第七十回

夏逢若が落ち目になって幽霊に遇うこと

盛希僑が真心で代言人を感動させること

 

 さて、夏逢若はどうして晩に盛家にやってきたのでしょうか。彼はいつも城隍廟の道房[1]にいて、黄道官と話しをしておりました。黄道官

「一昨日、関帝廟で、娘娘廟街の盛さまにお目に掛かりましたが、大変立派なご様子でした。さすがは布政司の家柄ですね」

そして、盛希僑が山陝社の銀子を一千両もっていき、しばらくしたら持っていくと言っていたことを話しました。夏逢若はそれを聞きますと、譚家へ様子を探りにいきました。そして、虎鎮邦が盛家に呼ばれて、賭けの借金を払ってもらったということを聞きますと、すぐに虎鎮邦を訪ねて、借金の清算をしたかどうかを尋ねようと思い、日が落ちて顔が見えなくなってから、盛家にやってまいりました。彼は、今まで自分は人に重んじられてこなかったが、世の中のことは予想ができないものだ、間に立って漁夫の利を得ることもできるかも知れないと考えました。盛家に行き、軽く門の環を叩きますと、満相公が門を開けて迎え入れました。盛希僑はずけずけと物を言い、がぶがぶと数杯飲み、あくびをしますとこう言いました。

「眠くなったから寝るぞ」

そして、客が帰るか帰らないかということは、すっかり忘れてしまいました。

 譚紹聞

「僕は帰ろう」

満相公は酒を飲んで体がだるかったので、言いました。

「提灯をお持ちしろ」

夏逢若

「手元に借りた提灯がございますから、蝋燭を一本だけ頂ければ結構です」

満相公

「泊まっていかれてください」

「ここ数日、お袋の体の調子が良くありませんので、帰らなければいけません」

「ご老人のお体がお悪いのでしたら、引き止めはいたしません」

下男はふたたび表門を開けました。満相公は二人を送り出しますと、門を閉めて中に戻りました。

 譚、夏は、娘娘廟の入り口に歩いていきました。譚紹聞

「真っ暗ですね。一人だけでは歩けませんが、二人で歩けば心強いものです。碧草軒に行って、泊まってください」

「家でお袋が病気だから、どうしても帰らなければいけないんだ」

「それなら、別れて西へ行かれるのですね」

「西へ行くと、周王府の入り口を通らなきゃいけないから、衛兵たちに掴まるかもしれない。僕は北へ行くよ。王府の裏の耿家の堀へ行き、冥府廟[2]を通れば半里で、うちの裏門につくんだ。邪魔になるものは何もないよ」

「空は真っ暗ですよ。あの堀の近くには人もいませんから、王府[3]を通っていったほうがいいでしょう。尋問を受けても、また、薬を買いにいくとか、医者を呼ぶとか、産婆を呼ぶとかいえば、ごまかすこともできるじゃありませんか」

「王府の衛兵は、そんな嘘には取り合わないんだ。彼らは人を掴まえると縛って、空き部屋に入れ、次の日に釈放するが、もし忘れられれば、ずっと縛られたままなのさ。一声叫べば、門を開けて皮の鞭でぶたれるが、それでも運がいいというものだよ。君は知らなかったのかい。僕は北の盧家巷を通って行くよ」

「僕の家は近くです。通りの店には灯りもついていますから、提灯を持っていってください」

二人はそれぞれ別れました。

 さて、夏逢若が盧家巷に入りますと、道の東の家で「お母さん」と言いながら泣く声がしました。夏逢若は嫌な気分がしましたので、急いで通り過ぎました。路地を出て北へ行きますと、双旗杆廟[4]に着きました。そこは、耿家の堀の近くで、辺りには誰も住んでおりませんでした。一箭ばかり歩きますと、青緑の火の玉が、西から東へ、飛ぶように通り過ぎていくのが見えました。池で眠っていた鴨が、驚いて何度も鳴き叫びました。夏逢若は天の流星の光だと思って、天を見ましたが、黒雲が立ちこめ、まるで漆を塗ったようで、遠くには、さらに三四か所の火の玉が、現れたり消えたりしておりましたので、鬼火だと分かり、とても怖くなりました。そして、平素の行いを思いだし、心の中で独り言をいいました。

