。下役たちのすることは、すべて同じようなものですから、もとよりお話しするほどのものでもございません。

 さて、河南の巡撫は、皇帝から遣わされた学院[5]による歳試、科試もすでに終わったので、生員と監生の名簿[6]に記録をしたり、彼らに郷試を受けさせる仕事があるだけでした。そして、役所の中で暇でしたので、布政司、按察司、開封府、帰徳府に知らせ、酒を用意して彼らを迎えることにし、あらかじめ使いを送り、駢文の招待状をわたし、十一日に酒を用意して待つことにしました。

 門番の下役は、文官である伝宣官[7]、武官である巡綽官[8]とともに、劇団を呼ぶことについて相談しました。彼は、まず省城にとどまっている幾つかの蘇州の崑劇団─福慶班、玉繍班、慶和班、萃錦班─をあげて、言いました。

「歌は上手で、貼旦もまあまあだが、玉繍班の正旦は、少し年をとっている」

さらに、隴西の梆子腔、山東からやってきた弦子戯[9]、黄河の北の巻戯[10]、山西沢州の鑼戯[11]をあげましたが、土地の大笛遼[12]、小嗩吶[13]、朗頭腔[14]、稲鑼巻[15]で上官をもてなすことはできないと思い、言いました。

「彼らの劇団には、二三の旦がいる。杏娃児、天生官、金鈴児などは、年も若いし、顔も綺麗だ。京師に連れていけば、毎日お祝儀をかせぎ、一日に五六十両の分け前を得られるだろう。小さな毛皮のあわせや透き綾の袍がもらえることはいうまでもない。お偉いさん方は、京師で同年、同郷に会い、祝い酒を飲んで、新任を祝ったりするときに、いい劇をたくさん見ている。これらの劇団は、衣装も人も少ないから、上官をもてなすことはできない」

武官がいいました。

「それは簡単だ。ここに崑曲の劇団を集めて、良い役者を選んでかわるがわる歌わせよう。杏娃児、天生官、金鈴児の他にも、何人か綺麗な女役を選んで中に混ぜよう。曲牌名のある崑山調に慣れていなくても、下女の扮装をして、宴席で茶や酒を出させること[16]には、彼らは慣れているだろう」

相談が決まりますと、すぐに有能で話しのうまい下役を呼び、県令を助けて仕事をしにいかせることにしました。

 さて、十一日になりますと、布政司、按察司、糧道、駅伝道が巡撫の役所にやってきました。使いは、学院街に来訪を促す手紙を送りました。朝食の後、学院街では爆竹の音が天をゆるがし、学台が出発したことが分かりました。ほぼ中間点にきた時、巡撫の役所でも、門を開けるために連発の爆竹を鳴らしました。街で見ていた人々は、学台が撫台の役所の宴席に赴いたことを知りました。街中には下役たちが行き来しましたが、何をしているのかは分かりませんでした。縫いとりや絵がかかれた様々な旗や幟、木彫りや鉄製の金や銀の飾りのついた様々な儀仗、回避牌、粛静牌、官銜牌、鉄鎖、棍棒、烏鞘鞭などが、一対また一対と、長い時間を掛けて通り過ぎました。太陽がさすと、光が四方に輝き、微風が吹きますと、旗脚が靡きました。金瓜が先を行き、尾槍[17]が後ろから続きました。官職名が書かれた大きな黒い扇、三つのひさしのついた大きな黄色の傘が、八人が担ぐ大きな轎を覆い、轎の中には、背中が曲がって白い髭を生やし、顔に眼鏡をかけて本を読んでいる理学をおさめた名臣が座っていました。

 巡撫の役所の儀門に着きますと、太鼓と笛が鳴り響きました。迎えの役人は跪いたり、お辞儀をしたりしていました。学台は溢れんばかりの笑みと、労いの表情を浮かべました。轎が大堂にかつぎあげられますと、一人の役人が片膝をついて言いました。

「学台さま、轎からお降り下さい」

傘と扇は道をあけ、巡撫は布政司、按察司、糧道、駅伝道を率いて迎えました。そして、たがいに地を払うような拱手をしますと、ハハと大笑いしました。巡撫は学台の袍の袖をひきながら、暖閣を通りました。布政司、按察司、塩運司、糧道は、東の門から人々に従ってぞろぞろと中に入り、順番に挨拶を行い、敬意を表しました。学台は上座を譲り、巡撫はお相伴をし、布政司、按察司、糧道、駅伝道は、並んで腰を掛け、 お茶を選定し、わざわざお出で下さり有り難うございますなどといった常套句を話しました。しかし、彼らは極めて貫禄があり、立ち居振る舞いはたいへん整然としていましたので、常套句を話したといっても、真心から出たもので、まるで十七史のよう(に偽りがないもの)でした。人々は何を話していいかわからず、みんな黙ってしまいました}。

