龐涓夜走馬陵道雑劇

楔子

（冲末が鬼谷子に扮し、童子を連れ登場、詩）前身は謫仙人、蒼鸞につねに跨り、上仙にしぞ謁したる。腹中に神機を穏し、日月を安んじて、胸中に妙策を持ち、乾坤をしぞ定めたる。

わたしは姓は王、名は蟾といひ、道号は鬼谷先生。幼くして文を習ひ、長じては武を習ひ、兵書に通じ、風雲の気を弁じたり。争ひをすることなしに、あらかじめ勝敗を決したり。陣を並べば、ことごとく天文に従ひて、鋒を交へば、つねに神将をば駆れり。俗世の人々をば恐れ、甘んじて谷口[1]を経て、名利を逃れ、雲夢山水簾洞にて、道士となりて修行して、歳月をしぞ忘れたる。わたしは弟子が二人あり。一人は龐涓、一人は孫臏。かれら二人は、山中にわたしを訪ねて師となして、十年学び、通暁せざる兵書とてなし。二人を観るに、孫臏は徳行のある人物なれども、龐涓はやがて出世せば、見識浅く、情義の薄きことあらん。かれら二人は、かねてより山を下りて、功名をしぞ得んとせる。今日は吉日、かのものたちを呼びいだし、考へのいかんを問ひて、手を打つとせん。

童子よ、孫臏と龐涓を呼んできてくれ。

（童子）師兄さま、お師匠さまがお呼びです。

（正末が孫臏に扮し、浄の龐涓とともに登場）

（正末）わたしは孫臏、燕国の人。弟は龐涓、魏国の人なり。われら兄弟二人は、ともに雲夢山水簾洞の鬼谷先生のもとに来て、勉強し、はや十年(ととせ)なり。われら二人は、兵書戦策、すべてを学べり。

本日はお師匠さまがお呼びだが、何事だろうか、ゆかねばならぬ。

（龐涓）兄じゃ、お師匠さまが本日われらを呼ばれましたは、どうしてなのだと想われますか。昔からこう申します。「文藝と武藝を学ばば、帝王の家に売るべし」と。お師匠さまは、われら二人の学業が成就したのをご覧になって、山を下り、功名を得よと仰るのでしょう。兄じゃ、いっしょにお師匠さまに会ったら、どちらが先に山を下りろと言われるのでしょう。

（正末）弟よ、おまえの力はわたしより勝れているから、おそらくは、先におまえが山を下りろといわれるだろう。おまえといっしょにお師匠さまに会いにゆこう。（会う）

（鬼谷）二人が来たな。

（正末）お師匠さま、われら二人は草庵で、書物を読んでおりましたが、童子が呼びにくるのを聴きましたので、まっすぐにお師匠さまに会いにきたのでございます。

（鬼谷）なんじらを呼んだのは、ほかでもない。なんじら二人はわたしに従うこと十年、兵書を習い、学業を成就した。今、春秋の七国は、おたがいに併呑しあい、賢士を招いているところだから、なんじら二人が山を下り、功名を得て、どうして良くないことがあろうぞ。

（龐涓）お師匠さま、わたくしは山を下って、功名を得ようと思っておりますが、お師匠さまのお考えはいかがでしょうか。

（鬼谷）なんじら二人はどちらも山を下りようとしているが、どちらがすぐれているのかは分からない。先になんじら二人の智恵を試すのは、どうだろう。わたしは今から、三尺の穴を掘り、木の球を、中に置き、手で持たず、脚で蹴らずに、木の球をひとりでに出てこさせたいのだが、なんじら二人の妙策を聴くとしようぞ。

（龐涓）それは造作もないことでございましょう。三尺の穴は、山の頂にございますから、木の球をひとりでに穴から出そうと仰られるなら、数人に鍬を持たせて、この穴の脇からまっすぐ山の下まで、深い溝を掘れば、木の球は、自然に溝にしたがって、転がり出してくることでしょう。このようになさっては、いかがでしょうか。

（鬼谷）孫子よ、そなたにはどのような妙策がある。

（正末）お師匠さま、木の球は、もとより軽うございますから、幾つかの桶で水を運んで、穴に入れ、球がしだいに穴の口まで浮かんできたら、さらに一桶の水を注いで、水が満ちたら、自然に転がり出てまいりましょう。

（鬼谷）その策はとてもすぐれているな。

（龐涓）わたしの策はすぐれていないのでございましょうか。

（鬼谷）まあ待て、待て。これは大したことではない。さらになんじら二人の智謀のいかんを見よう。わたしは今から、洞窟の中に坐るが、なんじらは介添えもせず、頼みもせずに、わたしを騙して自然に洞窟から出してくれ。なんじら二人は策を出せ。

（龐涓）それはいささか難しゅうございますから、兄じゃが先に仰ってくださいまし。

（正末）お師匠さま、洞窟を出る策はございませぬが、洞窟に入らせる策はございます。

（鬼谷）どのように洞窟に入らせるのだ。

（正末）お師匠さまが洞窟の入り口に立たれたときに、わたくしはお師匠さまの介添えもせず、お師匠さまに頼みもせずに、お師匠さまを洞窟へ自然に入ってゆかせるのです。

（鬼谷が洞を出る）信じられぬな、わたしは今から、洞窟の入り口に立ち、わたしを洞に入らせるいかなる策があるかをみるとしよう。

（正末）申し訳ございませぬ。お師匠さま、これがすなわち、わたくしの、お師匠さまを洞窟から出す計略にございます。

（鬼谷）この計はとてもすぐれているな。龐涓よ、そなたには、どのような洞窟から出す計略がある。

（龐涓）わたくしも洞窟から出す策はなく、洞窟に入らせる策があるだけです。

（鬼谷）それは先ほど孫子が話した。

（龐涓）わたしの策が納れられぬのなら、もう一つ策を申し上げることにいたしましょう。お師匠さま、洞窟の下で一対の虎が闘っております。

（鬼谷）わたしは毎日、鉛を鍛えておるのだから[2]、闘っていたとて何も面白くはない。

（龐涓）お師匠さまが出てこられないならば、わたしは今から、乾いた柴や干し草を洞窟の入り口の後ろに積んで、焼いて煙を起こしますから、お師匠さまは燻されて、慌てて出てこられることでしょう。

（鬼谷）よいにはよいが、少々浅はかな考えだ。

（龐涓）このような浅はかな考えを用いなければ、お師匠さまを出てこさせられませぬ。

（鬼谷）なんじら二人は近う寄れ。ひとまずなんじらの顔を見ることにしよう。見たところ、孫子の顔は龐子より劣っている。龐子よ、そなたが先に山から下りよ。

（龐涓）本日は吉日にございますから、お師匠さまにお別れし、長旅せねばなりませぬ。

（鬼谷）弟子よ、くれぐれも気をつけるのだぞ。

（正末）お師匠さま、今日、弟は山から下りてゆきますが、わたくしはお暇をいただき、弟を送ろうと思います。

（鬼谷）よかろう。龐子を送って、杏花村に到着したら、早めに戻ってくるのだぞ。

（詩）なんぢら二人は学業に秀でたるものなれば、上国に往き、功名をしぞ得んとせる。親友であることを徒にせず、龐涓を送り旅路に上るべし。（退場）

（龐涓）兄じゃ、想うにわたしは兄じゃには、大変お世話になりました。官職を得られましたら、兄じゃを推挙し、ともに富貴を享けましょう。もしそうせねば、天はわたしの命を厭い、牛や馬とし、羊や狗のごとくしましょう。ああ。行こうとすると、一本の深い谷川がある。谷川のほとりには、一本の丸木橋がある。（背を向ける）この丸木橋は、恐らくは、年を経て、腐っていよう。わたしは先に行こうと思うが、橋がしっかりしているかどうかは分からぬ。わたしは今から、官職を求め、採用に応じにゆこうと思っているが、事故があったら、どうしたらいいだろう。このようにするしかあるまい。（振り返る）兄じゃ、御身は兄で、わたしは弟、「行く者は道を譲る」と申します[3]、兄じゃよ、どうか先に行かれよ。

（正末）弟がわたしに譲ったのだから、わたしが先に橋を渡ろう。

（龐涓が背を向ける）ちょっと待て。なにゆえに兄じゃを先に渡らせたのか。兄じゃが橋を踏み折って、転げ落ち、亡くなれば、遠回りして渡れるからだ。役人になれば、わたし一人が偉くなり、まことによろしいことであろう。（振り返る）兄じゃよ、先にお渡りください。

（正末が橋を渡る）この橋を渡るとしよう。弟よ、おまえも来るのだ。

（龐涓が背を向ける）兄じゃは渡られた。兄じゃが渡らない時は、この橋はまだ丈夫だったが、恐らく兄じゃに踏まれたために傷んでいよう。このようにするしかあるまい。……（振り返る）兄じゃ、わたしはすこし恐ろしゅうございますから、片足で岸辺を踏み、片足でこの橋を踏み、身を乗り出され、手を伸ばし、わたしが来たら、受け止めてくださいまし。

（正末）そうしよう。片足でこの橋を踏み、片足でこの岸を踏み、身を乗り出して、手を伸ばし、受け止めよう。

（龐涓が背を向ける）どういうことだと思われる。わたしはなにゆえ、手を伸ばさせて、わたしを受け止めさせるのか。事故があったら、わたしはかれの手を握りしめ、わたしが倒れたときにはかれも倒れるだろう。（振り返る）兄じゃ、お手を伸ばしてくださいまし。

（正末）弟よ、これは手であろう。（正末の手をとって橋を渡る）

（龐涓）渡りましたね。ほんとうに驚きました。兄じゃ、「千里送るも、かならずや一別ある」ともうします。兄じゃよ、どうか戻られよ。もし官職を得ましたら、かならずや兄じゃを推挙し、ともに富貴を享けましょう。もしそうせねば、天はわが命を憎み、牛や馬とし、羊や狗のごとくしましょう。

（正末）弟よ、そう言うな。一壺の酒を買い、餞別してやることにしよう。

（龐涓）わたくしは何の取り柄もございませぬに、このようにお気遣いしていただきますとは。

（正末）弟よ、この杯を干してくれ。

（龐涓）兄じゃ、ありがとうございます。

（正末）弟よ、旅路では、どうか用心しておくれ。（唱う）

【仙呂賞花時】想へばわれらは筆を動かし、書を写し、幾たびの春をか過ごしし。つねに股を刺し、梁に懸かりて[4]、辛苦を厭ふことはなかりき。本日は紅塵を踏み、ただ行くことを願ひたり。かならずや功名を得て、麒麟閣[5]にぞ描かれん。