「俺が聖人君子なら、─邪は正に勝てず、陰は陽に勝てず、幽霊が現れても、少しは恐れ慎むことだろうから─怖いことなどない。だが、俺は今まで犬や鼠のような行いをしてきたから、真夜中に道を歩くなんて、怖くてたまらない。盛さんや譚くんがせっかくひきとめてくれたのだから、泊まってもよかったのに、どうして帰ろうとしたんだろう。涼しい風が寂しげに吹いていて、霧雨が降っているようだ。鬼火が飛び交って、真似することも想像することもできないような気味の悪い声も聞こえる。引き返して、大通りに出て、どこかの酒屋を開けさせ、一晩横になっていることにしよう」

そこで、振り向きますと引き返しました。遠くには、路地の入り口の例の家が見えました。灯明が一つ点いており、どうやら二三人の喪服をきた人が泣いているようでした。そして、また、女が「お母さん」といって泣いている声がしました。どうして路地の入り口に出て泣いているのかは分かりませんでした。夏鼎は、母親が病気なので、縁起が悪いと思い、肝を据えて、耿家の堀の脇にやってまいりました。

 冥府廟の脇に着きました。冥府廟は崩れてからだいぶたち、裏の塀、表の柱が残っているだけでした。道の脇の壁は、壊れてからだいぶたっておりました。提灯で照らしてみますと、閻魔大王の顔は、雨に濡れて白くなっており、少し泥の筋がついていました。判注官[5]、急脚鬼[6]、牛頭馬面[7]は倒れ掛かり、手足がとれ、雨風に晒されて、醜い顔が、ますます醜くなっていました。夏逢若は、走って通り過ぎましたが、頭の毛は一本一本逆立つかのようでした。すると、明るい光が、城隍廟の裏の路地からこちらにむかってくるのが見えましたので、心の中でこう思いました。

「良かった。良かった。きっと元宵[8]、湯圓[9]の行商か、そうでなけりゃ餛飩[10]、粉湯[11]の行商に違いない。晩に商売をして帰るところなんだ。怖いことなんてないさ」

そして、あっという間に、ばったりと顔を合わせました。その中の一人は、一丈ぐらいの背丈があり、頭は柳斗[12]ぐらいの大きさでした。顔は雪のように白く、顎いっぱいにはえた白髭の長さは三尺余りありました。横にいた一人は普通の人間と同じ体付きでしたが、土気色の顔は、八九寸の長さなのに、二寸の幅しかありませんでした。一つの丸提灯をさげていましたが、そこには二つの篆字が書かれているようでした。夏逢若はそれを見ますと、わあっと一声叫んで、道端に倒れました。二匹の異形の魔物は、脇目もふらず、体を激しく震わせながら、行ってしまいました。夏逢若は提灯を地面に放り出してしまい、提灯は倒れて、火が着きました。すると、二三尺たらずの背丈の、七八匹の小さな魍魎[13]が、腰を曲げて小さな手を伸ばし、火にあたっておりました。夏逢若は、地べたに倒れながら、それを見ますと、ズボンに小便を漏らし、額から汗を流し、心の中で、「人々は、鶏が鳴き、犬が吠えれば幽霊は出てこなくなるといっているが」と思いました。しかし、その時は、コッコッという声は静まり、ワンワンという声はやんでおりましたので、体がまるで篩のようにがたがたと震えだしました。まもなく、一陣の涼風が吹き、蝋燭の火もふき消されてしまい、あっという間に、何もかもが真っ暗になりました。手を伸ばしても掌は見えず、樹の影も見ることができず、葦のざわざわという音がするだけで、とても恐ろしい気分でした。そこで、夏逢若は、立ち上がりますと、手探りであたふたと歩き回り、独り言を言いました。

