第七十二回
曹売鬼が空しく色仕掛けを設けること
譚紹聞がさいわいにも危地を脱すること
さて、譚紹聞は役所に一月とどまり、毎日婁氏兄弟と一緒に過ごしました。婁樗はすべての雑務を取り仕切っていましたので、いつも話しをするわけにはいきませんでした。婁樸は学識が広かったのですが、紹聞はしばらく本に親しんでいませんでしたから、すっかり門外漢になってしまっていました。ある時、典籍の話をしましたが、ほとんど分かりませんでした。一緒に歴史の話をしましたが、『腐史』[1]『漢書』のことさえ、すっかり忘れており、陳承祚[2]、姚思廉[3]の著述にいたってはなおさらのことでした。詩の話をしましたが、少陵[4]、謫仙[5]の詩さえ、おおよそ忘れており、謝康楽[6]、鮑明遠[7]の清逸な詩にいたってはなおさらのことでした。文章の話しをしましたが、『両京』[8]『三都』[9]の登場人物さえ忘れており、郭景純[10]、江文通[11]の文辞にいたってはなおさらのことでした。婁樸は譚紹聞と話が合いませんでしたいので、だんだん冷淡になりました。これは世兄弟の間に身分の隔たりがあったからではなく、学問に隔たりがあったからでした。
紹聞は、婁樸の目の前で、見劣りする自分を恥じないわけにはいきませんでした。そこで、役所を出て遊びにいこうとしましたが、婁潜斎の役所の規則は厳しく、入り口での警備が厳でしたので、、出入りするには不便でした。さいわい、受付けの仕事を習い始めたばかりの、莫慎若という若い幕僚がいましたので、よく話をしました。しかし、内容は、結局のところ、『三国』の「六出」[12]「七擒」[13]、『西遊』の「九厄」[14]「八難」[15]、『水滸伝』の李逵、武松が激しく闘う話し、『西廂記』の紅娘、張生がふざけあう恋愛の話に過ぎませんでした。紹聞は学問をお座なりにしていましたが、学問を教わったことはあったので、莫慎若の話しには深みがないと思いました。数日たつと、二ちますと、の若い幕僚は、知っていることが尽き、他に話をすることがなくなってしまいました。
紹聞は、その頃、役所で、とても焦っていました。ある日、先生が勉強を試験するという報せを聞き、心の中で「三十六計逃げるにしかず」だと思いました。これは『参同契』[16]の秘法なのです。そこで、家に帰りたいということを、まず婁樗、婁樸に述べ、そのあとで直接先生に言いました。潜斎はさらに二日引き止めましたが、紹聞はどうしてもいこうとしました。そこで、潜斎は送別の宴席をもうけるように命じました。宴会が終わりますと、銀子二百五十両を持ってこさせて、言いました。
「お前が物を売りにきたことは、知っていたが、わしは、品物を売りさばかず、人を推薦せず、ずっとお前が物を売るきっかけをつかませなかったし、お前が物を売ってくれと媚び諂うのも許さなかった。しかし、お前がわしの任地にきた以上は、お前に損をさせるわけにはいかない。この五十両は品物の代金だ。お前は品物と一緒にもちかえるがいい。取っておいて自分で使ってもいいし、商店に返済をしてもいい。品物を返されたことを恥と思う必要はない。この二百両は、朝廷から頂いた俸給だ。不正な金は一分一厘たりともない。師匠のわしが弟子に送るのは、理の当然というものだ。ただ、お前は浪費をしてはならぬ。女遊びをしたり賭けをするのは、わしにいわせれば仁徳を損なうことだ。わしは、お前のお父さまとの付き合いがありながら、お前の非行を助けたことになる。家に戻ったら、今まで通り勉強をし、読書ができないときは家事を切り盛りするがよい。ほかにも旅費を四千文やるから、路用にあてるがよい。銀子は行李にいれ、使ってはならぬ。役所の馬を一頭やるから、乗って帰ったらわしの家に送ってくれ。この馬はとてもおとなしく、走って仕事をするにはもう年をとってきたが、荷物運びをすることができるし、臼を挽かせることもできるだろう。それから、わしは一人の男を選んで、お前を家に送ってもらおう。そうすればわしは安心だ。旅の間は、日が暮れないうちに宿に泊まり、空が明るくなったら宿屋を出るのだ。急いでたくさんの距離を歩こうとしてはいかんぞ。お前は銀子をもっているのだから、十分注意しなければならないぞ。それから手紙を四通を渡そう。お前の義父の耘軒さんの栄転のお祝い、類村おじさんに子供が生まれたお祝い、程おじさんへの手紙と銀子二十両─これは、程さんが書物を印刷するための費用だ─そして、蘇霖臣さんへのご機嫌伺いの手紙一通だ。わしの家への包みの中には、隣近所、親戚への手紙があるが、わしの家でそれぞれの家に送ることだろう。譚紹聞、わしはお前に幾つか話をしよう。古人の諺に、『善を為さんとすれば、父母の令名を貽さんことを思いて、必ず果たす。不善を為さんとすれば、父母の羞辱を貽さんことを思いて、必ず果たさず』[17]という。悪い事を繰り返しそうになった時に、『お父さま』という言葉を唱えれば、悪い心は、自ずとしぼんでいく筈だ」
