第九十回 

譚紹衣が問題を出して教訓を含ませること

程嵩淑が本を見て正論を述べること

 

 さて、譚紹衣が観風をしようとしたのは、譚紹聞とその子に会いたいと密かに思っていたからですが、実際には、彼は、観風のときに、譚紹聞たちを暗に教育してやろうと思っていました。

 観風の一日前、轅門には薬玉が掛けられ、大広間には提灯が掛けられ、下役は居並び、属官は恭しく仕事をしていました。夜明けになりますと、童生たちは、轅門に集まって待機し、役所の東の茶店で、茶を啜り、餅を食べながら、門が開くのを待ちました。最初の太鼓と笛が鳴りますと、書吏、下役が続々とやってきて、役所に入りました。二度目の太鼓と笛が鳴りますと、府学の教授、訓導、県学の教諭、訓導が、轅門の中で馬からおり、官服をつけ、ぞろぞろと一列になって中に入りました。三度目の太鼓と笛が鳴りますと、かすかに雲板が響き、皀役が点呼をする声が聞こえました。童生たちは筆と墨、硯、文鎮、手巾をもち、一かたまりになって待機しました。大堂の太鼓が鳴り響き、威厳のある声が聞こえますと、腰に結んだ鎖がほどかれて地面におちる音がして、二枚の金の兜に銀の鎧をつけた大将軍[1]が、東と西へ動きました。門の(くるる)の音は、雷のようでした。二人の県学の生員が、飛ぶように門の左へ走ってきて点呼を行い、二人の府学の生員は、大広間の柱のもとで問題を配りました。暖閣の入り口の赤い幔幕が斜めに掲げられ、蝋燭が明るく燃え、真ん中には風格のある、立派な顔をした大臣が腰を掛けました。

 点呼と問題配布が終わりますと、四人の教官が、童生たちを引き連れて、暖閣の裏から入ってきました。東側には花壇と、三つの梁のある五間の大広間があり、真ん中の大きな額には、「桐蔭閣」という三つの太い文字が書かれていました。東側の五間の陪庁には、漢の八分[2]の書体で「来鳳」二字の額が掛けられていました。中庭の一本の桐の古木は、樹齢三百年以上のもののようでした。南の塀の脇の太湖石は、高さが一丈余り、皺があり、細くごつごつとして、まん中には幾つも空洞が開き、穴だらけでした。外側はでこぼこで、たとえようもない形をしていました。軒の柱には「奇石は笏に当てるに堪え、古桐は弦を受けんと欲す」[3]という、木彫りの一対の聯が掛かっており、字には力が籠っていました。庭は湿った緑色の苔でびっしりと覆われており、その他には花や草はありませんでした。静かな風景をみますと、童生たちには文章を作ろうという気持ちがわきおこり、早くも正しい心が生じました。

 遠くから点呼の声が聞こえ、道台が大堂から退いたようでした。間もなく、二人の府学の生員が、赤い単帖をもってきて

「道台さま直筆の問題です。生員は『「君子重からざれば則ち威あらず」[4]全章』、童生は『因ることその親を失わざれば、亦た(たつと)ぶべきなり』[5]です」

さらに言いました。

「道台さまのご命令で、詩賦策論の問題が、間もなく届きます」

童生たちは布を敷き、硯に水を差し、墨をすり、筆を湿らせ、書くのが速い者は、すでに破題、承題、起講を書いていました、深く構想を練る者は、まだじっと精神統一をしていました。二人の県学の先生は、料理人やお茶汲みに命じて、点心と熱い茶を送らせました。

 辰の刻から巳の刻にかけて、二人の府学の先生が、楷書が八九行書かれた白い紙を一枚もってきて、言いました。

「皆さん、詩、賦、策、論の問題を御覧ください」

人々は筆を置き、見に集まりました。詩の問題は『「寸草三春暉[6]」を賦得[7]して春の字を韻とせよ』というもので、五言六韻でした。賦の問題は『一簣もて山を為す賦』[8]で、「終始を念じ、学に(つね)なる」[9]を韻とするものでした。策の問題は「揚子雲[10]は『太玄経』を作ったが、識者はこの書が『繋辞』をまねて作られているのでこれを非難した、王文中通[11]は『中説』を作ったが、識者はこの書が『論語』をまねて作られていたのでこれを非難した、馬季長融[12]が『忠経』を作ったときは、章を分けたり、古典を引用したりするとき、すべて『孝経』にならったが[13]、それを非難する人は少なかった、忠の理と孝の理は、同じものではあるまい。思うに扶風[14]のしたことには、少しも非難するべきところはないが、『忠経』『孝経』は、同列のものなのか。諸君は今は家庭にいるが、後日、陛下にお仕えし、必ずや国家から重責を任されるであろう。各自の見識によって、文章にして詳述せよ』。論の問題は『小児を教うるにまず安祥恭敬なるを要す』[15]というものでした。童生たちはみな問題が正統的だといって称え、十分な答案を書けないことを恐れました。しかし、紹聞だけは、心の中で、

