第十七回

盛希僑が酒を飲み若い友と騒ぐこと

譚紹聞が酒に酔い(やもめ)の娘を誑かすこと

 

 さて、譚紹聞は去ろうとしましたが、希僑は行かせようとはせず、隆吉に尋ねました。

「王くん、君の伯母さんは、厳しい人なのか」

「伯母は優しい性格ですから、従弟は少しも怒られたことはありません」

「譚くん、どうしても帰りたいのは、あの召し使いが怖いからか。まさか主人が奴等を恐れているのではないだろうな」

紹聞は笑いながら

「召し使いが怖いはずがないでしょう」

「そうだろうな。僕の家には、七八家族の奴隷がいて、奥には下女や飯炊き女も十人ぐらいいるのだが、僕が外出して一更二更になっても帰らないときでも、みんな寝ないし、家にお客がきて、朝まで酒を飲むときでも、誰も寝たりはしないんだ。僕が呼んだのに来ないときは、奥の者は革の鞭で、表の者は木の板で、尻がなくなってしまうほどぶたれるんだ」

隆吉

「兄さんは役所のやり方を続けてらっしゃるのですね」

慧照

「昨晩、下女の桂蕚が眠っていたとき、盛さまが呼ばれましたが、まったく起きませんでした。しかし、盛さんは笑われただけでした。これはひどいことではございませんか」

希僑は笑って

「でたらめを言わないでくれ。酒を二杯飲みたいのだが、だれも来てくれないな」

 すると、側門で叫ぶ声が聞こえました。希僑は声を聞きますと、言いました。

「満相公が帰ってきた。宝剣、門を開けてくれ」

満相公は門を入ってきますと、人々に拱手して、尋ねました。

「こちらが譚さまでしょうか」

希僑

「そうだ」

二人は挨拶しました。希僑が言いました。

「犬はどうだった」

「駄目でした。足が太すぎて、私たちの黒犬には及びません。必要ございません」

「宝剣、南の広間に六角テ─ブルを置いて、酒を飲もう。そうすれば、席を譲り合う必要もあるまい」

宝剣、瑶琴が六角テ─ブルを運び、一つのへりに一人ずつ座りました。しかし五人なので、一人分欠けていました。希僑はさらに宝剣に言いました。

「そうだ。水巷胡同へ行って晴霞を呼んできてくれ。轎に乗せてくればいい。めかさずにすぐ来るようにいってくれ」

宝剣は出掛けてゆきました。

 五人が一しきり雑談しますと、晴霞がやってきました。そして、客がいるのを見ますと、叩頭しましたが、紹聞は彼女を見たことがありませんでしたので、会話することは勿論、声を出すこともできませんでした。隆吉は何年か商売をしていましたので、町中(まちなか)の話を少ししました。すると、希僑が叫びました。

「はやく熱燗を持ってきてくれ」

宝剣が囲禦[1]を並べ、六人を座らせました。晴霞は紹聞、隆吉の間に座ることになりました。酒が二巡りしますと、希僑が言いました。

「昨日、浙江の友人が、西湖図の酒令を送ってきた。サイコロ一個を使って、それぞれが駒を選ぶものだ。秀才、美人、坊さん、道士、侠客、漁師がある。今、ここにいるのは六人だから、駒を選ぶ必要はない。譚君が秀才、晴霞が美人、慧照が坊さん、満相公は道士、王君は侠客、僕は漁師ということにしよう。瑶琴、西湖図を広げて、テ─ブルに置いてくれ。皿を片付けて、遊ぶことにしよう」

人々が図を見ますと、子供が遊ぶ碁のようなもので、螺旋状の道を、一つ一つ進んでいくものでした。最初が涌金門[2]で、真ん中が湖心亭[3]でした。人々が

「どうやって遊ぶのかしら」

と言うと、満相公が言いました。

「ここに令譜[4]があります」

希僑

「僕が先に投げよう」

すると一が出ました。涌金門でした。令譜を開いてみてみますと、六行の字が書いてあり、一行は「漁師は魚を売り酒を買う。大杯を飲み、歌うこと」と書いてありました。宝剣は酒を一杯つぎ、主人の前に置きました。満相公が言いました。

