第七回

読画軒に居住して子史を閲読すること

玉衡堂に推薦されて経書の試験をすること

 

 さて、月日はめぐり、時はながれて、大晦日、正月になりました。爆竹が鳴り響き、桃符[1]も目に鮮やかでした。これこそ、老人が老いを感じるので、若者がますます老人を大切にしなければならず、幼児が知恵をつけてくるので、父兄が注意して締め付けをしなければならない時であります。元旦の事は長々とお話し致しません。新年がすぎ、元宵節が近付きますと、推薦をうけた五人の人々が続々と省城にやってきて、新年の挨拶をし、二十日は日柄が良いから、都へ出発しようと約束しました。孝移の近所の人達や、親友達は、みなお別れをしにきました。旧友の戚翰林と兵馬司[2]で仕事をしている尤家からは、都の消息が送られてきました。

 更に一日後、譚家の家屋を賃借りしている客商達、質屋、絹物屋、海産物屋、炭屋が、盒子に入れた贈り物を担いできて、送別をしました。酒宴の最中に、絹物屋の景相公が

「うちの店の番頭のケ四爺は、最近故郷から河南にやってきたのですが、とても良い駄轎[3]に乗っていました。譚さんが上京される時は、騾馬屋へ行って良い騾馬を何頭か選び、駄轎を据えれば、楽ですし、格好がつきますよ」

孝移

「車はもう雇いました。お言葉だけうかがっておきます」

質屋の宋相公

「景さんは間違っていませんよ。荷物は包みにして、棕梠皮をかぶせ、下僕は二頭の騾馬に、譚さんは轎に乗れば、お役人として格好がつきます」

孝移は笑って

「一緒に行く人はもう決めてありますから、変える訳にはゆきません」

言い終わりますと、酒席が終わりましたので、別れました。

 十七日になると婁先生が授業をはじめました。十九日には王中が荷物をまとめて包みにし、帳房で予算をたて、三百両の旅費をもってきました。王中は料理人のケ祥と徳喜児もつれてゆきました。晩に孝移は祠堂へゆき、上京する旨先祖に報告し、香を焚き、拝礼を終えますと、一階に戻りました。王氏は酒席を設けて送別を行いました。孝移は席につきますと、徳喜児をよび

「王中を呼んできてくれ」

と言いました。王中がやってきますと、孝移

「お前への話しは、明日することにする。お前は忘れ物のないように荷物を準備してくれ」

「明日は旦那さまを河岸までお送りし、旦那さまが船に乗られたら戻ることに致します」

「そうしてくれ。さあ、さがりなさい」

王氏はなみなみと一杯つぐと、孝移の目の前におき、端福児に箸をおかせました。すると、王氏が口を開いてこう言いました

「昨年あなたが仰っていた事を、私は一字一句覚えています。あなたは、もうお話しをされる必要はありません。どうか安心なさって下さい。私は愚かな人間ではありませんから」

孝移は笑って

「おまえが賢いのは結構なことだ」

更に端福児に向かって

「何でも先生に聞くのだぞ。お母さんに口答えしたり、外へ行ったりしてはいけないぞ」

「はい」

更に何杯か飲みましたが、趙大児は片付けを終えて、とっくに寝てしまっていました。

 次の日の明け方になりますと、家中の人が目を覚ましました。車夫は荷物を積むように促し、こう言いました。

「五人の方が乗られた車は、みんな行ってしまいました。五人の方は、今晩は同じ宿に泊まる約束になっています」

婁先生と王隆吉は、もう過道を通ってやってきていて、表門で見送りをしました。王氏は二番目の門まで送ってゆき、先生と閻相公が門の前にいるのを見ますと、引き返しました。端福児は婁樸と同じ所に立ちました。孝移は車に乗るとき、潜斎に向かって深々と礼をして

「私の家は、あなたの仰る通りにしさえすれば大丈夫でしょう。私から特にあなたにお頼みすることはありません」

言いおわると車に乗って出発しました。

 王中は馬をひき、ケ祥、徳喜児が一緒についてゆきました。やがて、徳喜児が叫びました。

「旦那さまが、王中さんは車に乗り、ケ祥さんが王中さんに代わって馬に乗るように、皆が船に乗ったら、王中さんは馬に乗って帰るようにと仰っています」

そこで、王中は車に乗りました。孝移は、四十里余りの間、ずっと王中に指示を与えました。黄河に着きますと、王中は車を降り、車を船に運びました。主人は船に乗りますと、王中を呼び

「帰るがよい。家の事には気を付け、息子の勉強を監督し、先生に対してはくれぐれも失礼のないようにしてくれ」

程無く、船は動きだしました。王中は馬をひきながら北をむき、悲しそうにしていましたが、船が遠ざかり、どの帆が主人の船のものか分からなくなりますと、馬に乗って帰りました。

 さて、譚孝移は黄河を渡りますと、旅を続けました。鄴郡[4]をすぎ、邢台[5]をへて、滹沱[6]をわたり、范陽[7]をすぎ、良郷[8]で宿泊しました。すると、長班[9]が一人やってきました。彼の名刺には張升という名が書かれていました。彼は盒子にいれた酒をおくってきますと、叩頭しました。孝移は

「立って話してください」

と言い、こう尋ねました。

「あなたが張升さんですか」

下役

「私は張法義と申しますが、旦那さまが上京され、近い将来出世されるので、張升という名にした方が縁起が良いと思ったのです[10]。私ごときがお聞きするのも何でございますが、旦那さまはどの様な推挙をうけられたのでしょうか。お聞かせ下さればお世話もしやすいのですが」

「賢良方正として推挙されたのです」

「それは礼部の管轄ですが、吏部にもいかれる必要があります。旦那さまのおめでたに、私がお伴できるのはとても名誉なことです。しかし、お金を使うのは、どこでもお決まりになっています。旦那さまはお金を惜しまれてはいけません。私が申しあげるまでもない事でございますが」

「私は金を惜しんだりはしていません。金を使うのに理由があり、そうする事が適当でありさえすれば良いのです」

張升は、口では

「旦那さまの仰る通りです」

と答えましたが、心の中ではすぐに「融通のきかない奴だ」と思いました。孝移は更に尋ねました。

「この良郷から都まであとどのくらいですか」

「六十里です」

「明日、明け方に起きれば、昼頃には都に入れますね」

「明日の夕方に都に入られても早すぎるくらいです」

「時間がかかるのですか」

「通行税をとられますからね」

「もっている物は税をかけられるでしょうが、数両といったところでしょう。箱をあけて、物を調べられ、包みなおすだけですから、時間はかからないでしょう」

「いえいえ、箱の検査などはどうでもいいことです。役所の下役達だって、調べたりはしません。ただ、下役たちは酒や食事代として、まず数十両を要求するのです。この飯代は、必ず出さなければなりません。いわれた額通りにしないと、下役たちは車を一輌一輌とめて、泥靴の様に荷物を並べるのです。日が暮れてからは、十両ほしいといわれたら八両与えれば宜しいです。役人であるなどといっても、まったく相手にされません。よく『船で渡る時は居丈高にしろ、関所を通る時は腰を低くしろ』といいますが、腰を低くすることが関所をこえるときの決まりなのです」

