第十回

譚忠弼が天子に見えること

婁潜斎が南方に帰ること

 

 さて、譚孝移は昼寝をしているときに、息子が木から落ちて死ぬ夢を見、軽い胸の病になりましたので、急いで帰郷しようと考えました。息子の勉強が滞っていると考えたからでした。妻は必ず先生を頼むだろうが、婁先生が去った後は、代わりになる先生はなかなかいないだろうと思いました。さらに、王中は気の利く男だから、失敗をすることはないだろうが、先生選びに関しては、よく知らないだろうと考えました。また、孔耘軒は婿のことを心配して、適切な処置をしてくれるだろうが、喪があけていないので、動きがとれないだろう、程嵩淑、蘇霖臣、張類村たちが、代わりに処置をしてくれるかもしれないが、船頭多くして船山に登る事態になるのではないかと心配でした。あれこれ考えましたが、どうすることもできませんでした。帰郷しようにも、自分は推挙を受けていました。これは天子さまのご恩ですから、息子の勉強などといった小事のために、推挙をなげうてば、貧乏学者の身の上で、天子さまに謁見することは絶対にできなくなってしましまいます。天子さまに謁見するのは、千載一遇の幸福というものなのに、自分から勝手にご恩に背いていいはずがありませんでした。そこで、読画軒で、毎日、柏公から送られた書籍を読み、憂さを晴らしておりました。そして、柏公が話をしにやってきた時には、いささか見聞を増やしました。

 ある日、突然、ケ祥、徳喜児が書斎に駆け込んできて、

「婁先生がいらっしゃいました」

と言いました。起き上がりますと、婁潜斎はもう部屋にはいってきました。『他郷で友と会う』とはまさにこのことでした。しかも、婁先生は親友でしたので、喜びも一しおでした。ケ祥、徳喜児も、とても喜びました。挨拶をして席につき、両家の使用人同士が叩頭をしますと、孝移

「先日、官報をみて、潜斎さんが合格されたことを聞きました。喜ばしいことです。もう提塘官を通じて、お祝いの手紙をお送りしましたが、届きましたでしょうか」

「長年にわたってお教えを蒙り、学問も僅かながら進歩しました。あなたの友情は、肝に銘じて忘れません。しかし、十月に出発して上京したものですから、お手紙は、実はまだ拝見しておりません」

「どうしてそんなに早く上京されたのですか」

「それには訳があるのです。天津衛で商売をしている従弟の宋雲岫が、今冬、店員達と清算を行うので、私も同行することになったのです。兄も私が彼と一緒にいくことを強く希望しましたし、お宅の王中さんも、あなたが永いこと都に宿泊しているのを心配して、私に行くように促しました。ご夫人からはお餞別として二十両を頂き、曲米街の王さんからは十両を頂きました。今、ここでお礼を申し上げます。それから布で包んだ小包をもってまいりましたので、お渡し致します」

そして、ついてきた下男多魁が─これは以前譚さんが私の家にこられたとき、葦の簾を編んでいたところを褒められた子供で、もう大人になったのです─小包を徳喜児に渡しました。

 孝移は天から喜びが降ってきたように思い、夢ではないかと疑いました。そこで、酒に燗をするように命じました。ケ祥はすでに準備をととのえ、酒を並べました。席上、孝移が尋ねました

「今、宋さんはどちらにいらっしゃるのですか」

「二日前の昼、私は従弟と一緒に都に入り、宿を捜して泊まることにしたのです。従弟はしばらく外に出掛けておりましたが、彼の店員が、女遊びや賭博をして金を使っているという噂を聞き、一晩中眠ることができませんでした。そして、次の日、天津衛にいきました。出発するときに、譚さんに会いにいけないのは、実に申し訳ないことだと申しておりました。彼は天津から帰ってきたら、すぐに譚さんにお目にかかることでしょう。私からまずお伝えしておきます。私は旅館におりましたが、あなたの宿舎がどこなのか分かりませんでした。晩になって、長班から、あなたがここに泊まってらっしゃることを聞きました。そして、長班に、今日、門口まで案内してもらったのです。私が中に入るときに、長班は、吏部からの重要な文書があるから、渡してくれといっておりました」

「婁さんもこちらへきて一緒に泊まられませんか」

「床を並べることができる広い場所があれば、そう致しましょう」

孝移はすぐにケ祥に命じました。

「車を用意して、婁さんの使用人と一緒に、宿屋へいって荷物をこちらにもってきてくれ。戻ってきたら寝台を一つしつらえてくれ」

「かしこまりました」

二人は用事をしにいきました。婁、譚は酒をくみかわし、孝移は二人の子供の家での勉強について尋ねました。潜斎も各省から推薦を受けた人がもう揃ったのか、引見を賜るのはいつか、それまで何をして暇をつぶしているのかといったことを尋ねました。酒を飲み終わったころには、日は西に沈み、荷物が運ばれ、寝台がしつらえられました。二人は夜遅くまで語り合い、鳥が鳴きだしてから眠りました。

 その後、二人は旅先で一人で寂しいということもなくなりましたし、文章や経書の話しをしたので、急に楽しくなりました。そして、またたく間に月日は過ぎ、すぐに正月になりました。酒の肴は幾らかありましたが、やはり故郷が恋しく思われました。元宵節になりますと、二人は、夜、灯籠を眺めました。都は繁華でしたので、思いもかけない、不思議な光景を見ることができました。そして、瞬く間に二月一日になりました。孝移は礼部に出向き、ようやく全国の賢良方正が、帝都に集まったことを知りました。宿に戻って潜斎にそのことを告げますと、潜斎はお祝いをいいました。

「もうすぐ天子さまへの謁見がかないます。お喜び申し上げます」

孝移は答えました。

「会試[1]は大丈夫です。合格の報せが間もなくくることでしょう」

その後、潜斎の受験の手続きを、孝移がすべて代わりに行い、潜斎が心を煩わさないようにしました。これは潜斎を静かに休ませてやり、試験に合格させてやろうと思ったからです。試験の日になりますと、孝移は試験場の前の新しい宿についていきました。試験場への送迎は、下男とともに行いました。三回の試験が終わると、ふたたび読画軒に戻って合格発表を待ちました。孝移は潜斎が最初の試験で書いた文書を見ましたが、必ず合格していると思いました。婁先生は謙遜しました。孝移

「この試験に合格されなかったら、私は以後口を閉ざし、文章を論じるのをやめます。私達は親友ですから、試験の前にはみだりに褒めたりはしませんでしたが」

潜斎も孝移に文才があり、その目に狂いがないことを知っていましたので、ひそかに自信をもちました。

 当時、礼部が試験について上奏をしました。その時、天下の賢良方正として推挙を受けた九十四人が、礼部に着きましたので、引見をたまわりたいという上奏も行われました。そして二月二十五日に引見をたまわるという勅旨が下りました。礼部では推挙を受けた人達をすぐに集め、礼部に行って拝礼を行うときは、跪いて並んできちんとしなければならない、上奏や返答ははっきりとしていなければならないと訓示しました。二十五日になりますと、礼部の役人が、推挙を受けた人達をつれて、午門で静かに待機しました。嘉靖皇帝は便殿[2]に出御され、人々は各省ごとに順番に中に入りました。十人一組で、それぞれが履歴を奏上しました。天子は喜ばれ、大臣を振り返りながらいいました。