婁潜斎がここまで話すと、紹聞は思わずはらはらと涙を零しました。潜斎も旧友のことを思いだして、目に一杯涙を浮かべました。
婁樗
「譚さん、旅路では二つの箱はかさばるでしょう。役所に、家に帰ろうとしている老婆がいますから、箱は、三日遅れで、車で持ち帰らせてはどうでしょう」
譚紹聞
「それはいい。ちょうど箱をもっていくのは難しいと思っていたのです」
次の日の朝、潜斎は紹聞よりも先に起きました。紹聞と下男は荷物を纏め、先生に叩頭して別れました。潜斎が言いました。
「気をつけてな」
徳喜児は叩頭し、二両の草鞋を買うための銀子をもらいました。大堂には鞍つきの馬がすでに用意されており、潜斎は宅門の外まで見送りました。婁樗、婁樸兄弟は大堂まで送り、出発させました。譚紹聞は何度も礼を言いますと、馬に乗って側門から役所を出、大通りを曲がり、南門を出ていってしまいました。
婁潜斎の良いところは申すまでもありません。金の無心をすることの滑稽さをうたった詩がございます。詩に曰く。
役人を訪ぬるはやめよかし、
お互ひに嫌な思ひをすることはなし。
金送れあ礼儀を保つとはいへど、
友人や親戚の情とは別ぞ。
譚紹聞は済寧を出、徳喜児と下役は、彼とともに歩きました。譚紹聞は、独り馬上で、先生のもてなしは、父親にもまさるものだった、懇ろで行き届いていて、至れり尽くせりだった、父親が生きていたときは、正人君子としか交わらなかったので、彼らは父親が死んでも友情を忘れていなかったのだ、僕は不肖の息子で、つき合っている人間は狐や犬のような奴ばかりだ、死んだら友情を忘れるのはもちろん、少しでも貧乏になれば、冷たい態度にかわることだろう、と考えました。そして、ようやく父親が臨終のときに言った「正しい人とつき合え」ということの良さが分かったのでした。
半日歩きますと、路傍に荒寺がありました。脇には三四軒の人家があり、大きな柳の木が二三本植わっていました。三間の草屋根の家には、テ─ブルが一つ、小さな弥勒仏が一躰置かれていました。炊餅を売って生活している、村の飯屋でした。主人が大声で紹聞を招きました。
「お若い方、お休みください。食事をなさってください」
紹聞は馬をおりました。下役、徳喜児は走りよりますと、馬を柳の陰の馬草桶の脇につなぎました。三人の風呂敷包みを背負った旅人が、柳の木陰で休んでいました。紹聞主従は粗末な食事をとり、馬はふすまをいれた草を食べ、荷物を積んで、先に進みました。
日暮れ前に、張家集という鎮に着き、宿屋に引き止められたので、部屋代、食事代を交渉し、泊まることにしました。まもなく、三人の風呂敷包みを担いだ旅人もやってきて、東の廂房に泊まりました。
テ─ブルが拭かれ、盆が差し出されたので、紹聞は顔を洗いました。ボ─イは紹聞を見ますと、いいました。
「お若い方、今晩はお客を呼ばれますか」
紹聞
「僕は旅をしているんだから、お客をもてなしたりはしないよ」
ボ─イは笑って言いました。
「堂客ですよ。今、こちらにおりますよ。まず案内いたしますから御覧になって、気に入ったのを選んでお呼びください」
実はこの宿屋は、韓秀才が開いていたものでした。この秀才は学校に名を連ねていましたが、平素女遊びや賭けをしていたために、すっからかんになってしまい、今では賭場を開帳して博徒を集め、街娼を呼び寄せ、部屋代を取って生計を立てていたのでした。彼は、ずるがしこいボ─イを雇って、宿屋を開き、店の裏には私娼を七八人置いていました。今日、ボ─イは、紹聞が若い書生で、荷物が多そうなのを見て、妓女で誘惑したのでした。紹聞は役所を出てからまだ一日もたっていませんでしたし、婁潜斎の言葉が耳に残っていて忘れることなどできませんでしたから、こう答えました。