【幺篇】西のかた陽関を出で、故人のなきがごときなり、同じ別れの愁へを抱き、二人して腸(はらわた)を断つ。送ればいとど懐かしく、兄弟の誼を断ち切ることを得ず。

（言う）弟よ、旅路では気を付けてな。

（唱う）はや五里進み、この杏花村[6]に過りたり。（退場）

（龐涓）兄じゃは戻ってしまわれた。長くとどまるわけにはゆかぬ。本日は功名を得に、行くとしよう。

（詩）荒山を離れ、帝都に赴き、万言の書に機謀を顕はす。一朝にして身に元帥の印を掛け、丈夫(ますらを)ぶりを示すべし。

 

第一折

（外が魏公子に扮し、丑の鄭安平、兵卒を連れ登場）

（魏公子の詩）祖先は周にて畢公と号せしも、何れの代にか封地をば失へる。三卿の晋を分かちし後に、大梁でわたしひとりが雄を称へり。

それがしは、魏の昭公の太子申。始祖畢公は、文王の第十三子にして、武王の弟。魏の地に分封されたが、そののち職を失った。晋の文公を輔佐したために卿となり、周の威烈王の御代になって、韓、趙の両家とともに日ごとに栄え、ついには晋を滅ぼして、その土地を三分した。今、周の赧王は位におわすが、天下は併さり、七国となり、それぞれ領地に割拠している。わが国は、新たに将軍龐涓を手に入れた。このものは韜略多く、はなはだ優れ、六国の諸侯らを、馬の下にて動かしている。われらはかれを武陰君の職に封じた。かれは父王に、同窓の孫臏というものを推挙した。このものは、鬼神も測り知ることのない機略、文武兼備の器量をもって、龐涓の倍勝れているとか。話しがもしも本当ならば、わが国にとり、大いなる幸いであろう。今、孫臏は招かれて朝廷にいる。父王はそれがしに演武場にいるように仰った。孫臏が到着したら、官職を与え、褒美を取らせることにしよう。鄭安平よ、龐涓どのを呼んできてくれ。

（鄭安平）心得ました。龐元帥さま、公子さまがお呼びです。

（龐涓が登場、詩）生来の性格はもとより妬み深けれど、旅に臨んで誓ひを立つれば、本日は孫臏を推挙して朝に入らしめ、ほかにいかなる計略があるのかを見ん。

それがしは龐涓なり。お師匠さまとお別れし、山を下り、初めは斉に向かへども、かの国は賢者を納めざりしかば、さらに魏の国へ向かへり。その後に、斉の公子は大いなる宴を設け、各国の公子を招き、臨淄に会せり。斉の公子は、わが魏の公子に、辟塵如意珠を求めしも、わが魏の公子は与ふることを承知せざりき。斉の公子は怒りを抱き、魏の公子の還るとき、大将の田忌を遣はし、後を追はせり。魏の公子は、鄭安平を遣はして、田忌と戦はしめしかど、鄭安平は大敗せしかば、それがしは一本の槍、一騎の馬で突撃し、ただ一戦で田忌を生け捕り、六国の公子を駆りて、すべて馬より下らしめたり。それゆゑに、魏の公子は、それがしに武陰君の職を加へて、兵馬大元帥の印を掛けしめたまひたり。孫臏は、別れしときに、兄がもし官職を得ば、弟を引き立てて、弟が官職を得ば、兄を引き立つべしと言ひたり。もし約束を反故にせば、天はその命を厭ひ、牛や馬とし、羊や狗のごとくせんとの誓ひを立てり。わたしは今、公子のもとに、孫臏を推挙せり。公子に見えば、かならずや官職を与へ、褒美を取らせん。はやくも着きたり。

兵士よ取り次げ、龐涓が入り口におりますと。

（兵卒が報告をする）公子さまにお報せいたします。龐元帥が来られました。

（公子）お呼びしてくれ。

（兵卒）お入り下さい。

（龐涓が見える）公子さま、わたくしが推挙しました、孫臏がまいりました。

（公子）今すぐ呼んでまいるのだ。官職を与えて褒美を取らせよう。

（龐涓）兵士よ、孫臏を呼んできてくれ。

（兵卒）孫臏さま、いずこにいらっしゃいますか。

（正末）わたしは孫臏。弟の龐涓と別れてより、はや三年。さいはひに、かのものは前言を忘るることなく、魏公子のもとにわたしを推挙せり。本日は練兵場で、人をしてわたしを招かしめたれば、行くとせん。（龐涓に見える）

（龐涓）いらっしゃいませ。わたくしが公子に推挙いたしましたから、本日は、かならずや重用されることでしょう。兄じゃといっしょに公子に会いにゆきましょう。

（正末）わたしに何の取り柄があって、このように気遣いをしてくれるのだ。（公子に見える）

（龐涓）公子さま、これがすなわち孫臏にございます。

（公子）この方が孫先生か。

（正末）わたくしにございます。

（公子）龐元帥はしばしばなんぢを推挙して、ふかく妙策をば抱き、ひろく兵書を読めりと言へり、これより、なんぢを四門都教練使となさん。恩徳に感謝せよ。

（正末が恩徳に謝し、公子に礼を返す）公子にお礼申し上げます。

（龐涓が背を向ける）孫臏は山から下りてきたばかり、わずかな軍功さえもないのに、かくも大きな官職を加えられたぞ。いずれわたしは立つ瀬がなくなることだろう。初めにわたしが孫臏を推挙したのだと、公子に言おう。このようにするしかあるまい。

（公子に見える）公子さま、わが兄は、兵を並べて、陣を布くのが得意ですから、本日は、練兵場で、軍馬三千騎を与え、幾つかの陣立てをさせ、ご覧に入れるといたしましょう。

（公子）元帥の言うことはとてもよい。孫先生、三千の軍馬をあなたに差し上げますから、練兵場で、幾つかの陣を並べて、わたくしに見せてくだされ。

（正末）かしこまりました。

（龐涓）兄じゃ、陣を布かれよ。

（正末が陣を布く）三軍よ、わが命を聴け。行けといえば行き、止まれといわば止まるのだ、命に違えば、かならずや斬首しようぞ。

（唱う）

【仙呂点絳唇】たとひ相手が蓋世の英雄にして、大勢の兵士を駆るとも、怯ゆるなかれ。もしもわれらと戦を交へば、手の上で赤子をば弄ぶかのごとくせん。

【混江龍】本日は君王に選用せられ、四門団練副元戎とぞ相成れる。練兵場で陣を布き、神通力を示したり。玉籠を用意して、彩鳳を擒にし、金鎖を準備し、蛟龍をしぞ縛るべき。陰では死、生、開、杜[7]を潜め、表では水、火、雷、風を並べたり。馬は虬蒼[8]悪兕[9]のごとく、人は黒煞[10]天蓬[11]のごと。刀を提げて、剣に仗り、箭を插して、弓を張る必要はなし。ただ聴く、われらが陣幕に、画面鼓[12]はとんとんと鳴り、ひらひらと雑彩旗[13]は揺れ、はやくも見たり、四野を掩える征雲は惨惨として、濛濛と天の殺気を下せるを。

（言う）三軍よ、陣を布くのだ。

（兵卒が陣を布く）

（正末）陣ができました。

（公子）龐元帥よ、この陣は、何と呼ばれておるのだ。

（龐涓）鄭安平よ、この陣を存じておるか。

（鄭安平）お見せ下さい。この陣は匾担陣(へんたんじん)と呼ばれております。

（龐涓）匾担陣などあるものか。公子さま、これは一字長蛇陣にございます。

（公子）どのような陣ならかれらを破れるのだ。

（龐涓）わたくしは、二龍戯水陣でかれらを破ります。

（公子）孫先生、破れましょうか。

（正末）破れます。

（公子）ふたたび陣を布いてくだされ。

（正末）心得ました。三軍よ、陣を布いてくれ。陣ができました。

（公子）龐元帥よ、この陣を存じておるか。

（龐涓）鄭安平よ、もう一度見てみてくれ。

（鄭安平）これはわたしがよく知っておりまする。丫髻陣(あけいじん)と呼ばれております。

（龐涓）おまえは明らかに分かっておらぬ。公子さま、これは天地三才陣ともうします。

（公子）どのような陣ならかれらを破れるのだ。

（龐涓）わたくしは、四門斗底陣でかれらを破ります。

（公子）孫先生、破れましょうか。

（正末）破れます。

（龐涓が背を向ける）ちょっと待て。先ほどかれが布いた陣は、すべてわたしが山中で、習ったものだ。わたしが山を下って三年の間に、お師匠さまは、ほかにも何か兵書を教えたのだろう。このようにするしかあるまい。

（公子に見える）公子さま、あの者が先ほど布いた陣は、すべてわたしが知っているもの。あの者は、さらによい陣がございますのに、布こうとはいたしませぬ。公子さま、今、あの者に別の陣を布かせましょう。

（公子）孫先生、先ほど御身が布かれた陣は、みな破ることができるもの、奇とするに足りませぬ。もう一度、陣を布かれよ。もしもふたたび破られたらば、かならず罰せられましょう。孫先生、お咎めになられませぬよう。

（正末）心得ました。弟よ、わたしに陣を布かせるとはな。公子にかように讒言するとは。ほかの陣を布けというなら、わたしはこれより、天書の中から陣を選び出すとしよう。これは九宮八卦陣。九宮の上には九人の天王がおり、八卦の上には八人の那吒[14]がいる[15]。軍馬を並べ、兵卒を一人地に倒し、槍、刀、剣、戟をすべてその兵卒の身に集め、龐涓がこの陣を知っているかを見るとしよう。兵士よ、陣を布いてくれ。（陣を布く）

（正末）公子さま、その陣を布いた将軍をやってこさせて、わたしの陣を見せてください。

（公子）龐元帥よ、この陣は何の陣じゃ。

（龐涓が合図をする）鄭安平よ、この陣を存じておるか。

（鄭安平が見る）数えてみましょう。八つの門がございますな。存じております。元帥さま。この陣は螃蟹陣(ほうかいじん)ともうします。

（龐涓）こら。螃蟹陣などあるものか。

（鄭安平）もう一度見てみましょう。ああ。一人の若い兵士が槍で突き倒されておりますが、これは鑿鼈陣(さくべつじん)と呼ばれております。

（龐涓が背を向ける）そなたが知っておらぬのはもちろんのこと、わしも知らぬわ。ああ、やつはなぜかような陣を布くことができるのだ。知っておりますと言いたいが、わたしはもともと、どのような陣かを知らない。知っておりませぬと言いたいが、公子がこちらにいらっしゃり、諸将も見ている。わたしは元帥なのだから、かれらに笑われてはならぬ。このようにするしかあるまい……（振り向く）公子さま、想うに孫子はまことに無礼にございます。知っているなら陣を布き、知らぬならそれでいいのに、なにゆえにでたらめな陣を布いたのでしょう。わたくしがどうして知っておりましょう。