「各省の巡撫は、なかなか慎重に人選をしたものだ。宜しい。宜しい」

すぐに天子は宮殿に帰られました。礼部は人々を率いて宮城を出ました。何日かして、各長班が礼部に消息を尋ねにいき、礼部の役人の上奏文とそれに対する天子の返答を書き写して宿屋に戻ってきました。そこにはこう書かれていました。

礼部が、勅命により、早急に会議をしたことを上奏致します。礼部は、二月二十七日申の刻に、内閣に出向き、「推薦を受けた賢良方正を、どのように選抜し、官職を与えるかを、礼部に早急に会議させ、きちんと上奏させよ。此を欽めり[3]」というお言葉を頂きました。礼部は謹んでこれに従い、宣徳二年に推挙が行われたときの事例を調査し、中央官では中書舎人[4]、行人[5]、大理評事[6]、太常博士[7]の職を与え、地方官では通判[8]、同知[9]の職を与えることに致しました。老年、病身、終養を願う者があれば、本籍地に帰らせ、正六品の肩書きの栄誉を与えることに致します。礼部は事例の通りに事を処理しようと思います。陛下のご承諾を受ければ、礼部は公正な態度で詳しく調査を行い、中央官、地方官を選び、改めて上奏を行い、推挙を受けた者たちの年齢と容貌を記した文書を吏部に送り、空いている官職があれば、それを与えようと思います。謹んで上奏致します。

聖旨「分かった。その通りにせよ」。

 さて、聖旨が下りますと、各省の推薦を受けた人達には、試験を静かに待つ者もあれば、あちこちに出入りして働き掛けをする者もありました。中には礼部に終養[10]を請願する者もあり、五十を越えて職責にたえられないという者や、病気を報告する者もありました、孝移も病気を報告する上申書を出そうと思いました。しかし、ケ祥、徳喜児は主人の赴任に従うため、旅用品を買おうと思っていましたから、その事を聞きますと、ひどく慌てました。長班も極力反対しました。孝移は上申書を書き上げますと、潜斎に渡して見せました、潜斎

「これはいけません。昔は選挙によって士を採用しましたが、これは学者が出世するための正道でした。後に推挙を命じる勅令が宣布されても、必ずしも今回と同じように推挙を受けられるとは限りません。それに一年余りも待機して、今日初めて陛下のご恩を蒙ったというのに、どうして急に病気を理由に休暇を申請されるのですか。まったく理解に苦しみます」

「病気というのは嘘ではありません。昨年上京しましたが、水が体と合わず、飲食も進まず、家のことも気に係り、心はいつもくさくさし、胃の病気に罹ってしまいました。信じられないのなら、二人の使用人に質問なさってください」

ケ祥が続けていいました。

「去年の八月か九月に、二三度胸の不調を訴えられていましたが、冬になってからは、まったく異常はございません」

潜斎

「それならば、偶然の軽い病気ですから、心配することはありません。どうして急に病気だなどといわれるのですか。家のことに気を取られて、陛下のご恩をどうなさるお積もりですか」

孝移は使用人に言い付けました。

「外で控えていろ。婁さんと話すことがあるから」

ケ祥は退きました。

 孝移は潜斎に近寄って

「ここ一年官報を見ておりますと、海岸部が不穏な様です。最近は倭寇が暴れ回り、沿岸一体の州県、例えば嘉興、海鹽、桐郷[11]は、ひどい害を被りました。事の起こりはすべて、日本が貢物を調えて中国に入り、蛮地の物産を国内に運んだとき、市舶司[12]の太監が彼らの相手をしたことによるのです。宦官どもは朝廷が外国を手懐けようとしている事をしらず、飽くことなく利を貪ること、庶民の百倍という有様で、権力を嵩にきて、外国の人々を虐待しました。たとえ宦官に多少の慎みがあっても、取り巻きの小役人、遣い走りの胥吏には、一人として良い人間がいませんでした。わが国の職のない人民や読書人は、倭寇とぐるになることによって、欲望を満たそうとします。たとえば宋素卿、徐魁、麻葉は倭寇とぐるになった最も有名な者で、その名は京師にまで伝わりました。彼らが寵愛した妓女、例えば王翠翹、緑珠らも、沿海の将軍や総督、巡撫の耳に、その名を轟かせていましたので、将軍や総督、巡撫たちは彼女たちに賄賂を送って内応させようと考えましたが、倭寇がとても残虐であることを知ることができます。思うに日本は朝貢しているのですから、来享、来王の義[13]を知らないわけではないのです。彼らを反逆させているのは、中国のずるい民衆であるように思われます。朝貢を行う者たちが蛮地の品物をもってくるのは、ある物を、ない物と換えるために過ぎませんから、中国の麗しい産物を、彼らに与えてやれば良いのです。彼らが迫害され、怒って略奪を行っているのは、宦官が害毒をまいているからです。要するに宦官は力を持ち、その勢いは絶対に打ち破ることはできませんから、剛直な官僚は抵抗しても、必ず災いを受け、無能な者は、媚び諂って気に入られるのです。こうして辺境で戦闘がおき、沿岸部の大半が不穏になっているのです。現在、朝廷では人員を選抜し、戦陣で用いようとしているに違いありません、私がわざと仕事逃れをしているという人があるかもしれませんが、辺境の役人に任命される事は、恐ろしくはありません。このことはあなたにも信じて頂けると思います。しかし、兵を動かすのは総大将ですし、必ず宦官の監軍(めつけ)がつけられることでしょう。私は彼らに膝を屈するわけにはいきません。これが私の考えている第一のことです。それに、私が官吏になったとしても、昇任できるとは限りませんし、昇任したとしても、国家が一大事のときに、いうべきことを知りながら黙っていては、陛下を裏切るばかりでなく、先父が忠弼[14]と名付けた気持ちにもそむくことになります。直言をして罪を得、首を斬られることは全然恐ろしくはありませんが、杖刑は恐ろしいことです─この杖刑というのは、士人の気力を挫き、国体を損なうものだからです。それに、諫臣はずけずけとものを言っては、しばしば陛下の逆鱗にふれています。昨年、興献帝祭祀問題で、杖刑に処せられた者は百八十人に達しました。武宗の時舒殿撰[15]が南への御幸を諫めたときも、これほどひどくはありませんでした。更に四五人の科道[16]が、汪太宰[17]を弾劾したため、免職となりました。中には馮道長[18]、諱は恩という者がおり、忠実な人柄で、天下に名を知られていました。あなたもご存じでしょう。あの人は最もずけずけとものを言ったので、辺境へ流されました。密かに聞いたところでは、太宰の汪メは、とてもずる賢く、大変な寵愛を受けていたということです。そして、九卿[19]が宮門で馮公を尋問した時、汪某にまっさきに筆を執らせましたが、馮公が面と向かってその奸佞を叱責したので、汪メは席を立って馮公を平手打ちにしたそうです。この様なことの、どこが忠義だというのですか。これからは地位がある者は、必ず災いを受けます。危険な前兆はすでに現れています。これが私が考えている第二のことです。家のことが気がかりなら、官にならず、家を治めることを第一に考えるべきでしょう。しかし、官になったら、州県知事は人民のことを第一に考え、内閣は国事を第一に考えなければなりません。私は決して凡人のように、故郷を慕って、女子供に恋々としているのではありません。「人の相知るに、貴きは心を相知るにあり」[20]といいます(どうか私を理解して下さい)。これが病気であると告げる理由です。それに本当に胸の調子がおかしいのです」

