第四十六回
張縄祖が役人と交わり賄賂を贈呈すること
假李逵が刑罰を受けて賭博を自供すること
さて、孔慧娘は、生まれつき聡明で、性格も穏やかでした。彼女は、若い頃から、父親の教えを聞き、婦人の「徳、言、容、功」[1]についても、もとよりよくわきまえていましたし、勉強して身を立てるのが、夫の勤めであるということも、よくわきまえていました。それに、朝廷にあっては国家に報い、官職にあっては人民を愛し、歴史に名をとどめ、先祖の祭祀を絶やしてはならないということも、父から聞いていました。頭脳は明晰で、まるで鏡のようでした。彼女は、最近、夫が行為が下品なものになっているのを見ていましたし、夫のすることが、身分不相応になっているのを目の当たりにしていました。そして、今日は、夫が街の真ん中に引っ張ってゆかれ、怒鳴られたので、何の希望もなくなってしまったのでした。普通の女性であれば、今のところ豊かな財産、食べる物、着る物もありますので、我慢ができたでしょうが、慧娘にとっては、貧富は問題ではなく、夫が賢いか不肖かということが問題でしたので、我慢することができなくなってしまったのでした。
ですから、街で騒ぎがおこり、声が高く低く、部屋にまで聞こえてきますと、慧娘は、体が萎え、痺れ、痰が喉にのぼり、顔にびっしょり汗をかき、四肢をだらりとさせ、喉が痰で塞がり、息ができなくなってしまいました。冰梅は、それを見ますと、興官児をおいて、すぐに慧娘を抱きかかえ、顔中に涙を流しながら、何度も叫びました。
「奥さま、しっかりなさってください」
王氏は、冰梅の叫び声を聞きますと、急いでやってきて、慧娘の頭を抱きかかえますと、叫びました。
「お前、しっかりしておくれ」
趙大児は、慌てて洗い水をさがしてきて、慧娘に飲ませ、痰をきらせました。王中は、東の楼の外にきて、様子を尋ねますと、すぐに姚杏庵の店へ処方をとりにゆきました。興官児は、何が起こっているのかあまりよく分かりませんでしたが、手に飴をもって、慧娘の口に押し込みますと、一言
「母さん、飴をなめて」
と言いました。冰梅は、胸が張り裂け、天が崩れたような気持ちになりました。家中は大慌てしました。紹聞は、中庭をいったり来たりし、ますます辛い気持ちになって、一人ごちました。
「もちろん僕は悪いことをしたさ。だけど、お前の気性も激しすぎるよ」
王氏は、本棚に真橘紅[2]があったので、ちょうどいいと思い、探してきて飲ませました。一杯の熱い茶を飲みますと、慧娘は喉を鳴らしました。冰梅が手で擦ってやりますと、程無く薄い痰を吐き、だんだんと呼吸ができるようになりました。王氏
「神様、娘をよくしてくだされば、黒豚と白羊を、お正月にお供え致します」
趙大児が生姜湯を一杯もってきますと、慧娘は、二口飲みました。興官児が飴を慧娘の手に渡しますと、慧娘は、息も絶え絶えに言いました、
「お食べ」
王氏
「どうしてまた発作を起こしたんだい」
「どうということはありません。ご安心なさってください」
人々は、慧娘が意識を取り戻したのを見ますと、自分の仕事をしにゆきました。しかし、冰梅だけは、興官児を抱いて、茶と湯を捧げ、暇を見付けて、慧娘をなだめました。
「奥さまは、気性が激しすぎます。少し我慢して、割り切られてください」
「冰梅、私の気性が激しいのではないのです。腹を立てるということは、誰にでもあることですが、私たちの怒りは、そうした怒りではないのです。よそさまがそのような怒りを起こすのは許されます。しかし、読書人の家で、この様な恥ずかしいことが起こるのは許されないのです」
そして、小声で言いました。
「私は、もう重い病気に罹っています。自分で分かるのです。多分、長くはないでしょう」
「医者をよんで、治療されるといいでしょう」
話しておりますと、譚紹聞が入ってきました。彼は妻と妾が何を話していたか分かりましたが、残念なことに、自分には、何もいうことがありませんでした。
