包待制智斬魯斎郎雑劇
関漢卿撰
楔子
（冲末が魯斎郎に扮し、張龍を連れて登場）
（詩）第一の放恣なる太歳神[1]、並ぶものなき無頼なる喪門神[2]。街の者どもはわしの名を聞けば怕れり。わしは権勢盛んなる魯斎郎。
わたしは魯斎郎。朝廷にあること数年、ありがたき聖恩により、今の職をば授かった。低い位が嫌なら就かず、痩せ馬が嫌なら騎らず。行く処、呼ぶのは腿に刺青をした無頼漢。弾き弓、鳥もちの竿、悦哉に雀鷂[3]。日ごと日ごとに鷹を飛ばして、犬を走らせ、街をぶらつく。他の人のよい骨董を目にすれば、どうしてあいつは持っていて、わたしは持っていないのだろうと考える。わたしは三日借りて楽しみ、四日目にそいつにﾔして、壊しもしない。他の人が駿馬や、雕刻した馬具を持っているなら、人に命じて牽いてこさせる。三日騎り、四日目にかれに還して、傷つけもせぬ。わたしはまじめな人間なのだ。汴梁を離れてからは、許州に来、街で馬に騎り、ぶらついていたところ、銀匠の店できれいな娘を目にした、わたしは娘を見ようとしたが、馬が走るのが速かったため、じっくりと看られなかった。張龍よ、おまえは見たか。
（張龍）そのようにお考えだと思いましたので、お調べをしておきました。
（魯斎郎）かれが誰だか知っているのか。
（張龍）かれは銀匠、姓は李といい、排行は第四にございます。女房は姿形が美しく、顔立ちは優れております。
（魯斎郎）わたしはかれが欲しいのだが、どうしたらよいだろう。
（張龍）かれを手に入れられるのは簡単なこと。銀の壺瓶を、かれの家へと持ってゆき、直してもらうことにしましょう。いささかお金を多めにやって、いっしょにお酒を何杯か飲み、女房も何杯か飲んだところで、馬に乗せ、お逃げになるのが宜しいでしょう。
（魯斎郎）その計略はすばらしい。今日すぐに、鞍馬を整え、わたしに従い、銀匠の店へ、壺瓶を修理しにゆくとしよう。
（詩）壺瓶の修理にかこつけて、巧みなる計略を立て、かれの妻をば拐し、すみやかに逃げんとしたり。焰摩天まで追ひ掛けんとも、捜し求むることはかなはじ。（退場）
（外が李四に扮し、旦、二人の子役とともに登場）わたくしは許州の者で、姓は李といい、排行は四番目。人々は銀匠李四と呼びなしている。四人家族で、家内は張氏、息子と娘がおり、息子は喜童、娘は嬌児と呼ばれている。銀細工のみをして、日を送っている。今日は朝から、店を開いて、誰が来るのか見るとしよう。
（魯斎郎が張龍を連れて登場）わたしは魯斎郎。この壺瓶が漏ったため、銀匠の店に行き、修理してもらうとしよう。部下よ、馬を繋いで、交床をもってくるのだ。
（張龍）心得ました。（腰掛ける）
（魯斎郎）張龍、あの銀匠を呼んできてくれ。
（張龍が叫ぶ）銀匠よ、入り口で魯さまがお呼びだ。
（李四があわてて出てきて跪く）大人さまがわたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（魯斎郎）そのほうは銀匠か。
（李四）わたくしは銀匠にございます。
（魯斎郎）これ李四よ、恐れるな。そのほうは罪のない者。立つがよい。
（李四）大人がわたくしを呼ばれましたはなにゆえにございましょう。
（魯斎郎）銀の壺瓶が漏ったから、修理してくれ。十両の銀子をやろう。
（李四）おやすいことでございます。わたくしはそんなに多くの銀子は必要ございませぬ。
（魯斎郎）そなたは貧乏人だから、損はさせまい。きちんと修理してくれたら、酒を買う銀子をやろう。
（李四が壺を受け取る）元通り修理して、よくなりました。大人、ご覧になって下さいまし。
（魯斎郎）ほんとうにすばらしい腕前だ、まるで新品同然だ。張龍よ、酒はあるか。
（張龍）ございます。
（魯斎郎）持ってきて何杯か飲ませてやれ。（酒を漉す、李四がつづけて三杯飲む）十分にございます。
（魯斎郎）家にはほかに誰がいる。
（李四）家には妻がおりますから、呼び出して、お目通りさせましょう。女房よ、出てきて大人さまにご挨拶しろ。
（旦が出てきて拝礼する）
（魯斎郎）きれいな女だ。三杯の酒を飲ませよ。わたしも一杯飲むとしよう。張龍も一杯飲め。李四よ、この三杯は夫婦固めの杯だ。わたしの銀子十両をおまえの生活費にしよう、おまえの妻は、鄭州に連れてゆこう。どこの大きな役所でも構わないから、訴えにゆくがよい。（旦とともに退場）
（李四が哭く）清らかで、穏やかな世だというのに、女房が拐かされていってしまった。ただではすまさぬ。どこの大きな役所でも構わないから、訴えにゆくとしよう。（退場）
（貼旦が二人の子役を連れて登場）わらわは姓は李、夫の姓は張といい、この鄭州で六案孔目をしている。四人家族で、息子と娘がいる。息子は金郎、娘は玉姐と呼ばれている。孔目さまは役所に行ったが、そろそろ、戻って来られるはずだ。
（李四があわてて登場）一心は忙しきこと箭のごとく、両脚は走ること飛ぶにぞ似たる。わたしは李四。魯斎郎がわたしの女房を拐かし、鄭州に行ったので、わたしは後から追い掛けて、この鄭州にやってきたのだ。あいつを告訴しようと思うが、どこが大きな役所なのかが分からない。この大通りに来て、ふと胸が痛みだしたぞ。死んでしまう。誰にこの命を救ってもらおうか。
（正末が張珪に扮し、従者を連れて登場）わたしは姓は張、名は珪、字は均玉といい、鄭州の者。若くして儒学を習い、出仕して、吏となった。四人家族で、女房は李氏、華州華陰県の者で、医者の娘だ。息子と娘を生み、金郎、玉姐といわれている。わしはこの鄭州で、六案都孔目をしている。本日は役所は何の仕事もない。家に帰ると、一群の人々が騒いでいるぞ。従者よ、誰なのか見よ。
（従者が問う）どなたです。地面にお倒れになって。
（李四）わたしはにわかに胸が痛んで、まもなく死んでしまいましょう。お兄さん、憐れと思われ、一命をお救い下さい。