 潜斎は孝移の心が純粋であることを知り、友人が憂いを抱いていることを気の毒に思いました。黙っていますと、突然、客が入り口から入ってきました。潜斎はその人を知っていましたが、孝移は知りませんでした。初対面の挨拶を済ませますと、潜斎

「これが従弟の宋雲岫です」

孝移は初対面でしたが、故郷の人でしたので、大変喜びました。そして、席が決まりますと、互いに世間話をしました。宋雲岫は潜斎に向かって

「まったく。『三里離れれば真の消息なし』ですね。私は天津で商売をしているのですが、河南で、店員たちが元手をすったという噂を聞きました。そこで、急いで都に来て、知人に会い、消息を尋ねましたが、要領を得ませんでした。ところが、天津に着きますと、店員たちは大儲けしていました。そして、八千両相当の船荷を買いましたが、今年は、何やら事故があって、二番目の船が来ませんでしたので、積み荷を一人一人に分け、売って二倍の利益を得ました。昨秋計算してみたら、一万三千五百二十七両九銭四分八厘の利益がありました。天津の大王廟、天妃廟、財神廟、関帝廟では、会計達が豚や羊を殺し、王府の二つの劇団をよんで、三日間上演させました」

譚、婁は拱手して声を揃えて、

「おめでとうございます」

「お陰さまで。何はともあれ、お二人の旅費の心配はありませんよ。進士に合格して、翰林院に入り、大官になれば、一切の費用は、すべて私がお払いしましょう。家に戻られてからも、返される必要はありませんよ」

言いながら笑いだしました。譚、婁が言いました。

「それはいい」

徳喜児が茶を捧げもってきました。宋雲岫

「この子は河南人ですか」

譚孝移

「そうです」

「坊や、わしのことを知っているか。わしは曹門大街の北側の大きな門楼に住んでいて、宋という名字だ」

「存じております」

茶をくばりながら、叩頭しました。ケ祥も叩頭しました。宋雲岫は笑いました。

「立派な転筒二爺[21]ですね」

人々は笑いました。宋雲岫はさらに言いました。

「お二人がここにとまられていましたので、沙窩門[22]から都に入りましたが、捜しあてることができませんでした。昨日、尤様、戚様の所へ行き、憫忠寺の裏通りにおられることをききました。そして、今日になってようやくお二人のおられる場所が分かったのです。明日はお二人と同楽楼で劇を見ましょう。使用人にも楽しい劇を見せてやりましょう」

婁潜斎

「今、都で他に用事はあるのか」

「他に用事はありません。私は二十歳のとき、父に従って都にきて、今年で十七年になりました。街中(まちなか)を見にいき、一か月滞在してから、ふたたび天津にいき、店員の張老二と一緒に祥符に帰ります」

譚孝移

「こちらは部屋が広いですから、荷物を運んで、一緒にとまられてはどうですか」

「私は街中(まちなか)を見てきますから、皆さんはご自由になさってください」

 すぐに、料理が並べられ、席を譲り合ってから食事になりました。食事が終わりますと、宋雲岫は帰ろうとしました。徳喜児

「宋さんのおつきの方は、まだ食事を終えられていませんが」

茶が運ばれますと、宋雲岫は茶を受け取って、言いました。

「私は、今日、貼り紙を見にいきました。良い劇団を選んで賑やかな劇を上演させることに致します。席はとっておきました。他の人は招待せず、私達三人だけで劇を見ることにしましょう。私は自分で頼んできました。お二方にお役人になって頂くために、景気づけをすることに致しましょう。後日、私が役所に伺った時には、室内で戯を上演してお返しをしてください。断られてはいけませんよ。では失礼致します。私はこれから宋門の汪橙洲さんに会いにいかなければなりません」

孝移

「明日、劇を見にいくことはできません」

しかし、潜斎が極力勧めましたので、孝移はようやく承知しました。雲岫は話が終わると去っていき、二人は表門まで送りました。雲岫は車に乗りますと、

「旅費のことは本当にご心配なく。我々は金を儲けたのですから。来たときはこんな儲けがあるとは思いませんでした」

と言い、車に乗って去っていきました。

 二人は部屋に戻ると席につきました。孝移

「若くてはきはきした方ですね」

「あの従弟が一番優れています。重苦しいところがなく、万事快活です。それでいて悪人とは付き合わず、邪道には足を踏み入れません。将来はさらに立派になることでしょう」

 次の日の正午に、宋雲岫がやってきました。婁、譚は宿にいました。宋雲岫は門の中に入ると拱手をして

「観劇のご招待に上がりました。江西の、宰相の邸宅に出入りしている劇団です。貼り紙には『全本西遊記』とかかれています。私は自分で同楽楼へいき、官座[23]をとっておきました。お二方は普段着で、小者達には座布団を担がせて、出発致しましょう」

二人に下僕を一人ずつ連れていくように勧めました。ケ祥は車を用意して主人たちを送ることになりました。

 雲岫は車の前に座り、すぐに同楽楼につきました。庭番に車馬をあずけますと、雲岫は二人をつれて、楼に上りました。一つの大テーブルに、三つの座席があり、下男が脇に立ちました。テーブルの上には各種の点心が揃っており、瓜子児が積まれていました。手で茶碗を持ち、下を覗きますと、すぐそこが舞台で、遮るものは少しもありませんでした。