その日の夕方は、何事もありませんでした。翌朝になりますと、紹聞、王中主従は、顔を合わせました。紹聞も王中もきまりが悪く、互いに言葉もありませんでした。王中は、假李逵が取り立てにきたのが何の金かを、尋ねることができませんでしたし、紹聞は、酒に酔わされて、賭けに負けたことを話すことはできませんでした。王氏は、可愛い息子が戻ってきて、賢い嫁が回復したので、あまり事情を尋ねませんでした。
ある日の朝、双慶児が、一人の使いをつれて、表の中庭にやってきました。彼は、手に一枚の朱書きの令状をもっていました。そこには、
祥符県正堂程は、債務を返済せず、逆に人を殴打した件─假李逵の訴えによれば譚紹聞が五百両を借り、花押を押して証文を作りながら、返済を行わず、更に殴打をほしいままにしたという─につき、下役に文書をもたせ、すぐに譚紹聞と下男王中、証人白興吾を呼び、役所で審問する。賄賂をとることは許さぬ。遅れれば罰する。急ぎ、令状に書かれた者に届けよ。
とありました。譚紹聞は、県の文書を見ますと、びっくりして、王中を呼んで相談しました。遣いの者にも適切な処置をしたことは、いうまでもありませんでした。
皆さん、お考えください。紹聞の借金は、もともと賭博の借りですから、いかに假李逵が図々しくても、役所に訴えることはできなかったはずです。実は、これには理由があったのです。それは、郷紳が役所と結託していたからでした。昔から、郷紳が賭博や女遊びをする時は、必ず役人と結託するのです。また、役所の狡猾な経承[3]、書吏、力のある下役の頭も、刎頸の交わりを結ぼうとし、まるで同じ穴に住む鳥と鼠のように仲良くするのです。程公は、南陽へ被災民の査察に行き、主簿の董守廉に文書の閲読、署名などの職務を代行させていましたので、こうしたことが起こったのでした。假李逵は、譚家に来て、乱暴を働き、街中の怒りをかい、ぶたれそうになったので、張縄祖は、假李逵を銀子の催促に遣わすことができなくなりました。しかし、口もとの脂身をあっさり捨ててしまうことなど、できるはずがありませんでしたので、王紫泥と相談しました。
「譚家の小僧には、去年一度百両勝たせてやったが、あれはちょっといい思いをさせてやっただけのことだ。ところが、あいつは二度と針にひっかからなかった。この間は計略をめぐらし、たくさんの金を使って、あいつから五百両を手にいれることができるようになった。ところが、あいつは、七両の現金をもって、逃げてしまった。あの時、俺は、人命事件が起こるんじゃないかと心配だったし、范師傅が追及を受ける心配もあった─范師傅は法廷に行って、一回拶子[4]にかけられれば、きっとぺらぺらと自白してしまっただろう。今の程知事は、人民にとっては父母のようだが、悪人にとっては閻魔さまだ。俺たちには大した肩書きはないから、『恥有れば且つ革む』[5]ということになってしまう。まあいいや、その話しはやめよう。譚紹聞が戻ってきたんだから安心だ。昨日、假李逵に命じて、銀子を催促させたが、假李逵は、金持ちの家の子弟に賭けの借金を催促するときは、手荒なことはせずに、うまいことを言って、金を払ってもらえばいいということが分かっていなかったんだ。あの犬畜生は、何を考えたか乱暴を働き、蕭墻街中の怒りをかってしまった。さいわい、白存子が、街で酒屋を開いていて、顔馴染みで、彼らをひきわけて宥めたので、その場から離れることができた。今度、もう一度假李逵を取り立てにゆかせようとしても、あの犬畜生(譚紹聞)は、酒を飲んでいるときは、肝が据わっているが、酒を飲んでいないときは、肝が小さいから、今度は出てこようとはしないだろう。王さんよ、この銀子を手放すとなりゃあ、范師傅へ四両、夏逢若へ十両、譚紹聞へ七両、二十一両の金を払ったことになるぞ。どうしたものだろうな」