「策の問題は明らかに父の(いみな)(あざな)に基くものだ[16]。譚孝衣さんが父の名の意味を私に教えてくれているのだ」

簣初は心の中で思いました。

「『一簣山を為す』という賦の問題には、七八割方、僕を教育する気持ちが込められているに違いない」

人々はそれぞれ文を作りました。紹聞は四書の問題の答案を書き終えますと、『忠経』に関する策を作りましたが、「父に事ふるに資りて以て君に事ふ」[17]を論拠としました。簣初は四書の問題の答案を書き終えますと、『小学』論を書くときは、「能く敬へば必ず徳有り」[18]を主題にしました。

 午の刻になりますと、脇の広間には十のテ─ブルが設けられ、各テ─ブルには六人が座りました。豊かでつつましやかな、ス─プや酒が並べられた宴席でした。未の刻に答案が提出され、四人の先生はそれを受けとりました。道台は二堂[19]に腰を掛け、先生は生員、童生たちを連れてきて拱手をし、宴席への感謝をのべました。先ほどの点呼の時、道台は、譚紹聞とその子を見ていましたが、一二割方心が慰められていました。そして、この時になりますと、じっくり彼らの様子を見て、少し話をしようとしました。すると、高い冠、四角い履物、襴衫、幅の広い帯をつけた、五十歳以上の秀才が、手に二冊の本をもち、深々と地を払うような揖をして言いました。

「今日のように、道台さまが私たちに目を掛けて下さるということは、めったにないことです」

道台

「どうぞこちらへきてお話しをなさってください。失礼かもしれませんが」

秀才

「一言申し上げたいことがございます。これは私の詩稿です。三、四、五言の古詩は、すべて漢や魏の詩をまねたものですし、五律七律は、単に数を揃えただけのものです。しかし、その中で、楽府三十章には、かなり見るべきものがありますので、道台さまに序文を書いていただき、出版しようと思っております」

道台は笑って、

「私は帖括[20]を少し勉強して、さいわい科挙に合格しましたが、今ではたくさんの書類に囲まれ、船や車であちこちを駆け回り、学問はすっかりおざなりになっています。あなたのご大作は、とりあえず役所に保管し、暇な時にじっくり吟唱させて頂きましょう」

「どうか序文をお書きください」

道台は笑って

「あなたの驥尾に付したいのはやまやまですが、仏さまの頭にみだりに加える訳にはまいりません[21]

「詩文の原稿の序は、進士に及第された方に書いて頂かないと、格好がつかないのです」

 道台は、口では話をしながら、目では簣初をじっと見ていました。そして、生員、童生が帰りたそうにしているのをみますと、門を開くように命じました。雲板が三回鳴りますと、人々は座席を離れて大広間に行きました。詰め所からは怖そうな皀隷が何人かでてきて、何度も叫びました。四人の学士は生員、童生を連れて、暖閣の東から月台にまわりました。ゴトゴトと門が開けられますと、生員、童生たちは押し合いながら退出しました。夏鼎は石の獅子の東側で譚紹聞たちと会おうとしましたが、近寄ることはできませんでした。

 生員、童生たちは東の轅門を出ますと、街を通って別々の路地へ行きました。中に四五人の酒好きがいて、連れだって留珮楼にゆきますと、ボーイを呼び、巻白波[22]をして楽しむことにしました。そして、座席を一つ選んで、四方に腰をかけ、杯をとり、豆をつまみ、瓜子児をかじりながら、話を始めました。一人が