 折しも銅鑼が鳴り、劇の本番が始まりました。上演されたのは唐の玄弉が西へ経を取りにいくとき、女児国を通り掛かるという話しでした。唐僧は頭に毘盧帽子[24]を被り、袈裟を身につけ、三人の弟子─一人は孫悟空で、顔といい仕種といい、まるで猿そっくり、目を爛々と輝かせ、動きは敏捷でした。人の言葉をしゃべらなければ、まったく一匹の大猿でした。一人は猪八戒で、長い口に大きな耳、黒い服を身につけ、十の歯の着いた熊手をもっており、間抜けなことを喋って、早くも人を笑わせていました。もう一人は沙悟浄で、白い小馬をひいていました。─馬の鞍やしりがいは、目を奪わんばかりにきらびやかで、州や県の劇場の様に、一本の鞭を持ち、それで馬を表しているなどということはありませんでした。師匠と弟子の四人が女児国につきますと、一人の女の駅丞が、二人の女の駅員を連れて会いにきました。孫悟空が中国の勘合[25]を渡しました。ある国に着きますと、国王に印を押してもらい、駅を通るときに出迎えともてなしをうけるのでした。女の駅丞は両手で査証を受け取りますと、国王に提出しました。猪八戒の台詞や仕種、挑発的な言葉、わざとむずむずしたふりをしたりする様子に、人々は、腹を抱えて笑いました。女駅丞が参内しますと、女国王が宮殿に現れました。管弦楽が演奏され、まず四人の宮殿を守る女将軍が現れました。いずれも二十四五歳の女形が扮したものでした。彼らは金の兜に銀の鎧をつけ、手には金の兵仗を持ち、両側に並びました。さらに管弦楽が演奏され、四人の女丞相が現れました。いずれも三十歳前後の女形が扮したものでした。一人一人が、頭巾を被り、笏を持ち、金の袍衣、玉の帯をつけ、両側に並びました。同じ動作が十回繰り返されますと、二人の宮女に先導され、四人の宮女に守られながら、女国王が出てきました。この六人の宮女は十七八歳の少年が扮したもので、厚化粧をして、翡翠(かわせみ)の羽飾りのついた仙衣をつけていました。前を歩いている宮女は、一対の赤い提灯を提げて先導していました。後ろを歩いている四人の宮女は、一対の日月の扇、孔雀の旗をもち、女児国の国王を護衛しながら登場しました。この女国王も、二十そこそこで、鳳凰の様な髷、蓮のような顔で、まことに妖艶、優美でありました。ふたたび女形たちをみれば、曹、桧[26]よりもひどいということはありませんが、虢、秦[27]と同じぐらいという程度でした[28]。女王は虹のような衣裳をつけており、見る者の目を奪いました。佩玉が鳴り、人々はうっとりとして聞き入りました。六人の宮女は周りから登場しますと、定場詩の『鷓鴣天』を一くさり歌い、軽やかな足取りで、玉座のところへ戻りました。女駅丞が中国の活き仏が、自分たちの国を通るので勘合に印を押していただきたいと奏上しました。女王は承知し、四人の丞相と中国の高僧を歓待することについて相談しました。四人の丞相は式次第を上奏し、勅命を伝え、翌日、歓迎のために、迎賓館で宴会を開くことになりました。そして、玄弉たちに期日を告げ、世話をするように女の駅丞に命じ、もしもぬかりがあれば、梟首にすると命令しました。

 一幕が終わりますと、次は女国王が郊外に玄弉たちを迎え、迎賓館で宴席をはる話でした。簡略に申しましょう。宴会が開かれるときに、玄弉は正面に座り、左側は孫悟空、猪八戒、沙悟浄の三席、右側が女国王の席で、玄弉とははす向かいでした。この幕では、猪八戒が精進料理を食べずに、むずむずしだしました。美人の女大臣を目にして、うっとりしているのでした。孫悟空は何度も止めようとしました。孫悟空は猪八戒が無作法をしでかすのではないかと心配だったのですが、手を引っ張ったり口で叱ったりすることはできませんでした。こうした様子が、人々を笑わせました。宴席では、女国王が結婚をしたいと、しきりに玄弉に秋波を送り、甘い言葉を吐きました。しかし、陳玄弉は木彫りの人形の様に、『波羅蜜多心経』を念じている様でした。この幕は見ていて実に楽しいものでした。

 次の幕は、更に人を笑わせるものでした。喉が乾いた八戒が、女児国の子母河の水を飲んだため、妊娠して出産するのでした。舞台に上がったとき、孫悟空は大きな腹をした雌豚の介添えをしていました。豚がよたよた歩く様はおかしく、腹を抱えて痛がる様は哀れを誘いました。潜斎は孝移の胸中の病いを楽にしてやろうと思いましたので、笑いながら

「孝移さんは妊娠した豚を見たことがありますか」

孝移は笑いながら

「今日始めて『豕、人立して啼く』[29]という言葉の意味が分かりました」

二人は大笑いしました。すると、孫悟空が八戒を支えておまるの上に座らせ、自分が産婆役をし、あちこちさすったり、叩いたりしました。八戒は泣きやみませんでした。宋雲岫

「どうして女児国の女が現れないのでしょうか」

潜斎

「『豕は四月にして生ず』[30]といいますから、多分女児国を通りすぎてしまったのでしょう」

孝移は又大笑いしました。暫くしますと腹が小さくなりました。孫悟空がおまるを持ち上げ、舞台の上で斜めにしますと、三匹の子犬が出てきて、舞台の上を走り回りました。孝移は笑って

「『三豕』というのは誤りですね[31]

潜斎も笑いました。その犬は、劇団が飼っている金色の毛をしたチンでした。観衆はどっと笑い、屋根瓦が震えんばかりでした。やがて、突然銅鑼の音がやみ、劇は終わりました。

 人々が押し合いながら劇場を出たことはお話し致しません。婁潜斎がみると譚孝移は楽しそうな表情、晴れ晴れとした様子をしていて、先日のように顔をしかめてはいませんでした。

宋雲岫

「人も少なくなりましたから、私達も帰ることにしましょう」

一同は一階におりました。徳喜児、多魁児は座布団を小脇に抱えました。宋雲岫

「晋郇館にいって食事にしましょう」

孝移も拒みませんでした。

 そもそも孝移は京師の柏公の庭に泊まっていて、どうして胃の病気になったのでしょうか。人には性格と感情があり、感情は性格から生まれるものです。面白いものを見、面白い話を聞いていれば、胸が塞がれるということはありません。孝移は読画軒の中で、花を見たり、書を読んだりすることはできましたが、それ以外のことは何もしませんでした。これでは、聖人でもないのですから、気分が塞がれるのは当然でした。さらに、家のことが気係りでしたが、どうすることもできませんでしたので、悶々とした気持ちになってしまったのでした。婁潜斎は子供の頃からの親友でしたので、一目でそれを見抜き、孝移の胸の鬱屈を取り除こうと考えていました。ですから雲岫が観劇に招待したとき、潜斎は孝移に行くように促したのでした。劇を見ますと、孝移は思いのほか元気になりました。譚、婁は真面目な読書人でしたから、通俗的な戯曲などに心を動かしていたわけではないのです。以上の話は、理としては正論ですが、物語の中では無駄話であるといえましょう。