 伺候していた者が、ふたたび、沸かした茶を差し出しました。大堂にいる人々は堅苦しくして、あまりうちとけませんでした。蘇州の劇団は、ずっとお役人たちのために劇を演じてきた者たちで、脇の青い布の帳の中で、時たま刻絲[18]の袍をちらつかせたり、テ─ブルの上で銅鑼や太鼓がぶつかりあう音をかすかに響かせていたりしていました。やがて、帳の隙間が半寸ほど開き、女形の扮装がととのい、白い顔、黒く澄んだ瞳が、ちらりと見ては引き返して行く様子が見えました。このような、劇を見せたくてたまらない様子は、今までお役人たちに伺候したときには見せなかったものでした。伺候していた役人は、その様子を見ますとうずうずして、片膝を突いて報告しました。

「巡撫さま、劇を御覧下さい」

巡撫はうなずきました。すると、笛と琴が演奏され、小笛や小太鼓が、楽を奏ではじめました。

 まもなく、刺繍をした幔幕をかけた木組みが運ばれてきて、真正面に置かれました。テ─ブルと椅子が揃いますと、澄んだ楽の音が響きました。錦の幕が掲げられますと、四人の仙童が、一対一対になり、小さな黄色い幡をもって出てきて、正面に立ち、さらにグル─プに分かれて、対になって並びました。四人の玉女は、一対一対になって、それぞれ小さな赤い幡を持って出てきて、正面に立ち、やはりグル─プに分かれて対になって並びました。やがて、おもむろに天官が出てきました。頭巾の上には一束の赤い絹布がひるがえっていました。天官は、龍の刺繍のある赤い袍を着、手に一冊の本をもちながら、正面に立ち、『鷓鴣天』を一くさり歌いますと、脇の上座に立ちました。さらに、二人のあげまきの童子が、絵に描いた赤い雲を支え、二人の霓裳をつけた仙女が、一対の日月の金の扇を手にとり、冕旒をつけた王にぴったりと付き従っていました。王は龍を刺繍した黄色い袍をつけ、手には如意、巻き物をもって出てきました。そして、正面につきますと、四句の登場詩を読んでから、高い所に腰掛けました。日月の扇が両側に控え、足の下には赤い雲が一ひらありました。赤い布をつけた天官は、紅の雲の下に座りました。四人の赤い幡を持った玉女は、肩を並べて立ち、四人の黄色い幡を持った仙童は、やはり肩を並べてその傍らに立ちましたが、舞台の中央は空いていました。すると、急に太鼓と銅鑼が鳴り、鐃と鉢が響き、四人の値年(年番)、値月(月番)、値日(日直)、値時(一時ごとに交替する)の下役が出てきました。値年は銀の髭に白い鎧、値月は黒い髭に黒い鎧、値日は赤い顔に赤い鎧、値時は髭が無く黄色い鎧をつけ、右手に馬用の鞭、左手には上奏文をもっていて、ビロ─ドの絨毯の上で乱舞しましたが、踊りはなかなか上手でした。馬から降りる時、彼らは地面に鞭を投げ、手に上奏文をもって天官に渡し、天子に渡してもらいました。玉皇はそれを見ますと、言葉を下し、天官は批准をうけた上奏文を返し、東西の四つの天門にわかれて勅旨を伝えました。四人の下役は天子のご恩に感謝し、鞭を拾い上げて馬に乗り、少し舞いを舞いますと、鬼門[19]に入りました。そして、ほどなく出てきて勅旨をもらいますと、一斉に玉皇の後ろに立ちました。舞台の上の生旦浄末は、声を揃えて同じ曲を歌いました。南の歌なのか北の歌なのかは分かりませんでしたが、まるで一人の人間が歌っているように感じられました。何回か歌いますと、歌はぴたりと止みました。巻き物が天官にわたされますと、天官はひろげて読みあげました。歌が終わって、巻き物を全部ひろげますと、赤い綾子の表装で、「天下太平」の四つの金字が書かれていました。最後の歌が歌われますと、一同は舞台の奥へ入っていきました。

 学台の門番が、四両のお祝儀をやりました。巡撫、司道[20]も、お祝儀を出しました。六人の花のような女形は、お祝儀を拾いますと、何度もなまめかしい頭を地面にうちつけました。その中には杏娃児、天性官、金鈴児がいました。

 学台は立ち上がって席を外し、伺候していた役人に道案内されながら、西の書斎に行きました。中庭の月台の脇には老松が一本あり、その他はすべて青竹でした。六人の大官はそれぞれ門番に案内されて、続々と小便をする場所を探しにやってきました。書斎に着きますと、門番は盥を捧げ持ち、座席の前に跪きました。大官たちは手を洗いますと、書斎に腰掛けて茶を飲みました。

 茶を飲みますと、巡撫

「俗な俳優で見るに堪えませんが、もう一幕御覧になりませんか」

学台

「私はあまり劇のことを知りません。一幕で結構です」

さて、河道[21]は、あまり学問のない挙人の出でした。彼は始めは河員[22]でしたが、ある所で遥堤[23]を築き、河庁[24]に升任しました。そして、賄賂を贈り続けて河道に昇進したのでした。彼は普段から女形と遊ぶのがすきで、男色の嫌疑を受けるのをはばかりませんでした。誕生日になるたびに、部下たちがやってきて祝杯をあげました。河道の誕生日には、もちろん女形が出てきてお祝いをしました。河道は、この日、女形たちがすべて揃ったので、酒をかりて日頃の憂さを晴らしたいと思っていました。そこで一言いいました。