（従者が末を見る）一人の男が、にわかに胸が痛んだために、地面に倒れているのです。
（正末）わたしが見てみることにしよう。男の方、どうして地面に倒れていらっしゃるのです。
（李四）わたしはにわかに胸が痛んで、まもなく死んでしまいましょう。わたしの命をお救い下さい。
（正末）「いずこも福を積む処」[4]。女房はにわかに胸が痛んだときの治療ができます。この人を家に連れてゆき、一服の薬を飲ませてあげましょう。従者よ、この人を家に運んできてくれ。女房よ、どこにいるのだ。
（貼旦が末を見る）孔目さまが来られたから、食事を用意し、食べさせてさし上げましょう。
（正末）とりあえず食事はいらない。獅子店の入り口に来たところ、にわかに胸を痛ませている男を見、連れてきて、一服の薬を飲ませ、命を救った。「いずこも福を積む処」だ。
（貼旦）薬を調合してまいりましょう。（薬を調合する）男の方、このお薬をお飲みください。
（李四が薬を飲む）この薬を飲む、ああ、何事もなくなった。ありがとうございます。お役人さま、奥方さま。お役人さまがいらっしゃらねば、奥方さま、わたくしの命はございませんでした。
（正末）お尋ねしますが、どちらのお方でございましょう。お名前は。
（李四）わたくしは姓は李といい、排行は四番目、人々はわたしを李四と呼んでおり、許州の者で、銀細工をして生計を立てております。
（貼旦）ご姓は李とおっしゃるのですね。わたしも姓は李にございます。兄弟の契りを交わすお積もりならば、孔目が承知するかは分かりませぬが、尋ねてみるといたしましょう。（末に尋ねる）この方は姓を李といい、わたしも姓は李にございます。この方を弟としようと思うておりますが、孔目さまのお考えはいかがでしょうか。
（正末）女房よ、好きにすればよいだろう。李四さん、こちらにいらっしゃい。女房が弟にしたいと申しておりますが、お考えはいかがでしょうか。
（李四）命を救われたのですから、もちろん弟となりましょう、お宅では、驢馬や馬の世話でもさせていただきましょう。
（正末）あなたはわたしの義理の弟、わたしの妻はあなたの実姉も同然です｡さようなことまでなさるには及びませぬ。
（李四）お二人はわたくしの実の姉、義理の兄じゃでございますから、人がわたしを苛めたら、わたしにお味方してくださいまし。
（正末）誰かが苛めたら、わたしは人を遣わして、捕らえさせましょう。張珪の名はみな知っておりまする。
（李四）ほかでもない、魯斎郎がわたしの妻を無理に奪っていったのです。姉上、兄じゃ、わたしにお味方してくださいまし。
（末が口を掩う）ああ、びっくりした。ここでよかった、もしほかの所にいたら、あなたの命はなかったでしょう。わたしは旅費を差し上げますから、許州へとお戻りなさい。さようなことは二度とおっしゃってはなりませぬ。（唱う）
【仙呂端正好】被告には権勢があり、原告に門閥はなし、憚ることなく塔を跳びおり、押し切りを振り回せども[5]、役人たちは逮捕状には署名せざらん。かれの名を挙ぐればさらに怕るべし。
【幺篇】あのものと争ふことなく、怒りを忍ぶにしくはなからん。家中の宝[6]、力持ちの女房をほかに探されよ。魯斎郎は天のごとくに大いなる胆を持ち、臣下なれども法を守らず、官府を威圧し、妻女を奪ひ、民草を踏みつけにせり。げにかのものは、位は高く、やんごとなきなり。（退場）
（李四）こちらではあのものをどうすることもできませぬから、許州へとふたたび戻ってゆかれたほうが宜しいでしょう。（退場）
第一折
（魯斎郎が登場）わたしは魯斎郎。許州で李四の女房を拐し、初めのうちは命のようにかれを愛していたものの、今ではかれを見ようともせぬ。今、鄭州に戻ったが、時は折しも清明節、家家は墓参している。かならずや見目よい婦人がいることだろう。従者の張龍たちを連れ、まっすぐに郊外へ若草踏みにゆくとしよう。（退場）
（正末が貼旦を連れて登場）わたしは張珪、時は折しも寒食なれば、家家は墓参りせり。わたしはこれより妻を連れ、墓参りしにゆくとせん。想ふにわれらが役人の多くは公平ならざれば、耐へて生くるは、並大抵のことにはあらず。（唱う）
【仙呂点絳唇】われらが令史は権力の座にありて、案房[7]の中に関文[8]あり。すこしでも関はり合ひとなりたらば、難癖をつけ、良き心こそなかるらめ。
【混江龍】人の便宜を図るのは思ひもよらず、一片の人を害する心をいだき、いささかの家族を養ふお金をぞむしり取るなる。
（言う）事件があるのを耳にすれば、
（唱う）文書には署名して、心は火のよう。帖子を書いて、呼びたつること烟のごとし[9]。公吏に命じて役所の中に拘引するは、笙歌もて画堂の前に導けるには似ても似つかず。国家のお金をむやみに使ひ、民草のお金をみだりに取り立てて、父母が飢ゑ凍え、妻と子が苦しみたるも構ふことなし。何十日も家へ帰らんとはせずに、暇を見て、ひたすら妓楼に出入りして、烟花を楽しみて、風月に恋恋とすることのみをしぞ求めたる。
【油葫蘆】邸宅や田地を買ひて、財産は数千を積まんとし、親戚らがことごとく怨むとも構ふことなし。人に逼りて銀の髪飾りを売らせ、みづから金の髪飾りをぞ戴ける。人に逼りて旧き屋敷を抵当に入れさせて、みづからは新しき屋敷にぞ住まひせる。任期が満了せん日には、転任せんことをば望み、提刑司さまが多くの文書を作りたまふを知ることぞなき[10]。その時は鉄鎖を帯びて、贓銭[11]をしぞ納むべき。
【天下楽】その時は、城南の金谷園は売らるべし[12]。民草は汝が権勢を失へるを見て、ひたすらに告発し、財産は、ちぎれ雲、つむじ風のごとく消ゆべし。二千里の流罪、一年の徒刑にならば、その時は幾たびか喘ぐほかなし。
（言う）はやくも墓地にやってきた。（唱う）
【金盞児】野を見れば、まさに晴れ、温かく、古き墳には新しき土が添へられ、家家は紙銭を焼きて、その悲しみは言はんかたなし。こなたには、黄鸝[13]の声は恰恰として、かなたには、血涙は漣漣たるなり。これぞまさしく、若き柳に鴬は啼き、古き墳にて人は哭くなる。