 さて、宋雲岫が、譚、婁の二人を晋曩館に招待したことについてお話致しましょう。彼らは、幾皿かの料理を注文しましたが、山海の珍味、燻製や漬物ばかりでした。さらに、何杯かの紹興酒を飲みました。徳喜児、ケ祥、多魁児と宋家の使用人は、みんな腹一杯食べました。そして、食費を払いますと、店を出て、片や憫忠寺へ、片や沙窩門外にいくことにしました。そして、互いに礼を述べあい、拱手して別れました。

 譚、婁は読画軒へ向かいました。読画軒に着きますと、すでに夕方、灯ともし頃でした。孝移はよく喋り、よく笑いましたので、婁さんは密かに喜びました。そして、こう思いました。

「人が異郷に仮住まいするとき、最も怖いのは病気になることだ。病気になったとき、最も恐ろしいのは、一人でいることだ。譚さんは今日は外へ出掛けたから、心が晴れ晴れしたのだ」

そして、友の心を慰めてやることができたことに満足しました。

 次の日、二人は車に乗って沙窩門にいき、宋雲岫の住んでいるところを訪ねました。一つは答礼のため、もう一つは別れを告げるためでした。あいにく宋雲岫は汪橙洲の家へ食事に呼ばれていました。そこで、店番に置き手紙をして、真っ直ぐ帰ってきました。

 ある日、戚、尤二公は、前後して挨拶にきましたが、譚公が宿にいませんでしたので、帰りました。数日して、戚公は手紙と新茶を、尤公も招待状を送って来ましたが、譚孝移は辞退の手紙を出しました。婁潜斎がたずねました。

「戚、尤二公とは、仲がいいとおっしゃっていたのに、どうして招待を断られたのですか」

「戚さん、尤さんとは同郷で、仲も良いのですが、(宴席には)他にも官界の賓客がいます。私達の肩書きは低く、朝廷のお偉方は私達を軽く見ています、わざわざ酒の席で余計者扱いされることもないでしょう。たとえ偉い方々に気に入られたとしても、所詮は官界のかりそめのお付き合い、上辺だけのお情けでしょう、それよりはあなたと二人で一日中膝突き合わせて話をしていた方が楽しいのです」

婁潜斎はいたく感服しました。それ以後、朝晩談論をし、柏公の送ってくれた詩文を読み、疑問があれば質問しあい、面白いと思うところがあれば確認しあい、翌月の合格発表を待ったのでした。

 ところが発表の日、礼部の合格通知板を見ますと、潜斎は不合格でした。潜斎はあまり意に介しませんでしたが、孝移は婁さんのことを大変残念がりました。そして、長班がきますと、三百銭を与え、河南の婁昭という名を書いて、不合格答案を調べさせました。調べたところ、三巻の答案には「兵部職方司郎中[32]の王が閲覧」と書かれ、「推薦する」という批評があったということでした。最初の試験では試験官と副官の丸、青丸がついており、二番目の試験でも同じでした。しかし三番目の試験の策[33]を見ますと、「漢の武帝は方士を尊び、唐の憲宗は丹薬を好んだ」の二句があり、試験官の青丸はついていませんでした。譚孝移

「ああ。このせいで、あなたは惜しくも不合格になったのです」[34]

話しながら、孝移は潜斎が策の中で直言をした事を咎め、ひどくがっかりしました。

「人臣が君主に仕える場合、君主を正そうとする心は、抑え難いものがあります。しかし、腰を低くしてこそ、君主に耳を傾けてもらうことができるのです。遠回しに自然に諫言すれば、君主は諫言を聞き入れて名を揚げ、臣下も歴史に名を残すことができるのです。激しい言葉を吐くだけでは、君主は諫言を聞かないという名を残すことになり、臣下は憎まれて杖刑に処せられたり、怒りに触れて殺されたりします。史書は剛直だと褒めたたえますが、実は臣下として大罪を犯したというだけなのです。潜斎さんは試験場で歯に衣着せぬ言葉を文章にされましたが、これでは答案をうけとってもらえないばかりか、出世の道も閉ざされてしまいます。一体どうされるお積もりですか。私は親友のあなたに凍えた蝉のように何もいうなといっているわけではないのですよ」

潜斎は感謝しました。孝移はさらに

「臣下は、直言をして君主を怒らせてはいけません。あらゆることを正そうとしても、かえって阿諛追従をする輩のために、安全な場所を提供することにもなってしまいます」

潜斎はさらに大きくうなずきました。

 一二日しますと、河南へ帰る受験者たちの中には、婁潜斎と一緒に帰ろうと誘いに来るものもありましたが、潜斎はすぐには帰らないからといって辞退しました。潜斎は、京師にとどまって孝移と一緒にいる積もりでした。そして、孝移が健康になりましたので、大変喜び、自分が不合格になったことも、すっかり忘れてしまいました。

 ところが、ある日突然、孝移は晩酌もせず、布団を被って寝てしまいました。胸が痛いということでした。徳喜児が葛湯を温めましたが、孝移は食べませんでした。甜水鶏蛋[35]をつくりましょうかと尋ねても、手をふって食べようとせず、黒い磚茶[36]を一杯飲んだだけでした。潜斎が何度か尋ねますと、

「少し痛いのですが、何でもありません。婁さん、どうか安心してください」

というのでした。

 夜が明けて朝になりますと、孝移

「病気の報告書を、礼部に提出してまいります」

潜斎は巷で、浙江監軍の宦官が、沿岸地方で副官になる人員を選抜して倭寇に備えたい、という上奏をしたことを聞いており、孝移の予想の正しいのに感嘆していましたが、孝移にはそのことを話しませんでした。潜斎は、孝移が人民を救う志をもっており、決して仕事逃れをしないことをよく知っていました。しかし、上奏は宦官がしたものですから、浙江に着いたら宦官に挨拶しなければなりません。出仕した途端、宦官に跪くのは辛いことです。折しも譚孝移は病気報告書を提出しようとしていました。婁潜斎は真の経学を修めた人でしたから、きっぱりと決断し、その日のうちに長班を手伝って、報告書を提出させました。

 この時、全国で賢良方正に推挙された人物で、病気を報告した者は全部で七人あり、礼部は検査を待つようにと命じました。長官は儀制司[37]の属官を、司務庁[38]の冊子に注記されている宿に行かせ、検査させました。他の所のことは詳しく述べる必要はありますまい。さて、読画軒につきますと、万全堂の丸薬の包みの貼り紙を検査し、「元吏部司務庁の役人で、家主の柏永齢、同郷で、河南の挙人の婁昭は、賢良方正に推挙され、正六品の肩書きを持つ譚忠弼が、本当に病気であり、偽って官職に就くことを避けているのではないことを保証致します」という保証書を受けとり、司官は吏部に報告し、長官は譚忠弼の名の下に「病気のため本籍地に戻る」と書き込ませ、経承書吏[39]に渡して報告書、保証書を保存させ、報告書は受理されました。