「萃錦班は『西廂記』全本を歌えますから、まあ見るに値します」

これは貧乏書生だった頃、いつも『西廂記』のことを良い作品だと思っていましたので、他人も自分と同じように『西廂記』がすきだろうと思い、このような事をいってしまったのでした。

 ところが学台は理学をおさめた名儒で、お堅い役人でしたから、こう言いました。

「唐の名族、范陽の盧氏、博陵の崔氏、滎陽の鄭氏、隴西の李氏は[25]、みな代々通婚しています。鄭家と崔家の結婚は、何度も行われ、史書に見えるものも少なくありません。急に変事が起こったとしても、寡婦やか弱い娘、下女を寺に寄寓させるはずがありません。豪族の家ではそのようなことはしないはずです。賊が悪をほしいままにしても、『玉石倶に焚く』[26]のが、当然の事で、囲みを解いたというだけで、すぐに婚約を行うのを許す筈がありません。相国[27]の家にこのような母親がいるはずがありません。仲の良い友人が、相手のために自らの命を犠牲にすることは、おかしな事ではありません。しかし、一通の手紙で、将軍の任にある者が、国家の兵をひきいて、私的な友人を救うことはありません[28]。また、鄭恒[29]は唐の太常[30]ですし、崔家の三人の子もみな高い身分についています[31]。その事は他の書にもよく見えています。戯曲は虚構とはいえ、どうしてああも汚らわしくでたらめなのでしょう。地獄に墜ちてしかるべきです。私たちが注目するようなものではありません。

 巡撫は、部下が下品なことを言って、皇帝が派遣した大臣を怒らせては面目ないことになると思いましたので、言いました。

「最近、私は州県知事を訪ねてみましたが、劇団を養って楽んでいる者がいました。彼らは賓客を宴会でもてなし、役人としてなすべきことを怠っています。そして、夜を昼のようにして、賓客ではなく、女たちを楽しませているのです。提灯を掛け、薬玉をさげ、飲み物、酒、豆、肉をだし、朝まで過ごす者さえいます」

「彼らが夜も酒色に耽っているのなら、弾劾文を提出するべきです」

「昨日文書を頂いたので、その者の名を弾劾文にのせました。彼は女形の蘇七と酒を飲んで酔っ払い、馬蹄銀を杯にいれて一緒に飲みました。蘇七が叩頭しますと、県知事は彼を助けおこしましたが、酔って立つ事ができず、一緒に倒れ、城中の笑い者になりました。この不祥事のことも書いておきました。このことだけでも塘鈔[32]に書くに堪えないことです」

「そのような下劣な役人は、人民の災難を悲しむことはできませんから、彼が泣けば人民は合掌するでしょう。あなたや州県知事の人徳により、今日は手厚い贈り物を受けましたから、役者たちを退けてお話しをされてはいかがでしょう」

撫台は、今日劇を上演して酒を勧めたのはいかにも俗であった、学台のいうことは尤もだと思い、話しを聞きますと、すぐに巡綽官に命じて役者たちを追い出しました。

 戯主は役人の宴席に伺候するのが好きで、たくさんのお祝儀をもらったり、宴会が終わってから酒を勧められることを望んでいました。彼は旦をさいかちや石鹸で真っ白に洗い、薄く白粉を塗りました。旦たちは、全身に、京師の万馥楼の各種の香串[33]をつけ、口の中には花漢冲の家の鶏舌香餅を含み、艶やかな扮装をし、銀の腕輪をつけた雪のような腕を露にし、大官たちの前で酒を勧め、お祝儀をねだりました。大官たちに目を掛けてもらえば、名声は十倍になり、州県知事に一生懸命ご機嫌取りをしなくても心配ありません。そこには言葉には言い表せないほどのうま味があるのです。しかし、今日はあいにく数人の野暮な大官にあい、追い出されることになったので、筒や箱を担ぐ者、武具を背負う者たちはみな慌てました。すでに扮装をした役者は、衣装を脱ぎ、白粉を洗いましたが、あれこれ手が回りませんでした。扮装していなかった者は、帽子掛けから紗帽を下ろし、髭をとり、鬼の面をとり、虎の皮を剥がし、衣服を畳む暇もありませんでした。銅鑼や太鼓は、纏められる暇もなく、ごちゃごちゃに筒の中に押し込まれ、担ぐ者は担ぎ、背負う者は背負いました。巡綽官は、戯主がぐずぐずしていると思い、怖い顔をしてせきたてました。まことにに興冷めの有様でした。