「いい道台さまだったね」

といいますと、もう一人が

「いい問題だった」

と言いました。やがて、詩稿を提出した秀才の話になりました。

ある男

「あの人が城内の人か城外の人か、僕はまったく知らないが」

別の男

「城内でも城外でもないが、僕はあの人のことをよく知っている。あの人は北の関所のところに住んでいて、姓は謝、名は経圻、別号は梅坡というんだ。張宗師の試験で学校に入った。うちの伯父と同案だ。あの人は、秀才で二十年間試験を受けているが、二等になったり三等になったりしていた。しかし、どうしたわけか、今度は一等第二名に合格したんだ。彼は、五十歳で廩生になったので、自分では大器晩成だと思っている。普段は下手糞な詩を幾つか作っているが、世の中の人間がみんな役に立たなくなった時に自分が役に立つだろうと考えている。さらに、『字彙』[23]で幾つかの画数の多い字を調べ、自分の詩に使い、自分が博学だと自慢しているんだ。勝手にさせておけばいい。あの人は家が貧乏で、文筆に頼って飯を食っている。これも秀才の芸のうちだがね。だが、あの人には二つの珍しい癖があるんだ。一つは不動産を売買すること、一つは仲人をすることだ。不動産売買をすれば、幾らかの仲買利益がもらえるのだろうから、下賤なこととはいえ、意味のないことではない。しかし、勉強を教える者が仲人になるのは、おかしなことだ。縁結びは大事なことだが、あの人は学生のくせに、自分のことを仲人だと思っているんだ。男の家が女の事を尋ねると、あの人は、女がずば抜けて美しかったというし、女の家で学生のことを尋ねると、あの人は、男が自分の弟子だと言ったり、自分が勉強を教えたことがあると言ったりするんだ。そして、ちょっと話しをしただけで、会親[24]の場で首席に座れると思っているんだ。あの人はこの癖を、決して改めようとしない。ところが、昨年、県庁で裁判沙汰になった。城外で二つの家が縁結びしたが─あの人が媒酌をしたものだ─最近、男がかたわになったので、女の家で結婚を取り消そうとしたんだ。男の家では承知せず、役所に訴え出た、男の家では仲人を証人にした。女の家では訴状を書き、あの人は縁談をもちかけただけで、自分の家では承知してはいなかったといった。県知事は庚帖を出すようにといったが、男の家では庚帖をもってくることができなかった。男の家ではあの人が仕事をきちんとしていなかったことを恨み、女の家では、あの人を嘘つきだと罵った。県知事はあの人を叱り付け、城中の人が笑いの種にした。この事件は、今も結審していない。男の家では静かに待って相手にしないし、女の家でもほかの家に縁談をもちかけることができない。これは人様の家の子弟を手間取らせること甚だしいというものだ。僕はあの人とちょっとした親戚関係があって、昨日、あの人の学堂にいったが、座右に赤い札が貼ってあって、『大冰台[25]梅翁老表叔老先生大人』と書いてあった。これはあの人が来月の六日に結婚式に赴くための目印なんだよ」

もう一人が言いました。

「今日は、道台は何かに気をとられていたようだ。公務が気掛かりだったのか、私事が気掛かりだったのか分からなかったがね。あの人が詩稿を提出したとき、道台は不愉快そうな顔をし、曖昧な受け答えをして、すぐにあの人を避けようとした。しかし、あの人はしつこくまとわりついていた。僕は体がむずむずしたよ。あの人が身のほどを弁えていなかったものだから、道台は伝点[26]を命じて、他の人まで一緒に追い出されてしまったよ」

 話していますと、一人の下役が酒楼にやってきて、尋ねました、

「謝さんはこちらにいらっしゃいますか」

人々

「もう行ってしまいました」

下役

「これは謝さんの本です。役所からもってまいりました」

下役はテーブルの上に置きますと、楼を降りて行きました。人々

「それみたことか」

人々は酒代を払いましたが、何本も酒を飲んだので、まだ三十文足りませんでした。人々は笑って、

「謝梅坡の詩稿を、質種にしてはどうだい」

ボーイ

「まだ三百文足りませんが、私たちがお負けしておきましょう。この本は、頂くわけにはまいりません」

「ここに置いておいて、日を改めて取りにくるよ」

「それでしたら、結構です」

人々は大笑いし、楼を降りて行きました。

 口が悪い人は、諂ってこう言っています

文書けば醤油の壺の覆ひ紙、

詩を書けば酒甕の覆ひ紙。

後日ふたたびこの地に来れば、

詩の句は酒のつまみとならん。

 無駄話しはこのくらいに致します。さて、紹聞は観風から帰りますと、今日道台が出した問題は、自分たち父子のために作られたようだと思いました。そして、点呼のとき、道台が視線を自分たちに注ぎ、何かを言おうとしていたようだと思いました。しかし、勝手な想像をするわけにもゆかず、興官児をつれて、書斎で勉強に励みました。

 次の日になりますと、門のところでせわしなく呼ぶ声がしました。紹聞は聞こえないふりをすることができなくなりました。門の隙間には赤い全帖が押し込んでありましたので、帖子を引き抜いて見てみますと、羊、豚、鶏、魚四種類の生臭物、白菜、蓮、竹の子、ほうれんそうなどの四種類の旬の野菜の名が書かれており、「年家眷弟王紫泥、張縄祖(とも)に頓首して拝す」と書かれていました。門の外では、

