第一回

先祖を思い千里の涯で孝行の思いを述べること

子孫を案じ片方の掌に慈愛の心を込めること

 

 さて、この世に生まれた人々には、成功する人と失敗する人の両極端しかございません。そして、成功と失敗の原因は、すべて若い時の岐路(わかれみち)にあるのです。

 成功する人は、資質は必ず篤実、気質は必ず温和で、幼時より厳格な躾けを受け、往来する親戚、交際する学友は、みな立派な人物、誠実な若者たちです。例えていえば、樹木の根が、もともと深くしっかりとしていたところへ、豊富に水を注がれ、細心の管理を施されることによって、花を開き、葉を茂らせるようなものです。しかし、失敗する人は、知力は浅薄、気質も軽薄で、父兄の言葉を聞かされても、焼け石に水で、少しも受けいれようとはしませんし、立派な老成した先輩と会っても、針の筵に座っているような気分になり、一刻も我慢することができません。そして、愚かな者たちと会えば、すぐに交際し、後で必ず一敗地に塗れ、どうにも救いようがなくなってしまうのです。ですから、古人は「成立の難きこと天に登るが如く、覆敗の易きこと毛を燎くが如し」[1]という、二句の言葉を残しております。説教をする者が心を痛ませている時、説教を聞く者は、それを心に銘記するべきです。しかし、実際は、父兄が心を痛ませているのはどこでも同じなのですが、子弟が説教を心に刻み込むということは、滅多にございません。

 私は今どうしてこんな話しをしているのでしょうか。それは、たくさんの財産を持ち、祖父、父ともに真面目な模範的人物であった家に、大変賢い子供が生まれたからなのです。その人の家の躾けは、まことに厳格でしたが、この若さまは、家の決まりを守らず、さまざまな愚か者たちと交際したため、一家破産に陥り、「天に上るに路なく、地に入るに門なき」[2]有様となってしまいました。さいわい、その人は立派な由緒ある家柄で、本家の人の引立てを受けることができましたし、本人の良心も尽きてはおらず、恥を知り、後悔し、心を入れ替えましたので、最後は幸運を得ることができました。要するに、その人はありとあらゆる苦労を嘗め尽したわけです。

 これはどこで起こったお話しでしょうか。河南省開封府祥符県蕭墻街で起こったお話しです。その人は姓を譚といい、先祖はもともと江南丹徒[3]の人でした。譚家は、宣徳年間[4]に進士[5]を出しました。進士は譚永言という名で、河南省霊宝県の知県[6]になりましたが、不幸にも在職中に亡くなりました。彼の息子は幼かったため、棺を故郷に運ぶことができませんでした。

 さいわい、一人の幕僚[7]がおりました。彼は、浙江省紹興府山陰県の人で、姓は蘇、名は簠簋、字は松亭といい、学問と義侠心のある友人でした。彼は責任を持って、霊宝公の夫人と息子を連れて祥符へ戻り、霊宝公の残した僅かな貯金で、霊宝公の息子のために土地、財産を買い、少しも着服しませんでした。そして、霊宝公を西の城門の外の大きな寺に埋葬しますと、碑坊[8]を建てました。この時から、譚家は開封府祥符県に籍を置くこととなりました。これは、主人と幕僚が、役所で仲良く付き合い、死後も相手を裏切らなかった例であります。

 蘇簠簋は、別の所で仕事していましたが、しばしば省城[9]にやってきては、霊宝公の息子の面倒を見ました。この息子は、譚孚と名付けられ、たいへん温厚でした。孚は葵向を生み、葵向は誦を生みました。誦は一人の男子を生み、名を譚忠弼、字を孝移、別号を介軒といいました。忠弼より上の四代は、代々読書人で、学校に名を連ねました。