 河道は、自分が失言をしたこと、皇帝から派遣されたお役人の前で、彼らの気を悪くさせ、つまらない事態を招いたことにようやく気が付きました。そして、恐れ、恥じいり、悔やみ、慌てました。将来九連発の爆竹が響けば[34]、自分の官位も危うくなるでしょう。

「『西廂記』が私をこんなに苦しめるとは」

さらに思いました。

「すき者が劇を上演したら、紗帽をかぶり、燕の尻尾のような髭をつけ、白い鼻をしている奴等は、俺を許してはくれないぞ」

心の中であれやこれやと、とりとめもないことを考えましたが、逃げる場所はありませんでした。

 昼間の宴席では、お相伴をしなければなりませんでした。四つのテ─ブルのうち、二つは正面に、二つは横に並べられました。学台は首座に座り、巡撫が次座に座りました。東側のテ─ブルでは、布政司が第三の席に、駅伝道、塩運司、糧道が第五の席に座り、西側のテ─ブルでは、按察司が第四の席に、河道が第六の席に座りました。さらに、按台が巡察に出かけるため、省役所でお相伴できないという話しになりますと、

学台「汝寧府の試験がおわったとき、あなたとは一度あったことがありますが、お互い公務で忙しく、じっくりお教えを承ることができないのが残念です」

 まもなく、料理が並べられました。料理の豊富さ、珍味の旨さをふたたびほめれば、くだくだしくなりましょう。酒席が終わりますと、大官たちはみな清雅な集いの方が俗悪なもてなしよりもよいと思いました。しかし、河道だけは、酒を半杯あおり、点心を半分食べたものの、心の悩みを話す事はできず、『君子に三愆あり』[35]の一章を黙って唱えるしかありませんでした[36]

 学台が立上がり、一人一人に手厚い贈り物への感謝を述べました。人々はうやうやしく答礼し、

「こちらへお出で下さい」

と言いました。書斎を出ますと、二堂に回り、暖閣をよけて、軒下の雨水受けの所にやってきました。巡綽官は跪いて報告しました。

「学台さま、轎にお乗りください」

学台が振り返って拱手しますと、巡撫は答礼を行いました。司道たちは轎の前にきて見送りました。学台は承知しようとせず、何度も拱手して遠慮をしました。司道たちが半歩ほどさがりますと、学台は八人担ぎの輿に上がりました。照壁の所では早くも大砲がなり響き、儀門が開けられました。回り道をして東の轅門を通りますと、下役たちが、道端で跪いて見送っていました。学台は手を挙げて高々と拱手をして去っていきました。

 巡撫の役所では、司道たちも別れを告げ、ぞろぞろと退出しました。表門の外に行きますと、それぞれ轎に乗って去っていきました。

 さて、譚観察は役所に戻りますと、簽押房に行きました。梅克仁が、墓を修理し職人を雇うには、二百両前後必要だと報告しました。観察は頷いて言いました。

「修理するときに先祖への礼を尽くしさえすればいい。工事が終わったら祭祀を行おう」

梅克仁は命令を受けますと、取り次ぎ係りのいる門房[37]に行きました。

 観察は譚紹聞を役所に呼ぶ日について考えました。指折り数えてみますと、某日には巡撫の役所にあがり、某日には雨に感謝する祭りを行い、某日には大堂で自ら塩引[38]と、漕糧[39]及び各駅の人夫への賃金、大豆やまぐさの帳簿の点検をしなければなりませんでしたので、二十一日しか暇がありませんでした。観察は、前の約束の日から、すでに十日が過ぎていることを思いだしました。そこで、計画を立てますと、翌朝、梅克仁に命じて人を遣わし、二十一日に紹聞父子を役所に呼ぶことを伝えさせました。

 梅克仁は命令を受けますと、門の所へ行き、小使いを呼んで訪ねました。

「先日、蕭墻街に行ったときは、誰が行ったのだ」

「夏鼎です」

「あの男を呼んできてくれ」

小使いは夏鼎を取り次ぎ係りのところに呼んできました。梅克仁

「二十一日に、旦那さまが蕭墻街の父子を役所に呼ばれる。帖子はいらない。おまえはすぐに報告をしに戻ってきてくれ」

夏鼎ははいと答えますと、飛ぶようにいってしまいました。

 まもなく、夏鼎が戻ってきて、入り口につくと報告しました。

「譚紹聞さま親子は、幼い時の先生の恵さんに招かれて、南の城外に酒を飲みに行っていました。私は梅二爺の言われた、道台さまが譚紹聞さま親子を、二十一日に役所に呼ばれたということを、若さまの執事の、姓は王、名は中という者にしっかりと話して参りました」

梅克仁は笑って

「お前は口数が多いが、かなり賢い人間だな」

受付けの窓が閉じられ、内と外が隔てられました。夏鼎は、門番があの下役のかしらは有能だと褒めてくれれば、やがては用度係に選ばれて金儲けをすることができるぞと喜びました。このことはお話しする必要もございますまい。