（貼旦）孔目どの、しばらくゆっくり遊びましょう。
（魯斎郎が張龍を連れて登場）みなわしとそぞろ歩きをしにゆこう。立派な墓だな。樹の上に黄鴬[14]がいる。小者よ、弾き弓を持ってくるのだ。（弾をはじく）
（子役が哭く）お母さま、頭を打ち破られました。
（貼旦）どこの馬鹿者、手持ち無沙汰だからといって[15]、この弾き玉を打ってくるとは。
（正末）この馬鹿者め、無礼だぞ。わが家の墓地に弾き玉を打ってくるとは、わしの名を知らぬのだろう。出ていって見てみよう｡
（唱う）
【後庭花】塀のおもてにをるは誰そ、かやうな無礼を働けるとは。どしどしと進みゆく。
（魯斎郎）張珪よ、誰を罵っておるのだ。
（正末が唱う）驚きて、歩みつつ、後ろへのけぞる。
（魯斎郎）この馬鹿者め、死にたいか。わたしは誰だ。おまえはわたしを罵ったな。
（正末が唱う）わたしはあたかも深き淵へと墜ちたるがごと、心の震へを抑へ得ず、かやうなる死すべき罪のあらんとは。わたくしは今朝、禁中の煙[16]に接し、先祖の墓に供養しにきて、金杯を飲みつつ笑ひさざめけり。かのものは月のごとくに弓を引き、弾が発せば逸るることなく、あたかも、わが眼の前に落ちたり。
（魯斎郎）張珪、わしを罵って、自殺しようとしたのではあるまいな。
（正末が唱う）
【青哥児】われはいかでか、いかでか弁明するを得ん。
（貼旦）どこの道理をわきまえぬ馬鹿者が、うちの子供の頭を打ち破ったのでしょう。
（正末が唱う）たわけたことを申すでない。
（子役）ぼくの頭が打ち破られた。
（正末が唱う）ああ、憂へを知らぬ幼な子は、わが魂魄を淋しからしめ、言葉をば狂ほしからしむ、ぐづぐづするわけにはゆかず。衣を掲げ、目の前に行き、糕麋のごとくに屎を喰むほかなかるべし。[17]
（正末が跪く）
（魯斎郎）張珪よ、どうしてわしを罵ったのだ。わしを知らぬか。わしをちらりと見ただけでも、死に値するというのに、罵れば、いかなる罪になることか。
（正末）大人さまであるとは存じませんでした。大人さまと分かっていれば、わたくしはどこで死んでも当然にございます[18]。
（魯斎郎）君子の千言にも一失あり、小人の千言も一当あり。わしだと気付かなかったのか｡わしだと気付けば、わしを罵らなかったのだな。おまえと争うのはやめだ。この墓は誰のものだ。
（正末）わたくしの家のものです。
（魯斎郎）墓地で腰掛けさせてくれ。おまえの先祖をすべて昇天させてやろう。
（正末）もったいないことにございます。墓地に行き、お掛けになってくださいまし。
（魯斎郎）よい墓地だな。婦人の言葉が聴こえるが、誰なのだ。
（正末）わたしの妻にございます。
（魯斎郎）挨拶をせずばなるまい。
（正末）女房よ、大人さまにご挨拶しにきてくれ。
（貼旦）どうして挨拶するのです。
（正末）とにかく言う通りにしてくれ。
（貼旦が出てきて拝礼する）
（魯斎郎が挨拶を返す）きれいな娘だ、かれにはかような女房がおり、わしにはないとは。張珪よ、死に損ないが、どうしてわしを罵ったのだ。この罪は許さぬぞ。近付いて耳を貸せ、おまえの女房を明日わしの家に送ってくるのだ。もしも来るのが遅くなったら、二人をともに罰しよう。小者よ、馬牽け。わしは帰るぞ。（退場）
（貼旦）孔目よ、あれは誰です。このように怖がられるとは。
（正末）女房よ、はやく後片付けをして、家に帰ることにしよう。（唱う）
【賺煞】ああ、巧みなる笑まひには禍の機が潜み、美しき目に災の星は現る。これもまた、年ごとに運の拙く、悪しき那吒にぞ出遭ひたるなる。わたしは驚き、頭を失ひたる鵝鳥、熱き地の上の蚰蜒のごときなり。先ほどは馬頭[19]の脇に、耳を寄せ、ひそかに語れり。じきじきに帝王のご命を受くるがごときなり。（弾き玉を持ち、拝礼する）
（唱う）この弾き玉は賢者を薦め[20]、とんできて頭や顔にぶつかれり。明日はなんぢは団円せんも[21]、われを団円せざらしめたり。
（退場）
第二折
（魯斎郎が張龍を連れて登場）
（詩）ねんごろに花を植うるも花は開かず、なほざりに柳を挿さば陰をなすべし。誰か知るべき張珪の奥津城に、美しき観音さまのましまさんとは。
わたしは魯斎郎、春の景色を賞でるため、郊外の張珪の墓前に到り、樹に黄鴬の休むを見、弾き弓を引きしぼったが、弾は張珪の家の子供に当たり、さんざんに罵られた。張珪を殺そうと思ったが、かれにはきれいな嫁がいた。わたしはかれに、本日は契らずに、明日送ってくるように言い、一晩眠っておらぬのだ。もし遅くきたときは、かれら一家をことごとく殺すとしよう。張龍よ、入り口で見張っているのだ。もし来たら、わたしに知らせよ。
（正末が貼旦とともに登場）女房よ、急ぐのだ。
（貼旦）五更になったばかりですのに、あなたは気でも触れたのですか、わたしを連れてどこへゆかれる。
（正末）東荘里にいるおばさんの家で結婚式があり、今から行われるのだよ。いっしょに急いでゆくとしよう。女房よ、先に行け。
（貼旦が先に行く）
（正末）張珪よ[22]、どうしたらよいだろう。魯斎郎さまのお言葉は「張珪よ、明日の五更に女房をわしの屋敷に送ってこい」というものだった。送ってゆかねば、殺されようし、送っていっても、二人の子供が母親を尋ねてゆけば、やはりわたしは殺されることだろう。どうしたらよいだろう。（唱う）
【南呂一枝花】人倫と天地の心をまつたく失ひ、悪党の力によりて、母子はともに相別れ、夫婦はともに隔てられたり。かねてより日月の蝕はありしかど、夫の婚を取りしきり、妻の婿をば招きしことを見しことはなし。本日、妻は人に嫁し、夫は媒にしぞなりたる。みづから嫁入道具を取りて、嫁に付けども、羊や酒、花紅[23]や緞子にはあらず。