「変なことをいわないで、はやく茶を持ってきてくれ」
「お茶は用意してございます。お話しが終わればすぐにもって参ります。若さまはご存じないでしょうが、ここの番頭の後院には、二人新しいのがきています。もともと莘県[18]で裁判を起こし、番頭が七八十両かけて連れてきたものです。十七八歳です。御覧になってはいかがですか。明日もこちらに泊まられるのでしたら、私がまたお世話を致しますから」
譚紹聞の耳の中では恩師の説教が響いていましたが、胸の奥底では二百五十両が悪い気持ちを起こさせていました。しかし、彼は少しためらってから、急に「不善を為さんとすれば父母の羞辱を貽さんことを思いて」ということを思いだし、心の中で二回となえますと、声を荒げていいました。
「あっちへ行け。余計なことをいうな」
「お若い方、そんなことをおっしゃると後悔しますよ。今日、向かいの宿屋で、昼に商人が一人泊まりましたが、彼は、私が莘県から有名な女を連れてきたことを耳にして、向かいの宿屋の主人に命じて女を呼びにこさせました。私は、まだ昼前だから、うちに客は来ていないが、間もなくここに客がきて、私に女をだすように頼むだろう、その時、私は二番目にいい女を出して客をもてなすわけにはいかない、もう少し待って、私の店に客がこなかったり、私の店に泊まった客が楽しい思いをしようとしなかったりした時に呼んでも遅くはないだろう、と言いました。あなたが心の中では望んでいるのに、口では望んでいないとおっしゃるのなら、私も仕方ありません。ただ私は一言申し上げます。向かいの店から女を呼びにくれば、女はここの中庭を通ることでしょう。あなたは女を御覧になれば、きっと後悔されますよ。その時は私が誠意を尽くさず、女を見せなかったと言って恨んだりなさらないで下さいまし。このことはあらかじめ申上げておきましょう」
紹聞は腹黒い人間の甘い言葉に我慢ができませんでした。まことに賭博の有様を見れば、人は心が不愉快になりますが、巧みな言葉は、掛板[19]の音のように心に入り込むものです。紹聞は少し黙りますと、思わず顔を赤らめて、小声で言いました。
「僕一人ではないんだから、変なことをいわないでくれ」
ボ─イは頭がきれる男でしたから、脈があると思い、言いました。
「お茶を持って参りましょう」
まもなく茶をもってやってきますと、さらに言いました。
「お茶を飲まれたら行きましょう」
紹聞は首をふって笑いながら言いました。
「行かないよ」
ボ─イは紹聞の心が分かっておりましたので、お供の二人を探しました。二人の男は街へいって物を買うと戻ってきました。ボ─イは茶をもって、西の廂房に行き、徳喜児、下役と妓女を呼ぶことについて相談し、彼らに妓女を一人ずつつけることにしました。徳喜児はすぐに承諾しました。下役は尋ねました。
「この宿屋は誰の宿屋だ」
ボ─イ
「韓さまの宿屋です。今日は家にはいらっしゃいません。南の城外にお客様のために女を探しに行かれました」
「あなたのご姓は。お名前は」
「姓は曹、排行[20]は四番目で、官職はございませんが、渾名がございます。申し上げればお笑いになるでしょう。街ではみんな私のことを売過鬼といっております」
下役は急に怒って言いました。
「何というろくでなしだ。めくらになってしまえ。母屋に泊まってらっしゃるのは、この州の知事さまの姻戚の譚さまだぞ。俺は知事さまの使いで、譚さまを祥符までお送りするんだ。この馬鹿者が。こんなことをたくらむとは。明日、知事さまに報告してやる。知事さまの刑罰はお前も知っているだろう。まずお前の売春宿を壊して、お前の尻をぶっつぶしてやるからな」
曹売鬼は急いで笑みを浮かべて、
「旦那、そんなことはできませんぜ。私はあなたがたが宿で退屈だとおもったので、気晴らしをさせるために冗談を申上げただけですよ。知事さまは清廉で公正なお方で、毎日調査をされていますから、だれも私娼を留め置くことはできませんよ。今日泊まった客は、本当に女を呼んで遊ぼうとしましたが、五十両、百両を出したって、女を呼んでくることはできませんよ」
徳喜児は笑って
「百両、五十両出すのは簡単だ。あなたは女を呼んできてくれさえすればいいんだ」