「明日になったら、臨機応変に対応することにしましょう」

 次の日の明け方、鶏が鳴きますと、人々は起きだしました。主人と二人の下男、長班、車夫は、大通りを都へと急ぎ、昼時になりますと、税関につきました。果たして、箱は調べられませんでしたが、飯代を要求されました。長班と徳喜児、ケ祥は、税関の下役や小使いたちに、二十両をふっかけられ、主人のところへいって

「実にこすっからい役人どもです」

と報告しました。孝移は銀十六両を送るように命じました。これは、十両といわれたら八両を与えろといわれたのに従ったのです。長班は銀を袖にいれ、二つの粒銀を隠して、十四両を税関に払いました。小使いは承知しませんでしたが、金額はほぼ十分でしたので、結局金を受けとりました。長班はもどってきますと、車夫に出発の準備をするようにうながしました。下男たちはまだぶつぶつと税関の下役たちへの怨み言をいいました。孝移は嘆きました。

「小人が利をむさぼるのは当然だが、残念なのは、彼らが政府と人民の間で私腹を肥やし、国家の役にたたないことだ」

 馬は飛ぶように走り、まっすぐ城門に入りました。孝移たちは「聯升客寓」という宿屋を探し、そこで二日間休息しました。

 しかし、宿屋の中はごみごみとちらかっており、うるさかったため、孝移は我慢できませんでした。そこで、長班に命じて、他に綺麗な建物を探させ、三日目にそこへ移りました。そこは、憫忠寺[11]の裏にある建物で、両隣に家があるため、泥棒にねらわれる心配がないのが第一の長所でした。これは旅をする者が身をおちつけるために最も必要な条件なのです。孝移が中庭に入りますと、部屋は広々としており、階段は広く、上の方には「読画軒」の額が掛かり、辺りは水の様に綺麗に掃き清められていました。庭には二株の白松[12]があり、奇妙な形の枝が天にも届かんばかりでした。沢山の竹が、地面に濃い影をつくり、鉢植えの花が、いっぱい花を咲かせていました。半畝の池には十数匹の金魚がおり、一列に並んで泡を吐いていました。孝移の心はすぐに穏やかになりました。客間に入りますと、中は雪の洞窟の様に壁が塗られていました。掛軸は僅かでしたが、どれも立派な書画でした。机の上には真黒な英石[13]がおかれており、東の壁には瑶琴[14]が置いてありましたが、その外には目立ったものはありませんでした。脇部屋の小さな入口をあけますと、中には藤机が一つ、窓の近くにはテ─ブルが一つありました。漆がかけられていないのに、木目は絵の様でした。ほかには、二つの椅子と腰掛けがあるばかりでした。孝移はその清楚さが気にいりましたので、

「これは良い」

と褒めました。ベッドや布団を用意し、籠や荷物をおろした事は、くどくどと申しあげません。晩になりますと、孝移は眠りました。

 次の日、孝移が起きて、髪梳きをおえますと、長班がやってきて言いました。

「宿は決まりましたが、挨拶回りや手紙の発送は、次々に行わなければなりません。旦那さまのご郷里のお友達が、六部の司務庁[15]、翰林院[16]、・事府[17]、給事中[18]、監察御史[19]などにいれば、私に名簿をご提示ください、住所は全て知っております。知らないものがあっても、すぐに調べられます。六部への手紙の発送については、送るべきところをしっかり調べてあります。名簿の提示と挨拶回りは、旦那さまがなさることです。賄賂を贈り、手紙を発送するのは、私の仕事です」

「私の親友を、どうしてすぐに知ることができるのですか」

「私どもはあらゆる貴顕紳士のことを全部頭に入れており、あらゆる胡同に足をはこび、訪問しない所などありません。書吏などは、私どもにとっても怖いもので、私たちはあの連中にだまされはしないかと心配なのです」

「今日は暇をみて、まずこの屋敷のご主人に挨拶をし、帰ってきてからあなたに名簿を作ってあげましょう。この屋敷のご主人がどの様な方なのか話して下さいませんか」

「ここは柏老爺のお家なのです、この方は柏永齢という名で呼ばれており、代々金持ちの家柄ですが、昔、司務庁[20]で仕事をされていました。後に吏部に転任されましたが、人柄の大変良い方です。専ら貧民の救済をされており、今年八十数歳になりますが、耳はきこえますし、目もかすんでいません。まったく仏のような心をもった立派な方です。お訪ねになられるのでしたら、私がまず帖子をお届けしましょう」

孝移は徳喜児に護書の中から年家眷弟の帖子をとりだすように命じ、四種類の土産物とともに、張升にもたせました。

 張升は門を出、道を曲がって、柏公の家の門口につきました。門番は少し頭のおかしなびっこの男でした。長班は大声で

「ご挨拶に上がりました。これが帖子です。取り次ぎをしてください」

すると、老僕は口をとがらせ

「私の仕事ではありません」

と言いましたので、長班は腰から十銭を出し、手ににぎらせ、

「チップです」

と言いました。すると、老僕はヒヒヒと笑って

「旦那さまは客間にいらっしゃいます。私がご案内いたします。犬はかみません」

そもそも二門の中には、一頭の毛むくじゃらの大きな獅子犬[21]がつながれていたのでした。老僕は犬の頭をおさえると、こう言いました。

「どうぞお通りください。犬はかみません。目をおおっておりますから」

長班は帖子をもち、孝移は後からついてゆきました。徳喜児は土産物をもち、犬をさけながら通りすぎました。長班は柏公に会うと

「譚さまが会いにこられました」

と言いました。柏公は新しい泊まり客だと考え、杖をつきながら出迎えました。見れば、白髪で皺のよった顔、長い髭に曲がった背中の、寿老人のような年寄りでした。譚孝移が客間に入って挨拶をしますと、老人は杖をおいて挨拶を返しました。二人は互いに謙遜しあい、挨拶は略式ですませました。柏公は手厚い贈物に感謝し、主客はそれぞれの席につきました。一方が高い声で

「馴染みのない土地ですが、あと数か月お邪魔します」

と言いますと、もう一方は

「むさくるしい家に立派な方をおとめするのは、申し訳ないことです」

と言いました。柏公が茶を出すように命じますと、一人の垂れ髪の下女が、お盆に二椀の茶をのせてもってきて、衝立の影で顔を半分のぞかせました。柏公がさけびました。

「蝦蟆、茶を運んできてくれ」

すると、老僕は犬を手放し、

「動くんじゃないぞ」

といって立上がり、転げるようにして客間にやってきますと、盆を受けとり、主人と客に出しました。孝移は茶を飲みおわりますと、すぐに席をたちました。柏公は孝移を送りました。老僕は犬のところに戻り、犬をだきとめ、柏公は杖にすがって、表門のところまで見送って、孝移と別れました。一つには付き合いが浅い間柄で、長話することもありませんでしたし、二つには耳が遠く、目もみえない老人でしたので、孝移も老人を疲れさせるわけにはいかないと考えたからでした。

 読画軒に戻りますと、長班が挨拶回りをする人の名簿を書くように促しました。孝移

「明朝、挨拶にいくのは、二か所だけですから、名簿を作る必要はありません。晩に同郷人の名前を思い出して、名簿を作ることにします」

「旦那さまが上京されたのは、功名を得るためです。旦那さまの省では都で官吏になっている人も多いのですから、あちこちに帖子を送って渡りをつければ宜しいのに、どうして一二か所にしか送られないのですか」