「没星秤、『張天師が雷をなくす』[6]とは、このことだ─あんたは、何の名案もなくなってしまったんだな。あんたに聞くが、俺たちが、今まで役所と付き合っていたのは何のためだい。今、程公は役所にはおらず、董さんが、捺印の仕事を代行している。あの人は、俺たちとは仲が良いし、頭も切れるし、人の言うこともよく聞いてくれる。贈り物を用意して、お祝いと称し、話しをしている時に、この事をもちだそう。董さんに、幾許か払うことを約束して、文書を書いてもらえば、譚の小僧が借金を踏み倒すことはないと思うが」
縄祖は、笑い出し、王紫泥の肩を叩きながら、
「諺に、『殴りあう者は蹴るのを忘れる』という。『権力をもった人がいるのに利用しないのは、いないのと同じ』ということだな。今度ばかりは、あんたに敬服したぜ。あんたのいう通りにしよう」
そこで、張縄祖は、十二種類の贈り物を買い、王紫泥は、街から全帖を買ってきて、代書してもらいました。二人は、新しい帽子を被り、新しい服を着、草鞋を靴にはきかえました。假李逵は、礼物をいれた盒子を担ぎ、主簿[7]の役所にやってきました。名刺を出し、礼物を送りますと、門番が
「どうぞ」
といいました。董守廉は、軒先に立っていました。二人は、腰を屈めて中に入り、挨拶をしますと、茶を飲みました。董守廉
「年兄のご来訪を賜り、光栄です。その上、立派な贈り物を頂きまして、申し訳ございません」
王紫泥
「董さまが役所の職務を代行されているのは、上司の方が、あなたの人物を見込んで、職務を任せたからです。これは昇進の兆しで、もうすぐその通りになることでしょう。謹んで前祝いをいたしますので、どうかご笑納ください」
張縄祖
「城内では、董さまが昇進されるという噂が、すでにひろまっており、人々も喜んでおります」
「そんなことはございません。知事さまが南陽に出張中なので、布政司が、私に代理を命じられたのです。ただの代行ですよ。知事さまにかわって署名、捺印をしたり、帳簿を調べて、税を取り立てているだけのことです。任務をこなせないのではないかと、大いに心配しております」
更に、役人の常套句を並べました。そこで、張縄祖は、王紫泥に目配せしました。王紫泥は了解して、いいました。
「今、城内でとんでもないことが起こっているのです。董さまにお報せしなければ、董さまに隠し立てをしたということになります。しかし、董さまにお報せすれば、知事さまがお怒りになるのではないかと心配です」
張縄祖
「これは、知事さまに訴えるべきことなのですが、平素、あなたと親しくしているので、隠さず申し上げるのです」
「どういうことですか。お聞かせください」
王紫泥
「張さんに假李逵という甥がいて、蕭墻街の譚紹聞に、銀子五百両を貸しました。証拠に花押を書いた証文があります。証人は白興吾です。ところが、假李逵が、譚紹聞に向かって、銀子を催促したとき、譚紹聞は、銀子を出さなかったばかりでなく、悪い下男の王中に命じて、馬用の鞭で假李逵をぶたせたのです。假李逵は、怒りのあまり、四百両しかいらない、残りでお礼をしたいと申しております」
董守廉は、欲望の炎を燃え立たせました。そして、何度も
「それはひどい。甥ごさんをよんできて、私と一緒に役所へ行きましょう。とんでもないことです」
二人は、うまく話しがつきましたので、他愛のない無駄話をして、茶を一杯飲み、別れを告げますと、去ってゆきました。董守廉は、彼らを送り、ふたたび贈り物への感謝を述べました。
二人は、主簿の役所を出て、家に着きました。張縄祖は笑いながら罵って、
「何でお前の甥だと言わなかったんだよ」
王紫泥
「親戚でないといえば、お役人にでたらめを言ったことになるだろう」
そして、假李逵を呼ぶと、一部始終を説明し、笑いながら、
「大砲に火薬を詰めたから、あとはお前が火をつければドカンといくぜ」
すぐに相談をし、代書屋の蔡鑑を呼んできて(訴状の)原稿を書かせ、謄本を作り、印鑑を押し、銅銭百文を与えて、帰らせました。翌日、假李逵は、訴状をもってゆきますと、董守廉がちょうど出勤してくるのに会ったので、馬前で手渡しました。そして、裁判を有利にすすめるための準備をしました。