 譚忠弼は、十八歳で祥符の学校に入り、二十一歳で廩生[10]となり、三十一歳で貢生[11]に選抜されました。性格は方正かつ正直、知識は豊富でした。しかし、郷試[12]には何度も落第し、しばしば房官[13]の推薦を受けたものの、必ず定員外になりました。譚孝移はやがて受験勉強をやめ、家の仕事に専念しましたが、相変わらず詩作を心掛けるようにし、幾人かの友人たちと交際しました。一人は婁昭、字は潜斎といい、府学[14]の秀才[15]でした。一人は孔述経、字は耘軒といい、嘉靖四[16]年の副車[17]でした。一人は県学[18]の秀才で、程希明、字は嵩淑といいました。一人は蘇霈、字は霖臣といい、一人は張維城、字は類村といい、ともに祥符の優れた秀才で、学問がありました。彼らは、朝な夕なに、詩を作ったり、清談したり、ささやかな宴会を開いたりし、毎月三四回会っていました。同じ街の友人で、他に顔を合わせる者もいましたが、譚孝移は上にあげた人々と最も篤い付き合いをしていました。学校にいる郷紳には、小人と付き合う者もいましたが、譚孝移は、彼らを遠くから眺めるだけで、仲間になろうとはしませんでした。譚孝移の融通がきかないのを笑い、彼を変人であるという者もおりました。こんな詩が残っております。

清濁をあはせ飲むことなかるべし、

手を取りて親しげにするは心の悪しき者のみ。

悪人が近づくも必ずや遠ざかる、

性格の初めから異なるがため。

 さて、譚孝移は幼いときに周孝廉[19]の娘を娶りましたが、一年足らずで亡くなりましたので、後に王秀才の家から後妻を娶りました。この王氏は孝移より五歳年下で、夫婦仲は円満でした。しかし子供はなく、男子を授かるのは難しいと思われていました。

 四十歳になりますと、王氏はようやく一人の男の子を生みました。子供は、幼名を端福児といいましたが、それは五月五日の生まれだったからでした。彼は、顔は満月のよう、目鼻は絵に描いたようで、夫婦に大変可愛がられました。月日がたち、端福児は七歳になりましたが、教師を招いて勉強を始めることはありませんでした。しかし、父親が『論語』『孝経』を読んで教えますと、大半を暗唱しました。

 孝移の家の裏には、大きな庭園がありました。これは、五百両で買った、昔の役人の書室で、四五畝の広さがありました。孝移は、さらに二百両余りを払って、三間の正房を買い、程嵩淑に「碧草軒」という額を書いてもらいました。そして、廂房[20]、台所、茶を沸かすための竈、芍薬の花壇と下男用の住宅を設け、正門を封鎖し、通用門を造り、家の後ろの門と向き合うようにしました。間には路地が横切っているだけでした。孝移は、毎日、部屋の中で読書し、時々、数人の友人とともに詩文を論じ、下男の蔡湘が花に水をやったり、野菜を植えたりするのを眺めました。端福児は、しばしば彼についてきて遊び、字を覚えたり、詩を読んだり、物語りしたりしました。これは、大変清らかな生活でした。

 ある日、孝移は窓辺で読書していました。すると下男の王中が、一人の男を連れてきました。男は、遠くからきた様子で、手には一通の手紙を持っていました。彼は、孝移を見ますと叩頭し、言いました。