 さて、二十一日になりますと、王象藎は朝からやってきて、双慶児を呼び、観察様にお目通りする若主人に伺候させました。これは、主人の家の運勢が好転する好機だと思ったからであり、役所にわたりをつけ、役所に出入りし、権勢や利益に走るような考えとは、何の関係もありませんでした。譚紹聞父子は馬に乗り、双慶児は毛氈の包みを挟み、王象藎は馬を引き、守道[40]の役所にやってきました。轅門に入りますと、馬をおり、二人の下男がそれぞれ一匹の馬をひきました。すると、夏鼎がどこからか走って来て、言いました。

「私にお渡しください」

すぐに小使いが馬を繋ぎました。そこで、譚紹聞たちは号房[41]に行き、手本を提出し、受付けの帳簿には手本通りに「生員譚紹聞、譚簣初謹んで報告す」と書き、すぐに襴衫を着ました。王象藎と双慶児は、それぞれ絹のリボンを持ち、主人の腰に縛りました。記帳所の下役は手本を持ちました。紹聞父子は彼らに従い、東の側門から入って、大堂に着きました。

 手本が中に運ばれていきますと、間もなく、遠くで、呼んでくれという声が聞こえました。すると、内宅の入り口が半分開いて、一人の男が言いました。

「どうぞ」

内宅に入りますと、観察はすでに三堂の軒下の雨水受けのところに官服を来て立っていました。紹聞父子はきちんとした足取りで観察の前に行きますと、拱手をしようとしました。観察は首を振って受けようとせず、手を引くと言いました。

「私についてきておくれ」

 観察は三堂の位牌棚の前にきますと、二つの敷き物を並べて敷き、やや後ろに一つの敷物を敷きました。そして、観察は上座に立ち、紹聞は肩を並べ、簣初は後ろに立ちました。観察は前方にむかって言いました。

「これは鴻臚派の末裔紹聞と簣初です。彼らは祥符の学校に入り、ご先祖様に叩頭をしにまいりました」

続けて四回叩頭し、立ち上がると拱手をしました。挨拶が終わりますと、観察は紹聞に向かって言いました。

「東に立って、私に挨拶してくれ」

紹聞は二拝四叩を行いました。さらに簣初に向かって

「私に挨拶をしてくれ」

簣初は父親が行ったのと同じことをしました。紹聞

「ご夫人にお目通りさせて下さい」

観察は首を振って言いました。

「私についてきておくれ」

 一緒に三堂を出て奥の書斎に行きました。観察は官服を脱ぐように命じますと、自分は上座に腰掛けました。紹聞は向き合って座り、簣初は西北に、はすに座りました。茶を飲みますと、紹聞

「日を改めて、ご夫人へのご機嫌伺いを致しましょう」

「それは間違いだ。私は今まで公務に縛られ、おまえのお母さまにご挨拶していないから、先に妻への挨拶をしてもらうことはできない。私たち南方の先祖の教えは、おまえも知っていて、従っているはずだ。昔から、男女は近い親戚でもあまり言葉を交わさないものだ。我々丹徒の一族のところには、他の府県の姻戚が、お祝いのためにやってくることが多い。この時、男の客なら会えば仲良くするが、女達には『誰それの奥さま、御機嫌いかがですか。』というだけだ。すると、女達は茶を出す小者に『いたみいります』と返事をさせ、相手が目上なら『お尋ね頂き、有り難うございます』とつけくわえるだけだ。そうでなければ、下女や飯炊き女が、衝立の後ろで『旦那さまから安否をお尋ね頂き、いたみいります』というのだ。弟と兄嫁の間でもこうするだけだ。今まで姉やおばの名を呼びながら、弟や甥が部屋の中に入ったことはない。思うに礼を尊び、安否を問う者は多いが、婦人の性格からして、そのようなことを長い時間続けると、権力が女に移ってしまうのだ。災いを芽のうちに断つためには、人が気に掛けないところに注意しなければならないのだ」

そして、簣初の方を振り向きますと、言いました。

「おまえは学校に入った。学問をして世を救うのは、おまえに必要なことだ。よく覚えておくのだぞ」

簣初は畏まって、立ちながら教えを受けました。

 まもなく点心が差し出されました。譚紹衣、譚紹聞親子は一緒に食べましたが、すでに役所の中にいるということを忘れていました。観察

「一つ質問がある。簣初は知らないが、紹聞はきっと知っているはずだ。譚孝移さんには著作があったのか」

「ございません」

「昔、譚孝移さんが丹徒に墓参と族譜編纂のためにやってきた時、私の屋敷に一か月以上泊まられ、とても親しくした。あの時は、つぶさに振る舞いを見、じっくりと話を聞いたが、本当に考えも行動もしっかりした方だった。どうして書かれたものがないのだろう。著作や論説がなくても、批点をほどこされた書籍があるはずだ。そうでなくても、試験の時に書いた八股文や、友人同士で集まった時の作品があるはずだ」