「どこにもおりませんよ。済寧を出なければね。この張家集[21]では、誰も女を呼ぼうとはしませんよ」
すると、紹聞が部屋にやってきていいました。
「主人に食事をもってくるようにいってくれ。食事をして寝るから」
徳喜児は部屋に行きますと、言いました
「あの下役は、まったくうちの王中そっくりですよ」
紹聞
「食事を催促してきてくれ」
するとボ─イが過道[22]にやってきて独り言を言いました。
「世の中おかしなこともあるものだ。幇閑をするのがこの鎮の秀才で、説教をするのが、州の下役とはな」
つまらぬ話しはここまでといたします。さて、旅をする人は、あらゆる事に注意せねばなりません。諺にも、「財産は見せびらかすな」と申します。徳喜児は「百両、五十両だって大したことない」という言葉は、はやくも東廂房の風呂敷包みを背負った三人の耳の奥深いところに入り込みました。一人が言いました。
「家はすぐ近くだ」
もう一人が言いました。
「俺はお前よりは遠くだ」
一人は東の廂房から出てきて言いました。
「三里と離れていないよ。鼓楼街から南馬道まで二里たらずだ。遠くないよ」
徳喜児はすぐに言いました。
「あなたたちは河南の省城の方ですか」
「みんな省城の者です」
「ご姓は」
男が答えました。
「謝豹というんだ。こいつはケ林、あいつは盧重環というんだ。あんたの名字は」
「林という名字で、林徳喜といいます。この城内のどちらの街にお住まいですか」
謝豹
「鼓楼街の蒙恬廟胡同に住んでいる。ケさんは南馬道だ。こいつは曹門に住んでいるんだ」
「南馬道に張さんが住んでいます。張さんと甥ごさんが二人とも秀才ですが、ご存じですか」
「その人は俺の外叔父だよ」
「いつもあの方の家に行っていましたが、どうしてお会いしなかったのでしょう」
「あの人達は、この城の郷紳だし、金持ちで立派だ。俺たちは親戚だが、付き合うことはできないんだ。それに、毎日外で生計を立てているから、親戚ともいえないような間柄なんだよ」
ケ林が言いました。
「済寧州の婁知事さまは、俺の母方の義理のおじだよ。ただ、俺は見ての通りの人間だから、役所に行っておじにあえば、親戚に恥をかかせることになってしまう。素通りするのがいいんだよ」
盧重環
「それを言うなよ。文昌巷の孔副榜は俺の母方の実のおじだが、俺は貧乏だから、あの人の家の門を踏むことができないんだ」
徳喜児
「あの孔さまは、私の主人の義父にあたりますが」
盧重環は慌てて言いました。
「俺は養子なんだ。ずっと昔に親父に追い出されたんだよ」
譚紹聞はそれを聞きますと、母屋から出てきて尋ねました。
「孔さんの甥ごさんですか」
盧重環
「若さま、あなたは私の母方の従妹のご主人にあたります。私はあなたの事を存じ上げておりましたが、若さまは私をご存じないのでしょう。親戚といっても貧富の差がありますし、もともと人前にも出ていませんでしたし、私は養子ですから」
譚紹聞
「遠慮はいりませんのに」
盧重環は慌てて話をそらしますと、廂房から二百銭を取ってきて、宿を出て街へ行きました。
徳喜児は晩に灯りをつけ、東の廂房に行き、故郷の話をしました。省城の中の神社仏閣で、有名なものはすべて、詳しく話をしました。徳喜児が胡同や路地のことを尋ねますと、男達は、知らないものは、話をそらしてごまかしました。徳喜児は男達が同じ城の住人だと信じ、他郷で友人に会ったので、嬉しくなりました。
話が弾んでいますと、急に西の廂房で叫び声が聞こえました。
「林さん、はやく来てくれ。まずいことになった」
徳喜児が西の廂房に戻りますと、下役が腹を抱えながら、こう言いました。
「持病がぶり返した。痛くてたまらないよ」
「どうなさったのですか」
「霍乱の持病があるんだ。もうすぐ吐いたり下したりするぞ。一年に一二度は発作が起きるんだが、よりによって旅に出たときに発作が起きるなんてな」
そう言いながら、東の便所へ行きました。
徳喜児は部屋の入り口を開け、紹聞は服をはおって起きてきました。徳喜児
「見送りの人が大病になりました。どうしたらいいでしょう。あの人を帰らせましょう」
徳喜児はもともと下役に恨みがあり、これから先、勝手なことをしたいと思っていたのでした。徳喜児はすでに春に目覚めており、紹聞が今までしてきた事を見て、自分も楽しいことをしたいという心を募らせていました。そして、今晩、下役に邪魔をされたため、下役を送り返そうと思い、一生懸命紹聞を唆したのでした。