「崑曲を歌ってください」

希僑は笑いながら言いました。

「困ったなあ。本当に歌えないのだ。代わりに歌ってくれ」

晴霞が言いました。

「駄目ですよ」

「じゃあ歌うぞ。まったく困ったなあ。『敬徳釣魚』[5]を歌うか」

そして『新水令』[6]を歌っただけで、こらえきれずに笑い出して、言いました。

「これでいいだろう。いいだろう」

それ以上歌えという人はいませんでしたので、それだけで終わりになりました。宝剣は銅の漁師を涌金門のところに置き、目印にしました。満相公の番になり、四が出ました。三生石[7]の上でした。令譜にはこう書かれていました。

「ここでは全員が飲むこと。投げたものは笑い話をすること」

宝剣は全員になみなみと酒をつぎ、満相公は笑い話をすることになりました。満相公は言いました。

「私が笑い話をしても、笑ってはいけませんよ」

一同は笑いました。希僑が言いました。

「笑い話は、笑わせるためのものなのに、どうして笑ってはいけないんだ。はやく話せよ」

満相公は言いました。

「もう話しました」

「話してないじゃないか」

「皆さんは笑ってはいけませんと言ったら、皆さんは笑われたでしょう。あれが私の笑い話です」

希僑は満相公の頭をぶって、笑いながら言いました。

「いい加減なことばかりしているな。まあいいだろう。王君、投げてくれ」

宝剣は莱石[8]の仙人を三生石の上に置き、目印にしました。王隆吉は六を出しました。岳墳[9]のところでした。令譜を開きますと、そこには「侠士がここに至れば、三大杯を飲むこと。一杯目は泣き、二杯目は笑い、三杯目は座を離れて踊り狂うこと」と書かれていました。宝剣は三つの大杯を盛ってきて、まず一杯注ぎ、隆吉の前に置きました。隆吉は飲み終えますと、希僑が言いました。

「泣いてくれ」

隆吉が言いました。

「困ったなあ」

希僑は承知せず、晴霞も承知しませんでした。希僑

「君は昨日、酒令は軍令と同じぐらいの重みがあるといったじゃないか。泣かなきゃだめだよ」

隆吉はどうしても泣こうとしませんでした。希僑は言いました。

「宝剣、跪くのだ。王君が泣くまで、立ち上がってはならん」

宝剣は跪きました。希僑はさらに言いました。

「杯を頭の上に載せろ。瑶琴、こいつに熱燗を一杯ついで、王君に泣いていただくようにお願いさせろ。それからこの二杯目の酒を飲んでもらおう」

瑶琴、宝剣は命令通りにしました。隆吉は慌てて、言いました。

「泣けばいいのでしょう」

そこで袖で顔を覆い、一声咽びました。希僑が言いました。

「泣いたうちに入らないな」

紹聞

「いいじゃありませんか」

宝剣が立ち上がり、二杯目を注ぎました。隆吉は飲み終わりますと、希僑が言いました。

「笑ってくれ」

隆吉

「まったく泣くに泣けず、笑うに笑えずだな」

人々は笑い、隆吉も笑いました。希僑

「これで笑ったことになるな」

晴霞

「そうですね」

宝剣がさらに三杯目を注ぎました。隆吉が飲み終わりますと、希僑が言いました。

「席を離れて踊ってくれ」

隆吉は承知しませんでした。希僑

「令譜に違反したら、大杯で罰杯だぞ」

隆吉は仕方なく席を離れ、脇に立ち、手をちょっと伸ばしますと、言いました。

「これでいいでしょう」

希僑

「拳法のまねは絶対にしなければだめだよ[10]

慧照

「あなたは人をいじめてばかりいますね。それでいいことにしましょう」

「お前を困らせてやるからな。まあいいだろう。いいだろう」

宝剣は琥珀の金老虎を、岳墳に置きました。晴霞が投げる番になりました。晴霞はサイコロを手にとりますと

「芸をしなくて済むものを出しましょう。酒を飲むのなら簡単ですわ」

と言い、五を出しました。蘇公堤のところでした。令譜には「桃柳交わる。美人、秀才はともに小杯を三杯飲むこと」と書かれていました。宝剣が猪口に三杯酒を注ぎました。希僑

「お二人さん、同じ杯でこの三杯の酒を飲むべきだよ」

譚紹聞はそれを聞きますと、必死に拒みました。しかし、古人も「欲すべきを見ざれば、心をして乱れざらしむ」[11]という通り、紹聞は晴霞と並んで座っていたときから、こっそり合図を送っていたのでした。ちょうど酒令によって同じ杯で酒を飲むことになりましたので、二人は酒令の通りにしました。紹聞はこの時「この間楽しければ、蜀を思はず」[12]という気持ちを持ってしまいました。宝剣は玉の石に凭れて座っている美人を、蘇公堤のところに置いて目印にしました。希僑は一声