「ご主人さま、ご機嫌はいかがでしょうか」

三回叩頭し、立ち上がりますと、言いました。

「わたくしは丹徒県知事の下男です。主人から、譚さまに手紙を届けるように言われ、やってまいりました」

孝移はすぐには訳が分かりませんでしたが、その男は手紙を差し出しました。孝移が封を開き、中身を取り出しますと、文面は以下のようなものでした。

宜賓派の愚甥[21]紹衣が、頓首して鴻臚派の大人にご挨拶申し上げます。

譚家の祖先は丹徒に居住し、宋から現在まで、二十余代を経ております。以前、霊宝公は河南に行かれ、開封に寄寓されました。私の姻戚に、河南で役人をした者がおり、霊宝公から大人まで、すでに四代を経ており、河南で財産を築かれ、先祖を輝かし、子孫を豊かにされていることを知りました。これは、ひとえに譚家の祖先の遺徳が深く、厚いことによるものです。さて、私は、かたじけなくも本家の当主ということになっておりますが、現在まで、五代に亘って、族譜[22]を作っておりません。そこで、一族で合議し、族譜を作ろうと考えました。しかし、大人のご一族が、遠く河南に寄寓されていらっしゃるので、ご先祖の爵位、(おくりな)(いみな)(あざな)、排行[23]を記録することができませんでした。そこで、下男をそちらに遣わすことに致しました。大人が南に来られ、祖先の墓を拝まれ、族譜を作られれば、一族にとって幸せなことです。いらっしゃることができなければ、どうか霊宝公以下四代の爵位、諱、排行を、詳しく清書し、下男に与え、南へ持ってゆかせ、族譜の編集ができるようにしてください。また、最近のご子孫の幼名、学名[24]をお書きください。こうすれば、後日、親戚同士が見ず知らずの間柄になることがなくてすみます。先祖を同じくする者として、心からお慕い申し上げております。また、ご家族全員の平安をお祈り申し上げております。さらに綾子、緞子、生地四種類、螺鈿の匙二十、象牙の箸二十双を差し上げます。宣徳年間以後の先祖の著作六種は、膨大な量ですので、後日お送り致します。手紙を書きながら、とても懐かしく思っております。

嘉靖□年□月□日、甥紹衣叩頭。

 譚家の本家は、もともと丹徒の旧家でしたが、宋に従って南に渡ってから、すでに三つの時代を経ていました。明初には、兄弟が二人おり、長男の家を宜賓房、次男の家を鴻臚房といっていました。孝移は普段からそのことをよく知っておりましたが、最近丹徒の親戚がどうしているのかは知りませんでした。彼は、手紙を見、丹徒で族譜を編纂しようとしていることを初めて知りますと、とても喜びました。そして、王中を呼びますと、

「江南の方をおもての西の廂房につれてゆき、泊めてあげてくれ。路地から大通りに回って頂く必要はないぞ。わが一族の方なのだから、裏の通用門から、楼のある中庭を通って入って頂けばよい。帳房の閻相公に、布団を出して西の廂房に送るように言ってくれ。人夫や騾馬の面倒は閻相公にみさせよう」

 孝移は命令をしますと、机の上で読んでいた史書を閉じ、蔡湘に書斎の扉を閉めさせ、手紙を持ちながら、嬉しそうに正房に行きました。そして王氏に向かって

「江南の本家から手紙を送ってきた。お客さまに食事を出すように趙大児に言ってくれ」

そして、おもての広間へ行って大声で「丹徒からのお客様」と言いますと、男が廂房から出てきました。彼は、すでに旅装を改め、毛氈の包みを捧げもっており、こう言いました。

「主人から旦那さまへのお土産です」

孝移

「我々は三代にわたって顔を合わせていませんが、もともとは同じ家です。こんなお心遣いをして頂く必要はございませんのに」

「旦那さまへの、ほんの気持ちです」

孝移は徳喜児に包みを手渡しますと、尋ねました。

「お名前は何と仰いますか」

「梅克仁と申します」

「遠くからやって来られて、本当に大変だったでしょう。とにかくお休み下さい」

梅克仁は退出して廂房に行きました。そこで王中が梅克仁を世話したことはいうまでもございません。

 孝移が徳喜児に毛氈の包みを捧げもたせ、奥の中庭に戻りますと、王氏が出迎えて尋ねました。

「どこから来た人なのです。ひどい訛りですこと」

「丹徒の本家から来たのだ」

徳喜児

「この毛氈の包みは、私達への贈り物です」

王氏

「こっちへ持ってきて見せておくれ」

孝移

「祠堂[25]へ行ってご報告しなければならん」

そして、王氏に鍵を出させ、小者に手渡し、祠堂の扉を開けさせました。孝移は、まず手と顔を洗い、江南からの贈り物を香机の上に置き、帳を開け、線香を手にとって跪きますと、こう言いました。