「下役が病気になったという手紙を書いて、役所に持ち帰らせればいいでしょう。婁知事さまもお怒りにはならないでしょう」
紹聞
「ちょっと見てくる」
徳喜児
「吐いたり下したりして、とても汚いですから、見に行かれることはありません」
そして護書の中から帖子、封筒、湖筆[23]、徽墨[24]を取りだし、宿の主人から処方箋を書くといって、粗末な硯を借りました。墨をすって紙を広げますと、譚紹聞にすぐに書くように促しました。紹聞は書きました。
門生譚紹聞が慎んで先生にご報告申し上げます。
先日、先生は、下役に、祥符まで私を送るようにお命じになりましたが、下役は、今日、突然宿屋で大病になり、一二日では治りそうにありません。宿屋で様子を見て、回復してから一緒に旅をするべきでしょうが、私は故郷に帰りたくてたまらず、待っていることができません。そこで、宿屋に下役をあずけ、看病をさせることに致します。これから先の道は平坦で、すでに通った道を通って開封に帰りますので、心配はないと思われます。ただ、気掛かりは、下役が東に帰るとき、復命することがないことです。そこで、謹んでささやかな手紙を書き、持ち帰らせ、お心をお慰めすることにいたします。旅先の灯火の下ゆえ懐かしい気持ちを述べつくす事はできませんが、なにとぞ御覧下さいますようお願い申し上げます。
敬具。□月□日
紹聞は書きおわりますと、徳喜児はそれを封に入れました。そして、宿屋と一緒に生姜湯を用意しました。下役は、五更になりますと、ようやく少し落ち着きました。
三人の風呂敷包みを背負った旅人は、窓格子の中からそれを眺め、心の中で喜びました。しかし、明日、この主人と下僕が、下役の病気が回復するのを待って、出発しないのではないかと心配でもありました。すると、徳喜児がひそひそ声で、
「もう夜明けですから、寝るわけにはいきません」
と言い、紹聞を
「寝るのはやめましょう。荷物を積んで出発しましょう」
とせきたてるのが聞こえました。そこで、三人は東の廂房のドアを開け、宿屋の宿屋に明りをつけさせ、金を払いました。宿屋
「まだ早いですよ。知事さまのお触れでは、旅人が朝発ちして、途中で事故が起こった場合は、宿屋を三十回棒打ちにするということです。あなたがたを朝早く出発させるわけには参りません」
三人
「『利口な人間はつぶれた店をも繁盛させる』[25]というぞ。俺たちは三人で旅をしているんだ。怖いものなんてあるもんか。それに母屋の客も、後から出発するだろう。道に人が多くなれば、怖くなくなるさ」
宿屋は問題ないだろうと思いましたし、金も受けとったので、門を一尺あけて、彼らを出発させました。三人は言いました。
「林さん、すぐに出発するのかもしれないが、俺たちは待っていられないから、失礼するぜ」
宿屋は、今まで通り門に鍵を掛けました。
この旅に王象藎がついていれば、常に知恵を働かせ、しっかりとした考えを示していたでしょうから、昨夜のように、厄介な連中に付き纏われることもなかったことでしょう。今日、たまたま下役の持病がぶり返したが、王中なら必ず下役が回復するのを待ち、決して婁先生の気配りを無にするようなことはなかったでしょう。しかし、徳喜児はまったく幼稚な性格で、旅をすることを、軽くみていました。たとえ胸に恨みの心がなくても、一人の男が余計につき添い、厄介者が一人増えたことを煩わしく思っていましたし、同郷の三人がいましたので、楽しく旅をすることができると思っていました。そして、ちょうど下役が病気になったので、彼をおいてけぼりにすることができると思い、下役を置き去りにして旅をしようと、紹聞を一生懸命に唆したのでした。
下役は荷物を積み、馬の準備をするということを聞きますと、叫びました。
「譚さま、行かないでください。知事さまに報告のしようがございません」
そう言いながら、腰をまげて西の廂房から出てきました。すると、徳喜児は、馬の準備をし、荷物を運んできて馬に載せました。下役
「知事さまは、私に若さまを送るようにとおっしゃったのです。二堂に私を呼んで、長いこと用事を言い付けられましたが、どれも大事な用事でした。若さま、少しお待ちください。夜が明ければ良くなるかも知れません」
徳喜児