【梁州第七】かのものは凶悪にして、威風の糾糾[24]たるに頼りて、碧く澄みたる天網の恢恢たるをまったく恐れず。一夜の間、陳摶[25]のごとく眠り得ず。喜び、怒り、高き、低きの区別もつかず[26]、身は亡び、家は破れて、財は散り、人は離れり。女房に是非を説くわけにもゆかず[27]、行き行くもただ涙の眼、愁への眉。霸王に別れ、自刎せし虞姫となりたり。西施を薦め、湖に帰りたる范蠡となり、単于に嫁して、塞より出でし明妃[28]に似たり。青春はまさに水のやう、美しき児と若き娘は連れ合ひとなり、憂へなく、気掛かりはなかりしも、たちまちに二千尺の風波は起こり、一家は瓦解す。
（貼旦）しばらく歩いてまいりましたが、おばさまの家はどちらでしょう。
（正末）あそこだよ。
（貼旦）こちらのお屋敷なのですか。どのような商売をされ、このような大きな屋敷をお持ちなのです。
（正末が唱う）
【牧羊関】暁に台は静かに、春風は簾に低し、幸なき者はいかでかこれを受くべけん。かの者は人のお金を騙しとり、人の妻をば奪ひとり、高々と女郎屋[29]を築き、ななめに杏黄旗[30]を挿せり。梁山泊の賊のやう、蓼児窪[31]といづくんぞ異ならん。
（言う）女房よ、後ろにいるのだ。
（正末が張龍に会う）お兄さん、取り次いでくれ、張珪が入り口にいますとな。
（張龍）ようやく来たな。死にぞこないが。ここにいろ。取り次いでやる。
（魯斎郎）おいおまえ、何をしている。
（張龍）張珪夫婦が入り口におりまする。
（魯斎郎）張龍よ、着替えはしないことにしよう。かれらを呼んできておくれ。
（末、旦が叩頭して相見える）
（魯斎郎）張珪よ、どうして今ごろやってきたのだ。
（正末）二人の子供の面倒をみて、財産をまとめ、四更に家を出、いそいでやってまいりましたが、すでに五更を過ぎました。
（魯斎郎）それならば、まあよかろう。女房をわしに見せるのだ。（見る）きれいな女だ、昨日よりずっと美しくなったぞ。ご苦労だったな。何杯か飲むがいい。
（正末が唱う）
【四塊玉】一杯のうまき糯酒をたつぷり飲めり。
（貼旦）張孔目さま、飲まれてはなりまぬ。酔われましょうから。
（正末が唱う）わたしも酒を飲みし後、狂ふべし。身をひるがへし、酒を飲み、長く溜息をばつけり。泥のごとくに酔払ひ、呼ばるとも目覚むることのなくもがな。
（貼旦）孔目さま、なにゆえさように酔おうとなさる。
（正末）女房よ、そなたは知るまい。
（唱う）われはただ別れの時を、憶えざらんとしたるのみ。
（貼旦）孔目さま、このように悲しまれるのは、いったいなぜにございましょう。
（正末）女房よ、実を申せば、大人さまがそなたを夫人にしようとしたため、そなたを送ってきたのだよ。
（貼旦）孔目さま、それはどういうことですか。
（正末）どうすることもできぬのだ。事ここに至ったからには、大人さまに従うのみだ。
（唱う）
【罵玉郎】なんぢにとりて何らの楽しきこともなからん[32]。かのものはなんぢを夫人にせんとして、本日を過ぐることを許さず、ゆゑにあはててなんぢをかれの家に送れり。
（貼旦）孔目さま、そのように無体なことをなさるとは。
（正末が唱う）ひとえにわれらが縁の薄く、愛の尽くれば、かやうなる苦しみを受けたるならん。
（貼旦）この鄭州であなたは六案都孔目をし、みなへりくだっておりまする。あの者はお役人でもございませぬに、かように恐れ、女房も守られぬとは。大きなお役所を選び、あの者を訴えにゆかれてはいかがでしょう。
（正末）声を小さくしておくれ。もしもあいつに聴かれたら、殺されてしまうだろう。
（唱う）
【感皇恩】かの者は、官職の小さきを嫌ひて成らず。馬の痩するを嫌ひて騎らず。ややもすれば、人の眼を抉りだし、人の骨をば引きぬきて、人の皮をば剥ぎとらん。
（言う）あの者はわたしの首を求めているから、わたしはおまえをあの者に送るのだ。おまえは夫人になればよかろう。
（唱う）あの者は温香軟玉、舞女歌姫を欠くわけにはゆかず。わたしにとりては災星の現れたるも、あの者にとりては花星の輝きて、おまへにとりては福星の催せるなり。
（貼旦）孔目さま、わたしがあちらにまいりましたら、息子と娘はすてられて、誰に世話してもらえるのでしょう。まことに悲しゅうございます。
（正末が唱う）
【采茶歌】棄てられしもとの夫はいふまでもなく、小さき子らはまことに淋し。これよりは、誰かかれらが飢ゑたる時の食べものと、凍えたる時の着るものを世話すべき。まことの父は残れども、母は亡くなり、想ひつつ悲しめるのみとぞならん。
（正末が旦とともに涙を拭う）
（魯斎郎）ひたすら何を申しておる。奥の間へゆき、着替えさせるのだ。
（貼旦）孔目さま、まことに悲しや。
（正末）まことに悲しや。わが妻よ。
（魯斎郎）張珪よ、悲しいのだろう。心の中ではすてされぬのか。
（正末）張珪は悲しんだりはいたしませぬ。ただ、家には息子と娘がおり、世話するものがおりませぬ。
（魯斎郎）どうしてはやく言わぬのだ。家に二人の子供がおり、世話するものがおらぬのだな。張龍よ、李四の女房を、盛装させて張珪に与えるがよい。
（張龍）心得ました。
（魯斎郎）張珪よ、二人の子供を世話するものがおらぬなら、わしの嬌娥という妹に、二人の子供の世話をさせよう。女房をくれたのだから、このわしも妹を棄て、お礼をしよう｡酔うて妹を罵れば、わしを罵ったも同じ。酔うて妹を殴れば、わしを殴ったも同じことだぞ。おまえにやるから、わしは奥の間へとゆこう。（退場）
（正末）この件はどうしたらよいだろう。もう仕方ない。
（唱う）
【黄鍾尾】わが旧き妻を奪ひて、新しき妻を与えり。まさしく甘き桃を棄て、山を巡りて酸き梨を求めたるなり。かのものは身内にあらず。怒鳴られて階を下り、照壁を巡り、宅門を出で、振り返り、奥の間に、家を切り盛りしたる人、賢き妻をはるかに望めり。この世にて縁はあらねど、宿世の縁のありければ、独り寝をして年を過ごさん。また相逢ふはいつの日ぞ。南柯の夢にて会ふのみならん。（退場）