「私は本当に関係のある人のところへいくのです。他の人は普段付き合いがありませんから、無闇にお邪魔する気にはなれないのです。翰林の戚さんは、昔の同窓生で、大変仲良くしています。兵馬司の尤さんは、同じ街の隣同士で、やはりとても仲良くしています。私はこの二人の家へ平安信[22]をもっていかなければなりませんから、彼らのところへは絶対に挨拶にいかなければなりません。しかし、他の人達は、私の方で彼らの地位を知っていても、先方は私の名を知らないのですから、行くわけにはゆきませんし、行っていいわけもありません。それに、明日は挨拶にいく前に、一か所、真っ先にゆきたいところがあるのです」

長班がたずねました。

「それはどこですか」

「鴻臚寺[23]にいくのです」

「挨拶はそれぞれの方々の私邸へいってするものです。役所へ挨拶をしにいくという法はないでしょう」

「挨拶をしにいくのではないのです。先祖が以前鴻臚寺に勤務したことがあるのです。数世代前のことですが、先祖が勤務したところですから、一目見にいくべきでしょう。これは先祖を慕う子孫のささやかな気持ちなのです」

「まったく旦那さまの仰る通りです」

 次の日、長班は朝食の後にやってきました。ケ祥は車の準備を済ませ、孝移は車にのり、徳喜児がつきしたがいました。正陽門[24]にはいりますと、鴻臚寺にゆきました。長班が先にたって側門にはいりますと、大堂[25]にゆき、扁額をみました。孝移は密かに思いました。

「ご先祖様はここで勤務されたのに、子孫の私はここをちょっとみることができるだけだ」

ご先祖さまの仕事を継ぐことができなかった罪は、心の中ではよく分かっていましたが、口には出しませんでした。そして、息子を教育して功名を得させ、父祖の仕事を受けつがせるしかないと考えました。鴻臚寺を出ますと、車に乗って宿に帰りました。庭に入りますと、もう午後になっていました。柏永齢は下男に命じて必需品である醤油一罐、酢一瓶や漬け物四種を孝移のところへ届けさせ、もてなしの気持ちを表しました。徳喜児は下男にチップを与えて返しました。

 次の朝、長班は途中で帖子を買い、孝移は帖子に名を書き、戚翰林の宿にゆきました。長班は車を門口まで引いてゆき、帖子を差し出しました。すると、門番が言いました。

「今、来客中です。帖子はお預かり致します。客が帰ってから主人とお会いください」

ところが、戚翰林は同郷の親友の帖子をみますと、飛ぶようにして迎えにきました。戚翰林は音をたてて歩いてきますと、

「どうぞ、どうぞ」

と言いながら、孝移のところへきました。そして、孝移の袖をとって

「いつ上京されたのですか」

と言いました。幾つもの敷居を跨いで、客間につきました。客間には若い役人が座っていました。戚翰林

「こちらは濮陽[26]の太史[27]老先生です」

孝移は急いで挨拶をしました、濮陽太史はゆっくりと簡単な拱手を返しました。孝移は戚翰林と挨拶を交わしました。戚翰林は孝移を脇の席に座らせました。濮陽公が尋ねました。

「こちらはどなたですか」

戚翰林が答えました。

「こちらは私の同郷の譚さんで、字を孝移といいます」

濮陽公はそうですかそうですかと言いますと、やはり戚翰林に向かって

「先程のお話ですが、私たちの役所では、以前、年配の先生方が試験を作っていました。彼らは『昭明文選』[28]を題材にしたり、『文苑英華』[29]に典故のある問題を出すだけでした。あの老先生方の試験は、大変楽なものでした。しかし、最近は青詞[30]を作らなければならなくなり、試験は大半が神仙の道に関するものになりました。例えば、昨日、学校が出したのは『東来の紫気函関に満つ』[31]という題で、題の字を韻にして詩を作れというものでした。以前、老子が牛に乗って函谷関を通ったことを教わったこともありますが、昨晩調べてみたら、乗っていたのは簿なんとか…かんとかという車だったということが分かりました」

戚翰林は孝移に向かって言いました。

「孝移さん、どうですか。簿何という車ですか」

孝移は謙虚な人柄で、太史公の前で学をひけらかそうとは思っていませんでしたので、うつむいて答えました。

「よくは存じません」

戚翰林は濮陽公の様子を見て、心中苦々しく思っていましたので、更に孝移に向かって、

「以前一緒に学んでいたころ、あなたは私にとって秘書官のようなものでした。疑問があってあなたにたずねる度に、あなたはこまごまと答えてくださいました。しばらくお会いしていませんでしたが、知識も広くなられたのではないですか。老子が乗っていたのは一体なんという車ですか」

孝移はかしこまって答えました。

「おそらく簿[ハン]の車であったと思います」[32]

濮陽公は

「そうでした」

と答え、更に尋ねました。

「[ハン]とはどういうものですか」

孝移「昨今の筵のようなものですが、本当かどうかは存じません」[33]

濮陽公は突然立ち上がりますと、言いました。

「もっとお教えを受けたいのですが、役所の仕事が忙しいのです。明日は祭礼がありますし、青詞の原稿も提出しなければなりません。お目にかかることができて幸せでした」

そう言いながら、去ってゆきました。二人は立ち上がって見送りました。濮陽公は孝移の見送りを断り、戚翰林に表門まで見送ってもらいました。

 戚翰林が戻ってきますと、孝移は袖から戚家への平安信をとりだし、一家がつつがなく暮らしていることを報告しました。孝移は別れようとしましたが、戚翰林は孝移を放そうとせず、昼食を勧めますと、言いました。

「私の学問は、あなたには遠く及びません。さいわい科挙には合格し、更にたまたま翰林院に入ることができましたが、自分の教養のなさをとても恥ずかしく思っております。暇を請うて故郷に帰り、隠居して勉強をし、もう少し学問を積んでから、都で仕事をしたいと思っているのです。あの濮陽公は、二十歳で翰林院に入り、風采は立派で、聡明で、翰林院の俊才といえます。しかし、どういうわけか、あまり礼儀正しい態度を身に付けていません。ですから、人々もあの人には礼儀正しくしないのです」

孝移はそれをききますと、心の中で、若くして翰林院に入った人でも、礼儀知らずならば、不遜だと人から謗られる、私の一粒種の息子は、いつ学校に入れるかも分からないが、もし礼儀知らずになれば、将来どうなるか分からない、と考えました。そして、口には出しませんでしたが、家に帰って子供を教育しようという気持ちを起こしました。

 昼食が終わって、しばらく話をしますと、孝移はすぐに宿に帰り、次の日、兵馬司の尤公を尋ねました。尤公はたまたま暇がありましたので、すぐさま奥の書斎に孝移を迎え入れました。そして、手紙を見ますと、長いこと離れ離れで気掛かりでしたので、家の様子を孝移に尋ねましたが、このことは省略致します。尤公は尋ねました。

「今日はこれから挨拶回りをされるのですか」

「もう戚さんと会いました。他の方々は、普段お付き合いもないので、急にお邪魔するわけにも参りません」

「それは良かった。都の役人は、大体がお目が高くて、都以外の道、州、県のことを馬鹿にしているのです。つてをもとめて人が上京してくると、筆やハンカチなどの贈り物があれば礼を尽くして交際しますが、ただ慕ってやってきたというだけでは、そんなことはよくあることですから、会ってもらえるわけもなく、『懐刺漫滅す』ということになってしまいます[34]。孝移さんは淡白なお人柄ですから、勿論忙しく駆けまわられることはないのでしょうが、大変素晴らしいことです」

