第二十六回

下男に対し必ず過ちを改めることを誓約すること

盟友を誘い再び儲けを分けることを計画すること

 

 さて、五更の太鼓が鳴りますと、譚紹聞は平旦の気を湧きおこし、口では黙っていましたが、心の中でこう考えました。

「うちは読書人の家柄で、僕は小さい時から『五経』を暗唱してきたのに、どうしてあんな落ちぶれた郷紳の家に行って、あんな愚かなことをし、他人と一緒になって母親に食ってかかり、家の財産を失ってしまったのだろう。母さんは独りで、可愛い息子である僕のことを思い、真夜中から寝ないで、あれこれ撫でさすってくれたのに─」

さらに、父親が臨終の時、直々に「熱心に勉強をし、正しい人と付き合え」と言っていたことを思いだしますと、胸を痛ませ、思わず両目から涙を流し、いつまでも哭きました。そして、片手で母親の手を執りますと、叫びました。

「母さん。僕は二度とこんなことは致しません」

王氏「何か食べたいかい。台所の火は消していないんだよ。台所の連中は役に立たないが、私がお前のために何か作ってやろう」

紹聞は母親の言葉を聞きますと、悲しみが骨身に染みて、刀をとって自分で自分を殺してしまいたい気分になり、哭きながら、

「母さん、僕はろくでなしでした」

と言いました。

「おまえは私の子なんだから、どうということはないよ。どんな子牛だって母牛に逆らうし、どこの家の子だって母親に腹を立てるさ。お前が元気にさえなってくれれば、あんな七八十串銭の銅銭はどうってことないよ。お前も怒ると怖いんだね。これからは私をびっくりさせないでおくれ」

譚紹聞はますます哭いて、一言も喋ることができなくなってしまいました。

 冰梅は起き出してきますと、言い付けを待たずに、台所へ行き、急須で湯を沸かし、蓮粉を一杯温め、紹聞に捧げました。紹聞は尋ねました。

「何時頃かな」

王氏

「障子紙が明るくなっているから、もうすっかり夜が明けたよ」

「王中のところへ行きたいのですが」

「あれは汗の出る病気だから、お前にうつるんじゃないかね」

「いいのです。王中は我が家の良い召し使いです。あれが病気でなければ、私もこんなことはしませんでした。見舞いに行ってきます」

「あの病気は人にうつるよ。行くのなら、食事時にお行き。ちょっと食事をとって、酒を飲んで、趙大児に王中を呼んでこさせるんだ。あれが出てこれなかったら、部屋に焼酎を振り撒かせ、朮や艾の(おけらよもぎ)煙で燻し、すぐに出てくるんだよ。私の考えでは、いくら良い召し使いだといっても、何も主人が召し使いの家に出向いて見舞いをする必要はないと思うのだがね。あれだって困ると思うよ」

「母さんの仰る通り、食事時に会いにゆきます」

 しばらくして、趙大児が起きてきますと、王氏は紹聞が王中に会いにゆくことを告げました。趙大児は部屋に戻り、若さまが見舞いにくることを王中に話しました。王中は心の中で密かに思いました。

「これはおかしい。さては外で何か事件を起こして、どうしていいか分からなくなって、急いで相談しにくるのかも知れないぞ」

そこで、趙大児に向かって言いました。

「私を起こして、東の楼まで連れていってくれ。若さまとお話しをさせてもらうことにする。この病気はうつるかもしれないから、若さまをここに来させては駄目だ」

「あなたは動けないでしょう」

「前よりはずっと楽になった。ちょっと歩いても構わないだろう」

趙大児は夫を扶け起こしました。王中はちょっと食事をしますと、傘に縋り、扶けられながら、楼のある中庭に行って、言いました。

「坊ちゃま、下でお話しを致しましょう」

 紹聞は王中の声を聞きますと、すぐに出てきました。趙大児は王中を支えながら、東の楼の中に入ってきていました。紹聞は東の楼に入りますと、言いました。

「王中、座ってくれ」

「ぼろの敷き物を床に敷いてください。私は横になりますから。坊ちゃまは私からお離れになって下さい」

紹聞は座りますと、言いました

「王中、こんなに痩せてしまったのか」

王中は喘ぎながら言いました。

「二十数日坊ちゃまにお会いしませんでしたが、何のご用でしょうか」

「話せば長くなって、お前が疲れるだろうから、手短かに話そう。僕は今まで悪いことをしたから、お前も腹を立てていることだろう。僕は先代の臨終の時の、『しっかり読書し、正しい人とつきあえ』という言葉に従おうと思うんだ。お前は、あの日、先代の前で僕と一緒に話しをきいていた。僕は、今日、お前の前で誓いを立てようと思うんだ。僕は一心に今までの非を改め、正しい道を進もうと思うんだ。以後、この通りにしなかったら、僕はお前に会わせる顔がないのはもちろん、趙大児にも、会わせる顔がないよ」