（公子）孫臏よ。知っているなら陣を布き、知らぬならそれでいいのに、なぜでたらめな陣を布き、わたしを瞞こうとするのだ。

（正末）公子さま、何者がそのように申したのです。

（公子）龐元帥が言ったのだ。

（正末）公子さま、その将軍にわが陣を攻撃させて下さいまし。攻撃をすることができれば、でたらめな陣にございましょうが、攻撃できねば、よい陣にございます。

（公子）龐元帥よ、鄭安平よ、孫臏の話を聴いたか。なんじら二人に、陣を攻撃するように申しておるぞ。

（鄭安平）兄じゃ、この陣は、でたらめな陣なのでございましょう。

（龐涓）弟よ、あの者は、兵法をわたしの前で、ひけらかしたりはしないだろう。安心してゆくがいい。大丈夫だ。

（鄭安平）孫臏さま、陣を攻撃いたします。

（正末）三軍よ、陣を攻撃してくるものは、すぐ縛ってくれ。

（唱う）

【油葫蘆】われわれは網を張り、大虫[16]を打たんとし、誰かなんぢをして将校を突撃せしめん。沙場に殺されたる者の血は、馬の蹄を紅く染むべし。

（鄭安平が陣を攻撃する）兄じゃ、陣中に到りましたが、どうして東西南北が分からなくなったのでしょう。

（正末）何者だ。はやく捕まえよ。

（兵卒が鄭安平を捕らえる）

（正末が唱う）三更に君王の夢に応ぜず[17]、一身はあだに国家の禄を受けたり。わたしはなんぢを馬前に捕らへ、なんぢは本日、掌中に陥れり。何者かなんぢをわたしの迷魂洞に突入せしめし。覚えず怒りは胸に満ちたり。

（鄭安平）軍師さま、憐れと思うてくださいまし。わたしは関係ございません、すべては龐元帥さまのせいなのでございます。

（正末が唱う）

【天下楽】「将軍は、勇気にあらず、謀略が肝要なり」といはれたり。ああ。そのはうは英雄にして、あだに力を用ゐたれども、今、そのはうを捉ふれば、われらに向かひ、何も存ぜぬふりをせり。

（言う）三軍よ、その者の鞍と馬を奪い、衣と鎧を剥ぎとって、逃げられぬようにするのだ。

（鄭安平）馬と鎧を取られてしまいましたから、戻って元帥さまに見えることはできませぬ。

（正末が唱う）錦袍[18]を剥がされて、玉驄[19]を奪はれり。われはいかでか本陣に還るべき。

（鄭安平）軍師さま、お怒りにならないで下さいまし、もとよりわたしは、関係はございません。龐元帥さまがお命じになったことなのです。軍師さま、「殺生は放生にしかず」といいます。わたしをお許し下されば、まことによろしゅうございましょう。

（正末）まことにそちと関係はない。兵士よ、縄目を解いて、追い出してくれ。

（鄭安平）わたくしの馬と鎧を還してください。

（正末）それには及ばぬ。追い出すがよい。

（龐涓）弟よ、どうしてそんな姿をしておる。

（鄭安平）元帥さま、すべてあなたのせいですぞ。でたらめな陣と仰いましたが、その中に入ったとたん、東南西北すべてが分からなくなって、一人の人もいなくなり、どういうわけか捕まえられてしまったのです。わたしは半日哀願し、馬と鎧をすべて奪われ、陣から追い出されたのです。立派なご兄弟ですな。わたしを辱めたのではなく、あなたを辱めたのでしょう。

（龐涓）孫臏め、まことに無礼な。鄭安平をやっつけたとて、おまえはやはり役立たずだぞ。

（鄭安平）元帥さま、強がりはおやめください。陣中にゆくとすぐぼんやりとして、かれに捕まえられたのです。

（龐涓）鄭安平よ、孫臏が兵書に書かれた策略をわたしのもとでひけらかすのは、水を担いで河の中へと売りにゆくようなもの。わたしは今から、陣を攻撃しにゆこう。もしその陣を攻撃できれば、大将軍の八面の威風[20]を示すことができよう。（背を向ける）ちょっと待て。わたしは今から、陣を攻撃しにゆくが、捕まえられたら、どうしよう。このようにするしかあるまい。陣を攻撃するときに、先に一声龐元帥が陣を攻撃しにきたと叫ぶとしよう。兄じゃはわたしが陣を攻撃するのを聴けば、かならずや手心を加えられ、捕まえようとはなさらぬだろう。（叫ぶ）龐元帥がみずから陣を攻撃しにきたぞ。

（正末）三軍よ、しっかりと陣を布くのだ。

（龐涓）太鼓をたたけ。（陣に入る）まことにおかしい。わしも東南西北が分からなくなってしまったわい。

（正末）陣を攻撃した将軍を、捕まえてくれ。（衆が捕らえる）

（正末が唱う）

【酔中天】軍馬を馳するは誰かと思へば、弟の錦営[21]に突撃するなり。でたらめなわたしの戦はもとより巧みなものにはあらず。

（龐涓）兄じゃ、わたくしを許してくだされ。

（正末が唱う）陣に突撃してきたりしに、なにゆゑぞいそいで詫びたる。

（兵卒が推す）

（正末）待て。

（唱う）前後より押し寄する、かの兵士たちを見よかし。

（龐涓）あな恐ろしや。

（正末が唱う）はやくも驚き、ぶるぶるとして頭は疼けり。弟よ、そなたはこう言わなかったか。

（龐涓）兄じゃ、わたしが何かもうしましたか。

（正末が唱う）大将軍の八面の威風とはよくぞいひたる。

（龐涓）ほんとうに恥ずかしいこと。兄じゃ、七国で優れた者はわたしのみ、六国はみな進貢し、わたしを恐れておりました。あにはからんや、兄じゃのすぐれた策略は、神業で、本日は、陣中で捕まってしまいました。どの面提げて、また兵を駆り、将を率いることができましょう。丈夫(ますらお)はむしろ死んでも辱められぬもの。仕方ありませぬ。兄じゃ、ねんごろに魏を輔佐してくだされ。わたしは靴、笏、襴、袍を蔵い、釣り竿を用意して、魚を釣って生活し、とこしえに名利を争う心を棄てるといたしましょう。わたしは罪を認めましょう。（跪く）

（正末）弟よ、それは間違いだ。

（唱う）

【後庭花】兄弟が心を同じうすることをわれは喜ぶ。なれはただ釣り竿を執り、釣する翁となるを願ひて、この軍権を握りたる燕の孫臏[22]に哀願したり。

（言う）弟よ、立つがよい。

（唱う）立つがよい、熊にあらざる姜太公よ[23]。かの宮殿の庭に到らば、兄弟の情の重きをいかで忘れん。

（龐涓）兄じゃ、公子から尋ねられたら、兄じゃが優れ、弟が劣っているとは仰らず、われら二人の布く陣は、同じだと仰って下さいませ。

（正末）弟よ、分かっておる。

（唱う）わたしはやんごとなき方々に嘘をばつかん。

（龐涓）兄じゃ、わたくしがみな悪うございました。どうか兄じゃには、われらが昔、親友であったことを想いおこしてくださいまし。このたび兄じゃを推挙したのも、誓いを忘れなかったからです。誰が負け、誰が勝ったか公子が問うたら、うまいこと仰ってくださいまし。

（正末）弟よ、安心してくれ。いっしょに公子に会いにゆこう。

（公子）孫先生、お尋ねしますが、御身らは陣を布かれて、どちらが負けて、どちらが勝たれたのでしょうか。初めから本当のことを話してください。

（正末）公子さま。わたくしと元帥どのは、鬼谷先生の弟子であり、同じ教えを受けたものではありますが、それぞれに機略を用い、元帥どのもわたくしの策を知らないことがあり、わたくしも元帥どのの策を知らないことがあり、いずれも同じにございました。

（公子）そうはいっても、やはり勝ち負けはあったでしょう。（正末が唱う）

【金盞児】公子は逐一事情を問はれど、われら兄弟はこつそりと示し合はせり。まことにわが意を躊躇せしめて、二人はともに応(いら)へし難し。話さざらんと欲すれど、いかで主人を誑かすべき。話さんと欲すれど、わたしはかれと書窓にて最も親しき仲なりしかば、いかで官路に相容るることなかるべき。

（公子）孫先生、どうして黙っていらっしゃる。

（正末が唱う）胸一杯の事どもは、すべて無言の中にありとはまさにこのこと。

（公子）孫先生、先ほど陣を布かれた時に、いったいどちらが負けてどちらが勝ったのでしょうか。

（正末）公子さま、わたしの話をお聴きください。

（唱う）

【賺煞尾】わたしはかれと十年間、兵書を習ひ、幾たびもよく暗誦したりき。八卦の陣は縦横に窮まることなく、七国の江山を君王にひとり統べしめ、たとひ六丁神さえも、かれを駆り、天宮を下らしむべし。五方幢(ごほうどう)[24]は、揺れ動くこと風のごと、四方には兵戈を布きて、いささかの隙間さへなし。三軍はかくも多ければ、われら二人は何事もなすを得ず。

（公子）お二人に優劣がないわけはございますまい。

（正末が唱う）二人はいづれも談笑しつつ功を立つべし。

（龐涓とともに退場）

（公子）二人は行ってしまったわい。部下よ、馬を牽け。父王さまに報告をしにゆこう。

（詩）先ほど二人の将軍は、戦場(いくさば)で雌雄を競ひたりしかど、いずれも同じ妙策を持ち、優劣はなし。龐涓は一本の天を支ふる白玉柱、孫臏は一本の海に掛かれる紫金梁なり。（退場）

 

 

楔子

（鬼谷子が童子を連れ登場、詩）暑さは去りて、寒さは来たりて、春また秋、夕陽は西に沈みゆき、水は東に流れたり。将軍戦馬は今いづこ。野草閑花は満地に愁へり。

わたしは鬼谷子。龐涓は魏国に赴き、武陰君の職を授かり、孫子を推挙し、山を下りさせ、いずれも官となろうとしている。その顔色を観てみたが、ゆけばかならず災難があることだろう。祭壇を設け、藁人形を縛りつけ、壇に登って、諸天の神を招きよせ、吉凶を伺えば、事情が知れることだろう。童子よ、祭壇は設けたか。