ところが、昼になりますと、程公の先遣隊が、役所に戻ってきました。そして、知事はもう朱仙鎮に行った、夕方には役所に着くだろうと言いました。董守廉は、もともと署名や税の取り立ての代行の仕事については、まったく報告をしていませんでしたので、城の外に出て、程公を迎えました。程公は、巡撫[8]、司道[9]のことを尋ねました。城内に入ってから、報告と仕事の引き継ぎがおわりますと、南陽で被災民を救助した話しをしました。そして、晩に簽押房に入り、蝋燭を皓々とつけ、訴状を調べていますと、中に譚紹聞の債務不履行を告発する訴状がありました。そこで、礼房に命じて、学台の答案をもってこさせ、閲覧することにしました。礼房が答案を宅門の中にとどけますと、程公は、譚紹聞の順位をみようとしました。ところが、合格者の中に譚紹聞の名はありませんでしたので、心の中で、少し腹を立てました。礼房に尋ねますと、譚紹聞が試験に遅れたことが分かりました。程公は、假李逵の訴状を見ますと、筆をとって「喚問を許す」という字を書き込みました。そして、書き込みをした訴状を送りだし、簽押房の役人に命じて、すぐに原稿を書かせました。そして「行」[10]と書き付け、正式な文書を作るように催促しました。令状が送られてきますと、朱筆を入れ、部下に渡しました。さらに、幾つかの文書を読み、仕事を終えますと、床に就きました。
翌朝、下役が令状を持って、譚紹聞を捕らえにきました。譚紹聞は、王中を呼んで、相談をし、張家で酔っ払い、五百両をだましとられたことを初めて話しました。王中もどうしていいか分かりませんでした。紹聞は、奥へ行こうとしましたが、下役は承知しませんでした。それに、紹聞には、肩書きがありませんでしたので、訴状の前では、護身符はありませんでした。下役は、ものも言わずに、鉄の鎖を、テ─ブルの上に置きました。王中が慌てて、袖の中に銀子を詰め込み、後でさらに付け届けをすることを約束しますと、下役は、ようやく鉄の鎖をしまいました。紹聞は、下役と食事をとりましたが、二三口ス─プを飲んだだけでした、下役は、狼か虎のようにがつがつと食べました。そして、食事が終わりますと、紹聞主従を連れてゆきました。まさに、
法律を犯せば我が身はままならず、
人を促す黒字、赤丸[11]。
紹聞は、王中とともに役所に出頭しますと、下役の頭に引き渡されました。下役の頭は、すぐに假李逵、白興吾を公案の前に呼ぶように促し、下役は飛ぶように走ってゆきました。
譚紹聞主従は、監獄で、小便も自由にすることはできませんでした。間もなく、警蹕の声が聞こえ、程公が大堂[12]に腰掛けたことが分かりましたが、程公が何をしているのかは分かりませんでした。遠くからはわめき声が聞こえたり、やんだりしました。更に暫くしますと、下役が、假李逵、白興吾を班房に連れてきました。假李逵は、譚紹聞を見ますと、罵りました。
「悪党め。とぼけやがって。人から銀子を借りたくせに、踏み倒そうとするとはな。来世は牛馬に生まれ変わって、埋め合わせをしろよ」
譚紹聞は、じっと黙っていました。下役が假李逵を怒鳴りつけますと、假李逵はようやく黙りました。
すると、門番が入り口にやってきて、
「犯人、証人が揃ったので、審問を行う」
下役は、一同を連れて、儀門に着きますと、原告と証人には、東の側門に、被告には西の側門に跪くようにと言い付けました。そして、朱筆で書かれた文書を手に持ちながら、法廷にとんでゆきました。跪いて文書を提出しますと、大声で報告しました。
「假李逵の訴状により、原告被告を、審理のため連れてまいりました」
門番は、文書を知事の机に置きました。程公は、それを見ますといいました。
「原告の文書をもって参れ」
掛りの役人が、假李逵の、テ─ブルの上に訴状を置きました。程公は、昨夜、忙しかったので、訴状を少し見ただけで、審問を行うのを許したのでした。しかし、今日は、この事件を審理することになったので、原告の訴状を細かく見ました。訴状にはこう書かれておりました。