王中は無理に体を半分起こしますと、言いました。

「坊ちゃま、旦那さまがお亡くなりになる時の言葉をよく記憶されれば、私たちの家も良くなることでしょう」

言い終わらないうちに、王氏が病気がうつるのを心配して、門の外で言いました。

「出ておいで。王中をこれ以上疲れさせるわけにはゆかないよ。お前が心を改めればそれでいいんだよ」

「奥さまの仰る通りです」

紹聞は仕方なく外に出ました。王氏は二階へ紹聞を引っ張ってゆき、また二三杯の酒を飲ませました。

 王中がさらにしばらく休みますと、趙大児は彼をささえて帰ってゆきました。王中はひたすら天地への感謝の言葉を吐きました。もともと人間の体の病は癒し易く、心の病は癒しがたいものです。しかし、王中は、若さまが心を改めるという言葉を聞きますと、心の中から一本の太い梁が抜かれたようになりました。それに、もともと汗もすっかり出ていましたので、三四日でだんだん良くなり、十日以上たちますと、普段通りになりました。さらに病後の食欲も出て、以前よりも太りました。紹聞は、半月間ずっと外出しませんでした。夏逢若も何度か来ましたが、紹聞は病気を理由に会いませんでした。これぞまさに「過ちて能く改め」[1]1、過ちのない状態に戻る、というものでした。

 ある日、王中は、楼門の前に行きますと、言いました。

「若さまは半月外出されませんが、毎日ただ座って何もなさらないというのも、まともではございません。とにかく勉強なさることが一番です。勉強するには先生につかなければなりません。先生につくことを相談されるのが宜しいでしょう。しかし、先生を呼ぶといっても、もう冬も近いですから、来年になってから、急いで先生を呼ぶことについて考えることにしましょう。若さまは、奥の書斎で、毎日静かに読書をされてはいかがでしょうか」

「奥の書斎は役者たちにめちゃくちゃにされてしまったから、蔡湘によく掃除させなければいけないな」

 王中は碧草軒に行きましたが、箱、筒が置かれていましたので、胸糞が悪くなりました。そこで、紹聞を碧草軒に呼び、箱、筒の処理について相談することにしました。紹聞は碧草軒に行きますと、王中に対する慙愧の気持ちで一杯になりました。王中

「これらの物を、どう処理されますか」

紹聞は少し考えて、

「仕方がない。侯先生がいた空き部屋に運ばせよう。茅の奴が帰ってきたら、借金や食事代の貸し二百数両を返してもらってから、持ってゆかせることにしよう」

「たとい二百両の銀を失っても、こんな物を私たちの家に置いておいては絶対にいけません」

「この箱の中は見たことがないが、あいつは千数百両の衣装が中にあると言っていた。後日、茅の奴に借金を踏み倒されないようにするためには、箱をとっておく必要があるんだ。空き部屋に置いておいて、万一誰かに盗まれたりするようなことになったら大変だ。明日、部屋に住む人を探して、見張らせることにしよう。多分、もうすぐ茅が運んでゆくだろう」

王中は宋禄、ケ祥、徳喜児、双慶児に蔡湘を手伝わせ、箱、筒を全部運びだし、一日がかりで掃除をしたので、部屋や庭はさっぱり片付きました。さらに、左官屋、表具師を呼び、壁を塗り、障子を貼らせ、人が中に入れるようにしました。紹聞は以前読んでいた本を抱えて、書斎に入り、読書をしました。

 突然、蔡湘が言いました。

「最近、靴屋が、箱、筒を置いた部屋を借りたがっています。二間借りたいのだが、もし貸してくれたら、一年に三千銭出そう、家で彼に仕事をしてもらいたい時は、ご奉仕しよう、我々が部屋を使うときは、いつでも、一声掛けられれば、出てゆこう、と言っています。今、箱が置いてありますが、彼にあの中庭を見張らせておけば安心でしょう」

実は、蔡湘は街で古い靴を直した時、靴屋と世間話をしたのでした。靴屋が部屋を借りたいと言ったので、蔡湘は言いました。

「うちの主人が二間の部屋を持っているよ」

すると、靴屋は直し賃をただにしてくれました。ですから、蔡湘は家に戻りますと、若さまを一生懸命唆したのでした。

「金額は問題ではない。あの中庭を見張ってもらうことが一番大切なのだ。王中は家にいないから、城外から帰ってきたら相談することにしよう。僕は、今、勉強中だから、そういう小さなことには関わらないよ。しかし、きちんとした人だったら、あの箱を預ける事ができるだろう」