（童子）軍師さま、祭壇はとうに準備ができております。

（鬼谷子）真香[25]を燃やせば、瑞霧は飄飄たり。宝篆[26]は高く昇りて、上つかた雲霄に達したり。法鼓[27]をば三たび鳴らせば、万聖は来朝したり。謹んで招けるは、玉清聖境元始天尊、三省六曹、左輔右弼、南辰北斗、東極西霊、十二宮辰、二十八宿、九天游奕使者、三界直符使者、十方捷疾霊神、本山の土地[28]、当地の城隍、空虚典祀、社廟の威霊は、召喚を聞き、すみやかに祭壇に至るべし。（令牌を撃つ）一たび撃たば天は清く、二たび撃たば地は優れ、三たび撃たば五雷を招き、万神は命令を聴く[29]。九宮八卦部中の神[30]と十二元辰位中の将[31]をふたたび招けり。（踏罡(とうこう)[32]、咒水[33]の仕草をする）水に正しき動きはなきも、咒(じゅ)によりて霊力を持つ。天(あめ)にありては雨露となり、地(つち)にありては泉源となる。一吹きすれば霜の如く、二吹きすれば雪の如く、三吹きすれば天地は清らか。（剣を取る）庚辛[34]をもて体を鋳、離火[35]をもて形を鍛へ、玉清教主[36]が賜はりて、有道の真人の駆使したるなり。まづは五方の五帝を招き、符を銜み、剣を佩び、わが水中に入らしめん。われが持ちたるこの水は尋常の水にはあらず。九龍は吐き出し天地を浄め、太乙池中に千万年あり、われは今、持ちきたり、吉凶を調ぶべし。ねんごろに四直功曹をお招きし、神剣を抛てば、寸毫も過つことはなかるべし。

えいっ、童子よ、剣は藁人形のどこに落ちた。

（童子）軍師さま、剣は藁人形の足に落ちました。

（鬼谷）ああ。孫臏はかならずや足斬りの災に遭い、命は損なわれないだろう。想えばかれが旅に出る日に、わたしはかれに一計を与え、災いに遭った時、逃げれられるようにさせたのだ。

（詩）孫臏の機略に敵ふものなきに、龐涓は空しく悪しき心を使へり。かれら二人の足斬りの仇は何れの日にか報いん。かならず馬陵山麓に身は亡ぶべし。（退場）

（龐涓が鄭安平とともに登場）

（龐涓）「恨みがなくば君子にあらず、毒なくば丈夫(ますらを)ならず」。それがしは龐涓だ。想うに、孫臏はけしからん。わが旧友でありながら、わたしが過ちを犯すや、容赦せず、陣中で捕まえた。あまたの言葉を費やそうとも、怒りを鎮めることはかなわぬ。

（鄭安平）わたしはもとより役立たず、ご自分で計画をお立てください。

（龐涓）このようにするほかあるまい。鄭安平よ、いつわって魏公子の命を伝えよ。孫臏に、今晩三更三点に、熒惑(けいわく)[37]が位地を離れるから、三百三十騎の人馬を率い、紅袍、紅旗のいでたちで、宮門の外に行き、三本の矢を連射して、銅鑼を鳴らして、太鼓を叩き、喊声を挙げ、旗を振り、火星を鎮めるようにと知らせよ。ぬかりなくするのだぞ。

（鄭安平）心得ました。元帥さまの命令を受け、孫臏に知らせにゆくといたしましょう。（退場）

（龐涓）鄭安平は行ってしまった。孫臏はかならず命に従うだろう。公子は聴いたら、きっと大いに驚かれよう。公子がわたしに問われたら、孫臏に謀反の心があると言おう。公子はかならずあいつを殺されるであろう。その時はわが平生の願いは叶うことであろう。（退場）

（鄭安平が登場、古門に向かって言う）孫先生、公子さまのご命を奉じ、今日の晩、三更の終わる頃、兵士を率い、銅鑼を鳴らし、太鼓を叩き、喊声を挙げ、旗を振り、王宮の入り口に、三本の矢を連射して、火星を鎮められてください。細心になさってください。（退場）

（正末が兵卒を連れ登場）それがしは孫臏だ。公子の命を奉り、人馬三百二十騎を引き連れて、王宮の入り口に、火星を鎮めにゆくとしよう。はやくも着いたぞ、兵士たちよ、銅鑼を鳴らし、太鼓を叩き、喊声を挙げ、旗を振り、王宮の入り口に向け、三本の火箭を連射し、三回鬨の声を挙げ、火星を退けてくれ。（射る）（唱う）

【仙呂賞花時】勅を奉じて士卒を統ぶるは、熒惑が星宮を抜け、位地をば離れたればなり。帝闕を望み、皇都に近づき[38]、三本の矢をつづけて放ち、あつといふ間に火星を除けり。（退場）

 

第二折

（魏公子が兵卒を率いて登場）それがしは公子魏申。まことにおかしい。昨夜三更三点に、何者かが銅鑼を鳴らし、太鼓を叩き、喊声を挙げ、旗を振った。さらに火箭数本が、まっすぐに宮中に射込まれたのは、なぜだろう。部下よ、いずこぞ。龐元帥を呼んできてくれ。

（兵卒）龐元帥どの、いずこにいらっしゃいますか。

（龐涓が登場）まさに公子の呼ぶを聞く、孫臏がわたしの計に嵌まったのだろう。公子がわたしに問われた時に、手を打とう。（公子に見える）

（公子）元帥よ、昨晩の三更に、宮門の外で銅鑼を鳴らし、太鼓を叩き、喊声を挙げ、旗を振り、幾本かの火箭を射てきたのはなぜだ。

（龐涓）公子さま、これはみなわたくしの罪にございます。孫臏は、公子さまから四門都練使を授かりましたが、官位の低いのを嫌い、夜中に兵卒たちを率いて、銅鑼を鳴らして、太鼓を叩いたのでございます。かならずや謀反の心がございましょう。

（公子）そういうことなら、仕置場を建て、なんじを監斬官としよう。孫臏を斬りおわったら報告するのだ。（退場）

（龐涓）かしこまりました。部下よ、鄭安平を呼んできてくれ。

（鄭安平が登場）元帥さま、わたくしを呼ばれましたは、何のご用にございましょう。

（龐涓）鄭安平よ、このたび、公子は孫臏を殺されようとし、わたしを監斬官となされた。わたしは孫臏とは同窓の友人だから、刑を施すわけにはゆかぬ。そのほうを立ち会わせよう。本日すぐさま仕置場を設けるのだ。殺すときは、わしが来て、話をしたら、手を下すのだ。気を付けるのだぞ。（退場）

（鄭安平）執行官はどこにいる。通りを遮断し、孫子を捕らえてきてくれ。

（執行官が登場）心得ました。

（正末を捕らえて登場）

（鄭安平）孫臏よ、罪を認めるか。

（正末）わたくしは罪を認めぬ。

（鄭安平）なぜ罪を認めないのだ。昨夜の三更、兵士を率い、宮門の外で、銅鑼を鳴らして、太鼓を叩き、喊声を挙げ、旗を振り、幾本か火箭を連射したのは、明らかに魏に反抗する心を持っていたからだろう。公子の命で、なんじを殺すことにしようぞ。

（正末）ああ。罠に嵌まってしまった。どうしたらいいのだろう。

（唱う）

【正宮端正好】禍が降りかかりたりしかば、誰かはわれを救ふべき。拙き命はまもなく絶ゆべし。何人(なんぴと)かなれをして三本の矢を三更の後に連射せしめし。ああ、命令を伝へし者を追究すべし。

【滾繍球】われはまことに国を憂へて、数年間、知己との厚き交はりのありしかば、六国の諸侯を併呑せざることこそうれたけれ。江山天地、士女軍州[39]を、みなわが国に受けしめんとす。いかで知るべき、運の拙く、志の酬はれ難きを。ああ。孫臏よ、もしもなんぢが讒言に遭ひたるならば、それに感じて、地に満つる野草閑花はみな愁へ、いずこにありても狐が丘に頭(かうべ)を向けん[40]。

（鄭安平）孫臏よ、立派な顔をしているくせに、このような事をするとは。自らの罪を認めよ。これ以上何を申すか。一言申さば鋼の刀で口を裂き、金瓜で頭を碎いてやろうぞ。執行官は刀を鋭く磨きあげ、午の時、三刻になったら、殺すがよいぞ。

（正末が唱う）

【倘秀才】ああ。一言話さば鋼の刀で口を裂かれて、金瓜に頭を砕かれん。わたくしは一朝にして身は滅び万事休せん。金鼓を鳴らし、戈矛(かぼう)[41]を率ゐるべきではなかりき。

（言う）わたしにはもとより罪がございませぬのに、どうしてわたしを殺そうとなされるのです。

（唱う）これがわたしの罪状なり[42]。

（鄭安平）孫臏よ、心安らかに死を受けいれよ。大騒ぎすることはあるまい。

（正末が唱う）

【滾繍球】この仕置場は御溝に近く、鳳楼に対したり。

（言う）冤罪にございます。

（唱う）さんざんに不平を鳴らせど、取りなしをする者こそなけれ。目を見開けば、国はあれども身を寄せ難し。無理やりに調羹(ちょうかん)補袞(ほこん)[43]のわが手を縛り、不平を鳴らせる口を掩へり。すべては自業自得なり。他人が仇をなしたるがためのみならず。哀しいかな。故国を見返ることはかなはず。これぞまさしく、悲しみは無理に山より出でしため生じたるなり。たとひ死すとも何をか求めん[44]。

（龐涓が登場）鄭安平をかわりに監斬官として、仕置場を設け、孫臏を殺すとしよう。これより、仕置場に行くが、知らぬふりをし、儀仗を並べ、ゆっくりと行くとしよう。わたしは朝廷で功績のある者だ。今日は黄の封の御酒を十瓶敕賜され、幾杯か飲み、まことに楽しい。

（唱う）今晩、酒の醒むるは何れの処なるべき。楊柳の岸、明けの風、残んの月。

（正末）龐涓が来た。あいつがわたしを殺そうとしていることはよく分かっている。あいつにわたしを救わせよう。わたしが旅に出るときに、お師匠さまは一計を授けてくれた。禍が降りかかったとき、「今晩、酒の醒むるは何れの処なるべき、楊柳の岸、明けの風、残んの月」と唱った人に、胸中の事を訴えれば、死なないですむだろうとのことだった。今、話さねば、ふたたび機会はないであろう。街の左右の人々よ、死ぬのは大したことではないが、わが腹中の六甲天書を、人に伝えていないのは、惜しむべきこと。人がわたしの命を救えば、書き写し、かれに与えて、決して隠しはせぬものを。