「本当に見たことがないのです」

「我々士太夫の家は、幾つかの蔵板、何部かの蔵書をもっていて、初めて人並みといえるのだ。だから、わしは霊宝公の遺稿を、親戚から手に入れると、すぐに版木に彫って保存した。先祖の残したものは、よその者がみれば落ち葉のようなものだが、子孫が見れば、金玉珠宝のようなものだ。ある人が競って書き写し、大事に保存しても、子孫がまったく関心をもたないと、先祖の残したものは、すべて保存されなくなってしまう。いわゆる『臧穀羊を亡ふ』[42]というのがこれで、失ったものはきっと多いはずだ。これはいつの世にも必ずあることなのだ」

「現在、この城内には、ほかにも楼一つ分の版木を保存している家があります」

「どこの家だ」

「盛藩台の家です」

「何という書名だ。印刷して人に送っているのか。それとも売っているのか」

「版木をいれた楼に鍵がかかっていて、永いこと開いたことがないということしか知りません」

「その家にはどんな人がいるのだ」

「藩台公の二人の孫で、長男は盛希僑、次男は盛希瑗といいます」

「肩書は何だ」

「盛希僑は国子監生で、盛希瑗は府学の生員です。後に副車[43]に合格しました」

「明日、迎えの者を遣わして帖子を送り、彼ら兄弟二人を役所に呼び、何の本か尋ねてみよう。文集だろうが詩稿だろうが、彼らに何部か印刷させよう。南にもっていけば、中州の文献を親友に送ることができる。これは上等の贈り物だ。中州には有名な著作が多い。郾城[44]の許慎[45]の『説文』、滎陽[46]の服虔[47]が注した『麟経』[48]、考城[49]の江文通[50]、孟県[51]の韓昌黎[52]、河内[53]の李義山[54]は、すべて版木が世に流布している。鄴下[55]の韓魏公[56]の『安陽集』、洛陽に流寓した邵堯夫[57]の『撃壤集』[58]は、名前だけが伝わっていて、見たことはない。これはどうしても捜し出して手に入れなければならん。そうすれば、中州で役人になったのも無駄ではなかったというものだ。役人生活で得た立派な財産を子孫に残すことができるからな。お前は家に戻ったら、壊れた筒や籠の中をよく探すのだ。書状の断片や、本の批評、絵に書かれた文字の中から、お前のお父さまの筆跡が見付かれば、たとえ一文字でも我が家の宝だ。簣初も注意しなければいけないぞ」

「父が早くに亡くなったとき、私はわずか十歳でしたので、『熱心に勉強し、正しい人と付き合え』という八つの字を教えられたことを覚えているだけです」

観察は立ち上がりますと、いいました。

「それは天下の子弟にとっての八字の『小学』、我が家の子弟にとっての八字の『孝経』だ[59]

簣初

「ただ、この八字は、書物の題名ではなく、断片でもございませんから、刊刻することはできません」

観察

「肝に銘じ、心に刻めば、その効果は一生尽きることはない。役人になったときも、絶対に勉強をやめてはならんぞ。同僚と付き合う時も、正しい人と付き合うことには、最も留意しなければいかん。この八文字は、鴻臚派で、子孫の命名をするときに用いるがよい。南の宜賓派は、『純孝基を開き、世〃守りて咸(みな)昭らかなり。紹ぎ延べて永く緜たり。後貽を光啓す』[60]の十六字で代々命名を行っている。前の八字では、咸の字の世代の人もいる。我々の世代は紹の字を使い、息子の世代には延賞、延祥、延綬がおり、孫の代には永齢、永年、永系がいる。我々の家は大族だから、今では光の字をもちいる世代までいる。霊宝の一族には、今いくつの家があるのだ」

紹聞

「こちらは男は多くなく、代々一人っ子なのです。私の代になって、ようやく簣初たち兄弟二人が産まれました」

観察

「簣初はお兄さんか弟か」

紹聞

「兄です」

「弟は何という名前なのだ」

「悟果といいます」

「おや、それでは僧か尼のようで、模範的な名前とはいえない。この子は簣初という名で学冊[61]に名が記されているから、変える必要はないが、悟果には用の字を使うべきだ。その次は心の字を用いるのだ」

簣初

「おじさまが最初の名前をお付けになって下さい」

観察はうなって言いました。

「『之を薫(ただ)すに威を用う』[62]というから、用威という名前にし、子孫に教えを垂れることにしてはどうだ」

簣初は立ち上がりますと、拝礼をして言いました。

「おじさまの厳しくも優しいご厚情に感謝致します」

「これから丹徒に手紙を送り、鴻臚派が『用心読書、親近正人』の文字を使って代々の命名を行うことを、族譜に書き込んで、後世に明らかにすることにしよう」

紹聞父子は、ともに立ち上がって挨拶をし、親族の誼を結び、親族内の長幼の序を明らかにしてくれたことに感謝しました。

 まもなく、簣初が便所に立とうとしました。観察は小者に案内をするように命じ、簣初がいない間に紹聞に尋ねました。

「簣初に縁談がきたことはあるか」

「まだです」

「わしはすでに相手を決めている。簣初にぴったりの娘だ。婚姻は一族にかかわる大事だから、いい加減なことをしてはいけない。今すぐに話しをするわけにはいかないが、試験が終わったら、もう一度じっくり考えてみよう。その時は八方がしっかりと賛成し、一言で縁談がまとまるだろう。お前はこの言葉を心にとどめていればよい」