「丹徒の親戚の紹衣という者が送ってきた品物です」

そして、送られてきた手紙を位牌の前で丁寧に読みますと、思わずはらはらと涙をこぼし、密かに祈りました。

「私どもは、四代に亘って南に戻ったことがございません。私は近々丹徒へ行き、墓参をし、族譜を作ろうと思います。吉日を選んで旅立ちますが、その時はふたたびご報告致します」

叩頭を終えますと、扉を閉めました。

 昼食の後、孝移はふたたびおもての広間へ行きました。端福児もついてきて、横に立ちました。

孝移

「食事はすまれましたか」

梅克仁は広間におりてきますと、

「頂きました」

と言い、端福児の方を見ながら

「こちらが若さまでしょうか」

と言いました。孝移が

「ええ」

と言いますと、梅克仁は歩み寄り、端福児を抱きかかえて、こう言いました。

「南の主人の若さまと、同じくらいのお年ですね」

「貴方のご主人のお年は」

「今年でちょうど三十歳です。若さまは八歳で、今年、勉強を始められました」

「去年の『歯録』[26]に譚溯泗とありますが、どなたでしょうか」

「それは東の屋敷に住んでいる四男坊の方です。私の主人は、手紙の差出人です」

「挙人[27]にはなられましたか」

「主人は、十七歳で秀才になり、今では廩生で、宋翰林[28]の下で勉強しております。若さまには別の先生がついています」

孝移は頷きますと、言いました。

「こちらは代々男一人ですが、本家へ行った者はおりません。私は普段から丹徒へ行こうと思っていたのですが、一つには父母の喪と受験があったため、二つには運河や陸路の旅が煩わしかったために、行くことができませんでした。どうかもうご滞在下さい。私は家の仕事を片付けてから、貴方と一緒に南へ行くことに致しますから」

「私が来るとき、主人は譚さまが南に来られることを望んでおりました」

 克仁は話しをしていましたが、若さまの顔がとても美しいのを見ますと

「若さまを抱いて街を散歩してきましょう」

「あまり街を歩かせたことはありません。暫くして子供がなついたら、奥の書斎へ連れていってやって下さい」

「私は家では、毎日、主人の若さまを、塾へ送り迎えしていました。今日、坊っちゃまを見て、表門の外へ抱きかかえてゆきたくなりました」

「街には人が多いですから、門の所にちょっと立つだけで戻ってきて下さい」

克仁は、端福児を抱きあげますと、楼門の下に行っただけで帰ってきました。広間に着きますと、端福児は、そのまま奥の間に戻りました。

 さらに七八日とどまりますと、克仁は帰りたいと申し出ました。孝移は王中に命じて帳房[29]から十両の銀を持ってこさせ、梅克仁に与えました。そして、自分は荷物、旅費をととのえ、車と騾馬を借り、丹徒への土産品を買い、吉日を選び、徳喜児、蔡湘を同伴して出発することにしました。そして、王中には家をしっかり守るようにと言い含めました。また、閻相公を呼んで経理の相談をし、王氏に対しては、くれぐれも端福児を外に出さず、少しも離れさせてはいけない、常に目の前にいさせるようにと言いつけました。出発の日になりますと、祠堂に報告してから、旅立ちました。水路、陸路のことは、くだくだしくは申し上げません。まさに、

同族(うから)の情は篤ければ、

旅路の労も何のその。

 さて、譚孝移は、程なく丹徒に着きました。県城の南方にある本家は、広い農地を持っていました。そこには木が鬱蒼と茂り、建物は高々としていました。譚孝移は、譚紹衣の家へ行きますと、そこに泊まりました。族叔と族甥は相見えますと、代々遠く離れていたこと、自分たちが初対面であることなどを話し合いました。