「盒子はもうおうちの中に運びました。門を開けてください」

と叫ぶ声がしました。紹聞は断ることができず、仕方なく鍵を塀の外になげました。張縄祖は鍵を開け、王紫泥は門を開けました。二人は中に入ってきますと、手を引っ張り、それを振って、ハハと笑いながら、

「念修さん、おめでとうございます。おめでとうございます」

 書斎に入って挨拶をしますと、紹聞は席を進めました。そもそも部屋の中には二つの椅子と、洗面器をおくための腰掛けが置かれているだけでしたので、三人が腰をかけ、簣初は立っていなければなりませんでした。紹聞も息子に拱手をさせました、二人は褒めました、

「立派なお子さんですね」

紹聞は外で本を読むように命じました。簣初は命令を受けると出てゆきました─実は紹聞の家のテーブルと椅子は、まだ質屋が使っていたため、請け戻していなかったのでした。簣初が典籍をよむ声は、張、王の二人には耳障りでした。しかし、彼らは本を読むのをやめろともいえませんでしたので、少し時候の挨拶をしますと、言いました。

「念修さんは、県試で首席になられました、今度の郷試では、必ず合格されるでしょうし。息子さんも必ず学校に入られるでしょう。父子で合格されるのは間違いなしです。これは、友人としてとても嬉しいことです」

「私は案首になったこともありますが、郷試には合格せず、今では年をとってしまいました。必ずしもうまくゆくとは限らないでしょう。息子は乳臭さが抜けず、『四書』もまだ読み終わっておらず、合格の見込みなどございません。お二人とも、とにかくお座りください。家に戻って茶を出すようにいってまいりますから」

王紫泥

「結構です。結構です」

紹聞は立ち上がりますと、出てゆきました。彼は、家に戻って二人の礼物を見て、昼に彼らをどのようにもてなすか、客を座らせる場所が他にないかを、考えようと思ったのでした。

 張縄祖は、仕方なく座っていました。王紫泥は中庭にでますと、簣初が立ち上がりました。王紫泥は簣初の本を受け取りますと、指差して、

「私は、この『名を好む人』の一節[27]の試験を受けたことがあります。これは孟子の教えです。同じ号房にいた張類村先生が、人をだます事はできないという意味だといっていたのをおぼえています。よく勉強なさってください」

 紹聞は、家に戻りますと、客をもてなすための料理と酒を用意しました。彼は、二人によって、ふたたび悪の道に引き込まれることを恐れていましたが、彼らが礼物をもってきた以上、何もしてやらない訳にもゆきませんでした。しかし、二人がなぜ来たのかはどうしても分かりませんでした。彼らは、以前のように賭けに誘いにきたのでもありませんでした。実は、彼らには差し迫った事情があったのです。王紫泥は年をとり、生員をやめ、家には使うお金もありませんでしたので、息子のために看板を出し、「公営代書王学箕」と書いて、門に暖簾を垂らしました。彼は、部屋の中に三四の座席を設け、城外の結婚をしたり財産をもっている者が、役所への承諾書、保証書を書いたり、申告をする者、告訴をする者、保証人になる者、自ら限状[28]を渡す者がきたりするのを待っていました。そして、一本の先端の柔らかい槍で、誰それと代書して、印を押し、墨を使っては、米や野菜を買っていたのでした。張縄祖は先祖の財産をすっかりなくしてしまいましたし、すでに年をとっていましたので、賭けや女郎買いをする場所に行くことも、籠ることもできませんでした。彼は毎日何をして食っていたのでしょうか。彼は、昔土地を売った時の買い主をだますことに頼っていたのでした。彼は、昔、誰それが自分の田地を買ったときに長さをごまかし、自分の土地を三十畝多めに測量したといって訴えたり、誰それが自分の家を買い、当時、複利計算を認めたが、彼から銀子をもらっていない、彼は私の家屋敷を奪ったといって訴えたりしました。また、人様の客間に行き、この家はきちんと契約書をとりかわし、十分な値段であなたの家に売った、私はあなたを騙してはいない、しかし私の家は進士で、役人になったことがある、私はあなたに家を売ってやったが、脊獣[29]を売ってはいない、あなたの家は庶民で、あなたが家に住むのは許されるが、あなたの家に脊獣をおくことは許されない、わたしは脊獣を移動しなければならない、といったり、よその家の牛馬を彼の家にひいてゆき、その人に返さず、私の家の墓地には、蛟龍碑[30]がある、あなたが家畜を放牧して踏み付けさせるのは許せない、ご公儀にあなたをひっぱっていってもらおう、といったりもしました。仲裁に百両、五十両かかったり、詫び入れに十両、八両かかったり、三百銭、五百銭でかたがついたりすることもありました。この二人が今回やってきたのは、どうしてでしょうか。張縄祖は城外の富豪を、さんざんだましていました。しかし、孟獲が七回放免されても、孔明はさらに八回とらえる[31]ものです。同じ村の人々はとても怒り、被害を受けた者は切羽詰まりました。そして、譚道台が赴任しますと、彼が情に流されず、賄賂を受けず、清廉潔白だという評判が、省城に知れ渡っていましたので、この富豪は直訴状を提出し、張縄祖は弱い者を何度もだましている、王紫泥は訴訟を唆して金を山分けしていると訴えたのでした。道台は厳しい裁決をする人でしたから、二人はびっくりして一晩中眠れなくなってしまいました。ところが夏鼎が情報を送ってきました。