 ここからは譚、婁が南へ帰ることについて相談したことをお話し致します。譚孝移

「読画軒に二年泊まりましたが、部屋代を揃えて柏さんに払わなければ」

「私も半年いたのですから、家賃は割り勘にするべきでしょう」

譚孝移は笑って

「あなたは家庭教師なのですから、主人の私が立て替えるべきでしょう」

潜斎は笑いながら箱から封を一つ取りだしますと

「奥さまからもうお金を立て替えて頂いております」

そこへ、ケ祥が駆けてきて言いました

「宋さまがいらっしゃいました」

二人が急いで迎えに出ますと、宋雲岫はもう書斎にいました。挨拶をして席につきますと、

「私は天津衛で、人々の家の門に合格を報せる旗がさされているのを見、京師で進士合格者が発表になったと聞きましたので、従兄(にい)さんはきっと合格されたと思いました。しかし、急いで上京して、沙窩門外の宿屋へ行きますと、門房に『題名録』が貼ってあり、従兄さんが不当な扱いを受けた事を知りました」

孝移

「策に二つ不適当な事を書かれたのです、次の試験では合格でしょう」

潜斎

「不注意だったというだけのことです」

「今度の試験では、不注意をしないようによく注意されなければいけませんよ」

雲岫

「譚先生はどうなさるのですか」

潜斎

「もう正六品の肩書きを得られましたが、病気と称して本籍に帰られるのです」

「いつ出発なさるのですか」

孝移

「三日以内でしょう」

「テーブルの上の銀は何に使われるのですか」

潜斎

「家主への部屋代に使うのだ」

「これをですか」

孝移

「五六十両あります」

雲岫はついてきた下男に

褡褳[40]をもってきてくれ」

といい、封を二つ取りだし、テーブルの上に置きますと、笑いながら

「私は本当は進士合格を祝うためにもってきたのですが、進士に合格しなかったからといって、さしあげないわけにもまいりません。出発を決められたのなら、お二人のために駄轎[41]を準備致しましょう。十六日に出発することにしましょう」

と言い、茶を飲むとすぐに行ってしまいました。婁、譚は引き止めようとしましたが、門を出て車に乗ると行ってしまいました。

 二人は書斎に戻りますと、徳喜児に褡褳をもってこさせました。そして、六十両の銀を詰めますと、二人の辞去を告げる帖子をもって、北の中庭に届けにいきました。蝦蟆はそれを見ますと、柏公に伝えようとしましたが、急いで走りましたので、転んでしまいました。起き上がるとまた走りましたが、広間に着いて報告したときには、二人はすでに階段を上がっていました。柏公は急いで出迎えますと、

「体をつかう挨拶はぬきにいたしましょう」

と言い、一回拱手しますと腰掛けました。譚公

「二年間お世話になり、お教えを蒙りました。この十六日に帰郷しますので、お別れに参りました」

婁公

「お慕い申し上げておりました、しばしばお召しを蒙りましたが、ご挨拶をする暇がございませんでした。私は譚さんとともに、河南に帰ります。三年後、ふたたびお邪魔いたします」

柏公

「お二方のことは、私はすっかり存じあげております。急に帰られるのは、悲しいことですが、仕方ありません。どうか酒をもう一杯飲んで、気晴らしをすることに致しましょう」

譚公

「二年間親しくしていただいたのに、形見にするものもございません、つまらない物ですが、老先生、どうかお受け取り下さい」

柏公は大いに笑って

「ハハ、お二方。私は今年八十七歳になります。こんなものをいただいても仕方ありません。私は幼いときから金を見て喜ぶことはなく、人と会うことだけが楽しいと思っていました。私は木っ端役人になり、毎日役所へ行き、気を使い、なすべきことはてきぱきこなし、間違いがあって処罰されることだけを恐れていました。各役所の郎中、員外の老先生方は、みな誠実に仕事をしていました。私は心の中で老先生方に敬服しましたが、妄りに彼らに取り入って、他人から官界のやり手だといって褒められたりしたことはございません。私は木っ端役人でしたが、『やり手』といわれることをとても恐れていました。老先生方も、私の誠実さを理解し、身分を忘れてお付き合いして下さいました。初めは少し目を掛けて下さるだけでしたが、次第に命をかけた交わりとなりました。ああ、私が数十年長生きしたために、今ではみんな亡くなってしまいました。数えてみれば、誰もいません。その中の幾人かは、すべて立派な生き方をされた方々でしたが、堅く筋道を通されたので、廷杖を受けて亡くなった方もあれば、遠方に追放されたり逃げたりして消息が知れない方もあります。最も残念だったのは、朝廷に権力をほしいままにする役人がいますと、老先生方はひどく頭が固くなり、愚かで攻撃的になり、わざわざ進み出て役人たちと刺し違えようとされたことです。老先生方は千古の巨悪には、絶対によい結末はなかった、まして宦官はなおさらだ、ということを知らなかったのです。宦官はたとえていえば道にいる猛虎のようなものですが、道が塞がれ、人がまれとなっても、必ず肉を食われ、皮を敷物にされる日[42]が訪れるのです。権力を握って国を蝕む者は、やがて必ず没落するものです。私に馮婦[43]の才能があり、虎を拳で打ち殺せば、さぞかし痛快なことでしょう。しかし、虎には住家とする山の隈がありますし、多くの倀鬼[44]もついていますから、我が身を大切にして退くしかないのです。何も虎に食われることはありません。虎がいなくなれば、天は晴れ渡り、空気は清らかになり、朝廷は四方を見渡して、老成した模範的人物を探し、人々は旧態に復します。しかし、君子達は、すでに次から次へと殺されて、いなくなってしまっているのです。これは数百年かけて老先生たちをはぐくんだ先祖の心に適うことといえるでしょうか」

 話をしていますと、下女の玉蘭が盆を捧げて玫瑰[45]のこし餡の入った元宵[46]を三皿捧げ持ってきて、座席ごとに茶匙をおきました。食事が終わりますと、玉蘭は盆をもって皿を受け取りました。柏公が言い付けました。

「台所の焦さんの女房を呼んできてくれ」

柏公は更に叫びました。

「蝦蟆はいるか」

蝦蟆は入口に立ち、焦家の女房、玉蘭もやってきました。柏公は銀を入れた小さい包みを開けますと、八錠[47]でしたので、笑いながら

「有り難く頂戴致しましょう」

そして、蝦蟆に二錠与えて、

「おまえは犬をよく世話してくれたからな」

と言い、玉蘭と焦家にも三錠ずつ与えました。蝦蟆は叩頭しました。

「お前たち、礼をいうには及ばぬ。行くがよい」

そして、大きな包みを押し戻して、ふたたび徳喜児に受けとらせました。孝移

「ほかに差し上げるものもございません。とりあえずお餞別とさせていただきます」

柏公は大笑いして

「お餞別は現職の人同士がするものです。私はもう退職しており、お二方はこれから官につかれる方ですから、このようなことは必要ありません。お二方がふたたび上京されたときに、私がまだ死んでいなければ、また南の書斎に泊まってください。ひょっとしたら『近臣を観るにその主と為すところを以てす』[48]ることもできるかもしれません」