 次の日になりますと、紹衣は孝移を案内して、まず先祖代々の位牌を拝し、次に本家の人々の所へ行きました。孝移は遠くに住んでいる人とも、近くに住んでいる人とも、貧しい人とも、金持ちの人とも、すべて顔を合わせ、河南の土産を贈り、それぞれの家では、酒席を調えて孝移をもてなしました。十日余りたちますと、孝移が吉日を選んで、祖先の墓参りをすることになりましたので、一族の人々はついてゆくことにしました。孝移は供物を調え、吉日になりますと、みんなで祖先の墓へ行きました。紹衣は、本家の長子でしたので、祭祀を主催しました。祈祷文では、孝移が先祖を拝しに河南からやってきたことが述べられました。祭祀が終わりますと、孝移は墓地を見てまわり、欠けたり苔むしたりした墓標を子細に眺めました。人々は、ふたたび分家、本家の話しをし、一族で享庁[30]に供物を並べ、日が暮れますと家に戻りました。紹衣は、さらに孝移を城内の昔の姻戚の家へ連れてゆき、挨拶させました。それぞれの姻戚の家でも答礼し、酒をふるまいました。

 十日余り過ぎたある晩のこと、孝移が紹衣と一緒に座っていますと、月と星が輝いている下で、本を読む声が聞こえてきました。遠くから、近くから、右から、左から、村中に声が聞こえていました。孝移は紹衣に向かって言いました。

「私が今回南にきたのは、一つには同姓の一族で集まるため、二つには蓬麻の地[31]を求めるためでした」

「どうか戻ってこられてください。ここの屋敷を、一族の家塾としましょう。田畑も三頃程ありますが、これをおじさんの財産にいたしましょう。穀物の蓄えもあります。これらは、本来は一族の貧乏な者が結婚式や葬式を行うのに備えたり、家塾への報酬にするためのものですが、おじさんが戻ってこられるのでしたら、屋敷や財産をさしあげましょう。その方が、他郷に一人でいらっしゃるより良いでしょう」

「それはいけません。霊宝公から四代の墓は、すべて祥符にございますから、墓参りができなくなってしまいます」

「こちらを立てればあちらが立たずで、難しいですね」

 その晩のことはお話し致しません。さらに十余日が過ぎました。孝移は族譜を作りますと、河南へ帰ろうとしましたが、一族の人々は孝移を帰そうとはしませんでした。金持ちはもてなそうと言い、貧しい者も酒を携えて話をしにきました。しかし、さらに幾日か過ぎますと、孝移は家のこと、子供のことがとても気になり、どうしても帰ろうとしました。船を雇ったこと、贈り物を全て送ったことなどは、くだくだしくは申し上げません。また、先祖の墓にお参りもしました。出発の日、紹衣は多額の旅費を送り、別れるときは、血を分けた者同士で、心からの涙を流しあいました。紹衣は、梅克仁に、河南との省境まで孝移を送るように命じました。

 数日たちますと、河南との省境に着きました。孝移は梅克仁に帰るようにと言いました。克仁はもっと送ろうとしましたが、孝移は遠慮しました。しばらく話しますと、克仁は叩頭しました。蔡湘、徳喜児は克仁を引きとめ、酒屋へ行って何本か酒を飲み、名残りを惜しみながら、別れました。

 克仁が丹徒に戻って報告をしたことはお話し致しません。さて、孝移と下男一行は、船を降りますと、車を雇い、旅を続け、開封を目指しました。祥符に着いた時には、日はすでに西に落ち、城門は閉じかかっていました。門番に、蕭墻街の譚家の者だ、城内に入りたいのだがと言いますと、閉じかけていた門を元通りに開けてくれましたので、一行は城内に入ることができました。家に着いたときは、すでに夜も更け、定更炮[32]も鳴り終わっていました。