「先日、観風のとき、譚紹聞が奥の部屋によばれ、宴席でもてなされ、興相公が文房具代二十両をもらったのをこの目でみたよ。譚紹聞が奥の建物に入って君のためにとりなせば、罪が軽くなるかも知れないよ」

ですから、張、王の二人は、紹聞が県試で案首になり、父子で優等となりますと、贈り物を整え、紹聞が間に立って執り成しをし、県庁に裁決をしてもらうことを望んだのでした。県庁の書吏や下役には、彼らは前々から付け届けをしていましたから、怖くはなかったのでした。以上が二人がお祝いを言いにきた内情なのです。

 さて、紹聞は家に戻って昼飯を準備しますと、双慶児に茶をもってこさせ、茶をついでさしだしました。紹聞

「双慶児、お前は台所へ戻って、手伝いをしてくれ」

さらに簣初も一緒に帰らせました。「一日蛇に噛まれれば、十年縄を恐れる」とはこのことでした。ところが、双慶児は、書斎から出ますと、突然駆け戻ってきて、いいました。

「程さま、蘇さまがこられました」

紹聞はお辞儀をして迎えました。蘇霖臣は手に四冊の新しい本を持っていました。書斎に入りますと、一同は挨拶をしました。簣初は二人の老先生が入ってきたのをみますと、ふたたび戻ってきて、うやうやしく挨拶をしました。紹聞は席を勧めましたが、三つの座席しかありませんでしたので、人々はしばらく立ったままでした。紹聞は急いで双慶児を家に戻らせ、二つの長い腰掛けをもってこさせました。

 張、王の二人は、考えていることを話さぬうちに、気分がくさくさしてきました。そもそも小人が正しい人に会いますと、二通りの顔をするものです。彼らは羽振りがいいときは、傲慢で、言葉は乱暴になり、正人が同席するのを嫌がります。しかし、落ち目のときは、びくびくした顔つきをし、風体は薄汚いので、自分から去っていこうとするものです。張、王の二人は、程、蘇の二人と同じ城に住んでいましたが、街で会っても拱手をするだけで、言葉はかわさない間柄でした。そして、今日は香草と臭い草が同席しているようなものでしたので、一刻もとどまりたくはありませんでした。それに衣服はぼろぼろで、絹や緞子とはいえ、ボタンは落ち、裂け目につぎはぎがしてありましたので、自分でも少し格好が悪いと思っていました。程、蘇の二人は、木綿の服でしたが、新しくてきちんとしており、たいへん優雅に見えました。張、王の二人は、別れを告げて去ろうとしました。紹聞は椅子と腰掛けが揃ったのを見ますと、祝いの品へのお礼をするために、彼らを引きとめ、放そうとしませんでした。張縄祖

「念修さん、外にきてください、あなたに一言お話しすることがあります」 紹聞が書斎を出ますと、王紫泥も出てきました。張縄祖が紹聞にむかってこそこそと話しをしますと、紹聞は張縄祖を引き止めずに、西蓬壺館まで送りました。紹聞が野菜、肉、茶、酒を注文しますと、張縄祖

「譚さんが注文をされる必要はありません。私たちが食べ物、飲み物を選んで飲み食い致しますから、明日、お金を払われてください。大して出費はさせませんから」

紹聞は、鳶は鳳凰と一緒にいたくないのだ、ねこじゃらしは立派な稲と一緒になることはできないのだ、自分も双方のために気を遣わなくてすむ、と思ったので、拱手すると書斎に戻りました。