（龐涓が驚く）ああ、お師匠さまはほんとうにひどいお方だ。六甲天書をあいつに伝え、わたしに伝えた天書は偽物だったのか。わたしは今、ひとり六国に霸を唱え、敵はない。さらに天書を手に入れれば、わたしに敵うものはあるまい。その昔、あいつが陣を布いたとき、わたしはそれを知らなかったが、あれはあきらかに天書から引き出したもの。あの者を殺したら、天書は絶えてしまうだろう。わたしには妙計がある。あいつの天書を騙し取ろう。

（執行官）午の時三刻になったから、刀を抜こう。

（龐涓）誰を斬るのだ。

（執行官）孫臏を斬るのです。

（龐涓）孫臏だと、ひとまず助けよ。（悲しむ）兄じゃ、どうなされたのです。

（正末）弟よ、わたしが死刑になるわけを知っているだろう。

（龐涓）事情を知っていましたら、この命は、灯(ともしび)とともに消ゆべし[45]。兄じゃ、いったいどうなされたのです。

（正末が唱う）

【白鶴子】かれはいそいでわたしに尋ね、わたしはかれにいそいそと事情を話せり。

（龐涓）兄じゃ、わたしが事情を知っているなら、この命は、灯とともに消えましょう。

（正末が唱う）思ふにかれは泪を含み、苦し気に慈悲深き振りをして、灯を指さし、誓ひを立てり。

（言う）弟よ、どうかわたしを救ってくれ。

（龐涓）兄じゃ、わたしは今から、公子のもとに赴き、話しをいたしましょう。もし救われても、喜ばれてはなりませぬ。救われなくても、悲しまれないでくださいませ。執行官よ、ちょっと待て。公子に見えて帰ってきたら、ほかのご沙汰があることだろう。（背を向ける）かれの命を救っても、天書を写さず、こっそりと抜け出されたら、捜し出すことはできまい。わたしは今から、かれを殺そうとはせぬが、かれを逃そうともしない。天書を写したそのときに、処刑したとて、遅くはあるまい。（退場）（ふたたび登場）わたしは今から、詐って公子の命を伝えよう。首斬りを免れさせて、両足を斬ることにしよう。兄じゃ、わたしがまいりました。

（正末）弟よ、何と言っていた。

（龐涓）兄じゃ、一言では言い尽くせませぬ。（龐涓が悲しむ）

（正末が唱う）

【脱布衫】さまざまな機略をそなたは探し出だせりと思へど、千種のつまらぬ愁へを招けり。昔日の同窓の友人なれば、ねんごろに心を尽くして救ふにいかで吝かなるべき。

【酔太平】ああ弟よ、問はれて口を鎖ざせるは何ゆゑぞ。許されたるか、許されざるか、はやくはつきり話すべし。許されたるか、許されざるか、すぐに事情を話すべし。まことに推し量るは難し。かれは自ら手足を打ちて悲しみて、両眉をしぞ顰めたる。

（龐涓が悲しむ）

（正末が唱う）英雄の眼に泪は流る。とくとく話せ、弟よ。

（龐涓）執行官よ、孫先生の縄目を解くのだ。魏公子さまの命令により、斬罪を免れさせよう。

（正末）空しくわたしを驚かす。本当に世話になったな。弟よ、命が助かり、まことによかった。

（龐涓）兄じゃ、喜ばれてはなりませぬ。両脚をお斬りしなければなりませぬ。

（正末が唱う）

【倘秀才】仕置場であたふたと頓首して、仁義を行なふ万寿の君に拝謝せん。

（言う）わたしの命は喩ふれば、

（唱う）鼈魚の釣りて鈎を離れしごときなり。ただ身命を留め得ば、これこそ天の守りたまふなれ。

（龐涓）あちらの家では、茶や酒、食事を用意して、兄じゃを待っておりまする。

（鄭安平）わたくしも連れてゆき、一杯飲ませてくださいまし。（ともに退場）

（執行官）孫先生、元帥さまは向こうへ行かれてしまわれました。お尋ねしますが、御身は気が違われたのですか。お二人の恨みははなはだ深いもの。御身を殺そうとしたのは元帥さま、救おうとされたのも元帥さま、足を斬ろうとされたのも元帥さまだということは知らぬ者とてございませぬ。龐元帥はお命を奪おうとしておりますから、注意なされよ。

（正末）黙れ。

（唱う）

【滾繍球】口に任せてでたらめを言ふなかれ、

（執行官）嘘は申しておりませぬ。

（正末が唱う）ひたすら話してやむることなし。幾たびも考へし後、話したるべし。わが弟はまことを申したるにはあらず[46]。

（言う）われら二人は誓いを立てたに、

（唱う）かれはわたしを豚、狗のごとく損なへば、わたしはかれを馬、牛のごとく傷つけん。われら二人は天に向かひて誓ひを立つれば、弟が火に油を注ぐはずもあるまじ[47]。われら二人は管鮑の分金の義に勝るべし。孫、龐の足斬りの怨恨が、万代に名を留めんと思ふをやめよ。

（龐涓）鄭安平よ、魏公子さまはあちらにて、報告を待っていらっしゃる。執行官よ、近う寄れ。足を斬る時、わたしが軽くせよと言っても、重くして、わたしが浅くせよと言っても、深くするのだ。執行官よ、銅の押し切りを持ってきて、はやく手を下すのだ。

（執行官）心得ました。孫臏どの、おみ足をお出し下さい。

（龐涓）軽くするのだ。（さらに言う）浅くするのだ。

（執行官が足を斬る）

（正末）ああ痛い。

（龐涓）酒をもて。兄じゃ、しっかりなさってください。香わしい三杯の安魂酒を用意しました。飲めば痛みが収まりましょう。

（正末が唱う）

【二煞】香はしき三杯の安魂酒を飲み、なんぢのために血の滴れる両脚の指を損なはれたり。刀が落つれば、鼻は痛みて、心は悲しみ、皮は開きて、肉は綻び、筋骨は相離れ、鮮血は流れたり。ああ、なにゆゑぞ、神鬼は哭きて、雲霧は昏く、白日は薄暗き。耳もとにただ聴くは、半空(なかぞら)に風の吼えたる。天地(あめつち)の人に替はりて荒ぶりたるにや。

（龐涓）兄じゃ、馬に乗られてはなりませぬ。恐らくはその穢れにあてられ、兄じゃの傷が治らないことでしょう。鄭安平よ、兄じゃを背負っていってくれ。

（正末が唱う）

【煞尾】弟よ、功名は成るときは成るものなれば、わたしは休むべき時は休まんとせり。傷を癒さば海上[48]に游び、耳を洗ひて許由を求め、太公に学び釣針を執り、范蠡の一隻の舟を逐はんとす。想うに栄華は風の中なる燭(ともしび)にして、富貴は水面(みなも)の泡にぞ似たる。名と利を帳消しにして、ふたたび人を殺す場で災禍を招き、むざむざと命を棄つることはなからん。眉を蹙めて、眸を動かすことは懶く、歯咬みして、とりあへず恥を忍んで、足の上(へ)にひたひたと血の流るるを堪(こら)へ忍べり。ああ、執行官どの、まことに酷きなされやう。（退場）

（龐涓）孫臏よ、わたしから逃れることはできまいぞ。部下に背負わせ、わたしの書房につれてゆき、食事を用意し、食べさせて、文房四宝を用意して、天書を写させるとしよう。朝に天書を写したら、朝に殺して、晩に天書を写したら、晩に殺そう。草を刈り、根を除き、芽の出ぬようにせねばならぬ。何ゆえかように言うかといえば、日頃から、両の眼で、このような仁義ない、悪党を見ることをことさら嫌うているからだ。（退場）

 

第三折

（龐涓が登場）それがしは龐涓じゃ。孫子の両脚を斬りてより、はや半年余り。天書の抄写は、もうすぐおわろうとしている。まもなくあいつは殺されるのだ。人を見にゆかせたが、今になってもどうして報せがないのだろう。

（兵卒が登場）元帥さまにお知らせします。孫臏は天書を書いておりましたが、途中で発狂、天書を手で半分に引きさき、口で半分に咬みきり、灯りで半分を焼きました。昼は子供とともに遊んで、晩には、羊や犬といっしょに眠っております。打っても、罵っても気付かず、ほんとうに気違いにございます。

（龐涓が笑う）あいつはどうしてわたしを瞞くことができよう。あきらかに、天書を伝えることを望まず、ことさらに気違いのふりをしているのであろう。それを見破るのに、何も難しいことはあるまい。部下よ、近う寄れ。一つのことを命じよう。片手に饅頭(マントウ)、片手に蓮の葉を持って、汚穢を包め。あいつがもしも気違いの振りをしていれば、饅頭(マントウ)を食べ、本当に気違いならば、汚穢を食べることだろう。もしもまことの気違いならば、死んでいようと生きていようと構わないから、とどめ置くことはない。ぬかりなくするのだぞ。

（兵卒）心得ました。

（龐涓の詩）孫臏は痴れたるふりをしたるべし。飲食を見ば明らかならん。

（兵卒の詩）汚穢を食らひ、口を汚さば、天書をいかに読まんとも効き目なからん。（ともに退場）

（外が卜商に扮し、従者を連れ、茶を載せて登場）わたしは斉の上大夫卜商なり。今は大周の天下なれども、春秋の七国があり。すなはち秦、斉、燕、趙、韓、楚、魏なり。七国の中、そのかみは強秦、雄楚と称せられ、われわれの全斉とともに、上国[49]なりき。最近、魏国は龐涓を頼りにし、隣国をしばしば侵せり。われら六国はやむを得ず、年ごとに進貢し、盟約したりき。わが斉国は、本年は茶を献ぜざることを得ざれば、わたくしを魏へと入らしめ、貢車五十余輌はすべて上等の茶をぞ積みたる。わたしは近頃、龐涓が孫臏を呼び、山より下らしめたることを耳にせり。かれらはともに魏国を扶くることを望めど、その後に、孫臏が兵を列ねて、陣を布き、龐涓を捕らへしにより、仇同士と相成れり。龐涓は公子のもとへ、孫臏が魏に背く心を持てりと讒言し、縛りあげ、仕置場に赴かしめたり。孫臏は刑に臨みし時に、死ぬるは大したことにはあらねど、胸中の三巻の天書をば、人に伝ふることなきは、惜しむべしとぞ称したる。龐涓は天書を書き写させんとし、にはかに死刑を免れさせて、両脚を斬り、家の中にぞとどめ置きたる。あにはからんや、孫臏は発狂し、写したる天書をば半分に裂き、口をもて半分に咬みちぎり、火をもて半分をば焼けり。昼間は子供とともに戯れ、晩には羊や犬と眠れり。想ふにこれはかならずや偽りなるべし。今日、わたくしは魏国に赴き、茶を献じ、駅亭で休むべし。進貢の際、いささかの閑あらば、こつそりと様子を伺ひ、孫子がまことに気違ひならば、詮方なきも、もし嘘ならば、知略を用ゐ、かれを救ひて魏国を出でしめ、わが斉国に至らしめ、主君に奏し、拝して軍師となすとせん。一つには孫臏をして足を斬られし怨みに報いしめんがため、二つには六国の進貢の恥を雪がんがため。こは莫大の功績ならんや。

