第九回

柏永齢が君臣の義を明らかにすること

譚孝移が父子の情を動かされること

 

 さて、侯冠玉は授業を怠けて子供をほったらかしにしましたが、ここで話をもとに戻しましょう。譚孝移が家に手紙を書いたのは、女房がいい加減で、子供のために教師を選んでやれないのではないかと心配したからでした。彼は、侯冠玉が家に招かれ、家に変化が起こっていることなど知る由もありませんでした。

 ある日、譚孝移が読画軒で休んでいますと、突然、徳喜児がやってきて報告しました。

「柏さまがいらっしゃいました」

孝移は急いで出迎えました。すると、蝦蟆が名刺入れ[1]を小脇に挟み、柏公の介添えをしながら、書斎にやってきました。挨拶をして席につきますと、柏公が大声で

「蝦蟆、名刺入れをもってきてくれ」

蝦蟆は名刺入れを柏公に渡しました。柏公は蓋を開きますと、赤い単帖[2]を取りだし、孝移に捧げ、

「明日の昼においでください。お話しを致しましょう」

と言いました。孝移が単帖を受け取りますと、そこには十五日と書かれており、その下に、「柏永齢慎んで約す」と書かれていました。そこで、孝移は急いで挨拶をしますと、いいました。

「まことにありがとうございます。しかし、御馳走になるのは申し訳ありませんし、お断りするのも失礼に思われます」

柏公は笑って

「何もさし上げるものはございません。あなたをお招きして話がしたいだけです。お食事といえるようなものはございませんが、早めにおいで下さればさいわいです」

「慎んでそうさせていただきます」

「私は、明日あなたがよそに挨拶にいかれたり、酒に誘われたりしているのではないかと思ったので、自分で約束しにきたのです。まあ、明日お暇でなければ、あさってでも構いません。下男が知恵遅れで、話がうまく伝わらないといけないので、私が自分できたわけです」

孝移は心の籠った態度をみますと、いいました。

「明日すぐに伺います。お断りするなど、とんでもございません。あなたの召使いはとても真面目です。素朴な召使いが家にいるというのも、楽しいことではありませんか」

「役人をしていた頃は役に立つ下男もいたのですが、退職してからは、彼らに就職活動をさせ、推薦状を書き、新しい役人につけてやりました。この男は私の親戚の家生子[3]です。家には何事もありませんので、この男を借りるだけで、十分なのです。まあ、退職後は俗事に関わることもなく、身も心もすっきりしております」

孝移は柏公の清らかな言葉をききますと、ますます心服し、明日早々に伺いましょうと約束しました。すると、突然蝦蟆がいいました。

「家では、旦那さまが食事をとられるのは、家か、書斎かとお尋ねです。書斎ならば、盒子をお送りします。家ならば、広間に食事を用意致します」

柏公は

「家にしよう」

といいますと、立ち上がって別れを告げ、右手に杖をもち、左手で蝦蟆の肩に手をかけました。孝移は送ろうとしましたが、柏公は断りました。孝移は徳喜児に命じて車を呼びにいかせました。ぬかるみで柏公が足を滑らすのではないかと思ったからでした。しかし、柏公は挨拶をする代わりにうなずきますと、去っていってしまいました。

 次の日の朝食の後、蝦蟆は速帖をもってきて、テーブルの上におきますと、言いました。

「譚さま、わたしの主人のところへいってお話しをいたしましょう。私についてきてください」

孝移は笑って

「すぐいこう。入り口で待っていてくれ」

蝦蟆は嬉しそうにその場を離れました。孝移は着替えをしますと、徳喜児を従え、北の建物へ向かいました。

 柏公は客がきたことを聞きますと、自ら杖をついて出迎えました。孝移は大広間に入りますと、挨拶をし、感謝の言葉を述べましたが、柏公は受けようとはしませんでした。奥からは茶が運ばれてきました。主人と客は匙をとり、向かい合って茶を飲みました。柏公

「ようこそお出で下さいました。先生が宿屋でお寂しいでしょうから、こちらへお招きして楽しんで頂こうと思ったのです」

孝移は頭を下げて礼を言いました。そして、天然几[4]の上の香爐からあがる細い煙、左右におかれた二十余帙の書籍を見ますと、思わず目をとめ、柏公がおいたのだと思いました。柏公は立ち上がると笑いながら