第三折
（李四が登場）わたしは李四。魯斎郎に女房を奪われたため、後を追い、鄭州に来たものの、訴えることはかなわず、また許州に戻ってきた。息子と娘は、行方が知れぬが、留まる場所はどこにでもある、とりあえず鄭州にゆき、わが姉と兄じゃのもとに身を寄せることにしよう。（退場）
（子役が登場）わたしは張孔目の子金郎、妹は玉姐、父さまと母さまは贈り物をしにゆかれたが、そろそろ戻ってこられるはずだ。
（正末が登場）まことに苦しや。家に来て、二人の子らに会ったら、何と言えばよかろう。魯斎郎めは、まことに凶悪。
（唱う）
【中呂粉蝶児】悪しき者どもに従ひて、良き民を損なひて、淫らなる欲を生ぜり。かのものと争はんとするものはなし。凶悪を逞しうして、他人の妻と自分の妻の区別をつけず。これぞまさしく風俗を損なへるなり。何人も敢えてするなし
【酔春風】むなしく受官庁に立ち、民を裁きて、元帥府にて軍を治めり。父と子は南と北におのおの別れ、まことに苦し。われら夫妻は幾たびも危ふき目に遭い、あれこれと頭を使へど、などてか集ふことを得べけん。
（子役）父上、お帰りなさいまし。母上はどちらでしょう。
（正末）息子や、母さんはすぐ来られよう。（嘆く）ああ。どうしたらよいだろう。
（唱う）
【紅繍鞋】さまざまな憂へをば隠さんと思へども、短く長くつく溜息をごまかすすべなし。
（子役）母上はどうして来られぬのでしょうか。
（正末が唱う）母さんは青き山へと上られて石となりたり[33]。金郎の頭を押さへ、玉姐の手を執る。まことに悲しき息子と娘。
（子役）お父さま、母さまはいったいどこにいるのでしょう。
（正末）母さんは魯斎郎に奪われたのだ。
（子役）まことに腹立たしいことです。（子役が怒って倒れる）
（正末が扶ける）息子や、目を醒ますのだ。まことに悲しや。
（張龍が旦を引いて登場）わたしは張龍。魯斎郎大人のご命を奉じ、お嬢さまをお送りし、ここにきた。張珪は家におるのか。
（正末）誰かが門の外にいる。門を開け、見てみよう。（見る）ああ。何をしに来た。
（張龍）大人さまのご命を奉じ、お嬢さまをおまえにやるのだ。何も申すな。お嬢さまも何もおっしゃりませぬよう。わたしはこれで帰ります。（退場）
（正末）お嬢さま、お入りください。子供たち、母さまにご挨拶しにくるがいい。お嬢さま、前の妻には、二人の子供があるだけです。お嬢さま、朝晩世話をなさってください。
（旦）孔目さま、ご安心なさいまし。すべてわたしが引き受けました。
（正末が唱う）
【迎仙客】みづから子供の世話をして、育て上ぐべし。二人の不肖の子供には、福はなし。なんぢははなはだ賢くし、悪しくすることなかるべし。
（旦）孔目さま、ご安心くださいまし。わが子と同じく世話をしましょう。
（正末が唱う）姿は玉か珠のやう、あいつ[34]の心にすこしも似るなし。
（李四が登場）鄭州にやってきた。こちらは姉と義兄の家だ。入り口で叫ぶとしよう。（入り口で叫ぶ）
（正末）誰かが門で叫んでいるぞ。見にゆこう。（見る）
（正末）義弟だったか。そなたの病気に、このわしも罹っているのだ。
（李四）姉さん、よい薬がございます。
（正末）心臓の急な痛みのように、薬で治せるものではなく、銀の壺瓶を修理する、そなたと同じ病気なのだ。そなたの姉も魯斎郎に奪われたのだ。
（李四）魯斎郎め、おまえはわしの身内から、二人の者を奪ったな。
（正末）義弟よ、わたしはおまえよりましだ。あいつはわたしに嬌娥というお嬢さまをくれたのだ。
（李四）魯斎郎め、女房を奪いとり、雌鶏さえも与えないとは。義兄が姉を失ったなら、わたしは許州に帰ってゆこう。
（正末）義弟よ、おまえの姉も同然だから、一目会ったらいいだろう。
（李四）それならば、一目会ったら、すぐ帰りましょう。義兄さん、どうか引き止めないでくださいまし。（会い、それぞれが気が付く）
（正末）義弟よ、帰るのか。
（李四）義兄さん、こちらにとどまるほうが宜しゅうございます。
（正末）まことにおかしい。
（唱う）
【紅繍鞋】かれら二人は目配せすれば、覚えずわれはひそかに考ふ。この謎をいかでか解くべき。片方は心にためらい、片方は口でごまかす[35]。なんぢら二人は、顔馴染みではあるまいか。
（従者が登場）張孔目さま、お役所で、いそいで文書を書くようにとのお達しにございます。
（正末）義弟よ、姉といっしょに家にいてくれ。わたしは役所へ文書を作りにゆくとしよう。（退場）
（旦が李四とともに悲しむ）
（李四）女房よ、どうしてこちらにやってきたのだ。
（子役が登場）お母さま、お父さまはどちらへゆかれたのでしょう。
（旦）役所へ文書を作りにゆかれた。
（子役）それならば、われら二人は、お父さまを探しにいってまいりましょう。（退場）
（李四）懐かしく想っていたぞ。
（正末が突然登場し、見える）（怒鳴る）おまえら二人は何をしようとしているのだ。
（李四が旦とともに跪く）
（正末）かれらははやくも白状をしようとしている。
（唱う）
【石榴花】君子は先に手を打つものとははや言い難し。本日は、親しき者は、疏き者とぞ相なれる。人がふたたびなんぢを害せば、いかがせんずる。わたしはそなたの義兄なれども、姨夫[36]とぞなれる。むかしわたしはなんぢの病を治して故郷へ帰らしめ、太行山のごとくなんぢを頼りにし、身内となれり。わたしが門を出でたれば、なんぢはわれらが婚姻簿をば汚さんとせり、わたしはなんぢにいかなる罪を負ひたるや。
【闘鵪鶉】金を分かちし管鮑[37]にまつたく及ばず、孫龐[38]の刖足をなす。恩人を仇人に変へ、客僧は住持となれり。むかしより言ふ、「毒なくば丈夫ならず。」と。魯斎郎に嫁を奪はれ、仕返しをして怨みを雪ぐはかなはねば、わが家に来て雲雨をばなさんとす。
（李四）義兄さん、実を申せば、かれはわたしの女房で、魯斎郎の妹として、義兄さんに与えられたのです。