「きっと夢なんだ。早く覚めろ。覚めろ」

歩いておりますと、左足が滑って、池に滑り落ちました。しかし、急いで木の根っこを掴みましたので、底までは落ちませんでした。魚がぽちゃんと撥ね、蛙が水に飛び込む音が聞こえました。夏逢若は言いました。

「まずい。幽霊が俺を水の中に引き込もうとしているんだ」

ところが、履物をさわってみますと、意外にも乾いていました。そこで、岸にはい上がって、車の轍を手で探りながら歩きました。

 何度も転んで、夜じゅう歩きつづけましたが、どこなのか分かりませんでした。すると、突然、堅いものが足に当たりました。触ってみますと石碑をのせている亀の頭でした。そこで、

「これは城内のどこの石碑だろう」

と言いますと、急に咳払いが聞こえました。夏逢若は肝が潰れそうになりました。すると、更に一声、

「誰だ」

という声が聞こえました。夏逢若は声をたてることができませんでした。その男はふたたび言いました。

「誰だ。呼んでも返事をしないなら、煉瓦をぶつけてやろうか。人が南からやってくる音を聞いていながら、どうして返事をしないんだ」

夏逢若は人間だと分かりましたので、ようやく返事をしました。

「私です」

「お前は誰だ」

「城隍廟の裏の夏です。宴会にいって酒を飲んで、道に迷ったのです。手探りをしていたら、真夜中になってしまいました。ここはどこでしょうか」

「夏さんでしたか」

「どうして私をご存じなのです」

「ここでウンコをしていたのです。私は蘇拐子[14]です」

「僕はどうしてこんなところへ来たんだろう。ここはどこだい」

「ここは城の西北の外れで、子授け観音堂です。私は昼間は通りで乞食をし、晩はここで寝泊まりをしているのです。ここ数日、腹の調子が悪く、下痢をしているので、起き出してウンコをしていたのです。まだ時間は早いです。夏さんを送ってあげましょう」

二人は手探りで城隍廟の裏にやってまいりました。

 夏逢若は門に着きますと一声叫びました。女房がすぐに門を開けました。蘇拐子

「私は帰ります」

「北側のあの火は、いったいどこの火だい」

「あれは教会の回教徒が牛を殺している鍋の火です」

蘇拐子は一人で帰っていきました。

 夏逢若は家に入りますと、灯りがついておりましたので、尋ねました。

「お前たち、まだ寝ていなかったのか」

女房

「お母さまの病気がますます重くなられたものですから」

「まずい。衰運の時には、幽霊がまとわりついてくるものだ。お迎えが近いぞ」

母親は喘ぎながら尋ねました。

「戻ったかい」

「ええ」

「私はもう駄目だよ。お前が戻ってきて良かった。お前のことを心配しなくてすんだからね」

 この話はひとまずおしまいと致します。さらに二日過ぎますと、夏逢若の母親はついに「哀しいかな(ねが)わくは()けよ」という有様になってしまいました[15]。夏逢若にも良心が表れる時がありましたので、大声をあげて泣きました。彼は泣きながら、

「私のせいでお母さんには苦労のかけ通しでした」

と言いましたが、この慟哭は本心からのものでした。

 夫婦は泣き終わりますと、干妹の姜氏夫婦を呼んでまいりました。姜氏も何度もお義母さまといって泣きました。義理の婿の馬九方は、街へ行き、人に棺を担がせてきました。そして、陰陽師を呼んで、殃式[16]を書かせました。「棺の中の魔除けは、麺人[17]一つ、木炭一塊、五精石[18]五つ、五色の糸一本です。七日目の子の刻に、殃煞[19]が一丈五尺の高さに立ち上ぼり、黄色の気になって東南へ向かって去っていきます。その時、家の人々がそれを避ければ大吉です」