「これらの本は私から先生への贈り物です」

孝移はテーブルのところへ駆け寄りますと言いました。

「ご蔵書を頂くなど、とんでもございません」

「これらの詩稿・文集は、全て私がお仕えした方、六部の各司務庁の老先生や、よその省の友人が送ってくれたものです。役人をしていた時は読む暇がありませんでしたし、役人をやめてからは目がかすんで読むことができなくなりましたから、あなたに差し上げましょう。役人になられて暇ができたときや、隠居なさったときに御覧になってください。宝剣は立派な男子に送るべきものです。どうかご笑納ください」

孝移は拱手して礼を言いました。

「まことに痛み入ります」

「とんでもございません。私は歳は八十を越え、たくさんの人を見てきましたが、あなたのように俗気のない方は初めてです」

「田舎育ちで、今回こうして都に参りましたが、幾ら本を呼んでも、どうしてもむさくるしさが抜けません。俗気がないなどとはとんでもないことです」

「俗気と言うのは、どんな人にもあるものです。しかし、黄山谷(庭堅)は『士夫の俗は、(いや)すべからず』[5]といっています。『士』とは読書をして仕官するものです。『夫』というのは仕官して大夫となるものです。『俗』とは農夫・職人などとは関係のないことです。『語言味無く、面目憎むべし』[6]というのは、黄涪翁(庭堅)がもっぱら読書人のためにいった言葉です。地を耕す農夫や・槌をふるう鍛冶屋・鋸をひく大工・飯を売る店員には─お尋ねしますが─人に嫌気を起こさせるようなところがありますか。私は数十年小役人をし、多くの人々に会ってきましたが、誠実な心をもち、行い正しく、言葉が丁寧で、尊敬に値する人は勿論多くはありませんでした。私が会った人のうち、俗な人物の名前は、今でも一人になって記憶をたどれば、数え切れないほど思い出すことができますが、彼らの顔や姿は思い出したくもありません」

 譚孝移はよく気の利く人でした。柏公が話しをしながら怒り出したのを見ますと、帙の中から薛敬軒[7]先生の本をとりだして一二行読み、分からないところを拾って柏公に質問しました。柏公の気を紛らわし、話題を変えようと思ったのでした。ところが、柏公は老人気質で、話に夢中になっていました。彼は指を二本のばすと、また喋りだしました。

「最近の役人たちは、銀のことを話題にするとき、万とは言わずに、『方』と言い、千とは言わずに、『幾撇頭』と言うのです。そして『わしは一方四・五損をしたとき、誰それがわしに三百金貸してくれたが、金が借りられなかったら飯が食えなくなっていただろう』と言ったり、『誰それが私に仕事を世話してくれたので、余分な税収があったときに、七八撇頭の昔からの借金を返して、ようやく都にくることができた』と言うのです。さらにおかしいのは、『娶妾』[8]と言わずに『討小』といったり、『混戯旦』[9]といわずに『打彩』といったりすることです。さらにひどいのになりますと、口を開けば『厳鶴山先生』[10]と言ったり、『胡楚浜姻家』[11]と言ったりするのです。このような、やり手の役人が、権力者を褒めるときのやり方を、私は下っぱの役人をしていて、嫌というほど見聞きしました。しかし、今では老いぼれて隠退し、そうした俗な話を耳にすることもなくなりました。これも晩年の幸福というものでしょう」

孝移はもともと胆はけし粒の様、心臓は髪の毛の様な人でしたから、このような話しはあまり聞きたくありませんでしたが、喋らないで下さいとも言えませんでした。そこで、仕方なく楊文靖[12]の上奏文を手にとり、話題にしたところ、柏公もようやく話をかえました。

 話がたけなわのとき、蝦蟆が手に布巾をもってテーブルを拭きに来ました。そして、柏公に向かって

「ご飯に致しましょうか。」

といいました。柏公はちょっとうなずくと

「熱い酒をもってきてくれ」

と言いました。やがて、下女が盆に油条・果物・生臭物の小皿をのせてやってきて、衝立の影に立ちました。蝦蟆は一皿一皿テーブルに並べました。柏公は座席を移動させ、主客が向かい合いました。下女は熱燗を手にもって、もとの所に立っていました。蝦蟆はテーブルの上に箸をおき、下女の手から酒を受け取ると杯にそそぎました。しかし、急についだので、手に火傷をおい、杯や皿を地面に落としそうになりました。柏公が叫びました。