（正末）誰がそのように言ったのだ。（唱う）
【上小楼】巧みなる言葉に誰か耳を貸すべき｡わたしは根掘り葉掘り尋ねり。なんぢのごとく善悪を分かつことなく、親戚の情を弁へず、賢愚を知らぬものはなし。なんぢら夫婦が、ふたたび歓び集ふとも、われら一家は滅ぶべし。
（言う）二人の子供はどこにいるのだ。
（旦）あなたが文書を作りに行かれましたので、あなたを探しにゆきました。
（正末）わしの子供を殺したな。まことに腹立たしいことだ。
（唱う）
【幺篇】わたしはしばし我を忘れり。なんぢら二人はまことにむごきことをせり。わたしは噎び、ぼんやりとして、声を放ちて哭き喚きたり。鄭孔目は蕭娥を抱きて、勝手なことをし、賽娘と僧住は行方が知れず[39]。
（言う）ああ、女房は魯斎郎めに奪われて、息子と娘も行方が知れぬ。女房はやっと手に入れたが、銀匠李四の女房となっていた。ここで、どうして生きてゆけよう。義弟よ、わしは財産を、すべてなんじら夫婦にやるから、毎月の斎糧と道服を、わしに欠かさず送ってくれ。わしは華山へ出家しにゆくとしよう。
（李四）義兄さん、何ゆえに銅斗[40]のような財産と、桑、麻を植える土地を棄てられるのです。わたしは御身の衣を引きとめ、死ぬまで放しはいたしませぬ。
（正末が唱う）
【十二月】わが衣をば引きとむることなかれ、氷と炭は炉を同じうせず。
（李四）義兄さん、桑、麻を植える土地に、宝や珠を、どうして棄てることができましょう。
（正末が唱う）桑、麻を植える土地など構いはせぬし、宝や珠もどうでもよいわい。
（李四）お義兄さん、わたしの妻を差し上げましょう。
（正末が唱う）ぺつ。恥を弁へぬくだらぬ言葉、かれはなんぢの筒井筒なり。
（旦）孔目さま、三行半をくださいまし。
（正末が唱う）
【堯民歌】義理を断ち、三行半を書くに及ばず｡
（李四）魯斎郎めに知られたら、わたしは咎められましょう。
（正末が唱う）魯斎郎も、わたしを防ぐ護身符ならず。
（李四）姉はどちらにいるのでしょう。
（正末が唱う）酔はば扶くる二列の紅の袖となりたり[41]。美しき女は夫に災ひするもの。ああ。われはいづれのところに住まひせん。すみやかに山へと帰りゆくがよし。
（李四）義兄さん、たくさんの財産、田地を、何ゆえすべて棄てられるのです。
（正末が唱う）
【耍孩児】東君は去り、花に主はなくなれど、なんぢにはおのづから鴬と燕の侶あり[42]。これよりは、さまざまな事どもを心に掛くることもなく、枕の上の娯しみを恋ふこともなし。浮雲の世の態の紛紛として変はりゆき、秋草の人の情の日日に疏きを見ることはなし。涙はあまねく湘江の竹に注げり[43]。今や、卓氏[44]の心は冷めて、相如[45]は空しく老いんとしたり。
（李四）わたしの姉はどこでしょう。
（正末）なんじの姉は。
（唱う）
【二煞】今、一声の『金縷歌』[46]を聴き、紅の袖の二列に舞ひたるを看て、笙と簫とにつねに囲まれ、小間使ひらに傅かれたり。三杯の酒の満ちたる金鸚鵡[47]、六扇の屏風は開く錦鷓鴣[48]。なんぢの姉はかのものの心腹となる。かのものは、人妻を拐すための手管と、引き寄する術を持ちたり。
（李四）一年四季の、斎糧と道服は、大したことではございませぬ。お義兄さん、どうして出家なさるのです。やはり六案都孔目をなさいませ。
（正末が唱う）
【煞尾】刑名を掌る都孔目、英雄となることを説くなかれ。これもまた、野人の山家を愛したるなり。幼き子らと見目良き妻を、守るはまことにかなはぬことぞ。
（退場）
（李四）義兄さんは行ってしまわれた。女房よ、ふたたび団円する日があるとは思わなかった。われら二人は、このような財産を手に入れたから、義兄さんに、斎糧と道服を、季節ごとにお送りし、欠かしてはなるまいぞ。
（詩）今年は大いに縁起良し。壺瓶を直す不運には似ても似つかず。やすやすと女房を返されて、さらに多くの財産を手に入れり。（旦とともに退場）
第四折
（外が包待制に扮し、従者を連れて登場）
（詩）役所の太鼓は冬冬と鳴り、両脇に公吏は並べり。閻王の生死殿、東岳の摂魂台。
わたしは姓は包、名は拯、字は希文ともうし、廬州金斗郡四望郷老児村の者。龍図閣待制に封ぜられ、開封府尹を授けられた。聖上の命を奉り、五南[49]に赴き巡察し、許州[50]に到り、二人の男児と女児に出会った。銀匠李四の子供であった。かれらの母は、魯斎郎めに奪われて、かれらの父は行方が知れない。二人の子供を、身辺に置き、鄭州に到着すると、さらに二人の男児と女児を引き取った。都孔目張珪の子供であった｡かれらも母を魯斎郎めに奪われて、かれらの父は行方が知れない。二人の子供を家に留めて、かれらに文章を学ばせ、はや十五年。このたびは科挙を受験し、及第した。かれらのことをわたしは、とても気に掛けている。魯斎郎は悪は極まり、罪は大きい。わたしは聖上に、「魚斉即」という者が、良民を苦しめて、他人の妻を強奪し、多くの法を犯したことを上奏した。聖上は大いに怒り、斬罪の判決をただちに下され、そのものを仕置場に護送して、処刑することにした。明くる日に、魯斎郎を召されたところ、わたしはかれが法に反する事をしたため、昨日すでに斬られたことを上奏したが、聖上は大いに驚き「あのものはいかなる罪で斬られたのだ」とおっしゃった。「かれは今まで、人民のものを略奪し、他人の妻を強奪し、陛下御自身が斬罪の判決を下されたため、殺されました」と上奏すると、聖上は信じられずに、「文書を持ってきて見せてくれ」とおっしゃった。魚斉即の、魚の字の下には日の字が添えられ、斉の字の下には小の字が加えられ、即の字の上には点が添えられていた。聖上はご覧になるとおっしゃった。「良民を苦しめる、犯人の魯斎郎は、斬首すべし」と。わたしは知恵をつかって魯斎郎を斬り、民草のため害を除いた。ただ、銀匠の李四、孔目の張珪は、行方が知れない。わたしは今から両家の息子、娘たちに、天下の廟を参拝させよう。かれらに父母を見つけさせ、かれら父子を団円させれば、これもまたわが陰隲となるであろう。張千よ、かれらの二人の息子に命じ、二人の娘らとともに、明日、雲台観[51]に参拝にゆかせるがよい。わたしは後からすぐ行こう。