「玉のごとき人よ」

と歌いました。晴霞はちらりと見ますと言いました。

「あなたは歌わなきゃならないときは歌わないで、歌わなくていいときは勝手に歌うのね」

希僑は笑いながら言いました。

「この一句しか歌えないんだ。二句目を歌うことは、できないんだ」

紹聞が投げる番になりました。紹聞は顔を赤らめることも、手が震えることもなくなり、サイコロを手にとりますと、二を出しました。そこで、心の中で面白いところにつけばいいと思っていますと、冷泉亭[13]に着きました。令譜には「ここに着いた者は、冷水を杯に一杯飲むこと」と書かれていました。紹聞

「茶を一杯にしてもらいたいな」

希僑

「そんなことでいいと思っているのかい」

宝剣は茶釜の横にあった冷水を杯に汲み、紹聞の前に置きました。紹聞

「これはまあ楽だ」

手を伸ばして冷水の杯を取ろうとしますと、晴霞が杯を手にとり、床にあけてしまい、言いました。

「これでいいわ。こんなものを飲んで何になるというの」

希僑

「みんな見たかい。僕も飲めとは言わないぜ」

宝剣はとぐろを巻いた龍が刻まれていない水晶の印章を、冷泉亭に置きました。慧照が投げる番になりました。慧照は三を出し、放生池[14]に着きました。令譜には「僧は放生し、手を合わせて阿弥陀仏と言う」と書かれていました。慧照

「よかった。よかった。酒を飲まなくてすんで有り難いわ」

立ち上がりますと、手を合わせて、阿弥陀仏と唱えました。希僑

十八番(おはこ)がまわってきたね。あなたにとっては簡単すぎたな」

宝剣は象牙の弥勒仏を取り出して、放生池に置きました。そしてふたたび希僑が投げる番になりましたが、このことを詳しく申し上げる暇はございません。

 四五周回って、ようやく真ん中の湖心亭に着きました。隆吉はすでに大きな角杯を三杯、さらに二つの大杯、五つの小杯を飲んでいました。他の人もみな酒を飲んでいましたが、隆吉より多く飲んだ者はいませんでした。酒令が終わりますと、さらに状元籌[15]をして遊び、一しきり酒牌をしました。希僑は酒興も乗り、猜拳[16]をしだしました。手を挙げて晴霞と遊びましたが、勝ち負けは決まりませんでした。すると隆吉が真っ青になって、一声、

「まずい」

というと外に向かって走ってゆきました。しかし、外に出ないうちに吐いてしまいました。宝剣が隆吉を椅子に座らせましたが、首をだらりとさせて、座っていられませんでした。希僑も酔っており、宝剣を罵って言いました。

「馬鹿者が。寝台に連れてゆかないか」

宝剣は瑶琴とともに隆吉を寝台へ連れてゆきました。すると、隆吉は喉をごろごろと響かせ、寝台じゅうに吐いてしまいました。錦の布団や緞子の敷布団はすっかり汚れてしまいました。紹聞も酔っていましたが、少し意識がありましたので、言いました。

「汚れてしまって勿体ないな」

希僑

「大したことはないさ。ただ慧照が縫ってくれた枕覆いは惜しいことをした」

さらに宝剣を呼びました。

「王さんが吐いたものを、すぐに片付けてくれ。僕たちは西の東屋へ行く」

 一同は西の東屋へ行きました。そこには「慎思亭」の三字額が横に掛けられ、テ─ブル、椅子、燭台、火炉が据え付けられていました。譚紹聞は酒があまり飲めませんでしたので、ちょっと動いただけで、酒が回って、天地がぐるぐる回り、気絶してしまいました。

 さて、王中は、昼に主人を迎えにゆきましたが、幾つもの中庭を探しても、どこにも主人が見当たりませんでした。それに側門も閉まっていましたので、中の声もまったく聞こえませんでした。それに、盛家の下男が、ひたすら酒を勧めたので、奥へ行くこともできませんでした。盛家の下男が言いました。