「玉蘭、蝦蟆の代わりに酒をついでくれ」

すると、十三四歳の垂れ髪の下女が、口を押さえて笑いながらやってきて、柏公に酒を渡しました。柏公は杯を孝移にさしだしました。孝移は何度も

「恐れ入ります」

と言いました。下女はさらに一杯つぎ、柏公の前におきました。孝移は手ずから返杯しました。酒がつがれますと、主客は酒を飲みました。蝦蟆は露台にいて、銅の盥で手を冷やしていました。下女は近くで杯を洗いました。柏公は蝦蟆に酒をつぐように命じましたが、一向に返事はありませんでした。孝移は徳喜児を呼ぼうとしましたが、彼も近くにはいませんでした。柏公は下女に向かって

「他の者に料理を運ばせてくれ」

と言いました。下女は奥に引っ込み、飯炊き女をよび、熱い小料理をもってこさせました。柏公が料理をすすめ、下女が酒をつぎました。蝦蟆は戸口にきて、口をとがらせて立っていました。柏公が言いました。

「お前、譚さんの使用人のために料理を運んでくれ、向かいの間でお相手をするのだ」

蝦蟆は喜んで出ていきました。暫くしますと、飯炊き女が熱い料理をすべて並べ、柏公は箸をとり、料理をすすめました。そこに山海の珍味がすべて揃っていたことは、言うまでもありません。二人は意気投合して、ほろ酔い気分になりました。食事が終わって席を立ちますと、下女が茶をもってきました。孝移は帰ろうとしましたが、柏公は放そうとせず

「東の書斎にいって、もう少しお話しをしましょう」

といいました。そして、蝦蟆を呼んで部屋を開けさせ、テーブルや椅子を綺麗に拭かせました。

 柏公は孝移を東の書斎に案内しました。広い部屋でした。中には高さ一丈の太湖石、石の机、磁器の美しい腰掛け[13]が四つありました。書斎に入りますと、中には隷書で「陸舫」と書かれた額があり、右側に「嘉靖癸亥[14]」、左側に「蜀東楊慎[15]」と書かれていました。その他のものは、詳しくは述べませんが、「淡雅幽清」の四文字で、その様を言い尽くすことができます。

 二人が席につきますと、蝦蟆が茶をもってきました。徳喜児は庭に立っていました。柏公は言い付けました。

「蝦蟆、譚さんの使用人と一緒に長机の上の本を南の書斎にもっていって、同じ様に長机の上に置くのだ」

二人は命を受けると去っていきました。孝移はふたたび礼をいいました。そして、額に書かれた楊慎の名を指差しながら、いいました。

「この升庵先生は、若くして翰林学士になり、末は大臣になって、父親の遺業を継ぐはずでしたのに[16]、今は雲南で苦労されています。将来陛下によって召喚されるかも知れませんが、どうなるかは分かりません」

「多分駄目でしょう。興献王の祭祀問題のときは、私は肝を冷やしました。宮門で哭泣したのは、時期尚早でした。陛下は安陸[17]から養子になり、本家を継がれ、生みの親を先帝として祀ろうとされました。これは自然の成り行きというもので、臣下たるものは一心に陛下の大御心に従わなければならなかったのです。激しく陛下に迫って、反対するのはよくありません。例えば私達読書人の家で、本家に跡取りがなく、分家が後を継いだときに、本家の財産を受け継いだからといって、分家の両親を疎んじたりするのは、良いことでしょうか。当時私が勤めていた役所の少宰[18]だった何さんは、諱を孟春といいましたが、宮門で哭泣して陛下を諫めました。升庵先生はそのとき『今こそ、節義のために死のう』といわれたそうです。どうして死ぬなどといったのでしょう。せっかちというものではありませんか。宋の光宗が重華宮に参るのをやめたのは[19]、子が父親のことを忘れたものです。臣下の中で裳裾をひきずりながら泣いて諫めた者、顔中血まみれにして諫めた者は歴史に残りますが、彼らが度を越していることを論じた人はいません。今上陛下が興献王を祭祀すべきか否かは、よく議論し、情と理に適うようにすべきだったのです。ところがいきなり二百二十人が大声で哭泣して諫めたりすれば、陛下も従うわけにはいかないでしょう。要するに、『帝王は孝を以て天下を治め、而して帝王は天下を安んずるを以て孝と為す』[20]ものなのです。この二句は千古不易の真理です。本家を重んじなければならないとことに固執して、孝宗陛下を祭祀すれば、皇帝陛下はきっと退位して安陸に戻られ、藩王となり、ますますまずいことになっていたはずです。つまり、あの時、人々はまず激昂してしまい、上奏の日には性急になってしまい、宮門で哭泣したときは動転してしまい、杖刑・流罪になったときは、恨みを抱いてしまったわけです。先生にお聞きしますが、目上の人の前であのような態度をとっていいものでしょうか。」