私が死んでいたら、どうか家の前に来てください。脱驂の贈[49]をして頂こうとは思いませんし、涙を流して頂こうとも思いません。『これは以前私を泊めてくれた方のお葬式だ』と言って下されば、私は草葉の陰で、とても光栄に思うことできるというものです」

そして銀子を指差しながら

「これは私からの餞別です。執事殿に受けとらせ、旅路のお茶代にしてください。しかし、私はひとえにお餞別はご辞退申し上げます」

譚、婁は柏公の丁寧な言葉を聞きますと、これ以上餞別を勧めることができなくなりました。そして、更に少しとどまりますと、荷物を纏めなければならないと言って、別れを告げました。柏公は見送りをして別れを告げました。

 読画軒に戻りますと、宋雲岫はもうそこにいました。つれてこられた二人の騾馬曳きは庭にいました。宋雲岫

「駄轎を二台用意致しました。六頭の騾馬は、きちんと手配しました。銀子はもう払いました。彼らの契約書を御覧ください。彼らは一緒にここにやってきて、十六日に出発するそうです。その日は彼らがここにきて待機します。家に着いたら彼らを一日泊めて、彼らに酒代を千銭与えてください。旅路でよく仕事をすれば、酒代を更に千銭増やしてやってください。当日は私は朝に参りましょう。では失礼します。まだ二つの物を買わなければなりませんから」

言い終わると出ていきました。騾馬曳きも一緒にいってしまいました。

 譚孝移は、車に乗って、戚、尤二公のところにも別れを告げにいきました。婁潜斎はケ祥達が箱や籠、褡褳を梱包するのを見ていました。まもなく、孝移が帰ってきて言いました。

「二人とも役所に行っていました。天子さまが斎宮に泊まられるのに付き添っておられるのです。名刺だけおいてきました」

次の日、柏公は料理を送ってきました。自から出向いてお酌することができないということでした。晩になりますと、戚公が下男を遣わして、路菜[50]を一甕と、封に包んだ手紙をもってきました。見送りはできないと書いてありました。まもなく、尤公が下男を遣わし、極上の油で揚げた菓子を一箱送ってきました。旅路でのお茶受けにとのことでした。彼らには礼状と、使いへのお祝儀を与えました。

 出発の日、宋雲岫がやってきました。付き添ってきた下男は広錫の急須を二つもっていました、轎の中で喉の乾きを癒すのに便利だ、轎を乗り降りしなくてすむ、ということでした。二人の長班が見送りにきたので、譚公は銀四両を与えました。婁公も一包みを与えました。駄轎がつきますと、二人の長班は二公を助けて座らせました。振り返って雲岫に別れを告げますと、蝦蟆が大泣きしていましたので、孝移はとても悲しくなりました。騾馬曳きが笛を吹きますと、駄轎が動きだしました。ケ祥が騾馬を轎につけ、徳喜児、多魁が上に座り、荷物を押さえて従い、すぐに彰儀門を出て、西へ行きました。そもそもこの彰儀門は、入る者と入る者に、両様の思いをいだかせます。こんな詩があります。

広々とした洞門と城門につく二つの扉、

来るときは朝の日を仰ぎ見る。

西のかた門をいづれば幾たびも見返りて、

長旅に陛下のことを懐かしむ。

 その晩は良郷で轎を止め、宿屋にとまりました。ケ祥たちはふたたび荷物の点検をし、しっかりと梱包をして、長旅に備えました。婁潜斎は孝移の病気がぶり返して、旅を続けられなくなることを恐れました。見れば、孝移は壁に書かれた詩を眺めていました─詩には旅人のもの、少女のものがあり、優れたものもありました。孝移は心も和み、とても喜び、少しも病気らしいところがありませんでしたので、潜斎はとても嬉しくなりました。そして、道すがら古の聖人や先賢にまつわる旧跡、忠臣、孝子にまつわる名所を選んで、孝移とともに遊覧し、俗塵を払い、楽しみを深めようと思いました。しかし、曹瞞[51]、高洋[52]、慕容[53]、石虎[54]の駐屯していた所[55]に関しては、そこを無視して顧みませんでした。それは古人を論じる楽しみがそがれるのを恐れたからで、前もってきちんと考えていたことでした。この良友の思いやりの心は、大変周到なものであったと言うべきです。次の日、琢州[56]につき、夕方、旅館に泊まりました。張桓侯[57]の四言詩『刁斗銘』の、「桓侯は美秀多髯」という句は、李義山の「張飛の鬚」の句の証明になるというと[58]、孝移は喜びました。その後、慶都県[59]につき、帝堯廟に参拝しました。趙州橋[60]に着きますと、隋の職人李椿[61]が造ったものだといいました。さらに張果老[62]が驢馬に乗っていたとき、この橋が折れそうになったので、魯班が片手で支えたと俗に言われているという話しをしますと、人々は手をたたいて大笑いしました。[63]につきますと、李文靖の故郷だといいました。婁潜斎は、額を書いたができ栄えは先賢に対して恥ずかしいものだったと言いました。沙河県[64]に着きますと、宋広平[65]の『梅花賦』の話をしました。邯鄲県[66]の黄粱夢祠につきますと、孝移は

「昨年、京師で夢を見て、ここにきたところ、一人の役人に逢いましたが、私に参謀になってくれということでした」

と言い、互いに笑いあいました。彰徳府[67]に着きますと、韓魏公[68]の宰相としての業績について話しました。湯陰[69]に着きますと、文王の演易台[70]に上り、岳忠武[71]の祠に参拝しました。衛輝[72]に着きますと、比干の墓に参拝し、孔子の遺した字を見ました[73]。延津[74]に着きますと、黄河が昔流れていたところだといいながら、遥かに濬県[75]の大伾山[76]を指差しました。

 道々先人の遺跡を考証したことはお話し致しません。黄河につきますと、船で対岸に行き、上陸しました。二人がふたたび駄轎に乗りますと、はるかに鉄塔[77]が望まれました。一時足らずで、古封丘門[78]に入りました。徳喜児が蕭街への案内をし、多魁が文靖祠の西の胡同への案内をしました。そして、轎に乗ったままそれぞれ同行をしてくれたことへのお礼をいい、帰宅しました。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]郷試の合格者を対象に行われる試験。北京で行う。

[2]正殿に対して別殿をいう。休息のために設けられた御殿。天子の休息する所。

[3] 「かしこまりました」。天子の命を受けた側が記す言葉。

[4]内閣に設けられた官で、撰擬、繕写を司る。

[5]伝旨、冊封、撫諭などの仕事を司る。

[6]大理寺の官。廷尉平、廷尉正、廷尉監とともに疑獄の決断をおこなう。

[7]正七品。太常の属官。乗輿を導引することを司る。

[8]府に設けられた官で、糧運、農田、水利等の事務を行う。正六品。

[9]督糧、捕盗、海防、江防、清軍、理事、撫苗、水利などの諸務をつかさどる官。正五品。

[10]病気の親の最期を看取るための休暇。

[11] いずれも浙江省。

[12]税関。清代には廃された。

[13]来享は、諸侯が来朝して物を献ずること。『詩経』商頌、殷武「莫敢不来享」[箋]「享、献也」。来王は、四方の異国の王が新に位に立つごとに、中国に来て天子に見える事。『詩経』商頌、殷武「莫敢不来王」[箋]「世見曰来王」。