 陰陽師を送りますと、納棺を済ませました。姜氏は、夏逢若夫婦に付き添って泣きました。夏逢若は、帖子を交換しあった義兄弟のことを思いだし、姜氏の家の老僕に、王隆吉、譚紹聞、盛希僑へ手紙を送るように頼みました。その老僕は、盛家の入り口に着きましたが、盛家の立派な屋敷を見ますと、近付いて報せを告げることができませんでした。しかし、曲米街、碧草軒には報せを送りました。王隆吉は弔問をし、紙銭を焼き、白布四疋、米の粉二袋を送りますと、一人で去って行きました。

 譚紹聞は霊柩の前に行きますと、弔いの挨拶をし、銀十両を贈りました。姜氏は、ちょうど夏家で義理の娘としてお通夜をしていましたが、譚紹聞を見ますと、瘟神廟[20]で汗巾を送ったことを思いだし、身は離れていても心は寄り添うという気持ちを抱きました。

 実は、以前、夏逢若の口利きをしてもらいますと、姜氏は結婚をすっかり乗り気になり、夫に仕え、程なく夫婦の契りを結ぶことができると思っていたのでした。ところが、巫家の翠姐の件があったために、離れ離れの鴛鴦蝴蝶になってしまいました。今日ははからずも顔を合わせ、司馬相如が渇きを癒した時[21]のような気持ちにこそなりませんでしたが、朱買臣[22]の『覆水盆に反(かえ)らず』[23]の悲しみを抱きました。そして、夏逢若が譚紹聞に家に行って訃報を書くように頼み、紹聞が行こうとしているということを聞きますと、言いました。

「家にお客様が来られたのですから、私が戻って義兄さんの代わりにお持て成ししましょう」

「あれこれと苦労をかけるね」

姜氏は、裏門から家に入りました。そして、譚紹聞が表で帖子を書いていることを知りますと、まるで鶯や燕のような声で、茶や酒を出すように命じました。譚紹聞は恋心を抑えることができませんでした。

 姜氏は、夫を裏庭に呼び戻しますと、言いました。

「あの家でお葬式をするので、私たちに帖子を作るように頼んだ。お客さまをよく持て成さなければならないよ。お客さまをお泊めしなくては」

馬九方

「分かったよ」

馬九方は表へいって譚紹聞をひきとめました。譚紹聞は少し断りましたが、

「今晩泊まるのは仕方ありません。私たちには義兄弟の誼があり、このような大事のときは、すぐに帰るわけにはまいりませんからね」

と言いました。馬九方

「譚さんは夏兄さんとはご兄弟なのですか。私の女房は夏さんの義妹ですから、私たちは親戚ですね」

「その通りですよ」

馬九方は女達に、譚紹聞が泊まることを報せにいきました。姜氏はとても喜び、手を洗い、爪を切りますと、晩の料理を作り、塩漬けの鶉を煮ました。そして、心の中で思いました。

「この綺麗な器で、私の胸のうちを伝えることにしよう」

 ところが、灯点し頃にもならぬ頃に、徳喜児が迎えにきて、言いました。

「家に盛さまが来られ、話しがしたいといって立って待ってらっしゃいます。すぐにお帰りください」

譚紹聞は二百両のことが気掛かりでしたから、仕方なく別れを告げて家に帰りました。馬九方は、後院に行きますと、姜氏に言いました。

「譚さんは行ってしまったよ」

姜氏は肉を切り、鶉を引き裂いていたところでしたが、それを聞きますと、茫然として気が抜けてしまったかのようになり、しばらく口もきけませんでした。二匹の猫が、テ─ブルをの周りでうるさく鳴いておりました。姜氏は鶉を地面に落としますと、一言