「ささやかな商売をしている人ですから、勿論ちゃんとした人ですよ。王中は、今、家にはいません。城外に、長男が死んで、仕事をする人がいなくなったために、土地を離れようとしている小作人がいるのです。王中が小作人の落ち着き先を決め、年貢の借りを清算するためには、あと何日か必要でしょう」

「その靴屋に賃貸契約書をかかせ、保証人を探して、住まわせることにしよう」

 次の日、靴屋は契約書を持ってきました。彼は高鵬飛といい、保証人を探して、碧草軒にやってきました。

「保証人は僕の知らない人だな」

「私は知っております。南門の宋家の店でボーイをしている秦小宇です」

紹聞は、契約書を受け取りますと、部屋を貸すことを承諾しました。実は、蔡湘は秦小宇のことなど知らなかったのですが、自分が持ち掛けた話しが、成立しなかったら困ると思い、口から出任せに、知っているといってしまったのでした。この事はひとまずおきます。

 さて、紹聞は三四日一人で書斎に座っていましたが、だんだんと気分が滅入ってきました。日が暮れて部屋に帰ろうとしますと、突然、夏逢若が書斎に入ってきて、開口一番、こう言いました。

「病気が良くなったのかい。何度も来たんだが、全然出てこなかったね。実は僕の用事で来たんじゃないんだ。紅玉が僕に手紙を託しているんだよ。僕はあれに、二三度君のところに行ったが、君は病気だから、会うことはできないぞと言ったんだ。すると、あの娘は泣き出してしまってね。僕は彼女のために汗巾[2]2を一本届けることになったんだ。君に渡すぜ。用事はこれだけだよ」

そして袖から汗巾を取り出して、紹聞に渡しますと、言いました。

「じゃあ失礼」

紹聞は汗巾を受け取りますと、逢若を引き止めて、

「ちょっと待ってください。僕は、数日間、本当に体が悪かったんです」

「悪かっただの悪くなかっただの、僕に言ってどうするんだい。僕は医者じゃないぜ。君のところに手紙を届けにきただけだ。後は二人で勝手にしてくれ」

「今すぐにでも行きたいのですが、駄目なのです。この前、家で騒ぎがあったので、僕もどうしようもないのです」

 実は夏逢若は、先日、張縄祖と一緒に紹聞の金を分けあい、紹聞を賭博に引き込もうとしたのでした。しかし、譚紹聞は遠ざかってやってきませんでした。そこで、張縄祖は、夏逢若と相談しました。

「譚さんは、お金持ちで、逃げたりすることもないし、無茶を言ったりすることもないから、またきっと来るはずだ」

そして、紹聞を招く手立てを考え、紅玉から一本の汗巾を奪い、紹聞を騙して、ふたたび武陵桃源に赴かせ、賭博をさせようとしたのでした。昔から、賭博を開帳するところには、必ず妓女、用心棒、幇閑がいます。妓女は賭博をするためのおとりで、幇閑は賭博の導き手、用心棒は賭博の守り手です。ですから、金持ちの子弟が一度その罠に嵌まれば、必ず、水が尽き、水鳥が飛んでいってしまうような有様になってしまうのです。そして、金持ちの子弟は同じ手口で、今度は他の人を鴨にするのです。張縄祖、夏逢若はどちらも罠に嵌まった経験があり[3]3、今度は譚紹聞を鴨にしてやろうと思っていたのでした。これは、勾命鬼[4]4が代わりに死んでくれる人を探しにきたようなもので、聡明な人でも、一本の糸で、心臓を結ばれれば、ちょっと引かれただけで、すぐに引き寄せられてしまうのです。

 譚紹聞は、行きたいと思い、あれこれ考えましたが、先日、母親の前で、熱っぽく話しをしていましたし、王中の前でも、きっぱりと誓いを立てていました。しかし、今日、汗巾を見、紅玉が泣いていることを聞きますと、心が落ち着かなくなりました。そこで、夏逢若に頼みました。