原告假李逵は、城の東南の隅、保正王勤の管轄する所に住んでおります。債務不履行、殴打の件に就いてご報告申し上げます。譚紹聞が、私の銀五百両を借り、白興吾が証人となりました。証拠として花押を書いた文書もございます。私は、譚紹聞に銀子を催促しましたが、譚紹聞は、ぐずぐずしていう通りにせず、凶悪な下僕の王中に命じて、馬用の鞭で私をぶちました。この様な、強きを頼んで弱きを挫くことがあっては、私は生きてゆくことができません。青空のごとき知事さまの机の下に、ご報告申し上げます。どうか捕縛を行い、刑罰を施されますように。
原告、假李逵
被告、譚紹聞、王中
証人、白興吾並びに花押
程公は、見おわりますと、假李逵を法廷に呼びだしました。
下役が呼び出しをしますと、賈李逵が法廷に走ってきました。そして、机の前に跪いて、
「賈李逵めが叩頭致します。知事さま、どうかお裁きを」
程公は賈李逵の様子を見ますと、尋ねました。
「お前が賈李逵か」
「左様でございます」
「譚紹聞が、お前から五百両の銀子を借りているが、何に使ったのだ」
「私は金を貸しましたが、譚紹聞が金を何に使ったかは存じません」
「お前は、譚紹聞がどんな事情があるのも知らずに、金を貸したのか。では聴くが、お前は、どうして五百両の銀子をもっていたのだ」
「私が少しずつためたのです」
「お前は譚紹聞と親戚なのか。友人なのか」
「どちらでもございません」
「五百両の銀子を借りるということは、民間では大変なことだ。お前はどうして親戚でも友人でもない者に、ただで銀子を貸して使わせてやったのだ」
「譚紹聞が祥符で名を知られた地主なので、貸しても問題ないだろうと思ったのです。ところが、譚紹聞は権威をかさにきて返そうとせず、その上、下男に命じて私をぶちました」
「お前は、あの男が金持ちの地主だと知っていながら、どうして五百両の銀子を貸して、利子をとろうとしなかったのだ」
賈李逵は少し考えて、
「私は、利息を取るのは好きではないのです」
「お前は、五百両の銀子をどこで渡したのだ」
「張さんの家です」
「どこの張家だ」
「張老没の家です」
程公は尋ねました。
「張老没などという人物はいないが」
下役がかわりに答えました。
「その男は、渾名を没星秤といい、監生です」
程公は笑って、手に紙をとりますと、尋ねました。
「これがお前たちの借金の証文か」
「それは、譚紹聞が手ずから書いた花押です」
「どうして証文に假李逵と書いてあって、訴状には賈李逵と書いてあるのだ」
「私は文字を知らない愚か者ですから、知事さまのお裁きに従います」
「お前はひとまず下がれ」
賈李逵は、法廷から退出してゆきました。程公は、密かに思いました。
「あの男は李逵[13]そのものだ。假などとはとんでもない。地方の人命事件は、すべてああした人間が引き起こすのだ。憎い奴め」
程公は、さらに、白興吾を法廷に呼び、白興吾が跪きますと、姓名を尋ねました。
「証人になるのは簡単なことではない。彼ら二人が銀子の貸し借りをしたとき、お前は何が目的で証人になったのだ」
「『天に雲なきゃ雨降らず、地に人なけりゃ事成らず』と申しますから」
「つまらないことを言いおって。頬を打て」
下役は十回ビンタを食らわせました。ぶち終わりますと、
「お前に尋ねる。金はどこで渡されたのだ」
「私の酒屋の中です」
「酒屋の中で、相違あるまいな」
「譚さんが私の酒屋から銀子を借りたのは、今回だけではありません。去年にも一回借りました」
「下がれ」
白興吾は退出しました。
譚紹聞が法廷に呼ばれ、テ─ブルの前に跪きました。
「譚紹聞、お前は、賈李逵の銀子を借りたのか」
「借りました」
「何に使ったのだ」
「借金の返済に使いました」
「借金返済のために借金をしたのか」
譚紹聞は、程公が顔色をかえたのを見ますと、返事をすることができませんでした。程公はさらに尋ねました。
「どうして試験に遅れたのだ」
譚紹聞は、今度も答えることができませんでした。少し考えてから、