「宋門の汪橙洲さんのところへもいかなければなりません。私達二人は同じ試験に受かって学校に入りましたが、あの人は、今、都で役人をしているのです。あの人に会わなければ、あの人はお怒りになるでしょう」

「怒ったりしませんよ。あの人は故郷の人を相手にせず、大官に取り入ってばかりいることで有名なのです。目上を助けるものは目下を軽んじるものです。あの人が怒ることはありません。あの人に帖子を送られるなら、謹んで『清風両袖[35]』と書けば良いのです。あの人からはあなたの留守中に帖子が送られてくるでしょう。あの人と会われる必要はありません」

そこで、孝移も高らかに笑いました。尤公は孝移をとどめて昼食をとらせ、故郷の料理を食べ、故郷の訛りをきき、この上なく楽しく過ごしました。

 夕方に、孝移は柏公の家に戻りますと、車を降りて読画軒に行きました。長班は孝移に別れをつげ

「旦那さま、豊台[36]を見に行かれませんか」

と尋ねました。孝移は何のことか分かりませんでした。長班は言いました。

「豊台は城外の西南にあり、ここからは六七里のところです。そこには花が植えられていて、数十の庭園があり、様々な花がすべて揃っています。今は芍薬が盛りですが、旦那さま、見に行かれてはいかがですか。豊台までは、車でいかれます。戻ってくるときは彰儀門[37]から入りましょう」

孝移は承諾し、徳喜児、ケ祥は喜びました。

 次の日、孝移は朝食をとりますと、豊台にゆきました。丁度芍薬が盛りで、少し暑くなっていました。孝移は東屋や塀、小川や木々、春の花が咲き競っている様子を隅から隅まで眺め、楽しみを深めました。そして、茶店で何杯か茶をのみ、点心を食べました。三人の下男たちも、酒屋で何杯か酒をのみ、体をほてらせ、汗を流すと、

「帰りましょう」

と言いました。長班が先にたち、城壁の脇の道に沿って、彰儀門につきました。

 そもそも長班には彰儀門の近くに住んでいる仲間がいたのでした。長班は良郷への手紙を託そうと思っていましたので、二三里遠回りをして、ここから帰ってきたのでした。沿道には青瓦の寺院や、松柏の古木などが少なくなく、大変良い景色でした。ところが、彰儀門に着きますと、天気が変わりました。そもそも気候には一定の秩序があります。すなわち春は暖かく、夏は暑く、秋は涼しく、冬は寒いという風に、変化していくのです。今はおだやかな時期なのに、急に天気が荒れたのは、天変の兆しでした。強い風が西北から吹いてきて、あれよあれよという間に黒雲が空の大半を覆いました。長班は仲間を訪ねるどころではなくなり、裏道を通って、くねくねと曲がりながら、憫忠寺に向かって車を飛ばしましたが、あと一里ばかりのところで、あいにく動けなくなりました。雷がごろごろと絶え間なく鳴り、雨粒の大きさは茶碗の様で、中には雹も混じっていました。暫くして、雨は止みましたが、雹はおさまらず、ピンピンパンパンと、屋根瓦を震わせ、街中の人が雹を避け、まことに恐ろしい有様でした。孝移は車の中で、車の覆いにぶつかる雹の音を聞きましたが、まるで豆をぶちまけているかのようでした。馬は怖じ気付き、下男は犬のようにはいつくばって、わめきました。

「これは大変だ、旦那さま、車から降りて避難されてください」

孝移は足を伸ばして車から降りました。三人の下男が孝移を抱き下ろし、大きな門楼のところまで引っ張ってゆき、雹を避けさせました。孝移は門楼に上りますと、そこに立ち、三人の下僕は馬をはずしにゆきました。孝移は思わず

「『吉凶悔吝は動に生ず』[38]というが、まったくその通りだ」

と考えました。馬も門楼に繋がれたので、人と馬とが押し合い、ひどい有様でした。孝移が門を見ますと、片方には「存仁堂柳」とかかれており、もう片方には青い札が掛っており「服」[39]の二字がかかれていました。そこで長班にたずねました。

「この中にはしばらく雨宿りをするための場所があるのでしょうか」

「ございますとも。大広間や、東の書斎へ、私がご案内申し上げます。中へ入って腰を掛けましょう。ここは柳さまのお家なのです。ただ、軒からの雨垂れがひどいので、服が濡れるかも知れません」

「急いで入れば大丈夫でしょう」

ケ祥は徳喜児に話をしました。

「どうして雨具をもってこなかったのだ」

「急に雹が降るとは思わなかったのです」

長班

「今後、外に出るときは、不測の事態に備えておかれるべきですよ」

 さて、長班が孝移を案内して、二番目の門の中に入りますと、客間で女たちが雨を眺めていました。そこで、長班は孝移を東の書斎に連れてゆきました。孝移は書斎の入り口をくぐりましたが、服が濡れていましたので、座るわけにもいかず、辺りを一通り見回しました。軒端の一方には竹籠がぶら下がり、中で画眉[40]がしきりに飛び上がっていました。もう一方には銅の杭につながれた鸚哥がおり、鎖で繋がれた鸚哥が、鎖をくわえながら横に動いていました。中には長机が一つおいてあり、その真ん中には二尺の高さの四角い姿見が、左には一尺の水晶の南極寿星[41]の彫刻が、右側には蝦蟆と戯れている劉海[42]の像があり、にこにこ顔で三本足の蝦蟆をもち、銅線で銅貨をつないだものを、頭の上に掛けていました。像の隙間には、サイコロを転がすための景徳鎮の盆がおかれていましたが、孝移はそれが何なのか分からず、水仙を植える鉢であると思いました。東には四角い椅子が一つ、神棚が一つありましたが、赤い絹の小さな帳がかかっていましたので、何の神様かは分かりませんでした。広錫[43]の四角い香爐、二つの四角い花瓶、二尺の高さの一対の燭台、銅の小さな磬が並べられており、はぎれで作った磬のばちが置かれていました。壁には一面に書画が掛けられていましたが、けばけばしいものばかりで、誰がかいたものなのかも分かりませんでした。痰を吐こうとしますと、煉瓦の隙間に二三銭の銀の塊がおいてありましたので、長班に尋ねました。

「ここのご主人はどんな方なのですか」

「こちらは柳先生のお宅です。いずれ旦那さまはこの方のお世話になることでしょう。この方の父親は吏部、戸部の当該[44]の書吏なのです」

孝移は、雨も止んだので、去ろうと思いました。そもそもにわか雨は一日中降ることはなく、暫くすれば、雲は去り、雨はやむものです。そこでもとの通り門を出て車に乗りました。