（詩）われはもともと孔門の高弟にして、斉国に来て使臣となれり。気のふれし孫臏を訪ねいださば、副(そ)への車を用意して、渭川の人を載せんとぞせる[50]。（退場）

（正末が気の触れた振りをして這って登場）笑うな。笑うな。いっしょに遊びにゆくとしよう。ここにはほかに誰もおらぬ。わたしは孫臏。お師匠さまにお別れし、山を下って、魏に行くと、公子はわたしに陣を布かせた。はからずも、龐涓は公子のもとに讒言し、わたしの両の脚を斬った。今は狂った振りをして、昼は子どもと戯れて、晩には羊や犬といっしょに眠っている。いつになったら日の目を見るやら。

（唱う）

【双調新水令】ゆるゆると画橋の西に至りたり、あたかも籠を出でたる鷹の両の翼を剪られしがごと。みづから羽の短きことを知りたれば、天を撲ちつつ飛ばんとはせず。唖、気違ひを装へど、幾そたび眼(まみ)の泪はせきあへず。

（言う）こうなることが分かっていれば、山から下りなければよかった。

（唱う）

【歩歩嬌】想へばむかし、雲夢山で天書を習へば、将相を得るはまことにたやすからんと思ひなせども、誰か知るべき、むざむざとわが七尺の躯をすつかり損なはれんとは。ああ、天よ、何れの日にか風雷[51]を遂げ、三千丈の虹霓の気を吐くを得ん。

（子役が登場）気違いよ、わたしの饅頭(マントウ)が見えるか。

（正末）饅頭(マントウ)をちょうど食おうとしていたのです。持ってきてくださいまし。

（正末が饅頭(マントウ)をもらおうとするが、子役は与えない）

（唱う）

【沈酔東風】なんぢらは遊び戯れ、にこにことしたれども、わたしのごとき益荒男は、なんぢらといかでか歩むことを得ん。子どもらよ、饅頭(マントウ)を食べさせよかし。

（子役）気違いめ、遊んでみせてくれぬなら、饅頭(マントウ)を食わせてやらぬぞ。

（正末が唱う）諺に「口に尊卑はなし」[52]とぞ言へる。

（子役）気違いめ、この饅頭(マントウ)を投げるから、もし追いついたら、食わせてやろう。追いつけないなら、三つの拳固を食らわせてやる。

（正末）饅頭(マントウ)を追い掛けましょう。追いつけたら食べ、追いつけなければ、三つの拳固を食らうとしましょう。

（子役）饅頭(マントウ)を投げるぞ。

（正末が追い掛ける）

（子役が打つ）

（正末が唱う）饅頭(マントウ)に追ひつけずんば、飢ゑを我慢せざるを得ず、

（言う）饅頭(マントウ)は食らえずに、一しきり打たれてしまった。

（唱う）ああ。これぞまさしく、足の短き先生の、なれの果てなり。

（兵卒が小道具を持ち、登場）元帥さまのご命を奉じ、饅頭(マントウ)と汚穢を持って、孫臏を尋ねてゆこう。あいつだな。どうして子どもがここにいるのだ。（子役を打って退場させる）

（正末が唱う）

【撹筝琶】一人の悪しき公吏を見たり。一声叫べば春雷のごと、遊びたる腕白小僧を脅かす。子供らはたちまちにいづこにか隠れたる。

（兵卒）気違いよ、脚の傷みは、もうよくなったか。

（正末が唱う）わたしに傷を問ひたれば、わたしも両の眉を蹙めり。

（悲しむ）まことに痛うございます。まことに痛うございます。

（唱う）あな悲し。くだくだと話しをし、無理にひつぱらるるなかれ。痛みを御身はご存じのはず、疑ひたまふことなかれ。

（兵卒）気違いよ、わしが手に持っているものを見よ。

（正末）饅頭(マントウ)でございましょう。

（兵卒）これは何だ。

（正末）わたしが知らぬとお思いでしょう。これは糕糜(こうび)[53]にございます。

（兵卒）饅頭(マントウ)を食うのがよいか、糕糜を食らうのがよいか。

（正末）糕糜を頂くことにしましょう。

（兵卒）糕糜を食らえば、病を発し、体を悪くすることだろう。

（正末）とにかく糕糜を食らいたく思います。

（唱う）

【雁児落】わたしはつねに空き腹をしぞ抱へたる、

（兵卒）このようなよい食べものを見たことはないであろう。

（正末が唱う）よき食べ物を味はひしことぞなき。わが脚に病はあれど、

（兵卒）食べるのはやめよ。出来物ができようぞ。

（正末が唱う）わが胸に閑気はなし。[54]

（小道具を持ち、食べる）（唱う）

【得勝令】それゆゑに、冷たき糕糜を恐るることなし。

（兵卒）本当に気違いだ。元帥さまにご報告しにゆこう。（退場）

（正末が唱う）わたしが一口食らふを見れば、走ること飛べるがごとし。気違ひの振りをしたれば、いささかの汚れたるものを食らへり。わたしは知らずに、かれの食事を食らはんとせしにはあらず。龐涓の策略を用ゐしことを明らかに知りたればなり。日も暮れたれば、ふたたび羊小屋にゆき、休むべし。

（小屋に入り、言う）わたしは遊びにいってきた。人は眠りについたから、わたしも眠ることにしよう。（眠る）

（卜商が登場）わたしは卜商、魏国に到り、茶を献じおえ、今は、宿駅に泊まっている。孫子を見たが、ここ数日は暇を得ぬので、話をしにくることもなかった。今日はまた日もすがら、後をつけたが、孫子は今、羊小屋に行き、休んでいる。看れば日はすでに暮れ、辺りには人もおらぬ。まっすぐに羊小屋へとついてゆき、二句の詩を詠み、孫子をからかい、何を言うかをみてみよう。

（詩）美玉は頑石と並びて、真珠は汚泥に塗(まみ)れたり。

（正末が驚く）これはわが魏国の人の言葉ではないか、もう一度聴いてみよう。

（卜商がまた唱える）

（正末が答える）手づから軽く洗いなば、色は万里に輝かん。

（卜商）明らかにこの人はほんとうの痴れ者ではない。とりあえずもう一度、何を話すか聞くとしよう。

（正末）ここにはわたしを救おうとする人がいるのだろう。一首の歌を作ってみよう。

（歌）亭亭たる百尺の半死の松は、まつすぐに白日と晴空を凌ぎつつ懸かりたり。翠葉(みどりば)は毿毿(さんさん)[55]として彩鳳を籠め、高枝(たかえだ)は曲曲として蒼龍を蟠らしむ。天と地に三光は照らせども、なほも深山(みやま)の中にて枯れたり。いかんせん、樵夫(きこり)には耳目なく、手に巨斧を携へて木を摧(くだ)きたり[56]。崖に臨める棟梁の材を切り倒し、薪(たきぎ)となして人に鬻げり。笑ふべし、笑ふべし、毎日ひたすら街頭で騒げるを。浅き波間に錦鱗の魚をば養ひたれど、釣り糸を垂るる人ぞなき。空しく愁へ、空しく悲しみ、動かばひたすら天地の狭きことを厭へり。風雷に遇ふ時あらば、蛟龍とともに滄海をしぞ掻き混ぜん。

（卜商）この人の考えは、すでにみな示されている。わたしは小屋に飛び込むとしよう。孫先生、大騒ぎなさらないでください。わたくしは斉国の卜商で、あなたを救いにきたのです。

（正末）子夏どのでございましょう。

（卜商）左様です。

（正末が唱う）

【掛玉鈎】わたくしが正直に御身に話さば、かならずやその趣旨を解せらるべし。

（卜商）先生、わたしといっしょに宿駅に行かれてはいかがでしょうか。

（正末）先に行かれてくださいまし。後からすぐにまいりましょう。

（卜商）わたしといっしょに行かれないのは、いったいなぜです。

（正末が唱う）路行く人の口の碑に勝らんことをわれは恐れり。

（卜商）先生、わたしはわざと御身を騙しにきたのではございませぬ。

（正末が唱う）われら二人は心を通ひあはせたり。

（卜商）わたしが参りましたのは、ひとえに御身のためであり、ほかとは関わりございませぬ。

（正末が唱う）わたしのために来られたのなら、避けられよ。ひとまず離れ離れとならん。

（卜商が前になり後ろになりして到着する）

（卜商）はやくも宿駅に着いたぞ。この門を閉じるとしよう。先生、大騒ぎなさいませぬよう。人に気付かれましょうから。食事をもってまいりますから、お食べください。

（正末）龐涓め、おまえはわたしといっしょに学び、筆を動かし、書を書き写し、ともに十年余りを過ごしたというのに、誰か想わん、かように凶悪だったとは。

（龐涓が兵卒を連れて登場）わたしは龐涓、孫臏はけしからん。気違いの振りをして、そのまま逃げた。わたしは将星[57]が宿駅に落ちるのを見た。三軍よ、この宿駅の周囲をおさえよ。部下よ、卜商を呼び出してくれ。

（兵卒）心得ました。

（卜商）先生、どういたしましょう。龐涓が宿駅の入り口におりまする。どういたしましょう。

（正末）わたしに構われないでください。かれらの相手をなさってください。（隠れる）

（卜商が龐涓に見える）元帥さま、わたくしを呼ばれましたは、何ゆえにございましょう。

（龐涓）卜商よ、小国の臣下のくせに、孫臏をこの宿駅に蔵すとはけしからん。正直に、おるかおらぬか申すのだ。

（卜商）かねてより孫臏などは存じませぬ。

（龐涓）おらぬというなら、宿駅に入り、捜すとしよう。孫臏を捜し出したら、そのほうの命はないぞ。部下よ、卜商を捕まえて、逃げられぬようにするのだ。宿駅に入って捜すことにしよう。三軍よ、あちこちをしっかりと捜すのだ。