「母親が重病になり、叔父に会いたいと言ったので、私は、母親の命令で、亳州へ叔父を尋ねにいっていたのです。そこへ宗師がこられたので、試験に遅れてしまったのです」
程公は激怒して、何度も木鐸をならしながら、大声で、
「お前はあのごろつきたちと付き合い、下手な嘘をいうことまでおぼえたな。叔父を尋ねるなら、下男がいなくても、雇い人にゆかせればいいし、雇い人がいなくても、まさか省城の中で、亳州へゆく人間を一人も探し出せないというわけはあるまい。どうしてお前一人で行こうとしたのだ。それに、母親が重病なら、寸歩も離れるべきではないではないか」
程公は、それ以上尋ねずに、王中を呼んで、尋ねました。
「お前が譚家の下男か」
「はい」
「わしは馬の鞭の件について尋ねる」
「私が河北から戻り、裏門から家に入りますと、表門が騒がしかったので、手に馬の鞭をもったまま、外へ走ってゆきました。賈李逵は、私の主人を外に引っ張ってゆきました。そこで、私が主人を抱きかかえますと、あの男は私を平手打ちにしたのです。私は口の中が血だらけになりました。嘘ではございません」
程公はうなずき、それ以上質問はしませんでした。
賈李逵、白興吾が法廷に呼ばれ、四人は、知事の机の前に跪きました。程公は、彼らを一瞥しますと、言いました。
「お前たちは、一緒に賭博をし、強引に賭けの借金の催促をし、互いに争っていたくせに、図々しくでたらめの訴状を出すとはな」
賈李逵
「賭博ではございません。借金なのです。どうか知事さまのお裁きで、取り立てを行って下さいまし」
「借金なら、五百両の銀子は、民間では大変な金額だから、きっときちんと証文をかき、純度や目方に関する注をつけるはずだ。どうして一枚の紙切れに、訳の分からぬ字を何文字か書いて、大金を渡すことがあろうか。賈李逵、白状せよ」
「本当に借金です。賭博をしていたのではございません」
「借金なら、どうして一人が張家で渡したといい、一人は酒屋で渡したというのだ」
賈李逵は、異なった自供をし、馬脚が現れたことを知りました。そこで、一計を案じて、答えました。
「もしも賭博ならば、私が譚紹聞とともにかわり番こに棒でぶたれましょう。そうすれば何でも白状いたしましょう」
これは、譚紹聞が童生で、刑罰を受けますと、試験を受けることができなくなるので、程公が事件を借金として処理するしかなくなるだろうと考えたからでした。ところが、この一言が程公を激怒させました。
「この悪党め。わしは、お前たちの間の借金が、明らかに賭博によるものだから、実情に即して事件を解決しようと思っていたのに、お前は分際もわきまえずに、譚紹聞を巻き添えにし、彼の出世の邪魔をしようとしている。お前は張監生の家で金を渡したと自供したが、張監生の家で賭博をしたことは明らかだ。夾棍をもってこい。まず原告のお前と証人を夾棍にかける。張家で銀を渡したと言ったり、酒屋で銀を渡したと言ったりして、供述が異なるからだ」
門番が叫びました、
「皀隷、夾棍にかけろ」
下役たちが一斉に叫ぶと、法廷に七八人の髭もじゃの大男がやってきて、三つの木の刑具を法廷に立てますと、叫びました、
「刑具をもって参りました」
法廷中に声が響き渡りました。白興吾は慌てて、何度も言いました、
「張家で話しをつけて、酒屋で銀子を渡したのです」
「もう一度、この男をぶて」
一人の下役が、後ろから白興吾の頭を抱きかかえ、二十回びんたを食らわせますと、両頬は膨れ上がり、口からは血が流れました。程公は、賈李逵をすぐに夾棍にかける様に命じました。数人の下役が、賈李逵を押さえつけ、靴下を脱がせ、夾棍に嵌めました。掛け声とともに、夾棍を締め付けますと、賈李逵は、すぐに叫びました。
「本当のことを申し上げます。実は賭博だったのです」
譚紹聞、王中は、魂が空の彼方に消し飛んでしまいました。さて、側門の外では、張縄祖、王紫泥が、首を伸ばして、中を覗いていました。彼らは、董主簿が賄賂を受けて、借金の取り立てを行う事を望んでいましたが、事件は、県知事さまによって裁かれることになってしまいました。遠くから夾棍を使おうとしているのを眺めているうちに、張縄祖は、口の中が苦くなり、胆嚢から緑色の汁を出し[14]、王紫泥は、ズボンの中に小便を漏らしてしまいました。