（詩）かのものは王法に従わず、はなはだ狂ほし。人妻を奪ひて妻とせんとしたれば、わたしは魚斉即を改め、知恵を用ひて魯斎郎を斬ることとせり。（退場）
（浄が観主に扮し登場）道の道とすべきは、常の道に非ず、名の名づくべきは、常の名に非ず。
わたしは姓は閻、道号は双梅といい、この雲台観で住持をしている。今日は何事もないから、誰が来るのか見るとしよう。
（李四が旦とともに登場）わたしは李四。子供らと、相別れてより十五年、かれらは生きているのやら、死んでいるやら。この雲台観にやってきて、わが姉と義兄、両家の子供の法事をなさん。（観主に会う）観主さま、わたくしは許州の者で、法事をいたしにまいったのです。
（観主）どのような法事をなさる。どなたを済度なさるのでしょう。
（李四）義兄の張珪、姉の李氏、息子と娘の金郎、玉姐、さらに自分の息子と娘の喜童、嬌児を済度いたします。こちらの五両の銀子をひとまずお経料になさってください。
（観主）わたしは出家をした者ですから、頂くのはよくありませぬ。銀子は、ひとまずお収めください。斎食を持ってきておくれ。斎食を召されましたら、法事をしてさしあげましょう。
（貼旦が道姑の出で立ちで登場）わたしは李氏、張珪の妻。魯斎郎に奪われて、はや十五年。息子と娘は行方が知れず、張珪さまも生死が知れない。魯斎郎は包待制さまに斬られて、わたしは出家し、今日はこの雲台観に赴いて、張珪さまのために法事をするとしよう。はやくも着いた。（観主に会う）
（観主）綺麗な道姑だ。道姑どの、どこからいらっしゃったのですか。
（貼旦）夫の張珪、子供の金郎、玉姐のために、法事をしにまいったのです。
（李四）どなたが張珪どののため、法事をなさるのでしょうか。
（貼旦）わたくしが張珪のため、法事をするのでございます。
（李四）あなたはわたしの姉の李氏。（相見えて悲しむ）
（貼旦）弟や、このご婦人はどなたなのです。
（李四）わたしの嫁です。姉さん、何ゆえに出てこられたのです。
（貼旦）包待制さまが魯斎郎を斬られたために、無事に救われたのですよ。本日は、雲台観へ、義兄さんと子供の金郎、玉姐を追善しにきたのです。
（李四）わたくしもそのためにまいりましたから、いっしょに追善するとしましょう。
（李[人来]が冠帯で小旦とともに登場）わたしは李喜童、妹は嬌児。わが母は魯斎郎に奪われてゆき、父親は行方が知れない。さいわいに包待制大人が、われら兄妹二人を引き取られ、教育し、成人させて、このたび、科挙を受験して、状元となることができた。包待制さまの言葉を奉り、雲台観に、わが父母の追善をしにゆくとしよう。はやくも着いた。住持はいずこぞ。
（観主）若さまがご到着されたのならば、遠くまでお迎えしなければならぬ。お迎えが間に合わなくても、お咎めになられませぬよう。ああ、なにゆえに、お嬢さまを連れてこられた。
（李[人来]）わたしは法事をしにきたのです。
（観主）若さまはどなたを追善なさるのです。
（李[人来]）わが父の銀匠李四を追善します。
（李四）誰が銀匠李四だって。
（李[人来]）わたしの父にございます。
（李四）御身はどなたじゃ。
（李[人来]）わたくしは、あなたの息子の喜童。妹は嬌児です。
（旦）息子や。おまえはどこにいたのだ。
（李[人来]がふたたび以前のことを話し、悲しむ）
（李四）息子や、伯母さまに挨拶するのだ。（挨拶をする）
（貼旦）このお二人はどなたでしょう。
（李四）わたしの子供だ。
（貼旦が悲しむ）一家は団円しましたが、孔目どのと二人のお子は、どちらにいらっしゃるのでしょう。
（張[人来]が冠帯を着け、小旦とともに登場）わたくしは張孔目の息子金郎、妹は玉姐ともうす。わが母は魯斎郎に奪われてゆき、父親は行方が知れない。さいわいに包待制大人が、わたしたち兄妹二人を引き取られ、教育し、成人させて、科挙を受験し、官を得た。包待制さまはわれらに、雲台観へ父母を追善しにゆくようにおっしゃった。はやくも着いたぞ。住持はいずこぞ。
（観主）今度もお役人さまだ。やはり奥さまを連れて来られた。若さま、こちらに何をしに来られたのですか。
（張[人来]）わたしは法事をしにきたのです。
（観主）どなたを追善なさるのです。
（張［人来］）わが父張珪、母李氏を追善するのだ。
（貼旦）張珪、李氏と呼ばれたはどなたでしょうか。
（張[人来]）わたくしにございます。
（貼旦）そなたはもしや金郎か。
（張［人来］）妹よ、お母さまではあるまいか。（悲しむ）
（貼旦）この十五年、どこにいたのかえ。
（張[人来]）お母さまは去り、お父さまは行方が知れませんでしたが、さいわいに包待制大人が、われら兄妹を教育され、わたくしは、科挙を受験し、官職を手に入れたのでございます。今日は包待制さまのお言葉を奉り、わたくしたちは雲台観で、お父さまとお母さまの追善をすることとなりました。お母さまに会うことができるとは想いもよりませんでした。お父さまは、生きてらっしゃるのでしょうか、亡くなられたのでございましょうか。（悲しむ）
（李四）姉さん、この人が、あなたの息子であるのなら、わたしの娘の嬌児を、嫁にいたしましょう。
（張[人来]）お母さま、妹の玉姐を、弟[52]の妻にして、お互いに親戚となれば、まことに宜しいでしょう。
（貼旦）われら両家の母と子は、団円をいたしましたが、孔目さまは行方が知れず、安心はできませぬ。（悲しむ）
（詩）身には羊皮の百衲衣[55]を着け、飢ゑたる時はご飯を貰い、飽くれば帰れり。神仙になることは得ずといへども、ひとまずは人の世のつまらぬ諍ひを避くべし。想ふにわれら出家せし者たちは、まことに清閑。