「王さん、ご存じないだろうが、うちの若さまは、必ず夜までお客を接待するんだ。夜中や一晩中ということもある。賭けでもして遊ぼう」

「それはできない」

盛家の下男が言いました。

「まさか、まさか」

「本当にできないんだ。信じないなら、この小者の双慶児に尋ねてみてくれ」

「賭けをしましょう。あなたはお客さまですから、おもてなししなければ」

「お構いなく」

下男たちは側門が閉まっていましたので、外から二人の借家人を呼び、賭けを始めました。王中はただ横から見ながら、中の様子を伺っていました。

 夕方になりますと、頼みました。

「皆さん、奥へ行って一声掛けてください。待ちきれませんから」

すると一人が言いました。

「誰も行きませんよ。若さまに、物凄く罵られるのです」

 王中が灯点し頃まで待ちますと、宋禄、ケ祥が車を仕立てて迎えにきました。王中が苛々していますと、宝剣が提灯をさげてやってきて、言いました。

「譚さまのお家の方はいらっしゃいますか」

王中はすぐに答えました。

「ここにおります」

「うちの主人が轎屋を呼びました。ご主人は酔われたので、轎に乗って帰られます」

王中は急いで言いました。

「車がございますのでお構いなく。あなたと一緒に中へ見にいってみます。一緒に行きましょう」

 王中は双慶児と一緒に中に入りました。見れば坊ちゃんは動けないほど酔っておりました。盛公子も酔っており、晴霞、慧照と乳繰りあっておりました。王中はびっくりして、ひそかにこう思いました。

「ああ、駄目だ。駄目だ」

慧照は見慣れない男がきたのを見ますと、さっと逃げてしまいました。満相公は酔っておりませんでしたので、言いました。

「お二人は蕭墻街から来られたのですか」

王中

「そうです」

「譚さまをつれてお帰りください。酔ってらっしゃるので、轎の方が楽だと思いますが」

「車が来ておりますから」

盛希僑は目をむいて大声で

「行ってはだめだ。もっとここにいて酒を飲んでもらう。おまえは帰れ」

「家で奥さまが心配して、二回も人をよこしたのです」

満相公は盛公子に向かって言いました。

「譚さんの家には誰もいないので、お母さまが心配してらっしゃるのです。帰しておあげなさい」

実は満相公は二人の人間が酔ったのを見て、夜に彼らの世話をするのは大変だと思っていたのでした。先ほど側門を開けて轎かきを呼んだのも、満相公が宝剣に言い含めたからなのでした。盛公子

「譚君、起きろ。君の下男が迎えに来たぞ。怖いのなら、すぐに帰りたまえ」

紹聞は目を開きますと、尋ねました。

「誰が来たのですか」

王中は進み出ますと、低い声で言いました。

「遅くなりましたから、帰りましょう」

「お、おまえは誰だ」

「王中です」

紹聞は呆然として罵りました。

「この馬鹿者が。家に帰ったら三十回鞭打ちだ。茶を飲むから持ってこい」

晴霞がすぐに茶を持ってきて、紹聞にさし出しますと、言いました。

「譚さま、お飲みください」

紹聞は上目づかいに、言いました。

「よ、よし、明日は僕がおまえをもてなすから。か、必ず来るんだぞ」

王中は横から支えていましたが、顔に緑豆のような涙をぽろぽろ流しました。これは主人に罵られて腹を立てたからではありませんでした。紹聞は茶を半分飲みますと、ふらふらしながら言いました。