さて、程公は、賈李逵が賭博をしたことを白状し、彼が書生を騙したり、譚紹聞を試験に遅れさせて、功名を不意にさせたりしたことを知りますと、ますます怒りました。賈李逵は、夾棍に掛けられ、痛みに耐えることができず、仕方なく、地蔵庵の范師傅が手紙を送ったこと、王紫泥、張縄祖が報せを受けて酒を用意したこと、紹聞が酔っ払ったこと、夕方に騙して賭けをしたこと、明け方に証文と花押を書かせたことを一切合切白状しました。程公は、尼の名が出たのを見ますと、連座する者が多くなって、すぐに事件を解決することができなくなると思い、言いました。
「これ以上でたらめをいうと、枷に掛けるぞ。枷をもってこい」
そして、張縄祖、王紫泥を、机の前に呼びました。程公は、簽を引き抜いて、人を遣わそうとしました。賈李逵
「王紫泥、張縄祖の二人は、二番目の門の外で裁判を見ています。知事さま、あの二人をお呼びください。そうすれば、すぐにけりがつきますから」
程公は、門番に命じて、二人を法廷につれてこさせました。張、王の二人は、二番目の門の外で首をのばして見ていました。そこへ、二人の下役がやってきて言いました。
「お二方、知事さまがお呼びです」
二人は、満月[15]の子供が雷を聞き、骨が砕けてしまったかのように驚きました。仕方なく下役について、脚の萎えた鴨のように、法廷に上がり、跪きました。
「二人とも郷紳なのに、理由もなく役所の前で中を覗いて、何を見ていたのだ」
王紫泥
「学校の試験からの帰り、知事さまが法廷にいらっしゃったので、ちょっと立ち止まって、お裁きを拝見していたのです。知事さまの役所の規則を犯したなど、とんでもございません」
「二人とも、用もないのに来たりはしないだろう。郷紳なら、どうして賭場を開帳し、法を知りながら法を犯したのだ。役所にやってきてうろうろしているのは、つてを求めてきたか、役人を手玉にとろうとしているのだろう。重く罰しなければ、わしはお前たち二人に愚弄されたことになる。とりあえず監獄に護送し、詳しく審問を行い、士籍から除いて、刑罰を加えることにしよう」
程公は、言い終わると席を立ちました。そして、雲板が響き、太鼓がどんどんと鳴る中、法廷を出て、奥へ行きました。
証拠に詩がございます。
高き冠と広き帯[16]とは、文人に味方せり、
下役は貪欲にして、結託するは簡単なれど、
心配は、後ろ指をば差さるることぞ。
最終更新日:2010年11月4日
[1]婦人の四徳。「徳(物静かで恥をわきまえていること)・言(弁舌が巧みなこと)・容(顔が美しいこと)・功(手工に巧みなこと)」。
[2]蜜柑などの皮を干したもの、咳止めに用いる。
[3]部院の下役の総称。
[4]旧時、手指の間に木片をはさみ、ひもで引き締めて苦痛を与える刑具。
[5] 「恥ずかしい行いをすれば懲戒される」。『論語』為政「恥有りて且つ格し」(恥を知って心から服従する)をもじったもの。「革」と「格」は同音。
[6]原文「張天師出了雷」。「神通力を失う」の意。張天師とは後漢の道士張道陵のこと。道士は雷を使って妖邪を払うが、これを失ってしまうこと。
[7]文書官。
[8] 原文「藩撫」。未詳。とりあえず、このように訳す。
[9]布政司、按察司と道台。
[10] 「宜しい」の意。
[11]黒い文字、赤い批点。役所の文書のこと。
[12]長官の居所。
[13] 『水滸伝』に出てくる豪傑の一人。
[14] 「肝を潰した(嚇破胆)」ということ。
[15]生後一か月。
[16]原文「峨冠博帯」、高官を譬える。
[17]辟雍(国子監の中にあり、天子が学を講ずるところ)の周囲に巡らされた水。
[18]国子監生を喩える。
[19]地方の学校の建物の南半分に巡らした水。
[20]地方の学校の生員を喩える。