 長班は書斎に戻りますと、博打うちが煉瓦の隙間に忘れた銀を拾い、ぬかるみを踏みながら二人の下僕についてゆきました。

 孝移が読画軒に着きますと、ちょうど柏永齢が雨のために足止めを食らって、建物の中にいました。孝移が挨拶をしますと、

「服と靴を着替えてください」

孝移は何度も拱手しますと

「そう致します」

と言い、濡れたものを脱いで、乾いたものに着替えました。柏公が席を勧めますと、主客はそれぞれの席に着きました。柏公

「ここ数日、お伺いしようと思っていたのですが、歩くのが少し辛かったので、まず人を遣わしてから、こちらへ上がろうと思いました。しかし、先生はご多忙のようで、いつも外出されていました。今日は、先生が豊台にいかれたと聞き、午後には戻られるだろうと思い、天気も良かったので、先にここへきてお待ちしておりました。ところが、突然雹が降ってきたので、先生が城外の寺で雨宿りをされているのではないかと考え、しばらくお待ちすることにしました。先生が雨の中を帰ってこられるとは思いませんでした。先程の土砂降りのときは、車をどこで止められましたか」

「城外にいたとき、すでに大風が吹いていましたので、急いで城の中に入り、大きな胡同についたのです。大雨が矢のように降っていましたから、大きな門楼の中に入り、書斎へゆき、暫くそこにいました。そして、雨が止んでから、戻ってきたのです。先生が長いこと待っていらっしゃったとは存じませんでした。今はぬかるみがひどいですから、どうかゆっくりなさってください。しばらくここでお話しを致しましょう。お話しをすることができて嬉しく思います」

「それはいい。しかし、年とって耳が遠いので、近くに座って、少し大声で、お話し下さい」

「失礼ですが、先生はお幾つになられましたか」

「八十五歳です」

「それはご壮健で。私には五六十歳にしか見えませんが。おめでたいことです」

「私は役立たず者で、年ばかりとっており、子供達にとってはただの厄介者です。一日生きるというのは、一日つまらないことにかかずらわるということです。いつになったら棺桶の中に入れるものやら」

「先生は長寿と幸福を得ておられるのですから、つまらないことを気にかけて、お心を煩わされることはありません」

「年をとって、つまらぬことを考えてしまいました。あなたの仰る通りです」

孝移は更に尋ねました

「先ほど雨宿りをした家は、柳とかいう家でした。長班は『当該の書吏』[45]といっていましたが、一体どういうことなのでしょうか」

「私は宣徳年間に生まれたのですが、当時、人々は、権威をかさにきて賄賂をとる下役を憎んで、『当革の書吏』[46]とよんでいました。しかし、成化年間になりますと、この『革』の字を『該』の字に変えたのです」

二人は大笑いしました[47]。柏公は「当革の書吏」の話を聞きますと、三十年来の怨みを思いだして、言いました。

「都の各役所の書吏はみんなひどい奴らです。私の功名も、彼らによって台無しにされてしまいました。─ちょっと待ってください、詳しくお話いたしましょう」

孝移は柏公が怒りの色を見せ、更に咳までしだしたので、言いました。

「そんな者たちのした事など、詳しくお話しにならなくても結構です。さあ、魚を見にゆきましょう。雹に打たれてしまっているかも知れませんからね」

すると、柏公は急に笑いながら

「『見にいくべきだ』[48]というのは『見にいくことをやめさせる』[49]ということですな」

と言いましたので、二人は大笑いしました。

 さて、一緒に池のほとりにゆきますと、魚は水がかえられたばかりでしたので、元気を増し、大変楽しげにしていました。柏公は孝移の方を振り向くと

「お宅の使用人に小麦粉を練らせ、魚に与えてみましょう」

徳喜児は怠けるわけにもいかず、すぐに小麦粉を捏ねました。柏公は受け取りますと、竹の杖を太湖石の上におき、涼欣[50]に座り、孝移にも座るように勧めました。そして、手で小麦を豆粒大にちぎりますと、一粒落としました。魚は争ってそれを飲み込もうとしました。食べることができなかった魚は、ひどく残念がっている様に見えました。さっと小麦を落とすと、たくさんの魚が争って食べようとしました。柏公は小麦の塊をちぎりますと、あちこちにまきました。魚たちはそれを斜めに進んだり後戻りしたりしながら追い掛け、池いっぱいに鱗が並びました[51]。八十五歳の老人は、喜んで歯の抜けた口をあんぐりと開け、目を細めて笑いました。大体、老人は、怨みごとを思い出すと、だれかと一緒に悪口を言いたがりますが、普段楽しんでいることをしだすと、知らぬ間に気持ちが変わってしまうものです。孝移は純朴な人柄でした。彼が老人を魚を見に誘ったのは、老人が怒るといけない、魚を見せて楽しませてあげようと思ったからでした。そして、孝移は老人がとても楽しそうにしているのを見ますと、密かに嘆きました。

「私にはもうお仕えする親もいないのだ」

 二人が池のほとりで魚を見ていますと、突然、二人がきの轎が庭にやってきました。孝移は客が挨拶にきたのかと思って、びっくりしました。しかし、これは、柏公の子供が、老人がぬかるみで足を滑らすことを心配して、轎で迎えにきたものでした。柏公が家に帰ろうとしますと、孝移は引き止めようとしました。柏公は言いました。

「私の曾孫は六歳になりますが、私は床の前で彼に勉強をさせているのです。朝には『一にして十、十にして百…』[52]の四句を覚えさせたので、午後は後の四句を覚えさせなければなりません。私が帰るのが遅くなって、曾孫の勉強が遅れれば、私は孫の嫁が作る飯を食わせてもらえません」

言いながらまた大笑いしました。そして、振り向くと拱手し、轎に乗って去ってゆきました。譚孝移は柏公が曾孫を教育していることをしりますと、自分の子供を教育しようという気持ちをどうしてもおさえることができなくなり、家に帰る決心をほぼ固めました。

 さて、ある日、張升が礼部に咨文を届けるための手数料をねだりましたので、孝移は手数料を与えました。張升は咨文を提出して戻ってきますと、言いました。

「来月一日に役所に出向かれるときには遅れないようにしてください」

 孝移は都で、同郷の戚、尤二公の所へ挨拶にゆきましたが、その後、宴席に招待されました。また、都で官職についている丹徒の親類たちにも挨拶をし、酒席に招待されましたが、このことはここでは述べません。

 次の月の一日になりますと、礼部に出向きました。尚書が正面に座り、侍郎が脇に座り、儀制[53]司書が名前を唱えました。この時、初めて、各省が推薦した賢良方正で、礼部にやってきたのは、七省の人だけということが分かりました。遠い省からは何の音沙汰もありませんでした。孝移は思わずこう思いました。

「婁潜斎さんは家に引き籠もっている生員なのに、物事をよくわきまえていたものだ。将来出世して、世故に通じた役人になられることだろう」

 礼部を出て、戻ってきましたが、まったく何事もありませんでした。そこで、本屋へゆき、新しい本を幾つか買い、骨董品屋へいって古本を買い、ぱらぱらとめくってみました。更に皇居の壮麗な様や、官僚たちの堂々たる様、人や物の溢れかえる様を見て、以前よりも心が大きくなったような気がしました。そして、本を読んだので、学問も以前に比べ、ますます広くなりました。

 更に一日しますと、張升がやってきて、言いました。

「礼部が命令書を出したので、書き写して参りました」

孝移が受け取ってみてみますと、そこにはこう書いてありました。

礼部が、各省の賢良方正を推挙する人員に通知する。現在、礼部に賢良方正な人物をおくってきたのは九つの省だけなので、雲南、貴州、広東、広西の人々が礼部にやってきた時に、試験をし、上奏を行い、引率して謁見させることにする。それぞれ宿舎に泊まって静かに待つように。遅延が生じるとよくないので、妄りに本籍地に帰ってはならない。特に告示する。