 蔡湘が一声

「開門」

と言いました。会計の閻相公と王中は、帳房で家賃を勘定していましたが、声を聞きますと、王中が急いで門を開けました。門が開きますと、閻相公は提灯に灯をつけて出迎えました。奥の広間でも、孝移が帰ってきたことを知りました。車夫が騾馬の荷物を卸しますと、提灯をもった人が何人か出てきて、荷物や包みを運び、大層賑やかになりました。

 孝移が奥の広間の一階に入って腰を掛けますと、趙大児が盥に入れた水を運んできました。孝移は先祖に報告をしたくてたまらず、手と顔を洗いますと、祠堂の扉を開けるように命じ、反面の礼[33]を行いました。一階に戻りますと、趙大児が茶を持ってきました。王氏が食事を召し上がりますかと尋ねますと、孝移はこう言いました。

「途中で食事をしたから、あまり腹も空いていない。ところで、端福児はどうした」

「多分、おもての広間で、荷物が卸されるのを見ているのでしょう」

「徳喜児、端福児を呼んできてくれ」

暫くしますと、徳喜児が言いました。

「おもての広間にはいらっしゃいませんが」

 そもそも、端福児は、孝移が丹徒へ行ってからというもの、しばしば裏門から外へ出て、近所の子供達と遊んでいたのでした。彼は、夕方に帰ってくることもあり、灯点し頃に戻ってくることもありましたが、裏門の外の幾軒かの家に、足しげく通うだけでしたので、王氏も気にしませんでした。あいにく、その晩は、鄭という家に遊びにいっていました。子供達同士で楽しく遊び、鄭家の女も彼に果物や点心を与えました。子供達は鄭家の小さな庭で、月の光をたよりに遊びました。一更[34]になっても、端福児は、まだ子供達と遊ぼうとし、帰ろうとしませんでした。それに、孝移が帰ってきましたので、王氏はうきうきとして、端福児のことを忘れていました。孝移は、端福児の居場所を尋ねたとき、端福児がおもての中庭の人込みの中で、荷物を眺めているものと思っていました。しかし、徳喜児から端福児がおもての中庭にいないという報告がありますと、王氏は慌てて、小声で

「端福児は、多分、裏のどこかの家で遊んでいるんだろう。まだ帰っていないのかい」

と言いました。すると、孝移は顔色を変え

「今は何時頃だ」

王氏

「日が暮れたばかりです」

孝移は、丹徒の本家ではこの時間に灯を点して勉強を始めていたことを思い出しますと、思わず心の中で溜息を漏らしました。

「夕方がこうなら、昼間のことも推して知るべしだ。今晩がこうなら、前の晩のことも推して知るべしだ」

 そう思っておりますと、端福児が楼門のところで、趙大児の後ろに立っているのが目に入りました。趙大児は、雲行きが怪しいと思い、急いで鄭家の庭へとんでゆき、端福児を呼び戻してきたのでした。孝移は、端福児を見ますと、一つには王氏の躾が厳しくないことが腹立たしかったため、二つには自分が早く家庭教師を呼ばなかったことが悔やまれたために、怒りが一時に込み上げ、立ち上がりますと、端福児の顔を平手打ちにしました。端福児が泣きだしますと、孝移は叫びました。

「跪け」

王氏

「まだ小さい子供なのです。家に着いたばかりでお疲れでしょうに、お怒りになるなんて」

端福児は、母親がとりなす声を聞きますと、いよいよ大声で泣きました。孝移が手を伸ばしてぶとうとしますと、端福児は婦人達の中に潜り込んでしまい、泣きやみませんでした。孝移はますます怒りました。すると、王中が楼門の所で言いました。