「お前にやるよ」

馬九方

「ああ、もったいない。もったいない」

姜氏は言いました。

「客一人ひきとめることができないなんて、あんたも役立たずだね」

 姜氏が黙って一人で寝室に戻ったことはひとまずおきます。さて、譚紹聞は書斎に戻りますと、蝋燭を一本つけました。盛希僑

「どこへ行っていたんだい。ずいぶん待ったよ」

「夏おばさんが亡くなったんだ」

「そんなつまらないことはどうでもいい。弟が辺公に僕を告訴し、審理が行われることになったんだ。君、僕は世間にあわす顔がないよ」

「どうしてそんなことになったのですか」

「僕はまったく字が読めない。しかし、女房は悪い奴で、こっそり自分の下男に命じて、二頃の土地を抵当に入れたんだ。弟はそのことを調べあげて、僕が共有の財産を手放してへそくりをし、弟を欺き、私腹を肥やしたと訴えたんだ。証人は不動産屋と小作人だ。僕は詳しく調べたが、質札は僕の名義になっていた。僕が少しでも事情を知っていたとしたら、僕は人でなしだ。僕が女房にこんなことをさせたとしたら、僕は明日彼女に例のことをさせることにするよ[24]。しかし、土地を抵当に入れたときの証文もあるし、口利きをした人もいるし、土地を耕作する家もある。僕には豚や犬のような心はまったくなかったのに、女房のせいで、面子が丸潰れになってしまったよ。明日になったら、役所へ審理を受けに行くが、世間は僕を見て、祖父が布政司になり、父は州判になったのに、どうしてあんなならず者の息子が生まれたんだろう、自分の実の弟をだまして、共有財産を手放して私腹を肥やすなんて、と言うだろう。僕は世間が密かにこう罵るだろうことは分かっているが、それを聞くことができないのが残念だ。本当に首を吊って死んでしまいたいよ」

「弟さんに土地を半分わけてあげれば、何も言われないでしょう」

「もちろん、あいつに半分わけてやろうと言ったさ。だが、女房は旧家の出のくせに、生まれつき家を乱す、賢くない奴で、どうしても承知しようとしなかったんだ。そこで、僕は弟に話をしたが、弟も、僕が多くの先祖の財産を売り、こっそり共有財産を使って私腹を肥やした、騙しとったのはこの二頃の土地だけではない、私腹にいれた銀子はどれだけあるか分からない、と言ったんだ。僕はただただ口をあけて何もいうことができなかったよ。本当にひどいぬれぎぬだが、どうしようもないんだ。この前の晩、千二百両で商売をしようという話しをしたが、僕たちが広間で話しをしていた時、弟は人を遣わして盗み聴きをしにきたんだ。今ではあの金も僕のへそくりということになってしまったよ」

「僕の銀子がどこにあるかおっしゃってください。僕はすぐにあの金を返していただきたいのです」

「僕が関帝廟から借りた銀子だと言っても、あいつは承知しないんだ。君の銀子だと言ってもなおさら承知しないよ」

「満相公が証人になるでしょう」

「満相公は弟に罵られて、今では帳房を去ってしまったよ。弟は満相公に、盛家の飯を食っているくせに、どうして兄貴の肩をもって、俺を陥れるんだ、普段から偽の経費の帳簿をつけていたくせに、今でも兄貴がお前一人を家においているのは、気脈を通じているからに違いない、俺はお前のような恩知らずの食客をぶん殴ってやる、と言ったんだよ」

「今回の件を、どうしようと思われているのですか」

「この西街の胡同に、馮健という男がいる。有名な代言人だ。君の家を借りてその男を呼び、訴状を書いてもらおう。そして、明日、宝剣児に訴状を届けさせよう。事件が解決したら、馮健には五両の謝礼をやるつもりだ」