「母屋のテ─ブルの上に返事の手紙がある。持っていって、知事さまに見せるがいい」
紹聞はすぐに出発しようとはしませんでしたが、徳喜児はさっさと厩屋から馬を引っ張ってきました。下役
「出発なさるにしても、今出発されてはなりません。道は危険ですから、早朝に出発されるのは良くありません」
そして、進みでて馬を引き止めようとしましたが、急に腹の具合がおかしくなって、ふたたび便所に行きました。徳喜児
「ボ─イ、金は払ったから、門を開けてくれないか」
曹売鬼は、昨晩、下役に邪魔をされ、怒鳴られて、商売を台無しにされたことを恨んでいましたから、下役が吐いたり下したりしている間に、ドアを開けて、譚紹聞主従を外に出してしまいました。
下役は、東の便所から戻ってきますと、紹聞主従が行ってしまったことに気が付き、罵りました。
「お前はまったく馬鹿野郎だ。明日、知事さまに報告して、ひどい目に遭わせてやるぞ」
曹売鬼
「テ─ブルの上の帖子はどなたが書かれたのですか。知事さまに何を報告されるのです。鋼の刀は鋭くても、罪のない人を殺す事はできませんぜ」
「私娼を扱っていたことは許さんぞ」
「私娼を見たのですか。色黒の女でしたか。色白の女でしたか。まず私に色をおっしゃって下さいませんか。知事さまに報告して、捕まえにきても、私は女を送りだしましたから、あなたは証拠をあげて私をひどい目に遭わせることはできませんぜ。それに、私の宿には、女の毛一本もありません。あなたが本当に私をどうにかしようとなさるのなら、私は何日か隠れて、家へ『秋胡戯』[26]に会いに行きますよ。私たちの店の主人をどうにかしようと思われても、あの人は、今、生員で、特権をもっています[27]から、あの方をどうすることもできませんよ。それに、あなたは班長なのに、まったく馬鹿な人だ。下役は役所に仕え、役所の権威を借りて、数銭を稼いでいればいいのです。彼らは、役所で話しをするときは、十句のうち九句半は嘘をつきます。なぜ半句だけ嘘をつかないのかといえば、それは話し終わっていないからです。あなたは城市から数十里離れた、私の宿屋で説教をしていますが、知事さまが巡撫になられた日には、あなたを中軍官[28]にしてくれるでしょうよ。まあ、寝て休むんですな。体が良くなったら、あの手紙を持って、知事さまに会ったら嘘の話しをして、このご公務を終わらせるということにしなさい。ここに泊まられるなら、今晩あなたにいい人を世話しますよ。あなたが大枚をはたかれる必要はありません。主人が戻ったら、あなたのために酒や料理をならべてあげましょう。うちの主人は秀才ですが、あんたがた下役と付き合うのが好きなのですよ。いかがですか」
下役は立っていられず、ふたたび横になって眠りました。その後、手紙を持って報告をしましたが、その事は細かくは申し上げません。
さて、紹聞が宿を出、十里歩きますと、空がようやく明けました。巳の刻になりますと、飯屋にとまりました。すると、風呂敷包みを背負った三人が、そこに座っていました。飯屋たちが声を掛けました。紹聞は馬からおり、徳喜児は馬を受けとりました。紹聞は顔を洗い、茶を飲み、注文をしました。まもなく食事をおえ、会計を済ませますと、謝豹が銅銭を、銭入れの竹筒の中に入れて、言いました。
「私たちが御馳走致しましょう」
盧重環も言いました。
「旅の途中でお知り合いになったのですから、ささやかながら親戚の情を尽くさせて頂きます」
紹聞は承知しようとしませんでした。ケ林
「開封に行けば、私たちがあなたをお呼びすることはできませんし、お呼びしてもあなたは来られないでしょう。それに金ももう払ってしまいましたから、遠慮なさらないでください」
徳喜児
「皆さんは同郷の親戚ですが、旅をしている時に、御馳走になる訳にはいきません。私たちは旅費もたくさんありますから」
紹聞
「皆さんのご好意ですから、頂いても構いませんが、申し訳ない事です」
礼を言い終わりますと、後ろから風呂敷包みを担いだ男が二人やってきました。謝豹は彼らを迎えると拱手して、言いました。
「元城[29]から戻ってきたのかい」
二人
「そうだよ」
謝豹
「どうだった」
男
「返事をもらってきた」
ケ林はわざと知らない振りをしました。すると、謝豹