紹聞はいわれた通りにすることにしました。

 簣初が戻りますと、小者が水を捧げ、手巾を渡しました。簣初は手を洗って、腰を掛けました。観察は、ふたたび勉強のことについて話しをしました。そして、郷試、会試の試験場の規則を軽くみて、字を書いた紙を持ち込んではいけない、部屋を間違えて、巡綽官に追い出されてはいけない、答案をいい加減に書きおえて、さっさと試験場を出ようとしてはいけない、ぐずぐずして夜更かしをし[63]、巡綽官に答案を取り上げられたり、摘み出されたりしてはいけないなどということを詳しく話しましたが、言葉は慈愛にみちており、一句一句が大切な事柄でした。

 正午になりますと、小者が紹聞たちをふたたび書斎に案内しました。そこには書画の掛け軸、植木鉢や金魚鉢があり、とても閑静でした。部屋の中には敷き物はなく、テ─ブルの上には小皿と箸が備えられていました。紹聞たちが腰を掛けますと、昼食が出されました。器は多くありませんでしたが清潔、種類は雑多ではありませんでしたが美味で、役所の食事とは違いました。食事が終わろうとするとき、急に梅克仁が手本をもってきて報告しました。

「衛輝府知事さまがお別れに来られました。漕運のことについても報告があるそうです」

観察

「客に会うから、官服を持ってきてくれ」

そこで、紹聞は別れを告げようとしました。観察にもひきとめる暇はありませんでした。観察は、試験で頑張るようにと紹聞を励まし、自分は部下に会いにいきました。

 紹聞は、梅克仁に従って内宅を出、表門の外に行きました。王象藎、双慶児は馬を引いてきました。奥の当番は毛氈の包みを運んできました。紹聞が馬に乗ろうとしますと、夏鼎がやってきて、簣初を抱き上げて馬に乗せ、紹聞の馬を引きました。夏鼎は馬を引いて轅門を出ますと、小声で言いました

「私のことをよく言ってください」

紹聞は返事をするわけにもいかず、東の轅門を出ていきました。

 街と路地を通り過ぎますと、多くの秀才がいました。ある者は裏通りをぶらぶらとどこまでも歩いており、ある者はぶつぶつぶつぶつと、荒寺の中で本を読んでいました。紹聞が街を歩いて夏鼎の家から王紫泥の家へ行ったり、白興吾の家から盛公子の家へ行ったりしていた頃も、もちろん試験はありましたが、関心がありませんでしたので、気が付きませんでした。しかし、紹聞は、今では正しい道に専心し、秀才にもなっていましたから、試験が近いということを、目に染み込ませ、心に刻み込みました。

 裏門に着きますと、紹聞は馬から下りました。王象藎と双慶児は馬を繋ぎました。双慶児は楼門に行き、毛氈の包みを渡しました。紹聞は樊婆を呼んで言いました。

「はやく王中たち二人に飯を作ってやれ」

双慶児

「夏さんは馬に餌をやりますと、許頭児、張頭児[64]という知らない人二人と一緒に、私たち二人に飯屋で食事をおごろうとしました。しかし、王中はどうしても行こうとしませんでした。夏鼎も無理強いしようとはしませんでした。私は一人で飯屋に行き、二皿の炒め肉を食べ、みんなで包子や麺やうどんを食べました。もうこれ以上食事をとる必要はございません」

王象藎

「私は石の獅子の前で、三つの炊餅、一椀の豆腐脳を食べたので、腹は減っていません。これ以上あれこれおっしゃる必要はありません」

王氏も幾つか役所のことを尋ねました。紹聞父子は試験にむけて心が焦っていましたので、ふたたび書斎へ本を読みに行きました。

 半月本を読みつづけました。鍵は母親がしっかりと預かり、食事をする時に双慶児がやってきて鍵を開けました。半月間、客はまったく来ませんでした。客があったとしても、紹聞は鍵を持っていませんでしたので、塀の外に投げることはできませんでした。これぞまさに、

苦心して、あらゆることを経験し、

努力して、すこしも怠くることぞなき。

男子(をのこご)が後悔しなば、

錐を手に股を刺すのも難からず[65]

 

  最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]政府の賦役に応ずる職工。

[2]童生を集めて行う試験。

[3]四聖真君の一つ。黒煞将軍ともいう。疫病を除き、鬼神を捉える。『道門通教必用集』巻七「北方黒煞五気天君、光華日月。威備乾坤、走符摂籙、断絶鬼門。行神布気、辟除五瘟、左右吏兵、三五将軍、雷公霹靂、電撃風奔、刀剣如雨、隊仗如雲、手執帝鍾、頭戴崑崙、行堯天下、収捉鬼神」。