「それはお易い御用です」

すぐに徳喜児に馮健を呼びにいかせました。

 まもなく、馮健が小さな提灯を下げて、書斎にやってきました。挨拶をして腰を掛けますと、

「私は近所の者ですが、この書斎に入ったのは始めてです、本当に静かですね。若さまからお招きを受けましたが、どういうご用件でしょうか」

譚紹聞

「僕のことではないんだ。盛兄さんがちょっと頼みたいことがあってね」

盛希僑

「話すと怒りで体が萎えてしまいそうだよ。譚君、君だって事の顛末を知っているんだから、僕に代わって馮さんに説明して、訴状を書いてもらってくれ」

譚紹聞は二百両の銀子を返してもらえなくなるのが心配でしたので、すぐに馮健を廂房に呼び、詳しく事情を話しました。二人はふたたび書斎に行きますと、馮健

「盛さま、もしも─」

「僕が土地を抵当に入れたんじゃないんだ。僕はあんたを騙したりしないよ。僕の女房が抵当に入れたんだ」

「それをおっしゃってはなりません。盛さんがもしも弟さんを負かそうと思われるなら、この私が訴状を書いて差し上げましょう。そうすれば、弟さんは知事さまから罰せられること請け合いです。あの人に肩書きがあろうが心配はありません」

「そうじゃない。そうじゃないんだ。実の弟が数畝の土地、一二尺の廊下のために、裁判所に這いつくばり、何度も跪けば、たとえ裁判に勝って、土地や廊下が僕の物だという判決が下っても、僕は位牌の前で香を焚くこともできなくなるし、清明節の墓参りもできなくなる。今回の事件は、僕の女房がろくでなしで、弟がせっかちだったために、間にはさまれた僕が人でなしにされてしまったものだ。僕は今まで人が恐ろしいと思ったことはなかったが、今では人に会うのが、恥ずかしい気がするよ。どうか県知事さまに事件を丸く収め、尋問をしないようにお願いしてもらいたいんだ。馮さんが書状を書き、尋問を行わないという許可を得ることができたら、僕はお礼をするよ。僕はどうしても家庭内で事件を処理したいんだ。弟にどうされようが構わない。僕は、法廷で裁判をして、自分の面子を潰すくらいなら、財産や金銭を失う方がましなんだよ。遠くの省にいる親戚に噂され笑われたり、近くの街で後ろ指を差され唾を吐かれるのを免れることができれば、それでいいのさ」

馮健はびっくりして言いました。

「盛さまがそんなに立派な方だったとは知りませんでした。代書いたしましょう。お礼は結構です。私は普段よそさまのご兄弟のために訴状を書いておりますが、彼らは同じお腹から産まれ同じ乳を吸った兄弟なのに、殺してやる、生かしちゃおかんぞ、と互いに言いあっています。今日は兄弟を丸く収めるための書状を書くことができ、今まで筆で犯してきた罪が軽くなるというものです[25]。譚さん、紙を持ってきてください。それから一本蝋燭をつけたしてください」

馮健は眼鏡を掛け、筆に墨をつけますと、書き始めました。暫くして、書き終わりますと、二人に渡し、蝋燭の下で一緒に読みました。

申請者国子監生盛希僑は、娘娘廟大街の保正田鴻の管轄区に住んでおりますが、兄弟の誼を重んじ、財産を譲ろうと思います。知事さまには我々を憐れと思し召し、尋問を行われませぬよう、お願い申し上げます。知事さまは私の弟希瑗から、私が弟をないがしろにし、私腹を肥やしたという訴状を受けられ、取り調べを行うという裁決を下されました。私は裁決を受けて恐懼し、何と申し上げてよいか分かりません。思うに先祖は役人をして僅かな遺産を残しましたが、相続財産の多寡について争ったりはいたしませんでした。母は晩年を迎え、弟を貧しくさせ、兄を富ませるに忍びず、弟は三歳で父を失い、父親の教えを受けたことがございません。私は十年間家を守っていましたが、私腹を肥やした疑いを免れることができませんでした。しかし、分家をして、兄弟で不徳なことをした上に、そのことを書状にして訴えれば、ますます兄弟の情が薄いことを明らかにすることになります。さらに知事さまの罰が加えられれば、兄弟の誼は永遠に損なわれることになりますし、利益を得ているかどうかを調べても、兄弟がふたたび仲睦まじくなることは期待できません。違う姓同士の付き合いでも、管鮑の交わりがございますし、同じ母の乳を吸った者にも、祥覧の情[26]がございます。どうか知事さまには親孝行の情を憐れと思し召し、兄弟の仲を丸くおさめ、とりあえず内々に処置することを許され、法廷での尋問を行われぬようお願い申し上げます。そうすれば、生きている者は忘れずに恩に報い、死んだ者も永遠に感服し続けることでございましょう。