「この二人は県庁の捕り手で、元城へいって自供を取りました。先月、同じ船で黄河を渡ったのです」
盧重環
「さあ、行きましょう」
風呂敷包みを背負いますと、先へ進みました。謝豹は二人に飯代をおごろうとしましたが、二人は承知しませんでした。そして、今晩は同じ宿屋に泊まり、明日は一緒に旅をしようと言いました。謝豹は言いました。
「それはいい」
そして、ケ林とも一緒に旅をすることになりました。
紹聞主従は馬がまぐさを食べ終わりますと、ようやく出発し、夕方近くに、鎮に着きました。主従が街の真ん中に行きますと、ボ─イが馬を引き止めて、
「こちらに宿屋がございます。準備はできております」
宿屋に入りますと、謝豹が上房を指差して言いました。
「若さまはこちらへどうぞ。宿泊料や、まぐさ代は、すべて話をつけておきました」
徳喜児は、自分が気が弱くて口下手なので、交渉をする手間が省けたと思い、喜びました。
食事が終わりますと、徳喜児は金を貰い、酒と鶏を買ってきて、謝豹と晩酌をしました。紹聞
「上房に呼んで、今日の朝飯のお礼をすることにしよう」
徳喜児
「私たちで勝手に飲みますから、若さまはお一人でお飲みになってください」
そもそも、小者たちは役所に住み、お役人の前で挨拶をし、幕僚の前で話しをし、門の所で取り次ぎをしているうちに、気位が高くなるものです。これは誰でもそうなのです。徳喜児は、やってきた時は、童僕らしくしていましたが、済寧の役所を出る時には、大家の執事長の様になっていました。彼は、何から何まで準備をし、主人よりも偉そうにして、謝豹たち三人と酒盛りを始めました。そして、楽しそうに、済寧で目にしたことを、喋り続けました。間もなく、誰かが宿屋の門を叩きました。入って来たのは昼間会った、元城に文書を届けに行くと言っていた捕快[30]でした。人々は席を勧めました。彼らは三四杯飲みますと、暗号で話しをしました。徳喜児は少しも分かりませんでした。話が終わりますと、人々は、部屋に戻って眠りました。
その晩のことはお話し致しません。五更になりますと、二人はボ─イに門を開けるように促しました。ボ─イ
「鍵は奥の主人が持っています。朝にお客様を出発させることはできません」
二人は怒鳴りだして、こう言いました。
「東の空はもう明るくなっている。俺たちを出発させないと、公務を遅らせることになるぞ」
ボ─イは奥で女房と甘い夢を見たい、表で一人寂しく寝ている必要はないと考えていました。そこで、奥の父親のところに戻って鍵をもらい、表の中庭で宿泊費を受け取りますと、表門を開けました。馬に乗った男、風呂敷を担いだ男は、一言
「世話になったな」
と言いますと、真暗闇の中に消えて行ってしまいました。
時は晩秋の下旬で、東には鉤のような月が一つ、北の空には三すじの黒雲がありました。村の荒れ寺の鐘の音が何度か鳴って、眠っていた鳥達を驚かせました。路傍の真新しい墓には、死者の魂を弔うたくさんの剪紙がありました。紹聞はそれを見ますと、思わず怖くなりました。旅慣れた人なら、間違って朝早く出発してしまった時は、街に戻って、夜が明けるのを待つものですが、紹聞は経験がなく、びくびくするのも恥ずかしいことだと思ったので、我慢して西へと進みました。
三里も行かないうちに、かすかにさらさらと水の音が聞こえました。紹聞
「この先に川があったと思う。水は深くなかったが、二箭[31]の幅があった」
謝豹
「水の中では馬に乗ることはできません。岸にいる水売りが、川の中で穴を掘ったのです、彼らは人を背負って、穴を避けながら歩くことができます。馬に乗った人は、彼らに二銭払いますと、彼らが案内してくれます。あなたは川岸に着いたら、馬から降りなければなりません。私たちはあなたを背負って、一人は道案内をし、一人は馬を引くことに致しましょう」
「お世話になるなど、とんでもございません」
間もなく川岸に着きました。徳喜児は腰掛けて靴下を脱ぐと川を渡りました。すると、早くも盧重環がぴったりと付き添いました。謝豹、ケ林は轡をとりますと、言いました。
「若さま、馬から降りられてください。私がおぶって差し上げましょう」
「大丈夫ですよ」
すると、謝豹はさっと左脚をつかんで、上に押し上げました。すると、川岸で徳喜児が叫ぶのが聞こえました。
「大変だ。人殺し」