（兵卒が捜す）いずこにもおりませぬ。

（龐涓）屋上も見よ。

（兵卒）屋上にもおりませぬ。

（龐涓）井戸を掬え。

（兵卒）井戸にもおりませぬ。

（龐涓）どこにもおらぬが、あの者はいったいどこに行ったのだ。孫臏め、ここにおらねばそれまでだが、ここにいるなら聴くがよい。わしは陣を布いた時、おまえに恨みを抱いたのだ。殺そうとしたのもわしで、足斬りにしたのもわしだ。おまえに会えば、活きながら二つ三つに切り裂いてやる。生きたいと望むのは、井戸の底にて明月を掬うがごときことであろうぞ。もしもおまえを捕えたら、おまえは「弟よ、許してくれ」と申すだろうが、わたしに許してもらいたければ、宮居よりひゅるひゅると一枚の郊天赦[58]が飛んでくるしかあるまいぞ。（ふたたび呼ばわる）この周囲には本当におらぬわい。卜商よ、こっそりと孫臏を逃がしたのだろう。

（卜商）孫臏を求めて何になりましょう。

（龐涓）部下よ、卜商を釈放せよ。

（卜商）ありがとうございます。元帥さま。

（龐涓）卜商よ、先ほどわたしが孫臏を捜し出したら、わしはそなたを許さなかったぞ。そなたはいつ帰るつもりだ。

（卜商）わたくしは明日帰ります。

（龐涓）どの門を通るのだ。

（卜商）東の門を通ります。

（龐涓）おまえが来るとき、あらかじめ東の門で待ちうけて、おまえの人夫をすべて調べて、茶を載せた車をすべて捜索しよう。孫臏を連れてゆくなら、見るがよい。われわれの百万の猛兵と、千人の将軍は、いつの日か城下に臨み、壕端に行き、四方に布陣し、八方に砦を築き、なんじの城を攻撃し、山川を蹂躙しようぞ。卜商よ、その時は悔いても遅いぞ。（退場）

（卜商）ほんとうにびっくりしたわい。今しがた、孫先生とご飯を食べていたところ、たちまちに龐元帥が馬から下りて、宿場を囲み、孫臏さまを探したぞ。さいわい見付からなかったが、孫臏さまはいったいどこへ行かれたのだろう。孫臏さまは、まことに優れ、龐涓は、まことに凶悪。ああ、ほんとうに危うかったな。一声叫んでみるとしよう。孫先生、孫先生。

（正末が唱う）

【殿前歓】われを呼べるは誰やらん。

（卜商）先生、いずこにおわしましたか。

（正末が唱う）摘星楼(てきせいろう)[59]で、宴したりき。脱殻金蝉の計[60]を用ゐて、諍ひを避くるを求めり。

（卜商）龐涓は、本当に凶悪にございます。

（正末が唱う）これぞまさしく「かれが虐たらしきことをなしたれば、われも虐たらしきことをせん」。

（卜商）先生、龐涓がまたまいりましたよ。

（正末が唱う）ああ。わたしには天魔の祟りが纏はりつけり。わたしはあたかも小鬼のごとく地に伏せり。

（卜商）避けたまひし時、誰か知るべき。

（正末が唱う）この罪びと[61]はただ天の知り、地の知れるのみ。

（言う）龐涓よ、わたしがここで食事していることをなんじは知るまい。

（唱う）たちまちにわが智恵を使へり。

（卜商）先生を連れてゆこうと思っておりましたのですが、今しがた、龐元帥に幾たびも、いつ帰るのかと質問をされました。明日帰る、東門を通るとかれに言いますと、龐涓は、自分は先に東門にいて、茶を載せた車を捜すと言いました。もし捜し出されましたら、どうしたら宜しいでしょう。

（正末）大夫どの、安心なされよ。あの者は、頭を捜して、尾は捜しませぬ。捜されたらば、われらは一人の兵卒に、あの者の兵卒の扮装をさせ、馬を飛ばさせ、西門で孫臏を捕まえましたと報告させることにしましょう。東門を出ましたら、あなたはゆっくり大路を進まれ、わたくしはあたふたと逃げましょう。斉国に着きさえすれば、兵を率いて龐涓を捕まえて、足斬りにされた怨みに報いましょう。

（卜商）この計はとてもすぐれています。（ともに進む）

（龐涓が登場）卜商よ、どこに行くのだ。

（卜商）わたしは斉へ戻るのです。

（龐涓）部下よ、茶を載せた車を捜索してくれ。

（兵卒が登場）元帥さまにお報せします。西門で、びっこの男を捕まえました。

（龐涓）あきらかに孫臏だ。西門へ行き、びっこの男を殺すとしよう。（退場）

（卜商）元帥は行ってしまった。先生、すぐ馬にお乗りください。

（正末が唱う）

【離亭宴帯鴛鴦煞】天書に従ひ、東のかた斉を佐けて、精兵を統べ、日を定め、西のかた魏を攻めん。一声叫ばば征塵は巻き起こり、ひらひらと旌旗をば翻し、とんとんと画鼓[62]を操り、がちやがちやと征騎を駆るべし。剣は嵩岳を突き崩し、馬は黄河を飲み尽くすべし。龐涓がいづこに隠れ潜むとも、活きながらあのものの血の滴れる皮を剥ぎ、生きながらじゆるじゆると脳を敲きて、ぐちやぐちやと髓を抉らん。押し切りで鄭安平の首を斬り、魏公子も腿をへし折り、一人一人をすべて肉味噌とぞなさん。その時はじめて足を斬られし仇に報いて、茶を献じたる恥を雪がん（ともに退場）

 

第四折

（斉公子が兵卒を率いて登場）

（斉公子の詩）かねてより東の地には諸侯が並べど、渤海、瑯邪[63]に上游[64]を占む。なにゆゑぞ河山十二と称したる[65]。魏の臣に甘んじたるは恥知らずなり。

それがしは斉公子、姓は田、名は辟疆。始祖はもともと姫姓[66]の一族、陳敬仲より斉に入り、田氏の姓を賜はれり。その後、田恒が斉を奪ひ、田和に到り、周の天子の命を奉じて、諸侯に連なり、世世相継げり。斉の康公は薨じて跡継ぎがなければ、それがしが父王を立て、斉の威王と称したり。今、春秋の七国に、秦、斉、燕、趙、韓、楚、魏あり。わが斉国はもとより上国なりしかど、魏は龐涓を将とせり。かれは大いに膂力あり、兵書に通じ、六国とつねに戦をし、よく当たるものぞなきなる。われわれはやむを得ず、魏国に年年進貢せり。今年は特に大夫の卜商を遣はし、魏に入らしめて茶を献ぜしめたれど、はからずも、卜商は、孫臏をこつそりと茶を載する車に入れて、わが国に連れてきたれり。聞けば孫臏の兵法は、龐涓に勝ること百倍なりとか。われらは今から、軍師となして、大勢の精鋭を率ゐさせ、各国の大将を糾合し、龐涓と決戦せしめん。まことに軍師の妙計は、鬼神も測るべからざるもの。兵を増やして竈を減らす計を用ゐて、龐涓を馬陵山麓におびき寄せ、八方に伏兵を置き、かれを捕らふる備へせり。この一戦はすばらしき闘ひと相成らん。

部下よ、各国の大将を呼んできて、命令を聴かせるのだ。

（兵卒）心得ました。将軍さまがた、いずこにいらっしゃいますか。

（李牧が登場）

（公子）趙国の大将李牧よ、命令を聴け。青旗を分け与え、しるしとし、本部の三万の人馬を率いて、田忌を迎え、龐涓を阻み、馬陵山の麓へと引き寄せよ。命令に背いてはならないぞ。

（李牧）かしこまりました。

（呉起が登場）

（公子）楚国の大将呉起よ、命令を聴け。紅旗を分け与え、しるしとし、本部の三万の人馬を率い、田忌を迎え、龐涓を阻み、馬陵山の麓に引き寄せるのだ、命令に背いてはならないぞ。

（呉起）かしこまりました。

（楽毅が登場）

（公子）燕国の大将楽毅よ、命令を聴け。白旗を分け与え、しるしとし、本部の三万の人馬を率い、田忌を迎え、龐涓を阻み、馬陵山の麓に引き寄せるのだ。命令に背いてはならないぞ。

（楽毅）かしこまりました。

（馬服子が登場）

（公子）韓国の大将馬服子よ、命令を聴け。黄旗を分け与え、しるしとし、本部の三万の人馬を率い、田忌を迎え、龐涓を阻み、馬陵山の麓に引き寄せるのだ。命令に背いてはならないぞ。

（馬服子）かしこまりました。

（王剪が登場）

（公子）秦国の大将王剪よ、命令を聴け。�p旗を分け与え、しるしとし、本部の三万の人馬を率い、田忌を迎え、龐涓を阻み、馬陵山の麓に引き寄せるのだ。命令に背いてはならないぞ。

（王剪）かしこまりました。

（公子の詩）将を率ゐて、兵を駆り、避難することなかれ、仇に報いて、恨みを雪ぐは今ぞかし。馬陵山の麓にはあらかじめ伏兵を置き、龐涓を斬らずんば誓ひて還らじ。（ともに退場）

（田忌が登場、詩）十万の強弓は馬陵に潜み、表向きには竈を减らし、陰では兵を増やしたり。龐涓はまさに今日滅びなん。軍中に凱歌を奏する声を見るべし。

それがしは斉国の大将田忌。軍師の御諚を奉り、先鋒となり、各国の大将を糾合し、龐涓と闘ったのだが、負けることのみを求めて、勝つことを求めることなく、龐涓を鴻溝[67]に招き寄せた。軍師さまは、何ゆえわれらに負けた振りをさせるのですかとお尋ねだろうが、軍師さまは、龐涓が軍師さまにはかなわぬと考えて、恐れを抱き、深追いをせぬことを恐れて、竈を減らす計略をわざと使われ、龐涓にわが国の兵馬を見せてらっしゃるのだ。わが国の兵馬は魏との境に到ると、五日足らずで、逃げるものは逃げ、死ぬものは死に、その大半がいなくなった。龐涓は、かならずや勇を奮って追い掛けてくることだろう。馬陵山麓、樹林の深い処には、あらかじめ強弓、硬弩を十万余張潜めおき、一株の大樹の皮をそぎ取って、「龐涓はこの樹の下に死すべし」と大書するのだ。樹の枝には、一皿の灯明をつけるのだ。龐涓は追い掛けてきて、かならずや灯明を置き、樹に書いてある字を読むだろう。実は軍師は灯明をしるしとしており、この灯明が下ろされるとすぐ、潜ませていた弓、弩(いしゆみ)を、一斉に発するというわけだ。龐涓よ、翼があっても雲に飛び上がれはしまい。爪があっても地を裂くことはできはしまい。羊を牽いて、屠殺場に入るかのよう、一歩一歩が死への道だぞ。

（龐涓が馬を走らせ、兵卒を率いて登場）それがしは龐涓だ。孫臏はほんとうにけしからん、卜商とともに逃げてしまった。今、孫臏は軍師となり、田忌は先鋒となり、魏国をば攻撃し、それがしと決戦している。五日足らずで、はやくもかれらの人馬の大半を殺した。思うにかれらは大したことはないだろう。塵が巻き起こっているのは、おそらく田忌が来たのであろう。