嘉靖□□年□月□日訴状持参人汪宝剣

 譚紹聞が読み終わりますと、盛希僑

「僕は分からない。目隠しをされた驢馬のような僕が、役所へ行って実の弟と財産を争う裁判をすることなど、できると思うかね。[27]

「十中八九沙汰止みにするという判決が下るでしょう。法廷に行かずにすむこと請け合いです」

「この訴状一枚で、僕は救われた。僕は人前に出ることができるようになった。あなたは僕の恩人だ。後日、厚く礼をさせてもらうよ」

「結構です。私はこれからは、他人のために訴状を書いたりは致しません。私の一本の黒い槍で、どれだけ世間の倫理道徳が損なわれたか分かりません。私は手元に金がありませんでしたので、よそさまの数両の銀子を得ようとしていたのですが、実のところ、床に就いても心は休まりませんでした。今日、書状を書いて、心が楽になりました。私は人をこっそり殺すようなひどいことをしようとは致しません。これ以上訴状を書いたら、子孫の代まで永遠に人でなしになることでしょう」

譚紹聞

「あなたがそんなに後悔するのなら、あなたに訴状を書いてもらった人は、どれだけ後悔しているか分かりませんね」

馮健

「いえいえ、全然後悔はしていませんよ。ここ三か月の間に、弟と裁判を起こして、私を代言人に頼んだ人がいました。その人は晩には門を閉めて私に話しをし、朝には私の枕もとに座って話しをしましたが、そのひそひそ話たるや、まったく聞くにたえないものでした。その人は、私に何とかして訴状を書かせ、弟をやっつけようとしていたのです。しかし、その人が争っていた財産は、私への謝礼よりも少いものでした。その人は、三班六房[28]で人に会えば食事をおごっていましたし、下役を見れば腰に銀子を詰めこんでいましたが、これこそ『猫を争って牛を忘れる』というものです。ところが、その人は、昨日、曹門で私に会いますと、私を酒屋に連れていき、私に向かって、今年の冬また弟を告訴するといいました。こうした人々は、後悔などせず、弟の家がすっかり死に絶えるまで、手を休めないのです。私は、これからは、誓って訴訟を唆すような商売は致しません」

 盛希僑

「譚君、書き写してくれ」

「満相公にやらせてはいかがですか」

「弟は満相公の筆跡を知っている。承発房[29]へいって筆跡を調べれば、きっと満相公を糞味噌に罵るだろう」

「僕だって筆跡がばれるのは嫌ですよ」

盛希僑は笑いながら言いました。

「君は僕の家で文字について話しをしたことはないし、筆を使ったこともないから、ばれる筈がない。今日、君の家で書いてもらおう」

馮健

「その必要はありません。明日の朝、お宅の下男を代書屋にいかせて書かせ、印鑑を押せば、三十文で届けてくれます」

「それでうまくいくのなら、僕は帰るぞ」

馮健は別れを告げました。三人が胡同を出ますと、ちょうど盛家から迎えが来たので、人々は別れました。譚紹聞

「例の銀子は、明日取りにいきましょうか」

盛希僑

「君には持ち帰らせないよ」

譚紹聞はがっかりして家に戻りました。

 この回では、兄弟が訴訟を行うことは、世の中に少なくないが、盛公子だけは妻が悪いのだといったこと、馮代言人が訴状を書いたのを後悔したことをお話し致しました。皆さんが、兄弟で「(こもごも)(うれ)ひを為す」[30]者に会われた時に、二言三言いって喧嘩をやめさせれば、それは無限の功徳というものです。俚言詩にもこう申します、