[4] 『孟子』万章上。「しようとしなくてもそうなった」。

[5]学政使。清代、一省の学事を総管する者。府州県の学校教官を管理し、科挙の予備試験を行う職権を有する。中央政府の派遣に係り、任期は三年。学政ともいい、また俗に学台という。

[6]原文「生監冊」。とりあえずこのように訳す。

[7]命令をつたえる官。

[8]見回り。

[9]柳子戯ともいう。山東の地方劇で、演奏に弦楽器を多用。

[10]河南・山東・山西一帯で上演される地方劇。

[11]羅羅腔のことと思われる。山西北部・河北の一部に流布している地方劇。

[12]笛を伴奏に使用する地方劇の一種と思われるが未詳。

[13]地方劇の一種と思われるが未詳。嗩吶はチャルメラのことで、伴奏にチャルメラを使う劇と思われる。

[14]地方劇の一種と思われるが未詳。

[15]梆子戯・羅羅腔・卷戯を上演することができる劇団。

[16]簡単な演技。

[17]最後尾の槍の儀仗。

[18]紗の上に絨を植えて模様を刺繍したもの。

[19]舞台の退場門。

[20]布政司・按察司と道台。

[21]清代の官。河川堤防を司る官。

[22]河道の役所の下役。

[23] 『六部成語』工部・遥堤注解に「河を隔てること遥遠なる堤防なり」とある。

[24]河道の属官管河同知もしくは通判のこと。同知・通判の官署を「庁」と称する。

[25]唐代の名族。『西廂記』の主人公の崔鶯鶯は博陵崔氏、彼女の母は鄭氏。

[26] 『書経』夏書・胤征に典故がある言葉。「玉が焼かれる」。「玉」は崔鶯鶯を譬える。

[27]崔鶯鶯は相国の娘。

[28] 『西廂記』では、主人公の張生が普済寺で賊にかこまれた崔鶯鶯を救うため、友人の白馬将軍に手紙を書き、賊を追い払ってもらう一節がある。

[29] 『西廂記』の登場人物。字は伯常。礼部尚書の子。ヒロイン崔鶯鶯の婚約者で、主人公の張生と鶯鶯を争って敗れる。

[30]宗廟儀礼を司る官。太常卿。

[31]典拠未詳。『鶯鶯伝』の主人公崔鶯鶯の父崔相国のモデルに関しては、博陵の崔鵬であるとする説があるが、彼の三人の子が高官となったという記録はない。

[32]都にいる地方長官が、印刷して諸藩に配る官報。

[33]香木で作った数珠。

[34] 「偉い役人が出てきて調査を行えば」の意。

[35] 『論語』季子。「孔子曰『侍於君子有三愆。言未及之而言謂之躁、言及之而不言謂之隱、未見顏色而言謂之瞽』。(「君子のおそばにいて、三種の過ちがある。まだいうべきでないのにいうのはがさつといい、いうべきなのにいわないのは隠すといい、顔付きもみないで話すのをめくらという」)

[36] ここでは、「余計なことをいっってしまったと思うしかありませんでした」ということ。

[37]門番小屋。

[38]塩商の鑑札。

[39]清代、地方から徴収して京師に輸漕する米豆。

[40]布政使の補佐官。

[41]受付け。

[42]本業に従事せず、損害を受けることの譬え。『荘子』駢拇に出てくる言葉。

[43]明、清の制度で、科挙の第一試である郷試に合格しても、挙人の員数に制限があるため、挙人の資格を与えられないもの。その中から国子監に入るものを副榜貢生、略して副貢生、又、副貢、副車という。

[44]河南省開封府。

[45]後漢の文字学者。『後漢書』巻百九に伝がある。

[46]河南省鄭州。

[47]後漢の学者。『後漢書』巻百九に伝がある。

[48] 『左氏伝』の別名。『左氏伝』の最後の句が「西狩獲麟」なのでこういう。麟史とも。

[49]河南省帰徳府。

[50]江淹。『梁書』巻十四に伝がある。

[51]河南省懐慶府。

[52]韓愈。『新唐書』巻百七十六に伝がある。

[53]河南省懐慶府。

[54]李商隠。『新唐書』巻二百三に伝がある。

[55]河南省彰徳府。

[56]韓g。宋代の政治家。『宋史』巻三百十二に伝がある。

[57]邵雍。宋代の易学者。『宋史』巻四百二十七に伝がある。

[58]邵雍の詩集。全二十巻。

[59] 『小学』『孝経』ともに子弟の必読書。

[60] 「孝行な者が家を開き、代々家を守り、家は光り輝いている。長く血筋を継承し、家を大きくし、子孫に財産を残す」。

[61]学校の名簿。

[62] 『書』大禹謨。「威力をもって人民を正す」。

[63]原文「不可逗留給燭」。

[64] 「頭児」は下役への尊称。

[65]原文「引錐刺股」。蘇秦が秦に遊説して失敗して戻ってきた後、発奮して読書し、眠たくなると錐で腿を刺したという故事に因む言葉。『戦国策』秦策「(蘇秦)讀書欲睡、引錐自刺其股、血流至足」。

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