 そもそも嘉靖の頃は、礼部が最も忙しかったのです。まず興献皇帝の祭祀問題があり[54]、何年間も議論が行われていました。それに、章聖皇太后[55]の葬儀があり、大峪山[56]に墓を築いてから、純山[57]に合葬するということがありました。更に、この頃、皇帝は方士の邵元節[58]や陶仲文[59]を崇拝していました。そして、毎日祭礼を行っては、青詞を起草させたり、祝詞を作らせたりしていたのですが、これらはすべて翰林院と礼部の仕事でした。賢良方正の推挙が行われたものの、遠い省からはまだ人がきていませんでした。しかし、そのことを上奏するわけにもいかず、一方で、永いこと待たされて、密かに故郷に帰る者がでることが心配されたので、こうした命令が出されたのでした。孝移は命令をみますと、仕方なく旅館にとどまりました。しかし、金はあり、旅費には困りませんでしたので、河南に帰る人に頼んで手紙を届けてもらったり、旅費を運んできてもらったりしました。

 時はあっという間に過ぎ、もう九月の下旬になりました。すると、官報に『河南郷試題名録』が載りました。その中の第十九人目に「婁昭、祥符学生、五経」と書いてありましたので、孝移は驚き喜びました。そして思わず手を叩いて、声も絶え絶えになりながら言いました。

「潜斎さんが合格された。これはめでたい」

しかし暫くしますと、心配になってきました。親友が出世しはじめたのは嬉しかったのですが、潜斎には妻と子供の世話を頼んでおり、来春に彼が上京して受験するとなりますと、自分に代わって妻子の面倒をみてもらうことができなくなるからでした。孝移は、夜に思案して、次の日、潜斎へのお祝いの手紙を一通、王氏、端福児への手紙を一通、閻相公への手紙を一通、孔耘軒への手紙を一通、王中への命令を書いた手紙を一通、更に周東宿への御機嫌伺いの手紙を一通書き、その中で手紙を家へ転送するように頼んでおきました。孝移は、文章を書きますと、それをきちんと包んで、ケ祥に持たせ、河南の提塘官[60]に挨拶にゆき、河南祥符の学校あての官報に手紙を同封し、塘路[61]経由で送ってもらいました。

 河南は京師からは近く、半月足らずの道のりでした。周東宿が官報を開きますと、譚忠弼が家への転送を依頼した手紙がありましたので、言いました。

「ちょうどよかった」

そして、すぐに門番の胡を譚家に送ることにし、胡に命令しました。

「すぐに譚家の坊っちゃんを呼んでくれ。今度合格した北門の婁さんの坊っちゃまも呼びに行ってくれ。明日の朝、二人に学校にきてもらい、質問をすることにしよう」

 これはどういうことでしょうか。そもそも試験はすでに終わり、新しい学政官が着任し、引き継ぎも終わり、開封府祥符県で試験が行われようとしていたのでした。詐欺を防いだこと、試験場での規則、不正を摘発するための告示については、詳しくは述べません。この学政官はひとかどの学者でしたので、経学を最も重んじ、各学校に指令を出し、「学童の中に五経を暗誦でき、筋道の通った文章を書くことができる者があれば、学校に入れて生員とすることを許可する」「中州[62]は優れた理学者を生み出した土地であるから、各教官はすべての学童に『五経』を暗誦させなければいけない、いいかげんな報告をすれば罰を与える」云々という布告を出しました。

 この指令が祥符の学校に届きますと、周東宿はすぐに陳喬齡を呼び、相談をしました。

「私は着任して日が浅いですが、あなたはここに十年余りいらっしゃいます。『五経』の勉強に励んでいる子供がいれば、文章を書いて報告をするのですが」

「実を申しますと、私はこのことについてはよく存じません。私は以前学生だったとき、『詩経』を書き写して勉強しましたが、実際は三冊を読んだだけで、読破はしていません。先生も、五経の文は八十篇を勉強しただけで、試験のたびに落第しているといっていました。私も写本をもっており、試験が始まるときに、四つの経書の問題は、すべて他人の原稿を写し、試験場から出るときには、問題の文さえ忘れていたものです。最近の試験官は、毎月の試験の時には、四書に関する問題しか出さず、五経の問題は学生が自分で選んで作ればよいので、五経について知らなくてもいいのです。ですから、私はどこの家の子供が『五経』を読むことができるか知りません」

「知るのは簡単でしょう。子供が五経を勉強するときは、必ず先生か父兄が教えるはずです。生員の名簿をもってきて、誰が五経の試験を受けているかをみればいいのです。その人の家の子供や、その人の弟子、近所の子供も五経を読んで、影響を受けていることでしょう」

陳喬齡は首をふって言いました。

「必ずしもそうとは限りません。彼らは五経の試験を受けていますが、多くは試験が近くなってから急に五経の問題で受験することにした者たちです。五経を希望する者は少ないので、その中から合格する者は多いのです。試験に合格しなかった者が、次の試験は五経で受けることもあります。必ずしも彼らが五経に詳しいとは限りませんが、とりあえず調査してみましょう」

東宿は書吏に命じ、学生の出席簿をもってこさせましたが、その中には程希明、婁昭、王尊古、趙西瑛、程希濂の五人が『五経』で受験したと書いてありました。

「婁昭は合格しています。あの人はもうすぐ上京するということです。程希明を呼んで、どこの家の子供が五経をよく暗記しているか尋ねるといいでしょう。あの人はこの街の南拐里に住んでいますから、門番に呼びにいかせましょう」

 門番がいって間もなくしますと、程嵩淑がやってきました。彼は二人の先生を見ますと、拱手をして、腰を掛けました。この時、彼はまったくのしらふで、こう尋ねました。

「お招きにあずかりましたが、どういうご用件でしょうか」

喬齡

「今度の試験で、あなたと弟さんはどちらも五経で受験されましたね」

程嵩淑は笑って

「合格発表から二か月たったのに、その様なことをご下問になるとは、礼部で落第生の答案を審査して、合格させようとでもしているのですか」

東宿は笑って

「そうではありません。新しい学政官が五経を暗唱している子供を招こうとしているのです。子供が五経を勉強するときは、必ず先生や父兄が教えているはずです。そこで、この前の試験を五経で受験した人を調べたところ、あなた方ご兄弟と、婁さんたち五人がいたのです。ですからお招きしてお尋ねしたのです」

「私は五経を、若い頃に読んだだけですし、弟は五経を、今年の六、七月から読んでいるのです」

「お宅には五経を読まれるお子さんはいますか」

嵩淑は笑って

「子供は年をとってから生まれたため、今年五歳で、まだ『三字経』[63]も読んでおりません」

東宿は笑って、更に尋ねました。

「お弟子さんの中では」

「弟子は勉強しません」

「五経で受験した三人の方のことを、あなたはご存じですか」

「二人は城外にいるので、よくは存じません。しかし、婁昭さんは実に経書に詳しく、先生にとっては良い弟子です。あの人は『五経正解』を書くつもりだといっていましたが、最近科挙に合格され、著作をする暇がなくなってしまいました」