同じ家にて兄弟が争へり、

息子の多きをいかんせん。

兄弟は幼きときは、

竹馬に乗りひらひらと踊りたり。

庭先で襟を牽き、袖を執り、

弟に兄さんと呼ぶことを教へたり。

一人が転べば一人が起こし、

父母はそれを見てハハと笑へり。

本日は法廷にひれ伏して、

舌鋒はいとも鋭し。

骨の朽ちたる父母は、

墓場で泣くもなすすべもなし。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]道士の部屋。

[2]閻魔廟。

[3]王族の邸宅。

[4]未詳。

[5]判官。

[6]神の使い。

[7]地獄の獄卒。

[8] うるち米の粉などで作った球形の食品、あんがあり、煮て食べることが多い。

[9] うるち米の粉などで作った球形の食品。大きくてあんがあり、ス─プと共に食べる。

[10]小麦の食品、薄い小麦の皮にあんを包み、普通はよくにてからス─プとともにたべる。

[11] さつまいもの澱粉から作るはるさめのス─プ。河南の食品。

[12]柳で編んだ笊。

[13]水の神。『玉篇』に「魍、魍魎、水神、如三歳小児、赤黒色」とある。

[14] 「びっこの蘇」の意。

[15] 「死んでしまった」と言うこと。墓誌銘の末尾を「嗚呼哀哉、尚饗」とすることに基づく。ここでは、諧謔的な語気を含む。

[16]災いを避けるための次第書き。

[17] しんこ細工の人形。

[18]五石のこと。『抱朴子』に「五石者、丹砂、雄黄、白礬石、曾青、磁石也」。

[19]災いの神。

[20]疫病神の廟。

[21]漢代の詩人。酒宴で見初めた卓王孫の娘卓文君との駆け落ちで有名。

[22]漢の人。『漢書』巻六十四に伝がある。家が貧しかったため、妻に逃げられた。後に会稽太守になり、妻を迎えたが、妻は一か月後に自縊した。

[23] 『覆水盆に(かへ)らず』の故事は、本来は、『冠子』に見える太公望の故事で、朱買臣とは無関係である。しかし、朱買臣ものの戯曲(戯文『朱買臣溌水出妻記』、雑劇『漁樵記』、伝奇『爛柯山』)では、朱買臣が、再会した妻に、盆の水を地面に零させるという物語が設定されている。

[24]原文「我若叫老婆干這个事、到明我就叫他干那个事」。誓いを立てるときの言葉。「那个事」とは、具体的には、売春をさす。

[25]訴状の代書は、罪悪とされていた。『文昌帝君陰隲文』著述過格「代写一詞状。十過。致人傾家及害命者過十倍」とある。

[26]王祥、王覧兄弟の情。兄弟仲睦まじいこと。『晋書』王覧伝に見える、母親の虐待を受ける王祥を、王覧がかばった故事に基づく。

[27]原文「低只説還叫我戴着驢遮眼、進衙門打那同胞兄弟争家業的官司、去也不去」。「低只説還叫我戴着驢遮眼」未詳。とりあえず、上のように訳す。

[28]役所の下役。p班─牢獄の看守─、壮班─捕縛係、快班─探偵─と、吏、戸、礼、兵、刑、工房。

[29]清代の吏部および地方の書吏の名。文書の発送などを司る。

[30] 「互いに争う」。『詩経』小雅、角弓に典故のある言葉。

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