[14] 「忠実な臣下」の意味。

[15]舒芬、字は国裳のこと。正徳年間に進士に首席合格し、翰林院の修撰を授けられたが、正徳十四年、明の武宗(朱厚照)が山東、江南、浙江等に巡遊を行おうとしたとき、それを諫め、武宗の怒りに触れ、廷杖を受けた。『明史』巻百七十九に伝がある。

[16]検察官。

[17]太宰とは吏部尚書の別称。汪太宰とは汪メのこと。『明史』巻百八十六に伝がある。

[18]明、松江華亭の人。南京御史。『明史』巻二百九に伝がある。

[19]吏部尚書、戸部尚書、礼部尚書、兵部尚書、刑部尚書、工部尚書、都察院都御史、通政司使、大理寺卿をさす。

[20]人と人との交際では互いに理解しあうのが貴いということ。李陵『答蘇武書』「人之相知、貴相知心」。

[21]執事殿。

[22]現在の広渠門のこと。『明宮史』巻二「広渠門即俗称沙窩門也」。

[23]特等席、高桟敷。

[24]僧帽。(図:『清俗紀聞』)

[25] パスポ─ト。

[26] ともに春秋時代の小国。「曹桧」とは取るに足らないものの代名詞。

[27] ともに春秋時代の小国。ただし、ここでは、楊貴妃の姉の虢国夫人、秦国夫人をさす。

[28]文全体の意味は、「取るに足らないということはなく、虢国夫人、秦国夫人のように美貌であった」ということ。

[29] 『左伝』荘公八年冬十二月に見える言葉。斎侯が貝丘で狩りをしたとき、大豚が現れ、人のように立ち上がって斎侯をおびやかしたこと。

[30] 『大戴礼』易本命「四主時、時主豕、故豕四月而生」。

[31]史書の文章を「晋師三豕渉河」(晋の将軍三豕が川を渡った)と読んだ者がいたのを、子夏が「三豕」は「己亥」の読み間違いだといってただした故事をふまえた発言。『呂氏春秋』察伝にみえる。「子夏之晉、過衛、有讀史記者曰、晉師三豕渉河。子夏曰、非也、是己亥也。夫己與三相近、豕與亥相似。至於晉而問之、則曰晉師己亥渉河也。」。

[32]天下九州の地図を司り、四方の貢物を取り扱う官。

[33]策問のこと。科挙で課される試験の一つ。経義や政治上の意見をとわれそれに答えるもの。また、その答案。

[34]婁潜斎の答案が、明の世宗が方士を信じ、道教を崇拝していることを影射していたので、不合格にされたことを言っている。

[35]砂糖水で煮た鶏卵。

[36]茶の葉を蒸して煉瓦状に固めたお茶。固め方のややゆるいものを団茶という。雲南、西蔵、内蒙古などの地区で常用される。

[37]礼部の官。諸礼文、宗封、貢挙、学校の仕事を司る。

[38]官名、明清の六部に置かれ、文書の出納、下級官吏の監督をつかさどる。

[39]帳簿、手紙をつかさどる下役。『清国行政法、汎論、官吏法、文官』「吏胥者、以各衙門之掌簿書案牘者、其称呼不一而足〜部院衙門曰経承」。

[40]長袋。真ん中に穴があり両側に荷物を詰める。大きい物は肩に担ぎ、小さい物は腰に巻く。

[41]騾馬が二頭で前後を担ぐ轎。旧時北方の長途旅行に用いたもの。

[42]原文「食肉寝皮之日」、『左伝』襄公二十一年「然二子者、譬於禽獣、寝食其肉、而寝処其皮矣」(しかしこの二人は、禽獣に譬えるとすれば、臣下が彼等の肉を食べ彼等の毛皮の上に座っているようなものだ)に因む言葉。

[43] 『孟子』尽心下に出てくる人名。晋の人で、虎を打ち殺すことができたという。『孟子』尽心下「斉飢、陳臻曰『国人皆以夫子将復発棠、殆不可復』。孟子曰『是為馮婦也、晋人有馮婦者、善搏虎、卒以善士、則之野、有衆逐虎、虎負嵎、莫之敢情、望見馮婦、趨而迎之、馮婦攘臂下車、衆皆悦之、其以士者笑之』。

[44]虎に齧まれて死んだ人の霊魂。人が虎に齧まれて死ねば、その霊魂は虎に付いて悪事をするという。魯迅『朝花夕拾』などを参照。

[45] ハマナシ。

[46] もち米で作った団子。

[47]十両或いは五両が一錠。

[48] 『孟子』万章上にあることば。「朝廷に仕えている近臣の人物は、彼を頼って身を寄せてくる人物を見れば分かる」。柏公がいいたいことは「朝廷の役人となったあなた方が部下を従えているのを私が見ることができるかもしれません」ということ。

[49]孔子が衛にいったときに、以前自分を泊めてくれた人の葬式が行われていたので、驂(三頭立ての馬車の馬)の一頭を贈って弔意を表したこと。『礼記』檀弓に見える故事。

[50]旅行に携帯する副食物。

[51]曹操。

[52]北斉の文宣帝。

[53]前燕の皇族慕容氏。

[54]後趙の三代皇帝。

[55]三国魏の都であったのこと。

[56]直隷順天府。

[57]張飛。

[58] 『刁斗銘』は張飛の作と伝えられる法帖。「張飛の鬚」の語は、李商隠の『驕児詩』にある。原文は「或謔張飛鬚、或笑ケ艾吃」。

[59]明の地名、河北省保定府。

[60]直隷真定府にある橋。

[61]伝記未詳。

[62]唐代の道士。『太平広記』巻三十によれば、つねに白い驢馬に乗っていたという。

[63]河北省広平府。

[64]直隷順徳府。

[65]宋m。唐の人。右丞相となる。

[66]直隷広平府。

[67]河南省。

[68]韓g。宋代の宰相。

[69]河南省彰徳府。

[70]文王が『易』の繋辞を作ったといわれるところ。

[71]南宋の将軍岳飛。

[72]河南省の府名。

[73]比干の墓の「殷比干墓」の四文字は孔子が書いたものと言われていた。

[74]河南開封府。

[75]河北省大名府。

[76]河南省濬県にある山。黎山、黎陽山、青壇山ともいう。

[77]開封府の東北にある、皇祐元(一〇四九)年に建った褐色の塔(写真)。

[78]開封の北門。宋代には封丘門と言われた。

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