 書斎に戻りますと、テーブルの上には四冊の新しい本があり、二人の老先生が息子簣初と話をしていました。紹聞は腰掛けに座り、簣初は下座の腰掛けに移っていました。蘇霖臣

「簣初、おまえはいい子だ。試験でもいい成績をとったな」

程嵩淑

「子供と話すときは、決して褒めてはいけません。大成する者は褒めれば褒めるほど謹み深くなりますが、小成する者は褒めれば褒めるほどいい気になります。十四五歳で、県試に合格するなど、あたりまえの事です。礼部の門前で合格発表がされたわけではありませんし、礼部の門前で合格発表される者[32]の中には、二十歳前後の者が、少なくありません。珍らしがるほどのことではありません。また、礼部の門前で有名になったとしても、名に実が備わっていなければなりません。宦官におもねったり、権勢をたのんで賄賂を受けとるようでは、立派な進士とはいえません。例えば、この祥符で最も仲良くしていた友人は、五七人いました。戚さんは進士に合格し、翰林院にはいられ、今は京師にいて、毎日書籍を買い、研究に専念されているそうですが、あの方は立派な秀才と言えるでしょう。婁さんは進士に合格されてから、山東で役人をされ、行く先々で金を惜しまず、心から人民の事を考え、行かれた所には祠堂が建てられています。あの人も立派な秀才といえます。譚孝移さんは抜貢生になり、賢良方正に推挙されましたが、『賢良方正』の四文字に相応しい人でしたから、立派な士人だったと言えましょう。類村さんは、歳貢生なのに、『陰隲』の二字を説き、人に善行を勧めてばかりいます。あの人はその老婆心から、士人であるということができます。残りは私たち二人ですが、私は今まであなたのことを私には及ばない人だと思っていました。心掛けの誠実さでは、私たち二人は同じですが、私はあなたよりずけずけものをいい、しばしば他人を怒らせます。私のちょっとした言葉で、災難に遭わなくてすむ人もいるのです。私は是々非々の態度をとる人間だといえるでしょう。私は今まであなたのことをはいと言わない、ただの謹厳な学者だと思ってきました。先日、あなたが私にこの本を送ってきて、あなたが世の中を良くしようという心をもたれ、ほぼ二十年間、密かに努力をされていたことが分かりました。『孝経』を、あなたは通俗的で卑近な物語に書き上げられましたが、その物語は、五尺の童子でも、字さえ知っていれば、読む事ができ、一句読むごとに深く考えることでしょう。該博で高雅な文章を書けば、老学者たちの賞賛を受けることができますが、それはむしろ簡単なことなのです。天地を明察した聖人の道理を、通俗的で卑近な物語にし、女子供でも簡単に分かるようにされたのは、得難いことです」

蘇霖臣

「後の二冊に載せられた二百四十三人の孝子の話しは、経史と先賢の文集や雑著を書き写したもので、一字の増減もしていないので、信頼がおけます。そして、孝行一つにつき、挿絵を一つつけてあります。この城内の老画家が描いたものです。彼は一文の銭も求めず、食事もいらないから、仕事を手伝いたいといいました」

程嵩淑

「それは大変良いことです。古人は本の左に図を右に歴史をのせたといいますが[33]、本来そうするべきなのです。そのご老人のように深い見識をもち、お金を欲しがらなかったのは、得難い事です。人の性はみな善という、聖人の言葉は嘘ではありません。しかし、坊刻の小説、『金瓶梅』などは、淫を宣揚する書です。あれは自分の経験した事や、やりたいと思ったことを書いただけのもので、秘戯の図を描き、天下の若者をだめにしているのです。『水滸伝』は乱をとなえる書です。反逆する賊に、『天に替わりて道を行う』[34]の四文字をかぶせ、愚民たちは、盛り場で晒し首になるような賊を、英雄豪傑だと思ってしまうのです。この害は大きなものです。ですから、作者の子孫は、三代おしになりましたが[35]、君子は、罪の報いはまだ十分ではないと思っているのです。あなたのこの本は、天下の元気[36]を養うものです。天の善人への報いで、あなたの家は五代以上にわたって栄えることでしょう」

蘇霖臣

「『金瓶梅』『水滸伝』は、私は読んだことはありませんが、人々が、筆力や構成が、『左伝』や『史記』に匹敵すると言っているのを聞いたことがあります」

程嵩淑は笑って

「『左伝』『史記』を理解することができないうちに、『金瓶梅』を読んではいけません。また、『左伝』『史記』に通じれば、『金瓶梅』を読む必要はありません。ただそれだけのことです。『金瓶梅』は、あなたのこの本には及びませんよ」