（田忌が登場）龐涓よ、「退く兵は襲ふべからず、窮せし敵は追ふなかれ」ということは存じておるであろう。しつこくわしを追い掛けるのは何ゆえぞ。わしだって、おまえなど恐れはせぬぞ。決着をつけるとしよう。掛かってまいれ。

（龐涓）田忌よ、なんじはわしの手のうちにある敗将だから、はやく縛られるがよいぞ。まだ減らず口をたたくつもりか。（戦う）

（田忌が敗走する）かなわぬわい。三十六計、逃ぐるにしかず。逃げろや逃げろ。

（各国が迎え撃つが、みな敗れる）

（龐涓）あいつらはみな打ち負かされた。勢いに乗じて追わぬわけにはゆかぬ。三軍よ、わたしといっしょに追い掛けるのだ。（退場）

（正末が斉公子、諸将とともに登場）

（正末）わたしは孫臏。斉国に行き、軍師の職を拝命した。今日は三軍をば集め、今晩は馬陵山にて、龐涓を斬り、足を斬られた仇に報いることにしよう。兵士らよ、しっかりと陣を布け。

（斉公子）今日は、龐涓を捕らえましょう。われら六国の恨みを雪ぐのは、軍師さまの妙計次第。

（正末が唱う）

【中呂粉蝶児】一台の�p蓋(くろがさ)の軽やかな車を走らせ、天書に従ひ、三軍を並べたるなり。誰か知るべき、われらの陣は長蛇のごとく、角笛は風を生じて[68]、旗は電(いかづち)よりはやく[69]、弓を張ること秋月のごと。一声叫ばば海は沸き、山は裂け、かならずや、かれらを殺して容赦することはなからん。

（言う）部下よ、この山の麓には、一本の大樹があるが、何の樹なのか、見にいってくれ。

（个子）一本の大樹は白楊樹にございます。

（正末）部下よ、この白楊樹を切り倒し、皮をそぎ取り、筆と硯を持ってきてくれ。

（兵卒）心得ました、筆と硯はこちらにございます。

（正末が唱う）

【酔春風】烏龍の墨を濃く磨りて、紫兔(しと)[70]の筆をば深く浸せり。

（書く）

（詩）白楊樹下の白楊峪、ここがまさしく龐涓の死ぬる処ぞ。今宵魏人の首を斬らずば、孫臏は斉に還らず。

（公子）何を書かれているのです。

（正末が唱う）われはみづから「まさにこの地で龐涓を斬るべし」といふ字を書けり。一つには孫臏(わたくし)のはかりごと、二つには主君のさいはひ、三つにはあの者を滅ぼすことを定めたるなり。

（公子）龐涓は一かどの人物だから、斬ることはできないのではあるまいか。

（正末が唱う）

【石榴花】龐涓の大暴れするは笑ふべし。われらを追ひ掛け、逃さんとせず。この馬陵道に伏兵のあらんとは、いかで知るべき。山崖はそそり立ち、樹林は深く、万張の強弩が一たび放たれば、たちまちに鮮血の溜まりと化せん。三頭六臂がありて人とは異ならんとも[71]、そのときは、いづこに隠るることを得ん。

（公子）龐涓はそなたがかれの同窓の友人であると申したが。

（正末が唱う）

【闘鵪鶉】わたしはかれと同窓の友にして親友なりき。傍(かたへ)の人に隔てられたるにもあらざるに、われらはまことに何ゆゑぞ相損なへる。すべてはかれの日頃の自業自得なり。骨の髄まで徹する怨みをかたく結べば、いかで忘るることを得べけん。われらは今より、懸命に相争はん。これぞすなはち至誠の人の心の徹底したるなり[72]。

（龐涓）まことにすばらしい闘いだ。馬陵山の麓に来たが、日はすでに暮れてしまった。斉国の敗兵はどのくらい遠くへ逃げたものだろう。三軍よ、前方の林から、一皿の灯りの光が漏れている、おそらく人がいるのだろう。わしといっしょに見にゆこう。ああ。人家はないぞ。一本の大樹には、提灯が掛けられている。ああ、どうして樹上に数行の字が書かれているのだ。兵士よ、はやく灯を下ろしてくれ。何が書かれているのかを見てみよう。

（正末が唱う）

【上小楼】灯りは昏く、月は斜めに、ただ見る、かれは馬の手綱をかたく牽き、左に右にぐるぐる回り、留まるを得ず。しばらく見、しばらく望み、いらいらとしたれども、馬と人とが今宵死ぬるをいかで知るべき。

（龐涓が看て言う）この樹には四句の詩が書かれているぞ。読んでみよう、「白楊樹下の白楊峪、これこそは龐涓の死する処なれ。今宵魏人の首を斬らずば、孫臏は斉に還らず」だと。ああ、あのびっこめがここに来て、ほらを吹き、わしを嚇かしているのだな。

（正末が唱う）

【幺篇】かれの言葉の終はらぬうちに、われらははやくも弓を引きたり。矢は谷川を通り抜け、林を突き抜け、天を穿ちて、地に入りて、にはかには逃れ得ず。脚はよろよろ、眼は細く、酒の酣なる時のごときなり。龐涓よ、思ふをやめよ、楊柳の岸、明けの風、残んの月を[73]。

（龐涓）ここには軍馬が潜んでいるのではあるまいか。まずい。向きを変え、軍を率いて去らねばならぬ。

（孫臏）龐涓よ、どこに行くのだ。三軍よ、谷間の入り口を囲んで、龐涓が逃げぬようにするのだ。

（龐涓）あな恐ろしや。高い処で話しているのは、わが孫臏兄じゃのようだ。一声叫んでみるとしよう。孫臏兄じゃ。

（正末）わしに向かって叫ぶのは何者だ。

（龐涓）弟の龐涓にございます。

（正末）わしに向かって叫ぶのはどうしてだ。

（龐涓）兄じゃ、お久しぶりにございます。心の中で御身を想うておりました。

（正末）悪党め、今日のようなことになるとはな。（唱う）

【快活三】心の中の事どもをしかと訴ふ。詩の句をばじつくりと見よ。難しきことは何もなし。おそらくはなんぢの勾魂帖(こうこんてふ)[74]ならん。

（龐涓）兄じゃ、憐れと思うてくださいまし。わたしが悪うございました。

（正末が唱う）

【朝天子】ほかならぬなんぢはみづから誓ひを立てり。

（龐涓）灯りが消えた。

（正末が唱う）まさに「この命は、灯(ともしび)とともに消ゆべし」といふ言葉の通り。

（龐涓が拝する）兄じゃ、憐れと思うてくださいまし。どうか弟をお許しください。

（正末が唱う）龐涓よ、悪業をなしたからには、かやうに畏るる必要はなし。休むことなく拝むとも、徒ならん。ああ、温かき顔を装へど、心は鉄のごとくして、目を見張り、わが両足を斬りとれり。なんぢは今や死すべきなり。これ以上、逃ぐるを望むことなかれ。逃ぐるはあたかも水底(みなそこ)に明月を掬ふがごときことならん。

（公子）兵士よ、龐涓を捕まえてくれ、

（田忌が龐涓を捕まえ、正末に見えさせ、跪かせる）

（龐涓）兄じゃ、わたしは罪を認めます。わたしを憐れみ、どうかお許しくださいまし。

（正末が唱う）

【十二月】かのものは自業自得なり。これよりは情義は絶ゆべし。

（龐涓）兄じゃ、わたしと御身は、心は同じ親友ですから、お許し下さい。

（正末が唱う）心は同じなどと言ひ、今もなほ詐らんとす。二つ三つ問ふとせん。なにゆゑにわが両脚を蹇(あしなえ)にしたりしや。

（言う）想えばむかし宿駅で、このように言わなかったか。

（龐涓）わたしが何をもうしましたか。

（正末が唱う）

【堯民歌】捕らへなば、活きながら二つ三つに切り裂かんとぞ申したる。

（龐涓友）兄じゃ、旧い話は仰らないで下さいまし。

（正末が唱う）本日は、馬陵道にて、大いなる怨みを雪ぎ、わが剣の先でみづから樹皮を剥ぎ、今宵この地で豪傑を斬ると書きたり。ああ悲しいかな、わしはなんぢとこれより永く別るべし。

（言う）龐涓よ、もし死なぬなら、

（唱う）宮居よりひゆるひゆると一枚郊天赦が飛びきたるよりほかなからん。

（公子）軍師どの、いつまでこいつを喋らせておくおつもりか。まずはこいつの両足を斬り、そ首を切り、しかる後、屍を六つに引き裂き、六国に分けるとしましょう。

（孫臏）兵士よ、銅の押し切りをもってきて、まずこの者の両足を斬れ。

（龐涓）おやめください。丈夫(ますらお)が「目を見張ってやり、目を閉じて受ける」[75]のは、言うまでもないことでございます。ただ惜しいのは、六甲天書を伝えることができぬことです。

（正末が唱う）

【煞尾】これ以上、話さばこやつの口を裂き、これ以上、話さばこやつの舌を切れ。そ首を鋼の刀もてゆるゆる切らば、わが足を斬られたる怨みに報いん。

（龐涓を斬る）

（公子）兵士よ、軍令を伝えるがよい。六国の将軍たちに、龐涓の屍を六つに分けさせ、本国に持ち帰らせて、人前に晒させるのだ。本日は馬陵山にて、労をねぎらう宴を開き、班師[76]は凱歌を奏すべし。六国の将軍たちよ、試みに聴け。

（詞）龐涓はみだりに戦をば起こし、六国の諸侯をひどく乱したり。みづからを英雄無敵なりと恃みて、孫子を妬み、詐りて相招きたり。孫子が山より下りきて、魏に入るや、たちまちかれと争へり。陣を攻撃せしがため、恨みを抱き、天書を求め、あれこれと謀りごとをばめぐらせり。しかるに上には上があり[77]、気違ひの振りをして、一命をしぞ留めたる。大夫は車に載せられて、斉に帰りて、軍師をば拝命し、坐して貔貅を擁したり。諸国の将はすべて来たりて戦を助け、喊声を挙ぐれば霧は悲しみて、雲は愁へり。竈を減らし、負けを装ふ奇策を用ゐ、追手の兵を招き寄せ、まつすぐに鴻溝を過ぎ、一万の弩(いしゆみ)を馬陵の山の谷に潜ませ、大樹には、かならずや龐涓の首(かうべ)を斬らんと記したり。果たして屍をば裂きて、凱歌を奏することを得て、足を斬られし深き仇にぞ報いたる。

 

最終更新日：2010年11月10日

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