「さあ、行くぞ」

王中は急いで紹聞を支えようとしました。ところが紹聞が袖を払いましたので、王中は転びそうになりました。紹聞は罵りました。

「馬鹿者。僕は酔ってないぞ。晴霞、僕を送ってくれ」

満相公

「晴霞、送ってさし上げなさい」

盛公子はハハと笑いますと

「譚君、まったくみっともないな」

「馬鹿なことを」

盛公子も酒を飲んでおりましたので、言いました。

「何が馬鹿なことだ」

「何がって、あんたの言ったことがだよ」

満相公が慌てて言いました。

「酔っ払ってしまわれて」

盛公子

「まったく、まったく、まったくだ。僕が送ろう」

晴霞が紹聞を支え、瑶琴が提灯をさげて道を照らし、盛公子、満相公はついてゆきました。王中、双慶児も主人を支えました。

 表門に着きますと、紹聞は口の中でぶつぶつ言っていましたが、何を言っているのかは分かりませんでした。晴霞が低い声で言いました。

「譚さま、お車へ」

「おまえも乗れ」

「明日の朝に伺います」

満相公が譚紹聞を支えながら言いました。

「ここは通りです。彼らを帰らせましょう。私は譚さまを車にお乗せしましょう」

王中は譚紹聞を助けて車に乗せました。宝剣が言いました。

「坊ちゃま、これは譚さまが贏ち取られた二串銭です、半分は慧照さまが取られました。車に置きましょうか」

盛公子が言いました。

「いいだろう。明日になってから銅銭を送らなくてすむからな」

王中は「贏ち取った銭」という言葉を聞きますと、耳元で雷がなったかのような気持ちになり、心中密かに「ああ」と叫びました。盛公子は紹聞が車に乗るのを見ますと、大声で、「譚君、お粗末さま」と言いましたが、車からはもう何の返事もありませんでした。

 宋禄が車を走らせ、双慶児が提灯を持ち、ケ祥、王中が付き従いました。少し進みますと、紹聞は車から落ちそうになりました。そんな時になりますと、王中はすぐに車に跳び乗り、若さまを抱きかかえ、宋禄に車をゆっくり走らせるように命じました。

 盛公子は家に戻りますと、宝剣を内省斎に行かせ、王隆吉の世話をさせました。満相公は帳房へ寝にゆき、晴霞は公子とともに西の東屋で休みました。

 さて、王隆吉は鶏が鳴き出す頃、酔いから覚め、冷たい茶を何杯か飲み、帰ろうとしましたが、犬に噛まれるのが怖かったので、宝剣を呼び起こし、犬の番をさせました。表門へ行きますと、太い閂二三本と、一尺ほどの鎖で、門が閉められていました。人に開けさせようとしましたが、みな一晩中賭け事をして寝たばかりでしたので、一人も起きる者はいませんでした。そこで仕方なく内省斎へ戻りました。日が上りますと、昨日吐いて汚してしまった布団を目にして、ますますいたたまれなくなり、どうしても帰ろうと思いました。そこで、宝剣が門番の寝台の下から鍵を探りだして、門を開けました。隆吉は

「見苦しいところをお見せしました」

と言いますと、急いで去ってゆきました。これぞまさに、

門の中より走り出づるは籠ぬけの鳥

大通り 走り来たるは濡れ鼠

 以上は翌日の隆吉のお話しです。さて、ふたたび昨夜のお話をいたしましょう。王中は、車の上で若さまを抱きかかえながら、路地の入り口に辿り着きました。宋禄がさらに進もうとしますと、王中は言いました。

「裏門に二つあかりがともっていたのが見えただろう。あそこへ行こう」

「路地が狭いので、方向転換できません」

「後戻りして出ることはできないのか」

すると、趙大児の声が聞こえました。

「ご到着です。ご到着です」

王氏が走ってきて言いました。

「ああ、戻ってきた」

宋禄は車を裏門に止めました。王中

「坊ちゃま、起きてください。お家につきましたよ」

王氏は慌てて尋ねました。

「端福児は病気になったのかい」

双慶児

「酔ってらっしゃるのです」

王中は徳喜児、双慶児に命じて坊ちゃんを車から下ろさせました。王氏が言いました。

「ああ。これはどういうことだい。おまえたちが盛家へ行ったのに、この子がこんなに酔っ払ってしまったなんて」

王中

「坊ちゃまと会うことができなかったのです」

王氏、趙大児は紹聞を受けとめますと、一階の奥の間に連れてゆき、寝台に寝かせました。灯りを執って見てみますと、顔には生きた色がなく、目をむいて、涎をだらだら垂らしていました。王氏は慌てて泣きながら言いました。

「坊や、死んでは嫌だよ。どうしよう」

趙大児

「大丈夫です。奥さまは酔っ払いをご覧になったことがないのですね。うちの主人も、村へ行くたびに、酔っ払ってくるのです。夕方に帰ってきますと、寝台に横になって、死人のようになっていますが、真夜中を過ぎると目を覚まして、冷たい水を欲しがるのです。私はこんなことは見慣れています。大したことではございません。怖いことなどございません」