「夏さんは頭がいいのですから、手立てを考えてください。私は今回だけは、紅玉を慰めにゆきますが、これからは二度と行かないのですから」

逢若は、紹聞がその気になったのを見ますと、笑いながら、

「そんなことは簡単さ。まず聞くが、君の家の疫病神みたいな下僕の王中は、おもての中庭に住んでいるのかい。それとも裏の中庭に住んでいるのかい」

「東の中庭に住んでいます。あれは、今、家にいません。先日、城外に行ったのです。数日したら帰ってくると言っていました」

「王中が家にいようがいまいが同じことさ」

そして、紹聞の耳元でこそこそと話しをしますと、手を叩いて、

「どんなもんだい」

と言いました。紹聞は頷いて、

「まあいいかもしれませんが、きっといつかはばれるでしょう」

逢若「フン。ばれたくないのなら、書斎でしっかり勉強していればいいさ。これから楽しもうっていうのに、ばれるもはれる[5]5もあるもんか」

「仕方ありませんね」

逢若は、別れて去ってゆきました。

 紹聞は、家に戻り、夕方になると二階に上がって読書をしました。初更前、裏門を叩きながら、大声で呼ぶ声がしました。紹聞は来客と話しをしにゆきましたが、二階に戻ってきますと、言いました。

「隆吉兄さんが、少し胸が痛いので、家に本物の橘紅[6]6がないかと言ってきのです。父さんが丹徒から持ってきたと言うのですが」

王氏

「橘紅とは何だい」

「薬です。書棚の中にあるから、探しにいってきます」

そして、書棚の中から何かの切れ端を包んで持ってきますと、言いました。

「見付かりました」

「一緒にお見舞いに行って、すぐに報せをよこしておくれ」

「街は真っ暗で、検問も厳しいですから、明日の朝に行きましょう」

「急いで行っておいで。明日の朝、帰ってきても構わないから」

紹聞は母親から命令を受けますと、徳喜児に命じて裏門に鍵を掛けさせ、路地口から外に出ました。すると、暗がりで待っていた人が、こっそりと言いました。

「出られたかい」

紹聞が見ますと、他でもない夏逢若でしたので、言いました。

「さっき呼んでいた人は誰ですか」

「あれは僕が百銭で雇ったんだが、仕事が終わったので、行ってしまったよ」

 二人は大通りを東に向かって歩きました。すると、どんぶり大の「正堂」の二文字を書いた提灯と、四五人を付き従え、馬に乗っている、一人のお役人が目に入りました。紹聞はびっくりしましたが、逢若は

「どうってことないさ」

と言い、そのまま真っ直ぐに進んでゆきました。すると、従者が大声で怒鳴りました。

「何者だ」

逢若は落ち着き払って言いました。

「薬を買いにいったのです」

お役人は、馬上から言いました。

「薬を見せてみろ」

逢若は、袖から薬を一服取り出しました。上には処方箋が畳んでありました。従者は提灯を差し出しました。お役人は、処方箋を拡げてちょっと見ますと、尋ねました。

「誰が何の病気なのだ」

「私の母が胸痛を起こしたのです」

すると、お役人はにやりと笑って、

「とんでもない藪医者だな」

と言いました。そして、薬を従者に渡して夏逢若に返させますと、さらに尋ねました

「その男は」

「私の弟です」

お役人は言いました。

「行くがよい」

二人は立ち去りました。 紹聞

「どうして手元に薬を持っていたのですか」

逢若は笑いながら

「夕方、街を歩いていたら、薬を買うためなら、夜間外出が許されるという話しを聞いたんだ。この金銀花(スイカズラ)は、もう三回も使ったよ」

「処方箋はどうしたのですか」

逢若は笑いながら、

「姚杏庵の店から取ってきたんだよ」

「薬がない時はどうするのですか」

逢若は大笑いして、

「別に困るもんか。産婆を呼びにゆくと言えばいいのさ。知事さまだって家々へ行って女を検査するわけにはゆかないだろう」

 そう言っているうちに、もう張縄祖の家に着きました。門を開けさせて中に入りますと、幾人かの新顔の下男がサイコロを投げていました。紅玉は前と同じように横で笑っており、譚紹聞を見ますと、また媚びを売るような素振りをしました。逢若は場をはずして、紹聞を振り返りますと、

「また二人で組んで、この前の負けを取り返そうぜ」

と言いました。紹聞はまたの逢瀬を楽しもうと思っていましたので、生返事しますと、尋ねました。

「東の小部屋には灯りはあるかい」

張縄祖

「あるよ」

紹聞

「紅玉、東の小部屋へ行って話をしよう」

ところが、紅玉は、嫌がって行こうとしませんでした。新しい客がいたので行くわけにゆかなかったのです。しかし、張縄祖が

「行っても構わないぞ」

と言いましたので、紅玉はついてゆきました。そして、しばらく話をしますと、灯りを消しました。

 すると、賭場から男が叫ぶ声が聞こえてきました。

「この野暮天の犬畜生め。金持ちのぼんぼんが何だっていうんだ」

張縄祖の声も聞こえました。

「俺のことを考えてくれよ」

さらに夏逢若の声がしました。

「どうか何も仰らないでください。この通り叩頭致しますから」

すると、サイコロの音がやみ、中庭で、しばらくがやがやと、高く低く、何やら話す声がしました。しばらくしますと、彼らはふたたび賭場に戻り、賑やかに賭博を始めました。譚紹聞は、年若い世間知らずでしたので、内情を知るべくもなく、賭場で争いが起こったが、話が纏まったので、また賭博を始めたのだと思いました。