「おもての中庭にお客さまがいらっしゃいます。東隣の鄭さまが会いに来られました」

 そもそも、鄭家の老人は、夕方になりますと、孫と一緒に寝てやるような人でした。彼は、月の光の下で、趙大児が慌てて端福児を呼びにきたのを見ますと、端福児が家に帰ってから怒られるのではないかと考え、孝移に会いたいと称して、杖をつきながら、提灯をさげて、おもての中庭にやって来たのでした。王中の話を聞きますと、孝移は出てゆかないわけにはゆきませんでした。老人はちょっと世間話をしますと、長居もせずに、去ってゆきました。孝移は、老人を表門まで送って帰ってきました。

 人は腹を立てた時でも、それを紛らわすことがありますと、ほとんど怒りがおさまってしまうものです。孝移は一階に戻り、王氏と少し話をしますと、端福児に向かって、丹徒の本家の子供が真面目に勉強していたことを話しました。趙大児が夕飯を並べますと、孝移は少し食べました。おもての中庭にいる車夫の夕飯は、王中と閻相公がきちんと準備しました。孝移が荷物を運び込んだ時には、もう二更になっていました。孝移は馬に乗って疲れていましたので、床に就くとすぐに寝てしまいました。五更になって目が覚めますと、口にこそ出しませんでしたが、家庭教師を呼んで息子を教育しようと考えました。まさに、

子を愛するにしくものはなし、

子よ安かれと心を砕く。

もしも子供が勉強せずに、

怠惰にならば親の責任。

 

最終更新日:2010113

岐路灯

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[1] 「身を立てることは天に上るように難しく、家運が傾くのは毛を焼くように簡単である」。『柳氏家訓』「成立之難如升天、覆墜之易如燎毛」。

[2] 「天に上ろうとしても道はなく、地に入ろうとしても入り口がない」。にっちもさっちもいかない。宋釈普済『五灯会元』巻十「進前即触途成滞、退後即噎気填胸、只得上天無路、入地無門」。

[3]江蘇省鎮江府。

[4]一四二六〜一四三五。

[5]科挙の最終試験殿試の合格者。

[6]県知事。

[7]官署の補佐役。

[8]碑を雨風から守るための建物。

[9]省都。ここでは開封のこと。

[10]食禄を与えられる生員。

[11]国子監で勉強することを許された生員。

[12]三年ごとに省城で行われる試験。合格者を挙人と称する。

[13]科挙で、答案を閲覧し、推薦を行なう試験官。

[14]府の学童試に合格して、府、州、県の学校に入ることを許されたもの。

[15]生員。

[16]一五二五年。

[17]明、清の制度で、科挙の第一試である郷試に合格しても、挙人の員数に制限があるため、挙人の資格を与えられないもの。その中から国子監に入るものを副榜貢生、略して副貢生、又、副貢、副車という。

[18]県の学校。

[19]孝廉とは、州県知事によって、孝廉方正な人物として推挙された者をさす。

[20]中門を入って正面の建物の前方、左右両脇にある建物で、東廂房、西廂房に分かれる。

[21] 「甥」とは、同じ一族で、息子以外の一世代下の男子をいう。

[22]宗族の構成員の名と家系を記した本。

[23]一族の同世代者間の長幼の順序。

[24]子供が勉強を始めるようになってから付けられる名前。

[25]先祖をまつってある部屋。

[26]同じ試験で合格した挙人或いは進士の姓名を年齢順に配列したもの。

[27]科挙の郷試合格者。

[28]翰林とは翰林学士のこと。翰林院で、文学の研究、文書立案などを行う官。

[29]金銭を取扱う場所。帳場。

[30]祭庁ともいう。祭祀の時、神に捧げる祭器及び供物を並べるところ。写真は北京五塔寺にある享庁。

[31] 『論衡』率性に「蓬は麻の間に生ずれば、扶けずして自ずから直し」(よもぎは麻の間で成長すれば、手を加えなくてもまっすぐ伸びる)とあるところから、優れた人と交わり、自分を磨くことができる土地をいう 。

[32]一更を報せる大砲。

[33]家に帰った事を先祖に報告する礼。

[34]旧時、夜を五つの時間帯に分け、一更、二更、三更、四更、五更と称した。

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