 まもなく、双慶児がテーブルを拭き、蔡湘が盆と椀を捧げもってやってきました。酒と箸が出され、程、蘇の二人の先生が首席につき、紹聞が下座につき、簣初は隅に座り、質問を受けるとすぐに答え、必ず敬意をもって返事をしました。程嵩淑はじっと簣初をみますと、思わず感嘆して、

「素晴らしい子供だ」

蘇霖臣

「あなたまで、どうして褒められるのです」

程嵩淑はうなずいて、

「本当に素晴らしいことではありませんか。孝移さんの生まれ変わりのようです。お祝いにもう一杯飲みましょう」

酒を飲んで興がのりますと、さらに簣初にむかって言いました。

「私はお前を見ていると楽しくてたまらぬ。おまえには、挙人に合格し、進士、大官となり、家では孝子に、国では忠臣、おまえのお祖父さんの名[37]と字[38]にぴったりの人物になってもらいたいものだ」

そして、霖臣の方をふりむき

「私がいう孝とは、世俗の愚かな学者のいう、臥氷、割股、啗蚊[39]、埋児[40]の話しのように、恐ろしく、嫌なものではありません。割股、啗蚊、埋児のようなぞっとする話しはさておき、例えば、王祥が鯉を手に入れた話しは、史書の記載によれば、氷を割っていたらちょうど氷が解けたもので、横たわって手に入れたものではありません。裸で横たわって魚を得ようとすれば、凍死してしまい、孝とはいえません。要するに、孝の理はきわめて大きなものですが、孝の行いは難しいものではないのです。恭しくすることが孝であり、傲慢は孝ではないのです。まじめであることが孝であり、嘘をつくのは孝ではないのです。恭しくまじめで福をあつめるのが、孝であり、傲慢で嘘をつき災いを受けるのが、不孝なのです。私は年をとったのに功名もならず、貢生ではありますが、ただの歳貢のかしらに過ぎません。息子もただの秀才で、『敬を主として誠を存する』[41]という理学の話ばかりして、人から面とむかって嫌がられたり、陰で野暮だといって笑われたりするのは嫌だと思っています。しかし、しっかりと経験をつみ、真実を見極めていさえすれば、天下の人にそっぽをむかれることはないのです。わが城内で、私たち五六人は、幼いときから交際をしましたが、実に真面目な間柄で、帖子を交換したり、飲み食いをしたりして遊びあうような間柄ではありませんでした。今日、息子さんが正しい道を歩まれ、品格気質ともに優れていらっしゃるのをみて、まるで私に跡取りがうまれたかのような気分です」

蘇霖臣はうなずいて

「これは、私たち老人のいつわらざる気持ちです」

 程嵩淑は酒を飲んで話に興が乗り、話に興が乗ると酒もすすみ、酔っ払いますと、蘇霖臣に向かって言いました。

「私は酔っ払ってしまいましたから、帰ることにしましょう」

蘇霖臣

「試験が近いから、彼らの勉強を邪魔するわけにはゆきません。彼らは試験場に入ったら、話しではなく文章を書かなければならないのですからね」

程嵩淑は笑って

「彼らは私の話したことを書きはしないでしょうが、私が話した理を書くことでしょう」

と言いながら立ち上がりました。紹聞父子は後から送りました。

蘇霖臣

「簣初は門まで送ってくれればいい。それ以上ついてきてはいけない。戻るのだ」

 紹聞は胡同の入り口まで送って戻ってきますと、西蓬壺館に張、王の二人の様子を見にゆきました。店に入って尋ねますと、会計が言いました。

「さっさと帰られました。これは彼ら二人が自分で書いた勘定書きです、百二十文です」

「何ももてなすことができなかった。彼らは何も食べていないね」

「四つの小皿の料理、二椀の麺、酒一瓶を全部飲まずに、行ってしまわれました」

まさに、

訴訟とならば人々は呼び出しを食らふを恐れり、

坊ちやんや秀才は胆が小さし。

昔は女郎買ひ、賭博をせしも、

今では蓬島、方壺[42]に変はれり。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]門のことを譬える。

[2]後漢時代の隷書。曹全碑などの書体。(曹全碑を見る)

[3] 「奇怪な形をした石は笏にすることができ、桐の古木は弦をつけて琴にすることができる。」。

[4] 「君子は厳正でなければ威厳がない。」。『論語』学而。

[5] 『論語』学而。「人に頼るとき、親しむべき人を間違えなければ、その人にしたがって良い。」。

[6]孟郊『遊子吟』「誰言寸草心、報得三春暉。」。

[7]古人の詩句を題にして詩を作ること。

[8] 『論語』子罕。「子曰、譬如為山、未成一簣、止吾止也。」(先生がいわれた、例えば山を造ろうとするとき、あと一もっこというところを完成しないのも、その止めたのは自分が止めたのである)に因んだ賦題。