 次の日の朝、彼らは、同じ場所で、丁だ半だと言っていました。紹聞が賭場へ行きますと、張縄祖は言いました。

「目が覚めたかい。御機嫌よう。相棒さんは二百八十串負けたぜ」

夏逢若

「二百八十串なんてどうってことはないさ。心配ない。俺たちは負けても取り戻すことができるよ。だが、今日は賭けはやめにしよう」

すると、一人の若者が、

「ああ駄目だ。よりによってまた負けちまった。明日、百三十串銭を、百三十両の銀子で払おう。今度ここにきたら、紅玉の情夫(まぶ)と同じようになっちまうよ」

縄祖は笑いながら、

「お怒りなさんな。日にちは木の葉のようにたくさんあるんだから」

若者は、憮然として去ってゆきました。他の者も、次々と立ち上がると去ってゆきました。紅玉は、さっさと奥へ行ってしまい、夏逢若、譚紹聞、張縄祖の三人だけが残されました。張縄祖

「夏くん、俺はあんたと譚さんへの貸しを取りにはゆかないから、二人で送ってきてくれ」

「四更には八九十串勝っていたんだが、夜明け近くに立て続けに負けてしまったんだ。まったく頭にくるよ」

譚紹聞はこの時、不愉快な気分で、どうしていいか分かりませんでした。逢若

「行こう。明日、金を送ることを考えればいいさ。明日、父が役人をして残した八両の人参を、店に持っていって換金してくれば、半分は返済できる。兄弟、百四十串は、君にとってはどうってことないだろう。奴に返してしまうがいい」

紹聞は、眉をひそめて黙ってしまいました。張縄祖

「親友同士なんだから気にするなよ。今すぐには難しいというのなら、何日か後でも構わないぜ」

二人は立ち去ることにし、縄祖は表門まで送りました。

 二人が別れる時、紹聞が言いました。

「僕を送っていってください。独りで街は歩けませんから」

逢若

「一晩寝ていないんだ。俺はこの裁縫屋の裏で寝るよ。じゃあな」

譚紹聞は一人で帰ることにし、街を通って、路地に入りましたが、人々がすべてを知っていて、自分を責めているかのような気分がしました。

 路地口に着き、裏門を入りますと、王氏がすぐに尋ねました。

「隆吉兄さんは大丈夫だったかい」

「大したことはありませんでした。使いが大袈裟だったのです」

「宋禄に車を準備させて、見にいってこようか」

「全然大したことはありませんから、見舞いにゆかれる必要はありません。もうすぐ、叔母さんの誕生日ですし、その時に行かれても遅くはないでしょう」

そこで、王氏も行くのをやめることにしました。

 紹聞は楼の奥の間に行き、頭から布団を被りますと、ぐっすり眠り、昼頃になってようやく目を覚ましました。これぞまさに、  

地団駄を踏み、胸叩き、これはだめだと思ひしが、

かりそめの陽台[7]7に疲れは極まる。

深き眠りに憂へを忘れど、

目覚むる時に思ひ(いだ)すを如何せん。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1] 『左伝』宣公二年に典故のある言葉。

[2]衣服の上からしめる、房の付いた装飾用腰帯。

[3]原文「這張縄祖、夏逢若都是山下路上過来的人」。「山下路上過来的人」は、「要知山下路須問過来人」(道のことを知りたければ道を通った人に聞け)という成語をふまえた表現で、「経験者」の意。

[4]勾命鬼。人の命を奪う幽霊。勾使鬼、勾死鬼ともいう。

[5]原文「可管馬脚、馬蹄子哩」(馬の脚だろうが蹄だろうが構うものか)。直前の譚紹聞の台詞「只是久後必露馬脚(きっといつかは馬脚が現れる─ばれる─でしょう)」に引っかけた洒落。

[6]蜜柑類の皮を干したもの。去痰剤にする。

[7]楚の襄王が夢で巫山の神女と交わり、別れるときに神女が、自分は、巫山の陽台の下で、朝には雲、暮れには雨となろうといったという、『高唐賦』の故事に因み、男女が情を交わすところをいう。

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