冰梅が言いました。

「坊ちゃまのためにお茶を準備致しましょう」

王中も入口にきて尋ねました。

「坊ちゃまはお目覚めか」

趙大児

「まだです」

王中は何度も長嘆息しますと、表へ行ってしまいました。

 二更を過ぎますと、紹聞は手を伸ばしました。王氏が慌てて尋ねました。

「坊や。目が覚めたかい」

紹聞は首を何度も振りますと、手を執り、王氏を引っ張り、尋ねました。

「誰だい」

「坊や。私だよ。母さんだよ」

紹聞はつっかえつっかえ言いました。

「水が飲みたい」

「冰梅、テ─ブルの上の熱い茶を持っておいで」

王氏は息子を助け起こしますと、言いました。

「端福児、水ではないが、お飲み」

紹聞は茶を飲みました。王氏は紹聞を支えて座らせました。紹聞は酒が幾らか醒めますと、目を開いて、しきりに辺りを見回しました。王氏

「何を見ているんだい。ここは私たちの家だよ。びっくりさせないでおくれ」

紹聞は何も言いませんでしたが、暫くしますと、言いました。

「ああ、飲み過ぎた」

「酒が飲めないんだから、飲むのを控えてもどうということはなかったのに」

「みんなが騒ぎまくったのです」

王中も入口にやってきました。そして坊ちゃんの声を聞きますと、窓の下にきて尋ねました。

「坊ちゃま、気が付かれましたか」

王氏

「気が付いたよ」

そして、趙大児を呼びました。

「みんな寝なさい。もうすぐ夜が明けるから、みんな休みなさい」

趙大児は去ってゆきました。

 冰梅は楼のドアに閂をしますと、奥に入りました。紹聞は言いました。

「母さん、母さんは僕の親なのに、母さんにお世話してもらっては、落ち着きません。これからは冰梅に僕の世話をさせればいいです。僕はこの寝台では眠りません。別の寝台で寝たいのです。別々の方がよいでしょう」

「まあお休み。明日になったらそうしてあげるから」

「今、藤の寝台を運んでくるのは簡単ではありませんか」

「運んできたら、夜が明けてしまうよ。明日、おまえのいう通りにするから。もう寝ようよ」

「冰梅、お茶を一杯おくれ」

冰梅は茶を一杯注いで、紹聞に渡しました。王氏

「お茶を飲んだら寝なさい」

「今晩は寝ますが、明日の晩はこの寝台では寝ませんからね」

「おまえの言う通りにするよ。さあ、寝よう」

紹聞は酒も八九分醒めていましたが、仕方なく、今まで通り眠りました。

 以上は、譚紹聞が隆吉に誘われ、義兄弟となり、普段見たことがなかったものを見、普段弄んだことのないものを弄び、普段考えたこともないようなことを考えてしまったというお話しです。経験を積んだ古人は、実に恐るべきことを言っております。どのようなことを言っているのでしょうか。私の受け売りをお聞き下さい、

読書せずとも構ふものかは

悪人に近づくことさへなかりせば

古人は決して野暮ならず

物事を見る目の確かなればこそ

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]昔のテ─ブル料理で、十二あるいは十六の皿の中に果物、蜜餞などを盛ったもの。

[2]臨安の西の城門で、西湖に臨む。

[3]西湖の中の湖心寺にある亭。嘉靖年間に知府孫孟が建設。

[4] ル─ルをかいた本。

[5]敬徳は唐の功臣尉遅敬徳のこと。

[6]曲牌の一つ。『北曲新譜』巻十二参照。

[7]杭州天竺寺にある石。唐の李源が僧円観の生まれ変わりの牧童と出会った場所。

[8]山東省掖県亜禄山に産する名石。薄緑に黒い点があるものを最良とする。

[9]岳飛の墓。

[10]原文「一定該打个拳套児」。「拳套」は、意味未詳だが、拳法の所作と思われるのでとりあえずこのように訳す。

[11] 「欲望を起こさせるものを見なければ、心が乱れることはない」。『老子』二十七章「是を以て聖人は、常に善く人を救ふ。故に棄人無し」の王弼注に見える言葉。

[12] 「ここは楽しいので、蜀のことは忘れてしまった」。『三国志』蜀書、后主記に出てくる、劉禅が司馬昭にいった言葉。

[13]飛来峰の麓にある亭。

[14]西湖の中にある池。

[15]賭博用具。状元、探花、榜眼、秀才などの籌(点棒)があり、六つのサイコロを用いて 勝負を決める。清金二雅『牧猪間話』参照。

[16]五本の指を使い、前に出すと同時に声を出して、二人の指の合計を当てる遊び。

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