（唱う）
【双調新水令】想ふに人の一生は、思はぬときに波風の立つものなれば、清閑を楽しみて、枕に倚りて安眠するにしくはなし。丹砂を焼きし唐の呂翁を訪ふて、律令を作りたる漢の蕭何に構ふことなし。わたしはここで酔ふて舞ひ、狂ふて歌い、繁華の夢なることをはや看破せり。
【風入松】名利の場にてあくせく奔り、何ゆゑぞ強奪をなす。蝸牛角上にて彼我を争ふも、南柯の夢にぞ過ぎざらん。三公の華やかな家を恋ふことはなく、婆娑たる五柳をひとまず望めり[56]。われら出家をせし者たちは、一年四季、春夏秋冬、まことに楽し。（唱う）
【甜水令】この地は春夏秋冬と、林と泉に趣ありて、四時みな良し。昼も夜も山の阿に宿りて、人の訪うことあらば、静かなるとき、坐禅を組みて、笑ひつつ、落ち葉の枝を離るるを指ささん。
【折桂令】想へばむかし、清明の日に、ともに金波[57]を飲みたりき。わが家の先祖の墓は、色恋をする鳴珂巷[58]にはあらざれど、かのものは、われら夫妻を、雲雨の巫娥[59]とぞ思ひなしたる。このわしは、財産を棄て、生活し、緞子や綾羅を望むことなし。ひたすらにくだくだと説くなかれ。張孔目はいかでか木に縁りて魚を求めん[60]、魯斎郎は暴虎馮河[61]のものなれば。
【雁児落】げに罪深き魯斎郎
（言う）あのものは「張珪よ、女房を、明日の五更に送ってこい。わしが貰うぞ」と言ったのだ。
（唱う）このわしはかねてより、懦弱なるものにはあらず。かのもの[62]は、仕置場の剣の下にて首はねらるれば、わたしは華山の頂きに赴きて臥すこととせん。
（言う）あいつは一生富貴を保つと思っていたが、包待制さまに斬られてしまったから、人々はみんな喜ぶことだろう。
（唱う）
【得勝令】今日は天理はいかになりしや。民草はみな歌をうたへり。宋の天子の英れたること甚しきは言ふに及ばず、包龍図さまは大いに聡しとぞ言ふ。魯斎郎は、おのが身を亡ぼせる禍を呼び、わたくしは嬌娥[63]を棄てて、はや安らけき窩を求めり。
（言う）本日、わたしは雲台観へ、気晴らしをしにゆくとしよう。
（貼旦）李四や、あの道人は、義兄さんのよう、一声呼んでみるとしましょう。
（李四が叫ぶ）張孔目どの。
（正末が振り返る）どなたが張孔目どのと呼ばれたのかな。（会う）わたしの女房李氏ではないか。
（貼旦）どうしてわたしを棄てられて、ご出家なさったのでしょうか。還俗なさってくださいまし。
（正末の詩）別れんとすれども、別るることぞなき。男はいとも悲しきものぞ。かつて恩愛ありしかば、還俗するを求むれど、旧き裁きを覆す役人にしぞ似たるなる。
（衆）還俗なさってくださいまし。
（正末）修行してここまできたのだ。還俗するわけにはゆかぬ。
（衆が拝礼する）
（正末が唱う）
【川撥棹】うるさく騒ぎ、叩頭し、わたしに拝礼するに及ばず。
（李四）義兄さん、今日、わたしたち両家の夫婦と子供は団円しましたに、何ゆえご出家なさるのでしょう。わたしに従い、還俗なさってくださいまし。
（正末が唱う）なんぢの勧めを聴くことはなし。喧しさは蜂の巣のやう。甜さは蜜の鉢のやう、還俗するはいまだよからず。
（貼旦）孔目さま、あなたはふだんは豊かな暮らしをなさってこられたお方ですのに、なにゆえご出家なさるのでしょう。苦しみに耐えられますまい。
（正末が唱う）
【七弟兄】なんぢはわたしになぜ寂しさに耐ふるかと問ふ。このわれは、過ぐすべき時は、ひとまず過ぐし、閉づべき時は、ひとまず眼を閉ぢ、臥すべき時は、衣を着たるまま臥せり。
【梅花酒】わたしは自ら隔たりて、さすらひて、気ままに振る舞ひ、大いに笑ひたるにはあらず。夫と妻は、離るるままにし、息子と娘に、とりあへず構ふことなし。わたしは気ままに振る舞ひて、香醪を飲み、酔ひたる顔は紅うして、松蘿のなかに深く眠れり。
【収江南】ああ。南華荘子の『鼓盆歌』のごと[64]、烏は飛びて、兔は走り[65]、疾きこと梭の如く、たちまちに見返れば青鬢ははやくも白し。脇にゐる人々はわたしを宥めり、わたしは夢より目醒めたる者なれば、いかでふたたびかれらの邪魔を受くべけん。
（包待制が突然登場）事の心に掛かるにあらず、心に掛くる人ぞ乱るる。
わたしは包拯、雲台観にやってくると、一群の人々が騒いでいるぞ。どうしたのだろう。
（李四）待制さま、わたしは許州の銀匠李四にございます。わが姉は魯斎郎めに奪われて、妻にされたのですが、さいわいに待制さまが知恵をつかって魯斎郎めを斬られたために、このたびわれらの姉の家へと戻ってきたのでございます。ところが義兄の張珪は、出家して、姉を妻とは認めませぬ。それゆえに、わたくしどもとかれの子たちが、こちらで宥めているのです。待制さま、どうかお味方してくださいまし。
（包待制）張珪よ、なぜかのものを妻と認めぬ。
（正末）子供らの居場所が知れず、出家してもう長くなりましたから、妻と認めても詮ないことにございます。
（包待制）張珪よ、そなたの子供と李四の子供は、目の前にいる。この十五年、わたしはかれらを育て上げ、かれらは科挙を受験して、官職を得た。このたびは、李四の娘を、張珪の子の妻に、張珪の娘を、李四の子の妻にした。両家は切っても切れない身内となったのだ。張珪よ、はやく還俗するのだ。
（詞）魯斎郎は民草を苦しめて、妻を奪ひて、人の道をば顧みず、わたしは知恵を使ひてかれの首を斬り、王法の無私なるをはじめて示せり。両家の夫妻は再会し、子供らを結婚せしめ、子供らは今日はふたたび団円し、天恩を仰ぎたり。
（正末が衆とともに拝礼して謝す）（唱う）
【収尾】ありがたや。大恩人さま。われら一家の禍を救はれて、子供らを育て上げ、親となり、よき縁を結ばれたるは言ふに及ばず、還俗をせしわれにも正しき果報を得しめたまひたり。
最終更新日：2010年11月10日