孝移は一言も答えられませんでした。柏公はさらに

「夏は子供に位を伝えていましたが、殷は弟に位を継がせることにしていました。─兄が死んで弟が相続したのは十一例あります[21]。もしも諫言をした方々が、太庚、雍己、河亶甲、盤庚の時代に生まれ、今日のような意見に固執したら、殷の四百年間はずっと争い続きとなり、天下が治まることはなかったでしょう。それに洪武七年、天子さまが『孝慈録』[22]をつくって天下に頒布されたとき、『子は父母の為、庶子はその生母の為に、皆斬衰すること三年たるべし。人情の安んずる所、即ち天理の在る所なればなり』[23]とおっしゃっています。これは輝ける天の言葉というべきでしょう。嫡・庶の区別にこだわるのなら、斉王の子の(もりやく)はどうして斉王の子が数ヵ月喪に服することができるように頼んでやったのでしょうか。[24]

七八十歳の人は、他人から見れば耄碌していても、本人は頭脳明晰だと思っているものです。他人からみれば取り止めもない話をしていても、本人は簡潔な話をしていると思っているものです。孝移は臣下たるものは妄りに君主の事を云々してはいけない、庶民が朝廷の政治について妄りに語ってはいけないと堅く信じておりましたから、目を見張りながら一言も返事をしませんでした。すると、柏公はさらにいいました。

「臣下の諫言は、天子に誤りがないようにするためのものです。妄りに激昂して、自分を剛直な名臣だと考え、さらに君主に諫言などして、いいと思っているのでしょうか。今後、別の事件がもちあがったときには、天子は臣下が騒ぐのを封じるために、彼らが口を開く前から、臣下を杖刑や流罪にしようと心を決めてしまっていることでしょう。これは後に他の人が諫言をする道を、楊慎たちが閉ざしてしまったということで、いいこととはいえますまい」

しばらく黙りますと、さらにいいました。

「老いぼれは忠孝ということにかけては、多少持論があります。はっきりと先生に申し上げましょう。羅仲素[25]は『天下に是ならざる父母は無し』といっています[26]。老いぼれにいわせれば、舜は心の中ではこのようなことは考えていなかった筈です[27]。しかし、彼の心には『父母』の二字しかなく、二人の老人の前にいけば、愛情を注いだのです。これが俗にいう『愛してやまない』ということです。韓昌黎は『天王は明聖にして、臣の罪は当に誅せらるべし』[28]といっています。これは、文王の心をいったものです。文王は天王が自分を西伯に任じたと思っていましたが、自分が天の役に立つことができないので、いつも心が休まりませんでした。そして、千年後、韓退之にその事を言われたわけです。そうではありませんか。」

孝移はここまで聞きますと、思わず密かに柏公を称えました。

「この先生は、人々の下に隠れている、真の賢人だ」

 ところが、ようやく老人の長話しに耳を傾けようとしたときに、あいにく日が西に傾きましたので、別れを告げて去らねばならなくなりました。柏公は杖をついて見送りました。そして、口の中でぶつぶつと

「年をとって耄碌して、つまらぬ話をお聞かせしました」

と言いました。孝移

「もっとお教えを承りたいと思います」

蝦蟆は客が去っていくのを見ますと、急いで表門までとんできて、閂を外し、扉を開け、大きな犬の首を足でぎゆっと踏み付けて押さえました。主客は表門を出ますと、拱手をして別れました。孝移は読画軒へ帰りました。

 孝移は読画軒で、堤塘官が毎日送ってくる官報を読んでいました。ところが、胸に急に痛みが込み上げてきました。そこで、熱い茶を飲み、熱い息を吐きますと、少し楽になりました。ところが、ある日、浙江からの上奏文に、倭寇が猖獗を極め、海辺を荒らし回っているというものがあるのを目にしました。それは、巡按御史[29]の欧珠と、鎮守太監[30]梁瑶が、連名で上奏したものでした。心が憂欝になりますと、またも胸に痛みが込み上げてきました。そこで、茶を一杯のみましたが、以前のようにすっきりとはしませんでした。家では、婁潜斎が春先に上京するから、他に先生を探さなければならないが、王氏が勝手なことをしたら大変だ、などと考えますと、胸のつかえはますます重くなりました。