「あの方は譚さんの家庭教師ですね」

「本当ですか」

「あの人は最初から五経を教えるということです」

「あの人が教えているのは息子さんと譚家の坊っちゃんですが、昨年にもう四経[64]を読み終わったということです。今頃は五経を読み終わっていることでしょう」

「どうやらその二人の子はよさそうですね。他の子はあらためて探してみることにしましょう」

嵩淑は笑って

「譚孝移は今春上京しますし、婁潜斎は今冬上京します。両家の子供は五経で童子試[65]を受けるのでしょうから、親子ともども優秀だということになりますね。ところで賢者を推薦すれば賞をいただけるものですが、先生はどんなものを下さいますか」

東宿は笑って

「あなたが推薦されたのは、皆城内のお知り合いばかりです。『四門を辟(ひら)[66]こうというのに、あなたは城外のことはよく知らないと仰る。賢者はまだ埋もれているといわざるをえませんね」

程嵩淑

「どうか私に罪を加えてください[67]。そうすれば何もかもお話し致しましょう」

師弟は大笑いしました。

 嵩淑が去り、東宿が考えているところへ、突然、京師にいる孝移から、封書の転送を依頼する手紙がきました。そこで、すぐに門番に手紙を送らせ、更に譚、婁の子供を学校に呼んで話をすることにしました。門番が出てゆきますと、次の日、王中が二人の子供を連れて学校にやってきました。二人の先生が出迎えました。そして、明倫堂を通って、私邸に行き、会見しました。挨拶が終わりますと、席に着いて茶を飲みました。東宿は二人の子供の顔が非凡なのを見ますと、すっかり嬉しくなりました。二人の家の父親が都でどうしているかを尋ねますと、二人の子供は、はきはきと受け答えをしました。東宿

「今日二人を学校に呼んだのは、学院が五経を諳じている子供がいたら学校に入れるようにという命令を出したからだ。お前たちが五経をそらんじていると聞いたので、文章を書いて報告をしようと思う。数日したらよい報せがあるだろう」

婁樸

「よく諳じてはおりませんので、推薦して下さった先生の名を汚すことになります」

喬齡

「私達がまず試験を行ってみてはいかがですか」

東宿は机の上の『御頒五経』を手にとり、幾つか文を抜きだしましたが、二人の子供はすぐに後を続けて言い、少しも答えに詰まることがなく、二人とも同じようなでき栄えでした。喬齡と東宿は大喜びして

「これこそまさに神童だ」

と言いました。

喬齡

「この二人を推薦すれば、面子が潰れることもありません」

そして、学校の書吏に童生冊の紙を二枚もってこさせ、二人に細かく質問をし、三代前までの祖先、年と顔の特徴を書き込み、廩保[68]の欄には蘇霈と書き、業師[69]の欄には婁昭と書き込みました。そして、学院が送ってきた文書の指示にしたがい、下役に原稿を渡して謄本を作らせ、印鑑を押して日付を書き込み、学院に送ることにしました。東宿は湖筆[70]二本、徽墨[71]二箱、京師から持ち帰った国子監祭酒が字を書いた扇を二つ褒美として与えました。喬齡は飴四袋を褒美として与え、門番と王中に命じて二人をそれぞれの家に送らせました。

 さて、学院は各州県に指令を出して、五経を諳じている子供を招きました。これら各県の中で、教育が盛んなところでは、推薦を行いました。しかし、教育があまり盛んでないところでは、ないものをあるというわけにはゆきませんでした。推薦書が集められた日、(推薦を受けた者は)開封府だけでも、十数人いました。学院は掲示板を出し、そこにこう書きました。

提督学院が告示する。祥符等の県は、五経を暗誦することができる婁樸ら十四名の学童を推薦したので、十二月二日に役所で面接試験をすることにする。期日に遅れることがあってはならない。特に告示する。

 その日になりますと、各学校の教官、廩保が、各県の童生十四名を連れてやってきて、門に集まって待機しました。学院は門を開かせますと、玉衡堂に座りました。人々がぞろぞろと中に入りますと、一人一人の点呼が行われました。更に名簿を見ながら指名が行われた後、五経に関する面接試験が行われました。この十四人の中で、三人は勉強を始めたばかりでしたが、そのほかは問題が出されればすぐに答え、まさに立て板に水を流すようでしたので、学院は大いに褒めました。中でも婁樸、譚紹聞だけがずば抜けて年少でした。学院は彼らの年を尋ねますと、うなずき、

「試験の時、各学校の教官は、五経を諳じている童生の答案に『面試五経』という四字を書き、押印をしてくれ。彼らが答案を提出したら、別の束にするから、間違いのないように」

と言いました。話しが終わりますと、雲板[72]が鳴らされ、人々は退場しました。子供達が役所を出ますと、各県からきた親類や友人たちが、役所の前で押し合いへし合いしていましたが、みんな同じ様に拱手をし、おめでとうといっていました。

 試験が終わりますと、五経で受験した各県の童生が、県知事に付き従って、七人入ってきました。学院は、その中で合格しなかった者を、府学に入学させると言いました。学院の門前に掲示板が出されました。

「祥符等の県の、五経を暗誦している学童婁樸等十四人を、十五日に表彰することにする」

その日になりますと、各学校の教官、廩保はすでに入学を許された童生と、まだ許されていない童生十四人を率いて、ふたたび門の前で待機しました。学院は大堂で点呼を行いますと、まず最初に婁樸、譚紹聞を呼び、尋ねました。

「お前たち二人は、先日、どうして答案を完成せず、破題、承題、小講[73]しか書かなかったのだ」

婁樸、譚紹聞は跪いて言上しました。

「私どもは八股文を読んだことはなく、どのように書くかも存じません。先生も、五経を勉強する時はきちんと講義をしなければならない、五経のほかにも、何部かの本を読んで初めて、文章を講じることができると仰っています」

「お前たちの師は誰か」

婁樸は父の名前をいうことはできないので[74]、東宿が代わって言上しました。

「婁昭でございます。このたびの試験で十九位で合格しました。開封、祥符では名の知れた学者です」

学院は笑って、

「さもあろう」

更に二人の子供を立たせて言いました。

「おまえたち二人は五経を諳じているが、八股文が書けない。規則にはあわないので、合格させるわけにはいかない。しかし、肝心なのは、その事ではない。おまえたち二人は、十二歳になったばかりだ。たとえ八股文が書けたとしても、おまえたちを入学させるわけにはいかないのだ。それは、おまえたちの士気を挫き、おまえたちの器量を小さくしてしまうことを恐れるからだ。先日、五経を暗唱させたときから、わしはそうするつもりだった。今日はおまえたち二人に本を何冊か与えよう」

そして、左右に命じました。

「本をもってまいれ」

すると、二人の門番が奥の建物へゆき、五六帙の本を抱えてきて、机の上に置きました。学院は指差しながら言いました。

「この十二帙の本は三種類ある。一つは『理学淵源録』で、一つは本朝の聖賢の作った詩に群臣が和した詩を集めたものだ。もう一つは前の司農[75]の文集だ。お前たちはそれぞれ三部ずつ持ち帰るがよい。わしが約束を破ったなどというでないぞ。お前たちの父親や先生も分かって下さるだろう」