[9] 『尚書』説命。「始終学ぶことを考える。」。

[10]揚雄。前漢の学者。『漢書』巻八十七に伝がある。

[11]隋の学者。『新唐書』巻百六十四に伝がある。『中説』は彼の著書で、『文中子』ともいう。

[12]馬融。後漢の学者。『孝経』『論語』などに注をつけた。『後漢書』巻九十上に伝がある。

[13] 『孝経』も『忠経』も十八章に分けられている。また、『孝経』、『忠経』ともに章の最後で『詩経』『書経』などの古典を引用する体裁をとっている。

[14]馬融のこと。彼が扶風茂陵の人だったことからいう。

[15] 『小学』外篇・嘉言。「子供を教育するときはまず落ち着いて恭しくさせることが重要である。」。

[16] 『孝経』広揚名「君子之事親、故忠可於君。」(君子が親に仕えるとき孝であれば、孝を尽くすことを君主に忠を尽くすことに移行させることができる)。

[17] 『礼記』喪服四制。「父親に仕えるときのことを拠り所として君主に仕える。」。

[18] 『左伝』僖公三十三年。「恭しい態度をとることができれば必ず徳がつく。」。

[19]役所の大堂の奥の事務を行う建物。

[20]経書の中の難語句を拾い集め、歌のように暗記しやすい形に纏めた本。

[21]原文は「但不敢妄加仏頭。」。「仏頭着糞」─仏さまの頭に糞をつける、良いものの上に悪いものをつける─という言葉があり、道台の言葉は、糞という言葉を使うのを憚ったもの。言いたいことは、「あなたの立派な詩集に私の下手な序文を書くわけには参りません。」ということ。

[22]酒令の一種。

[23]明の梅膺祚編著。『康煕字典』が出る前には広く流伝した。

[24]結婚後、男女が双方の親戚を集め、顔合わせする儀式。葉大兵等主編『中国風俗辞典』百二十九頁参照。

[25]仲人に対する敬称。

[26]雲板を撃って人を呼ぶこと。

[27] 『孟子』尽心下「孟子曰『好名之人、能譲千乗之国』(不朽の名を好むものは千乗の国をもなげだす)。

[28]期日を定めて任務完成を保証する文書。

[29]役人の家の母屋の上に置かれた装飾物。

[30]蛟龍が刻まれた石碑。封誥を受けた人の墓にのみ立てることができる。

[31] 「何度も悪いことをしても必ず捕まる。」の意。

[32]進士のこと。

[33]原文「古人左図右史。」。出典未詳。

[34]原文「替天行道。」。

[35] 『水滸伝』の作者羅貫中が盗賊を描く小説を作った報いで子孫三代にわたっておしになったという話は『委巷叢談』に見える。「銭塘羅貫中本者南宋時人、編撰小説数十種、而『水滸伝』叙宋江等事、奸盗脱騙機会甚詳、然変詐百端、壊人心術。其子孫三代皆唖、天道好還之報如此。」。

[36]天地がわかれる前の混沌の気。

[37]孝移。この名は、『孝経』広揚名「君子之事親、故忠可於君。」に由来する。親孝行をする気持ちを、君主に仕える気持ちに移行させること。

[38]忠弼。忠実な臣下ということ。

[39]夏、息子が父母の寝台の下に伏し、蚊が父母にたからないようにした故事。晋の呉猛が行ったという。『孝子伝』「呉猛年七歳時、夏日伏於親牀下、恐蚊虻及父母。」。

[40]後漢の郭巨が、子供を養うと親に孝養を尽くすことができなくなるので、子供を埋めようとしたところ、土の中から黄金を得たという故事。『孝子伝』「郭巨河内温人也。妻生男、謀曰養子則不得営業、妨於供養、当殺而埋焉。鍤入地有黄金一釜、上有鉄券曰『黄金一釜、賜孝子郭巨』。」。

[41]宋の儒者が身を律する拠り所とした言葉。「恭しくし、誠実にする。」の意。

[42]蓬莱も方壺も、渤海の東にあり、神仙が住むという五つの島のひとつ。『列子』湯問「渤海之東有大壑焉。其中有五山焉。一曰岱輿二曰員嶠、三曰方壷四曰瀛洲、五曰蓬莱。」。

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