 ちょうど昼でしたが、気分がすぐれませんでしたので、床の上で寝ることにしました。そして、祥符に帰ろうと思い、さっと布団をはねのけて立ち上がりますと、すぐに河南への旅路につきました。ところが、どういうわけか邯鄲に着いてしまいました。道端には役人が座っており、床几の後ろには黄色い傘をもった男がいて、誰かを待っている様子でした。孝移はそこに近付きますと、その役人は身を屈めて迎えました。挨拶を終えますと、その役人は言いました。

「永いことお待ちしていました。こちらへきてお休み下さい。お教えを承りたく存じます」

孝移は仕方なくその役人について部屋に入りました。挨拶をして席につきますと、孝移はたずねました。

「お名前を存じ上げませんが、失礼ですが、ご姓は。」

「私は盧という姓で、本籍は范陽にあります」

「先生や、清河、太原、滎陽、隴西はみなわが国の名族です[31]。私も昔から存じ上げておりました。ところでご用とは何でしょうか。」

「このたび聖恩を蒙り、倭寇征伐を命じられました。先生の高い声望、優れた学識については、かねてからうかがっておりましたので、参謀の位をお送りし、お教えを仰ぎたく思います。もしもご承知くださるのでしたら、倭寇討伐の後は、朝廷に上奏を致します。そうすれば、先生は高官に抜擢されることでしょう。私は現在勅命を待たずに物事を処理する特権をもっています。副官になっていただけるのでしたら、頭巾と象牙の笏がございます。指揮官になっていただけるのなら、ここに龍標[32]と金瓜[33]がございます。私は今までずっと出世街道を走って参りました。南州の高士のために榻を準備致します[34]から、どうかしばらくご滞在下さい」

「お気持ちを無にするわけにはまいりませんが、高位や富貴は、私の望むところではありません。それに、今、家によんどころない事情があり、帰ってそれを処理しなければならないのです」

役人は話が折り合わないのを見ますと、それ以上強制はしませんでした。孝移はすぐに別れを告げようとしましたが、役人は孝移を放そうとせず、こう言いました。

「飯も炊けました。どうか少しとどまって一緒に食事をなさって下さい」

しかし、孝移は承知せず、拱手をして別れますと、祥符に帰ってきました。家につきますと、誰もおりませんでした。しかし、誰かが端坊っちゃまが裏の書斎にいるといいましたので、孝移は急いで碧草軒にいきました。中に入りますと、一声咳をしました。すると、大きな木の枝が折れ、男が一人落ちてきました。孝移が急いで見に行きますと、他でもない、息子の端福児が地面に倒れておりました。急いで手を鼻に当てましたが、すでに息絶えておりました。そこで思わず大声で泣き、こう言いました。

「お前、わしをひどい目に遭わせてくれるな。[35]

 徳喜児はうんうんという変な声をききますと、ベッドの脇にやってきました。そして手で揺り起こしながら、叫びました。

「旦那さま、起きて下さい」

孝移は徳喜児の手をつかんで泣きながら

「息子よ、気がついたか。よし。よし」

徳喜児は慌てて

「私は徳喜児です。旦那さまは悪い夢を見られたようですね。しっかりなさって下さい。」

孝移はようやく気がつきました。そして言いました。

「何だ。夢だったのか」

 孝移は立ち上がりますと、椅子の上で呆然としていました。徳喜児が茶を運んできても、飲みませんでした。そして、葛湯を温めますと、幾匙か飲んで器を置きました。

 

最終更新日:2010114

岐路灯

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[1]人を訪問するときに、帖子を入れる長方形の平たい木箱。