東宿は二人に、叩頭して感謝するように命じました。学院はふたたび東宿に向かって言いました。

「わしの考えが分かったか」

「少し分かりました」

「この二人は、翰林学士になるような人物だから、このまま勉強を続ければ、将来は二人とも中央の名大臣になるだろう。わしの目に、狂いはあるまいぞ」

各学校の教官は、皆うなずきながら

「ご尤もです」

と言いました。学院は合格者を呼ぶと、言いました。

「試験が終わったら、五人を府学に入学させよう」

そして下役に命じてそれぞれに金花[76]、紅綢[77]、紙、筆を与えました。婁、譚は本を持ちきれませんでしたので、学院は見回りに門の外まで運ぶように命じました。号砲が轟き、太鼓がならされ、十四人は一斉に学校の門を出ました。学院をたたえる次の様な詩がございます。

誰かいはん役所には人材多しと、

学院は深き考へを抱きたり。

幼子(おさなご)に託せるは青服を身に纏ふ秀才にあらずして、

高官になれとの願ひ。

 

最終更新日:2010113

岐路灯

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[1]旧時、新年になると、二枚の桃の木の板を入口にかけるのが習慣であった。板の上には「神荼」「郁壘」二神の名をかいて、魔除けとした。これを桃符とよぶ。後に桃符の上に対になる言葉を書いたものを桃符というようになった。

[2]役所名。京師で盗賊の捕縛、喧嘩などの事件を取り扱う。

[3]騾駄轎。騾馬が二頭で前後をかつぐ轎。旧時、北方の長途旅行にもちいたもの。

[4]河南省彰徳府。

[5]直隷順徳府。

[6]直隷にある川。

[7]直隷順天府。

[8]直隷順天府。

[9]任官、会試受験のため上京した人に、都を案内する従者。

[10] 「升」は「昇(昇進)」に通じ、縁起がよい。

[11]法源寺。北京市宣武区にある寺。

[12]河北、陝西、湖北等に産する、幹の白い松。葉は三針で短い。臭松。白皮松。

[13]英石、広東省英徳県で産する観賞用の石。大きいものは築山に使用され、小さいものは机上のアクセサリーになる。中国名石の一つ。

[14]玉で飾った琴。

[15]六部に設けられた役所。文書の出納、役所内の雑務を行う。

[16]国史を編纂したり、詔勅を作ったりした役所。

[17]皇后、太子の家の仕事を司る。

[18]六部の弊害、過ちを調べ正す官。

[19]官吏の弾劾を行う官。

[20]明、清、六部に置かれた役所。文書を出納し、下級官吏を監督することを掌る。

[21] チャウチャウ犬のこと。角川書店『中国語大辞典』に、狆の義とするは誤。

[22]家族が無事を報せる手紙。

[23]官署の名。賓客の接待を司る。

[24]前門東街と西街が交わるところにある箭楼。

[25]長官のいるところ。

[26]山東省東昌府。

[27]翰林学士の別称。

[28]梁の昭明太子撰の詞華集。周代から梁までの文章を収める。

[29]宋の李ム撰。梁末から唐の文章を収める。

[30]道教の祭礼の時に用いる文章。青藤紙という青紙に朱字で記す。

[31] 「紫気東来」。聖人の来ることをいう。老子が函谷関を過ぎるとき、紫色の気が満ちていたという『関令内伝』の故事にちなむ。

[32]晋潘岳『関中記』「老子関を(わた)らんとす。令尹喜門吏に勅して曰く『若し老公の東より来るに青牛薄板車に乗る有らば、関を度るを(ゆる)すこと勿れ』と。その日果して来たる。吏これを(まう)す。喜曰く『道君来たれり』と」。とある。「簿[ハン]車」の出典がどこにあるかは未詳。

[33] 『集韻』に「[ハン]…車上の(とま)なり」とある。

[34]原文「懐刺漫滅」。禰衡が、仕官しようとして名刺を持ち歩いていたが、差し出すところがなかったため、名刺の文字がすり切れてしまったという、『後漢書』禰衡伝にある故事に因む言葉。

[35] 「清らかな風が両袖にあるばかりです」ということでここでは「贈り物はまったくありません」の意。

[36]北京右安門外、宛平県。

[37]現在の広寧門。『明宮史』巻二「広寧門即俗称彰義門也。」。

[38] 『易』繋辞下。「吉、凶、悔、吝は事物の動きから生ずる。」。

[39]忌み明けのこと。

[40] ガビチョウ。(図:『三才図会』)

[41]寿老人。

[42] おかっぱ頭の少年の姿をした仙人。しばしば絵の題材とされる。

[43]広州の錫器のこと。民国二三年『広東通志』巻九十七、輿地略十五に引く『粤東筆記』に「錫器以広州所造為良」とある。

[44]当直。

[45] 「当該の書吏」には「当直の書吏」という意味と、「適任の書吏」という意味がある。

[46] 「革」は「革職」などという言葉からも分かるように、免職にするの意。「当革書吏」は、「免職にするべき書吏」。

[47]柏公の台詞は駄洒落と思われる。「該」と「革」は、北京語では同音ではないが、河南語では同音である場合がある。陳章太、李行健主編『普通話基礎方言基本詞彙集』を参照。

[48]原文「該看」。

[49]原文「革看」。

[50]陶製の背凭れのない腰掛け。隙間があいており、風通しがよい。

[51]原文「擺了満塘魚麗之陣。」。「魚麗」は「魚儷」(うろこ)のことだと思われるので、上のように訳す。

[52]幼児教育書『三字経』の中の句。

[53]礼部の属官。礼文、宗封、貢挙、学校のことを司る。

[54]明の世宗(朱厚)が即位した後、実父興献王に封号を贈ろうとしたところ、内閣首輔楊廷和らの反対にあった事件。

[55]世宗の母。

[56]昌平州の西北十五里にある山。 欽定四庫全書『畿輔通志』巻十七参照。

[57]未詳。

[58]明代の道士、礼部尚書になる。明史巻三百七に伝がある。

[59]明代の道士、少傅となる。『明史』巻三百七に伝がある。

[60]中央官庁の文書を各省に届ける役人。

[61]提塘官が各省に文書を届けるときに通る道。

[62]河南省。

[63]宋の王応麟撰といわれる、三字句によって書かれた、幼児教育書。

[64] 『易経』、『書経』、『詩経』、『春秋』。

[65]童生を対象とする、府州県学への入学試験。

[66] 『書経』舜典に「四門を(ひら)く」(四方の門を開く)とあり、その注として「四方の門の未だ開かざるを開闢し、広く衆賢を致すなり」(四方の門で開いていないものを開け、たくさんの賢人を招くことである)とある。

[67]原文は、「但願老師於門生、常常欲加之而已。」。「罪」と「酔」は中国語では同音(zuì)なので、上の言葉は、「どうか私をもっと酔わせてください」ということと掛けてある。

[68]受験者が本人と相違ないことを保証する廩生の保証人。

[69]学童を教育した教師。

[70]浙江省湖州産の筆。

[71]安徽省徽州産の墨。

[72]金属製の打楽器。建物の入り口に掛け、官吏が建物に上がり下がりするときに、雲板を叩いて人々に知らせた。

[73]崔学古『少学』によれば、八股文は破承、起講、入題、起股、虚鼓、中股、後股、束語結句の八つの部分で構成されるという。破題、承題は「破承」、小講は「起講」のこと。「起講」の項に「又名小講開講」とある。

[74]旧中国では、父親の諱を息子が口にするのを忌む風習があった。

[75]戸部尚書。

[76]院試の合格者に与えられる帽子の飾り。図:宮崎市定『科挙史』

[77]紅色の紬。

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