紹聞は慌てて、鞭で左側をぶちました。謝豹は痛くて手を引っ込めました。馬は慌てて鼻息も荒く、上へ下へと跳ねました。ケ林はさっと小刀を抜きました。紹聞が急いで右側にも鞭を振りますと、ちょうど小刀を持った腕に当たり、小刀は馬の脚元に落ちました。駅路[32]を走っていた馬は、鞭を受けると飛び上がり、ヒヒインと鳴いて、川の真ん中に向かって走りました。ケ林は蹴飛ばされました。謝豹は靴や靴下をはいたまま川に入って馬を追い掛けましたが、三丈以上離れていました。紹聞はさらに一鞭くらわし、水飛沫を挙げ、波を立て、どこが深いのか浅いのかも分からず、ずぶ濡れになって岸に上がりました。紹聞は鞍にしがみついて馬を走らせ、自分が、生きているのか死んでいるのかも分かりませんでした。徳喜児の生死も、東の海の彼方に忘れてしまいました。
駅馬は、一回手綱を緩めますと、四五里は走るものです。やがて、遥か前方に明りが見えました。すぐにそこに着きました。道端の炊餅屋の老人と老婆が、五更なのに炉の火を煽っていました。馬は止まりましたが、紹聞は降りることができず、ただただ
「助けてください。助けてください」
と言いました。老人はびっくりして、言いました。
「お若い方、どうなさったのです」
「すみませんが馬を抑えていてください。馬から降りますから」
老人が近付きますと、馬は数歩後退りし、鼻から荒い息を吐き、驚いてふたたび走り出しそうな気配でした。老人は近寄る事ができませんでした。紹聞はしばらくじっとして、馬をおとなしくさせてから、ようやく馬からおりました。体は萎え、手は震えていましたが、何とか傍らの杭に馬をつなぎました。そして、店に入りますと、椅子にくずおれ、ただただ
「大変です。大変です」
と言いました。老人
「お若い方、道で事故に遭われたようですね」
紹聞は泣きながら
「言葉が出てきません」
老婆
「荷物を全部落としてしまわれたのですね。取ってきて、店にお運びなさい」
老人
「この方は事故に遭われたのだ。荷物を取りに行くのは危険だ。それに、馬も気が立っているし、わしも行くことはできん。この方が落ち着かれたら、取りに行けばいい」
紹聞はただおいおいと泣くばかりでした。老人は荷物を見、炉の火を煽り、慰めの言葉を掛けながら、かいがいしく働きました。
この回では、若者が仕方なく遠出をするときは、宿屋でボ─イと親しく話をしてはいけない、旅路では見ず知らずの人と仲間になってはいけないということをお話し致しました。紹聞のこの日の有様は教訓とすべきものであります。
徳喜児の命はどうなったでしょうか。それは次回で。
これぞ、
強き男は強盗となり弱き女は娼妓となる、
たとひ相手が美人でもみだりに金をな与へそね。
「あらかじめ用心す」[33]てふ四文字は、
千金にても買ひ難き優れた処世法ぞかし。
最終更新日:2010年11月4日
[1] 『史記』のこと。腐刑(宮刑)に処せられた司馬遷が書いた歴史書なのでこう言う。
[2]陳寿。『三国志』の撰者。
[3]姚簡之。『梁書』『陳書』の撰者。
[4]杜甫。
[5]李白。
[6]謝霊運。
[7]鮑照。
[8]漢の班固の『両都賦』。
[9]晋の左思の『三都賦』。
[10]郭璞。晋代の人。
[11]江淹。宋、斉、梁の人。
[12]諸葛亮が六度祁山に出て魏と戦った故事。
[13]諸葛亮が孟獲を七回にがして七回捕らえた故事。
[14]未詳。
[15]未詳。
[16]漢の魏伯陽撰。『周易』の爻象を借りて錬金術について述べた書。
[17] 「善いことをするときは、父母の令名を残そうと考えて、必ず成し遂げ、悪いことをするときは、父母には字を与えると考えて、絶対に成し遂げない」。『礼記』内則。
[18]山東省東昌府。
[20]先祖を共有する同世代者の長幼の順序。
[21]村名。
[22]家と塀の間の狭い道。
[23]浙江省湖州産の筆。
[24]安徽省徽州産の墨。
[25] 「能力のある人間は絶望的な事態をも打開する」の意。
[27]生員は逮捕されない。
[28]清代、都指揮司をいう。四品の武職。
[29]直隷、大名府。
[30]捕縛を司る下役。
[31]「箭」は矢の届く距離。
[32]旧時、政府文書を伝える使者のために開いた道路、休息所や馬を乗り換える場所があった。
[33] 「あらかじめ用心する」。『孟子』公孫丑下に出てくる言葉。