[2]折り畳まない形式の帖子。

[3]主人の家で生まれた奴隷。

[4]天禅机とも。長机の一種。(図:『三才図会』器用十二・什器

[5] 『山谷集』別集巻十巻「与嵆叔夜詩与姪榎」「士生於世、可以百為、唯不可俗。俗便不可医也」。

[6] 「話しには面白みがなく、顔は憎々しげである」。唐韓愈『送窮文』。

[7]薛瑄、字は徳温。号は敬軒。明の永楽年間の進士。英宗のとき礼部右侍郎になる。明代の理学家。

[8]妾をとる。

[9]女形とみだりに付き合う。

[10] 「厳鶴山先生」とは、厳嵩の下僕厳年をいう。厳嵩に諂うものは、厳年を「鶴山先生」と称した『明史』巻三百八に伝がある。

[11]胡楚浜という人物については未詳。

[12]楊時、字は中立、宋の煕寧年間の進士。官は龍図閣直学士。晩年は亀山に隠居し、学者たちは亀山先生と呼んだ。亀山は宋代の著名な理学家の一人。文靖はその諡号。

[13]原文「磁繍墩」。欣は鼓墩のことで、背もたれがなく、丸みを帯びた腰掛け。磁器製の物もある。「繍」はこれに刺繍を施した布をかぶせるからいう。(図は鼓:江蘇美術出版社「中国工芸美術大辞典」

[14]嘉靖四十二(一五六三)年のこと。ただし、楊慎は嘉靖三十八年に没しているので、嘉靖四十二年に書かれた彼の字があるというのはおかしい。

[15]楊慎、字は用修、号は升庵。明の正徳年間廷試で一位になり、翰林院修撰になった。嘉靖初年興献帝祭祀問題で流罪となり、雲南の永昌衛に送られ、後に四川に戻って没した。

[16]楊慎の父は大学士楊廷和。

[17]湖北省の地名。

[18]吏部侍郎。

[19]宋の光宗は字を趙惇といい、孝宗の第三子。孝宗が重華宮に隠退すると、光宗の皇后の李氏は、孝宗とかねてから仲が悪かったので、光宗を脅かし、光宗は、常に病と称して重華宮に挨拶にいかなかった。ここで言う「それは子が父を忘れるということです」というのは、この事件をさす。

[20] 「帝王は孝によって天下を治め、天下を治めることが孝であるのである」。出典未詳。「帝王は孝によって天下を治め」は『聖祖仁皇帝聖訓』巻一に見える。

[21] 『史記』殷本紀によれば、殷代に王の弟が相続した例は次の十一例。中壬、太庚、雍己、太戊、外壬、河亶甲、盤庚、小辛、小乙、祖甲、庚丁。

[22]宋濂等考定・太祖序の、喪服の制度について述べた書物。『明史』卷九十七・志第七十三・藝文二・史類十・儀注類「孝慈録一卷。宋濂等考定。喪服古制為是書、太祖有序」。

[23] 「子は父母のため、庶子はその生母のために、三年間の喪に服すべきである。それが人情に適うことであり、天理に合っていることだからである」。 斬衰は、木綿製の喪服を着て喪に服すること。(図:『三才図会』衣服三)

[24]斉の宣王の庶子の生母が死んだとき、父親の正妻が生きていたので、三年の喪に服することができなかったため、傅(もりやく)が彼のために数か月の服喪期間を申請したという、『孟子』尽心上にみえる故事。

[25]羅従彦のこと。字は仲素。宋代の道学家。

[26] 「延平李氏の孟子註」に、羅仲素がこういったという記述が、張泰「豫章文集序」にある。『豫章文集』は羅仲素の文集。「泰嘗読孟子称舜大孝、章至延平李氏註曰『昔羅仲素語此云秖為天下無不是底父母了』」。

[27]舜の親は舜を憎み、何度も彼を殺そうとした。

[28] 『平淮西碑』「蔡人有言、天子明聖、不順族誅」。

[29]明代の官。監察御史の、各地に赴いて巡視をするもの。

[30]明代、各省各鎮に置かれた宦官。洪熙年間に置かれた。『明史』卷七十四・志第五十・職官三・宦官「鎮守,鎮守太監始於洪熙,遍設於正統,凡各省各鎮無不有鎮守太監,至嘉靖八年後始革」 。

[31]清河の崔氏、太原の王氏、滎陽の鄭氏、隴西の李氏は中国の名族。

[32]龍の描かれた軍旗。龍旗・龍章などともいう。 (図:『三才図会』儀制三)

[33]衛士が手にもつ兵仗。瓜の形をしており、立瓜と、臥瓜がある。(図:『三才図会』器用)

[34]譚孝移を徐穉に例えたもの。徐穉は南州の人で、太守の陳蕃は、普通の賓客とは会わなかったものの、徐穉だけは特別に榻を用意して引き止めたという。『後漢書』陳蕃伝参照。

[35]親に先だって死ぬから。

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